2016/11/12 - 2016/11/12
62位(同エリア623件中)
ベームさん
その1の続きです。
樋口一葉終焉の地から本郷に戻り東大構内を通り抜け無縁坂から湯島天神まで。
写真は東大赤門。
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今日歩いた全体。
地図真ん中下の本郷3丁目からほぼ時計回りにまわり最後にまた本郷3丁目に戻りました。 -
本郷。
地図中央右下から左上に斜めに通るのが菊坂。右に南北に通るのが本郷通り、左に南北に通るのが白山通り。下に東西に通るのが春日通り。 -
東大、湯島。
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菊坂下を左に行くと白山通りに出ます。文京区役所、シビックセンターが見えます。
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大きな白山通り。北に歩くこと数分。
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コナカの所に目指すものがあります。もっとも洋服を買いに来たのではありません。
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木に隠れるように碑が建っています。
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ここが樋口一葉終焉の地です。当時丸山福山町、いま西片町1-17-8。
明治27年5月、10か月ほど続いた下谷竜泉町での小間物屋もうまく行かず、生計に行きつまった一葉は生活を立て直しさらに本腰を入れて文筆活動に集中するためここ、西片町の崖下、当時の本郷丸山福山町に移ってきました。銘酒屋とかいかがわしい店の並ぶ新開地でした。ここの酌婦の話を聞いたり相談に乗ったりしたのが小説の題材にもなりました。恋文の代筆もしたそうです。一葉の流麗な字のラブレターをもらった男はさぞ驚いたことでしょう。 -
一葉の創作活動が開花し、その代表作が生まれたのはこの丸山福山町時代でした。
「たけくらべ」、「大つごもり」、「にごりえ」、「十三夜」など。
一葉の文名はようやく揚り、馬場胡蝶、戸川秋骨、平田禿木、島崎藤村など文学界同人たち、硯友社を離れた川上眉山、斉藤緑雨らが一葉の家に集まり文学論を戦わすようになりました。
しかし天は一葉に与えるに時をもってしなかった。ようやく多く執筆依頼が来るようになったのもつかのま、それまでの無理がたたって明治29年11月23日、わずか24歳で一葉は亡くなりました。結核でした。母と妹を抱え貧窮の内にも初志を貫いた壮絶な生涯でした。
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一葉の死後その作品を管理し、残された母と妹を支えたのは斎藤緑雨でした。
死後50日で博文館から一葉全集が刊行されたのも緑雨の努力でした。
一葉全集の序文は緑雨が書いています。
「一葉女史、樋口夏子君は東京の人なり。・・・。歌を善くし、文を善くし、兼ねて書を善くす。其初めて筆を小説に下したるは、明治二十四年一月なり。ここに小品とともに集むるもの三一編、・・・。明治二九年十一月二三日、病を得て没す、歳二十五。」
一葉の本質を簡明に叙した名文です。一葉を東京の人なり、と書いていますが、両親は甲州の人です。生まれたのは今の内幸町、日比谷シティの辺りの武家屋敷でした。
のちにこの家には東大生森田草平が一時住んだことがあるそうです。 -
「一葉 樋口夏子碑」字は平塚らいてう(雷鳥)。
碑文は一葉日記の一節。一葉の自筆の筆跡を拡大して彫っています。
昭和27年岡田八千代、平塚らいてう、幸田文らの世話で建立されました。石は根府川石。 -
明治27年4月28日、5月1日の一葉の日記。
手跡は一葉のもの。読めませんが内容は次の写真です。
一葉は「萩の舎」で千蔭流の歌、書を学びました。この日記の字が千蔭流かどうかは分かりませんが、自筆の短冊をみると驚くほど流暢な書体が書かれています。 -
竜泉町から丸山福山町へ転居時の日記です。
かじ町の知人に引っ越し費用の借金を頼んだがようやく15円だけ貸してくれ転居が決まった。五月一日小雨の中転宅。
鰻屋の離れで家賃月3円とあります。文末にある伊三郎は一葉の従兄弟です。 -
本郷菊坂まで戻り胸突坂を上ります。
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途中から菊坂方面を振り返る。胸を突くほどでもありませんがかなりの急坂。
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坂の途中ふと左に目をやると「みすず書房 営業部」のプレート。
学生時代ここの出版物はよく読みました。 -
坂の上に鳳明館の看板があります。
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鳳明館本館。
明治時代の学生相手の下宿屋を昭和になり旅館にしたもので当時の名残を留めています。
重要有形文化財で外国人観光客に人気だそうです。 -
