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保土ヶ谷宿【横浜市)から戸塚宿(横浜市)へ<br /><br />天保14年(1843)、保土ケ谷宿の宿内家数は558軒、うち本陣1、脇本陣3、旅籠67軒で宿内人口は約2,900人(宿長は十九町(約2073m)でした。<br /><br />【保土ヶ谷観光名所 境木地蔵由来】<br /> ここ境木は、武蔵・相模の国境で、江戸時代にはそのしるしが建てられていて、境木の地名はそれからおきたと いわれています。<br /><br /> また境木は東海道中の難所であった権太坂を登りきった所にあり、名物の牡丹餅を食べながら旅の疲れを休めることができて大変賑わったとも伝えられています。<br /><br /> 境木の名を有名にしたものは地蔵で、江戸の人達にも崇敬され今でも境内に寄附された燈籠が残っています。<br /><br /> なおこの地蔵には次のような珍しい伝承があります。即ち、いつの頃か相模国鎌倉腰越の海辺に漂着した地蔵が土地の漁師の夢枕に立ち、「俺は江戸の方に行きたい運んでくれたらこの海を守ろう」と告げたので、漁師たちが江戸へ運ぶ途中此の境木で動かなくなった為、村人達は地蔵を引き取りお堂を建てて安置したところ、それからは村が繁盛したということで す。<br /><br /> 地蔵堂の鐘は、明治になって野毛山の時の鐘に使用され横浜市民に大正の大震災まで親しまれ ました。<br />                 平成元年十月四日 岩間町見光寺

東海道53次、No5,保土ヶ谷宿【横浜市)から戸塚宿(横浜市)(5)へ

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2016/03/17 - 2016/03/17

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保土ヶ谷宿【横浜市)から戸塚宿(横浜市)へ

天保14年(1843)、保土ケ谷宿の宿内家数は558軒、うち本陣1、脇本陣3、旅籠67軒で宿内人口は約2,900人(宿長は十九町(約2073m)でした。

【保土ヶ谷観光名所 境木地蔵由来】
 ここ境木は、武蔵・相模の国境で、江戸時代にはそのしるしが建てられていて、境木の地名はそれからおきたと いわれています。

 また境木は東海道中の難所であった権太坂を登りきった所にあり、名物の牡丹餅を食べながら旅の疲れを休めることができて大変賑わったとも伝えられています。

 境木の名を有名にしたものは地蔵で、江戸の人達にも崇敬され今でも境内に寄附された燈籠が残っています。

 なおこの地蔵には次のような珍しい伝承があります。即ち、いつの頃か相模国鎌倉腰越の海辺に漂着した地蔵が土地の漁師の夢枕に立ち、「俺は江戸の方に行きたい運んでくれたらこの海を守ろう」と告げたので、漁師たちが江戸へ運ぶ途中此の境木で動かなくなった為、村人達は地蔵を引き取りお堂を建てて安置したところ、それからは村が繁盛したということで す。

 地蔵堂の鐘は、明治になって野毛山の時の鐘に使用され横浜市民に大正の大震災まで親しまれ ました。
                 平成元年十月四日 岩間町見光寺

旅行の満足度
4.5
交通手段
JRローカル 徒歩

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  • 保土ヶ谷でなく、程ケ谷の表記でした。商店のシャター絵画です

    保土ヶ谷でなく、程ケ谷の表記でした。商店のシャター絵画です

  • 浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像を使用しています<br />【東海道五十三次 保土ヶ谷・新町橋 広重】05<br />帷子川に架かる新町橋を前景に、神戸町、岩間町、保土ヶ谷町へ続く宿場町を描いている。<br /><br />天保14年(1843年)の人口2,928人、総家数558軒、本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠屋67軒

    浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像を使用しています
    【東海道五十三次 保土ヶ谷・新町橋 広重】05
    帷子川に架かる新町橋を前景に、神戸町、岩間町、保土ヶ谷町へ続く宿場町を描いている。

    天保14年(1843年)の人口2,928人、総家数558軒、本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠屋67軒

  • JR保土ヶ谷駅を過ぎると、保土ヶ谷宿の中心に入った。そこには問屋場跡碑も立つ。<br />【問屋場跡】 歴史の道<br />問屋場<br /> 宿場の公的な業務のうち、幕府の公用旅行者や大名などの荷物運搬(人馬継立)、幕府公用の書状等の通信(継飛脚)、大名行列の宿泊の手配などを担っていたのが問屋場で、宿場の中でも最も重要な施設のひとつです。宿場ではこの業務をつとめるのに十分な数の人足と馬を用意するよう定められていました。問屋場には問屋を筆頭に、年寄、帳付、馬指などの宿役人が詰めていました。<br /><br />助郷<br /> 宿場で賄いきれない人馬を、指定された周辺の村々から動員することを助郷、指定された村を助郷村といいます。助郷は東海道が整備されてから交通量が増加してきた17世紀後半頃に次第に制度化されていきました。享保10年(1725)に定められた保土ヶ谷宿の助郷村は全部でおよそ40か村、現在の保土ヶ谷区のみならず、旭・西・中・南・港南・磯子・戸塚等の各区域に及びました。こうした助郷村々は助郷動員の指示に対応するため、問屋場の近くに助郷会所という事務所を設けていました。<br /><br />高札場<br /> 高札場は、幕府や領主の最も基本的な法令を書き記した木の札=「高札」を掲示した施設です。通常、土台部分を石垣で固め、その上を柵で囲んだ内部に高札が掲示され、屋根がかけられています。宿場の高札場には人馬の駄賃や宿代などを記した高札が掲示されており、宿内の中心地に設置されました。<br />     平成16年3月 保土ヶ谷区役所

    JR保土ヶ谷駅を過ぎると、保土ヶ谷宿の中心に入った。そこには問屋場跡碑も立つ。
    【問屋場跡】 歴史の道
    問屋場
     宿場の公的な業務のうち、幕府の公用旅行者や大名などの荷物運搬(人馬継立)、幕府公用の書状等の通信(継飛脚)、大名行列の宿泊の手配などを担っていたのが問屋場で、宿場の中でも最も重要な施設のひとつです。宿場ではこの業務をつとめるのに十分な数の人足と馬を用意するよう定められていました。問屋場には問屋を筆頭に、年寄、帳付、馬指などの宿役人が詰めていました。

    助郷
     宿場で賄いきれない人馬を、指定された周辺の村々から動員することを助郷、指定された村を助郷村といいます。助郷は東海道が整備されてから交通量が増加してきた17世紀後半頃に次第に制度化されていきました。享保10年(1725)に定められた保土ヶ谷宿の助郷村は全部でおよそ40か村、現在の保土ヶ谷区のみならず、旭・西・中・南・港南・磯子・戸塚等の各区域に及びました。こうした助郷村々は助郷動員の指示に対応するため、問屋場の近くに助郷会所という事務所を設けていました。

    高札場
     高札場は、幕府や領主の最も基本的な法令を書き記した木の札=「高札」を掲示した施設です。通常、土台部分を石垣で固め、その上を柵で囲んだ内部に高札が掲示され、屋根がかけられています。宿場の高札場には人馬の駄賃や宿代などを記した高札が掲示されており、宿内の中心地に設置されました。
         平成16年3月 保土ヶ谷区役所

