2013/07/09 - 2013/07/09
912位(同エリア1830件中)
まみさん
2013/07/09火 モスクワ観光3日目
・トレチャコフ美術館(本館)(約4時間半)
・クリメンタ・パビ・リムスコ教会
・赤の広場散策
【モスクワ泊:マキシマ・パノラマ・ホテル】
トレチャコフ美術館編の旅行記は、前中後編の3本に分けました。
中編のこの旅行記には、アレクサンドル・イワノフの巨大な宗教画「キリスト、人々の前に現れる」とその作品成立のためのさまざまな習作、ブリュロフやヴァスネツォフ(兄)の巨大な歴史画、13年前に気に入り、もう一度見て写真を撮りたいと思っていたヴァスネツォフ(兄)の「地底王国の3人の王女」ほか、いかにも19世紀ロシアらしい風景画や風俗画、それから旅行ブーム時代を反映した東方のエキゾチックな景色、そしてロシア絵画史上の巨匠イリヤ・レーピンの作品、ヴェレスチャーギンによる戦争批判の悲惨な絵、そして2階の展示の最後を飾る、ロシアン・アールヌーヴォーの先駆けの画家ミハイル・ヴールベリの作品など、ロシアにどっぴり浸れる多彩な作品の写真を収めました。
また、スリコフやレーピンの歴史画のおかげで、概史では知ることのなかったロシア史のエピソードを新たに調べて知るきっかけにもなりました。
その意味においては、歴史博物館の旅行記を作成したときよりも、復習時に調べるヒントが満載でした。
昨日はクレムリン6時間半とバレエ観劇で夜遅くなったせいもあって、今朝はちょっとスロースタートになってしまい、トレチャコフ美術館鑑賞が開始できたのは11時10分。
ロシア絵画のハイライトが目白押しの2階では2時間40分かけてしまいました。
写真に記録できるし、とにかく展示数も膨大なことを知っているため、さくっと見るだけですませた作品もたくさんありますし、ゆっくり眺めた気に入った作品も、到底写真を撮れなかったアナログカメラ時代の2000年の初ロシアのときに比べると、舐めるように見たというほどではありません。
しょうがないとはいえ、それがちょっと消化不良。
ちなみに、アナログカメラ時代の美術館鑑賞では、少しでも記憶に残るようにと、めぼしい画家の名前と生没年を手書きで旅ノートにメモしていました。
それに比べると、いちいち書き写さずに写真に撮っておけるのは、1秒とかからず、ほんとに楽になりました。
それでも、ほんとに展示数が膨大なので、2階だけで2時間40分、とけっこうな時間がかかってしまいました。
そのため、あまりに疲れてしまい、2階のラストのヴールベリ・ルームで、彼の巨大な作品を眺めながら休んでいたら、あっという間に1時間余り。
階下に行き、19世紀以降の絵画の鑑賞を開始したのは15時15分でした。
いくらロシア絵画が好きで、13年ぶりのトレチャコフ美術館に感激したといっても、2階だけでも、もうおなかいっぱいという気分になったので、結果として次の旅行記に収めた1階の展示の鑑賞は、一部は大急ぎをして1時間40分ですませました。
そうはいっても、1階の作品も、もう少し気力が残っていたら、ゆっくり見ていたかった絵画ぞろいだったのは確かです。
イコン・コレクションもほんとにたくさんあって、素通りしたものも多くて残念です。
それにしても、本日のトレチャコフ美術館での正味4時間20分は、じっくり絵画を鑑賞するというよりは、書籍などでなじみのある有名な絵や、13年前の初ロシアのときや来日企画展でうっすら記憶にある絵との再会を喜ぶこと、そして写真を撮ることに始終してしまった気がします。
13年前はもっと落ち着いて、心の目で見るように鑑賞してたはずなのに(苦笑)。
<2013年ロシア旅行:簡易旅程>
7/06土 出国&モスクワ到着
7/07日 モスクワ1日目(国立歴史博物館と民芸品博物館)
7/08月 モスクワ2日目(クレムリン)
7/09火 モスクワ3日目(トレチャコフ美術館)★
7/10水 ズズダリ
7/11木 ウラジーミル
7/12金 モスクワ4日目(コローメンスコエ)
7/13土 ペトロザヴオーツク経由でキジ島へ
7/14日 ソロヴェツキー島1日目
7/15月 ソロヴェツキー島2日目(ザヤツキー島エクスカーション)
7/16火 サンクトペテルブルグ1日目(ロシア民族学博物館ほか)
7/17水 サンクトペテルブルグ2日目(エルミタージュ美術館)
7/18木 パヴロフスク宮殿&庭園
7/19金 ノヴゴロド1日目
7/20土 ノヴゴロド2日目
7/21日 サンクトペテルブルグ3日目(宗教博物館・ユスポフ宮殿ほか)
7/22月 サンクトペテルブルグ4日目(ロシア美術館)&出国
7/23火 成田空港着
※この旅行記の対象の日に★印をつけました。
詳細旅程はこちら。
「2013年ロシア旅行~13年ぶりの再訪を3年前にあきらめた旅行計画で実現させた旅行【旅程一覧】」
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10797557
準備編や帰国後の全体の感想は、ブログ「まみ's Travel Diary」(http://mami1.cocolog-nifty.com/travel_diary1/)に掲載しました。
- 同行者
- 一人旅
- 旅行の手配内容
- その他
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イワノフの大作「キリスト、人々の前に現れる」
1837年から1857年まで、20年かけて制作された大作です。
キリストより洗礼中の裸の人々の方が目立ちますけど@
十字の杖を持ち、やって来るキリストを指し示しているのは、洗礼者ヨハネです。
「アレクサンドル・アレクサンドロヴィッチ・イワノフ(1806〜1858)は、廃れつつ新古典主義の伝統に属するロシア画家で、彼は同時代の画家に共感することはほとんどありませんでした。サンクトペテルブルグで生まれ、サンクトペテルブルグで死亡。
イワノフは帝国美術アカデミーで、カール・ブリュロフと共に、父アンドレイ・A・イワノフに師事しました。ほとんどの生涯をローマで過ごし、そこでゴーゴリと友人となり、またナザレ派の影響を受けました。彼は、制作に20年かけた巨大な作品『キリスト、人々の前に現われる』(1837〜57年トレチャコフ美術館)1枚で大家と呼ばれるようになりました。
イワノフについての酷評は後世で改められました。『キリスト、人々の前に現われる』のために彼が制作した膨大なスケッチの一部がそれ自体、傑作として認められました。最も広範囲な彼の作品が見られるのは、サンクトペテルブルグのロシア美術館です。」
(ウィキペディアフリー百科事典(英語版)より私訳) -
洗礼者ヨハネとヨルダン川で洗礼中の人々
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大作を描くための習作の数々
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振り返ってキリストを見る少年の習作
採用されたのは左の肌の白い少年でした。 -
キリストに期待のまなざしを向ける父子
の方を注目したんですよ、もちろん。 -
かすかに苦悩をにじませたキリスト
彼の伝道はこれから始まるのですが、平坦な道ではないこと、苦しい最期を迎えることを知っているかのような憂いを含んだ表情でした。 -
ブリュロフ(1799〜1852年)の大作「1581年のポーランド王ステファン・バートリによるプスコフ包囲」
