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前段が長くなり恐縮ですが、ここからがフィレンツェ第一日目のツアーの始まりです。旅程にあるように、第一日目のメインはウフィッツィ美術館とピサ観光です。尚、ピサ観光については別の旅行記でレポしますで、第二日目のフリータイム(サンタ・クローチェ教会)を合わせてお届けします。<br />早朝は晴れていたのですが、ドゥオーモへ向かう途中で傘を差すことになりました。おまけに市民マラソン大会と重なり、周辺道路がコースとなっていて大変な混雑ぶりでした。ですから、ドゥオーモやサン・ジョヴァンニ洗礼堂の外観見学後、シニョーリア広場にある彫像などの説明もスキップで足早にウフィッツィ美術館入口に並びました。予約時間との兼ね合いもあるので、やむを得ないですね。予約制でありながら、すでに沢山の人が並んでいました。ウフィッツィ美術館では1時間強の短い時間でしたが、イタリア名画を堪能できました。やっぱり本物はいいですね。<br /><br /><日程><br />5月2日:出発(関空~ローマ経由ミラノ)アリタリア航空(AZ793便)<br />     アタホテル クァーク宿泊<br />5月3日:午前 ミラノ観光<br />     午後 ヴェローナ観光<br />     アマデウス(ヴェネツィア本島)宿泊<br />5月4日:ヴェネツィア観光<br />     午後 フィレンツェへバス移動(245km)<br />     クローチェ・ディ・マルタ宿泊 (2連泊)<br />5月5日:午前 フィレンツェ観光<br />     ドゥオーモ外観→シニョーリア広場→ウフィツィ美術館<br />     (1時間)→サンタ・クローチェ教会→革製品ショッピング→<br />     ランチ後、ピサへ移動(80km)<br />     奇蹟の広場→ドゥオーモ内部→斜塔入場→フリータイム<br />     クローチェ・ディ・マルタ宿泊 (2連泊)<br />5月6日:午前中フリータイム(ドゥオーモまで団体行動)<br />     サン・ロレンツォ教会→メディチ家礼拝堂→<br />     サンタ・クローチェ教会→ドゥオーモ内部見学→<br />     サン・ジョヴァンニ洗礼堂     <br />     ランチ(中華料理)後、<br />     イタリア版新幹線「イタロ」でナポリへ<br />     ヌオーヴォ城(車窓)→ポジリポの丘(下車)→卵城(下車)<br />     ホリディイン・ナポリ宿泊<br />5月7日:アマルフィ海岸ドライブ(3時間半)<br />     午後 ポンペイ遺跡見学<br />     水中翼船でカプリ島へ移動(45分)→フリータイム<br />     レジーナ・クリスティーナ宿泊<br />5月8日:カプリ島観光<br />     午後 ナポリ港着後、ローマへバスで移動<br />     シェラトン・ゴルフ・パルコ・デ・メディチ宿泊(2連泊)<br />5月9日:ローマ市内観光<br />     シェラトン・ゴルフ・パルコ・デ・メディチ宿泊(2連泊)<br />5月10日:午前 ローマ市内観光<br />     観光後、ローマ空港へ<br />     アリタリア航空(AZ792便)で一路関空へ <br />5月11日:関空着<br />

ときめきのイタリア周遊⑥フィレンツェ編Part2

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2013/05/02 - 2013/05/11

2位(同エリア3873件中)

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90

montsaintmichel

montsaintmichelさん

前段が長くなり恐縮ですが、ここからがフィレンツェ第一日目のツアーの始まりです。旅程にあるように、第一日目のメインはウフィッツィ美術館とピサ観光です。尚、ピサ観光については別の旅行記でレポしますで、第二日目のフリータイム(サンタ・クローチェ教会)を合わせてお届けします。
早朝は晴れていたのですが、ドゥオーモへ向かう途中で傘を差すことになりました。おまけに市民マラソン大会と重なり、周辺道路がコースとなっていて大変な混雑ぶりでした。ですから、ドゥオーモやサン・ジョヴァンニ洗礼堂の外観見学後、シニョーリア広場にある彫像などの説明もスキップで足早にウフィッツィ美術館入口に並びました。予約時間との兼ね合いもあるので、やむを得ないですね。予約制でありながら、すでに沢山の人が並んでいました。ウフィッツィ美術館では1時間強の短い時間でしたが、イタリア名画を堪能できました。やっぱり本物はいいですね。