  • 保土ヶ谷宿の高札場跡碑

    保土ヶ谷宿の高札場跡碑

  • 【金沢横丁の石碑=金沢道道標(かなざわみちどうひょう)】<br />東海道と金沢八景・浦賀へ通じる金沢道とが分岐する四つ角に石碑が4基。金沢道は梅の名所の杉田梅林、景勝地の金沢八景、名所旧跡の鎌倉、江の島弁天参詣などに行くために多くの人々が訪れた道であり、幕末にはペリー来航で幕府役人が、浦賀へ通った道でもあった<br /><br />旧東海道の東側で、金沢・浦賀往還への出入り口にあたり、通称「金沢横町」と呼ばれた。金沢・浦賀往還には、円海山、杉田、富岡などの信仰や観光の地が枝道にあるため、道標として四基が建立され、現在残っています。<br />1. 円海山之道[天明三年(1783)建立]<br />   左面に「かなさわかまくらへ通りぬけ」と刻されています。<br />2.かなさわ、かまくら道[天和二年(1682)建立]<br />3.杉田道[文化十一年(1814)建立]<br />   正面に「程ヶ谷の枝道曲がれ梅の花 其爪」と刻されています。<br />4.富岡山芋大明神社の道[弘化二年(1845)建立]<br />*左から二番目には「保土ヶ谷の枝道曲がれ梅の花」という杉田梅林への道を示す俳句が記されている。<br />                      平成五年三月 横浜市教育委員会

    【金沢横丁の石碑=金沢道道標(かなざわみちどうひょう)】
    東海道と金沢八景・浦賀へ通じる金沢道とが分岐する四つ角に石碑が4基。金沢道は梅の名所の杉田梅林、景勝地の金沢八景、名所旧跡の鎌倉、江の島弁天参詣などに行くために多くの人々が訪れた道であり、幕末にはペリー来航で幕府役人が、浦賀へ通った道でもあった

    旧東海道の東側で、金沢・浦賀往還への出入り口にあたり、通称「金沢横町」と呼ばれた。金沢・浦賀往還には、円海山、杉田、富岡などの信仰や観光の地が枝道にあるため、道標として四基が建立され、現在残っています。
    1. 円海山之道[天明三年(1783)建立]
       左面に「かなさわかまくらへ通りぬけ」と刻されています。
    2.かなさわ、かまくら道[天和二年(1682)建立]
    3.杉田道[文化十一年(1814)建立]
       正面に「程ヶ谷の枝道曲がれ梅の花 其爪」と刻されています。
    4.富岡山芋大明神社の道[弘化二年(1845)建立]
    *左から二番目には「保土ヶ谷の枝道曲がれ梅の花」という杉田梅林への道を示す俳句が記されている。
                          平成五年三月 横浜市教育委員会

  • 保土ヶ谷駅(旧程ヶ谷)を過ぎるとJRの東海道線の踏切を渡って、国道1号線に突き当たる。

    保土ヶ谷駅(旧程ヶ谷)を過ぎるとJRの東海道線の踏切を渡って、国道1号線に突き当たる。

  • 間もなく、程ヶ谷本陣跡の碑l

    間もなく、程ヶ谷本陣跡の碑l

  • 【本陣跡】 本陣の間取りを記した説明板。<br />元治元年(1846)の茶屋本陣九左衛門の規模は建坪63坪(約208㎡)、間口十間半(約19.1m)、奥行六間(約10.9m)、室数8、門構付 でした。<br />保土ヶ谷宿軽部本陣<br />JR東海道線の踏切を渡ると、今度は東海道(国道1号線)と合流する。<br />その合流点にあるのがこの保土ヶ谷宿の軽部本陣跡。当時の門が残されている。<br />右手の道路は現東海道(国道1号)である。本陣は小田原北条氏家臣、刈部豊前守(かるべぶぜんのかみ)の子孫が代々務めていた。<br />同家は、問屋、名主を兼ね、保土ヶ谷宿では最も有力な家であった。<br />                    平成15年3月 保土ヶ谷区役所<br /><br />【本陣跡】 歴史の道 (新しい説明板)<br /> 慶長6年(1601年)正月、東海道の伝馬制度を定めた徳川家康より「伝馬朱印状」が「ほとかや」(保土ヶ谷町)あてに出されたことにより、保土ヶ谷宿が成立しました。<br /> 東海道を往来する幕府の役人や参勤交代の大名は、宿場に設置された本陣に宿泊しました。保土ヶ谷宿の本陣は、小田原北条氏の家臣苅部豊前守康則の子孫といわれる苅部家が代々つとめています。同家は、問屋・名主を兼ねるなど、保土ヶ谷宿における最も有力な家で、安政6年(1859年)に横浜が開港する際、当時の当主清兵衛悦甫が総年寄に任ぜられ、初期の横浜町政に尽くしました。明治3年(1870年)に軽部姓に改称し、現在に至っています。<br /> 本陣が混雑した際、幕府の役人や参勤交代の大名は脇本陣に宿泊しました。保土ヶ谷には藤屋・水屋・大金子屋の33軒の脇本陣がありました。<br />     平成15年3月 保土ヶ谷区役所

    【本陣跡】 本陣の間取りを記した説明板。
    元治元年(1846)の茶屋本陣九左衛門の規模は建坪63坪(約208㎡)、間口十間半(約19.1m)、奥行六間(約10.9m)、室数8、門構付 でした。
    保土ヶ谷宿軽部本陣
    JR東海道線の踏切を渡ると、今度は東海道(国道1号線)と合流する。
    その合流点にあるのがこの保土ヶ谷宿の軽部本陣跡。当時の門が残されている。
    右手の道路は現東海道(国道1号)である。本陣は小田原北条氏家臣、刈部豊前守(かるべぶぜんのかみ)の子孫が代々務めていた。
    同家は、問屋、名主を兼ね、保土ヶ谷宿では最も有力な家であった。
                        平成15年3月 保土ヶ谷区役所

    【本陣跡】 歴史の道 (新しい説明板)
     慶長6年(1601年)正月、東海道の伝馬制度を定めた徳川家康より「伝馬朱印状」が「ほとかや」(保土ヶ谷町)あてに出されたことにより、保土ヶ谷宿が成立しました。
     東海道を往来する幕府の役人や参勤交代の大名は、宿場に設置された本陣に宿泊しました。保土ヶ谷宿の本陣は、小田原北条氏の家臣苅部豊前守康則の子孫といわれる苅部家が代々つとめています。同家は、問屋・名主を兼ねるなど、保土ヶ谷宿における最も有力な家で、安政6年(1859年)に横浜が開港する際、当時の当主清兵衛悦甫が総年寄に任ぜられ、初期の横浜町政に尽くしました。明治3年(1870年)に軽部姓に改称し、現在に至っています。
     本陣が混雑した際、幕府の役人や参勤交代の大名は脇本陣に宿泊しました。保土ヶ谷には藤屋・水屋・大金子屋の33軒の脇本陣がありました。
         平成15年3月 保土ヶ谷区役所

