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江戸が大好きな旅猫の、江戸の記憶を辿る旅。<br />ここ数年、月に一度は江戸を散歩しているが、旅行記にするのは滅多にない。<br />これは、暑さ厳しい夏の江戸を、御茶ノ水から本郷界隈にかけて、その記憶を辿った旅記である。<br /><br />(2021.08.18投稿)

江戸を行く ~江戸の地主神と本郷界隈の坂道~

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2007/08/12 - 2007/08/12

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旅行記グループ 【武蔵国】江戸

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旅猫

旅猫さん

江戸が大好きな旅猫の、江戸の記憶を辿る旅。
ここ数年、月に一度は江戸を散歩しているが、旅行記にするのは滅多にない。
これは、暑さ厳しい夏の江戸を、御茶ノ水から本郷界隈にかけて、その記憶を辿った旅記である。

(2021.08.18投稿)

旅行の満足度
3.5
観光
3.5
同行者
一人旅
交通手段
JRローカル 徒歩
  • 旅は、御茶ノ水駅から始める。<br />しかし、天気が良いのは嬉しいのだが、いくらなんでも暑過ぎる。<br />とりあえず、聖橋を渡って本郷台側へと向かう。<br />橋の向こう、緑のあるところが湯島聖堂である。<br />その左に見えているのは東京医科歯科大で、江戸時代には昌平坂学問所の敷地だったところである。

    旅は、御茶ノ水駅から始める。
    しかし、天気が良いのは嬉しいのだが、いくらなんでも暑過ぎる。
    とりあえず、聖橋を渡って本郷台側へと向かう。
    橋の向こう、緑のあるところが湯島聖堂である。
    その左に見えているのは東京医科歯科大で、江戸時代には昌平坂学問所の敷地だったところである。

    聖橋 名所・史跡

  • 聖橋の上から西側を眺める。<br />下を流れているのが神田川で、幕府により造られた人工河川である。<br />江戸初期までは、現在の本郷台と駿河台は地続きであった。<br />三代将軍徳川家光の寛永2年(1625)、江戸城東北の防備の必要から、仙台藩主伊達政宗に命じて掘らせた空堀が前身である。<br />四代将軍家綱の時に拡幅し、平川の流路をこちらへ付け替えてから、神田川と呼ぶようになったそうだ。<br />この拡幅工事を命じられたのは、仙台藩主伊達綱宗。<br />このため、神田川を別名『仙台掘』とも呼ぶ。<br />この神田川と開削された谷が作り出す景観は、中国の景勝『赤壁』と比べられ『小赤壁』と呼ばれたそうだ。

    聖橋の上から西側を眺める。
    下を流れているのが神田川で、幕府により造られた人工河川である。
    江戸初期までは、現在の本郷台と駿河台は地続きであった。
    三代将軍徳川家光の寛永2年(1625)、江戸城東北の防備の必要から、仙台藩主伊達政宗に命じて掘らせた空堀が前身である。
    四代将軍家綱の時に拡幅し、平川の流路をこちらへ付け替えてから、神田川と呼ぶようになったそうだ。
    この拡幅工事を命じられたのは、仙台藩主伊達綱宗。
    このため、神田川を別名『仙台掘』とも呼ぶ。
    この神田川と開削された谷が作り出す景観は、中国の景勝『赤壁』と比べられ『小赤壁』と呼ばれたそうだ。

    御茶ノ水駅

  • 聖橋の袂から階段で降りたところが『相生坂』。<br />湯島聖堂の南側の塀沿いに、秋葉原のほうへ緩やかに下る坂である。<br />神田川を挟んで、駿河台の淡路坂と平行しているので、その名が付いたと云われている。

    聖橋の袂から階段で降りたところが『相生坂』。
    湯島聖堂の南側の塀沿いに、秋葉原のほうへ緩やかに下る坂である。
    神田川を挟んで、駿河台の淡路坂と平行しているので、その名が付いたと云われている。

    相生坂 名所・史跡

  • 久しぶりに、湯島聖堂を訪れてみる。<br />仰高門を潜って中へ入ると蝉の大合唱に迎えられた。<br />入ってすぐのところに、孔子所縁のカイノキの大木と孔子像があった。<br />カイノキ(楷)は、中国の孔子廟に植えられた木。<br />その木から種をとり、日本で苗を育て、国内の孔子廟などに配ったもののひとつだそうだ。<br />この樹を日本では『孔子木』とも呼び、また、枝振りなどが整然としていることから、書道における『楷書』の語源になったとも言われている。

    久しぶりに、湯島聖堂を訪れてみる。
    仰高門を潜って中へ入ると蝉の大合唱に迎えられた。
    入ってすぐのところに、孔子所縁のカイノキの大木と孔子像があった。
    カイノキ(楷)は、中国の孔子廟に植えられた木。
    その木から種をとり、日本で苗を育て、国内の孔子廟などに配ったもののひとつだそうだ。
    この樹を日本では『孔子木』とも呼び、また、枝振りなどが整然としていることから、書道における『楷書』の語源になったとも言われている。

    湯島聖堂 寺・神社・教会

  • 今回立ち寄ったのは、湯島聖堂で唯一、江戸時代の建物として残っている『入徳門』を見るため。<br />現在の入徳門は、宝永元年(1704)、大成殿とともに再建されたもので、関東大震災や戦災を潜り抜け奇跡的に残ったものだ。<br />しかし、残念なことにちょうど修復工事中であった。

    今回立ち寄ったのは、湯島聖堂で唯一、江戸時代の建物として残っている『入徳門』を見るため。
    現在の入徳門は、宝永元年(1704)、大成殿とともに再建されたもので、関東大震災や戦災を潜り抜け奇跡的に残ったものだ。
    しかし、残念なことにちょうど修復工事中であった。

  • 仕方が無く、大成殿を見学。<br />入徳門とともに再建された後、寛永11年(1799)、規模を拡張の上、黒漆塗り、銅瓦葺で新築されたが、関東大震災により消失。<br />現在の建物は、昭和10年復興の鉄筋コンクリート造である。<br />入口で、中国の方から、さんざし茶を飲ませていただいた。<br />柔らかな甘みが独特だった。

    仕方が無く、大成殿を見学。
    入徳門とともに再建された後、寛永11年(1799)、規模を拡張の上、黒漆塗り、銅瓦葺で新築されたが、関東大震災により消失。
    現在の建物は、昭和10年復興の鉄筋コンクリート造である。
    入口で、中国の方から、さんざし茶を飲ませていただいた。
    柔らかな甘みが独特だった。

  • 聖堂を後にして、東側の急坂を登る。<br />『昌平坂』と名付けられているが、五代将軍綱吉が、元禄4年(1691)に上野忍岡の林羅山邸内にあった孔子廟をここへ移転させた際にあった『昌平坂』とは違うものであり、別名は『団子坂』。<br />元々の『昌平坂』は、寛政11年の聖堂拡張の際に敷地内に取り込まれてしまったのだ。<br />坂を登り切ると、旧中仙道(日光御成道)の日本橋を出て最初の坂である『湯島坂』と出会う。

