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東武東上線武蔵嵐山駅から徒歩30分、武蔵国有力豪族で鎌倉幕府御家人の実力者であった畠山氏の居館跡である菅谷館(すがややかた、埼玉県比企郡嵐山町)を訪問しました。<br /><br />そもそも畠山氏は平良文を祖とする坂東八平氏(大庭氏・梶原氏・長尾氏・三浦氏・中村氏・秩父氏・上総氏・千葉氏)の一つである秩父氏の一族で武蔵国男禽郡畠山郷(現埼玉県深谷市畠山)を支配していた豪族です。<br /><br />かつては東国の豪族と同様に畠山氏も源氏の家人として前九年の役や後三年の役などに従軍しますが、畠山重能(はたけやま・しげよし、生没不詳)の代では「平治の乱」で源義朝(みなもとの・よしとも、1123~1160)の敗死後は平氏に従属し仕えることになります。<br /><br />治承4年(1880)源頼朝(みなもとの・よりとも、1147~1199)が平氏に対し挙兵、この時重能の嫡男重忠(しげただ、1164~1205)は大番役の為上洛していた重能に代わり平家方として頼朝討伐に向かいます。<br /><br />安房に逃れた頼朝は地元豪族の支持を得て再挙、武蔵国に入る頃には2万騎以上の大軍になったものの武蔵国武士の支持を取り付けるべく畠山氏を含む武蔵での最強軍団秩父一族に参陣を呼びかけます。<br /><br />これに対し秩父一族は、三浦半島を本拠とする三浦一族を衣笠城攻撃し、領袖の三浦義明(みうら・よしあき、1092~1180)を討取り、一族を安房に駆逐した経緯があり帰伏をためらっていましたが頼朝が「不問とする」事で重忠は一族の江戸重長(えど・しげなが、生没不詳)及び河越重頼(かわごえ・しげより、生年不詳~1185)らと共に帰参します。<br /><br />鎌倉御家人として畠山重忠の活躍は目を見張るものがあります。即ち木曽義仲討伐には義経軍に属し宇治川合戦で武勇を示し、一の谷合戦でも義経と共にひよどり越の逆落しでは馬を引き担いで崖を降りていく姿は鬼神の雄姿であったほどです。<br /><br />有力な御家人は鎌倉に邸宅を構えますが重忠は幕府の南門前辺りに居を置くと共に、それまでの本領地畠山から10Km南東の地に移り新たに居館を開きますがそれが菅谷館といわれています。<br /><br />頼朝は正治元年(1199)に死去し、嫡男頼家が跡を継ぎますが頼家の専断を押さえる為北条時政以下宿老13名の合議制で政権を運営しますが、年齢的に若い重忠は中堅御家人故メンバ?の外でありましたが、梶原景時追放・追討に加わり、更に比企氏の乱でも幕府の一員として奮闘します。<br /><br />然しながら御家人同士の権力闘争が打ち続く中、畠山氏にも排斥の矛先が向けられてきます。嫡男重保(しげやす、生誕不詳~1205)が上洛した折京都の武蔵前司である平賀朝雅(ひらが・ともまさ、生誕不詳~1205)の屋敷で酒宴が催された際、朝雅と重保の間に喧嘩が起こり、その場は周囲の人々がなだめたのでとりあえず収まったもののその後尾を引くことになります。<br /><br />平賀朝雅は北条時政の後妻牧の方の娘婿であって、牧の方は朝雅が京都で受けた悪口を根に持って重忠親子を討つことを計画、元久2年(1205)に時政の意を受けた稲毛重成(生誕不詳~1205)の誘いを受けた重保は鎌倉に出てきた所を三浦義村(みうら・よしむら、生誕不詳~1239)軍に討たれます。<br /><br />更に重忠に対し誘いをかけ、「鎌倉で不穏な動きあり至急参集するよう」との偽通達を流し、僅か百五十騎を引き連れて菅谷を出立、二俣川に差し掛かった際待ち伏せの義時軍の攻撃にあい、幕府軍として参加していた愛甲季隆(あいこう・すえたか、生誕不詳~1213)が射た矢に当たり深傷を負い自決し、同行の郎党も自害して畠山氏はここに滅亡します。<br /><br />しかしながら討死した重忠の室は北条時政の娘であり、重忠の死後は河内源氏系源義国の流れをひく足利義兼(あしかが・よしかね)の子の義純(よしずみ)に嫁します。その際義純は重忠の旧領を与えられ畠山氏を称しここに畠山氏は清和源氏足利氏の一族となります。<br /><br />その後裔である畠山氏は河内畠山氏と能登畠山氏に分かれ、河内畠山氏の基国(もとくに)は明徳の乱(1391)で山名氏清を討ち、1398年に管領を務めることになります。<br /><br /><br /><br />2023年8月21日追記<br /><br />現地博物館で入手した「菅谷館跡」と題したパンフレットには下記の通り記載されています。<br /><br />「畠山重忠の館に起源をもつといわれる広大な平城<br /><br />菅谷館跡は、鎌倉時代の有力御家人であった畠山重忠が文治3年(1187)以前に居住していたと伝えられています。現在までのところ、重忠時代の遺構は確認されていませんが、館跡を含む周辺地域は菅谷と呼ばれ、古くから秩父平氏の流れをひく畠山氏の拠点があったと考えられます。館近くの平沢寺の中世寺院跡からは、忠重の曽祖父の秩父重綱名のある経筒が出土しており、阿弥陀堂跡とみられる建物跡なども発見されています。このことから、平沢寺は畠山氏に関係する寺院であったと考えられています。また、元久2年(1205)に畠山重忠が執権北条氏の謀略によって二俣川で討たれた際、「男衾郡菅谷館」を出発して鎌倉に向かったことが『吾妻鏡』に記されています。<br /><br />その後、山内上杉氏と扇谷上杉氏が争った長亨年中の大乱(1487~1505)の際には城郭として使われていたと考えられています。『松陰私語』によると、樟蔭という陣僧が「河越城に対し、須賀谷旧城に再興して鉢形城の守りを固めるように」と進言したとあり、「須賀谷旧城」が現在の菅谷館跡にあたると考えられます。なお、現在遺る菅谷館跡で見られる土塁や堀などは戦国時代の意向です。<br /><br />現在まで5回に及ぶ発掘調査が行われており、出土品の年代は14世紀末から16世紀前半、17世紀のものが中心です。<br /><br />昭和48年5月、鎌倉時代の代表的な武蔵武士の館に起源をもつ中世城館の遺跡として国の史跡に指定され、平成20年3月には比企城館跡群菅谷館跡と名称が変更されました。」<br />

