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ローマ編Part.1は、ヴァチカン博物館(含、システィーナ礼拝堂)とサン・ピエトロ大聖堂のレポをお届けします。<br />ヴァチカン博物館(含、システィーナ礼拝堂)の鑑賞ができるのは、当ツアーのプレミアムです。あれもこれも見たいと準備して臨みましたが、あっさり空振りに終わりました。時間の関係でピオ・クレメンティーノ美術館とラファエロの間がスキップになったのです。でもシスティーナ礼拝堂は、正味10分程ですがじっくり堪能できました。博物館を満喫するには、事前予約し、フリータイムあるいは個人旅行で訪れないと難しそうです。<br />サン・ピエトロ大聖堂内部も20分程の駆け足見学になりました。事前チェックを怠らなかったのですが、時間に追われて消化不良気味でした。ガイドさんの嗜好や価値観が少しズレていたのかな?<br /><br />ヴァチカン博物館は、500年以上の歴史を有し、24の新旧様々な博物館の総称。起源は、ユリウス2世(16世紀初頭)の古代彫刻コレクションに遡ります。歴代教皇は各時代の芸術家を庇護して美術品を収集し、20世紀に至るまで博物館の拡張が続けられました。<br />サン・ピエトロ大聖堂は、ヴァチカンの丘に建つカトリック教会の総本山かつ聖地でもあります。初代聖堂は、4世紀にローマ皇帝コンスタンティヌス1世により聖ペテロの墓所と伝えられた場所に建造され、ペトロを初代教皇としました。ペトロはイエスの遺志を継いでキリスト教布教に努めた人で、キリスト教徒迫害の激化したローマで逆さ十字の磔刑で殉教しました。<br /><br />ローマの歴史地区の全体が見渡せるマップです。<br />http://roma-angelo.cocolog-nifty.com/Centro_Guida.pdf<br />もう少しシンプルなのが好みの方向けのマップです。<br />http://www.cr.mufg.jp/member/service/leisure/travel/hospitality_guid/flatplat_roma.pdf<br />ヴァチカン博物館の公式サイトです。<br />http://mv.vatican.va/3_EN/pages/MV_Visite.html<br />サン・ピエトロ大聖堂のフロアマップと解説です。英語のサイトですが、ここが一番充実しています。(翻訳サイトでコピー&ペーストすれば難はありません。)これをベースに作成したマップを本文中にアップしています。<br />http://www.saintpetersbasilica.org/floorplan.htm<br />ベルニーニの作品を中心に解説している日本語サイトです。ブログ作成中に偶然見つけました。<br />http://chinmiroma.com/<br /><br /><日程><br />5月2日:出発(関空~ローマ経由ミラノ)アリタリア航空(AZ793便)<br />     アタホテル クァーク宿泊<br />5月3日:午前 ミラノ観光<br />     午後 ヴェローナ観光<br />     アマデウス(ヴェネツィア本島)宿泊<br />5月4日:ヴェネツィア観光<br />     午後 フィレンツェへバス移動(245km)<br />     クローチェ・ディ・マルタ宿泊 (2連泊)<br />5月5日:午前 フィレンツェ観光<br />     午後 ピサ観光<br />     クローチェ・ディ・マルタ宿泊 (2連泊)<br />5月6日:午前 フリータイム<br />     午後 イタリア版新幹線「イタロ」でナポリへ<br />     ホリディイン・ナポリ宿泊<br />5月7日:アマルフィ海岸ドライブ(3時間半)<br />     午後 ポンペイ遺跡見学<br />     高速船でカプリ島へ移動(45分)→フリータイム<br />     レジーナ・クリスティーナ宿泊<br />5月8日:カプリ島観光<br />     午後 ナポリ港着後、ローマへバスで移動<br />     シェラトン・ゴルフ・パルコ・デ・メディチ宿泊(2連泊)<br />5月9日:ローマ市内観光<br />     ヴァチカン博物館(1時間半)→サン・ピエトロ大聖堂<br />     (30分)→ランチ(日本食)→コロッセオ(外観)→<br />     ショッピング(マルコ・アウレリオ:40分)→<br />     サンタ・マリア・イン・コスメディン教会(真実の口)→<br />     トレビの泉~スペイン広場(徒歩)→フリータイム<br />     (1時間20分:サンタンドレア・デッレ・フラッテ教会→<br />     サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会→パンテオン外観→<br />     コロンナ広場)→カンツォーネ・ディナー<br />     シェラトン・ゴルフ・パルコ・デ・メディチ宿泊(2連泊)<br />5月10日:ローマ市内観光<br />     ナヴォーナ広場→サンタゴスティーノ教会→パンテオン<br />     観光後、ローマ空港へ<br />     アリタリア航空(AZ792便)で一路関空へ <br />5月11日:関空着<br />

ときめきのイタリア周遊⑬ローマ編Part1

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2013/05/02 - 2013/05/11

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

ローマ編Part.1は、ヴァチカン博物館(含、システィーナ礼拝堂)とサン・ピエトロ大聖堂のレポをお届けします。
ヴァチカン博物館(含、システィーナ礼拝堂)の鑑賞ができるのは、当ツアーのプレミアムです。あれもこれも見たいと準備して臨みましたが、あっさり空振りに終わりました。時間の関係でピオ・クレメンティーノ美術館とラファエロの間がスキップになったのです。でもシスティーナ礼拝堂は、正味10分程ですがじっくり堪能できました。博物館を満喫するには、事前予約し、フリータイムあるいは個人旅行で訪れないと難しそうです。
サン・ピエトロ大聖堂内部も20分程の駆け足見学になりました。事前チェックを怠らなかったのですが、時間に追われて消化不良気味でした。ガイドさんの嗜好や価値観が少しズレていたのかな?

ヴァチカン博物館は、500年以上の歴史を有し、24の新旧様々な博物館の総称。起源は、ユリウス2世(16世紀初頭)の古代彫刻コレクションに遡ります。歴代教皇は各時代の芸術家を庇護して美術品を収集し、20世紀に至るまで博物館の拡張が続けられました。
サン・ピエトロ大聖堂は、ヴァチカンの丘に建つカトリック教会の総本山かつ聖地でもあります。初代聖堂は、4世紀にローマ皇帝コンスタンティヌス1世により聖ペテロの墓所と伝えられた場所に建造され、ペトロを初代教皇としました。ペトロはイエスの遺志を継いでキリスト教布教に努めた人で、キリスト教徒迫害の激化したローマで逆さ十字の磔刑で殉教しました。

ローマの歴史地区の全体が見渡せるマップです。
http://roma-angelo.cocolog-nifty.com/Centro_Guida.pdf
もう少しシンプルなのが好みの方向けのマップです。
http://www.cr.mufg.jp/member/service/leisure/travel/hospitality_guid/flatplat_roma.pdf
ヴァチカン博物館の公式サイトです。
http://mv.vatican.va/3_EN/pages/MV_Visite.html
サン・ピエトロ大聖堂のフロアマップと解説です。英語のサイトですが、ここが一番充実しています。(翻訳サイトでコピー&ペーストすれば難はありません。)これをベースに作成したマップを本文中にアップしています。
http://www.saintpetersbasilica.org/floorplan.htm
ベルニーニの作品を中心に解説している日本語サイトです。ブログ作成中に偶然見つけました。
http://chinmiroma.com/

<日程>
5月2日:出発(関空~ローマ経由ミラノ)アリタリア航空(AZ793便)
     アタホテル クァーク宿泊
5月3日:午前 ミラノ観光
     午後 ヴェローナ観光
     アマデウス(ヴェネツィア本島)宿泊
5月4日:ヴェネツィア観光
     午後 フィレンツェへバス移動(245km)
     クローチェ・ディ・マルタ宿泊 (2連泊)
5月5日:午前 フィレンツェ観光
     午後 ピサ観光
     クローチェ・ディ・マルタ宿泊 (2連泊)
5月6日:午前 フリータイム
     午後 イタリア版新幹線「イタロ」でナポリへ
     ホリディイン・ナポリ宿泊
5月7日:アマルフィ海岸ドライブ(3時間半)
     午後 ポンペイ遺跡見学
     高速船でカプリ島へ移動(45分)→フリータイム
     レジーナ・クリスティーナ宿泊
5月8日:カプリ島観光
     午後 ナポリ港着後、ローマへバスで移動
     シェラトン・ゴルフ・パルコ・デ・メディチ宿泊(2連泊)
5月9日:ローマ市内観光
     ヴァチカン博物館(1時間半)→サン・ピエトロ大聖堂
     (30分)→ランチ(日本食)→コロッセオ(外観)→
     ショッピング(マルコ・アウレリオ:40分)→
     サンタ・マリア・イン・コスメディン教会(真実の口)→
     トレビの泉~スペイン広場(徒歩)→フリータイム
     (1時間20分:サンタンドレア・デッレ・フラッテ教会→
     サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会→パンテオン外観→
     コロンナ広場)→カンツォーネ・ディナー
     シェラトン・ゴルフ・パルコ・デ・メディチ宿泊(2連泊)
5月10日:ローマ市内観光
     ナヴォーナ広場→サンタゴスティーノ教会→パンテオン
     観光後、ローマ空港へ
     アリタリア航空(AZ792便)で一路関空へ 
5月11日:関空着

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
一人あたり費用
30万円 - 50万円
交通手段
観光バス 徒歩
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)
利用旅行会社
阪急交通社
  • ローマ シェラトン・ゴルフ・パルコ・デ・メディチ<br />2日間連泊でお世話になったホテルです。ローマのテルミニ駅から直線距離で13km程の郊外にある静かな立地のホテルです。<br />このツアーのプレミアムのひとつが最終日の午前中のフリータイムなのですが、このホテルはシャトルサービスが充実しておらず、最寄の地下鉄駅(EUR MAGLIANA)までしかサービスがありません。それも9時始発ですのでフリータイムには使えません。早朝出発の場合は、タクシー利用になりますが、渋滞に巻き込まれるとテルミニ駅まで40分以上かかるそうです。テルミニ駅に行くなら、最寄り駅までタクシーを利用し、そこから地下鉄利用が時間・金銭的に有利かと思います。<br />本来、このツアーの第1候補はテルミニ駅まで6km程のホテルでしたが、同等ホテルということで変更になってしまいました。フリータイムを充実したものにするためにも、ホテルの立地やサービスについて事前のチェックは欠かせません。<br />

    ローマ シェラトン・ゴルフ・パルコ・デ・メディチ
    2日間連泊でお世話になったホテルです。ローマのテルミニ駅から直線距離で13km程の郊外にある静かな立地のホテルです。
    このツアーのプレミアムのひとつが最終日の午前中のフリータイムなのですが、このホテルはシャトルサービスが充実しておらず、最寄の地下鉄駅(EUR MAGLIANA)までしかサービスがありません。それも9時始発ですのでフリータイムには使えません。早朝出発の場合は、タクシー利用になりますが、渋滞に巻き込まれるとテルミニ駅まで40分以上かかるそうです。テルミニ駅に行くなら、最寄り駅までタクシーを利用し、そこから地下鉄利用が時間・金銭的に有利かと思います。
    本来、このツアーの第1候補はテルミニ駅まで6km程のホテルでしたが、同等ホテルということで変更になってしまいました。フリータイムを充実したものにするためにも、ホテルの立地やサービスについて事前のチェックは欠かせません。

  • ヴァチカン博物館<br />バスを降りてヴァチカン博物館入場の列に並びます。右側が予約チケットの列ですが、セキュリティ・チェックがあるためかなり並んでいます。実はホテルを出た所でバスにトラブルが発生して15分程ロスし、その後自然渋滞に巻き込まれ、結局ホテル出発から1時間強かかりました。<br />ところで列の中には、チャッカリ飲料水を売る商売人も混ざっています。<br />

    ヴァチカン博物館
    バスを降りてヴァチカン博物館入場の列に並びます。右側が予約チケットの列ですが、セキュリティ・チェックがあるためかなり並んでいます。実はホテルを出た所でバスにトラブルが発生して15分程ロスし、その後自然渋滞に巻き込まれ、結局ホテル出発から1時間強かかりました。
    ところで列の中には、チャッカリ飲料水を売る商売人も混ざっています。

  • ヴァチカン博物館<br />写真はヴァチカン博物館入口の右側にある扉です。以前はここが入口だったそうですが、出口と記されています。扉の上には彫像があり、中央にあるコテコテのピウス2世の紋章を挟んで、左がミケランジェロ、右がラファエロです。どちらもヴァチカンに多大な貢献をした人物です。<br />サン・ピエトロ大聖堂に入ってすぐ右側にあるピエタ像はミケランジェロが25歳の時に制作したもので、この作品によって彼は天才として衆目の的になりました。また、システィーナ礼拝堂の天井画や壁画の「最後の審判」も彼の手になります。 更には、大聖堂のクーポラも彼の設計です。<br />ラファエロはヴァチカン宮殿からシスティーナ礼拝堂に続く教皇の執務室の壁に絵を描くよう命じられます。それが、ラファエロの間です。<br />つまり、時を同じくして、ヴァチカンではミケランジェロとラファエロが100m程の距離を置いて世紀の大競演を繰り広げていたんですね。<br />

    ヴァチカン博物館
    写真はヴァチカン博物館入口の右側にある扉です。以前はここが入口だったそうですが、出口と記されています。扉の上には彫像があり、中央にあるコテコテのピウス2世の紋章を挟んで、左がミケランジェロ、右がラファエロです。どちらもヴァチカンに多大な貢献をした人物です。
    サン・ピエトロ大聖堂に入ってすぐ右側にあるピエタ像はミケランジェロが25歳の時に制作したもので、この作品によって彼は天才として衆目の的になりました。また、システィーナ礼拝堂の天井画や壁画の「最後の審判」も彼の手になります。 更には、大聖堂のクーポラも彼の設計です。
    ラファエロはヴァチカン宮殿からシスティーナ礼拝堂に続く教皇の執務室の壁に絵を描くよう命じられます。それが、ラファエロの間です。
    つまり、時を同じくして、ヴァチカンではミケランジェロとラファエロが100m程の距離を置いて世紀の大競演を繰り広げていたんですね。

  • ヴァチカン博物館<br />89歳で大往生したミケランジェロは貫録のあるお爺さん、37歳で亡くなったラファエロは凛々しい青年の姿で表現されています。<br /><br />レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロの巨匠達が一堂に会したのは、少なくとも2回あったそうです。1度目は、1500年代初頭のフィレンツェ。ヴェッキオ宮殿の壁画を競作するよう、レオナルドとミケランジェロに依頼がありました。そこへ翌年、一旗揚げようとやって来たのが、ラファエロ。丁度2人の下絵が公開された時期で、ラファエロはまじまじと巨匠達の筆致を見つめたに違いありません。自然観察を好むレオナルドの絵には「馬」に乗る兵士、人体表現を追求するミケランジェロの絵には筋骨隆々たる「裸体」の男が描かれていました。しかし、これらの壁画は、何らかの理由で完成に至りませんでした。<br />レオナルドは『目』の人。自然をよく観察し、目で見たものを絵画に構成しようとしました。これに対し、ミケランジェロは『目は心にある』と言い切った理想主義者。そして、この2人のいいとこ取りをしたのが、ラファエロ。彼は天性の勘の鋭さで、本来相反する2人の先輩の画風を学び、自分のものとして開花させたのです。<br />3人が再び相まみえるのは10年後のローマ。ミケランジェロは史上最大の絵画システィーナ礼拝堂の天井画を描き終え、ラファエロはヴァチカン宮殿の壁画に取り組んでいました。レオナルドは栄達を見ることなく、終焉の地フランスへと向かったのです。残った2人の性格は、間逆。求道的なミケランジェロは、弟子も持たず、孤独に作品と向き合いました。注文主との確執もあったそうです。一方、ラファエロは社交的な美男子で誰からも愛される性格。大勢の弟子を引き連れ、注文主の要求にも柔軟に応えたそうです。<br />まさに3者3様ですが、共通点が1つあります。それは3人とも、結婚をしなかったこと。レオナルドの同性愛傾向が強かったことは否めません。ミケランジェロは同性が好きというより、異性への関心がありませんでした。2人の性格は、女性を描く時のそっけなさからも見て取れます。唯一ラファエロは普通に女性好きで、多くの浮き名を流しました。しかし身を固める暇もなく、37年の短い人生を駆け抜けました。3人の業績は偉大過ぎて、全貌を捉えるのは容易ではありませんが、間違いなく言えるのは、強烈な個性を持った3人が生き抜いたルネッサンス期のイタリアが奇跡の時代だったということです。<br /><br />

    ヴァチカン博物館
    89歳で大往生したミケランジェロは貫録のあるお爺さん、37歳で亡くなったラファエロは凛々しい青年の姿で表現されています。

    レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロの巨匠達が一堂に会したのは、少なくとも2回あったそうです。1度目は、1500年代初頭のフィレンツェ。ヴェッキオ宮殿の壁画を競作するよう、レオナルドとミケランジェロに依頼がありました。そこへ翌年、一旗揚げようとやって来たのが、ラファエロ。丁度2人の下絵が公開された時期で、ラファエロはまじまじと巨匠達の筆致を見つめたに違いありません。自然観察を好むレオナルドの絵には「馬」に乗る兵士、人体表現を追求するミケランジェロの絵には筋骨隆々たる「裸体」の男が描かれていました。しかし、これらの壁画は、何らかの理由で完成に至りませんでした。
    レオナルドは『目』の人。自然をよく観察し、目で見たものを絵画に構成しようとしました。これに対し、ミケランジェロは『目は心にある』と言い切った理想主義者。そして、この2人のいいとこ取りをしたのが、ラファエロ。彼は天性の勘の鋭さで、本来相反する2人の先輩の画風を学び、自分のものとして開花させたのです。
    3人が再び相まみえるのは10年後のローマ。ミケランジェロは史上最大の絵画システィーナ礼拝堂の天井画を描き終え、ラファエロはヴァチカン宮殿の壁画に取り組んでいました。レオナルドは栄達を見ることなく、終焉の地フランスへと向かったのです。残った2人の性格は、間逆。求道的なミケランジェロは、弟子も持たず、孤独に作品と向き合いました。注文主との確執もあったそうです。一方、ラファエロは社交的な美男子で誰からも愛される性格。大勢の弟子を引き連れ、注文主の要求にも柔軟に応えたそうです。
    まさに3者3様ですが、共通点が1つあります。それは3人とも、結婚をしなかったこと。レオナルドの同性愛傾向が強かったことは否めません。ミケランジェロは同性が好きというより、異性への関心がありませんでした。2人の性格は、女性を描く時のそっけなさからも見て取れます。唯一ラファエロは普通に女性好きで、多くの浮き名を流しました。しかし身を固める暇もなく、37年の短い人生を駆け抜けました。3人の業績は偉大過ぎて、全貌を捉えるのは容易ではありませんが、間違いなく言えるのは、強烈な個性を持った3人が生き抜いたルネッサンス期のイタリアが奇跡の時代だったということです。

