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東京メトロ南北線の本駒込駅より徒歩約5分に諏訪山・吉祥寺(きちじょうじ、東京都文京区本駒込)は15世紀中頃に太田道灌(おおたどうかん、1432~1486)が江戸城築城の際、井戸の中から「吉祥増上」の金印が発見されたことから城内の千代田区和田倉門に創建したと伝わっています。<br /><br />その後「吉祥寺」は神田駿河台に移されましたが明歴の大火により駒込に移転、その際従来から当地に居住していた農民が多摩に移住、新たに新田開発しその結果以前の故郷を懐かしみ「吉祥寺新田」と称したのが現在の吉祥寺です。<br /><br />さて吉祥寺には幕末における西郷隆盛と勝海舟との話により江戸城無血開城することに不満を抱き、旧幕臣と共に軍船「開陽丸」その他数隻で北海道に移り五稜郭を本拠として「蝦夷共和国」を樹立した旧幕府海軍副総裁榎本武揚(えのもと・たけあき、1836~1908)の墓があります。<br /><br />天保8年(1836)父榎本武兵衛の二男として江戸氏下谷御徒町(現台東区御徒町)で誕生、技術者である父は武揚には官吏の道を望まず昌平坂学問所に入校させますが成績は満足するものではありませんでした。<br /><br />安政2年(1855)オランダの技術を導入すべく長崎海軍伝習所が新設され、ここに入所した武揚はやがて船舶に関するノウハウを見事に収め教官の評価を得ることになります。<br /><br />文久2年(1862)9月武揚は幕府の命によりオランダ留学となり現地で造船や船舶に関する学問を習得すると共に国際法や軍事知識の勉強をすることになります。<br /><br />慶応3年(1867)武揚は幕府発注した軍艦「開陽丸」完成に合わせて海陽丸と共に日本に向かい、帰国するとまもなく軍艦役並として同船に乗船する事になります。<br /><br />上述の如く江戸城無血開城により幕府海軍は保有の軍艦を引き渡すことになりますが、幕府に対する新政府の処置を不満とし武揚は従わず品川沖から軍艦を率いて江戸を離れ北海道をめざし、土方歳三ら旧新選組を味方に引き入れ箱館五稜郭に入ります。<br /><br />明治2年5月箱館に上陸した政府軍の攻撃が開始されます。陸上では最大の砦の弁天岬が大打撃を受け、旧新選組土方歳三も異国橋で政府軍銃弾を受けて戦死します。<br /><br />箱館湾海戦においては政府方軍艦に制圧され、そこから強力な砲撃が開始され五稜郭内の太鼓櫓など破壊され多数の死傷者を出してしまいます。<br /><br />同月18日、武揚を総裁とする蝦夷共和国はついに政府軍に降伏、その後は他の同士と共に身柄を東京へ移送されます。<br /><br />然しながら武揚を失うことは日本の損失であると考える政府軍参謀で箱館攻撃責任者であった黒田清隆(くろだ・きよたか、1840~1900)は西郷隆盛(さいごう・たかもり、1828~1877)や福沢諭吉(ふくざわ・ゆきち、1835~1901)らと共に武揚の助命活動に奔走し2年半後に釈放されます。<br /><br />明治5年(1872)1月武揚は才能を買われ政府に登用され、まず黒田清隆が次官を務める北海道開拓使に従い鉱山検査巡回を命じられます。<br /><br />明治7年(1874)1月新たに駐露特命全権公使としてサンクトペテルブルグに着任、同年8月樺太・千島交換条約を締結します。<br /><br />明治18年(1885)の内閣制度の成立後は武揚の能力を評価されて6つの内閣で逓信、文部、外務、農商務の大臣を歴任します。<br /><br />統一後の新政府は殖産興業と富国強兵が主たる目標でその一環として欧米列強との交渉が急務でありました。<br /><br />従い豊富な経験と国際感覚を身に着けた人材不足という背景のなか、旧幕臣であった事で薩長門閥が支配する政府内での政治活動にさまざまな嫉妬を受けて武揚は心痛収まらない毎日であったと思われますがそれらを乗り越えて活躍したのはさすがと言わざるを得ません。<br /><br /><br />2022年10月18日追記<br /><br />境内に建てられた説明板には下記の通り喜寿されています。<br /><br />『 吉祥寺の縁起<br /><br />長禄2年(1458)太田道灌が江戸城築城の際、井戸の中から「吉祥」の金印が発見されたので、城内(現在の和田倉門内)に一字を設け、「吉祥寺」と称したのがはじまりという。<br /><br />天正19年(1591)に現在の水道橋一帯に移った。現在の水道橋あたりに橋は吉祥寺橋と呼ばれた。明暦3年(1657)の大火(明暦の大火)で類焼し、現在地に七堂伽藍を建立し移転、大寺院となった。<br /><br />僧侶の養成機関として栴檀林(駒澤大学の前身)をもち、一千余名の学僧が学び、当寺の幕府の昌平坂学問所と並び称された。<br /><br />                  文京区教育委員会 』   

