
2011/06/20 - 2011/06/20
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SUR SHANGHAIさん
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山崎朋子氏の著書『サンダカン八番娼館』やその続編の『サンダカンの墓』を学生時代に読んだSUR SHANGHAIが、実際にマレーシアのボルネオ島にあるサンダカンの町を訪れたのは2008年。
その『サンダカンの墓』の中には、『シンガポール花街の跡』という章もあるので、いつかシンガポールの日本人墓地に加えて、その花街の跡へも行っておきたいと思っていた…。
シンガポールへはちょくちょく行くのに、やっと縁が繋がったのは2011年。
旦那とも連れ立って行ってみた時の様子を記録しておこうと思います。
●注: タイトルに出ている≪ステレツ≫と言う言葉は、英語のSTREETが訛ったもの。
とは言っても、単に≪街路≫を意味しているのではなく、シンガポールにからゆきさんの花街があった頃の≪花街≫や、その界隈を暗示していたのだそうです。
表紙の画像は、からゆきさんを含む日本の方々の墓碑以外に、故人の記念碑も数多いシンガポール日本人墓地公園の一画。
画像手前の碑は、マレーの盗賊団を率いていたハリマオ(谷豊)の記念碑。これは墓碑ではありません。
- 旅行の満足度
- 4.0
- 観光
- 4.5
- 交通
- 3.5
- 同行者
- カップル・夫婦
- 交通手段
- タクシー 徒歩
- 航空会社
- シンガポール航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
シンガポールの日本人墓地公園についての説明前に、まずはそこへの行き方から。
日本人墓地公園の所在地: YIO CHU KANG ROAD(楊?簡港路)からCHUAN HOE AVENUE(泉和道)に入って行った場所。周りは一戸建て住宅が並ぶ閑静な高級住宅街。
●注: 楊?簡港路の?簡という字が文字化けしていますが、これはがんだれに昔という字。
●注: はじめ、番地は22 CHUAN HOE AVE. (泉和道22号)と聞いていましたが、民家になっていました。探してみたところ、墓地公園入り口はそこから50mほど離れた場所で、門には825Bと番号が付いていたのでご注意を。 -
これがシンガポールの日本人墓地公園入口。
最寄の地下鉄駅は南北線のANG MO KIO駅のようですが、そこから歩いていくのはちょっときつい距離。
SUR SHANGHAIたちは市の中心からタクシーで行ってみました。所要時間20分程度。
タクシーの運転手さんも場所が分からない人が多いので要注意。
Japanese Cemetery Park Singaporeで検索した地図を用意していくといいですよ。
帰り道は、YIO CHU KANG ROAD(楊厝港路)あたりで、タクシーが拾えます。
●注: 楊厝港路の厝という字が文字化けしていますが、これはがんだれに昔という字。 -
日本人墓地見学は無料。
敷地に入ってすぐに目に留まるのは、参道脇の緑の中に並ぶお地蔵さん。
周辺の草木は熱帯のものですが、それを除けば、日本のお寺さんの境内の雰囲気でした。
画像右手の一際大きいお地蔵さんは≪ひのもと地蔵尊≫。
出ていた説明によると、これは戦後、ジュロンの日本人収容所で亡くなった41名の方を追善するため、カトンにあった料亭の女将が建てたものだそうです。
それと同時に、シンガポール在住の日本女性の安産と、その子どもを見守るという願いも込められているんだそうです。
●注: ジュロンもカトンもシンガポールの地区名。 -
日本人墓地公園のゲート近くに並ぶ墓碑。
この日本人墓地公園は、1888年(明治21年)に二木多賀治郎という人物が、自身のゴム園の一画を墓地にしたいと願い出て、1891年に日本人共有墓地としての使用が許可されたのが始まりだったのだそう。
今のように敷地内にメモリアル・プラザも造られ、日本人墓地公園と名前が改められたのは1987年のことだったようです。
