2013/05/02 - 2013/05/02
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frau.himmelさん
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Gご夫妻にドレスデン郊外のシュトルペンに連れて行っていただきました。
ここには、アウグスト強王の寵愛を一身に受けながらも、王の逆鱗にふれ、49年と言う長い生涯を頑健な城塞の塔に幽閉され続けたコーゼル伯爵夫人の悲しい物語があります。
粗末な家具が並ぶ室内の壁に、晩年のコーゼル夫人の肖像画が飾ってありました。
あれほどの逆境にありながら、最後まで名誉を失わず、年老いてもなお美しく毅然としたコーゼルの姿。
この凛とした肖像画を見て、不覚にも涙が出そうになりました。
「無念だったでしょう、よく頑張ったわねー」と、そっと声をかけたくなりました。
表紙はコーゼル夫人が幽閉されていたシュトルペン城の通称コーゼルの塔。パンフレット写真からコピー。
参考資料:川口マーン恵美「ドレスデン逍遥」
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私たちは、Gご夫妻に車でシュトルペンまで連れて行っていただきます。
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「あの橋が世界遺産抹消の原因になった橋なのよ」とGさんが説明してくださいました。
ニュースでやっていましたね。
ドレスデンの歴史的建築物とエルベ川の景観は、ユネスコの世界遺産に登録されていました。
しかし住民の利便性のために架橋の問題が持ち上がりましたが、景観を損ねるとしてユネスコから待ったが掛かったのです。
住民の利便性をとるか、世界遺産の景観とるかをめぐって住民投票が行われたました。
その結果、3分の2の賛成で利便性をとることになり、世界遺産登録抹消が余儀なくされたという経緯があります。 -
車は森の中、平地の中を走り、シュトルペンまで2キロの地点に差し掛かかりました。
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ここは駐車場兼バスの停留所。
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ここまで5系統のバスが発着しています。
私たちも車で連れてきていただかなかったら、バスで来なければならないところでした。
ちなみにバスでの行き方
ドレスデン中央駅から261番、Neustadt/Sebnitz 方面行き
Stolpen Ärztehaus停留所 1時弱です。 -
城塞の街シュトルペン。
やはり見所は要塞と、アウグスト強王に寵愛されながらも、その後要塞の塔に49年も幽閉されて続けて悲しい生涯を終えたコーゼル伯爵夫人のことですね。 -
駐車場からなだらかな坂道を登っていきます。
シュトルペンは長閑な田舎町という雰囲気 -
民家の庭先から丘の上に要塞の塔が見えてきました。
あそこにコーゼルは49年間も閉じ込められたんですね。
あの城に行く前に、アウグスト強王とコーゼル伯爵夫人の歴史を振り返ってみましょう。 -
ザクセン王国の首都ドレスデン、1694年、フリードリヒ・アウグスト1世は24歳でザクセンの選帝候になりました。
その後、ポーランド王をも兼任し、まさに繁栄の時代を迎えます。
ところが女性遍歴は華やか。
次々に側室を迎えては飽きてまた次の女性へと、遍歴を重ねていました。 -
方やコーゼル伯爵夫人こと、アンナ・コンスタンティア。
彼女は裕福な家に生まれ、一流の教育を受け、それが認められ公爵家王女の女官として仕えます。
しかし23歳の時、誰の子ともわからない子を妊娠して家に戻りました。
程なくして1703年ホルム男爵と結婚しました。
(肖像画はアンナ・コンスタンティアと彼女の夫ホルム男爵) -
そんな時に、彼女はアウグスト強王の目に留まったのです。
1704年24歳のときでした。
ところが聡明な彼女は簡単に強王の手に落ちたわけではありません。
側室になる条件として、正妻と同じくらいの高額な手当て、王と彼女との間に生まれた子は認知する。極めつけは正妻亡き後は彼女を正妻にすることなど盛り込んで、アウグストに迫ります。