<日程>
5月2日:出発(関空~ローマ経由ミラノ)アリタリア航空(AZ793便)
     アタホテル クァーク宿泊
5月3日:午前 ミラノ観光
     午後 ヴェローナ観光
     アマデウス(ヴェネツィア本島)宿泊
5月4日:ヴェネツィア観光
     午後 フィレンツェへバス移動(245km)
     クローチェ・ディ・マルタ宿泊 (2連泊)
5月5日:午前 フィレンツェ観光
     ドゥオーモ外観→シニョーリア広場→ウフィツィ美術館
     (1時間)→サンタ・クローチェ教会→革製品ショッピング→
     ランチ後、ピサへ移動(80km)
     奇蹟の広場→ドゥオーモ内部→斜塔入場→フリータイム
     クローチェ・ディ・マルタ宿泊 (2連泊)
5月6日:午前中フリータイム(ドゥオーモまで団体行動)
     サン・ロレンツォ教会→メディチ家礼拝堂→
     サンタ・クローチェ教会→ドゥオーモ内部見学→
     サン・ジョヴァンニ洗礼堂     
     ランチ(中華料理)後、
     イタリア版新幹線「イタロ」でナポリへ
     ヌオーヴォ城(車窓)→ポジリポの丘(下車)→卵城(下車)
     ホリディイン・ナポリ宿泊
5月7日:アマルフィ海岸ドライブ(3時間半)
     午後 ポンペイ遺跡見学
     水中翼船でカプリ島へ移動(45分)→フリータイム
     レジーナ・クリスティーナ宿泊
5月8日:カプリ島観光
     午後 ナポリ港着後、ローマへバスで移動
     シェラトン・ゴルフ・パルコ・デ・メディチ宿泊(2連泊)
5月9日:ローマ市内観光
     シェラトン・ゴルフ・パルコ・デ・メディチ宿泊(2連泊)
5月10日:午前 ローマ市内観光
     観光後、ローマ空港へ
     アリタリア航空(AZ792便)で一路関空へ 
5月11日:関空着

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
一人あたり費用
30万円 - 50万円
交通手段
観光バス 徒歩
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)
利用旅行会社
阪急交通社
  • ウフィッツィ美術館<br />日本人は(当方も例外なく)、フィレンツェと言えばまずウフィッツィ美術館を訪ねますが、アメリカ人はアカデミア美術館だそうです。教科書やガイドブックの紹介による刷り込みと国民性が関与しているように思えます。その結果、日本はまず『ヴィーナス誕生』で、アメリカは『ダビデ』なのでしょうね。アメリカ人が好む強さをアピールする存在は、日本人の感性では二の次となります。それよりも優美なものの方が順位が高いのでしょう。<br /><br />ウフィッツィ美術館の展示室と主だった作品の自作一覧表です。<br />ピンクは、制限時間1時間強でなんとか鑑賞できた作品です。<br /><br />展示室をチェックした公式サイトです。<br />http://www.uffizi.firenze.it/en/musei/?m=uffizi<br />中段にあるVisit the museumのレイアウト図をクリックすると3Fの大きなレイアウト図が立ち上がります。左上のスクロールから展示室番号を選ぶか、作品名(英語)を右上の欄に入力すれば、展示内容が確認できます。名画がズームアップで見られる優れものです。ご活用ください。<br />

    ウフィッツィ美術館
    日本人は(当方も例外なく)、フィレンツェと言えばまずウフィッツィ美術館を訪ねますが、アメリカ人はアカデミア美術館だそうです。教科書やガイドブックの紹介による刷り込みと国民性が関与しているように思えます。その結果、日本はまず『ヴィーナス誕生』で、アメリカは『ダビデ』なのでしょうね。アメリカ人が好む強さをアピールする存在は、日本人の感性では二の次となります。それよりも優美なものの方が順位が高いのでしょう。

    ウフィッツィ美術館の展示室と主だった作品の自作一覧表です。
    ピンクは、制限時間1時間強でなんとか鑑賞できた作品です。

    展示室をチェックした公式サイトです。
    http://www.uffizi.firenze.it/en/musei/?m=uffizi
    中段にあるVisit the museumのレイアウト図をクリックすると3Fの大きなレイアウト図が立ち上がります。左上のスクロールから展示室番号を選ぶか、作品名(英語)を右上の欄に入力すれば、展示内容が確認できます。名画がズームアップで見られる優れものです。ご活用ください。

