★アジア冬旅(15) −マレーシア ボルネオ島 サンダカンの日本人墓地へ:SUR SHANGHAIさんの旅行ブログ
サバ州の州都コタ・キナバルから車で前日到着したサンダカン。
サンダカンは、ボルネオ島サバ州ではコタ・キナバルに次ぐ街で、スールー海に面した港町。南洋材などの天然資源の積出港になっています。
今は小さい港町にしか見えないこの街も、19世紀から20世紀にかけてイギリス人統治下にあった北ボルネオ時代には交易地として栄え、州都として機能していたというのだから驚き。
第二次世界大戦中は日本の占領下に置かれ、1945年の連合軍による爆撃で街が壊滅したあとで、今のコタ・キナバルに州都が遷されたのだとか。
今では近郊のオランウータンのリハビリ・センターやテングザル保護区、沖合いにあるタートル・アイランズ公園が有名になっている自然豊かなサンダカン。
そのサンダカンには明治から大正にかけて、日本から送り込まれて来たからゆきさんたちが住んでいたというのは、山崎朋子氏の『サンダカン八番娼館』や『サンダカンの墓』であまりにも有名な話。
それらの著書を学生時代に読んでいたSUR SHANGHAIは、一度はそのサンダカンの街や、からゆきさんたちも葬られているという日本人墓地を見てみたいと思い続けていた…。
やっと今回、その地に行ってみた様子を旅行記にまとめてみようと思います。
表紙の画像は、この地で亡くなったからゆきさんを含む日本の人々が葬られている日本人墓地への階段。
ここは、前日コタ・キナバルからサンダカンに到着した後で泊まったサバ・サンダカン・ホテルの正面玄関。
裏手には、ジャングルを背にしたプールがあって、小さいリゾートっぽい雰囲気の宿。
サンダカン空港方面から行くと、町へ下りて行く坂の途中にあるので閑静。サンダカンの町までは車道をさらに1kmほど下りていきます。
サイトはこちら http://sabahhotel.com.my 英語版
この朝は、SUR SHANGHAIにとってはサンダカン訪問の最大の理由と言ってもいい、サンダカン日本人墓地へとまず行ってみます。
サンダカンという地名を聞くと、山崎朋子氏が著した『サンダカン八番娼館』や『サンダカンの墓』を思い浮かべる方が多いのでは?
SUR SHANGHAIはもとよりそれらの書物に登場してくる土地や人物とは何の縁もゆかりも無いのですが、学生時代に読んで以来、一度その場所を訪れてみたいと思っていたんです。
サバ・サンダカン・ホテルから車だと、サンダカンの町のほうへちょっと下りて行った所に≪アグネス・キースの家 (Agnes Keith House)≫の標識が出ているので、それに従ってまずイスタナ通りへと進んで行きます。
≪アグネス・キースの家≫については別編でご紹介する事にして、この画像は丘の中腹にあるイスタナ通りからの眺め。
サンダカンの町とその向こうのスールー海なんですが、草木が茂って、町の様子が今ひとつよく見えないのが惜しい。
サンダカンの日本人墓地は、≪アグネス・キースの家≫を過ぎて、イスタナ通りをさらに進んで行った場所にあります。
上記に続いてイスタナ通りをさらに進んで行くと、丘を埋め尽くす墓地が見えてきますが、この画像の奥の方に見えているのは中国系住民の墓地。
サバ・サンダカン・ホテルから車だと、このあたりまで10分かからない位。
道筋の途中には、第二次世界大戦中に被害に遭った華僑たちの殉難紀念碑も立っています。
中国人墓地と一口に言っても、この画像に写っているあたりは潮州人専用の墓地のようで、下に行く階段脇に≪潮州人専用墓地。潮州人以外の埋葬を禁じる。違反者は法律によって罰する。≫という旨の看板がマレー語と繁体字の中国語で出ていました。
潮州と言うのは中国・広東省東部の地域で、多くの華僑を出した事で有名。
この墓地を管理しているのは、その潮州出身者の≪山打根潮州公會 福利組≫のようで、上記の看板の最後にその名が出ていました。
注: 山打根は、サンダカンの中国語表記です。
上でご紹介した中国人墓地が見える場所まで来ると、イスタナ通りも細くなって車は通れなくなります。
画像に出ているヒンズー教徒やシーク教徒用の火葬場入口のゲートの手前に車を停めて、後は画像左手に見えている小道を徒歩で行ってみます。
結論から言うと、ここから日本人墓地までは徒歩10分もかかりませんでした。
入場料などは支払わなくても入って行けます。
最初にこの小道を下りて行った時には本当にこの道なのかと思ったので写真は撮らず、これら数枚の小道の画像は日本人墓地からの帰りに振り向きつつ撮ったもの。
足元が悪い部分もあるので、歩くための靴でどうぞ。
『サンダカンの墓』を持って行って、山崎朋子氏が1973年に訪れた時の様子と比べてみるといいと思います。今は『サンダカン八番娼館』の文庫版に一緒に収められているので、参照に便利です。
