2014/01/25 - 2014/01/25
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bakanekoさん
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奈良 正暦寺の南天
庭を探していたら正暦寺の庭が出てきた。そして、今、南天が盛りとNHKがのたもうたので出撃。朝から晴れていたがぐだぐだしていて家を車で出たのが昼。天理のインターからすぐのはずなのに道に迷った・・・・カーナビはありません。狭い道に入り込みにっちもさっちも。あえなく後退。奈良の道の狭さを感じました。やっと着く。人も少なく快適。
寺を見るとドドーンと通信アンテナが見事そびえる。「入江泰吉先生残念です。」と思わず叫んでしまいました。長岳寺といい奈良の古寺のアンテナはもうたくさん。ということで1枚残して写真のアンテナは全て消してあります。
しかしここは、ひなびたいいところ。うろうろしながら南天を撮る。静寂な奈良の冬を堪能できます。
しばらくして福寿院客殿に入る。割引券で400円。ここで老僧に受付をしていただいた。そのほのぼのとした所作や語り口は昭和30年代の奈良の人ではないかと思うほど、朴訥であり現代のきたなさがないご様子であった。人嫌いの私が、惚れ惚れするほどの安心感がございました。いろいろご案内をしていただき、障子を空けて庭を撮る事も快諾していただき感謝に堪えません。庭よりこの老僧の写真を撮りたかった。最後は、ありがとうございましたと寺を後にしました。人で、すがすがしくなることなどない世の中に格別でした。ぜひ正暦寺をご訪問ください。庭は、次、雪が降れば絶対撮りに来たいと思っています。
正暦寺をでて帰りに笑い地蔵泣き地蔵を撮影し帰阪しました。
正暦寺(しょうりゃくじ)は、奈良市菩提山町(ぼだいせんちょう)にある寺院。菩提山龍華寿院と号し、奈良と天理の間の山あいに位置する。菩提山真言宗の本山(単立寺院)。本尊は薬師如来である。
「錦の里」と呼ばれ、紅葉の名所として知られる。また、境内を流れる菩提仙川の清流の清水を用いて、菩提泉という銘柄の清酒が日本で初めて醸造されたという伝承があり、「日本清酒発祥之地」の碑が建つ。山号の菩提山は、奈良の東山一帯を釈迦修行の聖地に見立て、鹿野園(ろくやおん)・誓多林(せたりん)・大慈山(だいじせん)・忍辱山(にんにくせん)・菩提山と名付けた五大山の一つである、菩提山に由来する。
歴史
正暦3年(992年)、一条天皇の発願により、関白藤原兼家の子兼俊僧正が創建した。往時には、報恩院以下86坊の堂塔伽藍が建ち並ぶ大寺院であったが、治承4年(1180年)に、平重衡による南都焼き討ちによって焼失した。
建保6年(1218年)、別当として南都焼き討ちで荒廃した興福寺の再興に約10年に渡り尽力した後、その地位を退いた大乗院院主の信円僧正が隠遁先として当寺を選び、「菩提山僧正」あるいは「菩提山御房」と呼ばれた。信円は当寺を法相宗の学問所として再興し、以後信円からその座を受け継いだ歴代大乗院門跡が当寺の門跡を兼帯、興福寺の別院正願院門跡となった。金堂、弥勒堂、講堂、十三重宝塔、経蔵、御影堂、鐘楼、六所社および別院などが整備された。また、報恩院家が開山の兼俊僧正の別院として寺務を管轄し、安養院と別院仰接院は浄土宗の念仏道場となった。
江戸時代に入り、慶長6年(1601年)には寺禄は約1000石を数えていたが、応仁の乱後に再興された82坊によって、往時の様を取り戻していた。本堂、三重塔、護摩堂、観音堂、地蔵堂、灌頂堂、鐘楼、経蔵、如法経堂、御影堂、十三重塔、弥勒堂、六所明神、鎮守などの堂塔伽藍が建ち並んでいたという。
寛永6年(1629年)、堂塔伽藍が焼失、300石の朱印地を与えられることとなった。江戸中期以降は、法相宗の影響が次第に薄れ、真言宗の仁和寺の末寺となった。
明治の廃仏毀釈によって荒廃した。往時の威容は、参道沿いに延々と続く石垣によってしのぶことができる。昭和42年(1967年)、本山仁和寺から独立し、菩提山真言宗大本山を名乗る。
- 旅行の満足度
- 4.5
- 交通手段
- 自家用車 徒歩
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