武蔵嵐山 平良文を祖とする秩父氏の一族という由緒を有する鎌倉御家人の実力者で初代執権北条時政謀略で一族滅亡された畠山重忠本拠『菅谷館』訪問

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2012/11/18 - 2012/11/18

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滝山氏照

滝山氏照さん

東武東上線武蔵嵐山駅から徒歩30分、武蔵国有力豪族で鎌倉幕府御家人の実力者であった畠山氏の居館跡である菅谷館(すがややかた、埼玉県比企郡嵐山町)を訪問しました。

そもそも畠山氏は平良文を祖とする坂東八平氏(大庭氏・梶原氏・長尾氏・三浦氏・中村氏・秩父氏・上総氏・千葉氏)の一つである秩父氏の一族で武蔵国男禽郡畠山郷(現埼玉県深谷市畠山)を支配していた豪族です。

かつては東国の豪族と同様に畠山氏も源氏の家人として前九年の役や後三年の役などに従軍しますが、畠山重能(はたけやま・しげよし、生没不詳)の代では「平治の乱」で源義朝(みなもとの・よしとも、1123~1160)の敗死後は平氏に従属し仕えることになります。

治承4年(1880)源頼朝(みなもとの・よりとも、1147~1199)が平氏に対し挙兵、この時重能の嫡男重忠(しげただ、1164~1205)は大番役の為上洛していた重能に代わり平家方として頼朝討伐に向かいます。

安房に逃れた頼朝は地元豪族の支持を得て再挙、武蔵国に入る頃には2万騎以上の大軍になったものの武蔵国武士の支持を取り付けるべく畠山氏を含む武蔵での最強軍団秩父一族に参陣を呼びかけます。

これに対し秩父一族は、三浦半島を本拠とする三浦一族を衣笠城攻撃し、領袖の三浦義明(みうら・よしあき、1092~1180)を討取り、一族を安房に駆逐した経緯があり帰伏をためらっていましたが頼朝が「不問とする」事で重忠は一族の江戸重長(えど・しげなが、生没不詳)及び河越重頼(かわごえ・しげより、生年不詳~1185)らと共に帰参します。

