2013/09/05 - 2013/09/08
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Elliott-7さん
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・・ 慰霊碑と日本人墓地を参拝 ・・
今日はかねて予定どおり、市の郊外にある”シベリア慰霊平和公苑”と、空港近くにある”日本人墓地”を巡拝する。
シベリア抑留(シベリアよくりゅう)者とは、満州や朝鮮半島で終戦を迎えた旧日本軍捕虜たちが武装解除されソ連側に投降、シベリアに労働力として強制的に移送され強制労働を強いられた人々のことである。
スターリン時代のソ連、厳寒の地で満足な食事や休養も与えられず、過酷な労働を強要させられたことにより、多くの抑留者がシベリアで死亡したのである。
厚労省のHP、「シベリア抑留中死亡者に関する資料の調査について」によれば、次のように表記してある。
① 旧ソ連地域に抑留された者 約 575、000人
② 現在までに帰還した者 約 473,000人
③ 死亡と認められる者 約 55,000人
④ 病弱のため入ソ後、旧満州や
北朝鮮に送られた者 約 47,000人
シベリアにはおよそ57万人が抑留され、うち5万5千人が死亡している。つまり、抑留者のうちおよそ1割が亡くなっていることになる。抑留期間は最長10年の長期にも及ぶ。
・・ シベリア慰霊平和公苑 ・・
ハバロフスク市内からバスで30分くらい離れた郊外に、”シベリア慰霊平和公苑”がある。(公園でなく公苑)戦後50年経った1995年に、外務省・厚生省・日本政府、ロシア連邦、ハバロフスク市と太平洋戦争戦没者慰霊協会など抑留4団体などによって建てられた平和公苑である。
この慰霊碑は、旧ソ連において抑留中に死亡した全ての人々の”慰霊”と、”恒久平和”を願って1995年に建立された。
公苑の入り口正面中央には、”平和慰霊公苑”と、自然石に刻まれた石碑が置かれ、そこから奥へ真っ直ぐな道が続きその道の両サイド・左右には芝が植えられ花壇もある。
道の行き止まりに赤レンガを使った四角形の奇抜なモニュメントが建っている。高さ5m、長さ10mの立法体でその中の円筒形建造物と合体して一つのモニュメントが形造られている。
正面の慰霊碑からこの赤レンガ色のモニュメントに行くその途中、左手の自然石に”シベリア戦没者慰霊碑”と、日本語で彫られた石碑がある。ここには、現地で亡くなった9人の抑留者が埋葬されているという。
2003年1月に小泉元総理がここを訪れ、献花し黙祷を捧げた由。(厚労省HPより)
・・ 日本人墓地 ・・
ハバロフスク空港へ行く途中に墓地がある。ここはいわゆるロシア人専用墓地なのだが、その中の一角に黒い鉄柵で囲まれた日本人墓地がある。この墓地は1945年に造られ、1956年に整備されている。
木立の中には戦後シベリア抑留で亡くなった300名の旧日本軍兵士のお墓と慰霊碑がある。周囲のロシア人墓地は一様に、大きな御影石に生前の写真が模写されているが、お墓一つとっても文化の違いがあるものだ。
トロリーバスを降りて墓地に向かう入り口付近には、沢山のお花やさんが軒を並べて花(生花・造花も)を売っているので、ここに墓地があることがすぐわかる。
郊外の平和慰霊公苑は午前中に参拝し、日本人墓地は午後から参拝したのだが、平和慰霊公苑からの帰途、偶然にもとある大学を訪問し学食でランチを食べることにした。
食後、しばし学生たちと英語で会話。この国では英語があまる通じないが、やはり大学生は英会話ができると見受けた。
ハバロフスクは、新潟と姉妹都市関係にあるので、3年後には新潟の大学に留学するのだと楽しそうに話していたのが印象的だった。
しかし、大学に中国語講座はあるが日本語講座がないとのこと、ロシアにとっては日本より中国重視なのか?