1839〜1843年制作
「(前略)モスクワ大公国の第2の都市であったプスコフは西からの攻撃を受け続けた。特にリヴォニア戦争(主にモスクワ国家(モスクワ大公国、ロシア・ツァーリ国)、ポーランド・リトアニア連合、スウェーデン王国が、リヴォニアを主戦場にして戦った戦争)の最後(1581年から1582年)にはプスコフはポーランド王国の軍勢5万人に包囲されたが持ちこたえている。ポーランド王ステファン・バートリはプスコフへの攻撃を31回も指揮したが防衛する市民に撃退された。市の城壁の一つが崩れた時も、プスコフ市民は素早く崩れた部分を修理して攻撃をしのいだ。(後略)」
(ウィキペディアフリー百科事典「プスコフ」より引用) -
ポーランド包囲に抗うプスコフの人々
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勇敢に武器を持って戦う少年と、敵に目をやりつつ若い息子を心配する母親
「カール・ブリュロフ(1799〜1852年)は、古典主義からロマン主義の過渡期のロシア人画家です。彼の最も有名な絵は、プーシキンやゴーゴリによってルーベンスやヴァン・ダイクの傑作にたとえられた壮大な「ポンペイ最期の日」(1830〜1833年制作)です。これはイタリアで大評判になり、当時のヨーロッパの最もすばらしい画家の1人に数えられました。イタリアでの彼の成功はロシアに戻った後も影響し、貴族や知的階級の知己を得て、帝国美術アカデミーで高い地位につくことになりました。彼はアカデミーで教鞭をとっていた間に、古典主義のシンプルさにロマン主義の傾向を加味した肖像画のスタイルを確立しましたし、彼は人物像の内面に迫ることでリアリズムを追求しました。」
(ウィキペディアフリー百科事典(英語版)より抜粋抄訳) -
「落雷で引き裂かれたオーク」
1812年
ボロビエフ(1787〜1855年)画
人知れぬ自然の荘厳なドラマに文句なしに惹かれた絵です。 -
ハンサム〜!
好みかも、と思って写真を撮っておきました。
ブリュロフ(1799〜1852年)による「作家N. V. クコルニックの肖像」(1836年) -
「夢見る」
1840年代
ネフタ(1804〜1876年)画
まるで女神像のようです。
ラファエロチック。 -
「1812年」
1874年
プリャニシュニコフ(1840〜1894年)画
ああ、ロシアらしいテーマの絵だな、と思ってしまいました。
1812年に一体何があったのかしら、と思って調べたら、ナポレオンによるロシア侵攻が開始された年でした。
ナポレオンの運命が傾いた転換点でもあります。 -
ガウンを持つ女性
この女性が振り返って見ている後ろの女性はもしかしたら娘でしょうか。
彼女らの姿を見て、亡命者か避難民かしらと思いました。 -
「命はどこにでもある」
1888年
ヤロシェンコ(1846〜1898年)画
まさか牢獄の中から眺めているのでしょうか。 -
「線路の修繕工事」
1874年
サヴィツキー(1844〜1905年)画
時代を映す風俗画。
過酷な労働でしょうに、子供も働いています。 -
工事を見守る子犬
-
「イコン詣」
1878年
サヴィツキー(1844〜1905年)画
おそらく小さな村に名高いイコンが出張しにきたのではないかと思います。
これも1つのロシアの田舎の風俗かなと思いました。
子供たちもたくさん描かれています。 -
こわごわ眺める子供と、まじめくさった顔つきの引率の先生みたいな大人
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いかめしい司祭に尻込みする子供と、その背を押すおばあさん
-
ありがたさに感動する大人たちと、神妙にしている幼い兄妹
絵の中にさまざまなドラマが描きこまれていました。 -
「告解前」
1877年
コルズヒン(1835〜1894年)画
ロシア正教会の信者たちの様子がうかがえます。
いまでも似たような光景が見られます。 -
孫にお参りの作法を教えるおばあさん
女性たちはスカーフで頭を覆っています。正教会のしきたりです。
聖書に「女性たちは頭を覆っていた」という記述があったというのが根拠らしいです。
でも、スカーフで、とは書かれていなかったらしいです。 -
有名な絵の前で記念撮影!
ヴァスネツォフの有名な「英雄たち」
1898年
「ヴィクトル・ヴァスネツォフ(1848〜1926年)
司祭の家に生まれ、神学校で学んだあとペテルブルグの美術アカデミーに進む。のち移動派画家として活躍、アブラムツェヴォ・サークルにも属した。フォークロアを題材とした歴史画をおもに描き、聖堂の壁画やトレチャコフ美術館のファサードも手がける。代表作に『岐路に立つ戦士』(1882年ロシア美術館)、『英雄たち』(1889年トレチャコフ美術館)など。」
(「地球の歩き方 ロシア(2012〜2013年版)」より) -
再会できて嬉しい「英雄たち」
ヴァスネツォフのフォークロア絵画も気に入っています。
この絵は13年前の2000年の初ロシア旅行のときにも印象に残って、とても気に入りました。
この3人は、ひょっとしたらロシアの前身ともいうべきキエフ公国のキエフを創設した伝説のキイ三兄弟かも、と思ったのですが、どうでしょうね。
キイ三兄弟には妹がいて、ふつう4人セットですから。 -
「イーゴリの戦い後」
1880年
ヴァスネツォフ(1848〜1926年)画
イーゴリといえば、オペラで有名なイーゴリ戦記のイーゴリ公でしょう。
一騎打ちの後に相打ちになったように見えますが、右の若者はイーゴリ公と思うと若すぎるので、息子かもれません。
となると、一騎打ちではなく、ひょっとしたらとらわれていたポロヴェツ人のもとから脱走して故郷に帰る途中と考えた方がしっくりくるかも。
「『イーゴリ遠征物語』は、1185年の春にノーウホロド=シーヴェルシクィイの公イーホル・スヴャトスラーヴィチが遊牧民ポロヴェツ人に対して試みた遠征の史実に基づいた物語である。はじめポロヴェツに対して勝利し、やがて敗れ囚われの身となったイーゴリ公が、ポロヴェツ人の協力者を得て脱走し妻ヤロスラヴナのもとへ帰るまでが、韻律的散文で書かれている。また作者は、祖国の南方ルーシをこの遊牧民の脅威から守るため、諸侯が内紛を止め団結して立ち上がるよう呼びかけている。本文はウクライナ語に近い南方の古ルーシ語で書かれており、作者はキエフ人かチェルニーヒウ人であったと考えられる。中世ウクライナ文学の傑作でとされる一方、ロシア文学史にも高い評価を受けている。アレクサンドル・プーシキンが「わが国文学の荒野にただひとつ立つ記念」と呼び、ソ連時代に出版された日本語訳の解説などでも「中世ロシア文学の頂点」と紹介される。古フランス語叙事詩『ローランの歌』などと比肩される。なかでも、イーゴリの妻ヤロスラヴナが夫の身を案じた場面「ヤロスラヴナの嘆き」は作品の中でももっとも美しい場面として知られる。(中略)
作品では民俗的・非キリスト教的な描写が多く、スラヴ人の神々が賛美される場面が見られる。作者は故郷である祖国ルーシへの愛国心を謳い、外敵であるポロヴェツ人に対しルーシ諸公の同盟の必要性を唱えている。(中略)多数の言語に訳され、後世のウクライナ文学、ロシア文学などに大きな影響を与えた。」
(ウィキペディアフリー百科事典より引用) -
「地底王国の王女たち」
1879年
ヴァスネツォフ(1848〜1926年)画
これもぜひ再会したかった絵です!
