2016/02/18 - 2016/02/18
246位(同エリア649件中)
ムッシュさん
神奈川宿【横浜)から保土ヶ谷宿へ
【神奈川宿】
天保14年(1843頃)の神奈川宿の宿内家数は1,341軒、うち本陣2、脇本陣0、旅籠58軒で宿内人口は約5,700人でした。
安政6年(1859)日米修好通商条約の締結に伴い、横浜村が開港されると、神奈川宿内の寺院は諸外国の領事館にあてがわれた。
- 旅行の満足度
- 5.0
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【芭蕉句碑】 京浜急行八丁畷(はっちょうなわあて)駅近く
「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」 -
元禄7年(1694)5月、故郷の伊賀国柘植庄へ帰る芭蕉を見送りにきた門弟たちとの惜別の句。
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『八丁畷の由来と無縁塚』の説明板。
「東海道は、川崎宿の京都側の出入り口(京口土居・現在の小川町付近から西へ八丁(約870メートル)にわたり、畷(なわて)といって街道が田畑の中をまっすぐに伸びており、市場村(現在の横浜市)との境界に至ります。この付近を八丁畷と呼ぶようになりました。
このあたりでは、江戸時代から多くの人骨が発見され、戦後になっても道路工事などでたびたび掘り出され、その数は十数体にも及びました。これらの人骨は、鑑定により江戸時代ごろの特徴を備えていることが分かりました。江戸時代の記録によると、川崎宿は震災や大火・洪水・飢饉・疫病などの災害にたびたび襲われ、多くの人々が命を落としてます。おそらく、災害で亡くなった身元不明の人々を、川崎宿のはずれの松や欅(けやき)の並木の下にまとめて埋葬してのではないでしょうか。不幸にして亡くなった人々の霊を供養するため、地元の方々と川崎市は昭和九年、ここに慰霊塔を建てました。この場所は無縁塚と呼ばれ、地元の方々により
供養が続けられています。」 -
【絵図に見る神奈川宿】
神奈川宿は日本橋を出て三番目の宿場町。図は、江戸後期・幕府の道中奉行所が作った「東海道分間延絵図」のうち、神奈川宿の部分である。 図の中央には滝ノ橋が描かれ、この橋の東側に神奈川本陣、西側に青木本陣が見えている。右端は江戸側からの入口で、長延寺が描かれている。左端の街道が折れまがったあたりが台町であり、その崖下には神奈川湊が広がっている。
開港当時、この図に見られる多くの寺が、諸外国の領事館などにあてられた。
要は、旧東海道筋は、海沿い、海岸通りとしてあり、現代の平地はすべて埋め立て地として成立している。
【絵図併に大概書】
寛政(1789~1801)中、あらたに命を承けて五街道及びそれに付属する道路の若干の絵図を編修した。
絵図の縮尺は一里を曲尺(かねじゃく)の七尺二寸とし、道路の迂回屈曲は方位に従って真直ぐに伸ばして衡図としたから、国や群の境界、宿や村の区分、河川の源や未派、及び寺院や宮祠の区域、それ以外のことなどは、一層明らかとなったが、これらにはことごとく図の傍に註記し、集落の両堺を道路に接するものは朱の丸印で区分した。
また、見聞できる範囲の山川、城市、寺観、霊廟、古跡、古墳などで道路の傍にあるものについては、遠近にしたがってつぶさに載せた。かの三山五湖(この場合は富士山、箱根、木曽などの山々や、琵琶湖、浜名湖をさす)を塊視し、杯看するが如きはそうである。
また大概書というのは、顛末のことを述べて煩縟な諸書、錯綜せる駅路、庶事は、その要事をとり、深くしらべてただし、総目につぶさにのせた。こうして文化三年(1806)の冬にことごとく献上し、幕府の書庫に蔵めた。そしてこれらの完成を報告したところ、また命を受けたから、手写して藳本を作り幕府に栄蔵して後人の参考に備えるのである。その図は、文飾をはぶき、事実を詳しく記した。それ故、必ずしも名文をこととはしていない、また、この絵図の意図は、これを見る人に居ながらにして歩きなれた路を歩いているかのようにすることにある。こいねがわくば、遺脱なかれと思うのみ
文化丁卯(四年)春正月謹識 (訳文) -
『熊野神社 略記』。
9世紀はじめの弘仁年間に、紀州熊野本宮の御分霊を勧請し創建されたと伝わる「熊野神社」。
かつては鶴見川の西岸にあったと。その後江戸期・明治期の2度の遷座を経て、
もともと八幡社があった現在地へ鎮座。明治期には市場村の村社に列せられたと。
現在の御祭神は、国常立尊・伊邪奈岐命・伊邪奈美命。また「鶴見七福神」のひとつとして「福禄寿」も祀っているとのこと。 -
【神奈川 熊野神社(熊野権現)御由緒】
旧社格 郷社(明治十七年四月四日列格)
御由緒概要
当社の御創建は寛治元年六月十七日(1087年)醍醐三宝院宮勝覚僧正が紀伊国(和歌山県)牟婁郡熊野に坐す熊野権現(官幣大社熊野本宮大社)の神霊を分祀、神奈川権現山(現幸ヶ谷山上)に社祠を創立、神奈川郷の総鎮守として、熊野三社大権現と号し奉る。
口碑によれば、後三年の役に、源義家公社参せられ、帰路再び当地に立寄られ、この地を幸ヶ谷と名付けられたと伝へられる。 その後応永五年、山賊等のため社祠を焼かれ、僅に草祠ばかりが存していたが、 明応三年六月(1494年)上田蔵人が普請奉行となり、宏荘なる社殿が再建せられた。また、永正七年六月二十日(1510年)、権現山合戦の砌、兵火に罹り、烏有に帰してしまった。次で天正五年六月(1577年)時の別当恵賢僧都等が相はかり社殿を建立し奉る。
天正十年七月、徳川家康公北条氏を御坂黒駒に討ち給いし時、別当が社前に傳し秘法を修し奉りしことなど、徳川家との関係深く、別当金蔵院に武州小机領神奈川郷の内、御朱印高十石を賜ったので、代々登城し、御祈祷の宝牘(ほうとく)(おふだ)を献上し奉ったと伝へられる。 その後、正徳二年六月(1712年)山上が逐次崩壊により、別当金蔵院の現地へ遷し奉り、 旧地には小祠を安置し、社地三反八畝十歩を有していたが、明治四年之を上地す。 慶応四年一月七日(1868年)神奈川大火により烏有に帰したが、逐次再建整備し、明治十七年に郷社に列せられ、明治四十年四月、神饌幣帛料供進社に指定せらる。昭和十一年鉢八月御鎮座八百五十年祭を斎行、二十数台の山車が町内を巡行し、盛大なる祭礼が繰りひろげられた。
