2013/06/01 - 2013/06/01
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横浜市神奈川区青木町に鎮座する洲崎大神は建久2年(1191年)に源頼朝が安房神社を勧進して創建したと伝えられている。その後、幕府直轄の神社として、代々お祭りしてきた。
別当寺であった普門寺の開山は鎮海(文治3年(1187年)寂)と伝えられているが、山号の洲崎山は洲崎大神からもらっている。また、寺号の普門は、洲崎大神の本地仏である観世音菩薩を安置したことより、観世音菩薩が多くの人々に救いの門を開いているとの意味である普門とされたと伝えられている。したがって、洲崎大神の創建は普門寺と一緒か、それ以前でなければならないだろう。また、神奈川湊は古代からあった湊である。したがって、鎌倉時代初期に勧進したとしても文治3年(1187年)以前であるのかも知れない。
東京湾内の港湾として六浦湊(横浜市金沢区)もあり、その奥に鎮座する瀬戸神社は、治承4年(1180年)、頼朝が伊豆三島明神(伊豆国一ノ宮)をこの地に勧請したことに始まり、建久3年(1192年)に社殿が造営された。また別当寺として浄願寺も創建されている。
また、富岡八幡宮は建久2年(1191年)に頼朝が当郷鎮護の為、摂津の西宮の恵比寿様をお祀りしたのが始めで、後の安貞元年(1227年)には八幡大神を併せ祀り、社名も八幡宮と改めたとされる。また、八幡宮の山が応長元年(1131年)の大津波から部落を守った事から「波除八幡(なみよけはちまん)」とも称ばれている。このことから、古代から湊(入り江ふなだまり公園がその名残であろう)を守る神社があり、建久2年(1191年)に頼朝が社殿を建造したというこてであろう。
また、洲崎大神由緒略記には、「源頼朝公は石橋山の合戦に敗れ、相州真鶴より海路安房に渡り、安房洲崎の安房神社に参籠、再起を祈願した後、遂に天下を平定して鎌倉幕府を開かれました。公はその神恩を忘れず、その後すぐに、この地を撰定して安房神社の御分霊を勧請、一祠を創建し、幕府直轄の神社として代々祭典を厳修させなさいました。」とある。こうしたことを鑑みれば、平家滅亡後、直ぐに洲崎大神を創建し(文治元年(1185年)〜文治3年(1187年))、建久2年(1191年)には社殿を立派にしたと考える方が理に合うであろうか。
(表紙写真は洲崎大神拝殿)
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洲崎大神参道入口から見える横浜駅方面のビル。
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洲崎大神参道入口の鳥居。
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神奈川宿歴史の道「洲崎大神」。
「洲崎大神
洲崎大神は、建久二年(一一九一)、源頼朝が安房国(現、千葉県)一宮の安房神社の霊を移して祀ったことに始まると伝えられている。
「江戸名所図会」の様子は、今も石鳥居や周囲の地形に偲ぶことができる。神社前から海に向かって延びる参道が、第一京浜に突き当たるあたり。そこが、かつての船着場である。横浜が開港されると、この船着場は開港場と神奈川宿とを結ぶ渡船場となり、付近には宮ノ下河岸渡船場と呼ばれる海陸の警護に当たる陣屋も造られた。」 -
「洲崎大神」の社号標石。
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洲崎大神の社叢(しゃそう)。
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「洲崎神社」看板。
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石段と石鳥居。
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「御即位記念」碑。左右に建てられている。
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「御即位記念」碑。
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稲荷社の朱塗りの鳥居。
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稲荷社覆殿。
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稲荷社本殿。
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「洲崎大神御鎮座八百年祭記念事業奉賛者芳名」碑(平成2年(1990年)銘)。
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石碑。
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「玉垣寄附者芳名碑」(大正9年(1920年)銘)。
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溶岩と狛犬、奉納碑。
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石碑。
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「明治遷都内侍奉安之跡」碑。
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「明治遷都内侍奉安之跡」碑。
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境内西側の鳥居。別当寺への近道だったのだろう。
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境内の石段。
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「入学記念」碑。
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狛犬。
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狛犬。
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二股の木。
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境内西側の鳥居前の木立。
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境内西側の鳥居。
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おみくじが結ばれた木。
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神楽殿。
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社務所。
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直会(なおらい)殿。
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直会(なおらい)殿。
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境内にある二股の木。
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「献木」碑。
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おみくじが結ばれた木。
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股になった木。
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「洲崎大神 由緒略記
社 名
洲崎大神
(すさきおおかみ/すさきだいじん)
鎮座地
横浜市神奈川区青木町五番地二十九
祭 神
天太玉命 (あめのふとだまのみこと)
天比理刀賣命(あめのひりとめのみこと)
相 殿
素盞男命 (すさのおのみこと)
大山咋命 (おおやまくいのみこと)
例 祭
六月六、七、八日
(現在は年によって異なる)
創 立
建久二年六月二十六日
(西暦一一九一年)
畏くも御祭神天太玉命は往昔祭政一致の時代より神祇政治の祖神として信仰され、天比理刀賣命はその御妃でいらっしゃいます。
源頼朝公は石橋山の合戦に敗れ、相州真鶴より海路安房に渡り、安房洲崎の安房神社に参籠、再起を祈願した後、遂に天下を平定して鎌倉幕府を開かれました。公はその神恩を忘れず、その後すぐに、この地を撰定して安房神社の御分霊を勧請、一祠を創建し、幕府直轄の神社として代々祭典を厳修させなさいました。頼朝公奉献の神鏡が今に伝わるといいます。また、式年、神職吉田家に烏帽子・狩衣が親子の分として二着ずつ贈られたといいます。当宮大祭の折には、御神輿を社前の海に担ぎ入れ、安房御本宮の御本霊と海上にて御会合になる御濱下り祭が執り行われており、現在では御神輿を海に担ぎ入れることはなくなりましたが、その祭事は今に到る迄絶える事なく続けられています。
当社は数回の祝融に遭ってきました。殊に大正十二年九月一日震災、昭和二十年五月戦災等、氏子と共に炎上しましたが、その度に氏子民の協力奉仕により再建復興されています。戦災の後、昭和三十一年六月竣工奉告祝賀祭を斎行しました。
又、明治元年東京遷都明治天皇御東幸の砌、当社境内は内侍所の御奉安所として御撰定を授かった聖蹟記念の地であります。因に、昭和十五年の御鎮座七百五十年祭に続き、平成二年同八百年祭が執行され、その際日本有数の御神輿を横浜そごう駐車場にて奉舁しました。
平成二十四年四月
宮 司 吉 田 錦
氏子代表 上 野 健 彦」。 -
洲崎大神拝殿。
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拝殿。
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拝殿。
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拝殿。
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拝殿。
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拝殿。
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拝殿。
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拝殿。
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拝殿と本殿。
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本殿。
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本殿。
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本殿。
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本殿。
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倉庫。
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