アナログ時代の2000年の初ロシアのときも、写真を撮って帰りたかったくらいでした。
この絵から、実は「リア王」の三姉妹を連想してしまいました。
「ヴィクトル・ヴァスネツォフ(1848年5月15日〜1926年6月23日)はロシア帝国の画家。神話や宗教・歴史を題材とした絵画の専門家であり、19世紀のロシア画壇における文芸復興運動の立役者の一人とみなされている。叙事的で壮大な表現や耽美主義的な傾向が見られることから、ロシア象徴主義の一員に数えられることもある。(後略)」
(ウィキペディアフリー百科事典より引用) -
1番お気に入りの末の王女
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「イワン雷帝」
1897年
ヴァスネツォフ(1848〜1926年)画
イワン雷帝は、日本人にとっての織田信長のような存在かもしれません。
いろんな画家が彼の絵や歴史エピソードを描いています。
ここではイワン雷帝は、ワシリー寺院の中にいるようです。
雷帝のイメージ通りの恐ろしい顔つきをしています。 -
美しい刺繍のガウンと靴に注目
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「灰色のオオカミに乗ったツァレヴィッチ・イヴン」
1889年
ヴァスネツォフ(1848〜1926年)画
ロシアン・フェアリーテール!
ツァレヴィッチは、語源的にはツァーリの息子、つまり王子と同じような意味で、古いロシア公国時代の称号のようです。 -
ぴったり寄り添うお姫様は憂い顔
お話はきっとロシア民話集にある「イワン王子と火の鳥と灰色狼」。
ウィキペディアはまさしくこのヴスネツォフの絵が挿絵代わりに紹介されていました。
以下、ウィキペディアに載っていたあらすじです。
「王様の庭園には黄金のりんごの木が生えていたが、夜になると火の鳥が現れてりんごを食べていた。王様は火の鳥を生け捕りにしたものには国の半分を与え、死後は自分の後継者にするとして3人の子供に木の見張りをさせる。兄弟は順番に見張りをするが、上の2人は見張り中に寝入ってしまう。末っ子のイワン王子は眠らずに火の鳥の尾羽根を手に入れる。火の鳥が逃げてしまったので、王様は3人を火の鳥探しの旅に出す。兄2人はイワンを置いて出かけてしまう。イワンは王様に頼んで洗礼を受けて出発する。
イワンが旅を進めると野原に道標があり、飢えと寒さに襲われる道、自らは助かるが馬は死ぬ道、馬は助かるが自らは死ぬ道の3つが示されていた。イワンが2番目の道を選んで進むと、灰色狼が現れて馬を殺してしまう。イワンが悲しんで歩いていると先ほどの狼が現れて馬の代わりをするという。火の鳥がいる庭につくと狼はイワンに火の鳥だけを連れてくるように言うが、イワンは火の鳥が入っている金の籠を持ちだそうとして捕まってしまう。そこの王様に金のたてがみの馬と引き換えに金の鳥を渡すといわれてイワンは出発する。金のたてがみの馬のいる馬小屋につくと狼はイワンに馬だけを連れてくるように言うが、イワンは金の轡を持ちだそうとして捕まってしまう。そこの王様にエレーナ姫と引き換えに馬を渡すといわれてイワンは出発する。狼はイワンを途中で降ろすと宮殿へ行き、エレーナ姫を連れてイワンのところに帰ってくる。エレーナ姫を好きになったイワンは引き渡したくないといい、狼が姫に変身して馬を得る。狼がイワンのもとに帰るとイワンは馬を引き渡したくないといい、狼が馬に変身して火の鳥を得る。こうしてイワンは火の鳥と金のたてがみのとエレーナ姫を連れて帰る。
道標のところで狼と別れたイワンは途中で休憩して眠るが、そこに通りかかった2人の兄がイワンを殺して手柄を横取りしてしまう。しばらくして灰色狼がそこを通りかかり、イワンの死体を見つける。肉をついばもうとした烏を捕まえ、母烏に死の水と命の水を持ってくるよう脅す。母烏の持ってきた水をかけるとイワンは生き返る。狼はイワンを兄とエレーナ姫の結婚式の最中の城へ連れていく。2人の兄は罰せられ、イワンはエレーナ姫と幸せに暮らした。」
(ウィキペディアフリー百科事典より引用) -
「打ち負かされたものたち、死者のための祈祷」
ヴェレシチャーギン(1842〜1904年)画
ぱっと見て、ただの荒涼とした大地の絵かと思ったのですが、よく見たらギョギョギョ!
