2013/05/14 - 2013/05/14
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フロッガーさん
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今年も遅ればせながらの私的ゴールデンウィーク、奈良へ行って来ました。
のぞみで京都へ、京都駅から近鉄奈良線特急で一目散にふたたびの奈良へ。
さ〜て、今回の奈良旅は
・興福寺国宝公開を見ちゃう
・當麻寺で曼荼羅を拝んじゃう
・秋篠寺でミューズに会っちゃう
・岡寺で塑像の仏様に会っちゃう
・聖林寺のヴィーナスに会っちゃう
この見仏五本立を軸にお送りいたします。
2013年、南円堂は創建1200年目を迎えています。
1200年を記念ということで、北円堂と南円堂が同時公開となりました。
北円堂は毎年、春と秋に公開期間がありますが南円堂は1年に1日だけ。
両方のお堂が長期間に渡り同時公開されるのは初めてのことです。
※興福寺国宝特別公開2013 (6/2まで)
http://www.kohfukuji.com/event/detail.cgi?event_seq=00000014
※JR東海 うましうるわし奈良 「興福寺 南円堂・北円堂篇」
http://nara.jr-central.co.jp/campaign/kohfukuji-sn/index.html
ちなみに、昨年のうまし うるわし、あをによし。
http://4travel.jp/traveler/izavel/album/10674639/
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
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-
ということで、近鉄奈良駅から猿沢の池へ。
まるっと回ります。 -
采女(うねめ)神社。
采女伝説の場所です。
采女というのは、天皇や皇后の身の回りを世話する女官の人のことを言います。
彼女たちは、時に天皇の寵愛を受けることもあったそうです。
天皇に愛された一人の采女が、やがて遠のいた天皇の愛情に打ちひしがれてこの池へ身を投げたと伝わります。
采女神社は猿沢の池のほとりのこの場所へ、采女の霊を慰めるために建てられたお社です。
鳥居からこの社は反対を向いた形で建っています。
元々、この社は猿沢の池に向かって建っていたそうです。
采女が身を投じた池を見るに忍びない、そう思ったのかこの社は建立後一夜にして反対を向いてしまったと伝わります。
もし、天皇の御子を宿していれば身を絶つこともなかった采女のお話です。
まるで、池から目を背けるような佇まいのお社。
今でも毎年の中秋の名月の日には、悲恋に散った采女の霊を鎮める采女祭が開かれます。
※中秋の名月(采女祭)の期間内のみ開門されます。 -
そして猿沢の池から興福寺へ。
南円堂へ向かいました。
南円堂の前には特別公開の受付所が設けられていて、こちらで拝観受付。
記念に匂い袋をいただきましたが、これが強烈・・・(*´〜`*) -
南円堂。
弘仁四年(813)、藤原冬嗣が父・内麻呂を弔うために創建されました。
現在の南円堂は寛政元年(1789)に再建された物です。
平成4年度修理。
西国三十三所観音霊場、第九番。 -
パンフレットより。
右側に写りますのは南円堂・不空羂索観音様。 -
南円堂から。
内部への入り口は裏手にぐるっと回ります。
南円堂は基壇を造る際に地神を鎮めるため、和同開珎などの貨幣を撒いてあることが発掘でわかっています。
この儀式には弘法大師・空海が関わったことが記録に残っています。 -
南円堂からの三重塔もステキ。
三重塔は平安時代末期の康治二年(1143)、崇徳天皇皇后、藤原聖子の発願で建てられたとあります。
現在の三重塔は南都焼き討ち後の再建といわれ、鎌倉時代に創建当初の姿で再建されました。
正確な年代はわかっていないそうですが、様式など鎌倉初期の興福寺復興とともに再建設されたとみられています。 -
南円堂入り口。
土足禁止なので、入り口で下足袋を頂いて入ります。
こちらも、記念品として持ち帰りできます。
興福寺のマークが入った緑の袋でした。
堂内は、中心に不空羂索観音菩薩坐像が本尊として祀られます。
これに法相六祖坐像(ミュージアム)、四天王立像が安置されます。
入りますと、観音像から時計回りに増長天・広目天・多聞天・持国天と並びます。
本尊である不空羂索観音は変化観音の1つとされます。
手に持つ羂索(網)で人々の想いや願いを結び、空しいものにさせないという仏様です。
上半身に鹿皮をまといますが、これは藤原氏の氏神となる春日大社との信仰によるものと言われます。 -
仏師・運慶の父である康慶は弟子たちとともに文治五年(1189)に1年と3ヶ月を費やしてこの仏様を造りました。
本尊の安置される須弥壇の名の由来は、仏教の世界での中央に位置する須弥山を指すと云われます。
四天王はこの須弥山の大将であった帝釈天の家来とされ、東に持国天・西に広目天・南に増長天・北に多聞天がいます。
四天王は仏法を守る大天王とされます。
四天王立像も康慶とその弟子たちが作成したものとされていました。
ですが近年において康慶たちが造った四天王は、現在の仮金堂にある四天王立像であるのでは、という推測に至っています。
現在の四天王立像は元々は南円堂ではなく、北円堂や西円堂・東金堂なども考えられて諸説が語られています。 -
それでは北円堂へ。
北円堂は、養老四年(720)に亡くなった藤原不比等の菩提を弔うために建立されたものです。
発願は元明太上天皇と元正天皇、長屋の王に命じて一周忌にあたる翌年の8月3日に完成しました。
廟堂としての八角堂という位置づけにあたります。
・永承四年(1049)火災で消失
・治承四年(1180)平重衡の南都焼討にて焼失
この後に承元四年(1210)に復興されたのが今のお堂です。
興福寺の伽藍としては一番古いお堂となります。 -
北円堂に祀られる仏様たちは南都焼討の後、運慶の一門によって再興されました。
この時に造られた仏様では、本尊である弥勒如来坐像と無著・世親菩薩立像の三体が現在に残った仏様です。
弥勒如来様は弥勒菩薩が56億7千万年後に成仏した姿とされます。
胴体の中には、作成時に関わった慶派仏師の銘が墨書きされています。 -
北円堂の堂内は土足での拝観になります。
中央に弥勒如来坐像、向かって左に大妙相菩薩像・右に法苑林菩薩像を従います。
ちょっと後ろの左右にいわゆる玉眼の、世親菩薩立像・無著菩薩立像です。
そして時計回りに、増長天立像・広目天立像・多聞天立像・持国天立像となります。
四天王立像は増長天と多聞天の台座の裏にあった墨書きから、元は奈良・大安寺に伝来した四天王立像とわかっています。
延暦十年(791)年に造られたものです。
南円堂は何周でもぐるぐる回れますが、北円堂は回れません。
持国天の右側に仕切りがありますので、注意が必要です(T_T) -
北円堂を出ると、南円堂の前に戻る道です。
左側が中金堂。 -
五重塔。
-
眠れる鹿を起こす。
-
南大門跡。
薪能が行われる場所です。
なにやら茶店があるような雰囲気で、入ると普通の売店。 -
ということで、南円堂は何回もぐるぐるしました。
やっぱり不空羂索観音様は凄いヽ(・∀・ )ノ
せっかくですからミュージアムで千手観音様や阿修羅さん、迦楼羅さんにご挨拶して元興寺へ向かいます。
六道の辻から、五十二段の石段です。
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