日本人墓地公園の沿革についての説明が、戦前のシンガポール日本人社会の説明と共に入口近くに出ていたので、見て行くといいですよ。 -
日本人墓地公園内には御堂があるのですが、その前身となったのは、楳仙和尚(ばいせん・おしょう)が1911年(明治44年)に建てた曹洞宗の西有寺。
楳仙和尚は、1894年(明治27年)に釈迦誕生の地を訪れる途中でシンガポールに立ち寄り、その際にシンガポール在住の日本人に請われてこの地に留まることを決意したのだそう。
その楳仙和尚の碑と、その生涯を記した説明もありました。 -
日本人墓地公園内にある御堂。
上の方でも言いましたが、この御堂の前身は、楳仙和尚(ばいせん・おしょう)が1911年(明治44年)に建てた曹洞宗の西有寺。
今見るこの姿は、三代目の建物なんだそう。
残念ながら扉が閉まっていて中の様子は見学できなかったんですが、内部には仏像が多数安置してあるんだそうです。
画像左手に見えている四角い箱型の建物は納骨堂。
内部には、山本音吉の遺灰が納めてあるのだそう。
その山本音吉とは、1819年(江戸時代の文政2年)生まれの船乗りで、シンガポールでの日本人定住者第1号となった人物。
その経緯は…、 -
…この画像の説明にも出ていますが、簡単に言うと、山本音吉が14歳の時に見習い船員として乗り組んだ船が嵐に遭いアメリカ合衆国に漂着。
その後、世界を回って鎖国中の日本に帰ったものの入国を拒否され、その後は…と言う、文字通り波乱万丈の一生を送った人物。
同じような時期に、同じような運命を辿った高知出身のジョン万次郎の生涯とも、下記のウィキペディアのページで比べてみるといいですよ。
山本音吉: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%B3%E5%90%89
ジョン万次郎: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E4%B8%87%E6%AC%A1%E9%83%8E -
これは、日本人墓地公園内の絵地図。
敷地内の御堂そばに出ていました。
特筆すべき事柄も一緒に書いてあったり、特に有名な墓碑や記念碑の場所も描き込んであります。
この日本人墓地公園は面積約3万平方メートルで、墓碑は910基あります。
敷地は平坦で迷う心配はありませんが、見てみたい碑があれば、歩き始める前にこの絵地図を見ていくといいですよ。
一通り見て回って1時間位を予定して行っては?
この画像は、クリックして元画像にすると、大きく表示されます。 -
日本人墓地公園の御堂近くにあった、戦没者慰霊塔の数々。
このほかにも、墓碑や記念碑とは別に、戦時中にシンガポールで命を落とした人々のための慰霊塔はまだまだありました。 -
日本人墓地公園の片隅。
上掲の画像の慰霊塔近くにあるゴムの木は、ここが元ゴム園だった時からあるとされ、特別天然記念樹になっているそうです。
その木陰には、日本の団体から贈られたらしいベンチがいくつも。
お参りに来た人々が座って休めるように、という心遣いだったんでしょうね。 -
日本人墓地公園の片隅に咲いていた花。
日本の手毬のようなその花に、この熱帯の国の墓地に眠る人々も、日本を思い出すのかも。 -
日本人墓地公園の片隅にはメモリアル・プラザと呼ばれる場所もあります。
これはその一部で、広場風に造られた場所。
ここにも、日本墓地公園の由来を記した碑があるので、ここまで来た方はぜひ読んで行きましょう。
日本人共有墓地から始まったこの墓所の維持・存続には多くの困難があったのもうかがい知ることができます。
そうそう、この墓地公園周辺は住宅街のため、すぐ近くには売店・食堂は見かけませんでした。
お花やお線香は、事前に用意して行くのがよし。
この広場近くには、飲み物の自動販売機、それにトイレがありました。 -
これが日本人墓地公園内のメモリアル・プラザ。
彫刻の屋外展示公園のようにきれいに整備してあって、かつてシンガポール周辺で活躍した人々の記念碑が配置されています。
碑にはそれぞれの人たちの生涯が日本語で彫られています。
お時間が有れば、いくつか見学してみては?
