2016/11/12 - 2016/11/12
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ベームさん
秋晴れの一日、東京へ出かけました。
今日は本郷界隈とちょっと湯島を回るつもりです。
本郷はその周辺の谷根千とあわせ明治、大正、昭和にかけ多くの文士たちが集まった所です。
なぜそんなに此処に集まったか。東大と一高の存在が大きかったようです。全国から東大とか一高をめざし学生が上京してくる。学生向けの下宿屋が出来る。昔の文士、書生は今と違って貧乏だった。そこで本郷に多い安下宿に集まってくる、といった次第です。
東大そのものも多くの文士を輩出しています。中退を含め東大、一高に学んだ文士は綺羅星のごとくで、ざっと調べてみても:
森鴎外、夏目漱石、正岡子規、尾崎紅葉、坪内逍遥、上田敏、高山樗牛、久米正雄、土井晩翠、寺田寅彦、岩波茂雄、木下杢太郎、志賀直哉、武者小路実篤、芥川龍之介、斉藤茂吉、山本有三、谷崎潤一郎、堀辰雄、川端康成、太宰治、柳田國男、枚挙にいとまがありません。
そこで今日はその文士たちの痕跡を探して歩きました。
野田宇太郎、井上謙、司馬遼太郎諸氏の著を参考にさせて頂きました。
写真が多くなったのでその1、その2に分けました。
写真は本郷3丁目角の「かねやす」に掛けられている川柳。
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今日のスタートは地下鉄本郷3丁目駅。本郷から湯島をぐるりと回り帰りも本郷3丁目駅です。
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今日歩いた全体です。
中央を南北に本郷通り、東西に春日通りが走っています。本郷通りから右半分は殆どが東大構内。
司馬遼太郎は著「街道をゆく、本郷界隈」でおおよそ次のようなことを書いています。
”明治の時代、東京なかんずく本郷は日本の配電盤だった。明治の末に京都大学が出来るまで唯一の官立大学が東京大学で、世界中からお雇い学者を招聘し、日本中から優秀な学生が東京、東大に集まった。” -
その1の部分。
右下の本郷3丁目駅から歩きはじめました。一番下に本郷の大クスノキ、左上に樋口一葉終焉の地、真ん中から右下に斜めに菊坂通りが走っています。
”東大で学んだ学生が教師になり、技師になり、官吏・実業家になって日本中に近代文明を配給していった。まさに配電盤だった。"と司馬遼太郎は続けます。
これから歩く本郷はまさにそのような地だったのです。 -
地上へ出ると本郷3丁目交差点。
南北の本郷通りと東西の春日通りが交差しています。
夏目漱石の「三四郎」の主人公は熊本の高等学校を卒業して上京してきたその典型的なもので、漱石門下の主だった人たちも地方から出て一高、東大に学んでいます。寺田寅彦・高知、森田草平・岐阜、小宮豊隆・福岡、安倍能成・愛媛、岩波茂雄・長野、野上豊一郎・大分、鈴木三重吉・広島、久米正雄・福島、内田百閒・岡山といったあんばいです。
漱石は江戸っ子ですが、東大で学び松山、熊本とその学識を地方の学生に伝えています。
森鷗外の「青年」の主人公小泉純一も田舎(Y県)から出てきた学生です。
「青年」は漱石の「三四郎」を意識して書かれたと言われています。その中で鴎外が毛利鷗村、漱石が平田拊石、徳富蘆花が大石路花として揶揄的にモデル化されています。 -
春日通り。
ずっと先は小石川、後楽園方面。
明治の末頃のある記事に、東京で50人ほどの実業家の集まりでその出身地を調べたところ、東京生まれは3人で残りはすべて地方出身だった、とあります。今の政財官界のトップたちのその方面のデータはありませんかなあ。たとえ東京生まれでもその何代か前の先祖は地方出というのが多いのでなないでしょうか。東京14百万の人口で生粋の江戸っ子なんてあまりいないのでは。3代続かないと江戸っ子とは言えないそうです。
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交差点の南西角に有名な「かねやす」があります。
江戸時代前田家などの大名、武家屋敷に出入りしていた元禄時代からの小間物屋ですから古い店です。当主が兼康姓でその読みが「かねやす」です。もとは今でいう歯医者で、「乳香散」という粉歯磨きを売り出し繁昌したそうです。
堀部安兵衛が書いた「かねやすゆうげん」という看板が掛けられていたそうです。
今日は閉まっていて何を商いしているか分かりませんが、洋品小物、化粧品の類でしょう。 -
川柳に詠まれたかねやす。
江戸時代初期、明暦3年の大火事(振袖火事)のあと町が郊外に発展するまでは江戸の町はここ、今の本郷3丁目辺りが北の町はずれでした。今東大となっている加賀前田家の上屋敷もこの火事で江戸城の側にあったのがここに移ってきたものです。
江戸時代、江戸市域を「ご府内」とか「朱引内(しゅびきうち)」と呼び、今の本郷は大部分は「朱引外」すなはち江戸市街には含まれていなかったのです。 -
漱石の「三四郎」のなかでかねやすが出てきます。