隣りの鳳明館別館。
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別館。
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別館。
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次に探したのは明治41年9月赤心館を飛び出した(追い出された)石川啄木と金田一京助が移った新坂の蓋平館別荘という下宿屋、その後太栄館と名を変えた旅館です。
啄木は明治42年6月、本郷弓町の喜之床に家族を呼び寄せて移るまでの約9か月をここで過ごしました。この時期啄木は与謝野鉄幹の主催する「明星」の後継誌「スバル」の編集に携わり活発に活動しました。蓋平館には同人の吉井勇、平野万里、北原白秋、太田正雄(木下杢太郎)らが度々出入りしたそうです。 -
どうもここらしい。廃業してしまったのか。
「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹と戯る」の歌碑があったそうです。
活動はしたものの啄木の書いたものは売れず困窮は続き、与謝野鉄幹が時々3円、5円と呉れる金と雑誌の歌の添削料で糊口を凌いでいた。啄木は女にだらしがなく、北海道時代函館、小樽、札幌、釧路と行く先々で女性と関係を持ち、上京してからも変わらなかった。ちょっと懐に金が入ると浅草十二階下などの淫売窟に出かけた。
ようやく毎日新聞に小説の連載が決まると気が大きくなり、原稿料が入る前から友人たちの間を借金して回り、その金で女を買った。 -
太栄館の写真です。ウイキから借用しました。右下に啄木の歌の碑と説明版があります。
啄木に酷なようですが、金田一京助の息子金田一春彦が後年述べています。
”母は啄木を嫌っていた。父が啄木の面倒を見ていたという美談の裏には母の苦労と辛い気持ちが隠されていた。啄木は原稿料が入ると父からの借金を返さずに吉原へ遊びに行き、一晩で金を使い果たし、あくる日にまた借金をしに来た。父は母の嫁入り支度の着物を質に入れさせてまでして啄木に貸していた。だから私は啄木の「はたらけどはたらけど猶わが暮らし楽にならざり・・・」を信じることは出来ない。啄木は天才を自負していて、他人に迷惑をかけてもいいと思っていたのだろう。”
かなり手厳しいです。もっとも春彦は啄木の死後の生まれなので、これらのことは母から聞いたものでしょう。 -
工事現場の向かいに太栄館ビルというのがありました。
同じような土地で、同じように貧困に苦しみ、同じように若くして結核で亡くなった樋口一葉とは似ているようでその生き様はえらい違いです。一葉は筆一本で必死に母と妹を養いましたが、啄木は家族を函館の友人に預けたまま上京し自我の赴くままの生活をしていたのです。
明治45年4月啄木は結核で27歳の生涯を閉じます。約4年間の苦闘の東京生活でした。残された老父、病身で身重の妻、子供は哀れです。妻節子は啄木の死後女児を出産し、翌年亡くなります。やはり結核でした。 -
明治37年、婚約時代の啄木(18歳)と堀合節子。
よく知られている代表的な歌を幾つか。
ふるさとの 山に向かいて言ふことなし ふるさとの山は ありがたきかな
やわらかに 柳あおめる北上の 岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに
かにかくに 渋民村は恋しかり おもいでの山 おもいでの川
ふるさとの 訛りなつかし停車場の 人ごみの中に そを聴きにゆく
友がみな われよりえらく見ゆる日よ 花を買い来て 妻としたしむ
いのちなき 砂のかなしさよさらさらと 握れば指のあひだより落つ
啄木の歌は難しい表現や言葉が無く、読む人の心に素直に飛び込んできます。 -
新坂をさらに進みました。
ここら辺は昔森川町といいました。 -
新坂が6辻にも分かれる所を北に歩くと求道会館があります。
キリスト教のバジリカ風ですが仏教寺院です。
大正4年、日本にアールヌーボーを紹介した建築家武田五一の作。平成14年に元のとおりに修復されました。東京有形文化財。 -
求道(きゅうどう)会。
明治の宗教家真宗大谷派の近角常観(ちかずみじょうかん)が始めた宗教団体。欧州留学を体験した斬新な宗教観で当時の若者に大きな影響を与えた。若者たちと寝食を共にして学ぶ場としてこの地に求道学舎を創りました。
経済学者河上肇、歌人伊藤左千夫、三井甲之なども近角の宗教観に影響を受けています。 -
その先に鳳明館森川別館があります。
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鳳明館を右に曲がると本郷通りです。南に行くと本郷3丁目。
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本郷通りの西側(東大の向かい側)には土地柄書店、出版社、学生向けの食堂が並んでいます。
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本郷通りを南に行くと東大正門があります。
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東京大学正門