昭和二十年五月二十九日戦災により焼失、剰え境内地をも駐留軍に接収せられたるため、やむを得ず西神奈川一丁目(二ッ谷町共有地)に遷座、仮殿にて奉祀す。 同二十七年八月宮神輿を奉製、その後接収解除となり、再建復興に努め、 同三十八年八月、現社殿を完成、遷座祭を奉仕し、玉垣、社務所を整備、翌三十九年八月、竣工奉祝祭を執行した。その後、四十一年十一月、地区内戦没者慰霊碑を建立、同四十九年八月再建十周年記念事業として舞殿並に氏子会館の増改築工事を完成した。昭和六十一年、御鎮座九百年祭に当り、記念事業奉賛会を結成し、氏子二十四ヶ町の氏子並に崇敬者各位の熱誠奉仕により、御社殿の修復、手水舎の新築、神輿庫の修理増築、参道敷石、氏子会館の修理、裏門〆柱等を完成し、社域の整備を達成した。謹んで御事歴の概要を誌し奉る次第であります。 -
鶴見宿(間の宿)・【市場村の一里塚跡碑】江戸日本橋より数えて5里目です。
この付近はかつては海辺で、魚介類、塩の収穫も多く、天文年間(1532~1555)には魚介の市が開かれており、いつか村名も市場と呼ばれるようになった。
写真は日本橋より5つ目の一里塚(20km)です。街道の両側に5間四方(9M四方)の塚を築造し、塚の上には榎(えのき)が植えられていた。
ここの一里塚は現在左側のみが残されている
【市場の一里塚】
慶長9年(1604)徳川幕府は江戸から京都までの街道を整備し、あわせて宿場を設け、交通の円滑を図りました。
里程の目標と人馬の休憩のための目安として、江戸日本橋から一里(約4Km)毎に街道の両側に五間四方(9m四方)の塚を築造し、塚の上には榎を植えました。
ここは、江戸より五里目の塚に当たり、市内で最初の一里塚です。明治9年(1877)地租改正にあたり払下げられ、左側の塚が現存しています。昭和初期まで塚の上には榎の大木が繁茂していました。
昭和8年(1933)6月「武州橘樹群市場村一里塚」の碑が建立されました。
平成元年(1989)横浜市地域文化財に登録されました。
平成5年3月 横浜市教育委員会文化財課 財団法人横浜国際観光協会
【市場村一里塚由来記】
昔街道一里毎に塚を築き塚上に榎を植えて標示とした。 これを一里塚といい、江戸日本橋を起点に東海道に造られた。 市場村一里塚もその一つで、今(昭和三十八年)から三百六十年前、即ち慶長九年、 徳川家康が東海・東山・中山の諸道を修理する時築いたもので、明治初年までは 相對して道の両側に同じ塚があったが取りこわされ一方のみ残る。 日本橋から数えて五里(二十粁)に當る。 永い間風雨にさらされ土が崩れ流れるので、地元有志これを惜しみ、 昭和二十五年八月、大谷石をもって土止めをし、こえて三十八年五月補修を加え、この碑を建つ。
昭和三十八年五月 熊野神社宮司 一里塚保存会代表 -
【鶴見神社】
鶴見神社の創建は、推古天皇の時代(7世紀初め)と伝えられる。古くは杉山大明神(杉山神社)と称された。1920年(大正9年)に、社名を鶴見神社と改めた。
旧鶴見村の総鎮守。武州最古の神社。
この神社の左前に梅干で有名であった「しがらき茶屋跡」がある。鶴見神社はもとの杉山大明神で、1400年前の推古天皇の時の創建という。
六国史の一つ、続日本後紀(承和7年、833年)には、武蔵国都築(つづき)郡杉山の社として記されているから古い。横浜・川崎の間では最古の社とのこと。大正9年に鶴見神社と改称されている。
旧東海道は、鶴見駅前を通り、再び第一京浜国道と交わるが、そのまま横断し、生麦の魚河岸通りに入る。
鶴見駅の近くには『鶴見神社』が。
この神社の左前に梅干で有名であった「しがらき茶屋跡」がある。鶴見神社はもとの杉山大明神で、1400年前の推古天皇の時の創建という。
六国史の一つ、続日本後紀(承和7年、833年)には、武蔵国都築(つづき)郡杉山の社として記されているから古い。横浜・川崎の間では最古の社とのこと。
大正9年に鶴見神社と改称されている。 -
【鶴見神社】
鶴見神社は往古は杉山大明神と称し、境内地約五千坪を有する社であった。
その創建は推古天皇の御代(約1400年前)と伝えられている。大正9年に鶴見神社と改称された。
鶴見神社の創建は、推古天皇の時代(7世紀初め)と伝えられる。古くは杉山大明神(杉山神社)と称された。1920年(大正9年)に、社名を鶴見神社と改めた。1962年(昭和37年)、境内の古木が倒れた際、その根元から、弥生時代後期の土器や古墳時代の土師器、鎌倉時代に至る祭祀遺跡が発見された。これにより、創建伝承以前から祭祀の場となっていたことが確認された。 -
鶴見神社
『鶴見神社境内貝塚』説明板。
「横浜市指定史跡
時代は弥生時代末期から古墳時代前期。平成20年2月の発掘調査で
本殿前の東西5-8m、南北約10mの範囲に厚さ70-80cmの貝層が良好な状態で
遺存することが確認された。この貝層を構成する貝種は2枚貝ではカガミガイ、ハマグリ、
巻貝ではイボキサゴが主体であり、8種以上の鹹水産貝種からなっている。
この時代のの貝塚が良好に保存されている例は少なく、貴重な遺跡です」
『神輿の伝説』
寛文年代(1661~)、鶴見川から天王河岸に流れ着いた神輿を、村人が引き揚げて当社に納めたと伝わる。 又、上流の川崎市小倉にも同じ言い伝えが残されていて、旧小倉村鎮守・天王社の祭礼の折、村人が鶴見川で神輿を洗っていて流れ出し、鶴見村方向へ流れ去ったと伝わっている。
以来、小倉では鶴見神社祭礼時、かげ祭りを行うと言い伝えが残っている。 -
【道念稲荷社】
道念稲荷社に数百年前から伝わる「蛇も蚊も祭り」は、横浜市の無形民俗文化財に指定されている。生麦が農漁村であったころの雨乞い祈願の行事で、悪疫を追い出し豊漁も祈ったものである。
【道念稲荷】
當道念稲荷は新編武蔵国風土記稿橘樹郡巻之九 神奈川領生麦村の条に記述ある古祠なり。
當社別當生麦山龍泉寺
【蛇も蚊も発祥の地】
道念稲荷神社 蛇も蚊も発祥の地