午後、日本人墓地を参拝したのち通りに出てトローリーバスでホテルに戻ったのは夕刻だった。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 同行者
- 一人旅
- 交通手段
- 高速・路線バス 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
バスで駅前まで移動。車内の様子・・ -
バスに15分くらい乗ったら、見覚えあるハバロフスク駅舎が見えてきたので下車、 -
駅前から、アムールスキー並木通りが真っ直ぐ南に延びている。
-
駅前広場には、おなじみ町の名称になった”ハバロフ”の銅像が建っている。
-
エロフェイ・パヴロヴィッチ・ハバロフの銅像
彼はロシアの商人であり探検家でもある。
アムール川流域を探検し、ロシアの植民地化を図った人物として知られており、ハバロフスクの地名は彼の名前に因んでいる。
銅像は駅の方に向かって立っている・・ -
銅像前面から・・ -
駅の正面入り口・・
厳寒期の冬は駅待合室を開放できないので、平生でも門が閉まっているのだろう・・ -
駅待合室には、フードコートがあった。
日本からやってきたテレビクルーが収録していた。
(日本語でやりとりしてたので・・) -
駅ホームに出てみよう、
警官がいたがノーチェック
ホームには長い列車が停車していた・・ -
ここからウラジオストックへ、ウラジオストックからここハバロフスクまで、
夜行寝台列車”オケアン号”が出ている。
車中で一泊、所要時間13時間。利用者は多い。このコースも予定に入れていたがのたびは利用せず。
因みにここから首都モスクワまでは8351km、6日間がかりで走破するとか。一度は体験したいものである。 -
そろそろ郊外バスの時間がきたので、駅前のバス乗り場へ
ガイドブックによれば、ここから6番のバスに乗るようにとの説明があった。 -
やってきたバスの車体は、板金塗装前の錆が浮いた鉄板が、そのまま・・
駅前から30分くらいの郊外だから、果たして運賃は?
幸いバスの運転手は簡単な英語が話せる男性だったので、慰霊公苑の写真を見せながら、「ここへ行きたいんだが・・」と、
彼はわかった、「そこに座っとれ、目的地に来たら教えてやるから・・」と、快い返事をくれた、
車内は座席が埋まるくらいの乗車率だったが郊外に行くに従って客がどんどん減ってきた。
建物が少なくなった郊外をバスはひた走る・・・
行き交う車は9割以上が日本車のトヨタ、新車もあり中古車もあり、右側通行なのにハンドルは左でなく右ハンドルだ!
しかし日本車がかくも多いとは! ニッサン、ホンダが少々、マツダはほとんど走っていない!
しかし、バスやマイクロは古い型のHyundaiや Daewooが多い。ここは日野や三菱ふそうに頑張ってもらいましょうか、 -
しばらく走っていくと、バスの運ちゃんが、
「そこの日本人あんたが降りるのはここやで・・」と、簡単な英語で教えてくれたので、運ちゃんに「スパシーバ」とお礼を言う。
「ええか、この交差点を左折してまっすぐ行くんや。2,3百メートル行ったら左手にパークがあるからな!すぐわかるわ!」
「スパシーバ、スパシーバ!」
運賃はこんな遠くまでやってきても、市内同様たったの15ルーブルだった! -
バスを降りて交差点を左に進む・・
メイン通りなのだろう、車が多く猛スピードで駆け抜けていく、
周囲は何もない・・ -
バスを降りて車道脇にあるこのような人道をテクテク歩くことおよそ15分、
団体ならここまでバスで連れてきてもらえるんやろうな・・
こういう時、個人旅行の悲哀を感じる・・ -
左手に公園のような雰囲気のところに出た。
あそこだな!あれが平和慰霊公苑だ。運ちゃんの言うた通りやったわ!
人影はまったくない! 管理人もおらず! -
”平和慰霊公苑”と書かれた石碑があった・・ -
題字は、”瀬島龍三”書とある。
瀬島についての評価は分かれるなので、ここでのコメントは避けたい。
ただ、何で瀬島が揮毫したんや? の思いあり!
山崎豊子原作「不毛地帯」の主人公に描かれているが・・・美談にしていなか?
-
裏面から見た石碑・・ -
正面、奥の慰霊モニュメントに向かって真っ直ぐな道が・・・
-
その途中、左手にひっそりと慰霊碑が一基・・ -
自然石には、”シベリア戦没者慰霊碑”と日本語で彫られていた。
日本から持参したローソクに灯を点けて、お線香を手向け神妙に合掌、礼拝。
亡き父の遺言なり!
2003年2月、この碑前で小泉純一郎元総理は厳寒期にもかかわらず、オーバーコートを脱ぎ数分間黙祷された由。
初めてシベリアの慰霊碑を参拝された内閣総理大臣である。(厚労省HPより)
その後2012年に、玄場外務大臣がAPECでロシアを訪れ、慰霊碑に参拝している。
閣僚として参拝したのはこの二人だけ!