  • 旅籠の面影を残した建築物らしい

    旅籠の面影を残した建築物らしい

  • 【保土ヶ谷宿の宿泊・休憩施設】 歴史の道<br />「本陣・脇本陣」<br />  公用の宿泊・休憩施設として参勤交代の大名などに利用されたのが本陣(1軒)脇本陣(3軒)で、明治3年の宿駅制度廃止まで続いていました。しかし、その格式と引き換えに制約や出費も多く、経営は必ずしも楽ではなかったようです。<br /><br />「茶屋本陣」<br /> 正式な本陣に匹敵する規模と格式を持つ茶屋が上方見附付近にあり、「茶屋本陣」と呼ばれていました。苅部本陣を利用しない大名が休息するほか、参勤交代の大名の出迎えもしていたとされています。<br /><br />「旅籠屋」<br /> はじめは「木賃旅籠屋」といって食事を出さず、旅人が持参した食糧を自炊する薪を提供するだけでしたが、元禄(1690年代)のころから食事や酒を提供する旅籠屋も増えてきました。保土ヶ谷宿の旅籠屋の数は寛政12年(1800)には37軒でしたが、天保13年(1842)には69軒となっています。<br /><br />茶屋<br /> 往来する旅人が休息するために宿内には茶屋がありました。文政7年(1824)の保土ヶ谷宿には33軒の茶屋があり、金沢横町の茶屋七左衛門が茶屋惣代でした。<br />     平成16年3月 保土ヶ谷区役所

    【保土ヶ谷宿の宿泊・休憩施設】 歴史の道
    「本陣・脇本陣」
      公用の宿泊・休憩施設として参勤交代の大名などに利用されたのが本陣(1軒)脇本陣(3軒)で、明治3年の宿駅制度廃止まで続いていました。しかし、その格式と引き換えに制約や出費も多く、経営は必ずしも楽ではなかったようです。

    「茶屋本陣」
     正式な本陣に匹敵する規模と格式を持つ茶屋が上方見附付近にあり、「茶屋本陣」と呼ばれていました。苅部本陣を利用しない大名が休息するほか、参勤交代の大名の出迎えもしていたとされています。

    「旅籠屋」
     はじめは「木賃旅籠屋」といって食事を出さず、旅人が持参した食糧を自炊する薪を提供するだけでしたが、元禄(1690年代)のころから食事や酒を提供する旅籠屋も増えてきました。保土ヶ谷宿の旅籠屋の数は寛政12年(1800)には37軒でしたが、天保13年(1842)には69軒となっています。

    茶屋
     往来する旅人が休息するために宿内には茶屋がありました。文政7年(1824)の保土ヶ谷宿には33軒の茶屋があり、金沢横町の茶屋七左衛門が茶屋惣代でした。
         平成16年3月 保土ヶ谷区役所

  • 上図の拡大<br />『早朝出発する大名行列の様子』<br />武家の行列が保土ヶ谷宿を通行する状況を描いている。<br />篝火(かがりび)や「保土ヶ谷宿」と記された提灯が各家の軒先に多数配置されており、手前の門(本陣か)から行列が薄明の内から出発する様子

    上図の拡大
    『早朝出発する大名行列の様子』
    武家の行列が保土ヶ谷宿を通行する状況を描いている。
    篝火(かがりび)や「保土ヶ谷宿」と記された提灯が各家の軒先に多数配置されており、手前の門(本陣か)から行列が薄明の内から出発する様子

  • 【旅籠屋(本金子屋)跡】<br />かなり大きな旅籠です。「旅籠屋(本金子屋)跡」という復元されたのか、少し立派で古い模様の建物。現在の建物は明治ニ年(1869)の建築です<br />天保年間(1830~44)の旅籠本金子屋伝左衛門の規模は建坪79坪(約261㎡)、間口7間(約12.7m)、奥行11.5間(約20.9m)、室数13でした<br />保土ヶ谷宿は本陣1、脇本陣3のほか、旅籠屋が元禄年間(1688~1704年)で37軒、天保13年(1842年)になると69軒もあった。<br /><br />【旅籠の面影を残す建造物】 まちかど博物館 旅籠 本金子屋跡<br />■本金子屋の歴史■<br /> 本金子屋は、江戸時代に旅籠として栄えました。<br /> 明治二年に建替えられた現在の建物も、東海道沿いに建つ旅籠の面影を残しています。<br /> 過去に国道1号が7mほど拡幅される前は、現在の母屋の前に大名門と前庭がありました。現在、当時の大名門は建物正面の外壁として使われています。<br /> 敷地内には本格的な日本庭園(非公開)があります。これは戦後に造られたものですが、四国の石で造られた燈籠や、大正天皇がお忍びで旅をしたときお茶を飲むのに休まれたといわれている石などがあります。

    【旅籠屋(本金子屋)跡】
    かなり大きな旅籠です。「旅籠屋(本金子屋)跡」という復元されたのか、少し立派で古い模様の建物。現在の建物は明治ニ年(1869)の建築です
    天保年間(1830~44)の旅籠本金子屋伝左衛門の規模は建坪79坪(約261㎡)、間口7間(約12.7m)、奥行11.5間(約20.9m)、室数13でした
    保土ヶ谷宿は本陣1、脇本陣3のほか、旅籠屋が元禄年間(1688~1704年)で37軒、天保13年(1842年)になると69軒もあった。

    【旅籠の面影を残す建造物】 まちかど博物館 旅籠 本金子屋跡
    ■本金子屋の歴史■
     本金子屋は、江戸時代に旅籠として栄えました。
     明治二年に建替えられた現在の建物も、東海道沿いに建つ旅籠の面影を残しています。
     過去に国道1号が7mほど拡幅される前は、現在の母屋の前に大名門と前庭がありました。現在、当時の大名門は建物正面の外壁として使われています。
     敷地内には本格的な日本庭園(非公開)があります。これは戦後に造られたものですが、四国の石で造られた燈籠や、大正天皇がお忍びで旅をしたときお茶を飲むのに休まれたといわれている石などがあります。

  • 【旅籠屋(本金子屋)跡】<br />格子戸や通用門が当時の旅籠の雰囲気を伝えている。現在の建物は1869(明治2)年の建築。<br />旅籠屋が元禄年間(1688~1704年)で37軒、天保13年(1842年)になると69軒もあった

    【旅籠屋(本金子屋)跡】
    格子戸や通用門が当時の旅籠の雰囲気を伝えている。現在の建物は1869(明治2)年の建築。
    旅籠屋が元禄年間(1688~1704年)で37軒、天保13年(1842年)になると69軒もあった

  • 上方見附跡と一里塚跡。<br />この辺りで、保土ヶ谷宿を離れ戸塚宿に向かう。<br />今井川に架かる瀬戸ケ谷中橋を過ぎると保土ヶ谷の一里塚跡にミニチュアな塚が復元されている。江戸日本橋より数えて8里目。<br /><br />【歴史の道】 <br />一里塚跡<br /> 街道の距離の目安として、一里ごとに設置されたのが一里塚です。一里塚は、街道の両側に土盛した小山を作り、その上に遠くからでも目立つよう榎など木々が植えられていました。この付近にあった一里塚は、江戸から八番目のものです。<br />上方見附跡<br /> 保土ヶ谷宿の京都(上方)側の出入口となる上方見附は、保土ヶ谷区郷土史によれば、外川神社の前にあったとされています。 見附は、土盛をした土塁の上に竹木で矢来を組んだ構造をしており、「土居」とも呼ばれています。この上方見附から江戸方見附までは、家屋敷が街道に沿って建ち並び「宿内」と呼ばれています。<br />     平成15年3月 保土ヶ谷区役所