  • ウフィッツィ美術館 プリマベーラ 春<br />ボッティチェリは1481〜1482年にシスティナ礼拝堂の壁画を手がけました。そしてフィレンツェに戻ってきて描いたのが「春」。彼の代表作であるだけでなく、イタリアルネッサンス絵画の最も有名な作品に数えられます。しかし、この作品の意味するものは、未だ分かっていないそうです。様々な見解が飛び交い、百家争鳴の感があります。 定説では、メディチ家の傍系ロレンツォ・イル・ピエルフランチェスコの注文とされてきました。元々この作品はメディチ・リッカルディ宮殿にあり、そこから郊外別荘のカステッロへ移されました。1550年には『春』が『ヴィーナスの誕生』と並んでカステッロにあったとヴァザーリが書き残しています。19世紀中頃にアカデミアギャラリーに移され、若い芸術家たちの研究に役立てられました。その後、1919年にウフィッツィ美術館に移されました。<br />舞台の設定は、奥に天空がちらっと覗くだけの薄暗い森の中。オレンジの木に囲まれた半円形の広場のような空間です。ヴィーナスを中心に9人の登場人物がリズム感よく配置されています。地表には、わすれな草、イリス、矢車草、キンポウゲ、ケシ、マルゲリータ(フランス菊)、スミレ、ジャスミンなど、誰が数えたのか知りませんが190種に及ぶ花が咲き乱れ、さながら植物園の様相です。登場人物と舞台設定は、ヴァザーリが次のように伝えています。舞台はヘリペリデス(ギリシャ神話の大地の女神)の庭。絵は「右から左に詠む」構成。まず右から風神ゼフュロスが枝を折り曲げながら飛来し、ニンフ(妖精)のクロリスをさらいます。彼女が身ごもり、隣にいるフローラとして再生されます。フローラは「春」の擬人化で、花を纏い、花を地面にまき散らしています。この変身はクロリスの口の端から一条の花が咲き出ていることから示唆されています。中央のヴィーナスは、左右対称の樹木で縁取りされています。他の人物よりも少し高い所にいますが、これはネオプラトニズムの「愛は至高のもの」を表わします。左手には「愛の三美神」が軽い布地を身に纏って踊り、その左にはマーキュリーが「永遠の春」を守るため、杖で雲を追い払っています。ヴィーナスの頭上には、目隠しされた息子キューピッドが飛翔し、弓で三美神の中央(貞節)を狙っています。<br />画像は、次のサイトからお借りしました。<br />http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Botticelli-primavera.jpg<br />

    ウフィッツィ美術館 プリマベーラ 春
    ボッティチェリは1481〜1482年にシスティナ礼拝堂の壁画を手がけました。そしてフィレンツェに戻ってきて描いたのが「春」。彼の代表作であるだけでなく、イタリアルネッサンス絵画の最も有名な作品に数えられます。しかし、この作品の意味するものは、未だ分かっていないそうです。様々な見解が飛び交い、百家争鳴の感があります。 定説では、メディチ家の傍系ロレンツォ・イル・ピエルフランチェスコの注文とされてきました。元々この作品はメディチ・リッカルディ宮殿にあり、そこから郊外別荘のカステッロへ移されました。1550年には『春』が『ヴィーナスの誕生』と並んでカステッロにあったとヴァザーリが書き残しています。19世紀中頃にアカデミアギャラリーに移され、若い芸術家たちの研究に役立てられました。その後、1919年にウフィッツィ美術館に移されました。
    舞台の設定は、奥に天空がちらっと覗くだけの薄暗い森の中。オレンジの木に囲まれた半円形の広場のような空間です。ヴィーナスを中心に9人の登場人物がリズム感よく配置されています。地表には、わすれな草、イリス、矢車草、キンポウゲ、ケシ、マルゲリータ(フランス菊)、スミレ、ジャスミンなど、誰が数えたのか知りませんが190種に及ぶ花が咲き乱れ、さながら植物園の様相です。登場人物と舞台設定は、ヴァザーリが次のように伝えています。舞台はヘリペリデス(ギリシャ神話の大地の女神)の庭。絵は「右から左に詠む」構成。まず右から風神ゼフュロスが枝を折り曲げながら飛来し、ニンフ(妖精)のクロリスをさらいます。彼女が身ごもり、隣にいるフローラとして再生されます。フローラは「春」の擬人化で、花を纏い、花を地面にまき散らしています。この変身はクロリスの口の端から一条の花が咲き出ていることから示唆されています。中央のヴィーナスは、左右対称の樹木で縁取りされています。他の人物よりも少し高い所にいますが、これはネオプラトニズムの「愛は至高のもの」を表わします。左手には「愛の三美神」が軽い布地を身に纏って踊り、その左にはマーキュリーが「永遠の春」を守るため、杖で雲を追い払っています。ヴィーナスの頭上には、目隠しされた息子キューピッドが飛翔し、弓で三美神の中央(貞節)を狙っています。
    画像は、次のサイトからお借りしました。
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Botticelli-primavera.jpg