「ワシリー・ヴェレシチャーギン(1842〜1904年)
ノヴゴロド州の富農の家に生まれる。露土戦争に従軍し、兄弟の戦死や自身の負傷という経験を経て、戦争を写実的に描くことを志すようになる。『戦争の結末』(1871年トレチャコフ美術館)など、多くの戦争画を残した。1904年、日露戦争に取材のため従軍し、乗っていた軍艦が機雷に触れ沈没。艦と運命をともにした。」
(「地球の歩き方 ロシア(2012〜2013年版)」より) -
死者の冥福を祈るのは、司祭と将校たった2人
「ワシリー・ヴェレシチャーギン(1842年10月26日〜1904年4月13日)は、ロシアの画家。
ロシア帝国の中央アジア征服や露土戦争に従軍して戦場をテーマとした作品を数多く残す。日露戦争で取材のため乗っていた戦艦が沈没し死去。
ロシア帝国ノヴゴロド州チェレポヴェツに、豪農の息子として生まれる。8歳の時、両親の希望で軍の幼年学校に入れられた。1853年、サンクトペテルブルクの海軍士官学校に入学。(中略)1859年に士官となるが、軍を辞めて翌年からペテルブルク美術学校で学ぶ。優秀な成績だったものの授業方法を退屈に思い3年で退学。(中略)パリではエコール・デ・ボザールに学び、ジャン=レオン・ジェロームに師事する。画家として彼はフランス派に属し、精密な描写・鋭い造形、そして柔らかで明るいカラフルな色調の組み合わせを特徴とした。
1867年、コンスタンティン・フォン・カウフマン将軍によるトルキスタン遠征に従軍。サマルカンド攻撃などを目撃。1868年にカウフマン将軍の後援でトルキスタンをテーマとした個展を開催。1870年はミュンヘンに滞在し、従軍中に描き溜めたスケッチや研究を絵画として完成させる作業をした。彼の関心は戦闘場面よりもむしろ中央アジアのエキゾチックな建築や風俗に向けられた。(中略)1877年、露土戦争に従軍。司令官のはからいで副官の地位と軍内で自由に行動する権利を与えられ、シプカ峠の戦いを目撃。プレヴェン攻略戦では兵士として従軍していた彼の兄弟が戦死、自身も重傷を負った。この悲惨な戦いは彼の世界観を変えるものだった。(引用つづく)」
(ウィキペディアフリー百科事典より引用) -
一面の死体は、なぜかみな一様に服をはぎとられて……
「(引用つづき)以後彼は平和主義者として、戦争の悲惨さを現地でのスケッチを基にした写実的な絵画で表現してゆくことになる。そのため戦争を描いた彼の絵には死者、負傷者、略奪、野戦病院、雪に埋まった兵士の遺体などがよく登場する。こうしたテーマは、普段絵画や美術に関心のない人々をも惹き付けた。また彼の民主主義的思想は、移動派に近いものだった。それまでの英雄礼賛だった戦争絵画に、哲学的な意味をもたせるようになった。(中略)彼の絵はそのテーマ故にプロパガンダに利用されることもあり、別の代表作「戦争の結末」は頭蓋骨の山を描いたものであるが、1980年に出版されたアルメニア人虐殺について書かれた本の表紙に「1916年、西アルメニアにおけるトルコによる残虐行為」というキャプションをつけて掲載され、のちにヴェレシチャーギンの作品であることが判明している。
1881年から翌年にかけて、ウィーンやベルリンなどに長期旅行に出かける。(中略)彼の脚はさらに故郷ロシア、東ヨーロッパ、さらにアメリカ合衆国にまで延びる。アメリカから米西戦争の戦場となっていたキューバ、フィリピンを訪問。さらに1903年に日本を訪問。日本の文化や歴史に親しみ、人物像などを残している。
ところが1904年に彼の母国ロシアと日本の間で日露戦争が勃発。彼はロシアの租借地旅順に移る。ここでも従軍した彼は、旅順艦隊司令長官ステパン・マカロフに招待されその旗艦である戦艦「ペトロパヴロフスク」に乗り込み、戦争の風景を描いていた。(中略)
彼の死は敵国日本でも報じられ、幸徳秋水や中里介山(「嗚呼ヴェレスチャギン」)が追悼文を残している。」
(ウィキペディアフリー百科事典より引用) -
「意気揚々たる」
ヴェレシチャーギン(1842〜1904年)画
おお、これはサマルカンドのレギスタン広場のシェルドレ・メドレセ!
さすが一度旅行しただけあって、ひと目で分かりました!
似たようなメドレセはありますが、イスラム教に禁じられた偶像(ライオンと人の顔)が、だいぶかすれてはいても認められるため、シェルドレ・メドレセであっていると思います。
いまは修復されて、ファサードのモザイクはもっときれいになっています。
また、かつてのレギスタン広場はこのように路上市場になっていました。
関連の旅行記
「2011年秋ウズベキスタン旅行第5日目(3)サマルカンド:レギスタン広場(後編)〜ティラカリ・メドレセとシェルドル・メドレセ」
http://4travel.jp/travelogue/10697141 -
「戦利品の展示」
ヴェレシチャーギン(1842〜1904年)画
これはブハラのアルク(城)かしら。
それともヒヴァのタシュ・ハウリ宮殿あたり。
男たちが見ている戦利品とは───。 -
征服した人々の斬首された首
絶句。 -
政治的プロパガンダに利用された絵の一枚の「戦争の結末」
ヴェレシチャーギン(1842〜1904年)画 -
「ベリョーザのメンシコフ」
1883年
スリコフ(1848〜1916年)画
明るい雰囲気ではないですが、ロシア民衆の1つの団欒風景かな、と思いつつ。
壁にはイコンがあって、信心深いロシア正教徒の一家だと推測できます。
タイトルの意味は、固有名詞なのか、よく分からないです。
「ワシリー・スリコフ(1848〜1916年)
クラスノヤルスクのコサックの家に生まれる。ペテルブルグの美術アカデミーで学んだあと、1881年から移動展覧会協会員となる。激動のロシアの歴史をダイナミックかつリアリスティックに表現し、歴史画の巨匠として一時代を築く。代表作に『モロゾワ侯爵夫人』(1887年トレチャコフ美術館)、『スヴォーロフ将軍のアルプス越え』(1899年ロシア美術館)など。映画監督ニキータ・ミハルコフは彼の曾孫にあたる。」
(「地球の歩き方 ロシア(2012〜2013年版)」より) -
「ツァレヴナ、女子修道院を訪れる」
1912年
スリコフ(1848〜1916年)画
ツァレヴナという名を聞いたことがあると思ったら、バレエ「火の鳥」で魔王に幽閉された王女の1人で、いわばヒロインの名でした。
もっとも、ツァレヴナというのは、語源的にツァーリの娘、つまり王女と同じような意味なので、固有の名前とはいいがたいです。
この絵を見て、王女さまが慰問のために女子修道院を訪れたのかと思ったのですが、もしかしたら幽閉されることになった可能性も否定できません。
もっとも修道院に幽閉された王女といえば、ピョートル大帝の姉くらいしか思い付かないのですが、それにしては可憐で可愛らしい王女さまです。