    上方見附跡と一里塚跡。
    この辺りで、保土ヶ谷宿を離れ戸塚宿に向かう。
    今井川に架かる瀬戸ケ谷中橋を過ぎると保土ヶ谷の一里塚跡にミニチュアな塚が復元されている。江戸日本橋より数えて8里目。

    【歴史の道】 
    一里塚跡
     街道の距離の目安として、一里ごとに設置されたのが一里塚です。一里塚は、街道の両側に土盛した小山を作り、その上に遠くからでも目立つよう榎など木々が植えられていました。この付近にあった一里塚は、江戸から八番目のものです。
    上方見附跡
     保土ヶ谷宿の京都(上方)側の出入口となる上方見附は、保土ヶ谷区郷土史によれば、外川神社の前にあったとされています。 見附は、土盛をした土塁の上に竹木で矢来を組んだ構造をしており、「土居」とも呼ばれています。この上方見附から江戸方見附までは、家屋敷が街道に沿って建ち並び「宿内」と呼ばれています。
         平成15年3月 保土ヶ谷区役所

  • 【東海道保土ヶ谷宿の松並木と一里塚】<br />保土ヶ谷宿の松並木<br /> 我が国に於ける街道並木の歴史は古く、遠く奈良時代まで遡りますが、全国的な規模で取り組まれるようになったのは江戸時代に入ってからです。慶長9年(1604)、幕府は諸国の街道に並木を植えるよう命じました。以来、夏は木陰を作り、冬は風雪を防ぎ、植樹帯は旅人の休息場所となることから、官民挙げて大切に保護されてきました。<br /> 保土ヶ谷宿の松並木は、この付近から境木まで3kmあまり続き、広重や北斎などの浮世絵にも度々描かれました。その後、昭和初期までは比較的良好な状態で残されましたが、時代とともに減り続け、現在は旧東海道の権太坂付近にわずかな名残を留めるだけになってしまいました。<br /> この度の松並木復元事業では、「上方の松原」と呼ばれていた今井川に沿った約300mの区間に 松などの木々数十本を植えました。<br />保土ヶ谷宿の一里塚<br /> 松並木と同時期、街道の距離の目安として、日本橋を起点に一里(約4Km)ごとに築かれたのが一里塚です。一里塚は、街道の両側に土を盛って小山をつくり、その上には遠くからでも目立つよう榎などの木々が植えられました。保土ヶ谷宿の一里塚は日本橋から8番目に位置し、この附近(現在の車道上)にありましたが、古くから南側の一基の存在しか伝わっていません。その一里塚も明治時代の始め、宿場制度の廃止に伴って姿を失いました。<br /> この度の一里塚復元事業では、場所の制約から文献にあるような「五間(9m)四方)」の相当する大きさの 塚を築くことができませんでしたが、塚の上には昔のように榎を植え、松並木と併せて宿場時代の再現に努めました。<br />    東海道保土ヶ谷宿松並木プロムナード実行委員会 横浜市保土ヶ谷区役所

    【東海道保土ヶ谷宿の松並木と一里塚】
    保土ヶ谷宿の松並木
     我が国に於ける街道並木の歴史は古く、遠く奈良時代まで遡りますが、全国的な規模で取り組まれるようになったのは江戸時代に入ってからです。慶長9年(1604)、幕府は諸国の街道に並木を植えるよう命じました。以来、夏は木陰を作り、冬は風雪を防ぎ、植樹帯は旅人の休息場所となることから、官民挙げて大切に保護されてきました。
     保土ヶ谷宿の松並木は、この付近から境木まで3kmあまり続き、広重や北斎などの浮世絵にも度々描かれました。その後、昭和初期までは比較的良好な状態で残されましたが、時代とともに減り続け、現在は旧東海道の権太坂付近にわずかな名残を留めるだけになってしまいました。
     この度の松並木復元事業では、「上方の松原」と呼ばれていた今井川に沿った約300mの区間に 松などの木々数十本を植えました。
    保土ヶ谷宿の一里塚
     松並木と同時期、街道の距離の目安として、日本橋を起点に一里(約4Km)ごとに築かれたのが一里塚です。一里塚は、街道の両側に土を盛って小山をつくり、その上には遠くからでも目立つよう榎などの木々が植えられました。保土ヶ谷宿の一里塚は日本橋から8番目に位置し、この附近(現在の車道上)にありましたが、古くから南側の一基の存在しか伝わっていません。その一里塚も明治時代の始め、宿場制度の廃止に伴って姿を失いました。
     この度の一里塚復元事業では、場所の制約から文献にあるような「五間(9m)四方)」の相当する大きさの 塚を築くことができませんでしたが、塚の上には昔のように榎を植え、松並木と併せて宿場時代の再現に努めました。
        東海道保土ヶ谷宿松並木プロムナード実行委員会 横浜市保土ヶ谷区役所

  • 街道らしく松並木が植えられている。雰囲気だけでも。国道と今井川の間には、上方見付跡と一里塚跡があり、周辺には松並木の黒松が植樹されています。旧東海道が再現されてあり、趣が感じられました。<br /><br />【東海道保土ヶ谷宿の松並木と一里塚】<br />【保土ヶ谷宿の松並木】<br /> 我が国に於ける街道並木の歴史は古く、遠く奈良時代まで遡りますが、全国的な規模で取り組まれるようになったのは江戸時代に入ってからです。慶長9年(1604)、幕府は諸国の街道に並木を植えるよう命じました。以来、夏は木陰を作り、冬は風雪を防ぎ、植樹帯は旅人の休息場所となることから、官民挙げて大切に保護されてきました。<br /> 保土ヶ谷宿の松並木は、この付近から境木まで3kmあまり続き、広重や北斎などの浮世絵にも度々描かれました。その後、昭和初期までは比較的良好な状態で残されましたが、時代とともに減り続け、現在は旧東海道の権太坂付近にわずかな名残を留めるだけになってしまいました。<br /> この度の松並木復元事業では、「上方の松原」と呼ばれていた今井川に沿った約300mの区間に 松などの木々数十本を植えました。<br />【保土ヶ谷宿の一里塚】<br /> 松並木と同時期、街道の距離の目安として、日本橋を起点に一里(約4Km)ごとに築かれたのが一里塚です。一里塚は、街道の両側に土を盛って小山をつくり、その上には遠くからでも目立つよう榎などの木々が植えられました。保土ヶ谷宿の一里塚は日本橋から8番目に位置し、この附近(現在の車道上)にありましたが、古くから南側の一基の存在しか伝わっていません。その一里塚も明治時代の始め、宿場制度の廃止に伴って姿を失いました。<br /> この度の一里塚復元事業では、場所の制約から文献にあるような「五間(9m)四方)」の相当する大きさの 塚を築くことができませんでしたが、塚の上には昔のように榎を植え、松並木と併せて宿場時代の再現に努めました。<br />     東海道保土ヶ谷宿松並木プロムナード実行委員会 <br />     横浜市保土ヶ谷区役所

    街道らしく松並木が植えられている。雰囲気だけでも。国道と今井川の間には、上方見付跡と一里塚跡があり、周辺には松並木の黒松が植樹されています。旧東海道が再現されてあり、趣が感じられました。