そのほかには、飲み物や虫除けスプレー、汗を拭うタオルなどを持って行くといいですよ。
トイレはこのあたりでは見かけなかったので、用足しは事前にどうぞ。
墓地への入場時間には特に制限は無いようでした。
ただ、SUR SHANGHAIは旦那と二人で行ったので心細いとは感じませんでしたが、日本人墓地周辺は草木が生い茂って人通りが全く無かったりするので、訪れる時間帯には気を付けた方がいいような気がします。
女性の一人歩きはお勧めできないと思います。
そのゲートのそばまで行って見上げてみると、果たしてそこには赤い字で≪日本人墓地≫と書いてあった。
そのそばには自然に生えたのか植えられたのか、赤い花を咲かせているハイビスカスの木もあって、墓地への道を示しているかのよう。
ハイビスカスの花が咲くゲートの先の小道と短い階段を上って行くと、いくつかの墓碑が見え始めたサンダカン日本人墓地。
山崎朋子氏が著した『サンダカン八番娼館』(1972年5月25日出版)の続きの『サンダカンの墓』(1974年11月5日出版)によると、1973年の夏に氏がサンダカンの日本人墓地を訪れた時には、SUR SHANGHAIが辿って来た小道もゲートもこの階段も無かったようで、中国人墓地のある丘に一旦上り、そこからこの墓地の上段に出たようです。
熱帯の暑気の中の日本人墓地。
SUR SHANGHAIが行った2008年2月には、このように刈り払われた小山の中腹に墓碑が並んでいました。
『サンダカンの墓』によると、山崎朋子氏が『サンダカン八番娼館』を著して後、それを読んだサンダカン駐在員の方によって苦労の末に発見された墓地なのだそうです。
墓の発見の知らせが氏に入ったのは、『サンダカン八番娼館』が出版された1972年の盂蘭盆会のことだったのだそう。
それから約1年後に、氏がこの墓地を訪れた時にはさらに刈り払いが進んでいて、全体が五段ある墓地だというのが確認できたそうです。
当時は墓碑も倒れていたり、墓碑も無い土の盛り上がりだけになった墓所も数多くあったようです。
サンダカンのこの日本人墓地の墓碑は、戒名より生前の名をそのまま刻んだ物が多かった。
グルリと回りこんで一段ずつ見て行きます。
画像右上に1本木が立っている場所が、墓地の最上段の5段目。
『サンダカン八番娼館』を読んだ事がある方にとって、刻まれた名に思い当たるものを感じるだろうと思われる墓碑は下から4段目に集中していました。
サンダカンの娼館の主の一人だった木下クニが、この地で没した身元の分からぬ日本人のために私費を投じて建てたのは、この画像では左から三つ目の一番背が高い供養塔。
正面には≪無縁法界之霊≫とだけ見えますが、側面には≪明治四十一年七月≫の文字や、後ろには≪熊本県天草郡二江村 木下クニ建之≫の文字もはっきり残っていました。
その木下クニ自身の墓は一番左手で、そこには≪法名釈最勝信女 俗名木下クニ≫と刻まれていました。
この正面からは≪法名釈最勝信女≫だけが見えています。
山崎朋子氏の『サンダカンの墓』にこれ以外の墓碑についても詳しく載っているので、そちらとつき合わせてこの画像をご覧ください。
画像をクリックして元画像で見てもはっきりしない場合は、一旦コピーで保存して更に拡大してみると見えるようになると思います。
木下クニが、この地で没した身元の分からぬ日本人のために私費を投じて建てた≪無縁法界之霊≫の供養塔をこの角度から見ると、上で言ったように、側面の≪明治四十一年七月≫の文字や、後ろの≪熊本県天草郡二江村 木下クニ建之≫の文字もはっきり分かりました。
『サンダカンの墓』には、山崎朋子氏が日本から持って行った水を柄杓でこの供養塔に注いでいる様子が白黒写真で載っています。
その写真では草深い印象のこの墓地も、今はこのように管理してくださる方々がいらっしゃるようです。
サンダカン日本人墓地の最上段(5段目)に立って、その全体像を後ろから見た様子。
ジャングルの切れ目からサンダカンの今の町並みとスールー海が見えています。これも画像をクリックして元画像で見てみるとはっきり見えます。
画像中央の一番背が高い碑が、木下クニの建てた供養塔。
山崎朋子氏が『サンダカンの墓』で、「…無縁からゆきさんの墓をはじめすべての墓が、サンダカン湾の方を向いて−−つまり日本に背を向けて建っているのに気付き…」と書いてあるとおりの姿。
何の縁もゆかりもないSUR SHANGHAIも、これらの人々の思いに触れた気持ちになった場所。
サンダカンに行くことがあれば、『サンダカン八番娼館』、『サンダカンの墓』、さらに1974年に制作された映画『サンダカン八番娼館 望郷』を事前に見ておくと、この墓地で一層の感慨がある事と思います。