  • ヴァチカン博物館<br />この階段は出入口近くに据えられた二重螺旋階段で、上りと下りが別体になっており、かつ交わることがありません。ミケランジェロの設計と言われています。<br />同様の構造の二重螺旋階段がフランスのロワール地方にあるシャンボール城にもあります。こちらは、レオナルド・ダ・ヴィンチの設計です。<br /><br />列に並んでから10分程で入館。その後、トイレ・タイム(15分)があり、動き出したのは10時頃です。我々は時間がないので、二重螺旋階段の横にあるエスカレータを利用して味気なく進みます。<br />

    ヴァチカン博物館
    この階段は出入口近くに据えられた二重螺旋階段で、上りと下りが別体になっており、かつ交わることがありません。ミケランジェロの設計と言われています。
    同様の構造の二重螺旋階段がフランスのロワール地方にあるシャンボール城にもあります。こちらは、レオナルド・ダ・ヴィンチの設計です。

    列に並んでから10分程で入館。その後、トイレ・タイム(15分)があり、動き出したのは10時頃です。我々は時間がないので、二重螺旋階段の横にあるエスカレータを利用して味気なく進みます。

  • ヴァチカン博物館<br />エスカレーターが連れてきてくれた所は、2階のテラスの先にある展望台。ここからは、大聖堂のミケランジェロ設計のクーポラが大きく見えます。ここで暫し写真タイムです。<br /><br />ミケランジェロはこのクーポラの設計に当たり、「フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ(ドゥオーモ)より美しいものは造れません。その妹を造ることに尽力する」と言ったそうです。<br />

    ヴァチカン博物館
    エスカレーターが連れてきてくれた所は、2階のテラスの先にある展望台。ここからは、大聖堂のミケランジェロ設計のクーポラが大きく見えます。ここで暫し写真タイムです。

    ミケランジェロはこのクーポラの設計に当たり、「フィレンツェのサンタ・マリア・デル・フィオーレ(ドゥオーモ)より美しいものは造れません。その妹を造ることに尽力する」と言ったそうです。

  • ヴァチカン博物館<br />ピオ・クレメンティーノ美術館を左に見ながら真っ直ぐに回廊を抜けていきます。<br />なかなか雰囲気のある回廊です。

    ヴァチカン博物館
    ピオ・クレメンティーノ美術館を左に見ながら真っ直ぐに回廊を抜けていきます。
    なかなか雰囲気のある回廊です。

  • ヴァチカン博物館 球のある球体<br />中庭の中央には、目を奪うようなアルナルド・ポモドーロ作「球のある球体」が置かれています。1990年にヴァチカン博物館のために作られたもので、直径が4mあり、手動で回転もできます。<br />この作品は見る人の価値観で多様に解釈することができますが、現代社会の歪みや矛盾、環境破壊、システムの秩序の崩壊をストレートに表現しているように思えます。金色に光る大きな球体が中央部で裂け、内部に仕組まれた機械構造物が顕にされています。その内側には更に小さな球体があり、これも中央が裂けています。優美な球体の表面とグロテスクな内部は、現世の象徴的な対比となっています。地球への危機を諭し、世界平和を希求するという趣旨でしょうか?旅の終盤で回転が鈍っている頭には難解すぎます。ヴァチカン博物館の中庭という意味深な場所に置かれているだけに、ユニークかつ存在感のあるオブジェです。アルナルドは、1926年に中部イタリア ペーザロ近郊で出生。建築を学んだ後、立体造形に転じ、50〜60年代にヴェネツィア・ビエンナーレ等の国際展で受賞を重ね、30歳で国際的な名声を確立しました。箱根・彫刻の森美術館でも「球体のある球体」の別バージョンを見る事ができます。 <br />

    ヴァチカン博物館 球のある球体
    中庭の中央には、目を奪うようなアルナルド・ポモドーロ作「球のある球体」が置かれています。1990年にヴァチカン博物館のために作られたもので、直径が4mあり、手動で回転もできます。
    この作品は見る人の価値観で多様に解釈することができますが、現代社会の歪みや矛盾、環境破壊、システムの秩序の崩壊をストレートに表現しているように思えます。金色に光る大きな球体が中央部で裂け、内部に仕組まれた機械構造物が顕にされています。その内側には更に小さな球体があり、これも中央が裂けています。優美な球体の表面とグロテスクな内部は、現世の象徴的な対比となっています。地球への危機を諭し、世界平和を希求するという趣旨でしょうか?旅の終盤で回転が鈍っている頭には難解すぎます。ヴァチカン博物館の中庭という意味深な場所に置かれているだけに、ユニークかつ存在感のあるオブジェです。アルナルドは、1926年に中部イタリア ペーザロ近郊で出生。建築を学んだ後、立体造形に転じ、50〜60年代にヴェネツィア・ビエンナーレ等の国際展で受賞を重ね、30歳で国際的な名声を確立しました。箱根・彫刻の森美術館でも「球体のある球体」の別バージョンを見る事ができます。

  • ヴァチカン博物館 ピーニャの中庭 <br />ブラマンテが構想した「ベルヴェデーレの中庭」のテラスです。ブロンズ製松ぼっくり(ピーニャ)は、1〜2世紀に造られたローマ時代の噴水であり、ローマ帝国の繁栄のシンボルでした。8世紀末から旧サン・ピエトロ大聖堂の前庭に置かれ、現大聖堂ができてからこの場所に移されました。かつては、カンポ・マルツィオ地区のピーニャと呼ばれる競技場にあり、中庭の名の由来となっています。

    ヴァチカン博物館 ピーニャの中庭
    ブラマンテが構想した「ベルヴェデーレの中庭」のテラスです。ブロンズ製松ぼっくり(ピーニャ)は、1〜2世紀に造られたローマ時代の噴水であり、ローマ帝国の繁栄のシンボルでした。8世紀末から旧サン・ピエトロ大聖堂の前庭に置かれ、現大聖堂ができてからこの場所に移されました。かつては、カンポ・マルツィオ地区のピーニャと呼ばれる競技場にあり、中庭の名の由来となっています。

  • ヴァチカン博物館 ピーニャの中庭<br />左右に配されたブロンズ鍍金の孔雀は、ハドリアヌス帝が139年に建設した霊廟サンタンジェロ城にあったもののコピー。宇宙の不滅の象徴とされています。オリジナルは「ブラッチョ・ヌーヴォ」と呼ばれる新館にあります。様々な遺跡からの寄せ集め品ですが、不思議に調和のとれたモニュメントに仕上がっています。<br /><br />

    ヴァチカン博物館 ピーニャの中庭
    左右に配されたブロンズ鍍金の孔雀は、ハドリアヌス帝が139年に建設した霊廟サンタンジェロ城にあったもののコピー。宇宙の不滅の象徴とされています。オリジナルは「ブラッチョ・ヌーヴォ」と呼ばれる新館にあります。様々な遺跡からの寄せ集め品ですが、不思議に調和のとれたモニュメントに仕上がっています。

  • ヴァチカン博物館 ピーニャの中庭<br />噴水の左右に佇む花崗岩製の2頭のライオン像は、紀元前4世紀エジプト第30王朝時代(ネクタネボ1世)の作品で、ローマ、カンポ・マルツィオ地区にあった「イシスとセラピスの神殿」から発掘された像です。ピーニャの中庭の主役、「松ぼっくり」よりも更に数百年古く、風格を感じさせます。台座には、エジプト象形文字のヒエログリフが彫られています。<br /><br /><br />

    ヴァチカン博物館 ピーニャの中庭
    噴水の左右に佇む花崗岩製の2頭のライオン像は、紀元前4世紀エジプト第30王朝時代(ネクタネボ1世)の作品で、ローマ、カンポ・マルツィオ地区にあった「イシスとセラピスの神殿」から発掘された像です。ピーニャの中庭の主役、「松ぼっくり」よりも更に数百年古く、風格を感じさせます。台座には、エジプト象形文字のヒエログリフが彫られています。


  • ヴァチカン博物館 ピーニャの中庭<br />両側にある階段は、手摺も含めてミケランジェロが造ったものです。<br /><br />ヴァチカン博物館で最も有名なシスティーナ礼拝堂では、写真撮影とガイドさんによる案内が禁じられています。それでピーニャの中庭にてシスティーナ礼拝堂や壁画の説明を受けるのですが、現地ガイドさんが造詣の深い方で、写真撮影タイムを含めて40分強を費やしました。ツアーでは現地ガイドさんのさじ加減や価値観で期待が外れることも稀にあります。今回のガイドさんは、楽しみにしていた古代ローマの彫像があるピオ・クレメンティーノ美術館やラファエロの間を完全にスキップしてしまい、残念でした。事前に分かっていれば、個人的にピオ・クレメンティーノ美術館を回ることもできたのですが…。<br />

    ヴァチカン博物館 ピーニャの中庭
    両側にある階段は、手摺も含めてミケランジェロが造ったものです。

    ヴァチカン博物館で最も有名なシスティーナ礼拝堂では、写真撮影とガイドさんによる案内が禁じられています。それでピーニャの中庭にてシスティーナ礼拝堂や壁画の説明を受けるのですが、現地ガイドさんが造詣の深い方で、写真撮影タイムを含めて40分強を費やしました。ツアーでは現地ガイドさんのさじ加減や価値観で期待が外れることも稀にあります。今回のガイドさんは、楽しみにしていた古代ローマの彫像があるピオ・クレメンティーノ美術館やラファエロの間を完全にスキップしてしまい、残念でした。事前に分かっていれば、個人的にピオ・クレメンティーノ美術館を回ることもできたのですが…。

  • ヴァチカン博物館 <br />無常にもガイドさんは振り向く気配も見せずに3階への階段をそそくさと上っていきます。この写真は、未練がましく通路から激写したピオ・クレメンティーノ美術館の円形の間にある「ヘラクレス像」です。<br /><br />金色のブロンズ像は、1864年にカンポ・デ・フィオーリ近くで発見されたものです。若かりし頃のヘラクレスで、棍棒に寄りかかり、ネメアの獅子の皮を腕に巻き、ヘスペリデスのリンゴを左手に持っています。紀元前390〜370年の作品だそうです。<br /><br />「ヘラクレスの12の功業」の最初の難業は「ネメアの森の人食い獅子退治」でした。この獅子は、巨大で皮膚は鉄よりも硬い不死身の獅子。彼は岩陰に隠れて待ち伏せ、アポロンから贈られた矢を放ちますが、2本とも跳ね返り、3本目を射ようとした時、獅子が猛然と襲い掛かってきました。彼は棍棒で殴りましたが、棍棒は真っ2つに折れてしまいました。獅子は2つ穴のある洞穴に逃げ込み、彼は片方の穴を塞ぎ、もう一方の穴から入って無双の腕力で3日3晩獅子の首を絞めて窒息死させました。彼は、ライオンの爪を使って剣をも通さない毛皮を剥いで肩に掛け、棍棒を作り直して一生肌身離さず持ち歩き、自らを火葬した時もこの棍棒を枕にして獅子の皮で身を覆ったといいます。ヘラクレスと獅子の格闘を見ていたゼウスは、この獅子をかわいそうに思い、天空に上げて獅子座にしました。<br /><br />「ヘスペリデスのリンゴ」とは、農薬も肥料を使わず、世界で始めて自然栽培でリンゴ栽培に成功した木村秋則さんの「奇跡のリンゴ」のことではありません。ギリシャ神話のお話です。<br />「ヘラクレスの12の功業」の11番目の難事は、ヘスペリデスの守る黄金のリンゴを取ってくることでした。ヘスペリデスは西の彼方に棲む乙女たちで、ガイアがゼウスとヘラの結婚祝いに贈った不死を得られる黄金のリンゴの木を守っていました。果樹園には百の頭を持つ不眠のドラゴン「ラドン」が放たれ、見張りをさせました。ヘラクレスは見事にラドン倒し、黄金のリンゴを手に入れました。そして、ラドンは天空に上げられ、竜座になりました。ヘラクレスはリンゴを持ち帰ってエウリュステウスに渡しますが、そのリンゴはどこにも置いてはいけないと自然の法律で決まっていたため、処分に困ったエウリュステウスはヘラクレスに返してしまいました。彼はそのリンゴをアテナに献上し、元の場所に戻してもらったそうです。 <br /><br />

    ヴァチカン博物館 
    無常にもガイドさんは振り向く気配も見せずに3階への階段をそそくさと上っていきます。この写真は、未練がましく通路から激写したピオ・クレメンティーノ美術館の円形の間にある「ヘラクレス像」です。

    金色のブロンズ像は、1864年にカンポ・デ・フィオーリ近くで発見されたものです。若かりし頃のヘラクレスで、棍棒に寄りかかり、ネメアの獅子の皮を腕に巻き、ヘスペリデスのリンゴを左手に持っています。紀元前390〜370年の作品だそうです。

    「ヘラクレスの12の功業」の最初の難業は「ネメアの森の人食い獅子退治」でした。この獅子は、巨大で皮膚は鉄よりも硬い不死身の獅子。彼は岩陰に隠れて待ち伏せ、アポロンから贈られた矢を放ちますが、2本とも跳ね返り、3本目を射ようとした時、獅子が猛然と襲い掛かってきました。彼は棍棒で殴りましたが、棍棒は真っ2つに折れてしまいました。獅子は2つ穴のある洞穴に逃げ込み、彼は片方の穴を塞ぎ、もう一方の穴から入って無双の腕力で3日3晩獅子の首を絞めて窒息死させました。彼は、ライオンの爪を使って剣をも通さない毛皮を剥いで肩に掛け、棍棒を作り直して一生肌身離さず持ち歩き、自らを火葬した時もこの棍棒を枕にして獅子の皮で身を覆ったといいます。ヘラクレスと獅子の格闘を見ていたゼウスは、この獅子をかわいそうに思い、天空に上げて獅子座にしました。

    「ヘスペリデスのリンゴ」とは、農薬も肥料を使わず、世界で始めて自然栽培でリンゴ栽培に成功した木村秋則さんの「奇跡のリンゴ」のことではありません。ギリシャ神話のお話です。
    「ヘラクレスの12の功業」の11番目の難事は、ヘスペリデスの守る黄金のリンゴを取ってくることでした。ヘスペリデスは西の彼方に棲む乙女たちで、ガイアがゼウスとヘラの結婚祝いに贈った不死を得られる黄金のリンゴの木を守っていました。果樹園には百の頭を持つ不眠のドラゴン「ラドン」が放たれ、見張りをさせました。ヘラクレスは見事にラドン倒し、黄金のリンゴを手に入れました。そして、ラドンは天空に上げられ、竜座になりました。ヘラクレスはリンゴを持ち帰ってエウリュステウスに渡しますが、そのリンゴはどこにも置いてはいけないと自然の法律で決まっていたため、処分に困ったエウリュステウスはヘラクレスに返してしまいました。彼はそのリンゴをアテナに献上し、元の場所に戻してもらったそうです。

  • ピオ・クレメンティーノ美術館のマップです。<br /><br />こちらはヴァチカン博物館の公式サイトです。<br />http://mv.vatican.va/3_EN/pages/MV_Visite.html<br />

    ピオ・クレメンティーノ美術館のマップです。

    こちらはヴァチカン博物館の公式サイトです。
    http://mv.vatican.va/3_EN/pages/MV_Visite.html

  • ヴァチカン博物館<br />3階へ続く階段ですが、豪華絢爛です。<br />

    ヴァチカン博物館
    3階へ続く階段ですが、豪華絢爛です。

  • ヴァチカン博物館 燭台のギャラリー<br />鑑賞コースは、ピーガの間〜燭台のギャラリー〜タペストリーのギャラリー〜地図のギャラリー〜システィーナ礼拝堂〜サン・ピエトロ大聖堂と北から南に進み、最後がサン・ピエトロ広場。時間の関係でラファエロの間までショートカットになりました。<br /><br />置かれている燭台よりも天井に描かれた絵画や装飾がとてもきれいで、目移りしてしまいます。<br /><br />

    ヴァチカン博物館 燭台のギャラリー
    鑑賞コースは、ピーガの間〜燭台のギャラリー〜タペストリーのギャラリー〜地図のギャラリー〜システィーナ礼拝堂〜サン・ピエトロ大聖堂と北から南に進み、最後がサン・ピエトロ広場。時間の関係でラファエロの間までショートカットになりました。

    置かれている燭台よりも天井に描かれた絵画や装飾がとてもきれいで、目移りしてしまいます。

  • ヴァチカン博物館 燭台のギャラリー<br />長い廊下の所々にアーチのある仕切り壁があり、仕切り壁の両側に燭台が置かれていることから「燭台のギャラリー」と名付けられています。<br />ここには2〜3世紀の彫刻が廊下の両側に陳列されていました。しかし、ガイドさんが先を急ぐのでじっくり鑑賞する時間はありません。<br /><br />写真の石像は、古代ギリシャ神話に登場するゼウスの娘でアポロの姉の女神アルテミスです。元は純潔の女神だったアルテミスが、ペルシャ方面へ伝わるに従って自然信仰と融合し、乳房が沢山ある豊穣の女神の姿に変化していったそうです。乳房の下にはヤギなど数種類の動物が刻まれていました。

