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専称山・安養院・西念寺(さいねんじ、東京都新宿区若葉))は文禄2年(1593)徳川家康の重臣で伊賀同心を支配する服部半蔵正成(はっとり・はんぞう・まさなり、1542~1597)が開基の浄土宗の寺院です。<br /><br />正成は天文11年(1542)既に徳川氏(当時は松平氏)に仕えていた伊賀忍者服部保長(はっとり・やすなが、生没不詳)の四男として三河に生まれます。<br /><br />半蔵正成はやがて父の跡目として服部家の家督を継ぎ徳川家康に仕え、元亀元年(1570)の姉川の戦い、元亀6年(1579)の三方ケ原の戦いなどで武功を立てています。<br /><br />天正7年(1579)には家康嫡男信康(のぶやす、1559~1579)が同盟織田信長から武田氏と通じていると疑いを掛けられ、遠江国二俣城にて自害に追いやられた際、検使役として赴き介錯を命ぜられた時「三代相恩の主に刃は向けられない」と言って介錯することができず、これを聞いた家康は「鬼と言われた半蔵でも主君に手をかけることができなかった」として一層高い評価を受けます。<br /><br />天正10年(1582)武田氏滅亡により駿河国拝領の御礼として織田信長滞在の京都を訪問、信長より接待を受けたのち堺視察の折り、信長が明智光秀の反逆により憤死、少数の供とともに甲賀・伊賀を通って三河に戻る事態となり、ここで同道していた服部半蔵政成が活躍します。<br /><br />三河生まれ育ちの半蔵正成ですが、服部家は伊賀では忍家の名門で知られており、父保長との旧縁ができており、この旧縁の地侍を動員し家康一行を警護させ伊賀越えを先導、無事に三河・岡崎まで護衛させています。<br /><br />天正18年(1590)の小田原征伐を経て家康の関東入封後は半蔵正成は与力30騎及び伊賀同心200名を付されて8,000石を拝領し、その後は父親が伊賀者であったことから家康に召し抱えられた伊賀忍者を指揮する立場となります。<br /><br />その後半蔵正成は家康長男信康の菩提を弔うため剃髪し、名を西念と号して麹町清水谷に安養院という庵を設け、信康の遺髪をそこに埋めて念仏の日々を送ります。<br /><br />一方家康は信康の霊と徳川家の安寧を祈念するため、半蔵正成に寺院の建立を命じますが建立を果たせず慶長元年(1596)に55歳で没します。<br /><br />やがて安養院の敷地に寺院の建立が実現しその名は半蔵正成の法名から「専称山安養院西念寺」と称されることになります。<br /><br />寛永11年(1634)幕府による江戸城外堀新設工事により寺院の一斉移転が命ぜられ西念寺についても現在地に移転することになります。<br /><br /><br /><br />2023年8月29日追記<br /><br />現地に建てられた「服部半蔵の墓」と題した説明板には下記の通り記述されています。<br /><br /><br />「 新宿区指定史跡<br />          服 部 半 蔵 の 墓<br /><br />服部半蔵(1542~96)は、本名を正成といい、徳川家康の三河城以来の旧臣で、家康16将の一人に数えられる武将である。<br /><br />「鬼の半蔵」として知られ、元亀3年(1572)三方ヶ原の戦い、転生18年(1590)小田原攻めで功をあげ知行8千石を賜り、同年の家康の江戸入府ごは、江戸城に指紋近くに居を構え、城の警備等にあたった。半蔵門の名は彼の名に由来する。<br /><br />半蔵は、天正7年(1579)家康の長男信康が切腹する際介請役を命ぜられた。しかし、これを果たせず、晩年、信康の菩提をとむらうため麹町清水谷に庵を建て、西念と号し、仏門に帰依した。<br /><br />文禄2年(1593)には家康から寺院を建立するよう内名をうけたが、慶長元年(1596)11月、55歳で没した。<br /><br />西念寺は、半蔵の没後完成し、寛永11年(1634)江戸城の外堀拡張・親切の際現在地に移転したものである。<br /><br />    平成17年2月<br />             新宿教育委員会 」

武蔵新宿 家康のお庭番服部半蔵が家康嫡子の信康の死を偲びその霊を弔うため創設したと伝えられる『西念寺』散歩

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2013/04/28 - 2013/04/28

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滝山氏照

滝山氏照さん

専称山・安養院・西念寺(さいねんじ、東京都新宿区若葉))は文禄2年(1593)徳川家康の重臣で伊賀同心を支配する服部半蔵正成(はっとり・はんぞう・まさなり、1542~1597)が開基の浄土宗の寺院です。

正成は天文11年(1542)既に徳川氏(当時は松平氏)に仕えていた伊賀忍者服部保長(はっとり・やすなが、生没不詳)の四男として三河に生まれます。

半蔵正成はやがて父の跡目として服部家の家督を継ぎ徳川家康に仕え、元亀元年(1570)の姉川の戦い、元亀6年(1579)の三方ケ原の戦いなどで武功を立てています。

天正7年(1579)には家康嫡男信康(のぶやす、1559~1579)が同盟織田信長から武田氏と通じていると疑いを掛けられ、遠江国二俣城にて自害に追いやられた際、検使役として赴き介錯を命ぜられた時「三代相恩の主に刃は向けられない」と言って介錯することができず、これを聞いた家康は「鬼と言われた半蔵でも主君に手をかけることができなかった」として一層高い評価を受けます。

天正10年(1582)武田氏滅亡により駿河国拝領の御礼として織田信長滞在の京都を訪問、信長より接待を受けたのち堺視察の折り、信長が明智光秀の反逆により憤死、少数の供とともに甲賀・伊賀を通って三河に戻る事態となり、ここで同道していた服部半蔵政成が活躍します。