武蔵本駒込 函館戦争敗将ながら豊富な知識と鋭い国際感覚を見込まれ新政府にて外務・農商務・文部大臣等歴任した榎本武揚菩提寺の『吉祥寺』散歩

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2014/02/23 - 2014/02/23

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滝山氏照

滝山氏照さん

東京メトロ南北線の本駒込駅より徒歩約5分に諏訪山・吉祥寺(きちじょうじ、東京都文京区本駒込)は15世紀中頃に太田道灌(おおたどうかん、1432~1486)が江戸城築城の際、井戸の中から「吉祥増上」の金印が発見されたことから城内の千代田区和田倉門に創建したと伝わっています。

その後「吉祥寺」は神田駿河台に移されましたが明歴の大火により駒込に移転、その際従来から当地に居住していた農民が多摩に移住、新たに新田開発しその結果以前の故郷を懐かしみ「吉祥寺新田」と称したのが現在の吉祥寺です。

さて吉祥寺には幕末における西郷隆盛と勝海舟との話により江戸城無血開城することに不満を抱き、旧幕臣と共に軍船「開陽丸」その他数隻で北海道に移り五稜郭を本拠として「蝦夷共和国」を樹立した旧幕府海軍副総裁榎本武揚(えのもと・たけあき、1836~1908)の墓があります。

天保8年(1836)父榎本武兵衛の二男として江戸氏下谷御徒町(現台東区御徒町)で誕生、技術者である父は武揚には官吏の道を望まず昌平坂学問所に入校させますが成績は満足するものではありませんでした。

安政2年(1855)オランダの技術を導入すべく長崎海軍伝習所が新設され、ここに入所した武揚はやがて船舶に関するノウハウを見事に収め教官の評価を得ることになります。

文久2年(1862)9月武揚は幕府の命によりオランダ留学となり現地で造船や船舶に関する学問を習得すると共に国際法や軍事知識の勉強をすることになります。

慶応3年(1867)武揚は幕府発注した軍艦「開陽丸」完成に合わせて海陽丸と共に日本に向かい、帰国するとまもなく軍艦役並として同船に乗船する事になります。

上述の如く江戸城無血開城により幕府海軍は保有の軍艦を引き渡すことになりますが、幕府に対する新政府の処置を不満とし武揚は従わず品川沖から軍艦を率いて江戸を離れ北海道をめざし、土方歳三ら旧新選組を味方に引き入れ箱館五稜郭に入ります。

明治2年5月箱館に上陸した政府軍の攻撃が開始されます。陸上では最大の砦の弁天岬が大打撃を受け、旧新選組土方歳三も異国橋で政府軍銃弾を受けて戦死します。

箱館湾海戦においては政府方軍艦に制圧され、そこから強力な砲撃が開始され五稜郭内の太鼓櫓など破壊され多数の死傷者を出してしまいます。

同月18日、武揚を総裁とする蝦夷共和国はついに政府軍に降伏、その後は他の同士と共に身柄を東京へ移送されます。

然しながら武揚を失うことは日本の損失であると考える政府軍参謀で箱館攻撃責任者であった黒田清隆(くろだ・きよたか、1840~1900)は西郷隆盛(さいごう・たかもり、1828~1877)や福沢諭吉(ふくざわ・ゆきち、1835~1901)らと共に武揚の助命活動に奔走し2年半後に釈放されます。

明治5年(1872)1月武揚は才能を買われ政府に登用され、まず黒田清隆が次官を務める北海道開拓使に従い鉱山検査巡回を命じられます。

明治7年(1874)1月新たに駐露特命全権公使としてサンクトペテルブルグに着任、同年8月樺太・千島交換条約を締結します。

明治18年(1885)の内閣制度の成立後は武揚の能力を評価されて6つの内閣で逓信、文部、外務、農商務の大臣を歴任します。

統一後の新政府は殖産興業と富国強兵が主たる目標でその一環として欧米列強との交渉が急務でありました。

従い豊富な経験と国際感覚を身に着けた人材不足という背景のなか、旧幕臣であった事で薩長門閥が支配する政府内での政治活動にさまざまな嫉妬を受けて武揚は心痛収まらない毎日であったと思われますがそれらを乗り越えて活躍したのはさすがと言わざるを得ません。


2022年10月18日追記

境内に建てられた説明板には下記の通り喜寿されています。

『 吉祥寺の縁起

長禄2年(1458)太田道灌が江戸城築城の際、井戸の中から「吉祥」の金印が発見されたので、城内(現在の和田倉門内)に一字を設け、「吉祥寺」と称したのがはじまりという。

天正19年(1591)に現在の水道橋一帯に移った。現在の水道橋あたりに橋は吉祥寺橋と呼ばれた。明暦3年(1657)の大火(明暦の大火)で類焼し、現在地に七堂伽藍を建立し移転、大寺院となった。

僧侶の養成機関として栴檀林(駒澤大学の前身)をもち、一千余名の学僧が学び、当寺の幕府の昌平坂学問所と並び称された。

                  文京区教育委員会 』   

交通手段
JRローカル 徒歩

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  • 吉祥寺・山門<br /><br />享和2年(1802)再建、江戸時代後期の特徴を示しています。<br /><br />