    ヴァチカン博物館 燭台のギャラリー
    長い廊下の所々にアーチのある仕切り壁があり、仕切り壁の両側に燭台が置かれていることから「燭台のギャラリー」と名付けられています。
    ここには2〜3世紀の彫刻が廊下の両側に陳列されていました。しかし、ガイドさんが先を急ぐのでじっくり鑑賞する時間はありません。

    写真の石像は、古代ギリシャ神話に登場するゼウスの娘でアポロの姉の女神アルテミスです。元は純潔の女神だったアルテミスが、ペルシャ方面へ伝わるに従って自然信仰と融合し、乳房が沢山ある豊穣の女神の姿に変化していったそうです。乳房の下にはヤギなど数種類の動物が刻まれていました。

  • ヴァチカン博物館 タペストリーのギャラリー<br />燭台のギャラリーからタペストリーのギャラリーへと続きます。こちらは少々薄暗く、壁面いっぱいにタペストリーが掛けてあります。教皇レオ10世時代のブリュッセル産のタペストリーとクレメンス7世時代のフランドル製のものです。元々は、システィーナ礼拝堂の下部壁面に掛けるために制作されたものだそうです。素材はシルクとウールで出来ています。<br /><br />天井には所々ひび割れが走り、補修した跡が帯状に黒ずんで見えます。ヴァチカンには計り知れない数の美術品があり、補修費用も膨大なものと思われます

    ヴァチカン博物館 タペストリーのギャラリー
    燭台のギャラリーからタペストリーのギャラリーへと続きます。こちらは少々薄暗く、壁面いっぱいにタペストリーが掛けてあります。教皇レオ10世時代のブリュッセル産のタペストリーとクレメンス7世時代のフランドル製のものです。元々は、システィーナ礼拝堂の下部壁面に掛けるために制作されたものだそうです。素材はシルクとウールで出来ています。

    天井には所々ひび割れが走り、補修した跡が帯状に黒ずんで見えます。ヴァチカンには計り知れない数の美術品があり、補修費用も膨大なものと思われます

  • ヴァチカン博物館 タペストリーのギャラリー<br />この天井は、大理石に着色して立体感を際立たせているように見えますが、実はトリック彫刻です。<br />つまり、一種の騙し絵ですが、光の加減もあり3Dのようにしか見えません。巨大なカメオを見ているようです。これらの絵は、彩色によらず、凹凸による陰影で立体感を表現する「キアロスクーロ(単彩明暗画)」の技法だそうです。<br /><br />

    ヴァチカン博物館 タペストリーのギャラリー
    この天井は、大理石に着色して立体感を際立たせているように見えますが、実はトリック彫刻です。
    つまり、一種の騙し絵ですが、光の加減もあり3Dのようにしか見えません。巨大なカメオを見ているようです。これらの絵は、彩色によらず、凹凸による陰影で立体感を表現する「キアロスクーロ(単彩明暗画)」の技法だそうです。

  • ヴァチカン博物館 タペストリーのギャラリー<br />人だかりができて人気のあるタペストリーです。絵柄を見るとイエスらしき人物が中央に見えます。右脇腹に聖痕があるので「イエスの復活」のシーンと思われます。クリスチャンにとって一番大切な祝祭は「イースター=復活祭」。何故なら、復活は、イエスが「神の子」という完璧な証拠だからに他なりません。イエスの使徒たちですら、イエスの復活によって布教に目覚めたくらいですから。我々がヒーローの出現を求めるのと同じ感覚なのかもしれません。<br /><br />帰国後調べてみると、これはラファエロ派の下絵をブリュッセルの工房で織り上げた作品だそうです。ラファエロ人気だったのかイエス復活人気だったのか気になるところです。<br /><br />

    ヴァチカン博物館 タペストリーのギャラリー
    人だかりができて人気のあるタペストリーです。絵柄を見るとイエスらしき人物が中央に見えます。右脇腹に聖痕があるので「イエスの復活」のシーンと思われます。クリスチャンにとって一番大切な祝祭は「イースター=復活祭」。何故なら、復活は、イエスが「神の子」という完璧な証拠だからに他なりません。イエスの使徒たちですら、イエスの復活によって布教に目覚めたくらいですから。我々がヒーローの出現を求めるのと同じ感覚なのかもしれません。

    帰国後調べてみると、これはラファエロ派の下絵をブリュッセルの工房で織り上げた作品だそうです。ラファエロ人気だったのかイエス復活人気だったのか気になるところです。

  • ヴァチカン博物館 地図のギャラリー<br />薄暗いタペストリーのギャラリーから一変、絢爛豪華な空間に驚かされます。長さは120m程あるそうです。両側の壁には、1580年頃にグレゴリウス13世が天文学者イニャーツィオ・ダンティの下書きを基に描かせたフレスコ画のイタリアやその周辺の地図が40枚ほど掲げられています。<br />天井に向けて照明を投射しているせいもあり、光輝いています。マニエリズムの典型と称されるストゥッコ(漆喰)とフレスコ画が、隙間なくびっしりと装飾されています。

    ヴァチカン博物館 地図のギャラリー
    薄暗いタペストリーのギャラリーから一変、絢爛豪華な空間に驚かされます。長さは120m程あるそうです。両側の壁には、1580年頃にグレゴリウス13世が天文学者イニャーツィオ・ダンティの下書きを基に描かせたフレスコ画のイタリアやその周辺の地図が40枚ほど掲げられています。
    天井に向けて照明を投射しているせいもあり、光輝いています。マニエリズムの典型と称されるストゥッコ(漆喰)とフレスコ画が、隙間なくびっしりと装飾されています。

  • ヴァチカン博物館 地図のギャラリー<br />ほとんどがイタリア領土の地図で、「我々ローマの領土支配はこんなに広い」というアピールだそうです。<br />地図を漫然と見ていてもよく判りませんので、海上に描かれた船や動物の絵にフォーカスして観ていくことにします。しかし、いきなり鯱なのかドラゴンなのか、得体のしれない獰猛な生き物が描かれていて焦りますが、これは「イルカ」のようです。<br /><br />イルカはギリシャ神話では神聖な動物とされ、幸運を運ぶ使者とされていました。これは、 船人たちに航海の季節を教えたのと海の神ポセイドンの使いであると信じられていたからです。また、イルカが音楽好きだと言う話は学者の間でも有名です。<br />いるか座は、ギリシャの楽人アリオンの伝説が基になっています。ある時、シチリア島で音楽コンクールがあり、ギリシャ全土の楽人や詩人が一同に集まりました。この時、アリオンもコリントス王のお供をしてその島に渡り、見事に優勝し、沢山の賞金を手にしました。そして、生まれ故郷のレスポンス島に立ち寄ろうと舟に乗り込みました。しかし、出港するやいなや、荒くれた水夫たちが取り囲み、船長は賞金の入った袋を奪った上、海に飛び込むように脅しました。アリオンは、明日はない命と悟り、楽人らしく最期を飾ろうと紫の衣を身に着けて花輪をいただいて船縁に立ちました。そしてリュートを弾きながら辞世の歌を歌い始めました。するとどこからともなく沢山のイルカが船の周りに集まり、アリオンの歌に聞き惚れていました。歌い終わるとアリオンは潔く海に身を投げました。そこをすかさず大きなイルカが背中に受け止め、陸に向かって泳ぎ出し、その後を多くのイルカたちが続きました。こうして無事に岬まで送り届けられ、コリントスの王宮に辿り着くことができました。やがて、遅れて帰ってきた船長と水夫たちは、悪事が発覚し、厳しい罰を受け、アリオンの名声はより一層高まったということです。イルカはこのことにより、夏の星座になったそうです。

    ヴァチカン博物館 地図のギャラリー
    ほとんどがイタリア領土の地図で、「我々ローマの領土支配はこんなに広い」というアピールだそうです。
    地図を漫然と見ていてもよく判りませんので、海上に描かれた船や動物の絵にフォーカスして観ていくことにします。しかし、いきなり鯱なのかドラゴンなのか、得体のしれない獰猛な生き物が描かれていて焦りますが、これは「イルカ」のようです。

    イルカはギリシャ神話では神聖な動物とされ、幸運を運ぶ使者とされていました。これは、 船人たちに航海の季節を教えたのと海の神ポセイドンの使いであると信じられていたからです。また、イルカが音楽好きだと言う話は学者の間でも有名です。
    いるか座は、ギリシャの楽人アリオンの伝説が基になっています。ある時、シチリア島で音楽コンクールがあり、ギリシャ全土の楽人や詩人が一同に集まりました。この時、アリオンもコリントス王のお供をしてその島に渡り、見事に優勝し、沢山の賞金を手にしました。そして、生まれ故郷のレスポンス島に立ち寄ろうと舟に乗り込みました。しかし、出港するやいなや、荒くれた水夫たちが取り囲み、船長は賞金の入った袋を奪った上、海に飛び込むように脅しました。アリオンは、明日はない命と悟り、楽人らしく最期を飾ろうと紫の衣を身に着けて花輪をいただいて船縁に立ちました。そしてリュートを弾きながら辞世の歌を歌い始めました。するとどこからともなく沢山のイルカが船の周りに集まり、アリオンの歌に聞き惚れていました。歌い終わるとアリオンは潔く海に身を投げました。そこをすかさず大きなイルカが背中に受け止め、陸に向かって泳ぎ出し、その後を多くのイルカたちが続きました。こうして無事に岬まで送り届けられ、コリントスの王宮に辿り着くことができました。やがて、遅れて帰ってきた船長と水夫たちは、悪事が発覚し、厳しい罰を受け、アリオンの名声はより一層高まったということです。イルカはこのことにより、夏の星座になったそうです。

  • ヴァチカン博物館 地図のギャラリー<br />絵で何かを伝えようとしているのでしょうが、図像を解けるような知識がないので解説はできません。あしからず!<br />左右25人ずつの漕ぎ手によって動かす五十櫂船という軍船にしては、漕ぎ手の数が少ないようです。

    ヴァチカン博物館 地図のギャラリー
    絵で何かを伝えようとしているのでしょうが、図像を解けるような知識がないので解説はできません。あしからず!
    左右25人ずつの漕ぎ手によって動かす五十櫂船という軍船にしては、漕ぎ手の数が少ないようです。

  • ヴァチカン博物館 地図のギャラリー<br />右の海馬の牽く凱旋車に乗った御仁は、手に三叉のホコを持っているので海神ポセイドン(ネプチューン)です。また、ホコを下に向けているので、海が荒れ、波が渦巻いています。海馬を先導しているのは、息子のトリトン(トリトーネ)。ホラ貝を吹いて勢い付けています。

    ヴァチカン博物館 地図のギャラリー
    右の海馬の牽く凱旋車に乗った御仁は、手に三叉のホコを持っているので海神ポセイドン(ネプチューン)です。また、ホコを下に向けているので、海が荒れ、波が渦巻いています。海馬を先導しているのは、息子のトリトン(トリトーネ)。ホラ貝を吹いて勢い付けています。

  • ヴァチカン博物館 地図のギャラリー<br />豪華な丸天井が続く長い廊下の最後の壁の上に華麗な装飾があります。2人の戦士が紋章を挟んで向き合い、紋章には翼のあるドラゴンが描かれています。この紋章は教皇グレゴリウス13世のもので、代々の教皇にはそれぞれのデザインの紋章が定められていたようです。ドラゴンの紋章の上には、バチカンの国旗・国章にも見られる教皇の冠と、「天国の鍵」とされる二つの鍵があります。「天国の鍵」は、イエスがペテロに授けたとされるもので、聖・俗の支配権を意味します。<br />グレゴリウス13世の紋章の下に、もうひとつ紋章が見えます。3匹の蜜蜂と言えばバルベリーニ家の紋章。バルベリーニ家出身のウルバヌス8世もこのギャラリーに関与したのですね。それにしても、皆さん自己主張が強いですね。

    ヴァチカン博物館 地図のギャラリー
    豪華な丸天井が続く長い廊下の最後の壁の上に華麗な装飾があります。2人の戦士が紋章を挟んで向き合い、紋章には翼のあるドラゴンが描かれています。この紋章は教皇グレゴリウス13世のもので、代々の教皇にはそれぞれのデザインの紋章が定められていたようです。ドラゴンの紋章の上には、バチカンの国旗・国章にも見られる教皇の冠と、「天国の鍵」とされる二つの鍵があります。「天国の鍵」は、イエスがペテロに授けたとされるもので、聖・俗の支配権を意味します。
    グレゴリウス13世の紋章の下に、もうひとつ紋章が見えます。3匹の蜜蜂と言えばバルベリーニ家の紋章。バルベリーニ家出身のウルバヌス8世もこのギャラリーに関与したのですね。それにしても、皆さん自己主張が強いですね。

  • ヴァチカン博物館<br />地図のギャラリーを左折してすぐの所にある部屋のクーポラ画です。ヴァチカン博物館のサイトでは特に記されていませんが、色彩の美しさに目を奪われます。<br /><br />本来はこの先に「ラファエロの間」が待っているはずなのですが、ガイドさんは無常にもシスティーナ礼拝堂へ向かうのでした。ヴァチカン博物館の鑑賞時間90分のうち40分を写真タイムやシスティーナ礼拝堂の絵画の説明に費やしたのですから、当然の成り行きですね。旅行アンケートでは、このガイドさんの評価はXにしておきました。日本人ツーリストを舐めているような節がありましたので…。

    ヴァチカン博物館
    地図のギャラリーを左折してすぐの所にある部屋のクーポラ画です。ヴァチカン博物館のサイトでは特に記されていませんが、色彩の美しさに目を奪われます。

    本来はこの先に「ラファエロの間」が待っているはずなのですが、ガイドさんは無常にもシスティーナ礼拝堂へ向かうのでした。ヴァチカン博物館の鑑賞時間90分のうち40分を写真タイムやシスティーナ礼拝堂の絵画の説明に費やしたのですから、当然の成り行きですね。旅行アンケートでは、このガイドさんの評価はXにしておきました。日本人ツーリストを舐めているような節がありましたので…。

  • ヴァチカン博物館 システィーナ礼拝堂 天井画<br />いよいよ天井画と最後の審判にご対面です。因みに、2012年でシスティーナ礼拝堂の天井画が完成して500年だそうです。<br />礼拝堂の建造はシクストゥス4世発願により、1481年に完成。奥行き40.3m、幅13.4m、高さ20.7mあり、その大きさは、ローマ人に破壊されたエルサレムのソロモン神殿と同じだそうです。教皇を選出する厳粛なコンクラーベの会場でもあります。建造当初、ボッティチェッリら初期ルネッサンスの画家が旧約聖書のエピソードを側壁に描きました。1506年、ユリウス2世がミケランジェロに天井画の制作を命じますが、彼は絵を描くことを好まず、弟子に任せきりでした。しかし、弟子の仕事が気に入らず、結局は自ら作業しました。当時35歳で猫背の彼に仰向けの作業は過酷で、手紙に「首が痛い。絵の具が目に入る」などと絵入りで苦情を書き連ねたそうです。彼が後に失明に至ったのは、天井から流れ落ちる絵の具のせいだと言われています。こうして1512年に完成した天井画は、旧約聖書『創世記』の9場面を描いたもので、天地創造、楽園追放、大洪水などで構成されています。ルネッサンスの金字塔と讃えられる天井画で最も有名なのが「アダムの創造」。神とアダムの指が触れ合おうとする印象的なシーンは、映画「E.T」にも引用されています。<br /><br />天井画の画像をお借りしたサイトです。<br />http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2e/Sistine_Chapel_ceiling_photo_2.jpg<br />

    ヴァチカン博物館 システィーナ礼拝堂 天井画
    いよいよ天井画と最後の審判にご対面です。因みに、2012年でシスティーナ礼拝堂の天井画が完成して500年だそうです。
    礼拝堂の建造はシクストゥス4世発願により、1481年に完成。奥行き40.3m、幅13.4m、高さ20.7mあり、その大きさは、ローマ人に破壊されたエルサレムのソロモン神殿と同じだそうです。教皇を選出する厳粛なコンクラーベの会場でもあります。建造当初、ボッティチェッリら初期ルネッサンスの画家が旧約聖書のエピソードを側壁に描きました。1506年、ユリウス2世がミケランジェロに天井画の制作を命じますが、彼は絵を描くことを好まず、弟子に任せきりでした。しかし、弟子の仕事が気に入らず、結局は自ら作業しました。当時35歳で猫背の彼に仰向けの作業は過酷で、手紙に「首が痛い。絵の具が目に入る」などと絵入りで苦情を書き連ねたそうです。彼が後に失明に至ったのは、天井から流れ落ちる絵の具のせいだと言われています。こうして1512年に完成した天井画は、旧約聖書『創世記』の9場面を描いたもので、天地創造、楽園追放、大洪水などで構成されています。ルネッサンスの金字塔と讃えられる天井画で最も有名なのが「アダムの創造」。神とアダムの指が触れ合おうとする印象的なシーンは、映画「E.T」にも引用されています。

    天井画の画像をお借りしたサイトです。
    http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/2/2e/Sistine_Chapel_ceiling_photo_2.jpg