”四角へ出ると、左手の此方側に西洋小間物屋があって、向こう側に日本小間物屋がある。・・・・。野々宮君は、向こうの小間物屋を指して、「あすこで一寸買い物をしますからね」と云って、・・・・。店先の硝子張の棚に櫛だの花簪だのが列べてある。野々宮君が・・・・蝉の羽根の様なリボンをぶら下げて、「どうですか」と聞かれた。”
理学士野々宮さん(寺田寅彦がモデルとされる)が入院中の妹に兼安(かねやす)でリボンを買ってあげたのです。 -
「かねやす」の向かい、東南角あたりに夏目漱石が好んだという「藤村の羊羹」の店があるらしいので探したが見当たりません。角には栗むし羊羹の暖簾のある「三原堂」があります。なにかの本で三原堂の横に羊羹で有名な藤村と云うのがあった、とありましたので隣のコンビニ辺りがそうかもしれません。
三原堂も昭和7年創業と言う古い店で、東大に敬意を表して名付けた「大学最中」が名物だそうです。
後日調べてみると「藤村」はとっくに廃業していました。 -
交差点北西の角に本郷薬師があります。
この辺りに宇野千代が20歳のころ岩国から上京し、一時給仕をしていた「燕楽軒」というレストランがありました。大正6年のことです。宇野千代の名誉にかけて、女給ではなく給仕、ウエイトレスです。
この時千代は客の久米正雄、芥川龍之介、今東光らと知り合います。近くに中央公論社があり、作家たちがよく利用したらしいです。 -
本郷薬師。
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本郷薬師の由来。
1670年建立。当時奇病が蔓延していたおりから人々に深く信仰された。縁日の夜店は賑やかで、神楽坂善国寺の縁日と共に有名だったという。近くに住む樋口一葉も母や妹と縁日を楽しんでいました。 -
その先が菊坂の入口です。あとで歩きます。
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ここの本郷通り、かすかに傾斜があります。
江戸時代、加賀屋敷から菊坂に流れる小さな川があり、そこに橋が架かっていました。「別れの橋」と云われました。なぜかと云うと、 -
江戸払いになった罪人はこの橋を渡って江戸から追放されました。すなはち江戸の外れだったのです。
罪人を橋の手前で見送ったので橋の南を見送り坂、罪人は橋の向こう(北側)で振り返ったので見返り坂と呼んだそうです。
写真ですと心なしか坂になっているようです。見返り坂です。 -
説明板。
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本郷薬師堂。
昭和53年再建。 -
薬師堂の先に真光寺の十一面観世音菩薩像。
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お寺は世田谷の方に移っていて、菩薩像だけ残ったのでしょうか。
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真光寺は太平洋戦争で焼失し世田谷区給田に移転したが、菩薩像だけが焼け残った、と書いてあります。
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本郷3丁目の交差点に戻り春日通りを少し西に歩くと北側に「桜木神社」があります。
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桜木神社。
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菅原道真を祀った天神様です。
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境内には見送り坂にちなんだ見送り稲荷があります。
江戸を所払いになった罪人たちを縁者がこの地まで見送ったことから名付けられました。 -
上真砂町、弓町。今は無くなった町名です。役人は昔からある町名は歴史、文化であることを考えない。今はなんでも機能的に○○○1丁目、×××2丁目、無機質な名前になってしまいました。住居表示法のなせる業です。
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本妙寺坂入口。
春日通りから菊坂に下る幾つかの通りの一つです。 -
桜木神社の斜め向かい、春日通りの南側に新井理髪店という床屋があります。
明治時代ここは喜之床(きのとこ)という床屋で、明治42年6月石川啄木は蓋平館の下宿からここの2階に移り、函館から上京してきた家族と新たな生活に入りました。月給25円で東京朝日新聞に勤め校正係をします。
京橋の滝山町の新聞社灯ともる頃のいそがしさかな
新しき明日の来たるを信ずという自分の言葉に嘘はなけれど
第一歌集「一握(いちあく)の砂」がここで生まれました。 -
しかし貧困、啄木の自我の強い性格、浪費癖、妻と母との不和、長男の死、父の不祥事、妻および啄木自身の発病など家庭生活は困難を極め、明治44年9月ここを引き払い小石川久堅町に移りましたが、母の死に続きまもなく啄木自身も肺結核で明治45年4月死亡、26歳。何とも悲惨な苦闘の生涯でした。
後で樋口一葉の終焉の地にも行きますが、本郷界隈を主に活動の場とし貧困に苦しみ若くして共に結核で死んでいった(一葉は24歳)啄木と一葉、なんという似た運命でしょう。 -