    聖堂を後にして、東側の急坂を登る。
    『昌平坂』と名付けられているが、五代将軍綱吉が、元禄4年(1691)に上野忍岡の林羅山邸内にあった孔子廟をここへ移転させた際にあった『昌平坂』とは違うものであり、別名は『団子坂』。
    元々の『昌平坂』は、寛政11年の聖堂拡張の際に敷地内に取り込まれてしまったのだ。
    坂を登り切ると、旧中仙道(日光御成道)の日本橋を出て最初の坂である『湯島坂』と出会う。

    昌平坂 名所・史跡

  • 湯島坂を登っていくと、右手に鳥居が見えてきた。<br />天平2年(730)創建と伝わる神田明神(現神田神社)の一の鳥居である。<br />脇に立つ『天野屋』は、弘化3年(1846)創業の麹屋で、地下6mに土室(むろ)があり、今でも、そこで作られた糀を使って甘酒を造っている。<br />参道途中には、元和2年(1616)に三河から江戸へ移り、代々将軍家や宮内庁に手作りの甘酒や味噌、納豆を収めてきた老舗の『三河屋綾部商店』もあった。

    湯島坂を登っていくと、右手に鳥居が見えてきた。
    天平2年(730)創建と伝わる神田明神(現神田神社)の一の鳥居である。
    脇に立つ『天野屋』は、弘化3年(1846)創業の麹屋で、地下6mに土室(むろ)があり、今でも、そこで作られた糀を使って甘酒を造っている。
    参道途中には、元和2年(1616)に三河から江戸へ移り、代々将軍家や宮内庁に手作りの甘酒や味噌、納豆を収めてきた老舗の『三河屋綾部商店』もあった。

    天野屋 専門店

  • 天野屋の店先に、都電の停留所の標識が飾られていた。<br />都電は、店の前を通る湯島坂(旧中仙道)を走っていたそうだ。<br />その神田明神前電停は、湯島坂が、聖橋を渡ってきた本郷通りと出会う辺りにあったが、今はその面影は無い。

    天野屋の店先に、都電の停留所の標識が飾られていた。
    都電は、店の前を通る湯島坂(旧中仙道)を走っていたそうだ。
    その神田明神前電停は、湯島坂が、聖橋を渡ってきた本郷通りと出会う辺りにあったが、今はその面影は無い。

  • 鳥居を潜り、参道を行くと、正面に鮮やかな朱塗りの門が見えてくる。<br />昭和50年(1975)に再建された『随神門』である。<br />昭和天皇の即位50年記念として建立されたそうだが、関東大震災で焼失して以来の再建とのことだ。<br />今のような姿になったのは、平成10年(1998)のことらしい。<br />二層目に、平将門の家紋に由来するという『繋馬』の彫刻があるというのだが、分からなかった。

    鳥居を潜り、参道を行くと、正面に鮮やかな朱塗りの門が見えてくる。
    昭和50年(1975)に再建された『随神門』である。
    昭和天皇の即位50年記念として建立されたそうだが、関東大震災で焼失して以来の再建とのことだ。
    今のような姿になったのは、平成10年(1998)のことらしい。
    二層目に、平将門の家紋に由来するという『繋馬』の彫刻があるというのだが、分からなかった。

    神田神社(神田明神) 寺・神社・教会

  • その随神門を潜って境内へと入る。<br />そして、正面に建っているのが本殿である。<br />境内は、江戸の総鎮守にしては参拝客の姿が少なかった。

    その随神門を潜って境内へと入る。
    そして、正面に建っているのが本殿である。
    境内は、江戸の総鎮守にしては参拝客の姿が少なかった。

  • 本殿は、昭和9年に再建されたもの。<br />東京大空襲を潜り抜けた建物で、国の有形登録文化財に指定されている。<br />平成6年から11年にかけて全面的に修復されたそうだ。<br />祭神のうち、三之宮は平将門である。

    本殿は、昭和9年に再建されたもの。
    東京大空襲を潜り抜けた建物で、国の有形登録文化財に指定されている。
    平成6年から11年にかけて全面的に修復されたそうだ。
    祭神のうち、三之宮は平将門である。

  • 関東大震災で消失したため、境内には江戸を記憶するものは無いと思っていたのだが、御神殿前の1対の鉄製天水桶が江戸時代の物だった。<br />碑文によると、弘化4年(1847)に、『摂州灘大石』と『筋違外』(江戸城筋違御門外)の酒屋が奉納したものだそうだ。<br />千代田区の指定有形民俗文化財。

    関東大震災で消失したため、境内には江戸を記憶するものは無いと思っていたのだが、御神殿前の1対の鉄製天水桶が江戸時代の物だった。
    碑文によると、弘化4年(1847)に、『摂州灘大石』と『筋違外』(江戸城筋違御門外)の酒屋が奉納したものだそうだ。
    千代田区の指定有形民俗文化財。

  • 本殿右手には、「獅子山」と言うものがあった。<br />関東大震災で崩壊したものを復興したものだが、石組みの上に載っている2頭の石獅子は、文久2年(1862)に製作されたもので、千代田区内に残る数少ない江戸期の石像物だそうだ。<br />この石獅子は、武州下野の名工石切藤兵衛が生涯で3つしか造らなかったもののひとつと云われている。<br />ちなみに、その3つの獅子は『坂東三獅子』と言われていたそうだ。<br />千代田区の指定有形民俗文化財

    本殿右手には、「獅子山」と言うものがあった。
    関東大震災で崩壊したものを復興したものだが、石組みの上に載っている2頭の石獅子は、文久2年(1862)に製作されたもので、千代田区内に残る数少ない江戸期の石像物だそうだ。
    この石獅子は、武州下野の名工石切藤兵衛が生涯で3つしか造らなかったもののひとつと云われている。
    ちなみに、その3つの獅子は『坂東三獅子』と言われていたそうだ。
    千代田区の指定有形民俗文化財

  • 本殿の右側に回りこむと、『銭形平次の碑』なるものがあった。<br />銭形平次は、小説『銭形平次捕物控』に出てくる架空の人物だが、その平次が住んでいたのが明神下という設定だったため、有志の人たちによって建立されたものだそうだ。<br />碑の台の部分が『寛永通寶』を象っているのが憎い。

    本殿の右側に回りこむと、『銭形平次の碑』なるものがあった。
    銭形平次は、小説『銭形平次捕物控』に出てくる架空の人物だが、その平次が住んでいたのが明神下という設定だったため、有志の人たちによって建立されたものだそうだ。
    碑の台の部分が『寛永通寶』を象っているのが憎い。

  • そして、本殿裏にひっそりと鎮まっているのが、江戸最古の地主神である『江戸大明神』(現江戸神社)である。<br />大寶2年(702)、今の皇居にあたる武蔵国豊嶋郡江戸の地に創建され、以後、江戸氏、上杉氏、後北条氏の崇敬を集めたそうだ。<br />現在地に移ったのは、江戸城拡張後の元和2年(1616)。<br />今回は、将門公ではなく、こちらに参拝した。