  • ヴァチカン博物館 システィーナ礼拝堂 最後の審判<br />天井画完成の20年後、クレメンス7世発願で祭壇の背面に壁画が描かれることになりました。パウルス3世がミケランジェロに依頼し、1535〜1541年にかけて制作されました。226平方mを覆う巨大な『最後の審判』は、新約聖書にあるこの世の終末を描いたもので、中央にイエスと聖母マリアが座しています。神を信じ正しい行いをした者は天国に昇り、悪人は地獄に突き落とされます。つまり、「マタイの福音書」の記述をリアルに描写した作品です。 イエスはここでは審判者として描かれ、その傍らに寄り添う聖母マリアは周囲の渦から目を背け、憂愁の表情を浮かべています。イエスの右下には、生皮を剥がれた聖バルトロメオ。左手に持つ抜け殻の顔は、ミケランジェロの自虐的な自画像だそうです。壁画の上方には天使たちの姿が描かれる一方、最下層には地獄へ堕ちる者と天国へと救い出される者。後者には黒人(左端)も描かれており、ミケランジェロ独自の世界観が窺えます。そして、右下の岩が地獄の入口。そこに立つのが地獄の審判者ミノス。彼は大蛇に巻き付かれ、その鎌首は急所に噛みついています。ミノスの顔は、当時ヴァチカン式部官だったビアージョの肖像です。彼が裸体描写を酷評したため、ミケランジェロが鬱憤晴らしをしたのだそうです。しかし、あまりにも多くの裸体が描かれているため、パウルス3世逝去後、下腹部を隠す腰布が描き足されたそうです。<br />因みに、イエスの位置でビルの4〜5階に相当する高さだそうです。<br />1980年から日本テレビ放送網の資金提供で修復と洗浄作業が開始され、制作当時の鮮やかな色彩が蘇りました。それまでは蝋燭の煤でくすみ、「ミケランジェロは色彩に関心のない芸術家」だと評されていましたが、この修復作業はその説を覆すものとなったそうです。また、書き加えられた腰巻も16世紀に加筆された部分を除き復元されています。監視員が眼光鋭く見据え、カメラを向ける者、座り込む者、お喋りする者に注意します。ガイドさん曰く、「日本テレビ放送網が壁画の著作権を所有するため、撮影は禁止されています」。日本人としては、肩身が狭いというか、複雑な心境になります。もっとも、絵を保護するために照明が落とされていますので、見られる写真にはならないでしょうね。<br />観賞時間は10分程でした。<br /><br />最後の審判の画像をお借りしたサイトです。<br />http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8e/Michelangelo_-_Fresco_of_the_Last_Judgement.jpg<br />

    ヴァチカン博物館 システィーナ礼拝堂 最後の審判
    天井画完成の20年後、クレメンス7世発願で祭壇の背面に壁画が描かれることになりました。パウルス3世がミケランジェロに依頼し、1535〜1541年にかけて制作されました。226平方mを覆う巨大な『最後の審判』は、新約聖書にあるこの世の終末を描いたもので、中央にイエスと聖母マリアが座しています。神を信じ正しい行いをした者は天国に昇り、悪人は地獄に突き落とされます。つまり、「マタイの福音書」の記述をリアルに描写した作品です。 イエスはここでは審判者として描かれ、その傍らに寄り添う聖母マリアは周囲の渦から目を背け、憂愁の表情を浮かべています。イエスの右下には、生皮を剥がれた聖バルトロメオ。左手に持つ抜け殻の顔は、ミケランジェロの自虐的な自画像だそうです。壁画の上方には天使たちの姿が描かれる一方、最下層には地獄へ堕ちる者と天国へと救い出される者。後者には黒人(左端)も描かれており、ミケランジェロ独自の世界観が窺えます。そして、右下の岩が地獄の入口。そこに立つのが地獄の審判者ミノス。彼は大蛇に巻き付かれ、その鎌首は急所に噛みついています。ミノスの顔は、当時ヴァチカン式部官だったビアージョの肖像です。彼が裸体描写を酷評したため、ミケランジェロが鬱憤晴らしをしたのだそうです。しかし、あまりにも多くの裸体が描かれているため、パウルス3世逝去後、下腹部を隠す腰布が描き足されたそうです。
    因みに、イエスの位置でビルの4〜5階に相当する高さだそうです。
    1980年から日本テレビ放送網の資金提供で修復と洗浄作業が開始され、制作当時の鮮やかな色彩が蘇りました。それまでは蝋燭の煤でくすみ、「ミケランジェロは色彩に関心のない芸術家」だと評されていましたが、この修復作業はその説を覆すものとなったそうです。また、書き加えられた腰巻も16世紀に加筆された部分を除き復元されています。監視員が眼光鋭く見据え、カメラを向ける者、座り込む者、お喋りする者に注意します。ガイドさん曰く、「日本テレビ放送網が壁画の著作権を所有するため、撮影は禁止されています」。日本人としては、肩身が狭いというか、複雑な心境になります。もっとも、絵を保護するために照明が落とされていますので、見られる写真にはならないでしょうね。
    観賞時間は10分程でした。

    最後の審判の画像をお借りしたサイトです。
    http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/8e/Michelangelo_-_Fresco_of_the_Last_Judgement.jpg

  • ヴァチカン博物館 システィーナ礼拝堂からの階段<br />システィーナ礼拝堂の右奥から大聖堂領域へショートカットできます。この礼拝堂の出口兼サン・ピエトロ大聖堂入口は、セキュリティチェックが不要なので時間短縮ができます。<br />ヴァチカン大聖堂へのプロローグとしては雰囲気満点の静謐で荘厳な階段です。照度が落とされた分、より厳粛な気持ちになり、自然に背筋が伸びます。<br /><br />今年3月13日、システィーナ礼拝堂で行われた5回目のコンクラーベで第266代ローマ教皇にアルゼンチン出身のブエノスアイレス大司教ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿が選出されました。教皇名はフランシスコ。カトリック修道会のフランシスコ会の創設者で、清貧の聖人と讃えられたアッシジの聖フランシスコに由来します。中南米出身者が教皇に就くのは初めてで、欧州以外から選ばれたのはシリア出身グレゴリオ3世以来約1300年ぶりです。本命不在と言われていましたが、中南米の信者数が5億人を超え、全体の半数に迫る存在が影響したそうです。就任式典では、「思いやりの心を持ち、社会で忘れられがちな子供、老人、貧しい人々を守らなければならない」と訴えると共に戦争のない平和な世界の実現を呼び掛けました。<br />

    ヴァチカン博物館 システィーナ礼拝堂からの階段
    システィーナ礼拝堂の右奥から大聖堂領域へショートカットできます。この礼拝堂の出口兼サン・ピエトロ大聖堂入口は、セキュリティチェックが不要なので時間短縮ができます。
    ヴァチカン大聖堂へのプロローグとしては雰囲気満点の静謐で荘厳な階段です。照度が落とされた分、より厳粛な気持ちになり、自然に背筋が伸びます。

    今年3月13日、システィーナ礼拝堂で行われた5回目のコンクラーベで第266代ローマ教皇にアルゼンチン出身のブエノスアイレス大司教ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ枢機卿が選出されました。教皇名はフランシスコ。カトリック修道会のフランシスコ会の創設者で、清貧の聖人と讃えられたアッシジの聖フランシスコに由来します。中南米出身者が教皇に就くのは初めてで、欧州以外から選ばれたのはシリア出身グレゴリオ3世以来約1300年ぶりです。本命不在と言われていましたが、中南米の信者数が5億人を超え、全体の半数に迫る存在が影響したそうです。就任式典では、「思いやりの心を持ち、社会で忘れられがちな子供、老人、貧しい人々を守らなければならない」と訴えると共に戦争のない平和な世界の実現を呼び掛けました。

  • サン・ピエトロ大聖堂<br />大聖堂右脇に出てきた所でトイレ休憩。因みに、トイレは、左右列柱の一番教会よりの所を更に奥に進むとあります。<br />主人は、この時間を使ってアトリウムの写真撮影に勤しんでいます。このように時間を有効に使わないと思ったように写真が撮れないと思います。<br /> <br />煌びやかな天井装飾が施されたアーチを潜るとそこがアトリウム(玄関廊)。中央には、教皇の冠と鷲。両脇に控えるのが、グレゴリウス13世の紋章の有翼のドラゴンです。<br />

    サン・ピエトロ大聖堂
    大聖堂右脇に出てきた所でトイレ休憩。因みに、トイレは、左右列柱の一番教会よりの所を更に奥に進むとあります。
    主人は、この時間を使ってアトリウムの写真撮影に勤しんでいます。このように時間を有効に使わないと思ったように写真が撮れないと思います。
     
    煌びやかな天井装飾が施されたアーチを潜るとそこがアトリウム(玄関廊)。中央には、教皇の冠と鷲。両脇に控えるのが、グレゴリウス13世の紋章の有翼のドラゴンです。

  • サン・ピエトロ大聖堂 アトリウム<br />アーチを潜るとまずはカルロ・マデルノ作のアトリウム(玄関廊)の気品の高さに目を奪われます。まだ大聖堂へのプロローグの領域だと言うのに、天井を埋め尽くす精巧な装飾細工に魅了されます。<br />因みに、マデルノは大聖堂のファサードを17世紀のバロック様式で設計した人です。

    サン・ピエトロ大聖堂 アトリウム
    アーチを潜るとまずはカルロ・マデルノ作のアトリウム(玄関廊)の気品の高さに目を奪われます。まだ大聖堂へのプロローグの領域だと言うのに、天井を埋め尽くす精巧な装飾細工に魅了されます。
    因みに、マデルノは大聖堂のファサードを17世紀のバロック様式で設計した人です。

  • サン・ピエトロ大聖堂<br />これは、以下のサイト情報を基に作成したフロアマップです。参考にしていただけると幸甚です。<br /><br />大聖堂のフロアマップと解説のサイトです。英語のサイトですが、ここが一番充実しています。<br />http://www.saintpetersbasilica.org/floorplan.htm<br />ベルニーニの作品を中心に解説している日本語サイトです。ブログ作成中に偶然見つけました。サン・ピエトロ大聖堂には、ベルニーニの作品が多いので参考になると思います。<br />http://chinmiroma.com/<br /><br />

    サン・ピエトロ大聖堂
    これは、以下のサイト情報を基に作成したフロアマップです。参考にしていただけると幸甚です。

    大聖堂のフロアマップと解説のサイトです。英語のサイトですが、ここが一番充実しています。
    http://www.saintpetersbasilica.org/floorplan.htm
    ベルニーニの作品を中心に解説している日本語サイトです。ブログ作成中に偶然見つけました。サン・ピエトロ大聖堂には、ベルニーニの作品が多いので参考になると思います。
    http://chinmiroma.com/

  • サン・ピエトロ大聖堂 アトリウム 聖なる扉<br />アトリウムにはブロンズ製の大扉が5つ並んでいます。左から「死の扉」「善と悪の扉」「中央扉」「秘蹟の扉」「聖年の扉」。<br />フィレンツェ「サン・ジョヴァンニ洗礼堂」の門扉を彷彿とさせるのが右端の「聖年の扉」です。普段、この扉は閉じられており、「聖年」とされる25年毎のクリスマスに開かれます。ローマの4大聖堂(サン・ピエトロ、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ、サンタ・マリア・マッジョーレ、サン・パウロ・フォリ・レ・ムーラ)にあり、これらを全部潜ると罪への償いが許され、免償されるそうです。<br />パネルには罪・赦し・人類の救済など聖書の物語が描かれ、最後のパネル(右下)にはピウス12世が「聖年の扉」を開く場面が描かれています。色調を見ると歴史ある扉のように思えますが、実は1950年の聖年祭にスイスのカトリック信徒が寄贈したものだそうです。ということは、まだ3回しか開かれていない計算になります。 <br />

    サン・ピエトロ大聖堂 アトリウム 聖なる扉
    アトリウムにはブロンズ製の大扉が5つ並んでいます。左から「死の扉」「善と悪の扉」「中央扉」「秘蹟の扉」「聖年の扉」。
    フィレンツェ「サン・ジョヴァンニ洗礼堂」の門扉を彷彿とさせるのが右端の「聖年の扉」です。普段、この扉は閉じられており、「聖年」とされる25年毎のクリスマスに開かれます。ローマの4大聖堂(サン・ピエトロ、サン・ジョバンニ・イン・ラテラノ、サンタ・マリア・マッジョーレ、サン・パウロ・フォリ・レ・ムーラ)にあり、これらを全部潜ると罪への償いが許され、免償されるそうです。
    パネルには罪・赦し・人類の救済など聖書の物語が描かれ、最後のパネル(右下)にはピウス12世が「聖年の扉」を開く場面が描かれています。色調を見ると歴史ある扉のように思えますが、実は1950年の聖年祭にスイスのカトリック信徒が寄贈したものだそうです。ということは、まだ3回しか開かれていない計算になります。

  • サン・ピエトロ大聖堂 アトリウム コンスタンティヌス騎馬像<br />教会に向かって右側にヴァチカン宮殿へ繋がる階段(スカラ・レージャ)があります。その踊り場には、ベルニーニ作の『コンスタンティヌス帝の騎馬像』(1669年)が置かれています。皇帝の前に不意に十字架が現れ、託宣を受けた皇帝の驚きと信頼を表現しています。壁と一体構成されているため、後ろ脚で立つ騎馬像という課題が難なく解決されています。<br />宮殿への儀礼用玄関ですので警戒が厳重でガラス扉越しにしか拝めません。直近で撮るより、アトリウムの中央付近からこのように望遠で撮るといい塩梅になります。<br />反対の左側には『カール大帝の騎馬像』(コルナッキーニ作 1730〜1735年)が対峙しています。<br />

    サン・ピエトロ大聖堂 アトリウム コンスタンティヌス騎馬像
    教会に向かって右側にヴァチカン宮殿へ繋がる階段(スカラ・レージャ)があります。その踊り場には、ベルニーニ作の『コンスタンティヌス帝の騎馬像』(1669年)が置かれています。皇帝の前に不意に十字架が現れ、託宣を受けた皇帝の驚きと信頼を表現しています。壁と一体構成されているため、後ろ脚で立つ騎馬像という課題が難なく解決されています。
    宮殿への儀礼用玄関ですので警戒が厳重でガラス扉越しにしか拝めません。直近で撮るより、アトリウムの中央付近からこのように望遠で撮るといい塩梅になります。
    反対の左側には『カール大帝の騎馬像』(コルナッキーニ作 1730〜1735年)が対峙しています。

  • サン・ピエトロ大聖堂 アトリウム レリーフ(Pasce Oves Meas) <br />アトリウムの中央の内側には、カルロ・マデルノの下で作業していたベルニーニが設計したレリーフ「私の小羊を飼いなさい(Pasce Oves Meas)」が嵌め込まれています。制作は彼の弟子が行ったそうです。 <br />

    サン・ピエトロ大聖堂 アトリウム レリーフ(Pasce Oves Meas)
    アトリウムの中央の内側には、カルロ・マデルノの下で作業していたベルニーニが設計したレリーフ「私の小羊を飼いなさい(Pasce Oves Meas)」が嵌め込まれています。制作は彼の弟子が行ったそうです。

  • サン・ピエトロ大聖堂 アトリウム レリーフ(Pasce Oves Meas) <br />イエスのズームアップです。<br />この彫像は、「ヨハネによる福音書 第21章15〜19節」を表しています。<br />イエスは、ペテロに向かって「わたしを愛するか」と3回質問します。これはイエスが十字架に架けられる前夜、鶏の鳴く前にペテロがイエスの事を「知らない」と3回否認したことに対し、ペテロを再び許すために言われた言葉だそうです。イエスを否認したペテロを悔い改めさせ、もう一度イエスの側に戻すための条件のようなものだそうです。そして、ペテロの返事を受ける度、イエスは三つの言葉を示します。『わたしの小羊を飼いなさい』、『わたしの羊を養いなさい』そして『わたしの羊を飼いなさい』です。三つの言葉は、同じ意味のようですが、微妙にニュアンスが違います。小羊と羊、飼うと養うの言葉の組み合わせです。<br />『わたしの小羊を飼いなさい』とは「人々に伝道しなさい」とペトロに諭していると解釈できるのではないでしょうか?<br /><br />このペトロによる3回の否認をモチーフに、バッハが創り上げた曲が「マタイ受難曲」。ペテロの3回の否認をドラマチックに美しい旋律が奏で、最後の否認の後、静謐な緊張感と共に鶏の鳴き声を彷彿とさせるメロディーが流れます。この刹那、クリスチャンでなくとも込み上げるものを感じてしまうのでは?何故なら、鶏の鳴き声があたかも良心の叫びのように響くからです。人間本来の弱さ、あるいは自己の弱さに共鳴してしまうのでしょう。<br />   <br /><br />

    サン・ピエトロ大聖堂 アトリウム レリーフ(Pasce Oves Meas)
    イエスのズームアップです。
    この彫像は、「ヨハネによる福音書 第21章15〜19節」を表しています。
    イエスは、ペテロに向かって「わたしを愛するか」と3回質問します。これはイエスが十字架に架けられる前夜、鶏の鳴く前にペテロがイエスの事を「知らない」と3回否認したことに対し、ペテロを再び許すために言われた言葉だそうです。イエスを否認したペテロを悔い改めさせ、もう一度イエスの側に戻すための条件のようなものだそうです。そして、ペテロの返事を受ける度、イエスは三つの言葉を示します。『わたしの小羊を飼いなさい』、『わたしの羊を養いなさい』そして『わたしの羊を飼いなさい』です。三つの言葉は、同じ意味のようですが、微妙にニュアンスが違います。小羊と羊、飼うと養うの言葉の組み合わせです。
    『わたしの小羊を飼いなさい』とは「人々に伝道しなさい」とペトロに諭していると解釈できるのではないでしょうか?