    【東海道保土ヶ谷宿の松並木と一里塚】
    【保土ヶ谷宿の松並木】
     我が国に於ける街道並木の歴史は古く、遠く奈良時代まで遡りますが、全国的な規模で取り組まれるようになったのは江戸時代に入ってからです。慶長9年(1604)、幕府は諸国の街道に並木を植えるよう命じました。以来、夏は木陰を作り、冬は風雪を防ぎ、植樹帯は旅人の休息場所となることから、官民挙げて大切に保護されてきました。
     保土ヶ谷宿の松並木は、この付近から境木まで3kmあまり続き、広重や北斎などの浮世絵にも度々描かれました。その後、昭和初期までは比較的良好な状態で残されましたが、時代とともに減り続け、現在は旧東海道の権太坂付近にわずかな名残を留めるだけになってしまいました。
     この度の松並木復元事業では、「上方の松原」と呼ばれていた今井川に沿った約300mの区間に 松などの木々数十本を植えました。
    【保土ヶ谷宿の一里塚】
     松並木と同時期、街道の距離の目安として、日本橋を起点に一里(約4Km)ごとに築かれたのが一里塚です。一里塚は、街道の両側に土を盛って小山をつくり、その上には遠くからでも目立つよう榎などの木々が植えられました。保土ヶ谷宿の一里塚は日本橋から8番目に位置し、この附近(現在の車道上)にありましたが、古くから南側の一基の存在しか伝わっていません。その一里塚も明治時代の始め、宿場制度の廃止に伴って姿を失いました。
     この度の一里塚復元事業では、場所の制約から文献にあるような「五間(9m)四方)」の相当する大きさの 塚を築くことができませんでしたが、塚の上には昔のように榎を植え、松並木と併せて宿場時代の再現に努めました。
         東海道保土ヶ谷宿松並木プロムナード実行委員会 
         横浜市保土ヶ谷区役所

  • 保土ヶ谷と戸塚の間は、一山越えて行く。これから権太坂を歩きます。ここは旧道ですが、車の往来の多い新道は、箱根駅伝往路2区の勝負どころで有名な坂道です。<br />こちらの旧道もきつい坂道です。<br />*保土ヶ谷~戸塚間は坂の連続で、権太坂、焼餅坂、信濃坂と続く。<br /><br />【権太坂】 横浜市地域史跡(平成15年11月4日登録)<br /> この辺りは、権太坂と呼ばれる東海道を江戸から西へ向かう旅人がはじめて経験するきつい登り坂でした。<br /> 日本橋から四番目の宿場であった保土ヶ谷宿まではほぼ江戸内湾沿いの平坦地でしたが、宿の西にある元町橋を渡ったあたりより、長く続く険しい登り坂となります。<br /> 「新編武蔵風土記稿」に、名前の由来は、道ばたの老齢の農民に旅人が坂の名を聞いたところ、耳の遠いこの老人は自分の名を聞かれたと思い、「権太」と答えたため、とあります。また、坂の上から目の下に見える神奈川の海は大変美しかった、とあります。<br /> 旅人にとっては印象深い場所になり、浮世絵などにも描かれる保土ヶ谷宿の名所ともなりました。        平成十六年三月 横浜市教育委員会<br /><br />【権太坂】 歴史の道<br /> 権太坂はかつては今より勾配もきつい相当な急坂で、江戸から上方へ上る旅人が初めて出会う難所として知られていました。松並木が続く景色もよかったため多くの浮世絵にも描かれています。しかし、明治17年(1884)の新道開通や明治20年(1887)の鉄道開通により 旧道は通行量も減って道幅も狭くなりました。権太坂にはもともと人家もほとんどなかったため、昭和30年代に本格的に道が改修されて、宅地開発が進むまで往時の街道のおもかげを残していました。<br />「権太坂」の名前の由来に2つの説<br />その1 「老人の返事」説<br /> ある時、旅人がこの坂で近くにいたお年寄りに坂の名をたずねたところ、自分の名前をきかれたと思いこみ、「ごんたでございます」と答え、その名が坂の名になったということです。<br />その2 「本当は権左坂」説<br /> 昔、権左衛門という人が代官の指図によりひらいてできた坂道を、その名をとって「権左坂」と名付けたものが、いつのころか「権太坂」と呼ばれるようになったということです。<br />さて、あなたはどちらを信じますか?(調査協力/権太坂小学校 平成15年度卒業生)<br />     平成16年3月 保土ヶ谷区役所

    保土ヶ谷と戸塚の間は、一山越えて行く。これから権太坂を歩きます。ここは旧道ですが、車の往来の多い新道は、箱根駅伝往路2区の勝負どころで有名な坂道です。
    こちらの旧道もきつい坂道です。
    *保土ヶ谷~戸塚間は坂の連続で、権太坂、焼餅坂、信濃坂と続く。

    【権太坂】 横浜市地域史跡(平成15年11月4日登録)
     この辺りは、権太坂と呼ばれる東海道を江戸から西へ向かう旅人がはじめて経験するきつい登り坂でした。
     日本橋から四番目の宿場であった保土ヶ谷宿まではほぼ江戸内湾沿いの平坦地でしたが、宿の西にある元町橋を渡ったあたりより、長く続く険しい登り坂となります。
     「新編武蔵風土記稿」に、名前の由来は、道ばたの老齢の農民に旅人が坂の名を聞いたところ、耳の遠いこの老人は自分の名を聞かれたと思い、「権太」と答えたため、とあります。また、坂の上から目の下に見える神奈川の海は大変美しかった、とあります。
     旅人にとっては印象深い場所になり、浮世絵などにも描かれる保土ヶ谷宿の名所ともなりました。        平成十六年三月 横浜市教育委員会

    【権太坂】 歴史の道
     権太坂はかつては今より勾配もきつい相当な急坂で、江戸から上方へ上る旅人が初めて出会う難所として知られていました。松並木が続く景色もよかったため多くの浮世絵にも描かれています。しかし、明治17年(1884)の新道開通や明治20年(1887)の鉄道開通により 旧道は通行量も減って道幅も狭くなりました。権太坂にはもともと人家もほとんどなかったため、昭和30年代に本格的に道が改修されて、宅地開発が進むまで往時の街道のおもかげを残していました。
    「権太坂」の名前の由来に2つの説
    その1 「老人の返事」説
     ある時、旅人がこの坂で近くにいたお年寄りに坂の名をたずねたところ、自分の名前をきかれたと思いこみ、「ごんたでございます」と答え、その名が坂の名になったということです。
    その2 「本当は権左坂」説
     昔、権左衛門という人が代官の指図によりひらいてできた坂道を、その名をとって「権左坂」と名付けたものが、いつのころか「権太坂」と呼ばれるようになったということです。
    さて、あなたはどちらを信じますか?(調査協力/権太坂小学校 平成15年度卒業生)
         平成16年3月 保土ヶ谷区役所

  • 「この辺りは、権太坂と呼ばれる東海道を江戸から西へ向かう旅人がはじめて経験するきつい上り坂であった。日本橋から四番目の宿場であった保土ヶ谷宿までは、ほぼ江戸内湾沿いの平坦地であったが、宿の西にある元町橋を渡ったあたりより、長く続く険しい登り坂となります。1828(文政11)年に成立した地誌「新編武藏風土記稿」には、もともとは「一番坂」・「二番坂」と呼ばれていた坂であったが、ある旅人が「一番坂」を上りきったところで、「急勾配で長い坂道ですね。この坂は何という名前なのですか」と、そばにいた農夫に尋ねたところ、その者の耳が遠く、自分の名前を尋ねられたものと勘違いして「(私の名前は)権太です」と答えたがために、「権太坂」と伝えられるようになったようだ・・・」