    そして、本殿裏にひっそりと鎮まっているのが、江戸最古の地主神である『江戸大明神』(現江戸神社)である。
    大寶2年(702)、今の皇居にあたる武蔵国豊嶋郡江戸の地に創建され、以後、江戸氏、上杉氏、後北条氏の崇敬を集めたそうだ。
    現在地に移ったのは、江戸城拡張後の元和2年(1616)。
    今回は、将門公ではなく、こちらに参拝した。

    江戸神社 寺・神社・教会

  • 江戸神社の脇には、力石が置かれていた。<br />文政5年(1822)、神田仲町二丁目の柴田四郎衛門が持ち上げたものだそうで、かなり重そうであった。<br />その左にあった句碑は、明治に活躍した俳人角田竹冷のものだった。

    江戸神社の脇には、力石が置かれていた。
    文政5年(1822)、神田仲町二丁目の柴田四郎衛門が持ち上げたものだそうで、かなり重そうであった。
    その左にあった句碑は、明治に活躍した俳人角田竹冷のものだった。

  • 江戸神社の左手には、江戸三天王の二の宮『大伝馬町八雲神社』が鎮座。<br />拝殿前にあった一対の天水桶は、天保10年(1839)、江戸の太物問屋(反物などの流通を一手に扱った商人)仲間によって奉納されたもの。<br />隣には、三の宮である『小舟町八雲神社』も鎮座している。<br />ちなみに、『江戸神社』が一の宮である。

    江戸神社の左手には、江戸三天王の二の宮『大伝馬町八雲神社』が鎮座。
    拝殿前にあった一対の天水桶は、天保10年(1839)、江戸の太物問屋(反物などの流通を一手に扱った商人)仲間によって奉納されたもの。
    隣には、三の宮である『小舟町八雲神社』も鎮座している。
    ちなみに、『江戸神社』が一の宮である。

  • 三の宮の隣には、日本橋魚河岸の守護神『水神社』もあった。<br />徳川家の武運長久と大漁安全を祈願するため、豊嶋郡柴崎村神田神社境内に鎮座していたものが、神田神社とともに遷座したものだそうだ。<br />魚河岸が築地に移った今も、市場内には、この社の遥拝所があるそうだ。

    三の宮の隣には、日本橋魚河岸の守護神『水神社』もあった。
    徳川家の武運長久と大漁安全を祈願するため、豊嶋郡柴崎村神田神社境内に鎮座していたものが、神田神社とともに遷座したものだそうだ。
    魚河岸が築地に移った今も、市場内には、この社の遥拝所があるそうだ。

  • 神田神社を後にして、天野屋の前に戻る。<br />その左手の路地へ入り、今度は本郷界隈を目指すことにした。<br />天野屋の脇から続く路地の北側の街並みは、神田明神西町と呼ばれていた場所であり、この道が旧中仙道である。<br />突き当たりを北へと向かう道は、江戸時代には無かったもので、清水坂へと続いている。

    神田神社を後にして、天野屋の前に戻る。
    その左手の路地へ入り、今度は本郷界隈を目指すことにした。
    天野屋の脇から続く路地の北側の街並みは、神田明神西町と呼ばれていた場所であり、この道が旧中仙道である。
    突き当たりを北へと向かう道は、江戸時代には無かったもので、清水坂へと続いている。

  • その道を辿り、蔵前橋通りと出会う所が清水坂下。<br />この交差点の場所に、二千五百石の大身旗本島田氏の屋敷があり、その屋敷跡が、明治になってから清水精機という会社の所有となり、後に土地を町へ提供し坂が整備だれた。<br />そのため、地元の人から『清水坂』と呼ばれるようになったそうだ。

    その道を辿り、蔵前橋通りと出会う所が清水坂下。
    この交差点の場所に、二千五百石の大身旗本島田氏の屋敷があり、その屋敷跡が、明治になってから清水精機という会社の所有となり、後に土地を町へ提供し坂が整備だれた。
    そのため、地元の人から『清水坂』と呼ばれるようになったそうだ。

    清水坂 名所・史跡

  • 清水坂を登っていくと、右側に『妻恋神社』と書かれた看板があったので寄り道をしてみる。<br />脇道を入ってすぐ左手にあったのが、関東惣社と呼ばれる妻恋神社と妻恋稲荷で、創建は、日本武尊東征の時と云うからかなり古い。<br />万治年間(1658-61)に創案されたと云う、正月二日の晩に枕の下に敷いて寝ると良い夢を見るという縁起物の『夢枕』の版権を所有していたのはこの神社だそうだ。<br />その版木は、昭和52年に現存が確認されたそうである。<br />なお、鳥居の前の坂は『妻恋坂』と呼ばれている。

    清水坂を登っていくと、右側に『妻恋神社』と書かれた看板があったので寄り道をしてみる。
    脇道を入ってすぐ左手にあったのが、関東惣社と呼ばれる妻恋神社と妻恋稲荷で、創建は、日本武尊東征の時と云うからかなり古い。
    万治年間(1658-61)に創案されたと云う、正月二日の晩に枕の下に敷いて寝ると良い夢を見るという縁起物の『夢枕』の版権を所有していたのはこの神社だそうだ。
    その版木は、昭和52年に現存が確認されたそうである。
    なお、鳥居の前の坂は『妻恋坂』と呼ばれている。

    妻恋神社 寺・神社・教会

  • 清水坂の1本西側にあるのが横見坂。<br />南にあった樹木谷から湯島台地へ登る坂で、途中左手に富士山が見え、その富士を横目で見ることから『横見坂』と呼ばれるようになったそうだ。<br />坂の左側の街並みは、旧湯島新花町で、小諸に赴任する前の島崎藤村が住んでいたところである。

    清水坂の1本西側にあるのが横見坂。
    南にあった樹木谷から湯島台地へ登る坂で、途中左手に富士山が見え、その富士を横目で見ることから『横見坂』と呼ばれるようになったそうだ。
    坂の左側の街並みは、旧湯島新花町で、小諸に赴任する前の島崎藤村が住んでいたところである。

    横見坂 名所・史跡

  • 横見坂から旧湯島新花町へと入って行く。<br />この辺りは、俗に大根畠と呼ばれ、麹室に適した関東ローム層の台地だったところで、江戸時代には、百数十軒もの麹屋があったそうだ。<br />藤村も、作品『春』の中で『大根畠は麹の香りがする町』と書いている。<br />そんな町の一角に、昭和を感じさせる街並みがあった。

    横見坂から旧湯島新花町へと入って行く。
    この辺りは、俗に大根畠と呼ばれ、麹室に適した関東ローム層の台地だったところで、江戸時代には、百数十軒もの麹屋があったそうだ。
    藤村も、作品『春』の中で『大根畠は麹の香りがする町』と書いている。
    そんな町の一角に、昭和を感じさせる街並みがあった。