蛇も蚊も出たけ
日よりの雨け
東部本宮町・西部本宮町
【蛇も蚊も】 横浜市指定民族文化財(平成4年11月1日指定)
行事の日 六月第一日曜日
保存団体 本宮蛇も蚊も保存会
蛇も蚊もは、約三〇〇年前に悪疫が流行したとき、萱で作った蛇体に悪霊を封じ込めて海に流したことに始まると伝えられています。この行事は、旧暦の端午の節句の行事とされ、明治の半ば頃から太陽暦の六月六日になり、近年は六月の第一日曜日に行われるようになっています。
萱で作った長大な蛇体を若者・子供がかついで、「蛇も蚊も出たけ、日和(ひより)の雨け、出たけ、出たけ」と大声に唱えながら町内をかついで回ります。もとは、原地区(神明社)が雌蛇、本宮地区(稲荷神社)が雄蛇を作り、境界で絡み合いをさせた後、夕刻には海に流していましたが、現在は両社別々の行事となっています。
平成二十四年二月 横浜市教育委員会 -
道念稲荷社参道
【道念稲荷】
當道念稲荷は新編武蔵国風土記稿橘樹郡巻之九 神奈川領生麦村の条に記述ある古祠なり。
當社別當生麦山龍泉寺
【蛇も蚊も発祥の地】
道念稲荷神社 蛇も蚊も発祥の地
蛇も蚊も出たけ
日よりの雨け
東部本宮町・西部本宮町
【蛇も蚊も】 横浜市指定民族文化財(平成4年11月1日指定)
行事の日 六月第一日曜日
保存団体 本宮蛇も蚊も保存会
蛇も蚊もは、約三〇〇年前に悪疫が流行したとき、萱で作った蛇体に悪霊を封じ込めて海に流したことに始まると伝えられています。この行事は、旧暦の端午の節句の行事とされ、明治の半ば頃から太陽暦の六月六日になり、近年は六月の第一日曜日に行われるようになっています。
萱で作った長大な蛇体を若者・子供がかついで、「蛇も蚊も出たけ、日和(ひより)の雨け、出たけ、出たけ」と大声に唱えながら町内をかついで回ります。もとは、原地区(神明社)が雌蛇、本宮地区(稲荷神社)が雄蛇を作り、境界で絡み合いをさせた後、夕刻には海に流していましたが、現在は両社別々の行事となっています。
平成二十四年二月 横浜市教育委員会 -
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【生麦事件発生現場】文久二年(1862)8月21日である。
大事件もこの説明版のみ。
幕府改革の勅命を幕府に伝える勅使大原重徳の護衛の任を終え、江戸から京都に帰る薩摩藩主の父、島津久光の一行4百余名の隊列が生麦村にさしかかったとき、神奈川方面から馬を走らせてきた外国人4人と遭遇した。
上海在住のイギリス商人リチャードソン、その友人で香港商人の妻ボラデール夫人、夫人の義弟で横浜在留商人マーシャル、横浜のハーバード商会のクラークは、川崎大師見物へ行くべく、のどかに語り合いながら馬を走らせていた。
行列を警護する武士たちは行列に近づかないように、下馬をするようにと身振り手振りで要求した。しかし、イギリス人たちは、大名行列が通るとき土下座するという日本の国の習慣を知らなかった。右往左往しているうちに行列に巻き込まれてしまった。リチャードソンは列から抜け出そうと馬の手綱を引いたところ、馬首を久光の乗っている籠に向けてしまい、籠を警護していた供頭の奈良原喜左衛門に斬りつけられた。警護の武士たちも深手を負ったリチャードソンに斬りかかった。驚いた馬は心臓を突き刺されたリチャードソンを乗せて、きびすを返して神奈川方面に走った。リチャードソンは600メートルほど離れた松原で落馬し、落命した。リチャードソンが落命した辺りに生麦事件碑は建っている。
他は、アメリカ領事館のある神奈川の本覚寺までに逃げ帰り助けを求めた。(webより)
この事件後、イギリス艦隊は報復の為に鹿児島湾に進出し、薩英戦争の火蓋が切られ、圧倒的な火力差の前に薩摩藩は敗退した。
これにより薩摩藩は攘夷実行の不可を悟り、英国と手を結び、軍備の近代化を図り、やがて同じ脛に傷を持つ長州藩と薩長同盟を結び倒幕の機運は一気に燃え上がりました。
【生麦事件】
江戸時代の最期に、血の気が多くてプライドの高い薩摩藩の大名行列に、四人の空気の読めないイギリス人観光客が、馬に乗ったまま行列の中に割り込んでしまい、結果、薩摩藩士に斬りつけられ、一人は死亡、二人は重傷、残る一人はほぼ無傷で横浜の居留地に逃げたという事件。
これがもとで薩英戦争が起こり、その薩英戦争がきっかけになって、薩摩藩とイギリスが急速に結びつき、やがてイギリスが倒幕のための大いなる後ろ盾になるという流れだ。
「風が吹けば桶屋が儲かる」的に解釈すれば、この四人の呑気なイギリス人が、江戸時代を終わらせたのかもしれない。
この時の薩摩藩の行列は、ただの大名行列ではなく、島津久光が幕政改革を志して、示威行動の意味合いで700人の軍勢を引き連れて江戸に入り、その帰りの400人の「軍勢」だったらしいから、相当に血気だっていたに違いない。
【生麦事件】
文久2(1862)年8月21日、武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近で、薩摩藩主の父・島津三郎久光の行列と遭遇した騎乗のイギリス人4名を、供回りの藩士が殺傷した事件。(1名殺害、2名深手)
生麦事件の発生現場に、民家の塀に説明板が立っていた。
「文久二年八月二十一日辛未晴天
島津三郎様御上リ異人四人内女壱人 横浜与来リ本宮町勘左衛門前ニ而行逢下馬不致候哉異人被切付直ニ跡ヘ逃去候処 追被欠壱人松原ニ而即死 外三人ハ神奈川ヘ疵之儘逃去候ニ付御役人様方桐屋ヘ御出当村役員一同 桐屋ヘ詰ル右異人死骸ハ外異人大勢来リ引取申候」
島津候の行列が、神奈川方面から馬で来た。どこの国ともわからない異人4人(うち女1人)と出合い、行列の先方の人々が声をかけたが、異人たちは聞き入れず、駕籠先近くまで乗り入れたので、行列の藩士が異人の腰のあたりに斬りつけたようで、そのまま異人は立ち去り、一人は深手の様子で、字松原で落馬して死に、他の三人はどこかへ立ち去ったと。」 -
ランチで食した、巨大なギョウザ。驚き!(横浜強し)
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神奈川 『笠禾稲荷神社(かさのぎいなりじんじゃ)』