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赤門ほど有名ではありませんが風格のある門です。
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正門の向かいにある東京大学戦没同窓生之碑。。
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学生相手の食堂。
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正門の斜め向かい、本郷郵便局の先の路地を入っていくと、
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徳田秋声の旧居があります。明治39年から昭和18年に亡くなるまで住んでいた家です。
徳田秋声:明治4年~昭和18年。金沢出身。
明治25年、文士をめざし第4高等学校を退校し上京。同郷の泉鏡花の勧めで尾崎紅葉の門下に入る。のち泉鏡花、小栗風葉、柳川春葉とともに紅葉門の四天王と呼ばれた。夏目漱石の推挽により東京朝日新聞に連載した「黴」の成功で文壇に位置を確立。
代表作:黴、あらくれ、仮装人物、縮図ほか。 -
紅葉門下では小説家として芽が出るのは遅かった。同時代の作家、国木田独歩、島崎藤村、田山花袋、泉鏡花らが華やかに先を走る中、地味に黙々とたゆまぬ執筆活動を続け、ついに自然主義文学の大家となり明治、大正、昭和にわたりその文名を保持しました。
すぐれた作品を残しながら「売れない作家」で、秋声の文学は「読者の方で相当の人生経験がなければ十分にわからない」と言われもします。 -
地味でまじめそうに見える秋声ですが、50代も半ばに女性関係で醜聞を引き起こします。夫人が亡くなった後作品をもって出入りしていた山田順子という30歳も年下の女に熱を上げたのです。順子は竹久夢二とも同棲したことのある男遍歴の多い女で、美人でした。秋声は「順子もの」といわれる短編シリーズを書き、順子との情痴生活を赤裸々に描いてスキャンダルとなる。本気に結婚も考えたがその間にも順子は他の男と関係をもちついに秋声は順子との関係を絶つ。
順子も後に秋声との性交渉などを描いた書を出しています。 -
この家は秋声の住んでいた時から全く手を付けてなく、生い茂る竹は室生犀星から贈られた秋声遺愛の物だそうです。この辺りには二葉亭四迷、生田長江が棲み、宇野浩二が亡くなった家もあったそうです。
秋声の代表作はほとんどここで書かれています。 -
本郷通りに戻りました。
看板に:東大生と共に明治から。 -
郁文堂がありました。ドイツ語学習ではよくお世話になる出版社です。
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喜福寺。
あとでここに久保田万太郎、佐藤紅緑(サトウハチロー、佐藤愛子の父)の墓があるのを知りました。 -
本堂。
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東大赤門前に来ました。
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東大赤門です。赤門をバックに写真を撮るお年寄りがいます。上京ついでに孫が学ぶ東大を見に来たのかも知れません。
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赤門の向かいに法真寺(ほっしんじ)入口があります。
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樋口一葉が幼少時代を過ごした住まいが法真寺の隣にありました。
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なんと大工事中です。一葉ゆかりのものは何もありません。お寺の人に訊くと前は一葉関係の物も有ったそうですが、取り壊してしまったそうです。
いま墓地の造成工事をやっていました。お寺も商売第一です。 -
一葉は明治9年から14年まで、4歳から9歳までこの寺の隣に住んでいました。
まだ父も存命で家は落ちぶれていなく一葉は幸せな少女時代を送っていました。大きな桜の木があったので後に「桜木の宿」とその家を呼び懐かしんでいます。母親が女に学問はいらないという考えで、一葉(夏子)は学歴はありませんが本をよく読み和歌の巧みな少女だったようです。学はなくても努力であれだけの文章と文字を書いたのです。 -
法真寺。
警視庁に勤めていた父がまだ羽振りの良い時代に求めた家で、土地が230坪ほどもあったそうです。家族一緒にくらし、家庭的、経済的に生涯でもっとも楽しかった時期でした。 -
法真寺山門。
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濡れ仏。
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濡れ仏といわれ一葉の家から見えていた腰衣観世音菩薩坐像です。
一葉23歳の作「ゆく雲」に記しています。