  • その一角から北へ伸びる坂を登る。<br />この辺りは、宝永7年(1710)、上野寛永寺輪王寺宮の隠殿(隠居所)が置かれた場所である。<br />宮亡き後、菜園などになっていたが、宝暦7年(1757)に町屋が開かれ『本郷新町屋』と呼ばれるようになったそうだ。<br />幕末には、東叡山御家来屋敷があった場所でもある。<br />『湯島新花町』となったのは、明治5年以降のことだそうだ。

    その一角から北へ伸びる坂を登る。
    この辺りは、宝永7年(1710)、上野寛永寺輪王寺宮の隠殿(隠居所)が置かれた場所である。
    宮亡き後、菜園などになっていたが、宝暦7年(1757)に町屋が開かれ『本郷新町屋』と呼ばれるようになったそうだ。
    幕末には、東叡山御家来屋敷があった場所でもある。
    『湯島新花町』となったのは、明治5年以降のことだそうだ。

  • さらに西側へ歩くと『傘谷坂』に出る。<br />坂下の低くなっているところを『傘谷』と呼び、傘作りの職人が多く住んでいたところである。<br />その谷を挟んで向かい合う坂を、『傘谷坂』と呼ぶようになったそうだ。<br />江戸時代、坂の東側(写真右手)が本郷新町屋、西側が本郷金助町であり、現在では、それぞれ湯島二丁目、本郷三丁目となっている。

    さらに西側へ歩くと『傘谷坂』に出る。
    坂下の低くなっているところを『傘谷』と呼び、傘作りの職人が多く住んでいたところである。
    その谷を挟んで向かい合う坂を、『傘谷坂』と呼ぶようになったそうだ。
    江戸時代、坂の東側(写真右手)が本郷新町屋、西側が本郷金助町であり、現在では、それぞれ湯島二丁目、本郷三丁目となっている。

  • 傘谷坂から、再び湯島新花町へ入ると、湯島御霊社があった。<br />輪王寺宮の隠殿となった折、上野から移って来たもので、御霊八所神社と呼ばれていたものである。<br />平安時代に都を中心に盛んになった怨霊を鎮めるための『御霊鎮祭』に関わる社だそうだ。

    傘谷坂から、再び湯島新花町へ入ると、湯島御霊社があった。
    輪王寺宮の隠殿となった折、上野から移って来たもので、御霊八所神社と呼ばれていたものである。
    平安時代に都を中心に盛んになった怨霊を鎮めるための『御霊鎮祭』に関わる社だそうだ。

    湯島御霊社 寺・神社・教会

  • 御霊神社の前をさらに登ると、突き当たりに大きな寺が見えてきた。<br />五代将軍綱吉の命により、将軍家の武運長久の祈願所として、元禄4年(1691)に創建された霊運寺である。<br />山門の左に建つ石柱には、『不許葷辛酒肉入山内』と書かれ、創建時のものだそうだ。<br />読み方は「くんしんしゅにくさんないにいるをゆるさず」であり、意味は「にんにくなど臭いものや刺激の強いもの、酒・肉など、修行の妨げになるものは境内に入ることを禁ずる」である。

    御霊神社の前をさらに登ると、突き当たりに大きな寺が見えてきた。
    五代将軍綱吉の命により、将軍家の武運長久の祈願所として、元禄4年(1691)に創建された霊運寺である。
    山門の左に建つ石柱には、『不許葷辛酒肉入山内』と書かれ、創建時のものだそうだ。
    読み方は「くんしんしゅにくさんないにいるをゆるさず」であり、意味は「にんにくなど臭いものや刺激の強いもの、酒・肉など、修行の妨げになるものは境内に入ることを禁ずる」である。

    霊雲寺 寺・神社・教会

  • 霊雲寺の裏手にある湯島小学校の辺りには、元禄8年(1695)から同11年まで金座が置かれていた。<br />そこから一本北へ向かうと『春日通り』に出る。<br />ここは『切通坂』と呼ばれる緩やかな坂になっていて、下れば御徒町駅、登れば本郷三丁目の交差点に至る。<br />坂の南側のビルが建ち並んでいる辺りは、当時、『湯島棟梁屋敷』と呼ばれ、江戸城築城の際、遠州浜松から来た大工の棟梁の子孫が住んだ町屋があったそうだ。

    霊雲寺の裏手にある湯島小学校の辺りには、元禄8年(1695)から同11年まで金座が置かれていた。
    そこから一本北へ向かうと『春日通り』に出る。
    ここは『切通坂』と呼ばれる緩やかな坂になっていて、下れば御徒町駅、登れば本郷三丁目の交差点に至る。
    坂の南側のビルが建ち並んでいる辺りは、当時、『湯島棟梁屋敷』と呼ばれ、江戸城築城の際、遠州浜松から来た大工の棟梁の子孫が住んだ町屋があったそうだ。

    切通坂 名所・史跡

  • 切通坂を少し登った右側の、少し奥まったところにあるのが『麟祥院』。<br />三代将軍家光の乳母春日局の隠棲の場として寛永元年(1624)に創建。<br />その死後、菩提寺となった寺院である。<br />『麟祥院』とは、春日局の法名だそうだ。<br />趣のある控えめな山門が気に入った。

    切通坂を少し登った右側の、少し奥まったところにあるのが『麟祥院』。
    三代将軍家光の乳母春日局の隠棲の場として寛永元年(1624)に創建。
    その死後、菩提寺となった寺院である。
    『麟祥院』とは、春日局の法名だそうだ。
    趣のある控えめな山門が気に入った。

    麟祥院 寺・神社・教会

  • 山門を入ると、境内はとても手入れが行き届き、落ち着いた風情が漂っていて、秋に訪れたら紅葉が楽しめそうである。<br />本堂の前を通り墓地へと向かうと、入口近くに地蔵様が立っていた。<br />優しげな表情に、ひと時暑さを忘れる。

    山門を入ると、境内はとても手入れが行き届き、落ち着いた風情が漂っていて、秋に訪れたら紅葉が楽しめそうである。
    本堂の前を通り墓地へと向かうと、入口近くに地蔵様が立っていた。
    優しげな表情に、ひと時暑さを忘れる。

  • その墓地には、春日局の墓があった。<br />墓石は、卵形(卵塔という)のもので、四方に丸い穴が貫通している珍しいものであった。<br />なんでも、「死後も政道を正す」と云うことらしい。<br />江戸城大奥の制度を確立し、絶大な権力を誇った春日局も、今は静かに眠っていた。

    その墓地には、春日局の墓があった。
    墓石は、卵形(卵塔という)のもので、四方に丸い穴が貫通している珍しいものであった。
    なんでも、「死後も政道を正す」と云うことらしい。
    江戸城大奥の制度を確立し、絶大な権力を誇った春日局も、今は静かに眠っていた。