シベリア抑留者のことは、風化しつつあるのか? -
碑文を紹介しておこう・・
「碑文」
春夏秋冬終戦幾星霜を過ぎし今も尚をシベリアの荒野に無残にも散華されし戦友に対し唯一人として一本の花一本の香も捧げる者も無く無念の戦死を遂げられし戦友の御霊の安かれと祈願して永遠に鎮魂されますことを念じ、
茲に法要を営み謹んで慰霊の碑を建立いたします。(原文のまま)
昭和 五十七年 六月吉日 -
その後、一番奥にあるメインモニュメントへ移動 -
ガイドブックなどに掲載されている、特徴あるモニュメントが・・
-
近づいてみる。
赤レンガ造りの円形の台座の上に立方体のモニュメントが建っていた。。
設計者は、久留米市出身の菊竹清訓氏という。 -
時計廻りにひと回りしてみよう・・・ -
斬新なデザインの慰霊モニュメントだ!
後ろの方に焚き火の跡があり、空き瓶が放置してあったのは残念!
管理が行き届かないのだろう・・ -
-
-
ひと回りした後、建物中央に入ってみる
この真ん中で手を叩くと、音がよく響くというので実際にやってみた、
確かに空洞内で音がよく響く! -
円筒形の壁面に次のように和文で書かれていた。
”日本人死亡者慰霊碑”
日本人死亡者慰霊碑
さきの大戦の後
一九四五年から一九五六年までの間に
祖国への帰還を希みながらこの大地で亡くなられた
日本人の方々を偲び平和への思いを込めて
この碑を建設する
竣工 平成七年七月三十一日
日本国政府
反対側には、ロシア語で
多分同文であろう。 -
モニュメントの位置から正面を望む。。
慰霊碑へ行かれる方へ、周囲にはトイレが全然ありませんよ・・ -
傍らに咲いていた野菊、これから極寒の冬を迎える前に・・
帰途、物乞いの地元老婆と出会う、お金を恵んで欲しいようだった、
一旦無視して行きかけたが、「これも何かの縁だろうか?」
引き返してポケットから50ルーブル渡すと、スパシーバ々々
もし、ロシア語が話せたら「おばさん、時々周りを掃除してくれませんか?」と、お願いするのだが・・・ -
帰りが大変だった!
帰りのバスの時間がわからないしバスストップがわからない。
来た時降ろしてくれたのはバス停でないところだったとわかる、
運ちゃんが気を利かせて、善意で交差点まで乗せてくれそこで降ろしてくれたようだ。
仕方ない、バス停まで歩くか、4または500mくらい歩いてやっとバス停の印があるところまで辿り着く。
バス停のマークがあった。ここはバス停に間違いなし。
しかしいくら待ってもバスはやって来ないのだ、
10分過ぎ、20分過ぎてもバスはやって来ない! -
このバス停の前になかなか近代的な立派な建物があった。
後で調べてみると、”ガンセンター”のようだった。
ここがバス停だった! すると、かなり離れたところでバスを降ろしてくれたことになる・・
、 -
バス停に地元のおばさんがバスを待っていた。。
長いこと待っているとバスがやっと来た
やってきたバスに乗ってもこのおばさんは乗って来なかった。
私が乗り間違えたことが後でわかる。駅前行きでなかったのだ!
乗るバスは6番なのにやってきたのは16番だった!嗚呼 -
乗り間違えたバスの車内の様子
バスは駅とは全然違う方向へ行ってしまった。
こりゃあ困ったなー、あのおばさんともうちょっと待てば良かったのに・・
-
バスの左側の座席が車掌さんの専用席。
-
仕方なく終点まで行き、バスを乗り換える・・
今度はマイクロバスで駅前を目指す、
途中、路面電車が平行して走っていたので、これに乗りたくなったので途中下車するが、一瞬遅く乗り遅れてしまった・・
しかし、目の前はどうやら大学キャンパスのようである・・ -
おーい待ってくれー
しかし電車は置いて行ってしまった。 -
目の前に大学キャンパスがあるのでついでに見学させてもらうか・・
ガードマンの許可をもらって入校。
なかなか立派な大学やなー -
大学名は、「太平洋国立大学」と判明
-
せっかくお邪魔したからには、ダイニングホール(学食)へ行ってみるか、
ここで腹ごしらえする。
料理の前に並んで指さし注文、その後料金を払うだいたいどこでもあるようなシンプルなシステムだ、 -
食後、正面で四人の学生さんと出会った。
彼らは英会話ができるので、ちょっとした交流、この大学はどんな学部があるかとか日本語講座はあるのかとか、卒業したらどうするのか?等々
彼らもまさか大学構内に日本人のおっさんが何で? と、驚いた様子だが、そこは若者、悪びれた様子もなくにこやかに談笑・・・
彼らに駅までの道順を教えてもらい分かれる・・・
ダスビダーニア・・ -
今度は遅れずに乗るぞ!