    吉祥寺・山門

    享和2年(1802)再建、江戸時代後期の特徴を示しています。

  • 吉祥寺山門・扁額<br /><br />山門に掲載の「栴檀林」扁額が現れます。僧侶育成機関として一千人以上の僧侶が学んだ機関で幕府の昌平坂学問所と並び称されています。明治時代には漕洞中学校を経て現在の駒澤大学へと変わっていきます。

    吉祥寺山門・扁額

    山門に掲載の「栴檀林」扁額が現れます。僧侶育成機関として一千人以上の僧侶が学んだ機関で幕府の昌平坂学問所と並び称されています。明治時代には漕洞中学校を経て現在の駒澤大学へと変わっていきます。

  • 寺号・石標<br /><br />車輛用道路が山門の左側にあり、山門の傍らに「諏訪山 吉祥寺」と刻された石標が建立しています。

    寺号・石標

    車輛用道路が山門の左側にあり、山門の傍らに「諏訪山 吉祥寺」と刻された石標が建立しています。

  • 「不許薫酒入山門」<br /><br />山門右側に建立されている石柱は『生臭いものや酒は山門の中に持ち込むな』という意味ですが、当寺だけでなくいくつかの寺の山門脇でよく見かける石柱です。

    「不許薫酒入山門」

    山門右側に建立されている石柱は『生臭いものや酒は山門の中に持ち込むな』という意味ですが、当寺だけでなくいくつかの寺の山門脇でよく見かける石柱です。

  • 吉祥寺由緒・説明板<br /><br />

    吉祥寺由緒・説明板

  • 旧町名紹介<br /><br />

    旧町名紹介

  • 吉祥寺・参道<br /><br />山門中央部から本堂に向かう長い参道を捉えます。

    吉祥寺・参道

    山門中央部から本堂に向かう長い参道を捉えます。

  • 吉祥寺・外壁

    吉祥寺・外壁

  • 茗荷稲荷神社

    茗荷稲荷神社

  • 茗荷稲荷神社・縁起説明板

    茗荷稲荷神社・縁起説明板

  • 釈迦如来坐像

    釈迦如来坐像

  • 八百屋お七・吉三郎比翼(ひよく)塚石碑

    八百屋お七・吉三郎比翼(ひよく)塚石碑

  • 吉祥寺・境内<br /><br />長い参道の途中で広い境内を捉えます。

    吉祥寺・境内

    長い参道の途中で広い境内を捉えます。

  • 吉祥寺・本堂<br /><br />天正18年(1590)徳川家康入府に伴い翌年和田倉門から水道橋へ移転、明暦3年(1657)明歴の大火を被り当地に移転します。

    吉祥寺・本堂

    天正18年(1590)徳川家康入府に伴い翌年和田倉門から水道橋へ移転、明暦3年(1657)明歴の大火を被り当地に移転します。

  • 吉祥観音像

    吉祥観音像

  • 吉祥寺・境内<br /><br />本堂から山門方向を捉えます。

    吉祥寺・境内

    本堂から山門方向を捉えます。

  • 吉祥寺・境内

    吉祥寺・境内

  • 吉祥寺・社務所

    吉祥寺・社務所

  • 吉祥寺・鐘楼堂

    吉祥寺・鐘楼堂

  • 吉祥寺・経蔵<br /><br />文化元年(1804)の建立、当寺は修業所であって経蔵は図書収蔵庫でありました。

    吉祥寺・経蔵

    文化元年(1804)の建立、当寺は修業所であって経蔵は図書収蔵庫でありました。

  • 吉祥寺・経蔵説明板

    吉祥寺・経蔵説明板

  • 榎本武揚廟(遠景)

    榎本武揚廟(遠景)

  • 榎本武揚の墓碑

    榎本武揚の墓碑

  • 榎本武揚の墓石(全景)

    榎本武揚の墓石(全景)

  • 榎本武揚の墓(近景)

    イチオシ

    榎本武揚の墓(近景)

  • 二宮尊徳廟

    二宮尊徳廟

  • 二宮尊徳の墓碑・説明板

    二宮尊徳の墓碑・説明板

  • 二宮尊徳・墓石

    二宮尊徳・墓石

  • 二宮尊徳像

    二宮尊徳像

  • 川上眉山の墓碑

    川上眉山の墓碑

  • 川上眉山の墓

    川上眉山の墓

  • 吉祥寺境内参道

    吉祥寺境内参道

  • 「歴史と文化の散歩道」説明

    「歴史と文化の散歩道」説明

  • 「歴史と文化の散歩道」説明<br /><br />散歩道の地図を抜粋します。

    「歴史と文化の散歩道」説明

    散歩道の地図を抜粋します。

  • 「歴史と文化の散歩道」説明<br /><br />岩槻街道は歴代将軍が東照宮参拝することから日光御成道と言われます。

    「歴史と文化の散歩道」説明

    岩槻街道は歴代将軍が東照宮参拝することから日光御成道と言われます。

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