    「この辺りは、権太坂と呼ばれる東海道を江戸から西へ向かう旅人がはじめて経験するきつい上り坂であった。日本橋から四番目の宿場であった保土ヶ谷宿までは、ほぼ江戸内湾沿いの平坦地であったが、宿の西にある元町橋を渡ったあたりより、長く続く険しい登り坂となります。1828(文政11)年に成立した地誌「新編武藏風土記稿」には、もともとは「一番坂」・「二番坂」と呼ばれていた坂であったが、ある旅人が「一番坂」を上りきったところで、「急勾配で長い坂道ですね。この坂は何という名前なのですか」と、そばにいた農夫に尋ねたところ、その者の耳が遠く、自分の名前を尋ねられたものと勘違いして「(私の名前は)権太です」と答えたがために、「権太坂」と伝えられるようになったようだ・・・」

  • 上図拡大図<br />『東海道名所之内 権太坂』。<br />「権太坂は正月恒例の箱根駅伝の通過地点として知られていますが、『新編武蔵風土記』には「其地形十丈あまりも高く屈曲して長き坂なり、街道往還の人夫、此所を難所とす」とあるように急峻な坂になっていました。江戸を立って初めての難所といわれ、近くには行き倒れの人を葬った投げ込み塚がありました。<br />江戸方面からは長い上り坂になり、上りきった所に名物牡丹餅の茶店がありました。この絵は「上洛東海道」とも呼ばれる文久3年(1863)の14代将軍家茂上洛の図ですが、侍たちがヤレヤレといった表情で茶店の女たちに牡丹餅やお茶を振舞われている様子が描かれています。保土ヶ谷宿は、この坂以外にも焼餅坂、品野坂、不動坂といった坂があり、『東海道宿村大概帳』にも「此宿内山坂多し」と記されています」

    上図拡大図
    『東海道名所之内 権太坂』。
    「権太坂は正月恒例の箱根駅伝の通過地点として知られていますが、『新編武蔵風土記』には「其地形十丈あまりも高く屈曲して長き坂なり、街道往還の人夫、此所を難所とす」とあるように急峻な坂になっていました。江戸を立って初めての難所といわれ、近くには行き倒れの人を葬った投げ込み塚がありました。
    江戸方面からは長い上り坂になり、上りきった所に名物牡丹餅の茶店がありました。この絵は「上洛東海道」とも呼ばれる文久3年(1863)の14代将軍家茂上洛の図ですが、侍たちがヤレヤレといった表情で茶店の女たちに牡丹餅やお茶を振舞われている様子が描かれています。保土ヶ谷宿は、この坂以外にも焼餅坂、品野坂、不動坂といった坂があり、『東海道宿村大概帳』にも「此宿内山坂多し」と記されています」

  • (博物館パンフレットより)<br />『富嶽三十六景 東海道 保土ヶ谷 北斎画』。<br />権太坂は、明治17年(1884)の新道開通や明治20年(1887)の鉄道開設により旧道は、<br />通行量も減って道幅も狭くなった。<br />権太坂にはもともと人家もほとんどなかったため、昭和30年代に本格的に道が改修<br />されて宅地開発が進むまで往時の街道の面影を残していた。

    (博物館パンフレットより)
    『富嶽三十六景 東海道 保土ヶ谷 北斎画』。
    権太坂は、明治17年(1884)の新道開通や明治20年(1887)の鉄道開設により旧道は、
    通行量も減って道幅も狭くなった。
    権太坂にはもともと人家もほとんどなかったため、昭和30年代に本格的に道が改修
    されて宅地開発が進むまで往時の街道の面影を残していた。

  • 権太坂を上りきると西方に富士山が見えてきました。<br /><br />保土ヶ谷宿を出て、旧東海道最初の難所と言われる権太坂(ごんたざか、約1.5kmのだらだら坂)を登ると堺木(さかいぎ)地蔵があるここが、かつての武蔵国と相模国の国境であった<br /><br />ここで、休憩を取った後、今度は深い木立に囲まれた如何にも旧東海道らしい<br />品濃(しなの)坂を戸塚宿に向かって下った<br />その途中にあるのがこの品濃一里塚である<br />道の両側にきちんと、一里塚が残されている<br />江戸より9番目の一里塚である

    権太坂を上りきると西方に富士山が見えてきました。

    保土ヶ谷宿を出て、旧東海道最初の難所と言われる権太坂(ごんたざか、約1.5kmのだらだら坂)を登ると堺木(さかいぎ)地蔵があるここが、かつての武蔵国と相模国の国境であった

    ここで、休憩を取った後、今度は深い木立に囲まれた如何にも旧東海道らしい
    品濃(しなの)坂を戸塚宿に向かって下った
    その途中にあるのがこの品濃一里塚である
    道の両側にきちんと、一里塚が残されている
    江戸より9番目の一里塚である

  • 【投込塚】があるので寄ってみる。<br />昔は、街道の難所、権太坂、旅の途中で倒れても、遺体を故郷に送り返すすべもなく、その地で埋葬するより仕方がなかったのだろう。<br />権太坂は江戸を出立し、最初の難所。<br /><br />碑の右には天保9年(1838)建立の三界萬霊馬頭観音、左には宝永7年(1710)建立の青面金剛(庚申塔)が祀られている。<br /><br />『投込塚之跡』。<br />「この地は権太坂投込塚と称し、旧東海道品濃坂につぐ難所であって往時旅人の行倒れせし者多く<br />之を埋葬せる処也。偶々当地区開発に当り多数の白骨を発掘現在平戸町東福寺境内にて<br />再埋葬供養碑を建て、之ヶ菩提を弔い在者也 昭和三十九年四月建之」と。<br />投込塚は、江戸時代に病や疲労のために行倒れた旅人や牛馬の骨を多数埋めた場所。昭和36年(1961)の宅地開発時に発見され、この地に移動して供養塔が建てられた。宿場の外れにはこのような無縁仏を葬る投込塚があった。

    【投込塚】があるので寄ってみる。
    昔は、街道の難所、権太坂、旅の途中で倒れても、遺体を故郷に送り返すすべもなく、その地で埋葬するより仕方がなかったのだろう。
    権太坂は江戸を出立し、最初の難所。

    碑の右には天保9年(1838)建立の三界萬霊馬頭観音、左には宝永7年(1710)建立の青面金剛(庚申塔)が祀られている。

    『投込塚之跡』。
    「この地は権太坂投込塚と称し、旧東海道品濃坂につぐ難所であって往時旅人の行倒れせし者多く
    之を埋葬せる処也。偶々当地区開発に当り多数の白骨を発掘現在平戸町東福寺境内にて
    再埋葬供養碑を建て、之ヶ菩提を弔い在者也 昭和三十九年四月建之」と。
    投込塚は、江戸時代に病や疲労のために行倒れた旅人や牛馬の骨を多数埋めた場所。昭和36年(1961)の宅地開発時に発見され、この地に移動して供養塔が建てられた。宿場の外れにはこのような無縁仏を葬る投込塚があった。