明治も初期の頃から、出身、職業、身分もさまざまな日本人がすでに南洋で名を上げていたことに驚きますよ。
上述した山本音吉のほか、マレーの盗賊団を率いてハリマオと呼ばれた谷豊(たに・ゆたか)の記念碑もここにあります。
上の方に出した日本人墓地公園の絵地図でご確認ください。 -
日本人墓地公園内のメモリアル・プラザ。
画像奥に見えている白い瀟洒な建物は、墓地公園敷地外に立っている住宅やマンション。
墓地の隣の住宅街と言っても、このメモリアル・プラザに面したあたりは屋外彫刻展示公園の趣でおどろおどろしさは無し。
仕切りの塀も、このメモリアル・プラザが見渡せるよう、意図的に低く造ってあるような気がします。
画像手前は、上の方でもご紹介した山本音吉の記念碑。(墓碑ではありません)
日本語で、音吉の一生がコンパクトにまとめて彫られています。 -
これが、上掲の画像の山本音吉記念碑の碑文。
この画像は、クリックして元画像にすると大きく表示されます。
子どもの時に乗り組んだ船がアメリカ合衆国に漂着し、その後シンガポールでの日本人定住者第1号になるまでの遍歴が、まさに一大ドラマになっています。 -
こちらは、ハリマオ(虎)と呼ばれた谷豊(たに・ゆたか)の記念碑。(墓碑ではありません)
幼年期に両親と共にマレーシアに渡り、マレー人になりきって一時期は盗賊団の頭目にもなったという人物。
SUR SHANGHAIはその名を聞いたことがあるだけなんですが、小説や映画でも取り上げられたほど、これまた波乱万丈の人生だったそうです。 -
これが、ハリマオこと、谷豊(たに・ゆたか)記念碑の碑文。
この画像は、クリックして元画像にすると大きく表示されます。
こう言っては何ですが、現代ではハリマオほどの人生ドラマを経験する人は皆無なのではないかと思ってしまいます。 -
日本人墓地公園のメモリアル・プラザ。
片隅にあったこの崩れかけた階段は、この墓地公園の古い時代のもの?
説明が出ていなかったので、そう推測してみました。 -
日本人墓地公園のメモリアル・プラザから墓地部分へ移って行くあたり。
この区画は芝生が植えてあったり、緑のトンネルがしつらえてあったり、敷地外には瀟洒な住宅が見えて一見洋風の墓地。
ただ、そこに点々と並ぶ墓碑の形は和風。
ちょっと不思議な和洋折衷スタイル。 -
日本人墓地公園の中でも、中央部周辺は、いかにも古びた墓碑や囲いが並んでいるあたり。
1891年(明治24年)に日本人共有墓地としての使用が許可された時から数えても、もう100年以上の歴史を感じさせる風情になっていました。 -
日本人墓地公園の中央部には墓碑が密集。
全体で一万数千人もの日本の方が眠っていらっしゃるんだそう。
気になる墓碑があったら、足をとめて碑文を解読してみては?