普通なら父親不明の子を産み、しかも既婚者ですから考えられない条件です。 -
でも、それでも王は彼女が欲しかった。
ここに二人の間に秘密契約が取り交わされ、ようやくアウグスト王は彼女を手に入れることが出来たのでした。
王の彼女に対する寵愛ぶりは並大抵なものではなかったようです。
彼女はドレスデン城の隣にあるタッシェンベルク宮殿を与えられました。
現在の超がつく豪華ホテル、ケンビンスキーホテルです。 -
そして、アウグスト強王が住むドレスデン城はそのお隣。
またコーゼルには、コーゼル伯爵夫人という称号も与えられました。 -
コーゼルが住むタッシェンベルク宮殿と、王の居城ドレスデン城は、可愛い空中回廊で結ばれていました。
蜜月時代はここを通ってたびたび逢瀬を重ねていました。 -
さらに彼女には、郊外のピルニッツ宮殿とその領地をも与えられ、そこからの収入もかなりのものだったようです。
アウグスト王なき後には、ここは彼女の居城にするという約束も取り交わされていました。
たとえ、王の心変わりがあったとて、コーゼルの将来は約束されているはずでした。 -
エルベ川沿いのピルニッツ宮殿の船着場。
アウグスト強王は特製のゴンドラ船でしばしばここを訪れていたそうです。
コーゼル夫人は、強王の寵愛をほしいままにし、政治にも口出しをするようになりました。
もはや正妻亡き後はコーゼルが正妻の座に就くことを疑うものはいませんでした。
女性遍歴が激しいアウグストにしては破格に長い7年という年月を、コーゼルは彼の寵愛を一身に集めたのでした。 -
でもいつまでも蜜月時代は続きませんでした。
ポーランドにおける政治をめぐって強王と対立し、また強王がポーランドにも側室を持つに至って、二人の不仲は決定的となりました。
強大になったコーゼルの勢力を面白く思わない強王の側近の暗躍なども加担しました。 -
アウグスト強王はコーゼルが持っている秘密文書を手に入れようと画策します。
危険を察したコーゼルは、隣国プロイセンに逃げました。
しかし多くの国家機密に通じているコーゼルをプロイセンに放置することは、アウグストに取ってはこの上なく厄介なこと。
そこでアウグストはプロイセン王に、プロイセンの捕虜との交換を条件に彼女の逮捕を依頼します。 -
1714年、逮捕されたコーゼルは、ドレスデン郊外のシュトルペン要塞につれてこられます。彼女35歳の頃でした。
◆◆
坂道を登って城門に着きました。 -
城門を入ると右側にインフォメーションセンターがあります。
-
インフォメーションセンターの中には甲冑や武具なども展示してあり、当時の要塞としてのこの城の有り様を感じられます。
ここで1人5ユーロの入場料を払って・・。 -
堅牢な岩をくり抜いた地下室もあります。
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もっと奥に行って見ましょう。
周りを壁で囲まれた城砦です。
右の丸い可愛い塔はScoesserturm:税金の塔?。 -
こちらがコーゼルが幽閉されていたコーゼルの塔です。
この地方は大昔から玄武岩の産地で、城の基盤も頑丈な玄武岩の上に建っています。
火山から噴出したままの石柱をそのまま使った箇所もありあります。 -
正面入り口
-
コーゼルの塔に入る前にちょっと付近を散策します。
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城塞より街の風景を眺めます。
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玄武岩でできた堅牢な要塞。
この砦は、ドレスデンに攻め入ってくる外敵を見張っていた砦でした。 -
アウグストに逮捕されたコーゼルは、最初、武器庫として使われていた頑丈な建物に放り込まれました。
まだこの頃は召使もいて、武器庫の8室を5人の召使とともに使っていたそうです。
しかし外界との接触はおろか、一人で庭を散歩することも許されなかったのです。
もちろん子供や母親との面会も許されませんでした。 -
逮捕後28年間住んだ武器庫は傷みが激しくなり、コーゼルが64歳のときこの見張りの塔に引越しをします。
そしてここで生涯を終えることになるのです。
見張りの塔の入り口。
では中に入りましょう。 -
どうしてコーゼルはここまで過酷な運命に耐えなければならなかったのか?