    このペトロによる3回の否認をモチーフに、バッハが創り上げた曲が「マタイ受難曲」。ペテロの3回の否認をドラマチックに美しい旋律が奏で、最後の否認の後、静謐な緊張感と共に鶏の鳴き声を彷彿とさせるメロディーが流れます。この刹那、クリスチャンでなくとも込み上げるものを感じてしまうのでは?何故なら、鶏の鳴き声があたかも良心の叫びのように響くからです。人間本来の弱さ、あるいは自己の弱さに共鳴してしまうのでしょう。
       

  • サン・ピエトロ大聖堂 アトリウム ジョット作「小舟」<br />教会側にあるレリーフに対峙した面にあるのが、ジョット作のモザイク画「小舟(The Navicella=ナヴィチェッラ)」(1298年)。1675年の聖年の際、旧聖堂の正面玄関に飾られていたものをここに据えたそうです。損傷が激しく、移設時にかなり修復された模様ですが、舟の黄金の輪郭や風を孕んだ帆、使途たちについてはオリジナルを留めているそうです。<br />右下にはイエスがティベリアの海面の上を歩いている様子が描かれ、傍らに跪く聖ペトロに右手が差し伸べられています。右下隅には、キリスト教を連綿と受け継ぐことを委託された枢機卿の姿が小さいながらも見受けられます。<br />

    サン・ピエトロ大聖堂 アトリウム ジョット作「小舟」
    教会側にあるレリーフに対峙した面にあるのが、ジョット作のモザイク画「小舟(The Navicella=ナヴィチェッラ)」(1298年)。1675年の聖年の際、旧聖堂の正面玄関に飾られていたものをここに据えたそうです。損傷が激しく、移設時にかなり修復された模様ですが、舟の黄金の輪郭や風を孕んだ帆、使途たちについてはオリジナルを留めているそうです。
    右下にはイエスがティベリアの海面の上を歩いている様子が描かれ、傍らに跪く聖ペトロに右手が差し伸べられています。右下隅には、キリスト教を連綿と受け継ぐことを委託された枢機卿の姿が小さいながらも見受けられます。

  • サン・ピエトロ大聖堂 <br />アトリウム中央の天井です。真ん中には、ペテロの鍵と竜を象った紋章があります。

    サン・ピエトロ大聖堂 
    アトリウム中央の天井です。真ん中には、ペテロの鍵と竜を象った紋章があります。

  • サン・ピエトロ大聖堂 <br />大聖堂に足を踏み入れて正視した時、奥行き186mもある大聖堂の後陣(アプス)に据えられたカテドラ・ペトリ(聖ペテロ司教座)が丁度バルダッキーノの柱の間にスッポリと納まる構図になっています。ベルニーニは、バルダッキーノがカテドラ・ペトリの額縁効果をもたらすように工夫を凝らしたそうです。<br /><br />内部に入ったところでヴァチカン専用のイヤホンを返却し、ここから自由見学になります。広いので、あっという間に時間が経ちます。集合時間に遅れないように気をつけてください。実際、大聖堂内部にいた時間は、20分程です。

    サン・ピエトロ大聖堂 
    大聖堂に足を踏み入れて正視した時、奥行き186mもある大聖堂の後陣(アプス)に据えられたカテドラ・ペトリ(聖ペテロ司教座)が丁度バルダッキーノの柱の間にスッポリと納まる構図になっています。ベルニーニは、バルダッキーノがカテドラ・ペトリの額縁効果をもたらすように工夫を凝らしたそうです。

    内部に入ったところでヴァチカン専用のイヤホンを返却し、ここから自由見学になります。広いので、あっという間に時間が経ちます。集合時間に遅れないように気をつけてください。実際、大聖堂内部にいた時間は、20分程です。

  • サン・ピエトロ大聖堂 <br />主祭壇を飾るバルダッキーノ(大天蓋1624〜35年)は、教皇ウルバヌス8世の命で制作されたベルニーニ初期の代表作で、バロック美術の幕開けを告げる記念碑的作品です。「ベルニーニはローマのために生まれ、ローマはベルニーニのためにつくられた」と称賛された人物です。広場のオベリスクより高く、29mもあります。最大の特徴はねじれた柱。ベルニーニ独自のアイデアと説く人もいますが、実は古代ローマ帝国 皇帝コンスタンティヌスによる旧サン・ピエトロ大聖堂にあったバルダッキーノにもねじれた柱があったそうです。その柱は、元はエルサレムのソロモン神殿にあったものと伝えられています。円柱にはオリーヴと月桂冠の枝が螺旋状に巻きついています。<br />

    サン・ピエトロ大聖堂 
    主祭壇を飾るバルダッキーノ(大天蓋1624〜35年)は、教皇ウルバヌス8世の命で制作されたベルニーニ初期の代表作で、バロック美術の幕開けを告げる記念碑的作品です。「ベルニーニはローマのために生まれ、ローマはベルニーニのためにつくられた」と称賛された人物です。広場のオベリスクより高く、29mもあります。最大の特徴はねじれた柱。ベルニーニ独自のアイデアと説く人もいますが、実は古代ローマ帝国 皇帝コンスタンティヌスによる旧サン・ピエトロ大聖堂にあったバルダッキーノにもねじれた柱があったそうです。その柱は、元はエルサレムのソロモン神殿にあったものと伝えられています。円柱にはオリーヴと月桂冠の枝が螺旋状に巻きついています。

  • サン・ピエトロ大聖堂 ピエタ<br />「ピエタ」とは「慈悲」を表す言葉で「十字架から降ろされたイエスの亡骸を腕に抱く聖母マリア」をモチーフとした宗教画や彫像を指します。ミケランジェロは「ピエタ」を題材にした彫像を生涯に4体制作しましたが、唯一完成させたのがこの作品です。<br />ルネッサンス期、数多の聖母マリアが制作されましたが、その中で美の頂点を競うのがラファエロ作「小椅子の聖母」とこのミケランジェロ作『ピエタ』。1496年、ミケランジェロが21歳の時、フランス人枢機卿ジャン・ド・ビレール・ド・ラグロラが自らの墓碑として制作を依頼しました。条件は「ローマで最も美しい大理石の作品」だったそうです。枢機卿は彫像の制作期限を1499年8月までと契約しましたが、まるで自分の死期を予知していたかのように8月に亡くなったそうです。作品が間に合ったかどうかは、教皇庁の所有物となっている現状から推して知るべしです。<br /><br /> 

    サン・ピエトロ大聖堂 ピエタ
    「ピエタ」とは「慈悲」を表す言葉で「十字架から降ろされたイエスの亡骸を腕に抱く聖母マリア」をモチーフとした宗教画や彫像を指します。ミケランジェロは「ピエタ」を題材にした彫像を生涯に4体制作しましたが、唯一完成させたのがこの作品です。
    ルネッサンス期、数多の聖母マリアが制作されましたが、その中で美の頂点を競うのがラファエロ作「小椅子の聖母」とこのミケランジェロ作『ピエタ』。1496年、ミケランジェロが21歳の時、フランス人枢機卿ジャン・ド・ビレール・ド・ラグロラが自らの墓碑として制作を依頼しました。条件は「ローマで最も美しい大理石の作品」だったそうです。枢機卿は彫像の制作期限を1499年8月までと契約しましたが、まるで自分の死期を予知していたかのように8月に亡くなったそうです。作品が間に合ったかどうかは、教皇庁の所有物となっている現状から推して知るべしです。

     

  • サン・ピエトロ大聖堂 ピエタ<br />大理石の一枚岩から彫られ、失意に沈む聖母マリアを年配の女性ではなく、若々しく穏やかで神々しい姿に仕上げているのが最大の特徴。マリアの顔はミケランジェロの母親か恋人と言われますが、異性への関心が薄かったことより、母の面影を認めたものでしょう。イエスよりも若く見えるため、枢機卿は「マグダラのマリアの間違いか?」と非難しましたが、ミケランジェロは「原罪のない聖母マリアは歳をとらない」、「マリアはイエスの母にして花嫁」と喝破しました。また、イエス磔刑の聖痕は、小さな釘の跡と脇腹の槍傷だけに限定し、依頼者の意志を尊重して限りなく美を追求した作品に仕上ています。<br />ピエタ設置を終えた間もない頃、「二流彫刻家クリストフォロ・ソラーリが彫った」という噂に立腹したミケランジェロは、夜中に教会に忍び込んでマリアの飾り帯に自分の名前を刻み込んだそうです。しかし、これを後悔し、それ以後作品に名前を入れることはありませんでした。ですからこのピエタは、唯一ミケランジェロのサイン入りとなった貴重な作品です。<br />しかし、皮肉にもこのマリアの美しさは、時に人を狂気に追い込みました。このピエタには見る者の心をエモーショナルに深く穿つ何ものかが潜んでいます。1736年には、あまりの美しさに正気を失った男がマリアの左手の指四本を折り、ジュゼッペ・リリオーニによって修復されています。1972年には、精神を病んだ地質学者が「俺はイエスだ」と叫びながら鉄鎚でマリアの左腕と顔の一部を叩き壊すという惨事が発生。事件後、レプリカに倣って綿密な修復作業が行われました。現在、悲劇の再発を惧れ、防弾ガラスで厳重に保護されています。<br />「美し過ぎるが故に壊したくなる」とは、ジョン・レノンを銃殺した熱狂的ファンやモーツァルトの才能に嫉妬して毒殺を企てたという映画『アマデウス』のサリエリのような心境を言うのでしょうか?さすがにサリエリの件は、荒唐無稽なゴシップとしてしか扱われておらず、フリーメイソンが犯人という説が有力です。『魔笛』には口外無用のフリーメイソンの機密事項が織り込まれているそうで、組織はこれを洒落として見逃すことはなかったということです。<br /> 

    サン・ピエトロ大聖堂 ピエタ
    大理石の一枚岩から彫られ、失意に沈む聖母マリアを年配の女性ではなく、若々しく穏やかで神々しい姿に仕上げているのが最大の特徴。マリアの顔はミケランジェロの母親か恋人と言われますが、異性への関心が薄かったことより、母の面影を認めたものでしょう。イエスよりも若く見えるため、枢機卿は「マグダラのマリアの間違いか?」と非難しましたが、ミケランジェロは「原罪のない聖母マリアは歳をとらない」、「マリアはイエスの母にして花嫁」と喝破しました。また、イエス磔刑の聖痕は、小さな釘の跡と脇腹の槍傷だけに限定し、依頼者の意志を尊重して限りなく美を追求した作品に仕上ています。
    ピエタ設置を終えた間もない頃、「二流彫刻家クリストフォロ・ソラーリが彫った」という噂に立腹したミケランジェロは、夜中に教会に忍び込んでマリアの飾り帯に自分の名前を刻み込んだそうです。しかし、これを後悔し、それ以後作品に名前を入れることはありませんでした。ですからこのピエタは、唯一ミケランジェロのサイン入りとなった貴重な作品です。
    しかし、皮肉にもこのマリアの美しさは、時に人を狂気に追い込みました。このピエタには見る者の心をエモーショナルに深く穿つ何ものかが潜んでいます。1736年には、あまりの美しさに正気を失った男がマリアの左手の指四本を折り、ジュゼッペ・リリオーニによって修復されています。1972年には、精神を病んだ地質学者が「俺はイエスだ」と叫びながら鉄鎚でマリアの左腕と顔の一部を叩き壊すという惨事が発生。事件後、レプリカに倣って綿密な修復作業が行われました。現在、悲劇の再発を惧れ、防弾ガラスで厳重に保護されています。
    「美し過ぎるが故に壊したくなる」とは、ジョン・レノンを銃殺した熱狂的ファンやモーツァルトの才能に嫉妬して毒殺を企てたという映画『アマデウス』のサリエリのような心境を言うのでしょうか?さすがにサリエリの件は、荒唐無稽なゴシップとしてしか扱われておらず、フリーメイソンが犯人という説が有力です。『魔笛』には口外無用のフリーメイソンの機密事項が織り込まれているそうで、組織はこれを洒落として見逃すことはなかったということです。
     

  • サン・ピエトロ大聖堂 ピエタ<br />余談ですが、イエスをマリアの膝の上に載せるポーズを彫像で制作する場合、難しい点があります。マリアの膝からはみ出るイエスの頭や足の大理石の重さを支えるものがないことです。そこでミケランジェロはマリアの足やドレスを広げ、それで支える構成にしています。彫刻全体が三角形という構成は、美的感覚だけではなく、現実的な意味合いも強いそうです。イエスを支えるためにマリア像が大きくなり、もしもマリアが立ち上がったなら、イエスよりも身長が高くなるそうです。しかし、マリアの大部分が服装で隠されていることと像を下から見上げるということで、その違和感が緩和されているそうです。 <br />

    サン・ピエトロ大聖堂 ピエタ
    余談ですが、イエスをマリアの膝の上に載せるポーズを彫像で制作する場合、難しい点があります。マリアの膝からはみ出るイエスの頭や足の大理石の重さを支えるものがないことです。そこでミケランジェロはマリアの足やドレスを広げ、それで支える構成にしています。彫刻全体が三角形という構成は、美的感覚だけではなく、現実的な意味合いも強いそうです。イエスを支えるためにマリア像が大きくなり、もしもマリアが立ち上がったなら、イエスよりも身長が高くなるそうです。しかし、マリアの大部分が服装で隠されていることと像を下から見上げるということで、その違和感が緩和されているそうです。

  • サン・ピエトロ大聖堂 クリスティーナの墓標<br />才気煥発なクリスティーナ女王は、1633〜1654年までスウェーデン女王として在位し、その後1689年に没するまでローマ市民になりました。プロテスタントからカトリックに改宗したクリスティーナは、芸術と哲学の後援者としてデカルトとも親交が深く、またアルカディア・アカデミー設立者として教皇領のローマでも女王のように扱われていました。彼女の墓碑(カルロ・フォンターナ作)はミケランジェロ作ピエタの斜め向かいに佇みます。

    サン・ピエトロ大聖堂 クリスティーナの墓標
    才気煥発なクリスティーナ女王は、1633〜1654年までスウェーデン女王として在位し、その後1689年に没するまでローマ市民になりました。プロテスタントからカトリックに改宗したクリスティーナは、芸術と哲学の後援者としてデカルトとも親交が深く、またアルカディア・アカデミー設立者として教皇領のローマでも女王のように扱われていました。彼女の墓碑(カルロ・フォンターナ作)はミケランジェロ作ピエタの斜め向かいに佇みます。

  • サン・ピエトロ大聖堂<br />「ピエタ」の並びだったと思いますが、イエス磔刑像の背後に厳かな彩色のステンドグラスが配された小部屋がありました。ただし、フロアマップには紹介されていません。<br />

    サン・ピエトロ大聖堂
    「ピエタ」の並びだったと思いますが、イエス磔刑像の背後に厳かな彩色のステンドグラスが配された小部屋がありました。ただし、フロアマップには紹介されていません。

  • サン・ピエトロ大聖堂 グレゴリアン礼拝堂 クーポラ<br />ミケランジェロが最初手がけ、ジャコモ・デッラ・ポルタに受け継がれて完成した礼拝堂です。<br />玉石やマザー・オブ・パール(「真珠の母」つまり真珠が生み出される貝殻)、貴重な石、金色のブロンズ、マルチカラーのモザイクやストッコゥ(漆喰)の装飾が施され、「世界で最も美しい礼拝堂」と言われています。クーポラの高さは、42mあります。<br />クーポラは、深みのあるやわらかな光で満たされ、いかにも神の国へ通じていそうです。

    サン・ピエトロ大聖堂 グレゴリアン礼拝堂 クーポラ
    ミケランジェロが最初手がけ、ジャコモ・デッラ・ポルタに受け継がれて完成した礼拝堂です。
    玉石やマザー・オブ・パール(「真珠の母」つまり真珠が生み出される貝殻)、貴重な石、金色のブロンズ、マルチカラーのモザイクやストッコゥ(漆喰)の装飾が施され、「世界で最も美しい礼拝堂」と言われています。クーポラの高さは、42mあります。
    クーポラは、深みのあるやわらかな光で満たされ、いかにも神の国へ通じていそうです。

  • サン・ピエトロ大聖堂 イノセント12世の墓碑<br />貧者の世話をする慈善団体をいくつも設立すると共に、それまで教皇庁にはびこっていた縁故主義を一掃した偉人とされています。<br />墓碑はフィリッポ・デッラ・ヴァッレ作。両脇に佇む天使像は、左が「慈愛」、右が「正義」を表わしています。「慈愛」の天使像は、この大聖堂の中でも代表的な傑作と言われています。それは、母性愛が持つ叙情的かつ生命力溢れる表現が卓越しているからです。母の胸で眠る子供は、イノセント12世の慈善行為への敬意を示しています。右の「正義」の天使は天秤を捧げ持ち、「善と悪」の審判を意味しています。<br /><br />

    サン・ピエトロ大聖堂 イノセント12世の墓碑
    貧者の世話をする慈善団体をいくつも設立すると共に、それまで教皇庁にはびこっていた縁故主義を一掃した偉人とされています。
    墓碑はフィリッポ・デッラ・ヴァッレ作。両脇に佇む天使像は、左が「慈愛」、右が「正義」を表わしています。「慈愛」の天使像は、この大聖堂の中でも代表的な傑作と言われています。それは、母性愛が持つ叙情的かつ生命力溢れる表現が卓越しているからです。母の胸で眠る子供は、イノセント12世の慈善行為への敬意を示しています。右の「正義」の天使は天秤を捧げ持ち、「善と悪」の審判を意味しています。

  • サン・ピエトロ大聖堂 グレゴリウス13世の墓碑<br />グレゴリウス13世は、それまで採用されていたユリウス暦を改め、現在世界中で広く使われているグレゴリオ暦を採用したローマ教皇です。<br />石棺の正面にはグレゴリウス暦制定の様子を表した浅浮彫が彫られています。両側には寓意的な彫像が置かれ、左は法の書字板を持った宗教、右は不屈の精神を表わしています。石棺から這い出したようなドラゴンは、彼の家(俗名ウーゴ・ボンコンパーニ)の紋章をほのめかしています。有翼のドラゴンの紋章は、ヴァチカン博物館の地図のギャラリー出口の彫像やアトリウム入口のアーチにも見られます。<br />70歳で教皇に選ばれて84歳で亡くなるまで、カトリック改革の取組みや発禁書の見直し、グレゴリオ暦の採用等など大車輪の働きぶりを見せたそうです。