「ヴァシーリー・イヴァノヴィチ・スリコフ(1848年1月24日〜1916年3月19日)はロシア帝国末期の画家。大作の歴史画を得意とし、当時としては最も進歩的な美術家の一人であった。ロシアでは最も有名な画家の一人である。シベリアのクラスノヤルスク出身。
(中略)1881年に巡廻美術展協会に参加。1893年よりペテルブルク美術アカデミーの正会員となる。
スリコフは、庶民の日常生活に力点を置きつつロシアの過去のイメージを描いた。作品で顕著なのは、特異な空間表現(非線形透視図法)と、群集の動きである。いくつかの事例においてスリコフは、同一の図像を大小さまざまな大きさで描いていたようである。」
(ウィキペディアフリー百科事典より引用) -
「銃兵(ストレリツィ)処刑の朝」
1884年
スリコフ(1848〜1916年)画
赤の広場のワシリー寺院前です。
クレムリンの塔が見えるので間違いないでしょう。
これも歴史事件を描いた歴史画でした。
ストレリツィで調べてみたらヒットしました。
これは、過去にはロシア正規軍して大活躍したストレリツィが、そろそろ時代遅れになった挙げ句、政治活動もするようになったピョートル大帝時代にモスクワで起こした大規模な反乱事件に関係するものらしいです。
「ストレリツィとは、火器を主装備とした16世紀から18世紀初期にかけて存在したモスクワ・ロシアの歩兵隊。しばしば銃兵隊と訳される。(中略)
1540年代〜1550年代にかけて、ツァーリ・イヴァン4世により、当時ロシアに頻繁に侵入していたタタールなどの外敵に対抗する目的で、皇帝直属の近衛銃兵隊であるストレリツィが編成された。これはロシア史上初の常備軍と言えるもので、(中略)16世紀末にはおよそ20,000人から25,000人、1681年には55,000人のストレレッツが存在した。このとき、およそ半数のストレレッツはモスクワの精鋭軍に所属し、皇帝の勅命により軍事作戦に参加するほか、首都の治安維持にあたる警察官としての役目を果たしていた。(中略)
1552年のカザン征服、リヴォニア戦争、17世紀初頭のポーランド・スウェーデンによる侵略など、数々の戦闘でストレリツィはロシア軍の主力部隊として活躍したが、17世紀後半には新しく編成されたロシア正規軍に比べて時代遅れとなっていった。また17世紀から18世紀にかけて、農奴や民衆による暴動が相次いだ。このとき、過酷な軍役、度重なる俸給の遅延、地方官吏などによる権力の濫用に不満を抱いていたストレレッツ(特に貧しい者たち)も暴動に加わることとなった。一方モスクワの上位階級のストレレッツは、政府の権力争いに積極的に関与するようになり、17世紀末には政治に対してかなりの影響力を及ぼすようになっていた。
1682年、皇帝フョードル3世が死去した後、その姉ソフィア・アレクセーエヴナらの扇動により一部のストレレッツが暴動を起こした。この政変により、病弱なイヴァン5世とまだ幼いピョートル1世が共同で皇帝となり、彼らの代わりにソフィアが摂政として実権を握ることとなった。この体制は1689年にピョートル1世がクーデターを起こし、ソフィアを失脚させるまで続くこととなる。
その後ピョートル1世は近代化政策を進めるとともにストレレッツの軍事的・政治的活動に対して徐々に制限をかけていった。これに反発するストレレッツにより、1698年にモスクワにて大規模な反乱が起きたが、ピョートル大帝により鎮圧され、モスクワのストレリツィの解散命令が出されることとなった。(後略)」
(ウィキペディアフリー百科事典「ストレリツィ」より引用) -
これも有名なスリコフの「モロゾワ侯爵夫人」(1887年)
彼女は、ピョートル大帝時代のニコンの教会改革により異端とされた分離派の1人として、大貴族にもかかわらずシベリア送りにされました。
ピョートル大帝ははじめは公開処刑にしようとしたようですが、民衆の騒動を恐れて中止し、彼女は獄死したそうです。
「宗教改革を身をもって抵抗したフェオドーシヤ・モロゾワは、シベリアへ流刑となる。鎖につながれ連れ去られる彼女は、つめかけた民衆に向かって、古儀式派の象徴である2本の指をなおも高々と掲げるのだった。嘆き悲しむ群衆と、彼女をあざけり笑う貴族たちの姿……。」
(「読んで旅する世界の歴史と文化 ロシア」(原卓也・監修/新潮社)) -
必死に訴えるモロゾワ夫人
背景のあざ笑っている人たちと対照的。 -
モロゾワ夫人のために嘆く人々
ほんとはニコンの宗教改革をあまり歓迎せず、古いしきたりを大切にしたいと思っている人たちなのでしょう。 -
女性たちの見事なストールに目が惹かれる
-
「ソフィア・アレクセイエヴナ王女、ノヴォデヴィッチ修道院幽閉1年後の1698年、銃兵隊(ストレリツィ)の処刑と彼女の追従者全員の拷問の最中」
1879年
イリヤ・レーピン(1844〜1930年)画
ここからレーピンの作品のいくつか。
まずは、彼の歴史画です。
ソフィアはピョートル大帝の異母姉で、ピョートル大帝が幼い頃、ストレリツィを使って政治の実権を握りました。
スリコフの絵のコメントでの引用を参考。
これはいわばピョートル大帝による巻き返し事件といえるでしょう。
同じ事件がスリコフとレーピンとでは違う視点で描かれています。
「1682年の同母弟フョードル3世の崩御に伴い、ナルイシキン派の擁する異母弟ピョートル1世がツァーリになると、ミロスラフスキー派の巻き返しを画策。銃兵隊の反乱に乗じてナルイシキン派を失脚に追い込み、同母弟イヴァン5世をツァーリに立てた上で、ピョートル1世をその共同統治者とした。2人のツァーリの並立は異例で、ビザンツ帝国の先例によって正当化された。(中略)
ソフィアは摂政就任以後、ツァーリのみに許される「専制君主」の称号を用いたり、自分の肖像入りの貨幣を発行して自らの権威づけを図った。自ら皇帝になる意志があったとされる。しかし本来幼い弟達の代役に過ぎないソフィアの地位は、ピョートル1世の成長と共に不安定になる。
ナルイシキン派はピョートル1世が成人したことを示すべく、1689年の年明けには彼を結婚させた。同年8月には緊張が高まって、ピョートルは至聖三者聖セルギイ大修道院に避難した。しかし政府高官や軍の将校、聖職者の多くがピョートル支持に回り、ピョートルの勝利は確定した。ソフィアは9月、全顧問官をピョートル側に引き渡し、ノヴォデヴィチ女子修道院に入った。ゴリツィンもシベリアに流された。
9年後の1698年、銃兵隊の反乱が再発すると、ソフィアは何の証拠もなく反乱の首謀者と疑われた。見せしめのため修道院前で反乱者数名の処刑が行われ、ソフィアは修道女にさせられて、6年後の1704年に没した。」