鎌倉御家人として畠山重忠の活躍は目を見張るものがあります。即ち木曽義仲討伐には義経軍に属し宇治川合戦で武勇を示し、一の谷合戦でも義経と共にひよどり越の逆落しでは馬を引き担いで崖を降りていく姿は鬼神の雄姿であったほどです。

有力な御家人は鎌倉に邸宅を構えますが重忠は幕府の南門前辺りに居を置くと共に、それまでの本領地畠山から10Km南東の地に移り新たに居館を開きますがそれが菅谷館といわれています。

頼朝は正治元年(1199)に死去し、嫡男頼家が跡を継ぎますが頼家の専断を押さえる為北条時政以下宿老13名の合議制で政権を運営しますが、年齢的に若い重忠は中堅御家人故メンバ?の外でありましたが、梶原景時追放・追討に加わり、更に比企氏の乱でも幕府の一員として奮闘します。

然しながら御家人同士の権力闘争が打ち続く中、畠山氏にも排斥の矛先が向けられてきます。嫡男重保(しげやす、生誕不詳~1205)が上洛した折京都の武蔵前司である平賀朝雅(ひらが・ともまさ、生誕不詳~1205)の屋敷で酒宴が催された際、朝雅と重保の間に喧嘩が起こり、その場は周囲の人々がなだめたのでとりあえず収まったもののその後尾を引くことになります。

平賀朝雅は北条時政の後妻牧の方の娘婿であって、牧の方は朝雅が京都で受けた悪口を根に持って重忠親子を討つことを計画、元久2年(1205)に時政の意を受けた稲毛重成(生誕不詳~1205)の誘いを受けた重保は鎌倉に出てきた所を三浦義村(みうら・よしむら、生誕不詳~1239)軍に討たれます。

更に重忠に対し誘いをかけ、「鎌倉で不穏な動きあり至急参集するよう」との偽通達を流し、僅か百五十騎を引き連れて菅谷を出立、二俣川に差し掛かった際待ち伏せの義時軍の攻撃にあい、幕府軍として参加していた愛甲季隆(あいこう・すえたか、生誕不詳~1213)が射た矢に当たり深傷を負い自決し、同行の郎党も自害して畠山氏はここに滅亡します。

しかしながら討死した重忠の室は北条時政の娘であり、重忠の死後は河内源氏系源義国の流れをひく足利義兼(あしかが・よしかね)の子の義純(よしずみ)に嫁します。その際義純は重忠の旧領を与えられ畠山氏を称しここに畠山氏は清和源氏足利氏の一族となります。

その後裔である畠山氏は河内畠山氏と能登畠山氏に分かれ、河内畠山氏の基国(もとくに)は明徳の乱(1391)で山名氏清を討ち、1398年に管領を務めることになります。



2023年8月21日追記

現地博物館で入手した「菅谷館跡」と題したパンフレットには下記の通り記載されています。

「畠山重忠の館に起源をもつといわれる広大な平城

菅谷館跡は、鎌倉時代の有力御家人であった畠山重忠が文治3年(1187)以前に居住していたと伝えられています。現在までのところ、重忠時代の遺構は確認されていませんが、館跡を含む周辺地域は菅谷と呼ばれ、古くから秩父平氏の流れをひく畠山氏の拠点があったと考えられます。館近くの平沢寺の中世寺院跡からは、忠重の曽祖父の秩父重綱名のある経筒が出土しており、阿弥陀堂跡とみられる建物跡なども発見されています。このことから、平沢寺は畠山氏に関係する寺院であったと考えられています。また、元久2年(1205)に畠山重忠が執権北条氏の謀略によって二俣川で討たれた際、「男衾郡菅谷館」を出発して鎌倉に向かったことが『吾妻鏡』に記されています。

その後、山内上杉氏と扇谷上杉氏が争った長亨年中の大乱(1487~1505)の際には城郭として使われていたと考えられています。『松陰私語』によると、樟蔭という陣僧が「河越城に対し、須賀谷旧城に再興して鉢形城の守りを固めるように」と進言したとあり、「須賀谷旧城」が現在の菅谷館跡にあたると考えられます。なお、現在遺る菅谷館跡で見られる土塁や堀などは戦国時代の意向です。