私から見ると啄木は故郷を思い親を思う心の強い一方、自我の赴くままの生活を送り、金田一京助、与謝野鉄幹、森鴎外などの先輩、宮崎郁雨、平野万里、北原白秋などの友人に迷惑をかけっぱなしで駆け足に世を去ったように思えます。しかしその中から生まれた珠玉の歌の数々。えてして名作と云われる小説や歌はそのような破滅的生活から生み出されてきました。
店の主人は昔も今も同じ新井姓です。結構はやった床屋だったらしく、大学の偉い先生たちが贔屓にしていて、永年本郷に住んでいた徳田秋声も常連でした。
当時の「喜之床」の建物は愛知県の「明治村」に移築されています。 -
春日通りと本妙寺坂の交差点。真東に押上のタワーが見えました。
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新井理容店からすこし南に入った所にある「弓町本郷教会」。
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明治19年、海老名弾正が創立したプロテスタントの教会。
明治の中頃東京を中心にキリスト教、とりわけプロテスタントが盛んで、こことか湯島の方にある本郷中央教会、番町教会などで布教が行われた。
植村正久、海老名弾正、押井方義、内村鑑三、新渡戸稲造などの牧師、キリスト者の説教には男女を問わず多くの学生、若者が集まった。若い文士にもキリスト教を信じる者も多かった。徳富蘆花、島崎藤村、国木田独歩、有島武郎、野上弥生子、志賀直哉、正宗白鳥など。ただ多くはキリストの教えと現世との矛盾から離れていきます。 -
今の建物は大正15年築。
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その先に大きな木が道路の上に被さっているのが見えます。
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文京区保護樹木の大クスノキです。
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江戸時代、南朝楠正行(くすのきまさつら)の子孫で旗本甲斐庄氏の邸跡。
木は樹齢600年以上でそれよりもずっと昔からあったのです。江戸時代も「本郷のクスノキ」と呼ばれ有名だったそうです。
クスノキと楠正行とは全くの偶然でしょう。 -
幹回り8.5mあるそうです。
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春日通りに戻り真砂坂上です。町名は無くなっても坂に名を残しています。
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真砂町といえば泉鏡花の「婦系図」の真砂町の先生(酒井先生)ですね。
漱石の「三四郎」のヒロイン美禰子の住まいもこの辺りでした。美禰子が初対面で三四郎に渡した名刺に住所本郷真砂町となっていました。 -
真砂通りに入りました。
この先を行くと炭団坂から菊坂にでます。 -
左手に文京ふるさと歴史館。
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寄って行きました。
大きくはありませんが内容の充実した一見の価値ある博物館でした。 -
館内。
写真を撮りたいというと、撮ってもよいが何に使うのかと係員に訊かれました。口頭ではなく書面に書かされました。そして許可を示す腕章をくれました。 -
千駄木で発掘された人骨です。
ここら辺り縄文時代人間が住んでいたのです。
東大構内からは土器、弥生式土器が発掘されています。 -
明暦の大火(振袖火事)/明暦3年、1657年1月の様子。
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明暦の大火。
江戸城天守閣をはじめ当時の江戸市街地の大半が焼けました。 -
町火消の消火の様子。
火消と言ってもこの時代、消防ポンプがあるわけでなく、火消の仕事は火の向かう先の建物を壊して延焼を防ぐことでした。 -
部分拡大。
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火消の纏(まとい)。
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纏は組ごとに違っていました。
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江戸時代文京の地は九つの町火消があったそうです。
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館内。
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展示の様子。
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本郷座新派演劇「伯爵夫人」のパンフレット。
明治39年/1906年。
出演:高田実、藤澤浅二郎。 -
在りし日の本郷座。今の本郷3丁目からすこし南にありました。