「此方の二階より見下ろすに 雲は棚曳く天上界に似て、腰ごろもの観音さま濡れ仏にておはします御肩のあたり 膝のあたり、はらはらと花散りこぼれて・・・」
いまは天蓋の下で濡れ仏ではありません。 -
一つだけ、少女時代の一葉でしょうか。
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一葉像。
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少々がっかりさせられた法真寺でした。
毎年一葉の命日、11月23日にこの寺で一葉忌が営まれるそうですが、この様子ではどうかな。 -
路地で見かけた看板。
出張家政婦なんて呼称今でもあるのでしょうか。私の子供時代、冬になると喘息に臥せっていた母の代わりに家政婦さんが家に来ていたのを思い出します。 -
赤門。
1827年、11代将軍徳川家斉の娘、溶姫(やすひめ)が前田斎泰(なりやす)に嫁ぐ時に建造された前田家上屋敷の通用門です。
正式名称は御守殿門といい、諸大名が将軍家から妻を迎える時必ず建てることになっていた朱塗りの門のこと。いったん焼失すると再建は許されなかったので、加賀藩は自前の消防組織”加賀鳶”をつくり警備した。付近で火事が起こった時加賀鳶も出動したので町火消との間で縄張り争いが起こった。
「火事と喧嘩は江戸の華」と言われました。 -
国重要文化財です。
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構内に入りました。赤門の内側。
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構内図。上を北に合わせるため縦にします。
赤い所が赤門を入った所。真ん中に三四郎池、その上に安田講堂、右端の外に不忍池があります。 -
江戸切絵図。
真ん中、加賀宰相殿と水戸殿辺りがだいたい今の東大キャンパスで、水戸殿はもと第一高等学校、今東大農学部です。
右端に不忍池、下/南を流れるのは神田川。真ん中少し下菊坂の弧を描いた道も今と同じです。左下の水戸殿が今の小石川後楽園。 -
赤門を入った突き当り。医学部2号館。
明治の初め、国が加賀藩邸跡を買い取ったあとは、お雇い外国人たちの居住地として使われていたようです。
東洋美術史家のフェノロサ、理科学者ワグネル、考古学者モース(大森貝塚の発見者)、医学者のベルツなど。 -
三四郎池の方に降りていきました。
ちなみにお雇い外国人の俸給はべらぼうに高かった。そうでないとはるばる東洋の端の国まで来てくれなかったのでしょう。多い時は東大の年間予算の3分の1にもなったという。国もそれでは堪らない。それで政府は大学出の秀才を積極的に外国に留学させ、その帰朝者でもってお雇い外国人に替えていきました。 -
これが東京のど真ん中にある大学の構内かと思われるほど木々が鬱蒼として幽邃な趣です。
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齢を経た古木、大名屋敷の庭園の池だったことが窺えます。この池は東大が出来るよりずっと前からあったのです。
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明治40年、東大講師、一高教授を辞めて東京朝日新聞社に入社した夏目漱石の第3作目が「三四郎」で、この池を一躍有名にしました。勿論この時は池の名は「三四郎池」ではありません。
「三四郎」の一節です、抄出します。
不図眼を上げると、左手の岡の上に女が二人立っている。女のすぐ下が池で、池の向う側が高い崖の木立で、その後ろが派手な赤煉瓦のゴシック風の建築である。・・・。女はこの夕日に向いて立っていた。
三四郎が初めて美禰子を見た場面です。2人の女は里見美禰子と看護婦です。その後三四郎は美禰子に恋をし、美禰子の無意識に男心をくすぐるコケティッシュな魅力に翻弄され失恋します。 -
更に「三四郎」の一節。
「これは何でしょう」と云って、女はうつむいた。・・・。「これは椎」と看護婦が云った。・・・。「そう、実はなっていないの」と云いながら、うつむいた顔を元へもどす、その拍子に三四郎を一目見た。三四郎はたしかに女の黒眼の動く刹那を意識した。 -
二人の女は三四郎の前を通り過ぎる。若い方が今まで嗅いでいた白い花を三四郎の前へ落して行った。三四郎は二人の後姿をじっと見詰めていた。看護婦は先へ行く。若い方が後から行く。華やかな色の中に、白い薄を染め抜いた帯が見える。頭にも真白な薔薇を一つ挿している。その薔薇が椎の木陰の下の、黒い髪の中で際立って光っていた。
三四郎が座っていたのは多分この辺りだったでしょう。人の目の前を通り過ぎる余地のある所はここしかありません。御誂えにベンチも有りました。 -
漱石は小説では池のことを書いていますが、私の読んだかぎりでは随筆、日記などに池のことは触れていません。
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池に水が流れ落ちていました。
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三四郎池。