  • ウフィッツィ美術館 受胎告知<br />レオナルドが20歳の時に描いた作品です(1472〜1475年頃)。天使ガブリエルが聖母マリアに受胎告知を告げるシーンです。天使の翼は、それまで金色や虹色で描かれていましたが、リアルに鳥の羽で表現したのが彼の真骨頂です。また、こうしたリアリティが強く出ているのが、天使が持つ百合の花。「受胎告知」では、百合の花のおしべは描かないことになっていました。それは、百合の花が純潔、「無原罪の御宿り」のシンボルだからです。しかし、彼は敢えておしべを描いています。その理屈が、「画家は自然を師としなければならない。画家は自然を模し自然と相競う」。<br />「作家は処女作に向かって成長する」という言葉があります。通常、初期作品には、その画家なり彫刻家の本質的部分が現れているそうです。レオナルドの場合も、微妙なやや曇りがちの夕方の光明、マリアのあるかなきかの僅かな表情、背後に見える靄に霞んだ風景などが挙げられます。そうしたところに『モナ・リザ』に通じるものが感じられます。<br />画像は、次のサイトからお借りしました。<br />http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Leonardo_da_Vinci_052.jpg<br />

    ウフィッツィ美術館 受胎告知
    レオナルドが20歳の時に描いた作品です(1472〜1475年頃)。天使ガブリエルが聖母マリアに受胎告知を告げるシーンです。天使の翼は、それまで金色や虹色で描かれていましたが、リアルに鳥の羽で表現したのが彼の真骨頂です。また、こうしたリアリティが強く出ているのが、天使が持つ百合の花。「受胎告知」では、百合の花のおしべは描かないことになっていました。それは、百合の花が純潔、「無原罪の御宿り」のシンボルだからです。しかし、彼は敢えておしべを描いています。その理屈が、「画家は自然を師としなければならない。画家は自然を模し自然と相競う」。
    「作家は処女作に向かって成長する」という言葉があります。通常、初期作品には、その画家なり彫刻家の本質的部分が現れているそうです。レオナルドの場合も、微妙なやや曇りがちの夕方の光明、マリアのあるかなきかの僅かな表情、背後に見える靄に霞んだ風景などが挙げられます。そうしたところに『モナ・リザ』に通じるものが感じられます。
    画像は、次のサイトからお借りしました。
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Leonardo_da_Vinci_052.jpg

  • ウフィッツィ美術館 ひわの聖母<br />「聖母の画家」と称されるラファエロの描く聖母は、ルネッサンス三巨匠の中でひときわ優しげな母性に溢れた女性像になっています。この作品は2000年から8年間かけて修復されました。<br />ラファエロがレオナルド風の背景に人物を三角形状に配した構図に初めて挑戦した意欲作です。聖母は本を手に座り、その膝の間に立つイエスは幼い洗礼者聖ヨハネが手にするヒワ鳥を撫でています。ヒワ鳥は、十字架を背負ってゴルゴダの丘に向かうイエスの頭上に止まり、額に刺さったトゲを抜こうとしてイエスの返り血を浴びたために赤い斑点ができたと伝えられる鳥です。イエスが迎えるべき受難の象徴を表すアトリビュートのひとつです。<br />この絵は、フィレンツェの裕福な商人ロレンツォ・ナーズィの結婚式のお祝いのために描かれた作品でした。ところが彼らの家が1547年に崩壊し、『ひわの聖母』はジグソーパズルのように17の破片と化しました。それをミケーレ・ディ・リドルフォ・デル・ギルランダイオが修復しましたが、その時の古傷のために再び修復が必要になったそうです。 修復には、補完的修復と保存的修復の2種類があり、『ひわの聖母』」は元の色彩成分を分析して塗り重ねたものなので、前者に当たります。後者はなるべく元の姿をそのまま保存しようという方向性で行われる修復です。時には後世に加筆された部分を「保存的修復」により取り除くこともあるそうです。<br />画像は、次のサイトからお借りしました。<br />http://www.wga.hu/art/r/raphael/2firenze/2/33cardel.jpg<br />