三河生まれ育ちの半蔵正成ですが、服部家は伊賀では忍家の名門で知られており、父保長との旧縁ができており、この旧縁の地侍を動員し家康一行を警護させ伊賀越えを先導、無事に三河・岡崎まで護衛させています。

天正18年(1590)の小田原征伐を経て家康の関東入封後は半蔵正成は与力30騎及び伊賀同心200名を付されて8,000石を拝領し、その後は父親が伊賀者であったことから家康に召し抱えられた伊賀忍者を指揮する立場となります。

その後半蔵正成は家康長男信康の菩提を弔うため剃髪し、名を西念と号して麹町清水谷に安養院という庵を設け、信康の遺髪をそこに埋めて念仏の日々を送ります。

一方家康は信康の霊と徳川家の安寧を祈念するため、半蔵正成に寺院の建立を命じますが建立を果たせず慶長元年(1596)に55歳で没します。

やがて安養院の敷地に寺院の建立が実現しその名は半蔵正成の法名から「専称山安養院西念寺」と称されることになります。

寛永11年(1634)幕府による江戸城外堀新設工事により寺院の一斉移転が命ぜられ西念寺についても現在地に移転することになります。



2023年8月29日追記

現地に建てられた「服部半蔵の墓」と題した説明板には下記の通り記述されています。


「 新宿区指定史跡
          服 部 半 蔵 の 墓

服部半蔵(1542~96)は、本名を正成といい、徳川家康の三河城以来の旧臣で、家康16将の一人に数えられる武将である。

「鬼の半蔵」として知られ、元亀3年(1572)三方ヶ原の戦い、転生18年(1590)小田原攻めで功をあげ知行8千石を賜り、同年の家康の江戸入府ごは、江戸城に指紋近くに居を構え、城の警備等にあたった。半蔵門の名は彼の名に由来する。

半蔵は、天正7年(1579)家康の長男信康が切腹する際介請役を命ぜられた。しかし、これを果たせず、晩年、信康の菩提をとむらうため麹町清水谷に庵を建て、西念と号し、仏門に帰依した。

文禄2年(1593)には家康から寺院を建立するよう内名をうけたが、慶長元年(1596)11月、55歳で没した。

西念寺は、半蔵の没後完成し、寛永11年(1634)江戸城の外堀拡張・親切の際現在地に移転したものである。

    平成17年2月
             新宿教育委員会 」

交通手段
JRローカル

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  • 西念寺正門

    西念寺正門

  • 西念寺説明板

    西念寺説明板

  • 西念寺本堂<br /><br />正式には「専称山安養院西念寺」と言い、山号と寺号は服部半蔵の法名「専称院殿易安誉西念大禅定門」から採っています。<br /><br />

    西念寺本堂

    正式には「専称山安養院西念寺」と言い、山号と寺号は服部半蔵の法名「専称院殿易安誉西念大禅定門」から採っています。

  • 西念寺本堂扁額<br /><br />山号の「専称山」と刻されています。

    西念寺本堂扁額

    山号の「専称山」と刻されています。

  • 服部半蔵墓

    服部半蔵墓

  • 服部半蔵墓(近景)

    イチオシ

    服部半蔵墓(近景)

  • 「服部半蔵の墓」説明板

    「服部半蔵の墓」説明板

  • 岡崎三郎信康供養塔<br /><br />

    岡崎三郎信康供養塔

  • 岡崎三郎信康供養塔(近景)

    岡崎三郎信康供養塔(近景)

  • 「岡崎三郎信康供養塔」・説明板<br /><br />「 新宿区指定史跡<br />   岡 崎 三 郎 信 康 供 養 塔<br />               所 在 地 新宿区若葉2丁目9番地<br />               指定年月日 平成2年3月2日<br /><br />西念寺を開山した服部半蔵が、徳川家康の長男信康(岡崎三郎信康)の菩提をとむらうため、文禄2年(1593)に建立した五輪統形の供養塔で、高さは269センチである。<br /><br />信康は、永禄2年(1559)に生まれ、幼少時は今川氏の人質として駿府で過ごした。永禄10年(1567)に岡崎に帰り、織田信長の娘をめとり、元亀元年(1570)に岡崎城主となったが、天正7年(1579)武田勝頼と内通したとの嫌疑により家康から切腹を命じられた。<br /><br />服部半蔵は、この時介錯を果たせず、後に信康の供養のため出家した。<br /><br />なお、西念寺には「岡崎信康?修補記」が残されており、文化11年(1814)に補修が行われたことがわかる。<br /><br />   平成24年6月      新宿区教育委員会  」<br />             

    「岡崎三郎信康供養塔」・説明板

    「 新宿区指定史跡
       岡 崎 三 郎 信 康 供 養 塔
                   所 在 地 新宿区若葉2丁目9番地
                   指定年月日 平成2年3月2日

    西念寺を開山した服部半蔵が、徳川家康の長男信康(岡崎三郎信康)の菩提をとむらうため、文禄2年(1593)に建立した五輪統形の供養塔で、高さは269センチである。

    信康は、永禄2年(1559)に生まれ、幼少時は今川氏の人質として駿府で過ごした。永禄10年(1567)に岡崎に帰り、織田信長の娘をめとり、元亀元年(1570)に岡崎城主となったが、天正7年(1579)武田勝頼と内通したとの嫌疑により家康から切腹を命じられた。

    服部半蔵は、この時介錯を果たせず、後に信康の供養のため出家した。

    なお、西念寺には「岡崎信康?修補記」が残されており、文化11年(1814)に補修が行われたことがわかる。

       平成24年6月      新宿区教育委員会  」
                 

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