2014/02/21 - 2014/02/21
250位(同エリア632件中)
滝山氏照さん
中山氏は平安時代末期に発生した小規模武士集団、武蔵七党の一つ丹党の出身と伝えられています。
判然としませんが丹党は宣化天皇の後胤で彦武王の頃多治比古姓を下賜、その後経家(つねいえ、生没不詳)の二男家季(いえすえ、生没不詳)は自らを加治二郎と名乗りその子孫は鎌倉幕府御家人として名を連ね助季(すけすえ、生没不詳)が仁治元年(1240)4代将軍頼経(よりつね、1218~1256)上洛時の随兵として加わっている記録があります。
加治氏が中山の地にいつ頃居住したのか不明ですがこの地名を以て中山姓を名乗りその系図が脈々と明治時代まで続きます。
戦国時代では飯能という地勢を考慮すれば武蔵南部に勢力を有する大石氏と同様山内上杉氏を主家として出仕していたようです。
天文14年(1545)、小田原北条氏が死守している河越城に対し扇谷上杉氏・古河公方と連合した山内上杉氏は攻撃を開始し奪回をはかります。
当然ながら中山氏棟梁の家勝も山内上杉氏に随陣しますが、翌年小田原北条氏(氏康)の計略により連合軍は徹底的に打ち負かされ、扇谷上杉氏は朝定(ともさだ、1525~1546)戦死により滅亡、敗走した古河公方晴氏(1508~1560)は小田原北条氏に御所を包囲され降伏以降小田原北条氏の影響下に置かれ、山内上杉氏も上野国平井城に逃げ込みやがて小田原北条氏の追討に耐えきれず越後の長尾氏を頼ることになります。
事実上後ろ盾を失った中山家勝は小田原北条氏に属することになり、小田原北条氏の関東における支配拡大の為軍事力に組み込まれ一族郎党転戦を余儀なくされます。
一方河越城の戦いで敗れた山内尾上杉氏という後ろ盾を失った武蔵国守護代大石氏も小田原北条氏の三男氏照(うじてる、1540~1590)を娘婿として迎え事実上小田原北条氏に降ることになります。
氏照は大石氏から引き継いだ家臣に併せて受け継いだ多摩川南岸に建つ滝山城を拠点として支配経営に傾注します。
また氏照には家勝の子中山家範(なかやま・いえのり、1548~1590)が重臣の一人として氏照に貢献し、氏照が小田原の氏政・氏直から委任された武蔵・下野・上野一部の統治において手足となって運営する姿が見られます。
天正18年(1590)豊臣秀吉による小田原征伐では小田原城籠城という方針のもと、4000名の滝山衆を引き連れ小田原に向かった氏照を見送り、中山家範は城代横地監物(よこち・けんもつ)と共に留守部隊として新築の八王子城にて豊臣軍を迎え撃ちます。
やがて前田(加賀)・上杉(会津)を主体とする豊臣軍(北国軍)の包囲・攻撃を受け防戦空しく半日の内に落城、横地は残された部下と檜原城(奥多摩)に退去、家範は八王子城にて豊臣軍(北国軍)を迎え撃ちますが多勢に無勢により華々しく妻と共に自害します。
家範の見事な戦いぶりに共鳴し無駄死をさせまいとして豊臣軍(北国軍)の前田利家(まえだ・としいえ、1538~1599)・上杉景勝(うえすぎ・かげかつ、1556~1623)らは降伏勧告を繰り返しますが上述の通り見事な最期を飾ります。
6月23日八王子城陥落して2週間後についに北条氏は降伏小田原城開城することになり、秀吉の命により氏政と共に氏照は切腹、氏直は徳川家康(とくがわ・いえやす、1543~1616)の義息との理由で高野山追放の処分を受けます。
同時に関東移封の命を受けた家康は八王子落城の際家範の武勇を聞き、家臣共々飯能に逼塞していた家範の息子、長男照守(てるもり、1570~1634)・二男信吉(のぶよし、1577~1642)を探し出し家康の小姓に召し抱えます。
照守は家康・秀忠・家光に仕え、高麗八条流馬術の使い手で秀忠(ひでただ、1579~1632)の馬術師範で、三代将軍家光(いえみつ、1604~1651)にも馬術を教授し、寛永9年(1632)には鑓奉行に昇進することになります。
信吉は小姓になった後慶応12年(1607)駿府城火災の折り幼い頼房(後の初代水戸藩主)を救うなど家康の高い評価を受けます。
慶長14年(1609)御三家の内水戸藩創設のおり当時5歳の頼房(よりふさ、1603~1661)を支える家臣を選抜する際、家康は迷わず信頼おける信吉を付家老として指名します。
慶長19年(1614)大坂の陣では頼房と共に駿府城留守役を果たし、元和7年(1621)に2万石に加増、翌年には常陸松岡(現茨城県高萩市)に館を構え、大名格の待遇を与えられます。特筆すべきは信吉が水戸藩二代目藩主に光圀を推挙したことが記録に在ります。
2022年10月19日追記
当該地の住宅の脇にひっそりと佇む案内板にはやや薄くなった記述がなされています。
『 埼玉県指定旧跡
中 山 家 範 館 跡
飯能市大字中山496番地2ほか
昭和38年8月27日指定
中山家は武蔵七党の一つで丹党の出で、鎌倉時代の加治家季の頃に中山に居住し、中山を氏とするようになったという。館の西方に位置する智観寺には、加治家季夫妻の供養のために建立されたと推定される板碑(仁治2・3年~11241・1242)がある。
中山家範は後北条氏に従い、天正18年(1590)八王子城で戦死している。
この館は小規模なものであり、周囲に推定幅4~6メートル、深さ1~2メートルの城をめぐらしていた。この内堀は東西約60メートル、南北約90メートルで、外郭は東西約110メートル、南北約130メートルと推定される。館の北には勘解由山があり、館は丹生堀と加地堀の水源に挟まれていた。また、西に智観寺、北西には丹生社、北に鎮守十二社が置かれていた。
館の周辺には中山家に仕える武士の居館や田畑があり、中山氏は日常は農業経営を行い、武芸の鍛錬に励み、戦闘にあたっては武士団の長として活躍した。
館跡は、北堀及び西堀の一部が残されていたが、現在は宅地化が進み、空堀が北西部隅に残されるのみとなっている。
平成8年3月
埼玉県教育委員会
飯能市教育委員会 』
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
-
勘解由山(かげゆやま)
住宅地の小路を勘解由山に向かって登ります。勘解由山に鎮守十二社が祀られていました。 -
中山氏館跡説明板・石碑
周囲は住宅化されて唯一の目印はこの石碑と説明板だけです。 -
「中山家範館跡」説明板
中山氏館はなだらかな南斜面となっており、堀と内堀はそれぞれ幅4~6m、深さ1~2mの外郭東西100m、南北130m、北は勘解由山が控えて防御性の高い館となっています。 -
中山氏館想定図
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中山氏館跡・石碑
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丹生堀跡
往時の館を西側で防御する丹生堀と思われる堀が現在では小川となっています。 -
丹生社跡
よくわかりませんが北西側の空地らしきスぺースが説明板の地図で照らしますと丹生社跡と思われます。 -
鎮守十二社跡
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