明治6年歌舞伎上演劇場として出来た奥田座が明治9年春木座、明治35年本郷座となる。
明治17年頃には9代目市川団十郎、5代目尾上菊五郎がここで演じ人気を博す。
明治30年代には川上音二郎一座、高田実一座がここを本拠地とし新派全盛時代を築く。川上音二郎・貞奴、高田実、河合武雄、喜多村緑郎らが活躍。
その後明治座、歌舞伎座などに客を奪われ昭和5年に映画館に変身。
昭和20年焼失。 -
明治40年には坪内逍遥が主催する文芸協会による逍遥訳の「ハムレット」が本郷座で公演され、日本初の「ハムレット」本格上演で好評だったそうです。
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団子坂の菊人形風景。
今の団子坂は立派ですが当時は道幅5mほどの急坂でした。 -
ただ菊人形を並べるのではなく、小屋掛けして客を呼び込んでいたのですね。
台の上で呼び込みが声をからしています。
「エー手前どもが有名な種半でございます、僅か小銭の五銭で見られます」、「手前どもは植惣で」。
また屋台の飲食店も沢山出たそうです。「エー召し上がってらっしゃい、お酒の燗もついております」。 -
夏目漱石の「三四郎」にその様子が描かれています。
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いつ頃の物か分かりませんが「かねやす」の暖簾。
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駒込のやっちゃば。駒込土物店(つちものだな)のジオラマ。
江戸時代1615年頃から昭和12年まで続いた青物市場です。神田、千住とともに江戸三大市場といわれました。 -
青物のセリの声からヤッチャとも、大根、ゴボウなど土の付いたままの野菜が持ち込まれたため土物とも。
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駒込のやっちゃば。
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江戸時代の初めから昭和12年まで続いたそうです。
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「一葉全集」。
明治30年1月、博文館発行。
樋口一葉死後50日で発行された。斎藤緑雨と大橋乙羽が編集。 -
萩の舎での樋口一葉の書と歌の師、中島歌子が使っていた算盤、硯、文鎮など。
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文京、特に本郷界隈は樋口一葉がその短い作家生活の大部分を過ごしたところです。
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桜木の宿跡、菊坂旧居跡、伊勢屋質店、丸山福山町旧居跡。いずれも後で行きます。
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樋口一葉「うらわか草」。
明治29年5月、文学界雑誌社発行。 -
樋口一葉「通俗書簡文」。明治29年5月、博文館より発刊。
この頃は病気と小説執筆という二重の苦しみの真っただ中です。そのうえによくこれを書いたものと驚きます。 -
日用百科全書シリーズの一つとして一葉が書いた手紙の文例集です。
こんなものを書くのは一葉の本意ではなかったが生活のためやむなく書いた。でも24歳で手紙のお手本を作れるとはすごいです。 -
生前発刊された唯一の本だそうです。
新年、春、夏、秋、冬、雑から成り、時候の挨拶、贈答、見舞い、冠婚葬祭、月見・花見の誘いなど217通の文例が示されています。
いまどきこのような優雅な手紙を書くセンスも暇を人は持ちませんが、明治大正にはまだまだいたのですね、ベストセラーになったのですから。 -
一葉は24年の生涯の内約10年間を文京の地で過ごして居ます。
その主要作品の大部分も文京、特に最後の丸山福山町で書かれました。 -
樋口一葉より半井桃水への手紙。
明治27年頃。この時は周りの中傷から一葉は桃水への出入りを止めていましたが、手紙のやり取りは続けています。 -
なんという達筆。
一葉は中島歌子の「萩之舎」で千蔭流の書を学びました。
加藤千蔭(橘千蔭):江戸時代中期の国学者、歌人、書家。 -
桃水の体調を気遣う一葉の思いがにじみ出ています。
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御大事の上にも御大事に遊し候やう神かけいのり居申候
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「たけくらべ」。
明治29年に発表されたが、これは大正7年、妹の邦子が編集したもので一葉自筆原稿をそのまま印刷してあります。題字も一葉です。
邦子は一葉死後斎藤緑雨に助けられ一葉の遺品管理に努めました。 -
文京は多くの文学者が集まった町でした。
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団子坂上の坪内逍遥住居跡に建った常磐会の建物。