風化が進んだ墓碑は、彫られた文字も消えかけているのが時の流れを感じさせてくれます。 -
日本人墓地公園の入口から一番遠いフェンス際にあるこの碑が、小説家二葉亭四迷の記念碑。(墓碑ではありません。)
上の方に出した墓地公園の絵地図にもこの記念碑の場所が出ています。
なぜ、二葉亭四迷の記念碑がここにあるのか不思議ですが、これは、肺を患っていた二葉亭四迷が1909年(明治42年)にコロンボからシンガポールへと向かう船中で死去し、当時シンガポールのパシル・パンジャンの丘にあった火葬場で荼毘に附されたからなのだそう。
ただ、この記念碑が建てられたのは、二葉亭四迷の死後20年経った1929年(昭和4年)だったそうです。
ちなみに、二葉亭四迷の墓所は東京の染井墓地にあって、遺骨は全てそちらにあるそうです。 -
さて、山崎朋子氏の著書『サンダカン八番娼館』や『サンダカンの墓』を読んだことのあるSUR SHANGHAIがこの日本人墓地公園で一番見てみたかったのは、からゆきさんの墓碑が14基もまとまっているというこの場所。
ここも墓地公園の入口からは一番遠いフェンス際にありました。
墓碑の手前には、プルメリアの木が有るのが目印。
画像にも、咲き終わった白い花が点々と地面に散っているのが見えています。
この画像は、クリックして元画像にすると大きく表示されます。
シンガポールの日本人墓地公園と関連して、マレーシアボルネオ島のサンダカンにある日本人墓地旅行記を参照してみたい方は下記をご覧ください。
★アジア冬旅(15) −マレーシア ボルネオ島 サンダカンの日本人墓地へ
http://4travel.jp/traveler/casa/album/10254161/ -
上掲の画像の中には、説明書きが立っている墓碑がありますが、この日本人墓地公園に埋葬された中では最も古い人で、1889年(明治22年)没と言う説明がついていました。
これがその墓碑。
戒名が無く本名が正面に記された墓碑も混じる中、この墓碑には≪柳珠一位正魂神墓≫と彫られているんだそう。
風化が進んでいるので、説明書きがなければ、上の方の文字は読み取れませんでした。
側面の一つに、馬来街と言う文字が今もくっきり見えましたが、その馬来街(マレー街)というのは、からゆきさんの娼館も並ぶ通り(ステレツ)の一つとして有名だったため、この墓碑の故人(女性)はからゆきさんだったのだろうと言うことです。
説明には、故人の本名、出身地も記されていましたが、それはここには載せないで置こうと思います。
ここに並ぶ、からゆきさんと見られる女性たちの墓碑。
彼女たちはどういう経緯でシンガポールにやって来て、そして共にここに葬られる最期になったんだろうと思う。
思わずうなだれて合掌したくなった…。 -
日本人墓地公園から一転。
夜に出かけてみた、かつてのステレツ界隈。
ステレツというのは、英語のSTREETが訛った言葉。
この旅行記の表紙にも書きましたが、ステレツとは単に≪街路≫を意味していたわけではなく、からゆきさんたちが春をひさいでいた娼館が並ぶハイラム街、マレー街、マラバー街界隈を意味する言葉だったんだそう。
その界隈は今も残っている、と言ったらびっくりですが、当然のことながらすっかり新しい街並みに変身していて、ブギス・ジャンクションの中にあるんです。
地下鉄ブギス駅もすぐそばで、現在ではアーケードが架かったお洒落なスポットになっています。
ブギス・ジャンクションには日系の大型店もあるし、インターコンチネンタル・ホテルも入っているので、知らず知らずここを訪れた事のある人は多いんじゃないでしょうか。
この画像に写っているのは、上記の道のうち、一番賑やかなハイラム街で、ビクトリア・ストリートとロチャー・ロードとの角から入って行ったあたり。
下段の画像のハイラム街を奥に進むとマレー街との三叉路になっています。 -
かつてはステレツと呼ばれた界隈は、現在はお洒落な店が並ぶブギス・ジャンクション。
標識だけに、かつてのステレツ(ハイラム街、マレー街、マラバー街)の名残が見られます。
この三つの通りはカギ型に折れ曲がっているので、この画像で名前が出ているのは、HYLAM STREET(ハイラム街)とMALAY STREET(マレー街)。
『サンダカン八番娼館』の著者山崎朋子氏が、サンダカンを実際に訪れ、続いてシンガポールのステレツをも訪れたのは、1973年の夏の事。
その訪問のあとで書かれた『サンダカンの墓』の中の『シンガポールの花街』の章には、氏が案内人と共にステレツを訪れた時の様子が綴られています。
それによると、1973年にはすでにステレツ(ハイラム街、マレー街、マラバー街)からはからゆきさんの娼館は消えていたものの街並み自体は残っていて、3階建ての古びた色とりどりのショップ・ハウスが連なっていたそうです。