    春日局の墓 名所・史跡

  • 春日局の墓の左隣に立派な墓があったのだが、孫の稲葉正則の正室のものらしい。<br />近くには、稲葉分家の墓などもあった。<br />焼け付くような暑さの中、麟祥院の緑多い境内は、涼を求めるのにちょうど良く、都会のど真ん中とは思えないほど静かであった。

    春日局の墓の左隣に立派な墓があったのだが、孫の稲葉正則の正室のものらしい。
    近くには、稲葉分家の墓などもあった。
    焼け付くような暑さの中、麟祥院の緑多い境内は、涼を求めるのにちょうど良く、都会のど真ん中とは思えないほど静かであった。

  • 麟祥院から本郷三丁目へと向かう。<br />途中、左手に洋風の古い建物が見えて来た。<br />昭和4年(1929)に建てられた本郷中央会堂の建物で、キリスト教の教会だそうだ。

    麟祥院から本郷三丁目へと向かう。
    途中、左手に洋風の古い建物が見えて来た。
    昭和4年(1929)に建てられた本郷中央会堂の建物で、キリスト教の教会だそうだ。

    本郷中央教会 寺・神社・教会

  • 切通坂上の本郷三丁目の交差点に出た。<br />「本郷もかねやすまでは江戸の内」と詠まれた『かねやす』は、南西の角に今でも健在である。<br />交差点近くに本郷薬師の入口を見つけたので行ってみることにする。

    切通坂上の本郷三丁目の交差点に出た。
    「本郷もかねやすまでは江戸の内」と詠まれた『かねやす』は、南西の角に今でも健在である。
    交差点近くに本郷薬師の入口を見つけたので行ってみることにする。

  • 立派な入口に反し、社は道端に置かれている感じであった。<br />この辺りには、以前、真光寺という寺院があったそうで、戦災にあい世田谷に移転してしまったそうだ。<br />寛文10年(1670)、その真光寺境内に建てられたのが、この薬師堂であり、江戸市中に奇病が流行った時、この社に祈願したところ、病が治ったということがあり、以来、人々の信仰を集めたそうだ。

    立派な入口に反し、社は道端に置かれている感じであった。
    この辺りには、以前、真光寺という寺院があったそうで、戦災にあい世田谷に移転してしまったそうだ。
    寛文10年(1670)、その真光寺境内に建てられたのが、この薬師堂であり、江戸市中に奇病が流行った時、この社に祈願したところ、病が治ったということがあり、以来、人々の信仰を集めたそうだ。

    本郷薬師 寺・神社・教会

  • 薬師堂から路地へさらに入ると、突然、観音様が出現した。<br />説明版によると、真光寺に置かれていた十一面観世音菩薩像とのこと。<br />寺は焼けてしまったものの、この像だけは奇跡的に難を逃れたそうだ。<br />蓮華座に刻まれた銘文から、享保5年(1720)に作られたものらしい。

    薬師堂から路地へさらに入ると、突然、観音様が出現した。
    説明版によると、真光寺に置かれていた十一面観世音菩薩像とのこと。
    寺は焼けてしまったものの、この像だけは奇跡的に難を逃れたそうだ。
    蓮華座に刻まれた銘文から、享保5年(1720)に作られたものらしい。

    十一面観世音菩薩 寺・神社・教会

  • 春日通りに戻る途中にあった櫻木神社の脇社『見送稲荷大明神』。<br />櫻木神社は、太田道灌が江戸城を築城した折、京都北野から菅原道真の神霊を勧請したものだそうだ。<br />『見送稲荷』の由緒は分からないが、本郷通りにある見送り坂と関係があるのかもしれない。

    春日通りに戻る途中にあった櫻木神社の脇社『見送稲荷大明神』。
    櫻木神社は、太田道灌が江戸城を築城した折、京都北野から菅原道真の神霊を勧請したものだそうだ。
    『見送稲荷』の由緒は分からないが、本郷通りにある見送り坂と関係があるのかもしれない。

    櫻木神社 寺・神社・教会

  • 春日通りを後楽園の方へと歩いて行く。<br />東富坂の手前、本郷四丁目6,7番辺りの街並みは、高い建物も無く、青い空が広がり気持ちが良かった。<br />高層ビルばかりになってきた都心では、貴重な景色である。<br />幕末には、信濃守護小笠原氏の子孫で肥前唐津藩小笠原氏の中屋敷があったところでもある。<br /><br />※現在は建て替えられ、この景色は観ることが出来ません。

    春日通りを後楽園の方へと歩いて行く。
    東富坂の手前、本郷四丁目6,7番辺りの街並みは、高い建物も無く、青い空が広がり気持ちが良かった。
    高層ビルばかりになってきた都心では、貴重な景色である。
    幕末には、信濃守護小笠原氏の子孫で肥前唐津藩小笠原氏の中屋敷があったところでもある。

    ※現在は建て替えられ、この景色は観ることが出来ません。

  • 春日通から離れ、丸の内線沿いに坂を下りていく。<br />この急な坂は、旧東富坂と呼ばれ、二ヶ谷(文京区役所(シビックセンター)のあるあたり)を挟んで向かい合う二つの坂の東側のものである。<br />西側の坂も、位置が変わったものの『富坂』として残っている。<br />木々が生い茂り、鳶が多く生息していたから『鳶坂』と呼ばれ、転じて『富坂』となったと云われている。<br />坂の位置は江戸の頃と少し変わっているが、坂の南側(写真左手)は、春日局所縁の小石川春日町、北側は武家屋敷が建ち並んでいたところだ。<br />西日が強く、眩暈がするほどだった。

    春日通から離れ、丸の内線沿いに坂を下りていく。
    この急な坂は、旧東富坂と呼ばれ、二ヶ谷(文京区役所(シビックセンター)のあるあたり)を挟んで向かい合う二つの坂の東側のものである。
    西側の坂も、位置が変わったものの『富坂』として残っている。
    木々が生い茂り、鳶が多く生息していたから『鳶坂』と呼ばれ、転じて『富坂』となったと云われている。
    坂の位置は江戸の頃と少し変わっているが、坂の南側(写真左手)は、春日局所縁の小石川春日町、北側は武家屋敷が建ち並んでいたところだ。
    西日が強く、眩暈がするほどだった。

  • 小石川春日町は、寛永7年(1630)、春日局が幕府に願い出て拝領した土地で、局付きの下男30人を住まわせたところ。<br />その際、町の鎮守のために稲荷が祀られ、春日局の出世にあやかり『出世稲荷』と呼ばれている。

    小石川春日町は、寛永7年(1630)、春日局が幕府に願い出て拝領した土地で、局付きの下男30人を住まわせたところ。
    その際、町の鎮守のために稲荷が祀られ、春日局の出世にあやかり『出世稲荷』と呼ばれている。

  • 旧小石川春日町の真向かいには、今、後楽園遊園地がある。<br />ジェットコースターの轟音と、物凄い悲鳴が響き渡っている。<br />ちなみに、遊園地や東京ドームのあるところは、徳川御三家のひとつ、水戸徳川家の広大な上屋敷があった場所である。<br />小石川後楽園は、この屋敷の一部なのだ。<br />