  • 【境木地蔵由来】<br />この境木は武蔵相模の国境で江戸時代にはそのしるしが建てられていて境木の地名はそれからおきたといわれています。<br /> また境木は東海道中の難所であった権太坂を登りきった所にあり名産の牡丹餅を食べながら旅の疲れを休めることができて大変賑ったとも伝えられています。境木の名を有名にしたものは地蔵で江戸の人達にも崇敬され今でも境内に寄付された燈籠が残っています。<br /> なおこの地蔵には次のような珍しい伝承があります。即ちいつの頃か相模国鎌倉腰越の海辺に漂着した地蔵が土地の漁師の夢枕にたち、「俺は江戸の方へ行きたい 運んでくれたらこの海を守ろう」と告げたので漁師達が江戸へ運ぶ途中、此の境木で動かなくなった為、村人達は地蔵を引き取りお堂を建てて安置したところ、それから村が繁昌したということです。<br /> 地蔵堂の鐘は明治になって野毛山の時の鐘に使用され横浜市民に大正の大震災まで親しまれました。

    【境木地蔵由来】
    この境木は武蔵相模の国境で江戸時代にはそのしるしが建てられていて境木の地名はそれからおきたといわれています。
     また境木は東海道中の難所であった権太坂を登りきった所にあり名産の牡丹餅を食べながら旅の疲れを休めることができて大変賑ったとも伝えられています。境木の名を有名にしたものは地蔵で江戸の人達にも崇敬され今でも境内に寄付された燈籠が残っています。
     なおこの地蔵には次のような珍しい伝承があります。即ちいつの頃か相模国鎌倉腰越の海辺に漂着した地蔵が土地の漁師の夢枕にたち、「俺は江戸の方へ行きたい 運んでくれたらこの海を守ろう」と告げたので漁師達が江戸へ運ぶ途中、此の境木で動かなくなった為、村人達は地蔵を引き取りお堂を建てて安置したところ、それから村が繁昌したということです。
     地蔵堂の鐘は明治になって野毛山の時の鐘に使用され横浜市民に大正の大震災まで親しまれました。

  • 【境木地蔵尊】 がある<br />なかなか境内の手入れが行き届いている。<br />境内には樹齢数百年の大欅(けやき)がある。武蔵國と相模國の国境の木として知られ、境木の地名の起こりと伝えられている。<br />金運と商売繁盛のご利益が有るとされる。<br /><br />『境木地蔵の由来』<br />この地蔵は、鎌倉腰越の海岸に漂着したもので、引き上げた漁師の夢枕で、<br />「この私(地蔵)を江戸に運んでくれたら、この海を守る」と告げられ、<br />漁師たちは、江戸へ運ぼうとしたが、この境木で動けなくなり、<br />地蔵を安置したところ、村が繁盛したと。

    【境木地蔵尊】 がある
    なかなか境内の手入れが行き届いている。
    境内には樹齢数百年の大欅(けやき)がある。武蔵國と相模國の国境の木として知られ、境木の地名の起こりと伝えられている。
    金運と商売繁盛のご利益が有るとされる。

    『境木地蔵の由来』
    この地蔵は、鎌倉腰越の海岸に漂着したもので、引き上げた漁師の夢枕で、
    「この私(地蔵)を江戸に運んでくれたら、この海を守る」と告げられ、
    漁師たちは、江戸へ運ぼうとしたが、この境木で動けなくなり、
    地蔵を安置したところ、村が繁盛したと。

  • 若林家の隣に境木延命地蔵尊があります <br />「境木地蔵尊」<br />ここは武蔵国と相模国の国境にあり、大ケヤキが目印にされ境木と呼ばれ、これが地名の由来です。<br /><br />【保土ヶ谷観光名所 境木地蔵由来】<br /> ここ境木は、武蔵・相模の国境で、江戸時代にはそのしるしが建てられていて、境木の地名はそれからおきたと いわれています。<br />  また境木は東海道中の難所であった権太坂を登りきった所にあり、名物の牡丹餅を食べながら旅の疲れを休めることができて大変賑わったとも伝えられています。<br />  境木の名を有名にしたものは地蔵で、江戸の人達にも崇敬され今でも境内に寄附された燈籠が残っています。<br />  なおこの地蔵には次のような珍しい伝承があります。即ち、いつの頃か相模国鎌倉腰越の海辺に漂着した地蔵が土地の漁師の夢枕に立ち、「俺は江戸の方に行きたい運んでくれたらこの海を守ろう」と告げたので、漁師たちが江戸へ運ぶ途中此の境木で動かなくなった為、村人達は地蔵を引き取りお堂を建てて安置したところ、それからは村が繁盛したということで す。<br /><br /> 地蔵堂の鐘は、明治になって野毛山の時の鐘に使用され横浜市民に大正の大震災まで親しまれ ました。       平成元年十月四日 岩間町見光寺<br /><br />

    若林家の隣に境木延命地蔵尊があります 
    「境木地蔵尊」
    ここは武蔵国と相模国の国境にあり、大ケヤキが目印にされ境木と呼ばれ、これが地名の由来です。

    【保土ヶ谷観光名所 境木地蔵由来】
     ここ境木は、武蔵・相模の国境で、江戸時代にはそのしるしが建てられていて、境木の地名はそれからおきたと いわれています。
      また境木は東海道中の難所であった権太坂を登りきった所にあり、名物の牡丹餅を食べながら旅の疲れを休めることができて大変賑わったとも伝えられています。
      境木の名を有名にしたものは地蔵で、江戸の人達にも崇敬され今でも境内に寄附された燈籠が残っています。
      なおこの地蔵には次のような珍しい伝承があります。即ち、いつの頃か相模国鎌倉腰越の海辺に漂着した地蔵が土地の漁師の夢枕に立ち、「俺は江戸の方に行きたい運んでくれたらこの海を守ろう」と告げたので、漁師たちが江戸へ運ぶ途中此の境木で動かなくなった為、村人達は地蔵を引き取りお堂を建てて安置したところ、それからは村が繁盛したということで す。

     地蔵堂の鐘は、明治になって野毛山の時の鐘に使用され横浜市民に大正の大震災まで親しまれ ました。       平成元年十月四日 岩間町見光寺

  • 「武相国境之木」という立派な標識が見えてきた。<br />ここが、武蔵の国と相模の国の境界だったところで、道路の整備にともない、ちょっとした広場となっている。ここは権太坂の頂上です。<br />

    「武相国境之木」という立派な標識が見えてきた。
    ここが、武蔵の国と相模の国の境界だったところで、道路の整備にともない、ちょっとした広場となっている。ここは権太坂の頂上です。