(ウィキペディアフリー百科事典「ソフィア・アレクセーエヴナ」より引用)
同じウィキペディアの記事にはソフィアの人物像について興味深いことが書かれていました。
彼女はほんとはこんな醜女ではなかったというのです。
「17世紀ロシアの女性皇族は厳しい規則のもと、クレムリンにあるテレム宮殿の女性部屋(最上階)で外界から隔離された生活を送る決まりであり、ソフィアが政治の表舞台に出てきたのは異例のことだった。ソフィアが「太って醜く、ふしだら」と非難されたのは、当時の皇女が従うべき法を無視して、政治に携わったことに対する反発を反映している可能性もある。
彼女の「治世」は、女性君主が権力を握る前例を開いたという意味では非常に重要である。これにより、18世紀にみられた女帝の出現は、ロシア帝国にとって受け入れやすいものになったからである。
自らが表に出る必要から皇女たちを縛る規則を大幅に緩和したが、これはピョートル1世による1702年の宮廷改革に先鞭をつけるものであった。」
(ウィキペディアフリー百科事典「ソフィア・アレクセーエヴナ」より引用) -
レーピンの作品として日本でも有名な絵
「休息」
1882年
日本で開催されたトレチャコフ展で見た覚えがあるのですが、再会できて嬉しかった絵の1枚です。
「イリヤ・レーピン(1844〜1930年)
ハリコフ近郊の屯田兵の家に生まれる。ペテルブルグの美術アカデミーで学んだあと、給費留学生としてパリに学び印象派美術に接するが、自身は印象派に染まることはなかった。帰国後はアブラムツェヴォ・サークルに属し、また移動派の中心的画家としても活躍したのち、美術アカデミーでも教鞭をとり多くの画家を育てた。ロシア美術史上最高の画家と称され、民衆の生活を描いた風俗画から肖像画、歴史画とあらゆるジャンルに名作を残している。代表作に『ヴォルガの舟曳き』(1873年ロシア美術館)、『クールスクの十字架行進』(1883年トレチャコフ美術館)、『イワン雷帝とその息子イワン』(1885年トレチャコフ美術館)など。」
(「地球の歩き方 ロシア(2012〜2013年版)」より) -
ほっとするあどけない寝顔
これはたしか、レーピン自身の娘の絵だった気がします。
うろ覚えの日本でのトレチャコフ展での解説によると。
「イリヤー・エフィーモヴィチ・レーピン(1844年8月5日(ユリウス暦7月24日)ハリコフ近郊〜1930年9月29日フィンランド領クォッカラ)は、移動派を代表するロシア帝国の画家・彫刻家。心理的洞察を持ち合わせた写実画によって名高く、いくつかの作品は、既存の社会秩序の矛盾や階層間の緊張を露わにしている。社会的名士の肖像画を制作するかたわらで、しばしば貧困や差別にあえぐ社会の最下層を題材に数多くの作品を残した。その作品やテーマの社会性から、1920年代半ば以降のソビエト連邦においては、当時の社会主義リアリズムに適合する模範的画家として評価されていたが、ソ連崩壊後の現在は、レーピンの扱ったテーマの多様性を客観的に見据えた上での、業績の再認識が求められている。(後略)」
(ウィキペディアフリー百科事典より引用) -
「イワン雷帝と息子、1581年11月16日のイワン」
1885年
イリヤ・レーピン(1844〜1930年)画
レーピンが描いた、息子を殴り殺したイワン雷帝の絵です。
きっとロシア人ならすぐにわかる撲殺事件。
13年前の初ロシアのときは、この意味が分からなかった覚えがあります。
レーピンは、イワン雷帝をおそろしい皇帝というより、感情にまかせて息子を死なせてしまった弱さもある1人の父親として描いています。 -
レーピンによるムソルグスキーの肖像画の一部
1881年
筆致がマネのように粗いところが、肖像画を生き生きと見せているように思えました。 -
「予期せぬ帰還」
1884〜1888年
イリヤ・レーピン(1844〜1930年)画
とても意味深なシーンです。
これも13年前の初ロシアのときに印象に残り、覚えていました。 -
帰宅を喜ばれていないのを微妙に察している男性
扉をあけたメイドまで、なんだか意味深な表情に見えます。 -
「だぁれ、あの人?」という顔つきの子供たち
子供たちのお姉さんの昔の婚約者でも戻ってきてしまったのでしょうか。
警戒心あらわな少女と、対照的に好奇心一杯の少年。 -
ニコライ・ゲー(1831〜1894年)のトルストイの肖像画
1884年
トルストイの邦訳文庫本か何かで見た覚えがある肖像画です。
「ニコライ・ゲー(1831〜1894年)
貴族の家に生まれる。美術アカデミー教授の職を辞して移動展覧会教会の設立に参加。トルストイと親しく、思想的に大きな影響を受けている。精神的、求道的志向性が強く、特に肖像画に秀でた。代表作に『ペテルゴフで皇太子アレクセイ・ペトロヴィチを尋問するピョートル1世』(1871年トレチャコフ美術館、1872年ロシア美術館)など。」
(「地球の歩き方 ロシア(2012〜2013年版)」より) -
名作を生み出したペン先
「ニコライ・ゲー
1831年〜1894年。歴史的・宗教的モチーフの絵画で有名なロシアの写実主義画家。フランス起源のロシア貴族出身。1850年に科学の道に進むのをやめ、サンクトペテルブルグの帝国絵画アカデミーに入学しました。奨学金でドイツ、スイス、フランスで学び、1860年にイタリアに滞在しました。1861年の彼の作品「最後の晩餐」は、ロシア人写真家セルゲイ・ルヴォヴィッチ・レヴィツキーの写真が利用されました。絵画の主役となる人物に写真が利用された最初の例であり、後にフランスの印象派等、写真が絵画に重要な影響を与えることになりました。1863年にアカデミーの教授に就任しました。1864年にフィレンツェに行き、宗教絵画を手がけましたが、この時代の彼の絵画はあまり評価されず、アカデミーでも定期展示会での展示を拒否されました。1870年にサンクトペテルブルグに戻った後、ロシアの歴史を主題とした絵画を手がけ、「ペーターゴフ宮殿で皇太子アレクセイを尋問するピョートル大帝」(1871年)は成功を収めましたが、それ以外の作品はあまり評価されませんでした。1880年、彼は再び宗教絵画と肖像画に立ち戻りました。彼は誰でも肖像画を描かれる権利があると考え、報酬が低くても肖像画の制作を引き受けました。この時代の彼の肖像画では、作家レフ・トルストイや画家シェドリンの肖像画が有名です。晩年、彼が制作した新約聖書をテーマにした絵画は、保守的な人々からは批判されましたが、進歩的な人々からは称賛されました。」
(ウィキペディアフリー百科事典(英語版)より抄訳)
http://en.wikipedia.org/wiki/Nikolai_Ge -
そしてついに2階のラストでハイライトの画家ヴルーベリの作品