    ウフィッツィ美術館 ひわの聖母
    「聖母の画家」と称されるラファエロの描く聖母は、ルネッサンス三巨匠の中でひときわ優しげな母性に溢れた女性像になっています。この作品は2000年から8年間かけて修復されました。
    ラファエロがレオナルド風の背景に人物を三角形状に配した構図に初めて挑戦した意欲作です。聖母は本を手に座り、その膝の間に立つイエスは幼い洗礼者聖ヨハネが手にするヒワ鳥を撫でています。ヒワ鳥は、十字架を背負ってゴルゴダの丘に向かうイエスの頭上に止まり、額に刺さったトゲを抜こうとしてイエスの返り血を浴びたために赤い斑点ができたと伝えられる鳥です。イエスが迎えるべき受難の象徴を表すアトリビュートのひとつです。
    この絵は、フィレンツェの裕福な商人ロレンツォ・ナーズィの結婚式のお祝いのために描かれた作品でした。ところが彼らの家が1547年に崩壊し、『ひわの聖母』はジグソーパズルのように17の破片と化しました。それをミケーレ・ディ・リドルフォ・デル・ギルランダイオが修復しましたが、その時の古傷のために再び修復が必要になったそうです。 修復には、補完的修復と保存的修復の2種類があり、『ひわの聖母』」は元の色彩成分を分析して塗り重ねたものなので、前者に当たります。後者はなるべく元の姿をそのまま保存しようという方向性で行われる修復です。時には後世に加筆された部分を「保存的修復」により取り除くこともあるそうです。
    画像は、次のサイトからお借りしました。
    http://www.wga.hu/art/r/raphael/2firenze/2/33cardel.jpg

  • ウフィッツィ美術館からの景色<br />回廊の途中に唯一写真撮影が許される場所があります。窓ガラス越しになりますが、そこから俯瞰できるのはこうしたアルノ川沿いの風景です。<br />正面に見えるヴェッキオ橋は、橋上に貴金属店がずらりと並ぶ観光のメッカ。この橋はローマ帝国時代からあるものです。ところが木製の橋は洪水の時に流され、造り直してはまた流されを繰り返し、今ある橋は1333年の洪水後、1345年に建造されたものです。第二次世界大戦末期、ドイツ軍はフィレンツェに架かる全ての橋を破壊する計画だったものの、この橋だけはなぜか破壊を逃れるという奇跡もありました。<br />店舗の上に被さるのが、ヴァザーリの回廊。コジモ1世がヴェッキオ宮殿とウフィッツィ、ピッティ宮殿をつなぐために、ジョルジョ・ヴァザーリに作らせたもの。1565年の春から秋までのたった5ヶ月で完成。12月に行われるフランチェスコ一世とジョヴァンナ・ダウストリアとの結婚式に間に合うように計画されました。この空中回廊は、君主の政治を執り行う場所とその住居とを安全に往来できるように作られました。

    ウフィッツィ美術館からの景色
    回廊の途中に唯一写真撮影が許される場所があります。窓ガラス越しになりますが、そこから俯瞰できるのはこうしたアルノ川沿いの風景です。
    正面に見えるヴェッキオ橋は、橋上に貴金属店がずらりと並ぶ観光のメッカ。この橋はローマ帝国時代からあるものです。ところが木製の橋は洪水の時に流され、造り直してはまた流されを繰り返し、今ある橋は1333年の洪水後、1345年に建造されたものです。第二次世界大戦末期、ドイツ軍はフィレンツェに架かる全ての橋を破壊する計画だったものの、この橋だけはなぜか破壊を逃れるという奇跡もありました。
    店舗の上に被さるのが、ヴァザーリの回廊。コジモ1世がヴェッキオ宮殿とウフィッツィ、ピッティ宮殿をつなぐために、ジョルジョ・ヴァザーリに作らせたもの。1565年の春から秋までのたった5ヶ月で完成。12月に行われるフランチェスコ一世とジョヴァンナ・ダウストリアとの結婚式に間に合うように計画されました。この空中回廊は、君主の政治を執り行う場所とその住居とを安全に往来できるように作られました。

  • ウフィッツィ美術館からの景色<br />サン・フレディアーノ・イン・チェステッロ教会の印象に残るクーポラです。<br /><br />ウフィッツィ美術館の鑑賞時間はガイドさんと一緒に1時間程でしたが、有名所は全てカバーできました。ただ、「ウルヴィーノのビーナス」が出稼ぎ中だったのが残念でした。<br /><br />ウフィッツィ美術館で留意すべき点は、ヴェネツィアのサン・マルコ寺院やヴァチカン博物館と同様にリュック・サックの持込が禁止になっていることです。入口で預けることになりますので、受け取りに時間を要することになります。また、飲料水の持ち込みも禁止です。<br /><br />