    サン・ピエトロ大聖堂 グレゴリウス13世の墓碑
    グレゴリウス13世は、それまで採用されていたユリウス暦を改め、現在世界中で広く使われているグレゴリオ暦を採用したローマ教皇です。
    石棺の正面にはグレゴリウス暦制定の様子を表した浅浮彫が彫られています。両側には寓意的な彫像が置かれ、左は法の書字板を持った宗教、右は不屈の精神を表わしています。石棺から這い出したようなドラゴンは、彼の家(俗名ウーゴ・ボンコンパーニ)の紋章をほのめかしています。有翼のドラゴンの紋章は、ヴァチカン博物館の地図のギャラリー出口の彫像やアトリウム入口のアーチにも見られます。
    70歳で教皇に選ばれて84歳で亡くなるまで、カトリック改革の取組みや発禁書の見直し、グレゴリオ暦の採用等など大車輪の働きぶりを見せたそうです。

  • サン・ピエトロ大聖堂 聖ペテロ像<br />大聖堂で挨拶を欠かせないのが、聖ペテロ像。しかし、ここまで進んでくるとバルダッキーノが気になり、うっかり忘れてしまいました。バルダッキーノの写真の右端に写り込んでいたのがこれです。(立ち入り禁止の柵の向こうにありました)<br />ローマ・カトリック教会の礎を築き、聖堂の名の由来となった人物。この彫像は、アルノルフォ・ディ・カンビオの作品とされてきましたが、近年、さらに古い4世紀頃のシリアの無名彫刻家の作品と判明したそうです。聖ペテロは、イエスの最初の弟子。イエス磔刑後、布教のためにローマを訪れ、そこで皇帝ネロによるキリスト教徒迫害に遭い、主イエスと同じでは恐縮と逆さ十字の磔刑により西暦67年に殉教しました。ローマ・カトリック教会では、聖ペテロを初代教皇として祀り、歴代教皇はその後継者と見なされています。大聖堂の地下には聖ペテロの墓があり、バルダッキーノはその墓を覆う天蓋として制作されました。 <br />大聖堂はペテロのお墓の上に建てられたとされていましたが、実はその信憑性を疑う向きも多かったそうです。しかし、1939年にピウス12世がピウス11世の墓を作るために地下の「聖なる岩屋」という納骨堂を掘った際、赤い壁で作られた建造物が発見されました。その中から、紀元1世紀の男性の骨と紫地に金の縫い取りのある布が見つかりました。年齢は60歳位で、身長165cmのがっしりした体格の人骨でした。周囲の壁は、殉教を示す文字やペテロに関する古代の落書きで埋め尽されていたそうです。その後、慎重な調査・分析が続けられ、1968年に教皇パウルス6世がペテロの遺骨発見を大いなる喜びをもって公表しました。 <br /><br /> 

    サン・ピエトロ大聖堂 聖ペテロ像
    大聖堂で挨拶を欠かせないのが、聖ペテロ像。しかし、ここまで進んでくるとバルダッキーノが気になり、うっかり忘れてしまいました。バルダッキーノの写真の右端に写り込んでいたのがこれです。(立ち入り禁止の柵の向こうにありました)
    ローマ・カトリック教会の礎を築き、聖堂の名の由来となった人物。この彫像は、アルノルフォ・ディ・カンビオの作品とされてきましたが、近年、さらに古い4世紀頃のシリアの無名彫刻家の作品と判明したそうです。聖ペテロは、イエスの最初の弟子。イエス磔刑後、布教のためにローマを訪れ、そこで皇帝ネロによるキリスト教徒迫害に遭い、主イエスと同じでは恐縮と逆さ十字の磔刑により西暦67年に殉教しました。ローマ・カトリック教会では、聖ペテロを初代教皇として祀り、歴代教皇はその後継者と見なされています。大聖堂の地下には聖ペテロの墓があり、バルダッキーノはその墓を覆う天蓋として制作されました。
    大聖堂はペテロのお墓の上に建てられたとされていましたが、実はその信憑性を疑う向きも多かったそうです。しかし、1939年にピウス12世がピウス11世の墓を作るために地下の「聖なる岩屋」という納骨堂を掘った際、赤い壁で作られた建造物が発見されました。その中から、紀元1世紀の男性の骨と紫地に金の縫い取りのある布が見つかりました。年齢は60歳位で、身長165cmのがっしりした体格の人骨でした。周囲の壁は、殉教を示す文字やペテロに関する古代の落書きで埋め尽されていたそうです。その後、慎重な調査・分析が続けられ、1968年に教皇パウルス6世がペテロの遺骨発見を大いなる喜びをもって公表しました。 

     

  • サン・ピエトロ大聖堂 バルダッキーノ<br />台座に装飾されたメダルやロザリオ、トカゲなどの小モチーフは、バルダッキーノの周囲に配された聖遺物に対する教皇の姿勢を示すものだそうです。メダルとロザリオについては、その前に位置する「ヴェロニカの聖顔布」への祈りを示唆しています。また、台座に点在するトカゲは、フィレンツェ洗礼堂の北扉由来のトスカーナの伝統に繋がります。トカゲは、バルダッキーノの鋳造とトスカーナ美術の関係を示す重要なモチーフであり、主祭壇とその下に眠る聖ペテロの墓を守る役割をも担っているそうです。 <br />

    サン・ピエトロ大聖堂 バルダッキーノ
    台座に装飾されたメダルやロザリオ、トカゲなどの小モチーフは、バルダッキーノの周囲に配された聖遺物に対する教皇の姿勢を示すものだそうです。メダルとロザリオについては、その前に位置する「ヴェロニカの聖顔布」への祈りを示唆しています。また、台座に点在するトカゲは、フィレンツェ洗礼堂の北扉由来のトスカーナの伝統に繋がります。トカゲは、バルダッキーノの鋳造とトスカーナ美術の関係を示す重要なモチーフであり、主祭壇とその下に眠る聖ペテロの墓を守る役割をも担っているそうです。 

  • サン・ピエトロ大聖堂 クーポラ<br />内部はクーポラを筆頭に陽光を取り込んだ神秘的な造りになっています。陽光の筋が天国へ続く光道のように神々しく映ります。クーポラの設計と建造はミケランジェロが陣頭指揮を執りましたが、完成を見ずに1564年に亡くなりました。彼が遺した1/5スケールの精緻な木製模型に従い、弟子ジャコモ・デッラ・ポルタが引き継ぎました。彼はクーポラをオリジナルの設計より7m高くしたそうです。クーポラが完成し、その上にランタン(頂塔)が設置されたのは、1591年のことでした。 内径42m、内側の高さ29mのクーポラは、地上高138m。柱間にある小窓や頂上のランタンはミケランジエロの特徴が出ており、ルネッサンスの幕開けを演じたブルネッレスキ作フィレンツェのドゥオーモと双璧をなしています。クーポラ外面の強度メンバーになっている二重リブは、タンブールの対の柱からドーム頂部のランタンまで繋がっています。ゴシック的な垂直性を踏襲したと言うよりも、ミケランジェロ特有のモチーフを巨大なスケールで閉じ込めたように思えます。<br /><br />

    サン・ピエトロ大聖堂 クーポラ
    内部はクーポラを筆頭に陽光を取り込んだ神秘的な造りになっています。陽光の筋が天国へ続く光道のように神々しく映ります。クーポラの設計と建造はミケランジェロが陣頭指揮を執りましたが、完成を見ずに1564年に亡くなりました。彼が遺した1/5スケールの精緻な木製模型に従い、弟子ジャコモ・デッラ・ポルタが引き継ぎました。彼はクーポラをオリジナルの設計より7m高くしたそうです。クーポラが完成し、その上にランタン(頂塔)が設置されたのは、1591年のことでした。 内径42m、内側の高さ29mのクーポラは、地上高138m。柱間にある小窓や頂上のランタンはミケランジエロの特徴が出ており、ルネッサンスの幕開けを演じたブルネッレスキ作フィレンツェのドゥオーモと双璧をなしています。クーポラ外面の強度メンバーになっている二重リブは、タンブールの対の柱からドーム頂部のランタンまで繋がっています。ゴシック的な垂直性を踏襲したと言うよりも、ミケランジェロ特有のモチーフを巨大なスケールで閉じ込めたように思えます。

  • サン・ピエトロ大聖堂 バルダッキーノ<br />上段に見える2つの鍵は、聖ペトロのアトリビュート。マタイの福音書にある、「ペテロがイエスから 『あなたに天国の鍵を授けよう』 と言われた」という記述に由来。聖書は天国の鍵についてしか記していませんが、後に金と銀の2つの鍵は、天国と地獄または霊界と俗界の支配権を示すものと考えられるようになりました。ヴァチカン市国の国旗にも金銀2つの鍵がデザインされています。 <br />余談ですが、ウルバヌス8世は気鋭の彫刻家ベルニーニに絵画と建築を学ぶよう命じたそうです。そのおかげでベルニーニはサン・ピエトロ広場を遺すに至りました。故に、ウルバヌス8世はバロックの巨匠ベルニーニの育て親の一人とも言われています。<br />

    サン・ピエトロ大聖堂 バルダッキーノ
    上段に見える2つの鍵は、聖ペトロのアトリビュート。マタイの福音書にある、「ペテロがイエスから 『あなたに天国の鍵を授けよう』 と言われた」という記述に由来。聖書は天国の鍵についてしか記していませんが、後に金と銀の2つの鍵は、天国と地獄または霊界と俗界の支配権を示すものと考えられるようになりました。ヴァチカン市国の国旗にも金銀2つの鍵がデザインされています。
    余談ですが、ウルバヌス8世は気鋭の彫刻家ベルニーニに絵画と建築を学ぶよう命じたそうです。そのおかげでベルニーニはサン・ピエトロ広場を遺すに至りました。故に、ウルバヌス8世はバロックの巨匠ベルニーニの育て親の一人とも言われています。

  • サン・ピエトロ大聖堂 聖女ヘレナ像<br />ベルニーニは、聖堂中心の4つの柱に4つの聖遺物(ロンギヌスの槍の穂、聖女ヘレナの聖十字架の断片、聖ヴェロニカの布、聖アンデレの頭部)を安置する祭壇を設け、その下に人物像を配しています。<br /><br />聖女ヘレナが十字架を持っています。彼女はコンスタンティヌス大帝の母。磔刑の行われたカルウァリア丘で発掘を行い、3つの十字架とイエス磔刑の十宇架に付けられた「ユダヤ王ナザレのキリスト」と記す板を発見しました。また、聖釘も発見し、その2つは帝に捧げられ、彼は護身用に馬勒と兜にこれを付けました。(ミラノ編ドォーモの記事を参照下さい。)大聖堂には、ヘレナがエルサレムで発掘して持ち帰ったとされる、イエス磔刑の十字架の断片が納められています。<br /> 

    サン・ピエトロ大聖堂 聖女ヘレナ像
    ベルニーニは、聖堂中心の4つの柱に4つの聖遺物(ロンギヌスの槍の穂、聖女ヘレナの聖十字架の断片、聖ヴェロニカの布、聖アンデレの頭部)を安置する祭壇を設け、その下に人物像を配しています。

    聖女ヘレナが十字架を持っています。彼女はコンスタンティヌス大帝の母。磔刑の行われたカルウァリア丘で発掘を行い、3つの十字架とイエス磔刑の十宇架に付けられた「ユダヤ王ナザレのキリスト」と記す板を発見しました。また、聖釘も発見し、その2つは帝に捧げられ、彼は護身用に馬勒と兜にこれを付けました。(ミラノ編ドォーモの記事を参照下さい。)大聖堂には、ヘレナがエルサレムで発掘して持ち帰ったとされる、イエス磔刑の十字架の断片が納められています。
     

  • サン・ピエトロ大聖堂 聖女ヴェロニカ像<br />左側では聖女ヴェロニカがヴェール(布)を持っています。ゴルゴダの丘に向かうイエスの額の汗を彼女が拭った時、ヴェールにイエスの顔の跡が遺ったと言われており、サン・ピエトロ大聖堂所蔵のハンカチ(Sudarium)が「ヴェロニカの聖顔布」だと言われています。ヴェロニカは盲目でしたが、このヴェールで目を触れたら治ったとも伝えられています。<br /><br />手に持つヴェールや翻る衣服のドレープが大理石で彫られたものとは到底思えません。<br /><br />

    サン・ピエトロ大聖堂 聖女ヴェロニカ像
    左側では聖女ヴェロニカがヴェール(布)を持っています。ゴルゴダの丘に向かうイエスの額の汗を彼女が拭った時、ヴェールにイエスの顔の跡が遺ったと言われており、サン・ピエトロ大聖堂所蔵のハンカチ(Sudarium)が「ヴェロニカの聖顔布」だと言われています。ヴェロニカは盲目でしたが、このヴェールで目を触れたら治ったとも伝えられています。

    手に持つヴェールや翻る衣服のドレープが大理石で彫られたものとは到底思えません。

  • サン・ピエトロ大聖堂 教皇アレクサンデル7 世の墓碑<br />ミサが終わった間際なのか、柵が設けられていてトランセットの手前から先には立ち入れません。やむを得ず、ズームで墓碑を撮影します。暗いので手振れが気になります。<br /><br />ベルニーニ80歳の辞世の大傑作。アレクサンデル7世は、バルダッキーノなどを制作したベルニーニのパトロンとなり、彼の作品を後世に遺した教皇です。<br />台座は喪を表して白と黒の大理石、ドレープはシチリア産赤大理石、頂上の教皇像は白大理石で構成されています。左端の母子像が慈愛、ドレープの上の軍人像が正義、右端の女性像が真実を表現しています。<br />

    サン・ピエトロ大聖堂 教皇アレクサンデル7 世の墓碑
    ミサが終わった間際なのか、柵が設けられていてトランセットの手前から先には立ち入れません。やむを得ず、ズームで墓碑を撮影します。暗いので手振れが気になります。

    ベルニーニ80歳の辞世の大傑作。アレクサンデル7世は、バルダッキーノなどを制作したベルニーニのパトロンとなり、彼の作品を後世に遺した教皇です。
    台座は喪を表して白と黒の大理石、ドレープはシチリア産赤大理石、頂上の教皇像は白大理石で構成されています。左端の母子像が慈愛、ドレープの上の軍人像が正義、右端の女性像が真実を表現しています。

  • サン・ピエトロ大聖堂 教皇アレクサンデル7 世の墓碑<br />よく見るとドレープの下で何やら蠢くものがあります。青銅に金メッキを施した有翼の骸骨が大理石のドレープの襞を持ち上げ、その奥にある扉へと誘います。骸骨が持つ砂時計は、「予告なしに訪れる死」のメタファー。こうした舞台効果を狙う構成は、ベルニーニの十八番だったそうです。特にバロック期には死の象徴の骸骨や棺のモチーフは普通に用いられ、「メメント・モリ(死を想え)」を表しています。<br />「メメント・モリ(ラテン語)」とは、簡単に言えば現世の虚しさを知り、来世に想いを馳せなさいという教えです。芸術作品のモチーフとして広く使われ、「自分は何時の日か死すべきものである」ということを人々に思い起こさせるためのメタファーです。日本語訳では「死を思え」、意訳では「死生観」となっています。

    サン・ピエトロ大聖堂 教皇アレクサンデル7 世の墓碑
    よく見るとドレープの下で何やら蠢くものがあります。青銅に金メッキを施した有翼の骸骨が大理石のドレープの襞を持ち上げ、その奥にある扉へと誘います。骸骨が持つ砂時計は、「予告なしに訪れる死」のメタファー。こうした舞台効果を狙う構成は、ベルニーニの十八番だったそうです。特にバロック期には死の象徴の骸骨や棺のモチーフは普通に用いられ、「メメント・モリ(死を想え)」を表しています。
    「メメント・モリ(ラテン語)」とは、簡単に言えば現世の虚しさを知り、来世に想いを馳せなさいという教えです。芸術作品のモチーフとして広く使われ、「自分は何時の日か死すべきものである」ということを人々に思い起こさせるためのメタファーです。日本語訳では「死を思え」、意訳では「死生観」となっています。

  • サン・ピエトロ大聖堂 <br />右の真実の像は地球の上に左足を乗せています。しかし、意味深にイギリス諸島から突き出た棘が彼女の親指に刺さっています。これは、ローマ教皇と英国国教会に関わる宗教上の確執を暗示したものだそうです。元来、英国国教会は、669年に成立したローマ教皇支配下のカトリック系の教会でしたが、1534年に英国王ヘンリー8世の離婚願いがローマ教皇に拒否されたのを契機にローマ教皇の支配を脱し、国王を首長とした教会へと袖を分かつことになった歴史があります。<br />そして英国国教会が庇護したのが、フリーメイソンです。近代フリーメイソンは1717年にイギリスで誕生し、英国王室とともに発展してきました。それ故、教皇ベネディクトゥス14世は、1751年にフリーメイソンの破門状を出すことになりました。つまり、ヴァチカンとフリーメイソンの間には、水と油の関係が存在するようです。<br />

    サン・ピエトロ大聖堂 
    右の真実の像は地球の上に左足を乗せています。しかし、意味深にイギリス諸島から突き出た棘が彼女の親指に刺さっています。これは、ローマ教皇と英国国教会に関わる宗教上の確執を暗示したものだそうです。元来、英国国教会は、669年に成立したローマ教皇支配下のカトリック系の教会でしたが、1534年に英国王ヘンリー8世の離婚願いがローマ教皇に拒否されたのを契機にローマ教皇の支配を脱し、国王を首長とした教会へと袖を分かつことになった歴史があります。
    そして英国国教会が庇護したのが、フリーメイソンです。近代フリーメイソンは1717年にイギリスで誕生し、英国王室とともに発展してきました。それ故、教皇ベネディクトゥス14世は、1751年にフリーメイソンの破門状を出すことになりました。つまり、ヴァチカンとフリーメイソンの間には、水と油の関係が存在するようです。