「牧神パン」
1899年
ヴルーベリ(1856〜1910年)画
この絵は長細かったので、一部カットして撮影。
「19世紀末〜20世紀初頭の美術
2階の最後、32、33室はミハイル・ヴルーベリの部屋。移動派の後期に属し、ロシアにおけるアール・ヌーヴォーの先駆けでもある。装飾画家として、メトロポール・ホテルの壁画をデザインしたことでも有名だ。
彼の作品には“デーモン”(悪魔)や“王女”など、象徴主義的テーマをモチーフにした作品が多い。(後略)」
(「地球の歩き方 ロシア(2012〜2013年版)」より) -
さきぼどの絵の中にいた別の牧神パン
「ミハイル・ヴルーベリ(1856〜1910年)
オムスクの貴族の家に生まれる。ペテルブルグ大学法学部を卒業したあと美術アカデミーで学び、アブラムツェヴォ・サークルとも関わった。象徴主義的傾向が強く、多くの聖堂で壁画の制作や修復に従事したほか、メトロポール・ホテルの壁画の制作でも知られる。代表作に『座るデーモン』(1890年トレチャコフ美術館)、『白鳥の王女』(1900年トレチャコフ美術館)など。」
(「地球の歩き方 ロシア(2012〜2013年版)」より) -
「メフィストフェレスと彼の信奉者、マーガレットとファウスト」
モスクワのモロゾフ家のゴシック風書斎のための三連作パネル
1896年
ヴルーベリ(1856〜1910年)画
こういう絵にも惹かれます。
「ミハイル・アレクサンドロヴィッチ・ヴルーベリ(1856年3月17日〜1910年4月14日)は19世紀から20世紀にかけて、装飾や舞台美術も含め様々なジャンルで活躍したロシアの画家。アールヌーヴォーあるいは象徴主義の傾向を有する。
オムスクの法律家の家庭に生まれ、サンクトペテルブルク大学法科を1880年に出た。翌年帝室美術アカデミーに入り、パーヴェル・チスチャコフの下で学んだ。初期の作品で既に非凡な絵画の才能を示している。1884年にキエフの聖キリル教会の壁画(12世紀に造られたが失われた)に代わる新しいものの制作を依頼された。この仕事のためにヴェネツィアに行き中世キリスト教美術を研究した。ここで彼は「宝石のごとくきらびやかで豊かな」といわれる色調を獲得した。(中略)
1886年にはキエフに帰り、新しく造られた聖ヴラジーミル聖堂のためにデザインを提出したが、彼の作品の新しさは評価されず拒絶された。この時期彼はハムレットやアンナ・カレーニナを題材として、後のデーモンや預言者を主題とする暗い色調とは大いに異なる豊かな色調による作品を手がけた。
キエフ時代にはミハイル・レールモントフのロマン的な長編詩「デーモン(悪魔)」を主題とするスケッチと水彩画の制作を開始し、彼のライフワークにつながっていく。この時期ヴルーベリはオリエントの美術、特にペルシャ絨毯に強い関心を抱き、絵画の中でそのテクスチャーを真似る試みまでしている。(引用つづく)」
(ウィキペディアフリー百科事典より引用) -
「ファウストとメフィストフェレスの飛行」
ヴルーベリ(1856〜1910年)画
はじめメフィストフェレスが死神に見えました。
さきほどの絵といい、この絵といい、実際にこれらの絵が飾られたモロゾフ家の書斎は、さぞかし豪華だったことでしょう。
「(引用つづき)1890年にモスクワに移り、さらに新しい美術の流れに取り組むことになる。アールヌーヴォーに加わった他の芸術家と同じように彼は絵画のみならず陶芸やステンドグラスにも才能を示した。さらには舞台セットや衣裳の制作にも携わった。彼に名声をもたらしたのは大作「座るデーモン」(1890)である。多くの保守的な批評家は彼の作品を醜いと非難した。しかし美術パトロンのマモントフはデーモンシリーズを称賛し、彼の私設オペラ劇場と友人たちの邸宅の装飾美術を依頼した。1896年に有名なオペラ歌手ナジェージダ・ザベラと愛し合い、半年後に結婚してモスクワに住んだ。ここで彼女はマモントフの劇場への出演を依頼され、ヴルーベリは舞台セットと妻の衣裳のデザインを担当した。妻がリムスキー=コルサコフのオペラを演じる姿を描いた作品も残されている。ロシアのおとぎ話にちなむ「パン」(1899)、「白鳥の王女」(1900)や「ライラック」(1900)も描き称賛された。
1901年、大作「打倒されたデーモン」で再びデーモンの主題に戻った。精神的なメッセージで公衆を驚かすため、発表後にもデーモンの顔を繰り返し描き直した。しかしついには精神的発作を起こし精神科に入院するが、彼はそこで「真珠貝」(1904)とプーシキンの詩「預言者」を主題にした連作を描いた。しかし1906年、精神疾患と失明のため制作を断念した。1910年サンクトペテルブルクで死去。」
(ウィキペディアフリー百科事典より引用) -
ファウストとメフィストフェレスに注目
-
「白鳥の王女」
1900年
ヴルーベリ(1856〜1910年)画
モロゾフ氏からの寄贈。
トレチャコフ美術館のヴルーベリの作品の中で1番気に入りました。
大好きなバレエ「白鳥の湖」のオデットを連想したせいもあります。 -
非常にすばらしいココシュニックにも注目
ヴルーベリは13年前の初ロシアのときの印象があまり残っていなくて不思議です。 -
「ライラック」
1901年
ヴルーベリ(1856〜1910年)画
未完成作品らしいです。
ぱっと見て、紫が目に飛び込んできました。
とても印象的な絵でした。 -
良く見ると、ライラックの精らしき女性が……
-
ヴルーベリの大作の「夢の王女(夢見るような王女)」
1896年
ここにはこの絵を見渡せる位置にイスが並んでいたので、あと少し残っていた絵を最後まで鑑賞したあと、休憩のつもりで一度座ったら立てなくなり、そのまま1時間ほど休憩をとってしまいました。 -
竪琴を弾く夢見る主人公と、タイトルの王女
-
船をこぐ騎士と、船を覗く冷めた目の人々
-
「横たわった悪魔(デーモン)」
1902年
ぱっと見て、何の絵かよく分かりませんでした。
太股が目につきます。
それでも印象に残る絵でした。 -
ふ・と・も・も
-
「パリスの判定」
モスクワのダンカー家の階段の踊り場のための三連作パネル
アテネ。アフロディーテ、キューピットとパリス。ヘラ
1893年
ほんとにアールヌーヴォチック! -
タイトルがないと何の絵か分かりにくいかも
しかしよく見ると、パリスが美の勝者として与えたりんごを、ヴィーナスの代わりにキューピットが受け取っていました。 -
「ミクラ・セリアニノヴィッチとボリガ」
1898〜1899年
暖炉
同じものを民芸品博物館でも見ました。
ヴルーベリの作品だったんだなぁとここで知りました。
しかし、本人が全く同じデザインで2つ以上作ったのかしら。
それともあちらは複製品?