現在まで5回に及ぶ発掘調査が行われており、出土品の年代は14世紀末から16世紀前半、17世紀のものが中心です。

昭和48年5月、鎌倉時代の代表的な武蔵武士の館に起源をもつ中世城館の遺跡として国の史跡に指定され、平成20年3月には比企城館跡群菅谷館跡と名称が変更されました。」

交通手段
私鉄 徒歩

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  • 嵐山町観光マップ<br /><br />都幾川(ときがわ)と槻川が合流する地点の高台に位置する菅谷館跡が確認できます。<br /><br />

    嵐山町観光マップ

    都幾川(ときがわ)と槻川が合流する地点の高台に位置する菅谷館跡が確認できます。

  • 菅谷館跡搦手門<br /><br />国道254号線バイパスを臨む搦手門から入場します。

    菅谷館跡搦手門

    国道254号線バイパスを臨む搦手門から入場します。

  • 菅谷館跡搦手門<br /><br />上り坂を入っていきます。

    菅谷館跡搦手門

    上り坂を入っていきます。

  • 菅谷館跡石柱<br /><br /><br /><br />

    菅谷館跡石柱



  • 二重土塁と泥田堀

    二重土塁と泥田堀

  • 二重土塁と泥田堀説明板

    二重土塁と泥田堀説明板

  • 土塁

    土塁

  • 搦手門(からめてもん)と土橋

    搦手門(からめてもん)と土橋

  • 搦手門と土橋説明板<br />

    搦手門と土橋説明板

  • 土塁

    土塁

  • 菅谷館跡地図<br /><br />館跡の内外には曲線の長い土塁と堀が巧みに絡み合っていることが解ります。

    菅谷館跡地図

    館跡の内外には曲線の長い土塁と堀が巧みに絡み合っていることが解ります。

  • 主郭への小路

    主郭への小路

  • 埼玉県立嵐山史跡博物館<br /><br />居館跡に博物館の建物があります。

    埼玉県立嵐山史跡博物館

    居館跡に博物館の建物があります。

  • 嵐山史跡博物館案内板<br /><br />大人は100円で博物館への入館ができます。

    嵐山史跡博物館案内板

    大人は100円で博物館への入館ができます。

  • 比企地区城郭地図<br /><br />秩父山系から張り出した台地の突端が平野部に落ちる一帯にあたり、自然の地形を利用した城郭造りに恵まれています。

    比企地区城郭地図

    秩父山系から張り出した台地の突端が平野部に落ちる一帯にあたり、自然の地形を利用した城郭造りに恵まれています。

  • 菅谷居館跡模型

    菅谷居館跡模型

  • 三の郭<br /><br />博物館建設を前に発掘調査した結果建物や井戸が確認され、それぞれの跡地の位置を示しています。

    三の郭

    博物館建設を前に発掘調査した結果建物や井戸が確認され、それぞれの跡地の位置を示しています。

  • 建物跡と井戸跡(三ノ郭)説明板

    建物跡と井戸跡(三ノ郭)説明板

  • 二ノ郭跡<br /><br />二ノ郭は主郭の北側と西側を囲むように配置されています。<br /><br />

    二ノ郭跡

    二ノ郭は主郭の北側と西側を囲むように配置されています。

  • 二ノ郭跡説明板

    二ノ郭跡説明板

  • 畠山重忠像<br /><br />土塁の上に重忠像が建立されています。<br /><br />

    畠山重忠像

    土塁の上に重忠像が建立されています。

  • 畠山重忠像

    畠山重忠像

  • 畠山重忠像記念碑

    畠山重忠像記念碑

  • 畠山重忠像近景

    畠山重忠像近景

  • 畠山重忠説明板

    畠山重忠説明板

  • 重忠像から一望<br /><br />

    重忠像から一望

  • 菅谷居館跡地図

    菅谷居館跡地図

  • 菅谷館跡石碑

    菅谷館跡石碑

  • 土橋<br /><br />二の郭から土橋を渡って主郭に向かいます。

    土橋

    二の郭から土橋を渡って主郭に向かいます。

  • 主郭跡の空堀<br /><br />土橋から左の空堀を一望します。

    主郭跡の空堀

    土橋から左の空堀を一望します。

  • 主郭跡の空堀<br /><br />土橋から右の空堀を一望します。

    主郭跡の空堀

    土橋から右の空堀を一望します。

  • 主郭跡

    主郭跡