    ウフィッツィ美術館からの景色
    サン・フレディアーノ・イン・チェステッロ教会の印象に残るクーポラです。

    ウフィッツィ美術館の鑑賞時間はガイドさんと一緒に1時間程でしたが、有名所は全てカバーできました。ただ、「ウルヴィーノのビーナス」が出稼ぎ中だったのが残念でした。

    ウフィッツィ美術館で留意すべき点は、ヴェネツィアのサン・マルコ寺院やヴァチカン博物館と同様にリュック・サックの持込が禁止になっていることです。入口で預けることになりますので、受け取りに時間を要することになります。また、飲料水の持ち込みも禁止です。

  • ウフィッツィ美術館からサント・スピリト教会の鐘楼<br />彫刻では「ラオコーン」のコピーに感動しました。オリジナルをヴァチカン博物館で観る予定だったのですが、後のローマ編でレポするようにヴァチカンでは鑑賞できませんでした。コピーと言えど、一見の価値のある彫像です。<br /><br />1515年マリニャーノの戦いで勝利したフランス国王フランソワ1世は戦利品として「ラオコーン」像を要求しますが、当時のローマ教皇レオ10世は彫刻家にコピーを作らせ、結局はそのコピーすら送らずにフランス王の要求を無視します。この時に作られたコピーが、ウフィッツィ美術館所蔵のものです。 <br />16世紀にコロッセオ近くのネロ帝 黄金宮殿の遺跡から発掘された、紀元前42〜20年頃に制作されたヘレニズム最盛期の大理石製彫像。<br />ラオコーンとは、ギリシャ神話に登場するトロイアのアポロ神殿の神官。ラオコーンは、トロイア戦争で敵アテネ軍の策略に嵌ってトロイアの木馬を市内に運び込もうとする市民を止めるため、木馬に槍を投げつけます。しかし、この行為が女神ミネルヴァの逆鱗に触れ、ラオコーンは両目を潰された上、海に潜む2頭の蛇の怪物に襲われます。彫像の中央で海蛇に巻かれているのがラオコーン。両脇にいるのは彼の子供ですが、親子ともども怪物に絞め殺されてしまいます。<br />別の解釈では、海蛇を送ってラオコーン親子を襲わせたのはポセイドンあるいはアポロだとの説もあります。アポロはトロイア戦争でトロイア側に味方した神ですが、ラオコーンがかつて自分の神殿内で妻と不貞を働いたための罰を与えたという解釈です。<br />この彫像の躍動する筋肉や表現がミケランジェロに多大なインスピレーションを与えたと言われます。古代ローマの博物家プリニウス著「博物記」は、この彫像の制作者はロドス島出身アゲサンドロス、アテノドロス、ポリュドロスの3人としています。<br />ラオコーンについては次のサイトを参照下さい。<br />http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%AA%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B3%E5%83%8F<br /><br />

    ウフィッツィ美術館からサント・スピリト教会の鐘楼
    彫刻では「ラオコーン」のコピーに感動しました。オリジナルをヴァチカン博物館で観る予定だったのですが、後のローマ編でレポするようにヴァチカンでは鑑賞できませんでした。コピーと言えど、一見の価値のある彫像です。

    1515年マリニャーノの戦いで勝利したフランス国王フランソワ1世は戦利品として「ラオコーン」像を要求しますが、当時のローマ教皇レオ10世は彫刻家にコピーを作らせ、結局はそのコピーすら送らずにフランス王の要求を無視します。この時に作られたコピーが、ウフィッツィ美術館所蔵のものです。
    16世紀にコロッセオ近くのネロ帝 黄金宮殿の遺跡から発掘された、紀元前42〜20年頃に制作されたヘレニズム最盛期の大理石製彫像。
    ラオコーンとは、ギリシャ神話に登場するトロイアのアポロ神殿の神官。ラオコーンは、トロイア戦争で敵アテネ軍の策略に嵌ってトロイアの木馬を市内に運び込もうとする市民を止めるため、木馬に槍を投げつけます。しかし、この行為が女神ミネルヴァの逆鱗に触れ、ラオコーンは両目を潰された上、海に潜む2頭の蛇の怪物に襲われます。彫像の中央で海蛇に巻かれているのがラオコーン。両脇にいるのは彼の子供ですが、親子ともども怪物に絞め殺されてしまいます。
    別の解釈では、海蛇を送ってラオコーン親子を襲わせたのはポセイドンあるいはアポロだとの説もあります。アポロはトロイア戦争でトロイア側に味方した神ですが、ラオコーンがかつて自分の神殿内で妻と不貞を働いたための罰を与えたという解釈です。
    この彫像の躍動する筋肉や表現がミケランジェロに多大なインスピレーションを与えたと言われます。古代ローマの博物家プリニウス著「博物記」は、この彫像の制作者はロドス島出身アゲサンドロス、アテノドロス、ポリュドロスの3人としています。
    ラオコーンについては次のサイトを参照下さい。
    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%AA%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B3%E5%83%8F