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菊富士ホテル。
いずれもこれから訪ねます。 -
春のやおぼろ(坪内逍遥)「当世書生気質」。
明治18年。
春の舎朧、春廼屋朧、春のや主人など名乗った。 -
坪内逍遥「小説神髄」。
明治20年。 -
石川啄木新体詩集「あこがれ」。
明治38年。啄木19歳の処女詩集。
上田敏が序文を、与謝野鉄幹が跋文(あとがき)を書いています。 -
坪内逍遥から森鴎外への書簡。
明治24年。 -
末尾に
坪内生 鴎外先生侍史 とあります。このころ森鴎外との間に「没理想論争」を繰りひろげていました。 -
夏目漱石の森鴎外への葉書。
鴎外が詩集「沙羅の木」を漱石に送ったことへの礼状。
大正4年9月10日。
鴎外と漱石は直接逢ったことは数回しか無かったようです。両者の生きざまは異なりましたが互いに相手を認め合い著書の贈呈、賀状のやり取りていどはあったようです。 -
石川啄木の森鴎外への葉書。明治41年9月29日。蓋平館別荘時代です。
自作の歌を書いています。
父の如秋は厳めし 母の如秋はなつかし 家もたぬ子に
啄木は鴎外のもとをたびたび訪れ自作の出版の斡旋を依頼し、観潮楼歌会にも顔を出しています。 -
二葉亭四迷から森鴎外への葉書。
明治40年12月23日。
朝日新聞特派員としてロシアに渡り、肺結核に掛かり帰国途上ベンガル湾上で亡くなる前の年です。
明治後期の手紙も現代人には解読困難です。 -
二葉亭四迷「浮雲」挿絵。明治21(1888)年刊。
「お勢が開懸(あけかけ)た障子に掴(つか)まッて、出るでも無く出ないでもなく、唯此方(こっち)へ背を向けて立在(たたず)んだままで、坐舗(ざしき)の裏(うち)を窺(のぞ)き込んでいる。」
日本の言文一致小説の嚆矢とされているが、難しい漢字ですね。 -
文京ゆかりの文学者。
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館内2階。
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歴史館を出て先に進むと明治を思わせる建物がありました。
外から見た限り人の住んでいる気配はありません。 -
諸井邸というそうです。秩父セメント(現太平洋セメント)創業者一族に関係あるのか。
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明治牛乳、森永牛乳の牛乳箱が懐かしいです。
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ここ辺り一帯昔の真砂町です。
明治2年、「浜の真砂」のように限りなく町が繁栄するようにと名付けられました。 -
真砂中央図書館。
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真砂通り。
振り返って春日通り方面。 -
炭団坂に来ました。
左の建物の植え込みに看板が建っています。坪内逍遥旧居跡です。
東大を卒業した逍遥はここで東京専門学校(のちの早稲田大学)講師を務める傍ら英語塾を開いています。塾生は年かさの浪人から大学生、予備門の生徒などで、皆塾に寄宿していました。長谷川如是閑もそのうちの一人でした。 -
坪内逍遥は明治17~明治20年までここに住み、日本の近代小説の夜明けを告げる「小説神髄」、「当世書生気質」を書きました。二葉亭四迷はここに逍遥を訪れ、逍遥から言文一致の小説を書くように勧められあの「浮雲」が書かれました。
逍遥27歳の時根津遊郭の大店大八幡楼の遊女セン(源氏名花紫)を妻に迎えたのもここでした。
当時東大生は近くの根津遊郭でよく遊び、のち遊廓が洲崎に移転させられたのも、大学の近くに遊廓があるのは教育上好ましくないとのことだったそうです。
明治20年、坪内逍遥転居後に旧松山藩主久松家の育英事業として「常磐会」という寄宿舎が建てられ、舎監として内藤鳴雪、一高生正岡子規(明治21~明治24)、高浜虚子、河東碧梧桐など松山出身の書生たちが寄宿したこともあります。 -
明治24年の逍遥、セン夫妻。
逍遥32歳、セン26歳。夫人はなかなかの美人で賢婦人でした。
今と違い学士様が希少だった時代、東大卒の文学士で東京専門学校(のちの早稲田大学)教授と娼妓の結婚はセンセ-ショナルだったでしょう。
センは逍遥の晩年を看取り、二人仲良く熱海の寺の墓に眠っています。 -
崖の上に建っています。
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菊坂に向かって急こう配の炭団坂です。もちろん当時は階段ではなく、土の坂道で、雨が降ればドロドロで滑ろうものなら人は炭団のように転がり落ちたことです。
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坂名の由来。
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坂上から。
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坂の途中に古い門だけが残っています。