SUR SHANGHAIさん
こんばんは。この旅行記がアップされた時に、なんとか本を手に入れて読みとおそうと決意をし、昨日(2008.09.16)やっと読み終わりました。
おサキさんの生涯と山崎朋子さんが実際に密着取材をした時の話にひどい時代が少し前の日本に存在していたのだと理解できました。
「おまえが何も話さんものを、どうして、他人のうちが聞いてよかもんかね
。」という台詞にはどきっときましたし、尊敬の念を持ちました。
あなたのおかげで、知り得なかったことを知り、考えることができました。いいきっかけを頂いたことに感謝します。ありがとうございました。
shanghai拝

またまたお返事が遅れて失礼しました。m(_)m
まだ出先ですが、今日はちょっと落ち着ける日です。
> この旅行記がアップされた時に、なんとか本を手に入れて読みとおそうと決意をし、昨日(2008.09.16)やっと読み終わりました。
> おサキさんの生涯と山崎朋子さんが実際に密着取材をした時の話にひどい時代が少し前の日本に存在していたのだと理解できました。
日本女性も貧困のゆえに、その種の≪仕事≫に就くため、海外に渡った(or 渡らせられた)時代があったのだと思い知らされる内容の著書ですよね。
からゆきさん経験者だったおサキさんやその周辺の山崎朋子氏の取材の様子も一つのドキュメンタリーになっているのが異色の作品だと思います。
今日、後ほどそちらへもお邪魔させていただきま〜す。

SUR SHANGHAIさん、今晩は!
田中絹代(サキ)、栗原小巻(圭子)で素晴らしい映画でしたね。田中絹代の演技が忘れられない、泣けてしまう映画でした。戦争がもたらす被害!
もし行く機会がありましたら、拙い般若心経を精一杯読経させてもらいます。

ご訪問、ありがとうございます。
今も遠いというイメージのあるボルネオの港町サンダカン。
明治から大正時代にかけて、船で送り込まれた女性たちはそこで強制された≪仕事≫にも屈辱を感じたことでしょうし、心細く大変な思いをしたことでしょう。
そんな中にも木下クニという女性がいたことは、彼女たちにとって大きな救いだったのだろうと思います。
もし黒鯛釣師さんがいらっしゃることがあれば、彼の地で没した日本の方たちにぜひ般若心経を聞かせてあげてくださいね。

SUR SHANGHAIさん
お参りご苦労様でした。日本人の墓は、こんな奥地に関わらず、手入れされて残っているなんて、驚きです。
異地に没した方々の思いは、如何ばかりであつたか
たまたま比島バギオ市の日本人会、日本人墓地の記事を、読んだ所で
感慨ひとしおです。
現在バギオ市は、1500mの高原にあり、人口23万の学園都市ですが、
海外より定年退職者のための都市を建設中の由でした。

> お参りご苦労様でした。日本人の墓は、こんな奥地に関わらず、手入れされて残っているなんて、驚きです。
> 異地に没した方々の思いは、如何ばかりであつたか
マレーシア周辺だけに限っても日本人墓地が残る場所はまだまだあるようで、これまでに参考にさせていただいたサイトには、多くの日本人墓地が紹介されていました。このサンダカンのほかにも、異国に没して葬られた日本の方々は数知れないのだというのがよく分かりました。
> 現在バギオ市は、1500mの高原にあり、人口23万の学園都市ですが、
> 海外より定年退職者のための都市を建設中の由でした。
バギオ市の大型ショッピング・センターに行った時、スーパーにけっこう日本の食品が置いてあったのを見て不思議に思いましたが、そちらにお住まいの日本の方も多いのですね。これで納得です。ありがとうございます。(*^。^*)

日本人墓地,,。その本は読んだことがないのですが,しんみりとした気分になりました。平和な時代に感謝!ですね。

ご訪問、ありがとうございます。m(__)m
遠く日本を離れたサンダカンの日本人墓地に眠る人々。
その中にはからゆきさんと呼ばれた女性も少なからず居たのだというのを、『サンダカン八番娼館』や『サンダカンの墓』を読んで知ったばかりではなく、実際に確かめたような気持ちにもなりました。
楽しい旅も好きですが、こういう歴史を知る旅も勉強になると思います。
今日はこれから出かけるので、帰って来てからそちらにお邪魔しますね。
ではでは、またそのうち。(^.^)/~~~
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