  • サン・ピエトロ大聖堂 「キリストの変容」<br />ラファエロの遺作となった「キリストの変容」です。このモザイク画は、6人のアーティストが9年がかりで1767年に緻密なコピーで完成させたものだそうです。<br />イエスは逮捕される直前に弟子たちを連れて山に登ります。そこで、イエスの体は光を放ち、モーセとエリヤが姿を現します。その後、イエスは下山する途中で悪霊に憑りつかれた子供(画面右下の子供。現代科学的にはてんかんの症状。)に出会い、治療を施します。この作品には、上下別々の奇跡が描かれています。晩年のラファエロは、多忙過ぎて一人で作品を仕上げることは極めて稀になり、工房の手が入るのが普通だったのですが、この作品だけは一人で仕上げたそうです。1520年、ラファエロは37歳の誕生日に急病により亡くなりましたが、彼の脇にはほぼ完成したこの作品が置かれていたそうです。熱病に罹患したが、体調を崩した理由を主治医に説明しなかったために誤った治療を受けたことが死因だとされていますが異論も多いそうです。<br />因みに、ラファエロの「キリストの変容」は、1809年にナポレオンがローマ侵攻を行った際、フランス軍によって戦利品として略奪されました。しかし、1815年のウィーン条約で返還されています。<br /><br />驚くことに、この絵画だけでなく、大聖堂のドームや天井から内陣、後陣に至るまで、聖堂の装飾や絵画は1点の例外を除いて全てモザイクだそうです。しかし、遠目にはどう見ても油彩画やフレスコ画にしか見えないくらい緻密です。油彩画と見分けがつかないのは、中世のモザイクと比べ、大聖堂で採用されたモザイク技法は進化を遂げ、超微小タイル片を開発・使用して継ぎ目を見えなくしたためです。大聖堂建設に伴い、早い段階で壁面は原則としてモザイク画にする方針を打ち立てました。何故かというと、フレスコや油彩画が湿気に弱いのに対し、モザイク画にはその心配がないからです。その結果、大聖堂は1万平方mを優に超える壁面がモザイクで飾られることになったのです。普通のモザイク画でも相当なコストと時間がかかることを鑑みると、サン・ピエトロ大聖堂でしか拝めないありがたい作品群と言えます。

    サン・ピエトロ大聖堂 「キリストの変容」
    ラファエロの遺作となった「キリストの変容」です。このモザイク画は、6人のアーティストが9年がかりで1767年に緻密なコピーで完成させたものだそうです。
    イエスは逮捕される直前に弟子たちを連れて山に登ります。そこで、イエスの体は光を放ち、モーセとエリヤが姿を現します。その後、イエスは下山する途中で悪霊に憑りつかれた子供(画面右下の子供。現代科学的にはてんかんの症状。)に出会い、治療を施します。この作品には、上下別々の奇跡が描かれています。晩年のラファエロは、多忙過ぎて一人で作品を仕上げることは極めて稀になり、工房の手が入るのが普通だったのですが、この作品だけは一人で仕上げたそうです。1520年、ラファエロは37歳の誕生日に急病により亡くなりましたが、彼の脇にはほぼ完成したこの作品が置かれていたそうです。熱病に罹患したが、体調を崩した理由を主治医に説明しなかったために誤った治療を受けたことが死因だとされていますが異論も多いそうです。
    因みに、ラファエロの「キリストの変容」は、1809年にナポレオンがローマ侵攻を行った際、フランス軍によって戦利品として略奪されました。しかし、1815年のウィーン条約で返還されています。

    驚くことに、この絵画だけでなく、大聖堂のドームや天井から内陣、後陣に至るまで、聖堂の装飾や絵画は1点の例外を除いて全てモザイクだそうです。しかし、遠目にはどう見ても油彩画やフレスコ画にしか見えないくらい緻密です。油彩画と見分けがつかないのは、中世のモザイクと比べ、大聖堂で採用されたモザイク技法は進化を遂げ、超微小タイル片を開発・使用して継ぎ目を見えなくしたためです。大聖堂建設に伴い、早い段階で壁面は原則としてモザイク画にする方針を打ち立てました。何故かというと、フレスコや油彩画が湿気に弱いのに対し、モザイク画にはその心配がないからです。その結果、大聖堂は1万平方mを優に超える壁面がモザイクで飾られることになったのです。普通のモザイク画でも相当なコストと時間がかかることを鑑みると、サン・ピエトロ大聖堂でしか拝めないありがたい作品群と言えます。

  • サン・ピエトロ大聖堂 <br />マリア・クレメンティナ・ソビエスカの墓碑。ピエトロ・ブラシー制作(1742年)。彼女はポーランド王の姪に当たり、英国王のプリテンダー、ジェームズ?スチュアートと結婚しました。しかし、33歳の時、結核で亡くなり、ここに埋葬されました。記念碑の上から彼女の夫と息子が見下ろしています。<br /><br />大聖堂には4人(公には3人)の女性が葬られていると言われています。ソビエスカと前に登場したクリスティーナとマティルデ・ディ・カノッサともうひとり。<br />マティルデ・ディ・カノッサはトスカーナ州カノッサ城を所領したトスカーナ女伯です。聖職叙任権をめぐるローマ教皇グレゴリウス7世と神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世との争いでは、一貫して教皇側を支持しました。雪が降る中、ハインリヒ4世がカノッサ城門で裸足のまま断食と祈りを続け、教皇からの破門の解除を願い、赦しを願った「カノッサの屈辱」事件の発端に関与した人物です。破門を解かれた皇帝は、今度は教皇をサンタンジェロ城に閉じ込めました。教皇は命からがら逃亡するもののサレルノで客死し、皇帝も息子のハインリッヒ5世に裏切られて憤死するというむごたらしい結末で幕を閉じます。<br /><br />あとひとりは誰なのでしょう?その女性とは、マインツ生まれの女教皇ヨハンナ=ヨハネス・アングリクス(ヨハネス8世)だとの伝説があります。855年から3年間在位したとされる唯一の女性ローマ教皇。14世紀末のローマ巡礼のためのガイドブック「Mirabilia Urbis Romae」には、「サン・ピエトロに女教皇の遺骸は葬られた」と記されていたそうです。ヴァチカン宝物館には赤い大理石製の奇妙な教皇用の椅子が展示されています。座席の真ん中が割れ、楕円の穴が開いています。ヨハンナの件があった後、コンクラーベで選ばれた次期教皇はこの椅子に座り、男性であることが確認され、一同が「我らが教皇は男である」とラテン語で唱えてから、正式に即位することになったそうです。これらの事実より、ヨハンナは実在し、医学的には仮性半陰陽であったと考えられています。男性のような外観でありながら、妊娠は可能だそうです。<br />彼女がどのようにして亡くなったのか、ダイジェストでご紹介します。<br />「彼女の生活ぶりと学芸の高さは市中で評判になり、教皇レオ6世の死後、教皇として選ばれるべき人となった。しかし、教皇位にある間に彼女は愛人の子を身籠った。正確な出産予定日時への無知から、サン・ピエトロ大聖堂からサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂へ向かう途中、彼女を陣痛が襲い、そこで死亡した」。<br />ヨハンナが女性であったことと、とんでもない失態とから、彼女の名前は歴代教皇名簿から抹殺されているそうです。

    サン・ピエトロ大聖堂 
    マリア・クレメンティナ・ソビエスカの墓碑。ピエトロ・ブラシー制作(1742年)。彼女はポーランド王の姪に当たり、英国王のプリテンダー、ジェームズ?スチュアートと結婚しました。しかし、33歳の時、結核で亡くなり、ここに埋葬されました。記念碑の上から彼女の夫と息子が見下ろしています。

    大聖堂には4人(公には3人)の女性が葬られていると言われています。ソビエスカと前に登場したクリスティーナとマティルデ・ディ・カノッサともうひとり。
    マティルデ・ディ・カノッサはトスカーナ州カノッサ城を所領したトスカーナ女伯です。聖職叙任権をめぐるローマ教皇グレゴリウス7世と神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世との争いでは、一貫して教皇側を支持しました。雪が降る中、ハインリヒ4世がカノッサ城門で裸足のまま断食と祈りを続け、教皇からの破門の解除を願い、赦しを願った「カノッサの屈辱」事件の発端に関与した人物です。破門を解かれた皇帝は、今度は教皇をサンタンジェロ城に閉じ込めました。教皇は命からがら逃亡するもののサレルノで客死し、皇帝も息子のハインリッヒ5世に裏切られて憤死するというむごたらしい結末で幕を閉じます。

    あとひとりは誰なのでしょう?その女性とは、マインツ生まれの女教皇ヨハンナ=ヨハネス・アングリクス(ヨハネス8世)だとの伝説があります。855年から3年間在位したとされる唯一の女性ローマ教皇。14世紀末のローマ巡礼のためのガイドブック「Mirabilia Urbis Romae」には、「サン・ピエトロに女教皇の遺骸は葬られた」と記されていたそうです。ヴァチカン宝物館には赤い大理石製の奇妙な教皇用の椅子が展示されています。座席の真ん中が割れ、楕円の穴が開いています。ヨハンナの件があった後、コンクラーベで選ばれた次期教皇はこの椅子に座り、男性であることが確認され、一同が「我らが教皇は男である」とラテン語で唱えてから、正式に即位することになったそうです。これらの事実より、ヨハンナは実在し、医学的には仮性半陰陽であったと考えられています。男性のような外観でありながら、妊娠は可能だそうです。
    彼女がどのようにして亡くなったのか、ダイジェストでご紹介します。
    「彼女の生活ぶりと学芸の高さは市中で評判になり、教皇レオ6世の死後、教皇として選ばれるべき人となった。しかし、教皇位にある間に彼女は愛人の子を身籠った。正確な出産予定日時への無知から、サン・ピエトロ大聖堂からサン・ジョバンニ・イン・ラテラノ大聖堂へ向かう途中、彼女を陣痛が襲い、そこで死亡した」。
    ヨハンナが女性であったことと、とんでもない失態とから、彼女の名前は歴代教皇名簿から抹殺されているそうです。

  • サン・ピエトロ大聖堂 「カテドラ・ペトリ」<br />ペテロが用いたとされる司教座は、ペテロの後継者を自認する教皇の権威を象徴するものとして大切にされてきました。司教座を収める「カテドラ・ペトリ」の装飾は、教皇アレクサンデル7世の命を受けたベルニーニが制作しました。後方には鳩(精霊)のステンドグラスが輝いています。中央に取り込まれた中世の椅子は、4人の博士たち(神学の基礎を築いた聖アンブロシウス(手前左)、聖アウグスティヌス(手前右)、聖アタナシウス(奥左)、聖クリソストムス(奥右))によって支えられています。<br />中世の人々には聖ペテロに由来すると信じられていたこの「カテドラ・ペトリ」ですが、実は20世紀の調査で9世紀のものと分かり、フランク王国シャルル禿頭王が教皇庁に贈ったものと推測されています。調査結果によると、アカシアの木の骨組み部分は当初の物である可能性が高いそうです。<br /><br />クーポラの壁には、イエスが聖ペテロに「天国の鍵」を渡す時に語った言葉、「あなたはペテロ(石)である。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。(中略)わたしは、あなたに天国の鍵を授けよう」と刻まれています。この言葉により、聖ペテロはローマに赴いて殉教し、この場所に埋葬されたのです。<br />

    サン・ピエトロ大聖堂 「カテドラ・ペトリ」
    ペテロが用いたとされる司教座は、ペテロの後継者を自認する教皇の権威を象徴するものとして大切にされてきました。司教座を収める「カテドラ・ペトリ」の装飾は、教皇アレクサンデル7世の命を受けたベルニーニが制作しました。後方には鳩(精霊)のステンドグラスが輝いています。中央に取り込まれた中世の椅子は、4人の博士たち(神学の基礎を築いた聖アンブロシウス(手前左)、聖アウグスティヌス(手前右)、聖アタナシウス(奥左)、聖クリソストムス(奥右))によって支えられています。
    中世の人々には聖ペテロに由来すると信じられていたこの「カテドラ・ペトリ」ですが、実は20世紀の調査で9世紀のものと分かり、フランク王国シャルル禿頭王が教皇庁に贈ったものと推測されています。調査結果によると、アカシアの木の骨組み部分は当初の物である可能性が高いそうです。

    クーポラの壁には、イエスが聖ペテロに「天国の鍵」を渡す時に語った言葉、「あなたはペテロ(石)である。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。(中略)わたしは、あなたに天国の鍵を授けよう」と刻まれています。この言葉により、聖ペテロはローマに赴いて殉教し、この場所に埋葬されたのです。

  • サン・ピエトロ大聖堂 <br />ブロンズ製の柱を支える大理石の台座に見られるのが3匹の蜜蜂の紋章。バルベリーニ家の紋章です。本来柱に絡み付くはずの葡萄はバルベリーニ家の好んだ月桂樹やオリーヴに替えられ、天蓋部分を飾る垂れ幕にも蜜蜂の紋章、頂上の十字架の下の太陽もバルベリーニ家の象徴です。フィレンツェの豪商マッフェオ・バルベリーニが、教皇ウルバヌス8世として即位したのは1623年のことでした。その翌年、25歳の彫刻家ベルニーニにバルダッキーノの制作を命じました。ドイツ内乱の三十年戦争の真っ只中のヨーロッパではブロンズが不足したため、各地から輸入するだけでは足りず、古代ローマ帝国時代のパンテオンのアトリウムに使われていたブロンズまで見境なく使ったそうです。<br />因みに、バルダッキーノの大理石台座の彫刻制作には、ボッロミーニも参加しているそうです。<br />

    サン・ピエトロ大聖堂 
    ブロンズ製の柱を支える大理石の台座に見られるのが3匹の蜜蜂の紋章。バルベリーニ家の紋章です。本来柱に絡み付くはずの葡萄はバルベリーニ家の好んだ月桂樹やオリーヴに替えられ、天蓋部分を飾る垂れ幕にも蜜蜂の紋章、頂上の十字架の下の太陽もバルベリーニ家の象徴です。フィレンツェの豪商マッフェオ・バルベリーニが、教皇ウルバヌス8世として即位したのは1623年のことでした。その翌年、25歳の彫刻家ベルニーニにバルダッキーノの制作を命じました。ドイツ内乱の三十年戦争の真っ只中のヨーロッパではブロンズが不足したため、各地から輸入するだけでは足りず、古代ローマ帝国時代のパンテオンのアトリウムに使われていたブロンズまで見境なく使ったそうです。
    因みに、バルダッキーノの大理石台座の彫刻制作には、ボッロミーニも参加しているそうです。

  • サン・ピエトロ大聖堂<br />スイス人衛兵が槍を持って直立不動の姿勢をしています。<br />バチカン市国ではスイス人衛兵の姿が目を引きますが、彼らは1506年から教皇庁を守っています。なぜスイス人かというと、当時スイス人の傭兵は忠誠心が高く、剛健だと評判だったからです。因みに、ヴェルサイユ宮殿の庭園にある「スイス人の池」は、スイス人傭兵の献身的な活躍を讃えたものだそうです。<br />教皇ユリウス2世が初めて雇ったスイス人傭兵は、教皇のボディガードだけでなく、戦闘にも参加しました。1527年の神聖ローマ帝国カール5世による「ローマ劫略」は、衛兵189人のうち147人が教皇クレメンス7世を救うために戦死するという惨事でした。パッセット(ヴァチカンとサンタンジェロ城を結ぶ通路)を教皇と共に駆け抜け、サンタンジェロ城へ逃げ込んだ衛兵だけが生き残りました。<br />衛兵のユニフォームは、メディチ家の色である赤・青・黄で色鮮やかにデザインされています。ユニフォームがミケランジェロのデザインというのは定説化しています。実際、最初のスイス人傭兵が雇われた時代、ミケランジェロはローマに滞在していました。しかし、これは伝説に過ぎず、1914年に衛兵Jules Repondがラファエロの絵画からインスピレーションを得て考案したものだそうです。また、この色鮮やかなユニフォームは公式の場で使うもので、作業着はもっとシンプルなものだそうです。<br />現在100人程の衛兵がおり、教皇の身辺警護と宮殿やヴァチカンの警護に当たっています。隊員は身長174cm以上のカトリック教徒スイス市民で、スイス軍で一定の経験を積んだ者が厳選されているそうです。 <br /> 

    サン・ピエトロ大聖堂
    スイス人衛兵が槍を持って直立不動の姿勢をしています。
    バチカン市国ではスイス人衛兵の姿が目を引きますが、彼らは1506年から教皇庁を守っています。なぜスイス人かというと、当時スイス人の傭兵は忠誠心が高く、剛健だと評判だったからです。因みに、ヴェルサイユ宮殿の庭園にある「スイス人の池」は、スイス人傭兵の献身的な活躍を讃えたものだそうです。
    教皇ユリウス2世が初めて雇ったスイス人傭兵は、教皇のボディガードだけでなく、戦闘にも参加しました。1527年の神聖ローマ帝国カール5世による「ローマ劫略」は、衛兵189人のうち147人が教皇クレメンス7世を救うために戦死するという惨事でした。パッセット(ヴァチカンとサンタンジェロ城を結ぶ通路)を教皇と共に駆け抜け、サンタンジェロ城へ逃げ込んだ衛兵だけが生き残りました。
    衛兵のユニフォームは、メディチ家の色である赤・青・黄で色鮮やかにデザインされています。ユニフォームがミケランジェロのデザインというのは定説化しています。実際、最初のスイス人傭兵が雇われた時代、ミケランジェロはローマに滞在していました。しかし、これは伝説に過ぎず、1914年に衛兵Jules Repondがラファエロの絵画からインスピレーションを得て考案したものだそうです。また、この色鮮やかなユニフォームは公式の場で使うもので、作業着はもっとシンプルなものだそうです。
    現在100人程の衛兵がおり、教皇の身辺警護と宮殿やヴァチカンの警護に当たっています。隊員は身長174cm以上のカトリック教徒スイス市民で、スイス軍で一定の経験を積んだ者が厳選されているそうです。
     