  • ウフィッツィ美術館 テラスからの景色<br />テラスで写真タイムを取っていただきました。<br />テラスからは、ヴェッキオ宮殿やアルノルフォの塔を間近に見ることができます。<br /><br /><br />

    ウフィッツィ美術館 テラスからの景色
    テラスで写真タイムを取っていただきました。
    テラスからは、ヴェッキオ宮殿やアルノルフォの塔を間近に見ることができます。


  • ウフィッツィ美術館 テラスからの景色<br />ドゥオーモの美しいクーポラも手に取るように眺めることができます。<br />

    ウフィッツィ美術館 テラスからの景色
    ドゥオーモの美しいクーポラも手に取るように眺めることができます。

  • ウフィッツィ美術館 テラスからの景色<br />トイレは1階の奥まった所にあります。めんどうですが、トイレ事情の悪いイタリアですので、美術館やレストラン、ショップで済ませておくことをお勧めします。<br /><br />

    ウフィッツィ美術館 テラスからの景色
    トイレは1階の奥まった所にあります。めんどうですが、トイレ事情の悪いイタリアですので、美術館やレストラン、ショップで済ませておくことをお勧めします。

  • サンタ・クローチェ教会<br />ウフィッツィ美術館を後にして革製品のショッピングに向かいます。場所は、サンタ・クローチェ教会のすぐ近くです。<br /><br />この教会の母体は、1228年に聖フランチェスコがフィレンツェ初のフランチェスコ派教会として建造した教会です。その後、信者や修道士の急増に伴い、サンタ・クローチェ教会が建造され、1443年に現在の大きさになり、1863年にファサードの装飾が取り付けられました。

    サンタ・クローチェ教会
    ウフィッツィ美術館を後にして革製品のショッピングに向かいます。場所は、サンタ・クローチェ教会のすぐ近くです。

    この教会の母体は、1228年に聖フランチェスコがフィレンツェ初のフランチェスコ派教会として建造した教会です。その後、信者や修道士の急増に伴い、サンタ・クローチェ教会が建造され、1443年に現在の大きさになり、1863年にファサードの装飾が取り付けられました。

  • サンタ・クローチェ教会<br />ファサードにはダビデの星が燦然と輝いています。ダビデの星と聞くとユダヤ教を思い浮かべ、この教会は一体何者なかと勘ぐってしまいそうです。実際、ダビデの星はユダヤ教やユダヤ民族の象徴です。2つの正三角形を逆に重ねた六芒星(ヘキサグラム)は、イスラエルの国旗にも描かれています。また、このシンボルは古代イスラエルのダビデ王に由来し、ナチス支配下にユダヤ人は黄色の六芒星を付けさせられたそうです。<br />元々、聖書には「ダビデの星」についての記述はないそうです。東方三博士は星が流れた方角に救世主が生まれるとの預言で旅立ちますが、この星が六芒星の形をしていたとは書かれていません。つまり、19世紀までキリスト教の建築において「ダビデの星」は、純粋に装飾的なモチーフとしての意味合いしかなかったということになります。そして、19世紀以降に六芒星=ユダヤのシンボルという認識が深まっていったのです。実際、キリスト教の建造物に見られる「ダビデの星」には2種類あります。輪郭線だけのシンプルな六芒星は「死」を象徴し、死に関連した場面に描かれます。装飾的な六芒星は「生命」を表わし、教会の正面や祭壇の装飾で使われます。この教会のファサードの六芒星も装飾が入っているので、後者の意味になるのでしょう。この教会のファサードを設計したニコロ・マタスがユダヤ人なので、「ダビデの星」で装飾したという経緯もあるのかもしれません。