アウグスト強王は、コーゼルに秘密文書の引渡しを強要したがコーゼルは頑として拒んだ。
その中には正妻亡き後にはコーゼルを正式の王妃にするという証明書も入っていました。 -
1年後についに結婚契約書が見つかり、ピルニッツ宮殿も明け渡しを求められたコーゼルは、もはや何の権利も持たないただの女性となりました。
にも関わらず幽閉され続けたコーゼルは、外界との手紙も全て検閲されました。
コーゼルの水茎も美しい自筆の書簡が残っていました。
G夫妻はこれを見て、コーゼルが如何に教養のある聡明な女性だったかわかると感想を述べていました。 -
アウグスト強王が倒れたのは、コーゼルが監禁されてから16年の月日が経っていました。
訃報に接したコーゼルは喪服に身を包んで彼の死を悼んだということです。
彼女は新しく君主となったアウグスト2世に特赦の申請をしましたが却下されます。
しかし、許可が出れば子供たちに会うことは許されました。
その時、長女は既になくなっており、次女は24歳、長男も21歳になっていました。 -
コーゼルとアウグストの子供たち。
アウグスト強王には365人から382人ほどの私生児がいました。
アウグストはその中のごく一部しか認知しませんでしたが、コーゼルとの間の娘2人、息子は、コーゼルとの密約により認知されました。
上から
1.アウグスタ・アンナ、コーゼル伯爵夫人(1708年 - 1728年)長女
2.フリーデリケ・アレクサンドリーネ、コーゼル伯爵夫人(1709年 - 1784年)次女
3.フリードリヒ・アウグスト、コーゼル伯爵(1712年 - 1770年)長男 -
コーゼルの無念さをひしひしと感じながら、当時の生活ぶりが復元されている粗末な部屋を眺めました。
当時の暮らしぶりについては次のような記録が残っているそうです。「ドレスデン逍遥」より -
『小さな居間は壁紙が張られておらず、2客の古い壊れかけた椅子、数個の木の粗末なテーブル、天蓋のない大きな木製のベッドがあった。
伯爵夫人用の椅子は、肘掛はあったが背もたれがなかった。夫人はその椅子の上に羽毛のクッションを2つ重ねて敷き、背中は竈のほうにむけるようにして腰掛けていた。
天井から下がっているランプは夕方から朝まで燃え続けていたので、その煙と煤ですべては真っ黒になっており、壁に掛かった粗末な時計は、針がよく見えないほどだった。』 -
奥に大きな木のベッドが見えます。
このベッドの下にはノミ取り容器が置いてありました。
G夫人が「コーゼルさんもノミには悩んだことでしょうね」と言っていました。 -
コーゼルが日常使っていたもの。複製です。
-
竈と食器類。
台所と居間は同居だったのですね。
コーゼルは、時々はタッシェンベルク宮殿の華やかな生活を思い出すこともあったでしょうか? -
救いだったのは、数少ないながらも豪華な家具があったこと。
コーゼルのかっての豪華な生活が忍ばれて、少しホッとしました。 -
監視つきでなければ自由に散歩も出来なかったコーゼル、この窓から辛うじて四季の移ろいを感じていたのでしょう。
コーゼルが逮捕されて以来、ドレスデンにはいろんな出来事が起こっていました。. -
首都ドレスデンには大きなフラウエン教会、宮廷教会も完成しました。
アウグスト強王亡き後は、息子のアウグスト2世は、大臣ブリュールに政治を任せ芸術品収集にうつつを抜かし、2度にわたるシュレージエン戦争が民衆を苦しめました。
そして7年戦争が始まり、ドレスデンも破壊されました。
また彼女に対して特赦を与えようとしなかったアウグスト2世も亡くなり・・。
そういう情報をすべてこのシュトルペンの塔で、背もたれのない椅子に座りながら、コーゼルはどういう気持ちで聞いたのでしょうか。 -
部屋の片隅に設置してあるのは、外に自由に出ることも叶わず用足しさえままならなかった彼女用のトイレ。
1745年、シュトルペンの城塞がプロイセン軍に占領された時も、頑としてここを動かなかったというコーゼル伯爵夫人。 -
結局、1765年85歳で息を引き取るまでの49年間、コーゼルはこの塔で暮らすことになったのです。
壁に彼女の晩年の肖像画が飾ってありました。
あれほどの逆境にありながら、最後まで名誉を失わず、年老いてもなお美しく毅然とした姿のコーゼルの姿。
この凛とした肖像画を見て、私の胸がつぶれる思いがしました。
そして「よく頑張ったわねー」と、そっと声をかけたくなりました。 -
死の直前に彼女は手紙や書類を全て焼いてしまったということです。
この世に自分の足跡を残したくないとでも言うように・・・。
◆◆
田舎町の小さな城塞のこと、人も多くないだろうと思っていましたが、観光客が次々に訪れて驚きました。 -
コーゼルは80歳のときに遺書を作成し、息子を単独相続人に指定しました。
アウグスト強王と最初に結んだ手当てには遥かに及ばないけど、彼女に毎年支給されていた手当てがかなりの額が残っていたそうです。
塔に幽閉された身では出費も少なかったでしょうから・・。 -
フラウエン教会の傍にあるこの美しいバロック調の建物、コーゼルパレス。
ここはコーゼル伯爵夫人の長男フリードリヒ・アウグスト・フォン・コーゼル伯爵によって建てられた宮殿です。
1765年、亡くなった母・コーゼル伯爵夫人の遺産で完成しました。
コーゼル伯爵は、紛れもないアウグスト強王とコーゼル夫人の間に生まれた息子です。 -
息子と言えども4歳で母は囚われの身となり、次に会ったのはコーゼル伯爵夫人が条件付きで家族と会えるようになった、彼が21歳の時でした。
コーゼル・パレス、今はカフェ・レストランになっています。
ここもドレスデン空襲で破壊されたので、2000年にオリジナルの姿に再現されたものです。
コーヒーカップには1765年創業の文字が・・
コーゼル伯爵夫人が悲しい生涯を閉じた年です。 -
上階にもコーゼルの足跡が残っているのかしら?