    旧小石川春日町の真向かいには、今、後楽園遊園地がある。
    ジェットコースターの轟音と、物凄い悲鳴が響き渡っている。
    ちなみに、遊園地や東京ドームのあるところは、徳川御三家のひとつ、水戸徳川家の広大な上屋敷があった場所である。
    小石川後楽園は、この屋敷の一部なのだ。

  • 白山通りを水道橋駅のほうへと歩き、左手から下ってくる広い通りを渡ると、すぐ左手に登り坂が現れる。<br />これが『壱岐坂』で、手前で渡った通りが『新壱岐坂』。<br />名前の由来は、明暦の大火以前、この坂の右手に小笠原壱岐守の下屋敷があったからだそうだ。<br />幕末には、美濃郡上藩青山氏の上屋敷があった場所である。<br />壱岐坂は、震災復興計画により生まれた新壱岐坂によって真ん中で分断されてしまい、今では忘れ去られようとしていた。

    白山通りを水道橋駅のほうへと歩き、左手から下ってくる広い通りを渡ると、すぐ左手に登り坂が現れる。
    これが『壱岐坂』で、手前で渡った通りが『新壱岐坂』。
    名前の由来は、明暦の大火以前、この坂の右手に小笠原壱岐守の下屋敷があったからだそうだ。
    幕末には、美濃郡上藩青山氏の上屋敷があった場所である。
    壱岐坂は、震災復興計画により生まれた新壱岐坂によって真ん中で分断されてしまい、今では忘れ去られようとしていた。

  • 裏道を辿りながら、本郷給水所へと向かう。<br />江戸の頃は本郷竹町の一部だったところで、給水所の配水池の上部を利用した文京区の『本郷給水所公苑』がある。<br />和風庭園とバラ園があり、一息つくには良いところとなっている。<br />大きなトンボが、池の上を悠然と飛んでいた。

    裏道を辿りながら、本郷給水所へと向かう。
    江戸の頃は本郷竹町の一部だったところで、給水所の配水池の上部を利用した文京区の『本郷給水所公苑』がある。
    和風庭園とバラ園があり、一息つくには良いところとなっている。
    大きなトンボが、池の上を悠然と飛んでいた。

    本郷給水所公苑 公園・植物園

  • 公苑の一角には、発掘された神田上水の石樋が移築復元されていた。<br />神田上水は、江戸市中の水不足を解消するために、小石川上水を整備拡張し、現在の文京区関口から分水したもの。<br />小石川後楽園の中には、その神田上水の跡が残っている。

    公苑の一角には、発掘された神田上水の石樋が移築復元されていた。
    神田上水は、江戸市中の水不足を解消するために、小石川上水を整備拡張し、現在の文京区関口から分水したもの。
    小石川後楽園の中には、その神田上水の跡が残っている。

  • 復元された神田上水の石樋は、驚くほど立派であった。<br />上水は、神田川を掛樋で渡る手前は、地中に埋設された石樋を通っていたそうで、復元されたものは、構造が分かるように露出させ、石蓋も一部が取り除かれて展示されていた。<br />ちなみに、水道橋という地名は、神田上水が木製の掛樋で神田川を渡るところから名付けられたのである。<br />その神田上水の掛け樋は、現在の水道橋の下流に存在していた。

    復元された神田上水の石樋は、驚くほど立派であった。
    上水は、神田川を掛樋で渡る手前は、地中に埋設された石樋を通っていたそうで、復元されたものは、構造が分かるように露出させ、石蓋も一部が取り除かれて展示されていた。
    ちなみに、水道橋という地名は、神田上水が木製の掛樋で神田川を渡るところから名付けられたのである。
    その神田上水の掛け樋は、現在の水道橋の下流に存在していた。

  • 公苑に隣接する『東京都水道歴史館』へも立ち寄る。<br />公苑自体も穴場だが、ここもかなり空いていた。<br />無料であり、展示内容も濃く見応えがあり、江戸の水道事情を知るには非常に良い施設であった。

    公苑に隣接する『東京都水道歴史館』へも立ち寄る。
    公苑自体も穴場だが、ここもかなり空いていた。
    無料であり、展示内容も濃く見応えがあり、江戸の水道事情を知るには非常に良い施設であった。

    東京都水道歴史館 美術館・博物館

  • 陽が傾いてきたので、そろそろ江戸歩きも終わりである。<br />とりあえず、水道歴史館から本郷通り(旧中仙道)へと向かう。<br />途中、旧本郷一丁目の町並みを通った。<br />西日が、何気ない風景を印象的に演出している。

    陽が傾いてきたので、そろそろ江戸歩きも終わりである。
    とりあえず、水道歴史館から本郷通り(旧中仙道)へと向かう。
    途中、旧本郷一丁目の町並みを通った。
    西日が、何気ない風景を印象的に演出している。

  • 本郷通りから南へ歩くと外堀通りに出る。<br />さらに東へ堀沿いに歩けば、御茶ノ水橋である。<br />その北側には、東京医科歯科大学と付属の病院が建っているのだが、ここが『昌平坂学問所』の跡であり、東京大学、筑波大学、お茶の水女子大学の前身であることから、『近代教育発祥の地』とされている。<br />御茶ノ水橋からは、神田川の下流に、最初に渡った聖橋が見えていた。

    本郷通りから南へ歩くと外堀通りに出る。
    さらに東へ堀沿いに歩けば、御茶ノ水橋である。
    その北側には、東京医科歯科大学と付属の病院が建っているのだが、ここが『昌平坂学問所』の跡であり、東京大学、筑波大学、お茶の水女子大学の前身であることから、『近代教育発祥の地』とされている。
    御茶ノ水橋からは、神田川の下流に、最初に渡った聖橋が見えていた。

    お茶の水橋 名所・史跡

  • お茶の水橋南詰には、ひっそりと『お茶の水』碑が建っている。<br />『お茶の水』とは、現在の順天堂医院のところにあった高林院(明暦の大火で移転)の境内に湧いていた清水を、将軍のお茶用に献上したことから起こった地名である。<br />その湧水も、神田川の拡幅により失われてしまったそうだ。<br />御茶ノ水駅に戻り、今回の江戸歩きはこれでお仕舞い。<br />猛暑の中の散策は疲れたが、いろいろと発見があって楽しかった。

    お茶の水橋南詰には、ひっそりと『お茶の水』碑が建っている。
    『お茶の水』とは、現在の順天堂医院のところにあった高林院(明暦の大火で移転)の境内に湧いていた清水を、将軍のお茶用に献上したことから起こった地名である。
    その湧水も、神田川の拡幅により失われてしまったそうだ。
    御茶ノ水駅に戻り、今回の江戸歩きはこれでお仕舞い。
    猛暑の中の散策は疲れたが、いろいろと発見があって楽しかった。

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この旅行記へのコメント (20)

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  • hot chocolateさん 2014/08/28 23:30:06
    ねこさん、江戸を行く!
    旅猫さま、こんばんは〜

    お江戸の町歩きも、真夏の暑い時は避けましょう・・・
    灼熱のアスファルト地獄は辛いです。
    二百年前の江戸ならば、もっと涼しかったでしょうが・・・

    馴染みのあるお江戸だけれど、知らないところがいっぱい。
    「大伝馬町」?
    「小伝馬町」なら知っているけれど・・・
    歴史好きなら、お江戸の町歩きは結構楽しいかも。

    hot choco

    旅猫

    旅猫さん からの返信 2014/08/29 23:00:15
    RE: ねこさん、江戸を行く!
    hot chocoさん、こんばんは〜
    お江戸散歩も読んでいただきありがとうございます!