  • 主郭跡土塁<br /><br />主郭を土塁が取り囲んでいます。<br /><br />

    主郭跡土塁

    主郭を土塁が取り囲んでいます。

  • 主郭跡

    主郭跡

  • 主郭跡

    主郭跡

  • 土塁<br /><br />主郭跡を取り囲む土塁が確認できます。

    土塁

    主郭跡を取り囲む土塁が確認できます。

  • 登り坂<br /><br />右手の階段を上ってゆきます。

    登り坂

    右手の階段を上ってゆきます。

  • 土塁<br /><br />左手に土塁を見ながら南郭に向かいます。

    土塁

    左手に土塁を見ながら南郭に向かいます。

  • 南郭への小路

    南郭への小路

  • 深い空堀

    深い空堀

  • 南郭案内板<br /><br />外堀に見立てた都幾川に近い主郭と隣接する南郭が続きます。

    南郭案内板

    外堀に見立てた都幾川に近い主郭と隣接する南郭が続きます。

  • 南郭説明板<br /><br />

    南郭説明板

  • 二ノ郭への道

    二ノ郭への道

  • 二ノ郭への道<br /><br />右側に土塁を見ながら二ノ郭に向かいます。

    二ノ郭への道

    右側に土塁を見ながら二ノ郭に向かいます。

  • 二ノ郭跡

    二ノ郭跡

  • 二ノ郭跡

    二ノ郭跡

  • 二ノ郭跡

    二ノ郭跡

  • 出枡形土塁説明板

    出枡形土塁説明板

  • 土塁

    土塁

  • 出枡形土塁<br /><br />二ノ郭から空堀を越えて土塁を一望します。

    出枡形土塁

    二ノ郭から空堀を越えて土塁を一望します。

  • 博物館を遠望

    博物館を遠望

  • 二ノ郭跡

    二ノ郭跡

  • 二ノ郭跡

    二ノ郭跡

  • 蔀土塁(しとみどるい)<br /><br />西ノ郭から三ノ郭の様子が直接見えないように施した土塁です。

    蔀土塁(しとみどるい)

    西ノ郭から三ノ郭の様子が直接見えないように施した土塁です。

  • 蔀土塁説明板<br /><br />

    蔀土塁説明板

  • 正てん門と木橋<br /><br />三ノ郭から復元木橋を渡って西ノ郭に進みます。

    正てん門と木橋

    三ノ郭から復元木橋を渡って西ノ郭に進みます。

  • 復元木橋<br /><br />三ノ郭から木橋を渡り西ノ郭に向かいます。三ノ郭側には三ノ郭の出入口となっている正てん門跡がありました。

    復元木橋

    三ノ郭から木橋を渡り西ノ郭に向かいます。三ノ郭側には三ノ郭の出入口となっている正てん門跡がありました。

  • 復元木橋説明板

    復元木橋説明板

  • 空堀<br /><br />木橋から右方向の空堀を一望します。

    空堀

    木橋から右方向の空堀を一望します。

  • 空堀<br /><br />木橋から左方向の空堀を一望します。

    空堀

    木橋から左方向の空堀を一望します。

  • 西ノ郭跡

    西ノ郭跡

  • 西ノ郭跡<br /><br />西ノ郭跡は広い敷地となっています。

    西ノ郭跡

    西ノ郭跡は広い敷地となっています。

  • 西ノ郭跡

    西ノ郭跡

  • 空堀と土塁

    空堀と土塁

  • 深い空堀

    深い空堀

  • 西ノ郭土塁

    西ノ郭土塁

  • 西ノ郭土塁<br /><br />

    西ノ郭土塁

  • 西ノ郭跡

    西ノ郭跡

  • 復元木橋<br /><br />今度は西ノ郭から三ノ郭に向けて木橋を渡ります。

    復元木橋

    今度は西ノ郭から三ノ郭に向けて木橋を渡ります。

  • 三ノ郭土塁

    三ノ郭土塁

  • 三ノ郭土塁

    三ノ郭土塁

  • 三ノ郭小路

    三ノ郭小路

  • 三ノ郭説明板<br /><br />城郭の中では最も広い三ノ郭は武士や騎馬の集合場所でありました。<br />

    三ノ郭説明板

    城郭の中では最も広い三ノ郭は武士や騎馬の集合場所でありました。

  • 菅谷居館跡全景<br /><br />国道254号から菅谷居館跡を含む樹林を望みます。<br /><br />

    菅谷居館跡全景

    国道254号から菅谷居館跡を含む樹林を望みます。

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