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坂下から。
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途中横に入る露地には軒下に所狭しと鉢植えが並んでいます。
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炭団坂を下りた所。
菊坂の下に並行する狭い道です。 -
「ひとは」、一葉の名にあやかった店のようです。近くに一葉旧居跡があります。
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菊坂辺りの風景を描いた絵葉書とか、一葉の5千円札の煎餅とか。
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菊坂とその南に並行する道をつなぐ階段。登った所が菊坂です。
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菊坂に登る石段の側にもプレートが建っています。
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宮沢賢治が大正10年ここに8か月ほど住んでいます。
この年1月に花巻から上京し、印刷所に勤めながら法華経の布教活動を行いました。9月に家庭の事情から郷里に帰り農学校の教諭になります。 -
菊坂。
本郷通りから菊坂下まで600mほどの緩やかな坂道です。昔一帯は菊畑で菊を栽培していた人が多かったそうでこの名が付きました。 -
中村屋という蕎麦屋の角、菊坂と交差する本妙寺坂の坂道を上りました。
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坂の途中右手にプレートが見えます。
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本妙寺跡。
明暦3年/1657年、本妙寺での葬儀に同じ振袖が掛けられた棺が三度も持ち込まれ、厄払いのため燃やしたところおりからの風で舞い上がり本堂に飛び火した。火は三日三晩燃え続け江戸の町の大部分が焼けました。明暦の大火、振袖火事といいます。その時江戸城天守閣も焼失し、今も江戸城に天守閣が無いのはそのためです。
本妙寺は遠山金四郎や千葉周作の菩提寺ですが、明治時代に巣鴨に移転しました。 -
明治3年東京で最初に出来た小学校の一つだそうです。
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菊坂方面。かなりの坂です。
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坂の途中から左に折れてさらに左に曲がるとオルガノという会社の敷地の端に本郷菊富士ホテル跡の碑が建っています。本妙寺坂にはなんの標識も無いので分かりにくかったです。
ここに大正3年、岐阜大垣出の羽根田幸之助により菊富士ホテルというのが建てられました。崖の上だったため正面3階、裏からは5階建てで屋上にはイルミネーションがあるという当時モダーンなホテルでした。当初外人目当てでしたがのち多くの文士が住みつくようになり、「風変わりな高等下宿」(宇野浩二の言葉)の観を呈します。当時東京にホテルと名の付くものは数軒しかなかったそうです。 -
大杉栄・伊藤野枝、宇野浩二、尾崎士郎・宇野千代、竹久夢二・お葉、谷崎潤一郎、直木三十五、中条百合子、三木清、広津和郎、正宗白鳥、坂口安吾、セルゲイ・エリセーエフ、月形龍之介。文士、思想家、哲学者、画家、音楽家、歌舞伎・映画俳優などもの凄い顔ぶれです。
経営者夫婦が太っ腹で、宿賃の催促もおおらかで、止宿人のしたいようにさせていたようで、こんなにも貧乏文士たちが集まったのでしょう。「ずぼらで、混沌」、「自由で放縦」が当時の止宿人の感想です。竹久夢二は宿代の代わりに自分の絵を置いていったそうです。居心地が良いので10年間も住んだものもいたようです。このホテルの事は近藤富枝著「本郷菊富士ホテル」に詳しく書いてあります。近藤の叔母が菊富士ホテルの息子に嫁いでいたからだそうです。
昭和20年空襲により炎上。 -
近藤富枝氏著書の表紙。
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この辺りには石川啄木や金田一京助の下宿した赤心館もありましたが跡は分りませんでした。
明治41年4月、啄木22歳の時東京で本格的に文士生活をするため函館に家族を残し単身上京、しばらく与謝野鉄幹宅に止宿したのち5月に郷里の先輩金田一京助のいる赤心館に移った。啄木は必死に幾つかの小説を書き金田一京助、森鴎外らにも助けられて出版社に売り込んだがどこも採りあげてくれなかった。啄木には原稿用紙もインキも買えない状況だった。日記に自殺を考えたと書いている。 -
中学校の教師をしていた金田一京助は安月給で、啄木の下宿料までは払えなかった。ある時うるさく下宿料を催促する亭主に腹を立て、金田一京助は自分の蔵書を古本屋に全部売り払い啄木の下宿料も払い啄木と共に赤心館を飛び出し近くの新坂の蓋平館に移った。明治41年9月のことで、啄木は赤心館には4か月しかいなかった。