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三四郎池。正式には育徳園心字池。
三代将軍徳川家光を前田家に招待するときに造園された育徳園の池でした。 -
東大のシンボル安田講堂。安田財閥の創始者安田善次郎の寄付で造られ、大正14年竣工。国の登録有形文化財。
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昭和43年の東大安田講堂事件で一躍有名になる。
この頃反ベトナム戦争、反安保、反授業料値上げを唱え全国の大学で学生の抗議活動が頻発した。その象徴が学生の団体である全国共闘会議のメンバーによる安田講堂占拠事件でした。
事件は大河内東大総長、全学部長の辞任にまで及び、最終的には警視庁機動隊の出動で学生たちの占拠は解除された。昭和44年度の東大入試は政府の命により中止された。 -
当時の写真。
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私の学生時代はちょうど安保闘争の盛りで、私も分からないままにインターナショナルを歌いながらデモに参加していました。今の学生はおとなしいというか覇気がありませんね。もっとも今の時代学生の若い情熱を燃え立たせるような出来事もありません。
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昭和44年1月18日の新聞。
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講堂の横にある濱尾新(はまおあらた)像。1849~1925年。
元東大総長、内大臣、文部大臣、枢密顧問官、枢密院議長、元老院議員と賑々しい肩書。
2度にわたり東大総長を務めていて、それぞれ夏目漱石の東大生時代、東大講師時代に重なっている。お上の権威が嫌いな漱石は濱尾の大学運営を”当今の東大総長の頭はこんな程度のものか”とこき降ろしています。 -
左:エルウィン・フォン・ベルツ。
明治9~明治35年まで東大医学部教授。「ベルツ日記」を表す。
右:ユリウス・カール・スクリバ。
明治14~明治34年まで東大医学部教授。
共にドイツ人。文明開化期、医学に限らずすべての分野で外国人のお雇い教師は日本の文明の発展に大きく寄与しました。 -
三四郎は大学の運動会を見ています。
三四郎の運動会の感想:
”たちまち五、六人の男が目の前に飛んで出た。二百メートルの競走が済んだのである。・・・。みんな息を弾ませている様に見える。・・・。どうして、ああ無分別に駆ける気になれたものだろうと思った。
砲丸投げほど腕の力の要るものはなかろう。力の要る割にこれ程面白くないものも沢山ない。ただ文字通り砲丸を投げるのである。芸でもなんでもない。”
三四郎は運動会よりも見物に来ている美禰子とよし子の動静に気を取られていました。
しかし漱石は学生時代なかなかの運動家で、体操、水泳、ボートを能くしました。鏡子夫人によると漱石の上半身は筋肉がつきがっしりしていたそうです。 -
東大病院。
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医学部付属病院。
こういう所で治療を受けることが出来る人は幸せです。 -
東大病院の南側にある鉄門から出ました。
変哲もない門ですが謂れはあります。 -
東大医学部の発端は江戸時代の神田お玉が池にあった種痘所で、その後医学所、大学東校、東京医学校などと名前を変え明治10年東京大学医学部としてこの地に移ってきた。
種痘所の門は厚い鉄板で黒く塗られており、鉄門と呼ばれた。それで医学部の門は引き続き鉄門と呼ばれるそうです。
大正期に撤去されたが、2006年、医学部創立150年を記念して再建された。 -
鉄門前の薬局。
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なかなか由緒のある薬局のようです。
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鉄門から東に不忍池まで下る坂道が森鴎外の小説「雁」で有名になった無縁坂です。明治44年から「スバル」に連載され大正4年完結しました。
主人公の医学生岡田の散歩道でした。
「雁」の一節から抄出:
岡田の日々の散歩は大抵道筋が決まっていた。寂しい無縁坂を降りて、藍染川のお歯黒のような水の流れ込む不忍の池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。・・・・。湯島天神の社内に這入って、陰気な臭橘寺(からたちでら)の角を曲がって帰る。
鴎外自身明治14年東大医学部を卒業する時鉄門前の上条という下宿屋に居たことがありました。鴎外の散歩道でもあったでしょう。「雁」の語り手の”僕”は鴎外自身でしょう。 -
「雁」から:
その頃から無縁坂の南側は岩崎の邸であったが、まだ今のような巍巍たる土塀で囲ってはなかった。きたない石垣が築いてあって、苔蒸した石と石との間から、羊歯や杉菜が覗いていた。 -
この場所は江戸時代越後高田の榊原家の屋敷でした。後に西南戦争で西郷隆盛とともに戦死した桐野利秋が一時住んだのち三菱財閥創始者岩崎弥太郎が取得し、久弥によりジョサイア・コンドル設計になる邸宅が建てられた。戦後一時最高裁判所