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神奈川 『笠禾稲荷神社(かさのぎいなりじんじゃ)』
笠?稲荷神社は、社伝によると天慶年間(九三八~九四七)に稲荷山の中腹に創祀され、元寇に当たっては北條時宗より神宝を奉納されている。元禄二年(一六八九)山麓に移られて、霊験ますますあらたかとなり、社前を通行する者の笠が自然に脱げ落ちるということから笠脱稲荷大明神と称された。後に笠のぎ稲荷神社と改称され、明治二年に現在地に遷座された。
また、この神社に土団子を供えれば病が治るとの特殊信仰もある。お礼に粢(ひとぎ)団子を供えるという。」 -
神奈川 『笠禾稲荷神社(かさのぎいなりじんじゃ)』
社殿。
「神奈川区東神奈川2に鎮座する笠禾稲荷神社は天慶年間(938年~947年)に稲荷山の中腹に創祀された。元寇に当たっては北条時宗より神宝を奉納されたという古社である。元禄2年(1689年)山麓に遷座した。霊験ますますあらたかとなり、社前を通行する者の笠が自然に脱げ落ちるということから笠脱稲荷大明神と呼ばれたと伝えられる。明治2年(1869年)に当地へ遷座し、明治17年(1884年)村社に列格した。
「新編武蔵風土記稿」によれば、笠脱稲荷社は9尺四方の社殿であったと記されている。
すなわち、「新編武蔵風土記稿」が編まれた文化・文政期(1804年~1829年)には
神明宮の社殿と同じ大きさの社殿が建っていたことになる。
現在では神明宮は3尺四方と小さくなり、一方、笠のぎ稲荷神社は鉄筋コンクリート造に
するほどの大きな社殿になっている。
宇迦之魂命、明治天皇、日本武尊を祭神とする。 -
『能満寺』
「能満寺は、海運山と号し、古義真言宗に属す。正安元年(一二九九)内海新四郎光善というこの地の漁師が、海中より霊像を拾い上げ、光善の娘に託していう霊像のことばにしたがって建てたものがこの寺であるとの伝承がある。
本尊は高さ五寸(十五センチ)木造坐像の虚空蔵菩薩で、海中より出現したと伝えられている。かつては、神明宮の別当寺で同一境内地に同社もあったが、神仏分離令で分かれ今日に至っている。」 -
山門を正面から
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寺の前の道は「神奈川歴史の道」として整備されていた。
「能満寺は、海運山と号し、古義真言宗に属す。正安元年(一二九九)内海新四郎光善というこの地の漁師が、海中より霊像を拾い上げ、光善の娘に託していう霊像のことばにしたがって建てたものがこの寺であるとの伝承がある。
本尊は高さ五寸(十五センチ)木造坐像の虚空蔵菩薩で、海中より出現したと伝えられている。かつては、神明宮の別当寺で同一境内地に同社もあったが、神仏分離令で分かれ今日に至っている。」 -
『芭蕉句碑』
ばせを翁 「父母の しきりにこひし 雉子の聲」。
「ばせを翁」とは「芭蕉翁」のことである。
貞亨5年(1688年)春、芭蕉が尾張国の俳人・坪井杜国(つぼいとこく)と
高野山を訪れて詠んだ句。
意味は、静かな杉木立の中、お互いに呼び合う雌雄の雉の声を聞いた芭蕉は
父母の姿をしのんだと。 -
『能満寺』本殿。
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神奈川 浄土宗正覚山法雨院『成仏寺(じょうぶつじ)』
成仏寺は永仁年間(1290年代)の創建。当初は四宗兼学(真言・仏心・律・浄土)であったが江戸時代初期に浄土宗一宗となった。
徳川が神奈川御殿を造るにあたり成仏寺のかつての境内を敷地に定め、その代替地として下されたのが現在地。その当時は塔頭(たっちゅう)六坊を持つ大寺であった。開港期は初めオランダ領事館、オランダ領事館が長延寺に移転した後はアメリカ人宣教師の宿舎にあてられた。ヘボン博士も来日当初はここを宿舎。 -
神奈川 浄土宗正覚山法雨院『成仏寺(じょうぶつじ)』
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神奈川 浄土宗正覚山法雨院『成仏寺(じょうぶつじ)』本堂
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【慶雲寺本堂】
慶運寺の始まりは、室町時代。芝増上寺三世、定蓮社音誉聖観によって開創されました。横浜開港の当時、フランス領事館が置かれた寺。 -
【宗興寺】
ヘボン博士との経緯
ヘボン博士施療所跡碑は、ちょっと洋風の建物ですが、曹洞宗の宗興寺の境内にありました。
『宋興寺とヘボン博士』
「曹洞宗宋興寺は、上の「神奈川駅中図会」では権現山の麓に描かれている。海港当時、米国人宣教師で医者であったヘボン博士がここに施療所を開いた。これを記念する碑が境内にある。
このヘボン博士は「ヘボン式ローマ字」でよく知られ、日本で最初の和英辞典を完成し、聖書の翻訳なども行った。後に明治学院を創設」。
「開港当時、アメリカ人宣教師で医者であったヘボン博士が、ここに施療所を開いていました。これを記念する石碑が境内に立てられています。このヘボン博士は、「ヘボン式ローマ字」でよく知られ、日本で最初の和英辞典を完成し、聖書の翻訳なども行いました。後に、明治学院を創設するなど、わが国の教育にも尽くした人でした」 -
横浜【宗興寺】
ヘボン博士の碑
【宗興寺とヘボン博士】 (神奈川宿歴史の道)
曹洞宗宗興寺は、上の「神奈川駅中図絵」では権現山の麓に描かれている。
開港当時、アメリカ人宣教師で医者であったヘボン博士がここに施療所を開いた。これを記念する石碑が境内にたてられている。
このヘボン博士は「ヘボン式ローマ字」でよく知られ、日本で最初の和英辞典を完成し、聖書の翻訳なども行った。後に、明治学院を創設するなど、我国の教育にも尽力した人である。
【宗興寺】 (左記ヘボンのレリーフの脇に刻まれている説明文)
1859(安政六)年ヘボンの来日後、まもなく米宣教井DBシモンズが来日、当、宗興寺を宿舎とした。シモンズはその後、明治初年になって横浜市市立大学医学部の前身、十全医院で多数の外科手術を行い、子弟を教育した。また虫下しセメン円でも有名である。