啄木は京助の蔵書が無くなっているのに驚くと京助は、なに自分は柄にもなく文学をやるつもりで本もいくらか集めたがこれでアイヌ語の研究に専念出来るからいいんだ、と言った。啄木は感謝の気持ちをこう言い表した。「僕は死んだらあなたを守りますよ」。
たはむれに 母を背負いてそのあまり 軽きに泣きて 三歩あゆまず
啄木赤心館時代の歌です。 -
左金田一京助、右石川啄木。
啄木は金田一の盛岡中学の後輩で、度々金田一に金を借りた。しかるに啄木は妻子があるのに金田一は独身だったので偉そうにしていた。さすがに妻子あるものが独身者に金を借りるのは体裁が悪いので啄木はしきりに金田一に結婚せよと迫る。金田一は、いい人がいれば結婚してもよい、と言うと啄木はあちこち駆け回り、一人の女性を引き合わせた。金田一とその女性はとうとう結婚する。
すなはち啄木は実質的に金田一の仲人だったのです。
啄木の歌があります。
語る毎 さびしくなりし 独身の友も 娶(めと)りぬ 少し安んず
あの人も 子をこしらえたと 何か気の済む心地にて寝る
ようやく金田一も結婚して子供が出来て、啄木は一安心です。 -
長泉寺に裏手から入りました。
六地蔵。 -
文京区役所が望めます。
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長泉寺山門。
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正面は菊坂側になります。
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樋口一葉の住居跡を探すべく再び菊坂に並行する下の道に来ました。
樋口一葉:明治5年~明治29年。 -
今の番地で本郷4-31-9だとは調べたのですがなかなか分かりません。
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菊坂から細い路地を入ったこの辺りだと思います。
下級役人だった父の存命中は中流の生活だったが、明治22年借金を残した父の死後は一変。長兄は夭逝し次兄虎之助は母との折り合いが悪く別に一家をなしており、戸主になった一葉は母と妹のとの生活を担うことになった。一葉わずか18歳の時でした。
明治23年、この菊坂に移り針仕事や洗い張りをしながら一葉は中島歌子に歌と書を習い、小説家をめざし半井桃水の門をたたいたのです。小説家樋口一葉の修業時代です。 -
そのうち生活は行き詰まり、明治26年7月一大決心をした一葉一家は下谷竜泉寺町に移り小間物屋を開くことになる。菊坂での生活は2年10か月でした。
一葉の生活は幼時から流転の連続でした。麹町山下町に生まれ、下谷練塀町、麻布、本郷(桜木の宿)、下谷御徒町、上野黒門町、芝高輪、神田神保町、淡路町(ここで父を失う、一葉17歳)、ここ本郷菊坂。さらには下谷龍泉寺町、最後の終焉の地丸山福山町。 -
古い掘り抜き井戸があります。一葉も使っていた当時の物でしょうか。
ここは人家の軒先です。じっくり感慨に浸っていたいのですがあまりうろうろしていると怪しまれます。後ろ髪をひかれる思いであとにしました。
考えてみると、明治23年頃の一時期、崖上の真砂町に正岡子規、崖下の菊坂に樋口一葉が住んでいたのです。 -
路地の奥に石段があり通り抜けられそうです。
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石段の上から。
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石段の上は鐙坂に通じる路地に出ました。
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鐙坂(あぶみさか)。
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鐙坂。
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坂の途中、左の石垣の所が金田一京助住居跡です。
右手一帯は昔右京が原といって、富田常雄の小説「姿三四郎」で三四郎が桧垣源之助と決闘をした舞台です。 -
金田一京助、春彦親子。
金田一京助:明治15~昭和46年。盛岡出身。
言語・民俗学者。アイヌ語研究の創始者。帝大教授、文学博士。
頼ってくる同郷の年下の石川啄木を弟のように可愛がり、自分も貧しい生活の中啄木の面倒を見、その死まで見放さなかった。
春彦は長男で同じく言語学者。 -
坂の上から。
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昔学生相手の下宿屋といった感じ。
今はいざ知らず、明治大正時代、年頃の娘を持っている下宿屋は大抵「2階貸間あり、大学生に限る」と張り紙をしていたそうです。うまく行けば学士様の婿が貰える。実際その頃の小説には学生が下宿していて、そこには母親(たいがい未亡人)と娘がいる設定がよくあります。 -
菊坂に並行する道に戻りました。