司法研修所となったが今は旧岩崎邸庭園として開放されています。 -
この坂の途中にあるしもた屋に「雁」のヒロインお玉が高利貸の末造の妾として囲われていました。
「雁」から:
岡田は・・・例の散歩に出て、ぶらぶら無縁坂を降りかかると、偶然一人の湯帰りの女が・・・寂しい家に這入るのを見た。戸を開けようとしていた女が、岡田の下駄の音を聞いて、ふいと格子に掛けた手をとどめて、振り返って岡田と顔を見合わせたのである。
その後通るたびに顔を見合わせて、・・・、岡田はある夕方例の窓の前を通る時、無意識に帽子を脱いで礼をした。その時ほの白い女の顔がさっと赤く染まって、寂しい微笑の顔が華やかな笑顔になった。それからは岡田は極まって窓の女に礼をして通る。 -
坂の北側に講安寺。
本堂は1708年築の土蔵造りで文京区の文化財だそうです。先を急ぐのでパス。 -
講安寺。
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講安寺は以前無縁山法界寺と云ったのでその前の坂を無縁坂といいました。
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「雁」から:
今日は旦那は来ない日だ。お玉は決心した。今日こそ岡田さんに声を掛けよう。小女(こおんな)を今日は用が無いからと実家に帰らせ、髪結いに行き化粧した。
岡田は例の散歩に出たが一人ではなかった。友人を連れていた。お玉は家の前に立っていた。お玉はやつれていても美しい女であった。お玉の目はうっとりとしたように、岡田の顔に注がれていた。岡田は慌てたように帽子を取って礼をした。 -
岡田たちは雁鍋にしようと不忍池に雁を一羽獲りに行ったのでした。帰り道、岡田たちは無縁坂を上った。お玉が出迎えていた。岡田一人ではない。岡田は帽子の庇に手をかけて通り過ぎた。女の顔は石のように凝っていた。そして美しく見張った目の底には、無限の残り惜しさが含まれている様であった。
翌日岡田は留学のためドイツへ発った。 -
お玉が囲われていたしもた屋は岩崎邸の向かい、この辺りだったでしょう。お玉の風情に思いをはせる情緒を望むべくもありません。
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旧岩崎邸の向かい側はマンションが立ち並んでいます。
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無縁坂、旧岩崎邸の塀。
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坂下から無縁坂を見上げる。
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今は開放されています。
岩崎とか三菱には関係ないことですが、この屋敷には敗戦後の連合国の占領下の日本の暗い歴史が秘められています。
というのはアメリカの占領下ここにGHQの秘密諜報機関、通称キャノン機関、Z機関が置かれていたのです。この機関は主にソ連スパイの摘発、日本共産党の弱体化を任務としていました。それだけではなく、1949年(昭和24年)に起きた旧国鉄を舞台にした下山事件、三鷹事件、松川事件の黒幕がキャノン機関ではないかと云われます。当時強かった国鉄労組、日本共産党を壊滅させようとした陰謀説です。 -
今は一般に開放されて人気スポットとなっていますが、過去の忌まわしい歴史にも思いをはせて見物したいものです。
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岩崎は一杯持っていたのですね。財閥の当主はいかに巨万の富を得ていたのか。
夏目漱石の「吾輩は猫である」の中で、苦沙弥先生の姪の雪江さんが金持ちのことについて先生の子供たちに話を聞かせている。
雪江「・・・は今度は大金持ちの服装をして出てきたそうです。今の世で言うと岩崎男爵の様な顔をするんですとさ。可笑しいわね」
子供「岩崎の様な顔ってどんな顔なの?」
雪江「ただ大きな顔をするんでしょう」
また「野分」では作中人物に「岩崎の塀などを見ると頭をぶつけて、壊したくなる」と言わしめています。
漱石は成金実業家が大嫌いでした。それより徳川のお膝元で生まれた江戸っ子漱石にとって明治の政官財を牛耳る薩長土肥の田舎侍の成り上がり者が大嫌いだったのです。「猫」の中で成金の金田某の俗物ぶりを皮肉たっぷりに揶揄しています。 -
無縁坂を降りきりました。不忍通りです。
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不忍池です。
先日行った弁天堂の屋根が見えます。 -
雁は明治に泳いでいました。現代も泳いでいます。
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池端の東天紅。
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切通坂に出ました。
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湯島台地から上野御徒町方面への交通の便のため切り開かれた道。