  • 【境木の由来】 (柱の裏面)<br /> ここは武蔵国と相模国の国境で、江戸時代にはそのしるしとして傍示杭(ぼうじぐい)あるいは境杭(さかいぐい)と呼ばれる木柱が建てられ、「境木」の名の由来になったと伝えられます。またケヤキの大木があったとの説もあります。<br />(柱の表面)<br /> この武相国境モニュメントは、ほどがや協働まちづくり工房が企画し、 保土ヶ谷在住の横浜マイスターにより制作されました。<br />『歴史の道 東海道保土ヶ谷宿周辺案内図』で、「追分」から「品濃一里塚」迄の『東海道分間延絵図』(文化3年)と対比させた旧東海道周辺の現史跡地図と主な史跡間の距離表が載っている。また保土ヶ谷宿の説明もあった。<br /> 保土ヶ谷宿は慶長6年(1601年)に宿駅・伝馬制度が定められると同時に設置され、東海道五十三次、江戸から4番目の宿場町(1601年発足時は川崎宿と戸塚宿は未整備)として栄えました。また、慶安元年(1648年)を境に大改修され、道筋がかわりました。初代歌川広重の浮世絵で有名な帷子橋(新町橋)もこのとき架けられましが、現在、古道の正確な道筋に関して諸説があり特定されていません。<br /> この案内図では、本陣跡や寺社、石碑等当時の面影を伝えている史跡を中心に散策できるようご案内しています。保土ヶ谷と保土ヶ谷宿の歴史を感じてみてください。              保土ヶ谷区役所

    【境木の由来】 (柱の裏面)
     ここは武蔵国と相模国の国境で、江戸時代にはそのしるしとして傍示杭(ぼうじぐい)あるいは境杭(さかいぐい)と呼ばれる木柱が建てられ、「境木」の名の由来になったと伝えられます。またケヤキの大木があったとの説もあります。
    (柱の表面)
     この武相国境モニュメントは、ほどがや協働まちづくり工房が企画し、 保土ヶ谷在住の横浜マイスターにより制作されました。
    『歴史の道 東海道保土ヶ谷宿周辺案内図』で、「追分」から「品濃一里塚」迄の『東海道分間延絵図』(文化3年)と対比させた旧東海道周辺の現史跡地図と主な史跡間の距離表が載っている。また保土ヶ谷宿の説明もあった。
     保土ヶ谷宿は慶長6年(1601年)に宿駅・伝馬制度が定められると同時に設置され、東海道五十三次、江戸から4番目の宿場町(1601年発足時は川崎宿と戸塚宿は未整備)として栄えました。また、慶安元年(1648年)を境に大改修され、道筋がかわりました。初代歌川広重の浮世絵で有名な帷子橋(新町橋)もこのとき架けられましが、現在、古道の正確な道筋に関して諸説があり特定されていません。
     この案内図では、本陣跡や寺社、石碑等当時の面影を伝えている史跡を中心に散策できるようご案内しています。保土ヶ谷と保土ヶ谷宿の歴史を感じてみてください。              保土ヶ谷区役所

  • 【保土ヶ谷 境木立場跡】<br />「江戸名所図絵」の「境木」を着色模写した「横浜往古絵巻」。<br />画像中央下部、ケヤキの高木の傍らに境木が描かれている。街道歩きされる方ならご存知の藩境などに立てられた榜示杭、これと同じような国境を示す棒杭が境木地蔵近くに立てられていたのだ。地名はこの国境に立つ木杭ということから付けられたようで、江戸時代は木杭の北側が武蔵国橘樹郡保土ヶ谷宿のうち保土ヶ谷町、南側が相模国鎌倉郡平戸村であったのだ。この境木付近の尾根筋は頂上部が平坦であったからか、立場や茶屋が立ち並んで旅人の休憩の場となっていた

    【保土ヶ谷 境木立場跡】
    「江戸名所図絵」の「境木」を着色模写した「横浜往古絵巻」。
    画像中央下部、ケヤキの高木の傍らに境木が描かれている。街道歩きされる方ならご存知の藩境などに立てられた榜示杭、これと同じような国境を示す棒杭が境木地蔵近くに立てられていたのだ。地名はこの国境に立つ木杭ということから付けられたようで、江戸時代は木杭の北側が武蔵国橘樹郡保土ヶ谷宿のうち保土ヶ谷町、南側が相模国鎌倉郡平戸村であったのだ。この境木付近の尾根筋は頂上部が平坦であったからか、立場や茶屋が立ち並んで旅人の休憩の場となっていた

  • これから続きは、戸塚宿に向かいます。<br />境木立場には茶屋が並び、ここで出される牡丹餅という焼餅が人気であった。見晴らしの良い高台から旅人たちが休憩しながら景観を楽しんだ。<br /><br />【境木立場跡】 歴史の道掲示板<br />立場茶屋<br /> 宿場と宿場の間に、馬子や人足の休息のためなどに設けられたのが立場です。中でもここ、境木の立場は権太坂、焼餅坂、品濃坂と難所が続くなか、見晴らしの良い高台で、西に富士、東に江戸湾を望む景観がすばらしく、旅人が必ず足をとめる名所でした。また、茶屋で出す「牡丹餅」は境木立場の名物として広く知られており、たいへん賑わったということです。「保土ヶ谷区郷土史(昭和13年刊)」によると、こうした境木の立場茶屋のなかでも特に若林家には明治中期まで黒塗りの馬乗門や本陣さながらの構えの建物がったとされ、参勤交代の大名までもが利用していたと伝えられています。<br />     平成16年3月 保土ヶ谷区役所<br /><br />『東海道五拾三次 保土ヶ谷 初代広重(狂歌入り)』<br />武蔵と相模の国境の境木の立場で、急な権田坂を登り、休憩のための茶店の賑わいを描いている。<br />狂歌は遊鶴亭千代子「諺のまはるもはやき双六やいそげばいそぐ程かやのえき」とある。

    これから続きは、戸塚宿に向かいます。
    境木立場には茶屋が並び、ここで出される牡丹餅という焼餅が人気であった。見晴らしの良い高台から旅人たちが休憩しながら景観を楽しんだ。

    【境木立場跡】 歴史の道掲示板
    立場茶屋
     宿場と宿場の間に、馬子や人足の休息のためなどに設けられたのが立場です。中でもここ、境木の立場は権太坂、焼餅坂、品濃坂と難所が続くなか、見晴らしの良い高台で、西に富士、東に江戸湾を望む景観がすばらしく、旅人が必ず足をとめる名所でした。また、茶屋で出す「牡丹餅」は境木立場の名物として広く知られており、たいへん賑わったということです。「保土ヶ谷区郷土史(昭和13年刊)」によると、こうした境木の立場茶屋のなかでも特に若林家には明治中期まで黒塗りの馬乗門や本陣さながらの構えの建物がったとされ、参勤交代の大名までもが利用していたと伝えられています。
         平成16年3月 保土ヶ谷区役所

    『東海道五拾三次 保土ヶ谷 初代広重(狂歌入り)』
    武蔵と相模の国境の境木の立場で、急な権田坂を登り、休憩のための茶店の賑わいを描いている。
    狂歌は遊鶴亭千代子「諺のまはるもはやき双六やいそげばいそぐ程かやのえき」とある。

  • 上の標示拡大図<br />『東海道五拾三次 保土ヶ谷 初代広重(狂歌入り)』<br />武蔵と相模の国境の境木の立場で、急な権田坂を登り、休憩のための茶店の賑わいを描いている。<br />狂歌は遊鶴亭千代子「諺のまはるもはやき双六やいそげばいそぐ程かやのえき」とある。

    上の標示拡大図
    『東海道五拾三次 保土ヶ谷 初代広重(狂歌入り)』
    武蔵と相模の国境の境木の立場で、急な権田坂を登り、休憩のための茶店の賑わいを描いている。
    狂歌は遊鶴亭千代子「諺のまはるもはやき双六やいそげばいそぐ程かやのえき」とある。

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