    この時は本当に暑かったです。
    まあ、会津柳津のように熱中症寸前にはならなかったですが。
    江戸の頃も暑かったようですが、暑さの質が違うのでしょうね。

    大伝馬町は、小伝馬町の南側にありますよ。
    現在でも地名として残っています。

    お江戸歩きは楽しいですよ〜
    旅猫
  • rupannさん 2014/08/24 22:44:02
    夏のお江戸散歩♪
    うわっ 陽射しが眩しい〜〜〜

    旅猫さん、こんばんわ〜

    いいすねぇ お江戸散歩〜♪

    大阪散歩はしないなぁ〜(^^ゞ
    京都は昔よく歩いたんだけど〜

    過ごしやすい季節が待ち遠しい〜

    by rupann♪

    旅猫

    旅猫さん からの返信 2014/08/24 23:10:16
    RE: 夏のお江戸散歩♪
    rupannさん、こんばんは〜

    いつもありがとうございます!

    お江戸は大好きなんですよ。
    鬼平犯科帳にはまってしまってからは、さらにドツボに。
    まあ、関東大震災と東京大空襲で江戸の面影はかなり失われ、
    さらに大規模再開発によっても大きく様変わりしているので、
    なかなか面影を探すのは難しいのですが。

    それでも、いろいろ残っていて、それを探すのが楽しくて(^^)

    大阪も京都も、古い街ですから散歩も楽しいのでは。

    暑さも、9月半ばぐらいまでですかね。
    旅猫
  • ユキゴローさん 2007/08/21 17:12:36
    我が青春!
    旅猫さん こんにちは!

    いやぁ〜、懐かしい風景です!
    何を隠そう、我が母校は昔ここにあったのです!
    聖橋を渡らずにニコライ堂の坂を下りると正門があったのですが、
    今は記念館が残るのみです。

    学生運動華やかなりし頃で、4年間の内3年近く学校は閉鎖されて、
    授業はほとんどありませんでした。それでも毎日通って、
    駅近くの喫茶店やら、たまには湯島天神の境内辺りで、
    学友たちと喧々諤々、青春を謳歌したものでした。
    懐かしい風景をありがとう!

                    ユキゴロー

    旅猫

    旅猫さん からの返信 2007/08/21 21:43:40
    RE: 我が青春!
    ユキゴローさん、こんばんは!

    >何を隠そう、我が母校は昔ここにあったのです!
    そうでしたか!
    あの学生運動が盛んだった大学ですね。
    旅猫が通った大学も、校門にバリケードを張って、警官隊と衝突していましたよ(笑)

    >学友たちと喧々諤々、青春を謳歌したものでした。
    3年間も閉鎖されていたとは凄いですね!
    でも、それも懐かしい青春の思い出ですよね。
    旅猫が学生の頃は、ちょうど時代が変わる頃で、学生運動は下火になりつつありました。
    大学時代が懐かしいです。

    旅猫
  • コクリコさん 2007/08/20 14:38:24
    湯島聖堂、神田明神
    旅猫さん、お久しぶりです。

    お茶の水界隈はよく行く所なので、おなじみの風景を楽しませていただきました。
    私は文京区っ子だったから、小学生の頃はよく「文京区巡り」で湯島聖堂を見学しました。
    でも「小赤壁」のことは知らなかったなぁ(すっかり忘れているのかな)。
    私も旅行記にUPしましたが、違う所に着目していてなるほど面白いと思いました。
    旅猫さんの方がしっかり調べてあのます!
    神田明神は、いろんな人に言っていますが、私たち結婚式した神社でーす。

    旅猫さんも「江戸アルキ帖」の愛読者だったのですね!
    私もです。私もワープして江戸の町を歩いている気分。
    あそこでおそば食べたり、あそこでおだんご買ったり、、、なんてね。
    私は日帰りの資格しかありませんが、旅猫さんは江戸に2.3泊できる資格保持者なのでは?

    旅猫

    旅猫さん からの返信 2007/08/21 01:42:57
    RE: 湯島聖堂、神田明神
    コクリコさん、こんばんは。
    お久しぶりです!

    コクリコさんは、文京区に住んでいたことがあるのですね。
    今回のエリアは、庭のようなところでしょう(^^)
    「小赤壁」については、今回はじめて知りました。

    神田明神で結婚式!
    馴染みのある場所で式を挙げるというのは素敵です。
    羨ましいな(笑)

    >旅猫さんも「江戸アルキ帖」の愛読者だったのですね!
    そうなんですよ〜
    平成2年に買ったので、もう17年も読み返しています(笑)
    旅猫の江戸のバイブルです。
    殺風景な東京の風景も、江戸がそこにあると思って歩けば楽しいものです。
    この横丁には、こんな職業の人たちが暮らしていたんだなって、思いを馳せるだけでも楽しいです。

    >私は日帰りの資格しかありませんが、旅猫さんは江戸に2.3泊できる資格保持者なのでは?
    いえいえ、まだまだ初心者ですよ!
    江戸は奥深くて、もっと勉強しないと。
    1泊ぐらいできたらうれしいです(^^)

    旅猫
  • momoyukiさん 2007/08/19 20:45:46
    江戸巡り
    旅猫様

    江戸旅行記、良いですね〜。
    東京に住んでいても、そういう視線で歩く事ってないので
    とても勉強になりました。
    なんだか、旅猫ガイドさんの案内で江戸巡りをしているような
    そんな錯覚を覚えました(笑)
    もちろん旅猫さんの手には旗。

    それにしても・・・暑そうです(汗)

    momoyukiより

    旅猫

    旅猫さん からの返信 2007/08/19 21:13:49
    RE: 江戸巡り
    momoyukiさん、こんばんは!
    江戸旅行記を読んでいただき、ありがとうございます。

    東京には、至るところに江戸の記憶が残っています。
    もちろん、江戸の頃のままに残っているものはほとんどありませんが、
    町の区画や道、地名や寺社仏閣など、微かに江戸が息づいています。

    旅猫の江戸ガイドブックは、杉浦日向子さんの「江戸アルキ帖」です。
    江戸を身近なものにしてくれた本です。
    今では、江戸文化歴史検定を受けるまでになりましたけど、すべては、
    杉浦さんとの出会いから始まったのです。
    旅猫は、まだまだ江戸ガイドの初心者です。
    江戸全域をくまなく歩くには、まだまだ時間がかかりそう。