米宣教師ネビウスも一時宗興寺を宿舎とした。シモンズ、ネビウスが当寺を去ったあと、1861(文久元)年四月から九月まで宗興寺はヘボンの施療所となった。ヘボンは成仏寺からここへ通い、多数の患者を無料で診察し、入院患者もあった。
ヘボンのレリーフは幸ヶ谷在住の斉藤由蔵氏の善意で作られたものである。
昭和五十一年十二月 -
【慶雲寺】
フランス領事館跡、浦島太郎伝説
【浦島伝説関係資料】 横浜市地域有形民俗文化財(平成7年11月登録)
横浜市神奈川区にも伝わる浦島太郎伝説は、観福寿寺に伝えられていた縁起書に由来すると考えられ ますが、同寺は慶応四年(1868)に焼失したため、縁起の詳細については確認できません。しかし『江戸名所図会』『金川砂子』などの文献には縁起に関する記述がみられ ます。
それらによると、相州三浦の住人浦島太夫が丹後国(現在の京都府北部)に移住した後、太郎が生まれた。太郎が 二〇歳余りの頃、澄の江の浦から竜宮にいたり、そこで暮らすこととなった。三年の後、澄の江の浦へ帰ってみると、里人に知る人もなく、やむなく本国の相州へ下り父母を訪ねたところ、 三百余年前に死去しており、武蔵国白幡の峰に葬られたことを知る。これに落胆した太郎は、神奈川県の浜辺より亀に乗って竜宮に戻り、再び帰ることはなかった。そこで人々は神体をつくり浦島大明神として祀った、という内容です。
この浦島伝説が伝わっていた観福寿寺の資料は、同寺とゆかりの深い慶運寺(神奈川宿で紹介)と、大正末期に観福寿寺が所在した地に移転してきた蓮法寺 (本寺)に残されています。
蓮法寺の供養塔三基は、若干の欠損と近年にいたって手の入った形跡が認められ ますが、浦島伝説を今日に伝えるものです。
横浜市教育委員会 -
神奈川 『地図と絵に見る神奈川台場の歴史』
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神奈川 『地図と絵に見る神奈川台場の歴史』
『増補再刻 御開港横浜之全図』
その下に『亜米利加人上陸之図』、『黒船来航画巻』
『黒船来航図絵巻』、『横浜往返鉄道蒸気車ヨリ海上之図』 -
神奈川 『地図と絵に見る神奈川台場の歴史』
『神奈川台場図』 -
横浜 【洲崎大神参道】
洲崎大神(すさきおおかみ、すさきだいじん)は、横浜市の、京浜急行線の神奈川駅より東へ徒歩4分に鎮座する鎮守社。鎌倉幕府成立前後の建久2年(1191年)、現・千葉県館山市の安房神社を勧請して創建。
境内は、都心にも関わらず木が鬱蒼と茂り森厳な雰囲気が漂い、その奥に木造の端正な社殿が立つ -
【洲崎大神】横浜
洲崎大神は建久2年(1191年)に源頼朝が安房神社を勧進して創建したと伝えられている。その後、幕府直轄の神社として、代々お祭りしてきた。
「源頼朝公は石橋山の合戦(小田原)に敗れ、相州真鶴より海路安房に渡り、安房洲崎の安房神社に参籠、再起を祈願した後、遂に天下を平定して鎌倉幕府を開かれた。公はその神恩を忘れず、その後すぐに、この地を撰定して安房神社の御分霊を勧請、一祠を創建し、幕府直轄の神社として代々祭典を厳修させた。」
神社前から参道を下った先は海であって、国道に突き当たるあたりがかつての船着場だったそうである。
*大神前から南へ伸びる道が第一京浜に突きあたった辺りが、かつてのふなつきば。
鶴見神社の創建は、推古天皇の時代(7世紀初め)と伝えられる。古くは杉山大明神(杉山神社)と称された。1920年(大正9年)に、社名を鶴見神社と改めた。1962年(昭和37年)、境内の古木が倒れた際、その根元から、弥生時代後期の土器や古墳時代の土師器、鎌倉時代に至る祭祀遺跡が発見された。これにより、創建伝承以前から祭祀の場となっていたことが確認された。
【州崎大神】 (神奈川宿歴史の道)
州崎大神は、建久二年(1191)、源頼朝が安房国(現千葉県)一宮の安房神社の霊を移して祀ったことに始まると伝えられている。
『江戸名所図会』の様子は、今も石鳥居や周囲の地形に偲ぶことができる。神社前から 海に向かって延びる参道が、第一京浜に突き当たるあたり。そこが、かっての船着場である。横浜が開港されると、この船着場は開港場と神奈川宿とを結ぶ渡船場となり、付近には宮ノ下河岸渡船場と呼ばれる海陸の警護に当たる陣屋も 造られた。
「神奈川宿歴史の道」案内板(左写真)によると、
●神奈川宿歴史の道 東海道五十三次の日本橋よりかぞえて三番目が神奈川宿である。この地名が県名や区名の由来であり、またここが近代都市横浜の母体でもあった。上図は、江戸幕府の道中奉行が作った「東海道分間延絵図」である。図の中央に滝ノ橋、この橋に右側に神奈川本陣、左側に青木本陣が描かれている。折れ曲がったあたりが台町である。
ここ神奈川駅は、折れ曲がった道のすぐ右にあたる。明治五年の鉄道開通の際に設けられた神奈川停車場はすぐこの南側に位置していた。そのため神奈川駅は、神奈川宿の名前を今でも残している。平成四年の改築にともない、京浜急行の協力のもと、神奈川宿歴史の道にふさわしい和風で瀟洒なデザインの駅舎に生まれ変わった。
ここ神奈川が一躍有名になったのは安政元年(1854)の神奈川条約締結の舞台となってからである。開港当時、この図にみられる多くの寺が諸外国の領事館などに充てられた。神奈川宿歴史の道はほぼこの図の範囲を対象に、東は神奈川通東公園から西は上台橋に至るおよそ四キロの道のりとなっている。 -
神奈川宿 洲崎明神 (わたしの彩(いろ)『江戸名所図会』から引用)
*左下青部は湊(海)です。 -
『神奈川宿歴史の道』横浜駅あたり
旧東海道は、海岸沿いにありました。現在の鉄道、市街はすべて埋め立て地に発展しました。
『神奈川宿歴史の道』
案内板の上の図は、江戸幕府の道中奉行が作った「東海道分間延絵図(ぶんけんのべえず)」。図の中央に滝ノ橋、この橋の右側に神奈川本陣、左側に青木本陣が描かれている。折れ曲がった辺りが台町である。