  • サン・ピエトロ大聖堂<br />ジュセッペ・デ・ファブリス作「聖ペトロ像」。<br />ローマ教皇を「パーパ(Papa)」と呼びます。この言葉はギリシャ語が語源で「パードレ(神父)」の親密な呼び方。ただし、教皇の正式名は「ローマ司教、キリストの代理者、使徒の継承者、全カトリック教会の統治者、イタリア半島の首座司教、ローマ首都管区の大司教、ヴァチカン市国の首長、神の僕の僕」という寿限無並みの長いもの。それで、「パーパ」と親しみを込めて呼ぶそうです。

    サン・ピエトロ大聖堂
    ジュセッペ・デ・ファブリス作「聖ペトロ像」。
    ローマ教皇を「パーパ(Papa)」と呼びます。この言葉はギリシャ語が語源で「パードレ(神父)」の親密な呼び方。ただし、教皇の正式名は「ローマ司教、キリストの代理者、使徒の継承者、全カトリック教会の統治者、イタリア半島の首座司教、ローマ首都管区の大司教、ヴァチカン市国の首長、神の僕の僕」という寿限無並みの長いもの。それで、「パーパ」と親しみを込めて呼ぶそうです。

  • サン・ピエトロ大聖堂<br />巨匠ベルニーニを育てた教皇ウルバヌス8世は1644年に亡くなり、その後任のインノケンティウス10世は芸術に熱意を持たず、ローマ美術界の寵児ベルニーニにも不遇の時代が到来します。そんな彼を再びバロック美術の柱として復活させたのが、次に教皇となったアレクサンデル7世。彼にサン・ピエトロ広場の設計を依頼しました。しかし、教皇クレメンス10世が即位し、財政悪化を理由に芸術への支出を削減。また、次のインノケンティウス11世は、更に厳しい緊縮を断行し、彼が計画していたサン・ピエトロ広場の第三の柱廊の建設中止を命じました。教皇庁が緊縮財政を厳しくするにつれ、バロック芸術の中心だったローマの活力は衰退し、やがてはパリがバロックの中心となっていきました。ローマ凋落の最中にベルニーニが亡くなったのが1680年。死の直前、多くの芸術作品を造り上げた右手は麻痺していたそうです。彼は、「長い間働いてきたこの腕が、私よりも先に休むのは当然のこと」と語っています。その後、バロック時代は終焉し、新古典主義の時代が訪れ、かつては教皇庁の寵児だったベルニーニの作品は「趣味の疫病」と酷評されたそうです。そしてベルニーニの作品が再び評価されるのは、20世紀になってからのことです。<br /> 

    サン・ピエトロ大聖堂
    巨匠ベルニーニを育てた教皇ウルバヌス8世は1644年に亡くなり、その後任のインノケンティウス10世は芸術に熱意を持たず、ローマ美術界の寵児ベルニーニにも不遇の時代が到来します。そんな彼を再びバロック美術の柱として復活させたのが、次に教皇となったアレクサンデル7世。彼にサン・ピエトロ広場の設計を依頼しました。しかし、教皇クレメンス10世が即位し、財政悪化を理由に芸術への支出を削減。また、次のインノケンティウス11世は、更に厳しい緊縮を断行し、彼が計画していたサン・ピエトロ広場の第三の柱廊の建設中止を命じました。教皇庁が緊縮財政を厳しくするにつれ、バロック芸術の中心だったローマの活力は衰退し、やがてはパリがバロックの中心となっていきました。ローマ凋落の最中にベルニーニが亡くなったのが1680年。死の直前、多くの芸術作品を造り上げた右手は麻痺していたそうです。彼は、「長い間働いてきたこの腕が、私よりも先に休むのは当然のこと」と語っています。その後、バロック時代は終焉し、新古典主義の時代が訪れ、かつては教皇庁の寵児だったベルニーニの作品は「趣味の疫病」と酷評されたそうです。そしてベルニーニの作品が再び評価されるのは、20世紀になってからのことです。
     

  • サン・ピエトロ大聖堂 <br />聖アンドレ像<br />聖アンドレは聖ペテロの弟で、黒海沿岸で布教活動を行い、ギリシャやルーマニア、ロシアなどの守護聖人とされています。聖アンドレは斜め十字で磔刑され、故に聖アンドレを守護聖人とするスコットランドは斜め十字を国旗としています。因みに、スコットランドの有名ゴルフ場の名もセント・アンドリューです。また、イタリア南部アマルフィもこの聖アンドレが守護聖人。1544年にオスマン・トルコの海賊バルバロッサがアマルフィを襲撃しますが、撃退されました。これをアマルフィの人々は、聖アンドレの加護によるものと捉えたそうです。更には、フランス東部ブルゴーニュ地方の支配者ブルゴーニュ公フィリップ善良公が設立した金羊毛騎士団の守護聖人も聖アンドレ。その騎士団長の地位は、ブルゴーニュ公からハプスブルク家に継承され、現スペイン国王フアン・カルロス1世に伝えられているそうです。<br />

    サン・ピエトロ大聖堂 
    聖アンドレ像
    聖アンドレは聖ペテロの弟で、黒海沿岸で布教活動を行い、ギリシャやルーマニア、ロシアなどの守護聖人とされています。聖アンドレは斜め十字で磔刑され、故に聖アンドレを守護聖人とするスコットランドは斜め十字を国旗としています。因みに、スコットランドの有名ゴルフ場の名もセント・アンドリューです。 また、イタリア南部アマルフィもこの聖アンドレが守護聖人。1544年にオスマン・トルコの海賊バルバロッサがアマルフィを襲撃しますが、撃退されました。これをアマルフィの人々は、聖アンドレの加護によるものと捉えたそうです。更には、フランス東部ブルゴーニュ地方の支配者ブルゴーニュ公フィリップ善良公が設立した金羊毛騎士団の守護聖人も聖アンドレ。その騎士団長の地位は、ブルゴーニュ公からハプスブルク家に継承され、現スペイン国王フアン・カルロス1世に伝えられているそうです。

  • サン・ピエトロ大聖堂 <br />大聖堂を囲む美しい列柱廊や広場はベルニーニが1656年から11年掛けて完成させたものです。ドーリア式の柱、140体の聖人像は圧巻です。サン・ピエトロ大聖堂は全ての教会の母であるということで「信者を温かく迎える母の両腕のようなデザイン」を目指しました。ですから円柱列の円は閉じられていないのだそうです。晴らしい表現力ですね。<br />

    サン・ピエトロ大聖堂 
    大聖堂を囲む美しい列柱廊や広場はベルニーニが1656年から11年掛けて完成させたものです。ドーリア式の柱、140体の聖人像は圧巻です。サン・ピエトロ大聖堂は全ての教会の母であるということで「信者を温かく迎える母の両腕のようなデザイン」を目指しました。ですから円柱列の円は閉じられていないのだそうです。晴らしい表現力ですね。

  • サン・ピエトロ大聖堂 <br />広場の中央に屹立するオベリスクは、紀元前37年にローマ皇帝カリグラがエジプトからローマに運ばせたものです。ローマにあるこれ以外のオベリスクは中世を通して全て倒されましたが、これだけは一度も倒されていません。その理由をエジプト研究者ラビブ・ハバシュは、「このオベリスクがヴァチカン円形競技場(ネロの競技場)にあった時、聖ペテロをはじめ多くのキリスト教徒たちが死刑に処せられた。このオベリスクは聖ペテロの殉教の最後の目撃者であるとみなされたから倒されなかった」という説を紹介しています。また、このオベリスクは、エスクイリーノのオベリスク や クイリナーレのオベリスクと同様、ヒエログリフが彫られていません。これ以外の2本はコピーなのでヒエログリフがない理由は自明ですが、ヴァチカンのオベリスクにヒエログリフが彫られていない理由としては、切り出したエジプト王が急逝したためという仮説があります。空へ向って24.7m伸びたその先端はピラミッド型をなし、その上に中空の鉄の十字架が付けられ、イエスが磔刑に処された時の十字架の聖遺物が入っているとも言われています。<br />

    サン・ピエトロ大聖堂 
    広場の中央に屹立するオベリスクは、紀元前37年にローマ皇帝カリグラがエジプトからローマに運ばせたものです。ローマにあるこれ以外のオベリスクは中世を通して全て倒されましたが、これだけは一度も倒されていません。その理由をエジプト研究者ラビブ・ハバシュは、「このオベリスクがヴァチカン円形競技場(ネロの競技場)にあった時、聖ペテロをはじめ多くのキリスト教徒たちが死刑に処せられた。このオベリスクは聖ペテロの殉教の最後の目撃者であるとみなされたから倒されなかった」という説を紹介しています。また、このオベリスクは、エスクイリーノのオベリスク や クイリナーレのオベリスクと同様、ヒエログリフが彫られていません。これ以外の2本はコピーなのでヒエログリフがない理由は自明ですが、ヴァチカンのオベリスクにヒエログリフが彫られていない理由としては、切り出したエジプト王が急逝したためという仮説があります。空へ向って24.7m伸びたその先端はピラミッド型をなし、その上に中空の鉄の十字架が付けられ、イエスが磔刑に処された時の十字架の聖遺物が入っているとも言われています。

  • サン・ピエトロ大聖堂 「イースト・レバンテ」<br />オベリスクの根元近くに、地面に埋め込まれた大理石のブロックがあります。そのブロックは直径約1mの楕円形をなし、素朴な天使のような容貌が彫られています。「ウエスト・ポネンテ」には「ゼフュロス=西風の神」、「イースト・レバンテ」には「エウロス=東風の神」が彫刻されています。1818年に天文学者フィリッポ・ルイジ・ジリイによって設置されたもので、オベリスクを日時計として利用出来る様、北に子午線を設ける形で広場を舗装したそうです。「ウエスト・ポネンテ」の口から吹き出された強い5本の息はヴァチカンから真東へと向う空気として描かれ、『天使と悪魔』では「火」にまつわる次の殺害現場サンタ・マリア・デッラ・ヴィットリア教会への道標の役割を果たしました。<br />広場には迷路のように柵が張られ、パイプ椅子が並べられていたので立ち入れないと諦めていましたが、ツアーメンバーのYさんの手引きで「イースト・レバンテ」に辿り着くことができました。「ウエスト・ポネンテ」は柵の遥か彼方です。暫くして、警備員が入口の柵を締め切りました。新教皇に変わって間がなく、何かと行事があるので警備を強化しているのでしょう。場が場だけに、観光客優先というわけにはいきませんもの…。<br />

    サン・ピエトロ大聖堂 「イースト・レバンテ」
    オベリスクの根元近くに、地面に埋め込まれた大理石のブロックがあります。そのブロックは直径約1mの楕円形をなし、素朴な天使のような容貌が彫られています。「ウエスト・ポネンテ」には「ゼフュロス=西風の神」、「イースト・レバンテ」には「エウロス=東風の神」が彫刻されています。1818年に天文学者フィリッポ・ルイジ・ジリイによって設置されたもので、オベリスクを日時計として利用出来る様、北に子午線を設ける形で広場を舗装したそうです。「ウエスト・ポネンテ」の口から吹き出された強い5本の息はヴァチカンから真東へと向う空気として描かれ、『天使と悪魔』では「火」にまつわる次の殺害現場サンタ・マリア・デッラ・ヴィットリア教会への道標の役割を果たしました。
    広場には迷路のように柵が張られ、パイプ椅子が並べられていたので立ち入れないと諦めていましたが、ツアーメンバーのYさんの手引きで「イースト・レバンテ」に辿り着くことができました。「ウエスト・ポネンテ」は柵の遥か彼方です。暫くして、警備員が入口の柵を締め切りました。新教皇に変わって間がなく、何かと行事があるので警備を強化しているのでしょう。場が場だけに、観光客優先というわけにはいきませんもの…。

  • サン・ピエトロ大聖<br />オベリスクの根元には、教皇の冠を付けた鷲と星を冠した2頭のライオンのブロンズ像が飾られています。

    サン・ピエトロ大聖
    オベリスクの根元には、教皇の冠を付けた鷲と星を冠した2頭のライオンのブロンズ像が飾られています。

  • サン・ピエトロ大聖堂 <br />ヴァチカン市国は、教皇を元首とする独立国家。国として承認された時、教皇が「ハンカチほどの国」と言ったように世界最小の国です。面積は0.44平方km、東京ディズニーランド(0.52平方km)よりも小さいというから驚きです。 かつてこの地は「ウァティカヌスの丘」と呼ばれ、「ヴァチカン」という名の由来となっています。<br />14世紀までは教皇の司教座聖堂はコンスタンティヌスのバシリカでしたが、アヴィニョン捕囚によってラテラーノ宮殿が荒廃したため、1377年にサン・ピエトロ大聖堂が座所となりました。その後、1626年に現在のサン・ピエトロ大聖堂が完成し、床面積2万3000平方mとなり、キリスト教の建造物としては世界最大規模を誇っています。時が過ぎた1939年、大聖堂の地下10mの石積みの壁の奥から聖ペテロの墓が発見され、伝説は真実へと塗り替えられました。<br />

    サン・ピエトロ大聖堂 
    ヴァチカン市国は、教皇を元首とする独立国家。国として承認された時、教皇が「ハンカチほどの国」と言ったように世界最小の国です。面積は0.44平方km、東京ディズニーランド(0.52平方km)よりも小さいというから驚きです。 かつてこの地は「ウァティカヌスの丘」と呼ばれ、「ヴァチカン」という名の由来となっています。
    14世紀までは教皇の司教座聖堂はコンスタンティヌスのバシリカでしたが、アヴィニョン捕囚によってラテラーノ宮殿が荒廃したため、1377年にサン・ピエトロ大聖堂が座所となりました。その後、1626年に現在のサン・ピエトロ大聖堂が完成し、床面積2万3000平方mとなり、キリスト教の建造物としては世界最大規模を誇っています。時が過ぎた1939年、大聖堂の地下10mの石積みの壁の奥から聖ペテロの墓が発見され、伝説は真実へと塗り替えられました。

  • サン・ピエトロ大聖堂 <br />教皇ベネディクト16世が、2013年2月28日に辞任。教皇という重責に耐える体力がなくなったというのが主な理由。自ら枢機卿の前で発表し、ヴァチカンは大騒ぎになったそうです。そもそも教皇は終身制というのが不文律。前回の辞任はケレスティヌス5世で、1294年のことです。<br />カトリック教会を巡る話は、そこだけ中世が遺っている感じで日本人には馴染み難いものです。プロテスタントは、時代の潮流に呼応し、教会での男女の地位は平等で離婚も同性愛も認めています。一方、カトリックは同性愛などは認めません。教会での女性の地位はゴミ同然。堕胎も避妊ももってのほか。時代が変わった今も保守的な価値観を重視しています。<br />ベネディクト16世は、イスラム教や女性に対する不適切な言動が目立ちました。また、2011年にマルティン・ルターが修行したアウグスティン修道院がある旧東独エアフルトを訪れています。ドイツでは近年、カトリックとプロテスタントの歩み寄りが論じられ、教皇訪問でコペルニクス的転換が期待されていました。しかし、「私はお土産を持ってはこなかった」と冷や水を浴びせました。彼にとってプロテスタントは、永遠に「カトリックに背いた異端の宗教」なのです。<br />実は辞任発表の6時間後、不吉なことに大聖堂のクーポラを雷が直撃したそうです。イエスが磔刑された日も嵐となり、落雷があったとの伝承があります。これが「神の怒り」でないことを信じたいと願うのは、当方だけではないと思います。 <br />

    サン・ピエトロ大聖堂 
    教皇ベネディクト16世が、2013年2月28日に辞任。教皇という重責に耐える体力がなくなったというのが主な理由。自ら枢機卿の前で発表し、ヴァチカンは大騒ぎになったそうです。そもそも教皇は終身制というのが不文律。前回の辞任はケレスティヌス5世で、1294年のことです。
    カトリック教会を巡る話は、そこだけ中世が遺っている感じで日本人には馴染み難いものです。プロテスタントは、時代の潮流に呼応し、教会での男女の地位は平等で離婚も同性愛も認めています。一方、カトリックは同性愛などは認めません。教会での女性の地位はゴミ同然。堕胎も避妊ももってのほか。時代が変わった今も保守的な価値観を重視しています。
    ベネディクト16世は、イスラム教や女性に対する不適切な言動が目立ちました。また、2011年にマルティン・ルターが修行したアウグスティン修道院がある旧東独エアフルトを訪れています。ドイツでは近年、カトリックとプロテスタントの歩み寄りが論じられ、教皇訪問でコペルニクス的転換が期待されていました。しかし、「私はお土産を持ってはこなかった」と冷や水を浴びせました。彼にとってプロテスタントは、永遠に「カトリックに背いた異端の宗教」なのです。
    実は辞任発表の6時間後、不吉なことに大聖堂のクーポラを雷が直撃したそうです。イエスが磔刑された日も嵐となり、落雷があったとの伝承があります。これが「神の怒り」でないことを信じたいと願うのは、当方だけではないと思います。

  • 添乗員さんが口幅ったく言われていた「数分の出発遅れが、何十倍にもなって跳ね返ってくる」が不幸にも現実になってしまいました。原因は、バスのトラブルと現地ガイドさんとの価値観の相違という二つの不可抗力ですが、午前中の観光は不完全燃焼となりました。ローマ観光の「花形」と位置付けていたスポットだけに残念です。恐らく、午後の予定にも少なからず影響してくるでしょう。フリータイムの予定変更も勘案しておく必要がありそうな気配です。<br />この続きは、⑭ローマ編Part.2でお楽しみ下さい。<br />

    添乗員さんが口幅ったく言われていた「数分の出発遅れが、何十倍にもなって跳ね返ってくる」が不幸にも現実になってしまいました。原因は、バスのトラブルと現地ガイドさんとの価値観の相違という二つの不可抗力ですが、午前中の観光は不完全燃焼となりました。ローマ観光の「花形」と位置付けていたスポットだけに残念です。恐らく、午後の予定にも少なからず影響してくるでしょう。フリータイムの予定変更も勘案しておく必要がありそうな気配です。
    この続きは、⑭ローマ編Part.2でお楽しみ下さい。

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