    >それにしても・・・暑そうです(汗)
    暑すぎました。。。
    蕩けるような暑さではなく、焼かれているような暑さでしたよ(^^;
    本郷三丁目の辺りでは、もうフラフラでした(笑)

    旅猫
  • ツーリスト今中さん 2007/08/19 15:47:10
    あの辺り
    中学高校の6年間、水道橋にある学校に通っていたのですが
    見覚えがあるのは「東京医科歯科大」の建物だけ(-_-;)
    神田川も見覚えあるかぁ。

    という情けなさ。
    同級生は下町の子が多かったので神田明神にも連れて行ってもらったり
    した覚えはあります。
    夜桜を見に行ったなぁ、そう言えば。

    旅行記からは暑さは感じませんが
    さぞかし、暑かった事でしょう。
    ご苦労様です。

    また、江戸散歩楽しみにしています。

    日本史はあんまり興味がないのですが
    江戸の庶民の事はとっても興味があります。
    (杉浦日向子さんの世界のような)

    旅猫

    旅猫さん からの返信 2007/08/19 21:04:24
    RE: あの辺り
    ツーリスト今中さん、こんばんは。

    水道橋界隈が思い出の場所でしたか。
    その頃から比べると、かなり変わってしまったでしょうね。
    神田川は変わらず流れていますが。

    あの日は、焼けるような暑さで、もう大変でした。
    それでも、木陰に入ると、ふっと暑さが引くのが気持ちよかったです。

    杉浦日向子さんは、旅猫の江戸の師匠です。
    江戸散歩を始めたのも、杉浦さんの本がきっかけなのです。
    ずいぶん昔のことですが。

    今日も、夕方からふらりと江戸散歩へ行ってきました。
    上野池之端仲町周辺と不忍池を散策したあと、福島会館でビールを一杯。
    わずか1時間半ほどの小旅行です。

    旅猫

    ツーリスト今中

    ツーリスト今中さん からの返信 2007/08/19 21:20:24
    江戸へ旅行!
    杉浦日向子さんが「江戸」の師匠でしたか。
    惜しい方をなくしました。

    彼女の「江戸へちょっと旅行」と言う様な
    不思議なタイムスリップ感覚の江戸日誌、良いですよね。
    彼女の著書ではありませんが江戸時代の庶民の旅の本も
    なかなか興味深いものがあります。
    信仰にかこつけてお伊勢参りをしたけれど
    実は古来から日本人は旅好きだったというような。

    また、江戸散歩待っています\(^o^)/

    旅猫

    旅猫さん からの返信 2007/08/19 21:33:06
    RE: あの辺り
    ほんとに、惜しい方を亡くしましたね。
    訃報を聞いたときはショックでした。。。

    旅猫の大好きな「江戸アルキ帖」は、イラストも付いていて面白いです。
    「この本は 江戸の町が 私達の町の すぐ隣に 有る気で 歩き 或る記に したものです」という書き出しに惹かれました。

    >実は古来から日本人は旅好きだったというような。
    そのようですね。
    日本人は、聞いただけでは済まない人種のようで、自分で見なくては収まらないらしく、物見遊山で出かけてしまう性分みたいですね(笑)

    旅猫
  • syukoさん 2007/08/18 15:39:16
    テリトリー圏内
    旅猫さん

    こんにちは。

    数年前に営業をしていた頃、
    夏の暑さを凌ぐ絶好の休憩場所が神田明神の境内でした。
    ビジネス3区内にあんなに大きな木が似合う場所ってあんまり無いですよね・・・
    でも当時はそんな余裕なんて皆無だったので、
    境内のアチコチを散策しようなんて思わなかったけれど。
    今思うともったいなぃ。

    ちょっと前の事を、この旅行記で思い出して懐かしくなりました。
    江戸散策、万歳!!!

    旅猫

    旅猫さん からの返信 2007/08/18 17:28:21
    RE: テリトリー圏内
    syukoさん、こんにちは!
    江戸散策へのエール、ありがとうございました(笑)

    syukoさんは、神田明神の周辺でお仕事をされていたのですね。
    あのあたりで木があるのは、神田明神や湯島聖堂などだけですからね。
    今回も、強烈な暑さの中、木陰で一息入れられるのはありがたかったです。

    旅猫も、今回初めて、ゆっくりと境内を散策できました。
    江戸の記憶が少しだけ残っていたのがうれしかった。
    ちょっと暑さで朦朧としていましたが(^^;

    旅猫


  • Noririnさん 2007/08/17 23:56:39
    久し振りの江戸散歩
    旅猫さん こんばんは。

    私もすっかり江戸散歩から遠退いていたので、そろそろ何処を散策しようか考えていた所です。

    御茶ノ水は毎朝通勤で通りますが、駅から離れた所に色々な見所があったとは・・・
    東京ってよ〜く調べると江戸の名残があるので、歩いていても楽しいですよね。
    猛暑はダメージが強いので、秋風が心地良くなって来たら私も散策してみます♪

    Noririn

    旅猫

    旅猫さん からの返信 2007/08/18 01:29:58
    RE: 久し振りの江戸散歩
    Noririnさん、こんばんは!
    江戸散歩への書き込み、ありがとうございます♪
    とーってもうれしいです(笑)
    何せ、訪問者数半減、書き込み激減なもので(^^;
    江戸散歩、思ったよりも不評のようで。。。
    庭園散歩などと違って、ちょっと地味ですね(笑)

    旅猫は、週に一度はお江戸散歩をしているのですが、さすがに夏はつらいですね。
    御茶ノ水界隈も、ゆっくり歩きながら見ていけば、小さな発見がありますよ。
    東京に残る、江戸の微かな息遣いを感じることができますね。

    >猛暑はダメージが強いので、秋風が心地良くなって来たら私も散策してみます♪
    秋風が吹いた頃がお勧めです。
    真夏に都心を歩くのは、かなりの覚悟が必要ですので(^^;
    ある意味、修行のような(笑)

    旅猫

  • 義臣さん 2007/08/14 16:16:06
    江戸
    お待ちしてました
    旅猫さんの江戸を、暑いのにご苦労様です。
    私は12日は上野公園の「大江戸上野舞祭り」へ行っていました。
    近くにいたのですね。
    それにしても暑かった。
              義臣

    旅猫

    旅猫さん からの返信 2007/08/14 20:11:32
    RE: 江戸
    義臣さん、こんにちは!

    月に一度は必ずお江戸を歩いているのに、旅行記はほとんど無かったですね。
    秋から春先までが、お江戸歩きのベストシーズンなのに、今回は、真夏の炎天下の中を歩いてきてしまいました(^^;

    御茶ノ水から本郷界隈を散歩していたので、かなり近くですね(^^)
    でも、あの日は暑かった。。。
    お疲れ様でした!

    旅猫

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