ここ神奈川宿が一躍有名になったのは安政元年(1854)の神奈川条約締結の舞台となってからである。開港当時、この図に見られる多くの寺が諸外国の領事館などに充てられた。江戸幕府が東海道の状況を把握するために、道中奉行に命じて作成した詳細な絵地図。絵図には、問屋、本陣、脇本陣、寺社などが描かれている。また、一里塚、道標、橋、高札なども描かれている。
縮尺は、実際の1里を曲尺の7尺2寸に縮尺して描かれていて、急な曲がり道は、そのまま描いてしまうと地図の天地が長くなってしまうので、実際にはゆるい曲がり道にし、そのわきに追記して本来の曲がり具合を示している。」 -
『神奈川宿歴史の道』青木橋付近の拡大図
右付近の茶色の斜線は、現在のJR路線です。 -
本覚寺への参道
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青木橋を渡ると右側高台にあったのが曹洞宗青木山『本覚寺(ほんがくじ)』
江戸時代の神奈川宿の浮世絵では、海が間近に迫っているけれど、今ここからは海は見えない。
かつての入江は、横浜のビル群に埋め尽くされてしまった。 -
本覚寺入口から、参道並びに現在の都市景観を見下ろす。
当時は、この辺りまで海だったが、埋め立てられた。 -
本覚寺から、海の方を眺めた風景。
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『史跡 アメリカ領事館跡』
江戸時代の末、日米修好通商条約が結ばれるにあたり、この本覚寺にアメリカ領事館が置かれたと。三年ほど、この地に領事館がおかれた。初代は有名なタウンゼント・ハリス。また、生麦事件の時には2名が騎馬で本覚寺に逃げ込み、ヘボン博士(ヘボン式ローマ字で有名)の手当を受けたとのこと。この石柱は開港100年の記念に立てられた
【本覚寺は、当時「アメリカ領事館」として使われた石碑】
安政6年(1859年)の横浜開港に伴い、アメリカ領事館が置かれた寺。幕府は横浜を勧めたのですが、駐日公使のタウンゼント・ハリスが見分し、横浜を見渡せるこの寺を領事館に要求したというのです
当時、住職が地蔵菩薩のお告げによって作ったとされる万能薬「黒薬」といわれるものが明治初年まで政府の官許の下に製造されており、神奈川宿の名物になっていた。 -
【本覚寺】の山門
青木橋を渡ると右側の高台に寺院があるが、ここはアメリカ領事館の置かれた「本覚寺」
この地は、横浜駅北側の高台で、現在の横浜駅周辺を見おろせる。当時は、現在の駅周辺は海の中でした。
現在は横浜の市街が望めるが、もとは海原であった。そして、遠くの砂州が横浜と呼ばれ今の関内(横浜港)である。
*寺の草創は鎌倉期で臨済宗栄西によると伝えられる。しかし合戦で荒廃。その後、曹洞宗の陽広和尚により再興された。
*本覚寺は、鎌倉時代の嘉禄2年(1226年)に始まる曹洞宗の古刹。青木橋のところからでも小高い場所に建っている堂々とした構えがよく見えますが、実際に訪ねると境内の広さもなかなか。悠々とした構えです。 -
【本覚寺】
「本覚寺」はハリス総領事が自らアメリカ領事館に選定した寺で、小高い丘にあり、当時は横浜の港も良く見えたのが選ばれた理由と言う。山門は白いペンキで塗られたが、これは日本で始めての「ペンキ塗装」とのこと。
また、生麦事件では、2人のイギリス人が逃げ込み、ヘボン博士が治療にあたった寺でもある。
日米修好通商条約を締結し、米国の初代駐日公使となったタウンゼント・ハリスは、横浜が開港したとき、この本覚寺をアメリカ領事館とした。
渡船場に近く、丘の上にあり、横浜を眼下に見渡せることが、その決め手となった。
生麦事件では、襲われたイギリス人4人のうち、負傷した2人がここまで逃げてきて、米国人医師のジェームス・カーティス・ヘボンから手当を受けた。
あの、「ヘボン式ローマ字」のヘボン博士だ。
【本覺寺】 (神奈川宿歴史の道)
本覺寺は、臨済宗の開祖栄西によって、鎌倉時代に草創されたと伝えられる。 もとは臨済宗に属していたが戦国期の権現山の合戦で荒廃し、天文元年(1532)に陽廣和尚が再興し、曹洞宗に改めた。
開港当時、ハリスは自ら見分け、渡船場に近く、丘陵上にあり、横浜を眼下に望み、さらに湾内を見通すことができる本覺寺をアメリカ領事館に決めたという。
領事館時代に白ペンキを塗られた山門は、この地域に残る唯一の江戸時代に遡る建築である。 -
本覚寺本堂
アメリカ領事館があった所。
「開港当時、アメリカ領事館に充てられたのが、この本覺寺。神奈川領事であったドーアは、庭の松の枝を払い落とし、この木の上に星条旗を掲げだといいます。
安政五年(一八五八)日米修好通商条約締結に際し、アメリカ公使ハリスとの交渉にあたった全権委員・岩瀬忠震を記念する石碑が境内に建てられています。」 -
アメリカ領事館との通訳で頑張った知識人。
【岩瀬忠震(ただなり)の顕彰碑】
岩瀬は、幕末の三傑と呼ばれた幕臣で、開国を推進し、日米通商条約の調印を行い、横浜開港に尽力した。しかし井伊直弼と対立し左遷された。
山門の右脇に、レリーフ像をはめこんだ石碑が建っていた。
この石碑は、幕末に横浜の開港を首唱した岩瀬肥後守忠震(いわせひごのかみただなり)の顕彰碑。
横浜郷土研究会により、横浜開港の恩人への感謝の碑として、昭和57年に建立。
岩瀬忠震は、幕末に海防掛目付に任ぜられた後、外国奉行にまで出世し、開国論の
中心的存在として活躍をした人物。
日米修好通商条約においてはアメリカ総領事ハリスに対し、下田奉行井上清直と
共に交渉にあたり、ハリスの要求した江戸・品川・大坂などの開港希望地をしりぞけ、幕府百年の計のためにと横浜の開港を首唱したのが岩瀬忠震。
その結果、1859年に横浜が開港し、発展めざましい今日の基を開くことになったのだと。山門前の戒壇石に「不許葷酒入山門」(葷酒、山門に入るを許さず)が。
葷酒とは仏教の戒律で禁じられた臭気の強い葱ねぎ、韮にら、蒜にんにく、薤らっきょう、興渠はじかみという五辛および酒のこと。臭の強いものや、酒を持ち込む事は禅宗の修 行に差し障りがあるのでこれを許さないと。 -
金比羅宮の参道。
鳥居前は神奈川の一里塚跡で、江戸日本橋より7里目です。
鳥居が参道入口で、フォトは参道途中で振り返りのいちまいです。 -