-
路面電車内の様子
これも15ルーブルだった・・ -
最後部からの眺め
電車はよく揺れるし、かなり古い型だが市民にとっては大切な移動手段なのであろう・・
乗客がイッパイになったりまた少なくなったりと・・ -
座っているのが車掌さん。
-
途中でもう一人係りのおばさんが乗ってきた。
このおばさんが検札係りだった!
一人ひとり切符を点検して廻る。降りるまで切符は持っておかなけれいけない。
同じように見える切符でも、トロリーかバスか路面電車か一目でわかるらしい、車内検札にあったのはこのときだけだった・・・ -
路面電車はやっと駅前に到着、
駅前がターミナルになっていて、あらゆる路面電車の始発点であり終点でもあった。
何本も線路が分かれている・・ -
昼食を済ませてからトロリーバスで空港方面を目指す・・
お花やさんが並んでいた・・
墓地は近いことがわかる、下車・・ -
ゆるやかな坂を歩いて下ることおよそ6分、ゲートが見えてきた・・
多分ここから入るのだろう、入ってみよう -
ロシア人の墓地だ、大きな墓石に故人の写真が転写されてある。
こちらでは墓石に故人の生前の写真を転写するようだ・・
写真付き墓石だから、若い人も老人もいろいろある。亡くなったときの写真だから若くして逝去したことがわかる。 -
入り口を入って正面やや右手すぐに、黒い鉄柵に囲まれた墓地があった。
ここが日本人墓地だった・・
鉄のとってを回して勝手に入る。かなり広い!
手入れも行き届いていた。 -
ガイドブックなどにも掲載されている日本人墓地の墓石、
誰かが墓参されたのだろう、まだ生花が枯れていなかった、
日本から持参したローソクに灯を点しお線香を手向け、花屋さんで買った造花一対をお供えし、数珠を手に、神妙に合掌、礼拝、黙祷
同じ日本人として、異国の地に眠る同胞に追悼の気持ちを捧げる・・
このような日本人墓地、慰霊碑はハバロフスクのみならずシベリア各地にある。
シベリアだけでなく、東南アジア、南洋諸島にも、そこには現地で亡くなった方々の遺骨もまだ沢山残っていることを忘れてはならない。 -
こちらは慰霊碑のようだ、その隣には個人のお墓が・・ -
墓苑内はかなり広く、このような四角い縁石で囲まれたお墓が目に付く・・
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墓地の中の様子
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慰霊碑があった・・、ここでも合掌、礼拝・・ -
ここにもあそこにも縁石が・・
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日本式のお墓もあった・・
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墓地内の様子・・
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墓地内の様子・・
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墓地の案内図
日本人墓地は、上の方のカギ形の位置。 -
再び坂を上ってメイン道路へ
墓参する方へ、この周辺にはトイレがありませんよ、
かくして、ハバロフスク慰霊を終え明日は帰国だ!
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この旅行記へのコメント (2)
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- Viajeroさん 2015/04/09 14:19:42
- 日本人墓地
- 2009年、一人旅で、ウラジオストックから、シベリア鉄道に乗りハバロフスクに行きました」。写真を見て懐かしく思います。日本人墓地を参拝しました。この地に没した御霊は、森の中にひっそり眠っている。
そうした歴史を思うと日本人なら絶対立ち寄らなければいけませんね。
- Elliott-7さん からの返信 2015/04/09 15:28:49
- RE:コメントありがとうございます・・
- Viajeroさん
コメント拝見しました。ハバロフスクへ行かれたそうで・・
日本人墓地へ行かれましたか、私が行ったときはアムール川が洪水のため氾濫して大変でした。
滅多にないことなのでいい思い出になりましたが・・
残念ながらシベリア鉄道には乗れませんでしたが、ハバロフスクの駅舎の中に入ってみました。
日本人墓地は、一度訪れてみたいと思っていたので念願がかなえました。
仰るとおり、今では訪れる人もなくひっそりしていましたが、さぞかし日本へ帰りたかったことでしょうね、
日本人墓地と平和慰霊公苑も行きましたが、こちらも感慨深いものがありました・・
Elliott-7 より
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