関連の写真
http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=31079033
http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=31079034
http://4travel.jp/photo?trvlgphoto=31079035
関連の旅行記
「2013年ロシア旅行〜13年ぶりの再訪を3年前にあきらめた旅行計画で実現【第2日目:モスクワ】(5)民芸品博物館(前編)陶器や皿や家具など」
http://4travel.jp/traveler/traveler-mami/album/10824501
これを鑑賞し終えたあと、1階に行く前に、先ほどの広間に戻って休憩をとりました。
というわけで、ここで2階の展示の写真はおわり。
次のトレチャコフ美術館の後編の旅行記は、1階の展示とイコン・コレクションの写真です。
つづく。
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この旅行記へのコメント (4)
-
- ykさん 2013/12/08 00:27:34
- モロゾワ侯爵夫人
- トレチャコフ美術館、すごいですね。
私はイコンを観にいきたいな、とはおもっているのですが、随分興味深い絵がいろいろあるのですね。
モロゾワ侯爵夫人の話はカルチャーセンターでロシアキリスト教史の講座をとったときにきいた覚えがあります。
『ロシア・キリスト教史』黒川知文著 教文館 にもこの絵はでているのですが白黒。まみさんのお写真は迫力があります。
- まみさん からの返信 2013/12/09 00:38:05
- RE: モロゾワ侯爵夫人
- ykさん、こんにちは。コメントありがとうございます。
> トレチャコフ美術館、すごいですね。
はい、トレチャコフすごいですよ!
ロシアの歴史や文学やもろもろで解説用に使われている絵画のオリジナルが目白押しです。
ああ、見覚えがあるって絵がたくさんあるんです。
旅行記を3つに分けましたが、3つ目(作成中。近日アップ予定)にはイコン・コレクションの写真もあります。ごくごく一部です。
ykさんの当初のねらいはそれでしょうか。
カルチャーセンターのロシアキリスト教史、興味深いですね。
私は一度だけそういう講座をとったことがありますが、「キリスト教美術」だったんです。当時はまだ東欧より西欧の方ばかりに目が向いていましたけどね。
> 私はイコンを観にいきたいな、とはおもっているのですが、随分興味深い絵がいろいろあるのですね。
> モロゾワ侯爵夫人の話はカルチャーセンターでロシアキリスト教史の講座をとったときにきいた覚えがあります。
> 『ロシア・キリスト教史』黒川知文著 教文館 にもこの絵はでているのですが白黒。まみさんのお写真は迫力があります。
- ykさん からの返信 2013/12/09 10:19:15
- RE: モロゾワ侯爵夫人
- まみ様
私がいっているのは朝日カルチャーセンターで 新宿には結構ビザンチン美術の講座があります。(別に朝日の回し者ではありません)
http://www.asahiculture.com/shinjuku/index.html
黒川先生のも単発であるようです。
黒川先生は 前述の本を中心にした講座では(美術史ではありません、宗教の方です)アンドレイ・ルブリョフ、という映画のDVDを見せながら、当時の民衆の宗教生活の解説を なさいました。
ソロヴィエツキー修道院にも行かれたそうで、そのときのDVDもみせていただきました。
まみ様個人でよくぞ、あそこまでいらした、と感心しております。
行きたい、と講座で予習しながらチャンスがなくて、講座内容もおぼろに、、。行きたいという気持ちまでも風化。情けないです。
益田先生のロシアイコンも単発であるようです。益田先生はどちらかというと、もう少し古い方が御専門だとはおもいますが、この先生の講座もいいですよ。
私は横浜在住なので、東京午前は、特に寒い時期はつらいので、出席するかどうかはきめていませんが、、
多分早稲田でも講座はあると思います。
- まみさん からの返信 2013/12/10 08:34:08
- RE: RE: モロゾワ侯爵夫人
- ykさん、こんにちは。案内ありがとうございます。
行けるかどうか分からないのですが、資料を請求してしまいました。
そのあとで、講座検索かければいいんだと気付きました。苦笑。
はるか昔に私が行ったことがあるのはNHKカルチャーセンターだったことを思い出しました。会場は青山でしたが、アクセスは新宿の方が私にとっては便利です。
最近、観劇趣味にはまってかなりしっかり予定を入れてしまっているので、センターに通える時間がとれるかどうか分からないのですが、興味が沸きました。ありがとうございます。
ソロヴェツキー修道院に行ったとはいえ、全然いわれとか歴史は知らないんです。なさけないことにググッテヒットした程度です。
ザヤツキー島に行くときの往復のボートでキリスト教史にかかわるビデオが流されていて、ツアー客はみんな真剣に見ていました。そこでザヤツキー島のことも触れられていましたが、、、オールロシア語地元なし、あきらかに外国人観光客は全く意識していないので、なんのことかさっぱり分からず、もったいない気がしました。
とはいえ、あのあたりの寒村は、のんびり過ごす場所としては、ステキな田舎でした。と、半ば悔し紛れ?
ロシアイコンは書籍で勉強しましたが、それは13年前にはじめてロシアに行ったときの方が熱心でした。いまはそのときの記憶をちょちょっと焼き直ししたくらいで、予習・復習だいぶ手を抜いています。苦笑。
ロシア行きのツアーはよく組まれているようなので、その中でも自由度が高かったり、あるいはykさんの好みの内容のところにいつかお出かけになれるといいですね。
たとえば日本でも、エルミタージュ美術館を存分に楽しむツアーみたいなのはありそうです。まあ、エルミタージュはそういう団体客も多いので、団体にしてはミーハーでない団体も多いかわりに、私は7月なんぞに出かけたので、チョー混んでましたけど@@
> http://www.asahiculture.com/shinjuku/index.html
>
> 黒川先生のも単発であるようです。
> 黒川先生は 前述の本を中心にした講座では(美術史ではありません、宗教の方です)アンドレイ・ルブリョフ、という映画のDVDを見せながら、当時の民衆の宗教生活の解説を なさいました。
> ソロヴィエツキー修道院にも行かれたそうで、そのときのDVDもみせていただきました。
> まみ様個人でよくぞ、あそこまでいらした、と感心しております。
> 行きたい、と講座で予習しながらチャンスがなくて、講座内容もおぼろに、、。行きたいという気持ちまでも風化。情けないです。
>
> 益田先生のロシアイコンも単発であるようです。益田先生はどちらかというと、もう少し古い方が御専門だとはおもいますが、この先生の講座もいいですよ。
> 私は横浜在住なので、東京午前は、特に寒い時期はつらいので、出席するかどうかはきめていませんが、、
> 多分早稲田でも講座はあると思います。
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