狭い螺旋階段を登ります。 -
ここはシュトルペン城の歴史や街の歴史が展示してあります。
昔のシュトルペン城の図 -
当時の官吏の衣装
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測量器具や日用工具類
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塔の天井は頑丈な木造です。
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コーゼルが背負った悲惨な運命を見続けてきたコーゼルの塔。
そろそろ別れを告げて、下に降ります。 -
Burghof。かつての穀物蔵や厩だったところ。ここに昔のシュトルペン城の生活や歴史が偲ばれる器具などが展示してあります。..
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水を引いた装置?
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中世の城お決まりの拷問道具
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拷問道具
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1793年製造、消防荷車?
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城のなだらかな坂道を下りてマルクト広場に出ました。
可愛い広場です。
今の時期、モクレンの花がどこでも真っ盛り。 -
真ん中の屋根の上に小さな塔が乗っかっている建物がラートハウス
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石柱を突き刺したようなモニュメント。
これはこの地方で産出された玄武岩。約2500万年前に火山から噴火したものらしいです。 -
そしてこの、「Postdistanz Saule」。
シュトルペンからのいろんな街までの距離(時間?)がほってありました。 -
その碑の前には「Zur alten Post」。
昔の郵便馬車の到着地だったところで現在はカフェ・レストランになっています。 -
丘の上には、コーゼルの悲しい歴史を秘めたシュトルペン城塞が見えます。
この後、Gご夫妻にドレスデンの街中まで送っていただいて、そこでお別れしました。
一緒にお食事でもと申し上げましたが、これからドレスデンに住んでいるお嬢様に届け物があるとのこと。
次回はぜひツヴィッカウにいらっしゃいとお誘いしてくださいました。
今日1日本当に有難うございました。
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この旅行記へのコメント (6)
-
- utamiumiuさん 2013/10/05 02:41:46
- すっごくありがたいお話でした。
- コーゼル悲話、詳しくその歴史を書いて下さってありがとうございました。
私もアウグストは何故彼女を殺さなかったのかずっと疑問でした。
ヘンリー八世なんて片っ端から正妻を殺していったんだからアウグストだってできたはず。
想像ですがコーゼルの聡明さを認めて、殺すに忍びなかったか、殺すと彼にとって不都合なことになるのを知っていたからか?
なんてね。
しかし不幸な環境の中、世界最長寿の日本人女性の平均寿命近くまであの時代に生き延びたコーゼルの生命力すごいですね。
認知症にもならなかったみたいだし。
美しい写真とともにいつもながら詳しい説明をありがとうございました。
- frau.himmelさん からの返信 2013/10/05 15:52:21
- RE: すっごくありがたいお話でした。
- utaさん こんにちは。
いつも有難うございます。
やっとドレスデンに着きました。
> コーゼル悲話、詳しくその歴史を書いて下さってありがとうございました。
何を仰いますやら、私こそ、utaさんの旅行記を参考にさせていただいています。
実は、今作成中の旅行記でも、utaさんの「コーゼルの涙」の説明を使わせていただきたいと思っています。
よろしくお願いします。
本当に私もドレスデンにどっぷり浸かってしまいました。
> 私もアウグストは何故彼女を殺さなかったのかずっと疑問でした。
> ヘンリー八世なんて片っ端から正妻を殺していったんだからアウグストだってできたはず。
> 想像ですがコーゼルの聡明さを認めて、殺すに忍びなかったか、殺すと彼にとって不都合なことになるのを知っていたからか?
そうですね。アウグストがコーゼルを殺さなかった理由は、愛情と言うだけでは希薄ですね。だってあんなに大勢の愛妾が居たわけですから、さすがのコーゼルもその中の一人でしかなかったわけですね。
結婚契約書やその他の秘密書類、それにハンブルクに預けたという莫大な額の銀行の鍵、などが見つかってしまえばもう用はないはずですものね。
やはり聡明だったゆえ、殺すに忍びなかった・・のでしょうか。
これからもutaさんの旅行記を参考にさせていただきたいと思います。
よろしくお願いいたします。
himmel
-
- 迷子さん 2013/10/03 02:08:38
- 壮絶な人生をおくった女性も居たもんだ・・・
- 永きに渡って幽閉とは、すごい経験っすね。
今と違って人権擁護なんて王様の時代には無かったのね。
しかし、
王の醜聞から外交機密まで握っていたなら、
彼女を始め一族郎党、友人知人の果てまで
罪状なんか何とでもして関係者ごと口封じも出来たはず?