御利益倍増!?天狗様と金比羅様が同居する横浜「大綱金比羅神社」
「この神社は、社伝によると平安末期の創立で、もと飯網社といわれ、今の境内後方の山上にあった。その後、現在の地へ移り、さらに琴平社を合祀して、大綱金刀比羅神社となったと。かって眼下に広がっていた神奈川湊に出入りする船乗り達から深く崇められ、大天狗の伝説でも知られている。
また江戸時代には、神社前の街道両脇に一里塚が置かれていた。この塚は、日本橋より七つ目に当たり、土盛りの上に樹が植えられた大きなものだった」 -
本覚寺の隣に立つ金比羅宮。横浜駅西口徒歩5分横浜の
【金刀比羅神社】
御利益倍増!?天狗様と金比羅様が同居する横浜「大綱金比羅神社」
大綱金刀比羅神社は、旧神奈川宿にあった下台町の鎮守。もともとは台町の小山の山頂に大綱神社、中腹に金刀比羅神社があって、明治以降、合祀されて大綱金刀比羅神社となりました。
ちなみに、こんぴらさんは、海の神様。石橋山の戦いで敗北し逃亡。安房国へ小舟で脱出した頼朝が、これを感謝し源頼朝が創建したと伝わります。
小さな神社ですが、隣に天狗の像もあって、それもちょっと変わっています。
この神社は、社伝によると平安末期の創立で、もと飯綱社といわれ、今の境内後方の山上にあった。その後、現在の地へ移り、さらに琴平社を合祀して、大綱金刀比羅神社となった。
要するに、この近くまで、当時は海で、海運関係者が安全祈願するための金比羅さんということです。 -
御神木の幹に天狗の木彫作品。
御利益倍増!?天狗様と金比羅様が同居する横浜「大綱金比羅神社」 -
【神奈川宿の図】パンフレットより
現在のJR東海道線の辺りも、当時は海でした。埋立てにより、横浜都市部が出来ています。金毘羅さんも湊の守り神様を、この地に祀ったわけです。 -
旧街道は海に面した風光明媚な所。
神奈川区台町は、神奈川宿からの坂道で、かつて神奈川台と呼ばれていた一里塚(金刀比羅神社の前)や坂の頂上には神奈川台関門のあった所である
右手の割烹料亭田中家が安藤広重の東海道五十三次の「神奈川宿台之景」に描かれた2階建て旅籠「さくら屋」(現田中屋の前身)のあったところだ
この裏手が、毎年春と秋の季節限定で週末に限り公開されています(雨天中止)。
【神奈川宿】歴史の街
神奈川宿は日本橋を出て三番目の宿場町です。現在の台町あたりは、かつての神奈川湊を見おろす景勝の地でした。この神奈川が一躍有名になったのは、安政元年(1854年)の神奈川条約締結の舞台となったからです。その四年後に結ばれた日米通商条約では神奈川が開港場として決められていましたが、後に横浜に変更されました。
【田中家】
神奈川宿がにぎわった当時から続く唯一の料亭が、文久三年(1863年)創業の田中家です。
田中家の前身の旅籠「さくらや」は安藤広重の「東海道五十三次」にも描かれた由緒正しき店名です。高杉晋作やハリスなども訪れました。
【坂本龍馬の妻「おりょう」】
「おりょう」が田中家で働き始めたのは明治7年。勝海舟の紹介で働いたと伝えられます。英語が話せ、月琴も弾くことができた「おりょう」は、外国人の接待に重宝されました。 -
【東海道五拾三次之内・神奈川『臺之景』 広重】
「ここは片側に茶軒ならべ、いずれも家敷2階造り、欄干つき廊下桟など渡して、浪打ち際の風景いたって良し」
この辺りは、岸壁でした。台町から入海を眺めた景色が描かれている。茶屋の前で下女に袖を引っ張られているのが弥次さんと喜多さんと思われる。
『歴史の街 神奈川宿』。
田中家のあるこのあたりは、むかしから神奈川台町と呼ばれ、かつては海沿いの景勝地として広く知られていた。この神奈川は、江戸時代には、東海道五十三次の中の、日本橋から数えて、品川、川崎に続く第三番目「神奈川宿」として栄えていた。その頃の神奈川宿の様子は「東海道中膝栗毛」(十返舎一九)にも描かれているが、昼夜を問わず、街道を行き交う人々でたいへんなにぎわいだったと。
幕末の偉人、坂本龍馬の妻おりょうは、龍馬亡きあと、ここで住み込みの仲居として勤めていた。月琴を奏で、外国語も堪能で、物怖じしないまっすぐな性格が、ことに外国のお客に評判だったと。横須賀に嫁いでいき、田中家をやめたあとも、ひいき客からいつまでも話題に上った」 -
【台町の田中家】
ここには安藤広重の「神奈川宿台之景」に描かれた「さくら屋」が屋号を「田中家」に変え、今 に続いているのに驚かされる。
坂本竜馬の妻であった「おりょう」が仲居として働いていたこともあるとのこと。お量産は、英語が話せ、月琴も弾くことが出来、外国人の接待に重宝されたと云います。以前はお店の直ぐ裏(下)まで海が迫っており、大変に景色が良かったところと伝えられている。 -
文久3年創業の田中家
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田中家の玄関
烹料亭田中家が安藤広重の東海道五十三次の「神奈川宿台之景」に描かれた2階建て旅籠「さくら屋」(現田中屋の前身)のあったところ. -
【神奈川の台と茶屋】 (神奈川宿歴史の道)
ここ台町あたりは、かつて神奈川の台と呼ばれ、神奈川湊を見下ろす景勝の地であった。
弥次さん、喜多さんが活躍する『東海道中膝栗毛』にも、「爰は片側に茶店軒をならべ、いづれも座敷二階造、欄干つきの廊下、桟などわたして、浪うちぎわの景色いたってよし」とある。 「おやすみなさいやァせ」茶屋女の声に引かれ、二人はぶらりと立ち寄り、鯵をさかなに一杯ひっかけている。
上図の「櫻屋」が現在の料亭田中屋のあたりだといわれている。 -
【神奈川台関門跡】と書かれた石碑
これは横浜開港後、外国人が大勢殺傷され、イギリス総領事のオールコックらの激しい批判に、幕府も警戒を強化するため設けた「関門」の跡である。
神奈川宿にも東西にも関所が設けられ、神奈川台の関門は西側の関門に当たる。
右の石碑は、歌碑です。
「思いきや 袖ヶ浦波 立ちかえり ここに旅寝を 重ねべしとは」と刻まれています。 -
当時の写真。街道らしい雰囲気です。
1859年(安政年)、横浜が開港されると、外国人の殺傷事件が相次いで発生。イギリス総領事オールコックをはじめとする各国の領事から非難を受けた幕府は、 横浜の主要地に関門や番所を設置した。