窓からは原色の洗濯物が下がる物干し竿がいくつも突き出していて、スラムと言う言葉が当てはまる町並みだったようです。
そして、現在のこのブギス・ジャンクションが出来たのは1990年代半ば。
SUR SHANGHAIが初めてシンガポールを訪れた1990年代始めにはあちこちで古い町並みが取り壊されている時期だったので、山崎朋子氏が見たステレツの町並みもその頃に消滅したんじゃないかと想像してみました。 -
かつてのステレツ界隈(現在のブギス・ジャンクション)。
この画像に写っているのは、ハイラム街とマレー街が三叉路になっている部分で、上段の画像にはインターコンチネンタル・ホテルも見えています。
画像奥方向に延びているのがマレー街。
もう一つのマラバー街は、このマレー街からさらに枝分かれしている横道になります。
かつてのこのマレー街に、初めて2軒の日本人娼館が出来たのは、山崎朋子氏の『サンダカンの墓』の中の『シンガポールの花街』によると、1877年(明治10年)。
年毎に娼館の数もからゆきさんの数も増えて行き、1904年(明治37年)には、娼館の数101軒、からゆきさんの数は902人までになったのだそう。
貧困から抜け出していい職に就けると信じこまされ、日本から渡って来た少女たち。
日本からの船が着いた船着場の倉庫の前で、娼館の主に買われた少女たちが身を置いたのがかつてのステレツ界隈。
ここで娼婦として客を取るように強制され、初めて騙されていた事に気づく少女たちが多かったようです。
からゆきさんと言う言葉はよく≪東南アジアに渡って娼婦として働いた日本人女性≫と説明されていますが、実際には自発的にではなく、騙された上に金銭絡みでそうならざるを得ない状況に追い込まれた女性が大半だったのではないでしょうか。 -
かつてのステレツ界隈(現在のブギス・ジャンクション)。
この画像に写っているのは、マラバー街。
上段の画像の右上に、MALABAR STREETと言う標識が出ています。
同じブギス・ジャンクションなのに、一番賑やかなハイラム街と比べると、なんだか寂しい。
昔あったショップ・ハウスを模して造られたような一画がじっとりと暗かった。
この界隈は、ステレツと呼ばれて賑わった時期の後にも、同じような生業の男女が集まって来ていた場所だったようだし、それらの人々が生きていた世界のほの暗さが、この一画には渦巻いているような気がした。
一瞬、背中がヒヤリ…。
その時感じた空気は、この周辺に身を置いていた多数のからゆきさんたちのさまざまな思いがこもった溜息だったのかも。
かつてのステレツもこんなに変身して戸惑っているんじゃないかな。
今はもう安らかにお休みください。(-人-) -
付け足しになりますが、これはシンガポールの骨董品店的お店で見つけた写真コピー。
説明には、≪1970年のマラバー街の露天屋台≫と出ています。
その年代が正確だとすると、山崎朋子氏がからゆきさんの面影を追ってステレツを訪れた1973年とは3年違い。
氏が見てスラム街だと感じたマラバー街もこの画像の様子とさほど変わりなかったのでは。
今のブギス・ジャンクションからは想像できない、消えてしまった街並みとその歴史…。
ちょっとせつない終わりですが、これでマレーシアボルネオ島のサンダカンから続いた、日本人墓地とからゆきさん関連の旅行記はおしまいです。
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この旅行記へのコメント (3)
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- cubicsさん 2019/12/21 05:02:18
- 楽園の夢
- > 宗教儀式や行事が固く禁じられています。
失礼しました。「無断で行うこと」という記述が抜けていました。
シンガポール日本人会による慰霊祭は毎年、開催されています。
http://www.jas.org.sg/event/ireisai/ireisai.html
- SUR SHANGHAIさん からの返信 2019/12/21 22:05:18
- Re: 楽園の夢
- 二度のご参拝、お疲れさまでした。
わたくしめの拙い旅行記にもコメントをいただき、ありがとうございます。
-
- cubicsさん 2019/12/21 04:53:25
- 楽園の夢
- 現地の「日本人墓地公園」の御注意や沿革に書かれているように、シンガポール政府による接収を免れ「墓地公園」として許可された施設ですので、宗教儀式や行事が固く禁じられています。
お花はよいとして、お線香はやめておいた方がいいでしょう。火気の問題もありますし。
私どもは2回訪れ、石碑に名前を記載していただいております。
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