自由を奪って置いても
生かしておいたのは・・・ちょっぴり愛情も残ってた?
可也制限された生活だったけど、
世間の外に身を置く多くの名も無き人々よりは
安泰に暮らせたよーな・・・
明日の糧もままならぬ自由と
死ぬまで糧に困らない不自由と・・・難しいっすね。
- frau.himmelさん からの返信 2013/10/03 20:18:47
- RE: 壮絶な人生をおくった女性も居たもんだ・・・
- 迷子さん ご出発前の忙しい時にご訪問くださって有難うございます。
ホント! コーゼル伯爵夫人の一生って壮絶でしたね。
アウグスト強王の側室時代の7年間は、華やかな絶世時代を送りましたが、そのツケが50年近い自由を奪われた幽閉生活。
天秤に合ったのでしょうか?
> 王の醜聞から外交機密まで握っていたなら、
> 彼女を始め一族郎党、友人知人の果てまで
> 罪状なんか何とでもして関係者ごと口封じも出来たはず?
そっかー(笑)、私の中で何か腑に落ちないものがあったのはこれでした。いっそのこと、一刀両断に口封じもできたのですよね。
愛情?
そんなものがあったかしら。なんたって400人近いアウグストの子供たちの母親の数も大変な数だったはず。
路傍の石より軽い・・?。
調べたら、それだけ大勢の側室・愛人にも、飽きてしまったらそれなりの待遇をして放出していたそうです。
コーゼルも月々の手当を貰っていて、それを貯めこんであの素晴らしいコーゼルパレスができたとか。
コーゼルの話になると長くなりますのでこれくらいにしますね。
迷子さんの誰も行かない場所での石探し、ドクロ探しも面白いでしょう?
何かを目的の旅って楽しいですね。
お気をつけて行ってらっしゃいませ。
himmel
-
- norisaさん 2013/09/30 17:31:37
- わがままな王様!?したたかな伯爵夫人!?
- frau.himmelさん
なるほど!
あのマイセン磁器のアウグスト王、そういう方でしたか。
今ならアメリカ大統領でも世間体を気にしますが、昔はやりたい放題ですね。
まあ、日本の殿様も同じですね。
人間が権力を得た時に真価がわかります。
(昔は跡継ぎが絶対必要だったので複数妻がいるのはいたしかたないですが)
でも伯爵夫人も超交渉上手ですね。
今からでも日本の外務大臣に再就職して頂きたいものです。
norisa
PS:世界遺産取り消しの橋、これでしたか!
ユネスコもアウグストさん並にえらーそー&わがままですね!?
- frau.himmelさん からの返信 2013/10/02 15:53:52
- RE: わがままな王様!?したたかな伯爵夫人!?
- norisaさん こんにちは。
返信が遅くなって申し訳ありません。
> なるほど!
> あのマイセン磁器のアウグスト王、そういう方でしたか。
そう、そういう人だったのです。400人も子供がいるなんて、信じられな〜〜い!ですね。
まさにアウグスト強王!!
それに引き換え、コーゼル夫人はしたたか?
まあ、そういう見方もありますが、われわれ女性にとって「よくぞやった!」って溜飲が下がる思い(笑)。
でもその気の強さが身を滅ぼしたのですね。
30数歳から50年近くも、あんな田舎の華やかとは決していえない粗末な塔のなかで生涯を終えなければならなかった・・。自分の子供たちにも会えず・・。
晩年の毅然としたコーゼルの肖像画、あれを見て思わず涙しました。
あれがうらぶれた老婆だったら、仕方がないでしょうで片付けるたかも知れませんが、あの口元をきりりと締めて、胸を張っているいつまでも美しいコーゼルを見たら・・もう駄目でした。
コーゼル秘話を訪ねる旅は、私の2年越しの課題でしたから、そういうコーゼルにあえてよかったです。
> 世界遺産取り消しの橋、これでしたか!
> ユネスコもアウグストさん並にえらーそー&わがままですね!?
ええ、私もそう思います。ドレスデンの街並みは、こんな橋くらいで世界遺産取り消しになるような街ではないと思います。
himmel
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