神奈川宿にも東西にも関所が設けられ、神奈川台の関門は西側の関門に当たる。
『神奈川台の関門跡』
「ここよりやや西寄りに神奈川台の関門があった。開港後外国人が何人も殺傷され、イギリス総領事オールコックを始めとする各国の領事たちは幕府を激しく非難した。幕府は、安政六年(一八五九)横浜周辺の主要地点に関門や番所を設け、警備体制を強化した。この時、神奈川宿の東西にも関門が作られた。そのうちの西側の関門が、神奈川台の関門である。明治四年(一八七一)に他の関門・番所とともに廃止された。」 -
【台町浅間神社】
【神殿】
本殿二階建浅間造にして社殿丹塗総金具付にて元官幣大社浅間大社(静岡県富士宮市)と同様 国宝建造物類似楼閣にて近隣に比類なき構造なり
【由緒沿革】
元神奈川区浅間町に鎮座し浅間町一円の氏神なり、創祀は承歴四年(1080)といわれ、源頼朝公文治元年平家討滅に依るべきを思い且つは戦勝奉賽のため関東一円の社寺修築神馬神田の寄進に及べり、然る処武蔵国橘樹群神奈川在芝生村に富士山の形状の山地あるを卜とし社殿の修築をなし、報賽の至誠を致せる由といふ。薾来九百余年威嚇灼として遠近を光被し万民均しく渇仰崇敬せり
『浅間神社(せんげんじんじゃ)』
浅間神社は神奈川県横浜市西区にある神社。旧・芝生村(しぼうむら、現在の浅間町)の鎮守であった。
横穴古墳が密集する袖すり山と呼ばれる丘の上に立地している。承暦4年(1080年)、源頼朝が浅間神社を勧請して造営されたと伝えられる。
当地は袖ヶ浦(入江)に面した帷子川の河口港として栄え、江戸時代は東海道五十三次の神奈川宿と程ヶ谷宿の間の宿であった。
幕末の横浜開港の際には、当社門前より横浜(現・関内)に到る「横浜道」が整備された。関東大震災や太平洋戦争で社殿は焼失し、現在の社殿は昭和戦後になって再興されたものである。「芝生(しぼう)」は縁起が悪いため、この神社にちなんで浅間町と改名されたと。祭神に木花咲耶姫命(このはなさくやひめ)、相殿に天照大神(あまてらすおおみかみ)と武甕槌命(たけみかづちのみこと)を祀る。 -
ここが東海道との芝生追分です、安政6年(1859)の横浜開港以降は八王子方面から横浜への絹が運ばれるようになり、絹の道とも呼ばれました。
【追分】 (歴史の道)
≪標柱左側面の説明文≫
追分は一般に道の分岐点を意味しますが、ここ芝生の追分は東海道と八王子道が分かれる場所です。
≪標柱右側面の説明文≫
八王子道は、ここより帷子川にそって伸び、町田・八王子へと続く道で、安政六年(1859年)の横浜開港以降は八王子方面から横浜へと絹が運ばれるようになり、「絹の道」とも呼ばれています。
平成15年3月 保土ヶ谷区役所 -
保土ヶ谷宿には、『帷子川(かたびらがわ) 』が流れていました。
1964年7月に、この帷子川の流れが、それまでの天王町駅南側から北側に付けかえられたのに伴い、帷子橋の位置も変わってしまったのですが、歴史を残す意味で建てられたのが、この記念碑なのです。
【旧帷子橋跡】 横浜市地域史跡(平成10年11月9日登録)
江戸時代、東海道が帷子川を渡る地点に架けられていた帷子橋は、絵画に描かれたり、歌や俳句に詠まれるなど、保土ヶ谷宿を代表する風景として知られていました。中でも初代広重の「東海道五十三次之内 保土ヶ谷」は特に有名です。
大橋や新町橋などとも呼ばれていた帷子橋について、『新篇武蔵風土記稿』の帷子町(保土ヶ谷宿のうち)の項には、「帷子橋 帷子川ニ架ス板橋ニテ高欄ツキナリ、長十五間、幅三間、御普請所ナリ」という記載がみられ ます。
昭和三十九年(1964)七月に、帷子川の流れがそれまでの相鉄線天王町駅南側から北側に付け替えられたのに伴い、帷子橋の位置も変わりました。かつての帷子橋の跡地は、現在の天王町駅前公園の一部にあたります。
横浜市教育委員会 -
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帷子橋は「江戸名所図会」にも挿絵が掲載されている本格的な板橋。
迅速原図では帷子橋が帷子川の川筋に直交して架けられていることにより、
東海道の道筋は約45度折曲がり、橋を渡った位置から再び元の道筋と並行する線
形になっている。帷子川は戦後の河川改修により現在の位置に川筋が移動し、
相模鉄道天王町駅の南側にある「天王町公園」に帷子橋跡のモニュメントが設置されている。 -
復元された帷子(katabira)橋。この橋を渡れば、間もなく保土ヶ谷宿です。
保土ヶ谷宿の帷子(かたびら)川に掛かる帷子橋の跡である
古来より、絵(江戸名所図会)や歌に紹介された名所である
この橋を渡ると保土ヶ谷宿であった。古来より、絵(江戸名所図会)や歌に紹介された名所である。
旧東海道に架けられていた帷子(かたびら)橋は、現在の「帷子橋」の位置ではなく、昭和31年(1956)に帷子川の河川改修工事により帷子橋の位置も変わった。かつての帷子橋の跡地は、現在の天王町駅前公園の一部となっており、安藤広重の「東海道五十三次之内 保土ヶ谷」の風景はに帷子橋が描かれている。
江戸時代東海道から帷子川を渡る地点に架けられていた帷子橋は、絵画に描かれたり歌や俳句に詠まれるなど保土ヶ谷宿を代表する風景として知られていました。中でも初代広重の「東海道五十三次之内 保土ヶ谷宿」は特に有名です。大橋や新町橋などとも呼ばれた帷子橋について「新篇武蔵風土記稿」には「帷子橋 帷子川ニ架ス板橋ニテ香蘭ツキナリ。長十五間巾三間御普請所ナリ」と記載されています。昭和37年に帷子川の流れがそれまでの相鉄線天王子南側から北側に付け替えられたのに伴い、帷子橋も現在の位置に変わりました(横浜市教育委員会) -
鶴見川橋がある
この橋の袂鶴見橋(現鶴見川橋)関門旧跡(かんもんきゅうせき)があり5番番所が設けられたところだ
生麦事件(文久2年、1862年)の後、川崎宿と保土ヶ谷宿の間に番所が設けられ攘夷派浪士の取締りを行った所の一つである
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