明治37年、本郷3丁目から上野広小路まで電車が開通しています。 -
切通坂に面した湯島天満宮の裏から入りました。
夫婦坂。途中の門は登竜門、平成7年本殿新築に際し造られました。 -
菊まつりが開かれています。
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どれも見事な出来栄えです。
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湯島天満宮、学問の神様菅原道真を祀ることから別名湯島天神といわれます。
創建は458年雄略天皇の頃と云われ、1478年太田道灌の再興。谷中の感応寺(天王寺)、目黒不動と共に江戸の三富と云われ富くじを販売した。梅/湯島の白梅の名所。
今の社殿は平成7年の建築です。 -
泉鏡花の「婦系図」と湯島天神は切っても切れない仲ですが、お蔦の有名なせりふ「切れるの別れるのって、そんな事は、芸者の時に云うものよ。私にゃ死ねと云ってください」は「婦系図」ではなく、別途鏡花が新派のために書き下ろした「湯島の境内」の中に出てきます。
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本殿。
泉鏡花(明治6~昭和14年)は金沢の生まれで、尾崎紅葉に親炙しその門をたたくべく明治23年、17歳の時上京。明治24年紅葉の門下生としてその玄関番になるまでの約1年間住んだのがここ湯島界隈でした。母鈴が生まれたのも近くの神田明神下で泉鏡花にとって湯島は忘れられない町です。 -
絵馬が鈴なりでした。
紅葉は鏡花を弟子の中で最も目を掛けていました。鏡花が神楽坂の芸者桃太郎(本名伊藤すず)と馴染みとなり明治36年同棲し紅葉に発覚する。紅葉は鏡花を呼びつけ激しく叱責する。これが「婦系図」の酒井先生と主税の”俺を棄てるか、婦を棄てるか”の名場面です。婦はお蔦です。
鏡花は一旦師の命に従い桃太郎と分れますが、まもなく紅葉が亡くなり晴れて二人は夫婦となりました。
すずは賢婦人として生涯を過ごし昭和25年亡くなりました。 -
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急な男坂。
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通称男坂。38段。
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緩やかな女坂。
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女坂。
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安藤広重「湯しま天神坂上眺望」 1856年。
境内からの不忍池方面の情景です。
中央に不忍池と弁天堂、その上に小さく上野寛永寺、人が登ってきたのが女坂、右下隅に男坂。
いまは境内からは見えませんが当時はこんな眺めだったのです。 -
こちらが表参道です。
銅製の鳥居。寛文7年(1667年)造立、東京都文化財。
江戸時代この門前にも根津神社と同じように岡場所(非公認の遊郭)がありました。 -
切通坂に戻ります。伸びるのは春日通り。
だいぶ暗くなってきました。 -
坂に面して石川啄木の歌碑がありました。明治43年、24歳。
二晩おきに 夜の一時頃に切通の坂を上りしも 勤めなればかな
歌集「悲しき玩具」収蔵。
当時本郷の喜之床に家族とともに住んでいた啄木は上野広小路経由銀座滝山町の東京朝日新聞社まで市電で通勤していた。夜勤明けの帰りは電車が無いので広小路からここを通って歩いて帰ったのでした。
真っ暗な切通の坂をとぼとぼ登っていく啄木の姿が目に浮かびます。 -
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春日通りの麟祥院。
別名枳殻寺(きこくじ、からたちでら)。夏目漱石は「三四郎」で枳殻寺という名称を使っています。三四郎が野々宮さんに連れられて東大構内を歩く場面です。
「三四郎」から:二人はベルツの銅像の前から枳殻寺の横を電車の通りへ出た。銅像の前で、この銅像はどうですかと聞かれて三四郎は又弱った。表は大変賑やかである。電車がしきりなしに通る。 -
森鴎外の雁」の岡田の散歩道でもありました。鴎外は臭橘寺(からたちでら)と書いています。
「雁」から:寂しい無縁坂を降りて、藍染川のお歯黒のような水の流れ込む不忍池の北側を廻って、上野の山をぶらつく。それから松源や雁鍋のある広小路、狭い賑やかな仲町を通って、湯島天神の社内に這入って、陰気な臭橘寺の角を曲がって帰る。 -
徳川三代将軍家光の乳母春日局の菩提寺。春日局の墓がある所から局の法号麟祥院をとって寺号とした。
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東洋大学発祥之地。
井上円了が明治20年、ここに今の東洋大学の前身「哲学館」を開いています。 -
春日局の墓域はこの標識のずっと奥にあり分かりにくい。