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今でもこういった昔懐かしい家が所々に残っています。
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菊坂もだいぶ下ってきました。
樋口一葉ゆかりの旧伊勢屋質店です。建物、土蔵とも明治時代のもので登録有形文化財に指定されています。 -
明治2年創業、昭和57年廃業。
現在は跡見学園女子大の所有で、菊坂跡見塾となっています。 -
一葉は本郷から下谷龍泉寺町、丸山福山町に移った後もこの質屋に通っています。
龍泉寺町で小間物屋を開く前日の日記にこう書いています。
「夕方、着物3,4枚持って本郷の伊勢屋に行く。4円50銭借りてくる。菊池氏の店で紙類を少し仕入れる。・・・」。
一葉が母と妹を抱えこんなに惨めな生活を送りながら健気に日記に書き文学の道を志していったことに涙が出ます。 -
一葉の葬儀の日、伊勢屋の主人が「樋口さんがこんなに高名な方とは存じませんでした」と言って香典に1円おいていったそうです。
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通りにある火伏稲荷。
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伊勢屋(右手)のすぐ先は菊坂下です。
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菊坂下の手前、右に登る胸突坂。
後で登ります。 -
角のこの食堂で昼にスパゲッティを食べました。ビールを飲むとだるくなるので水で我慢しました。880円。
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菊坂の終わり菊坂下です。左に曲がると白山通り、右に行くと本郷通りの東大農学部辺りに出ます。
この辺りに谷崎潤一郎が住んでいたことがあったそうです。 -
右にずっと行くと東大農学部前、追分に至ります。
ここまでをその1とします。
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この旅行記へのコメント (5)
-
- アルデバランさん 2019/01/20 12:53:47
- 驚きです…
- ベーム様 こんにちわ
お名前から察するにドイツ専門かと思いきや
東京文学・歴史散歩の力作、驚きです
旧聞ですが、タイトルに惹かれて、まず目にいったのがこの本郷界隈のレポートです。
昨年の秋に上京の用事があり、ついでに妻と昔の本郷真砂町を少し歩いてみました。
と、申しますのも私の祖父は明治二十年生まれなのですが、写真にある諸井邸の場所で生まれ育ちました。
もちろん建物はその当時の物ではないにしろ…
その当時の写真や真砂町17番地宛の封書がたくさん残ってます。
それにもまして今回訪れたのは、妻の母も真砂町で生まれ、戸籍を見ると、なんと真砂町15番地となっていたからです
あまりの奇遇に15番地がどの辺りか、レポートにもある真砂中央図書館で色々調査しました。
お互いに静岡と神奈川で生まれたのに、こんな所で縁があるなんて…
ベームさんの写真のとおり
旧真砂町17番地(諸井邸)がビルに囲まれ、昔ながらのたたずまいを残しているのに驚いたのと同時に
妻の祖父母が筋向い辺りに居た事が判明し本当に驚きでした。
他のレポートやヨーロッパの旅行記にも追々訪れさせていただきたいと存じます…
よろしくお願いします
アルデバラン
- ベームさん からの返信 2019/01/20 21:32:10
- Re: 驚きです…
- アルデバランさん、
メッセージ有難うございます。
そうですか、御祖父と奥様のお母さまが真砂町にお生まれ、お住まいだったのですか。よいところにお住まいでしたね。あの界隈は明治から昭和にかけて文士、学者が多く住み、小説にもたびたび登場する地ですから、そこに縁故があるなんて羨ましいです。諸井邸は当時の面影を残しているのでしょうね、いまどういう方がお住まいなのか、あるいは誰も住んでいないのか。
アルデバランさんの2015年のヴュルツブルク訪問記、興味あります。私も2015年5月ですがロマンチック街道を旅したときスタートしたのがヴュルツブルクでした。しかも羽田発の深夜便、フランクフルトからヴュルツブルクへのICE,すべて同じです。あのときは飛行機でろくに寝なかった体で早朝から歩きまわり脚を痛めてしまいましたが。
あとの旅行記楽しみにしています。
ベーム
- ベームさん からの返信 2019/01/20 21:38:07
- Re: 驚きです…
- 追伸。
ヴュルツブルクのホテル、レギーナまで同じです、
ベーム
-
- ateruiさん 2016/11/20 20:14:01
- いやいあや吃驚
- 金田一と石川の関係は知らなかった
いやいらいけれ aterui
- ベームさん からの返信 2016/11/23 19:06:46
- RE: いやいあや吃驚
- 同郷の先輩は良いものですね。
金田一京助がいなかったら啄木はどうなっていたことやら。
ベーム
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