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春日局墓所。
春日局:1579~1643年。美濃の国斎藤家の出。父利三は明智光秀の重臣で、本能寺の変後処刑された。稲葉正成に嫁いだ後1604年後の3代将軍家光の乳母となる。将軍のお局として大奥、幕閣で権勢をふるい、将軍の代わりに宮中にも参内した。春日局は天皇からもらった名号。大名でも貰えなかった従二位にもなる。 -
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一風変わった墓石で僧侶の墓を思わせます。
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當山開基 春日局御廟所。
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本富士警察署。
以前この辺りは本富士町だった。戦後住居表示で本郷と変わったが警察署だけは元の名を冠している。戦前の本を読むと社会主義者の取り締まり、デモの鎮圧にこの警察署の名が出てきます。主義者の演説会で「弁士中止!」と叫んだのもここの警察官だったでしょう。戦前の治安維持法が猛威を振るった暗黒時代を思い出させる警察署です。 -
春日通り、本郷3丁目の少し手前に本郷中央教会があります。
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ここでもキリスト教伝道の説教会がよく開かれました。それを聞きに行くのは当時の若い飛んでるインテリ男女の流行でした。夏目漱石の「三四郎」の美禰子もそういった女性でした。
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1890年/明治23年、カナダ、メソジスト派の宣教師により創設、当初は「中央会堂」と称した。賀川豊彦による学生伝道集会など当時のインテリ層である学生への伝道に力を入れた。
内村鑑三、山田耕作、中山晋平などが出入りした。
大正12年の大震災で焼失、昭和4年再建。先の大戦では戦火を免れ1998年、国の登録有形文化財に指定。 -
夏目漱石の「三四郎」の最後近くに登場します。三四郎と美禰子の別れの場面です。
「三四郎」より:
忽然として会堂の戸が開いた。・・・。美禰子は終わりから四番目であった。
美「どうなすって」。三「今御宅まで一寸出た所です」。美「そう、じゃいらっしゃい」。・・・。三「拝借した金です。・・・。返そう返そうと思って、つい遅くなった」。美「あなた、御不自由じゃ無くて」。「そう、じゃ頂いて置きましょう」。女は紙包を懐に入れた。その手を吾妻コートから出したとき、白いハンケチを持っていた。鼻の所へ宛てて、三四郎を見ている。 -
やがて、その手を不意に延ばした。鋭い香りがぷんとする。
「ヘリオトロープ」と女が静かに云った。・・・。三「結婚なさるそうですね」。女は「ご存じなの」と云いながら、二重瞼を細めにして、男の顔を見た。・・・。
女はややしばらく三四郎を眺めた後、聞きかねる程のため息をかすかに漏らした。やがて細い手を濃い眉の上に加えて云った。美「われは我が咎(とが)を知る。我が罪は常に我が前にあり」。
聞き取れない位な声であった。それを三四郎は明らかに聞き取った。三四郎と美禰子は斯様にして分れた。
ある日美禰子が結婚するという話を聞いた三四郎が借りていた金を返しに行った場面です。「ストレイシープ/迷える子羊」、「白いハンケチとヘリオトロープ」、美禰子は三四郎にとって最後まで捕らえがたい女でした。
美禰子の言った「我はわが咎を知る・・・」は旧約聖書のダビデの言葉だそうですが、キリスト教にあまり関心のなかったように見える漱石は旧約聖書を読んでいたのでしょうか。 -
田舎の高等学校をでて上京した三四郎にとって、美禰子は近くに接した初めての現代の女性だった。しかも身内、朋友に学者、芸術家を持つ都会の自由かつインテリ女性だった。東大構内の三四郎の池での出会いから三四郎は謎のような美禰子に引かれていく。
美禰子の三四郎にたいする態度は、訴えるような、突き放すような、からかうような、寄りかかるような、三四郎には美禰子が分からなくなってくる。
しかし都会の現代の女美禰子にとって田舎出の三四郎はしょせん生涯の伴侶となるべき男ではなかった。三四郎も美禰子は高嶺の花と分かっていたが、少しでもコケットリーな仕草を見せられるとそれに引き寄せられてしまう。美禰子はイエスともノーとも決定的な答えを与えずに三四郎を引っ張っていく。
三四郎に限らず男というものはすべてそんなものでしょう。 -
4時過ぎです。朝スタートした本郷3丁目の交差点に戻ってきました。灯りが灯り始めています。
昼食を入れて6時間強、よく歩きました。地下鉄で東京駅に出て帰りました。
どの痕跡を歩いても有るのは”ここに○○○があった”の標識だけです。
関東大震災、第2次世界大戦は江戸から大正に続く東京の町を破壊しつくしました。もっとも敗戦後復興と高度成長の道をひた走る日本には、そんな金にもならない遺跡などを守るといった感傷を入れる余地はなかったでしょう。
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