    サンタ・クローチェ教会
    ファサードにはダビデの星が燦然と輝いています。ダビデの星と聞くとユダヤ教を思い浮かべ、この教会は一体何者なかと勘ぐってしまいそうです。実際、ダビデの星はユダヤ教やユダヤ民族の象徴です。2つの正三角形を逆に重ねた六芒星(ヘキサグラム)は、イスラエルの国旗にも描かれています。また、このシンボルは古代イスラエルのダビデ王に由来し、ナチス支配下にユダヤ人は黄色の六芒星を付けさせられたそうです。
    元々、聖書には「ダビデの星」についての記述はないそうです。東方三博士は星が流れた方角に救世主が生まれるとの預言で旅立ちますが、この星が六芒星の形をしていたとは書かれていません。つまり、19世紀までキリスト教の建築において「ダビデの星」は、純粋に装飾的なモチーフとしての意味合いしかなかったということになります。そして、19世紀以降に六芒星=ユダヤのシンボルという認識が深まっていったのです。実際、キリスト教の建造物に見られる「ダビデの星」には2種類あります。輪郭線だけのシンプルな六芒星は「死」を象徴し、死に関連した場面に描かれます。装飾的な六芒星は「生命」を表わし、教会の正面や祭壇の装飾で使われます。この教会のファサードの六芒星も装飾が入っているので、後者の意味になるのでしょう。この教会のファサードを設計したニコロ・マタスがユダヤ人なので、「ダビデの星」で装飾したという経緯もあるのかもしれません。

  • サンタ・クローチェ教会<br />ファサードの一画には、A(アルファ=α)とΩ(オメガ)の文字が見えます。ギリシャ文字のアルファベットでは、最初がアルファ(A)で、最後がオメガ(Ω)となります。聖書ではAとΩは万物の最初と最後を意味し、永遠の存在者である神とイエスを指すそうです。<br />

    サンタ・クローチェ教会
    ファサードの一画には、A(アルファ=α)とΩ(オメガ)の文字が見えます。ギリシャ文字のアルファベットでは、最初がアルファ(A)で、最後がオメガ(Ω)となります。聖書ではAとΩは万物の最初と最後を意味し、永遠の存在者である神とイエスを指すそうです。

  • サンタ・クローチェ教会 ダンテ像<br />ダンテは1265年にフィレンツェで生まれ、聖ジョヴァンニ洗礼堂で洗礼を受け、「永続する者」の意味を持つドゥランテと名付けられます。「ダンテ」は、ドゥランテの名を縮めたもの。フィレンツェの詩人から大きな感化を受け、「清新体」と呼ばれる詩風を創り上げます。清新体とは13世紀イタリアの文学運動を指します。「愛」と「精神の気高さ」がこの時代の主要テーマでした。最初に「清新体」という言葉を使ったのは、他ならぬダンテです。<br />13世紀の北〜中部イタリアは、各自治都市がグェルフィ党(教皇派)とギベリーニ党(神聖ローマ皇帝派)に分裂し、反目しあっていました。フィレンツェはグェルフィ党に属し、ダンテもグェルフィ党員として1289年のカンパルディーノの合戦に騎兵隊員として参戦しています。しかし、グェルフィ党はこの合戦で勝利した後、自立政策を掲げる富裕市民層「白党」と教皇に強く結びつこうとする封建貴族支持「黒党」に分裂します。ダンテは白党に属しますが、やがて黒党が実権を握り、ダンテが不在の間に欠席裁判で市外追放と罰金刑を宣告されてしまいます。こうして流浪の生活が始まります。やがてラヴェンナに落ち着いたダンテは、そこで『神曲』を執筆します。そのまま彼の地で客死したダンテの墓はラヴェンナにあり、フィレンツェは遺骨の返還を要求しましたが、ラヴェンナはこれに応じていません。こうしてフィレンツェのサンタクローチェ教会の中には、今も主のいない空の墓碑が置かれています。教会前の広場にダンテ像が設置されたのは1865年、ダンテ生誕600年の記念でした。彫刻家エンリコ・パッツィ作。当初は広場の中央に設置されましたが、広場で開催されるカルチョ・イン・コスチューメ(中世サッカー)の邪魔になるため、現在の教会正面左手に移設されたそうです。

    サンタ・クローチェ教会 ダンテ像
    ダンテは1265年にフィレンツェで生まれ、聖ジョヴァンニ洗礼堂で洗礼を受け、「永続する者」の意味を持つドゥランテと名付けられます。「ダンテ」は、ドゥランテの名を縮めたもの。フィレンツェの詩人から大きな感化を受け、「清新体」と呼ばれる詩風を創り上げます。清新体とは13世紀イタリアの文学運動を指します。「愛」と「精神の気高さ」がこの時代の主要テーマでした。最初に「清新体」という言葉を使ったのは、他ならぬダンテです。
    13世紀の北〜中部イタリアは、各自治都市がグェルフィ党(教皇派)とギベリーニ党(神聖ローマ皇帝派)に分裂し、反目しあっていました。フィレンツェはグェルフィ党に属し、ダンテもグェルフィ党員として1289年のカンパルディーノの合戦に騎兵隊員として参戦しています。しかし、グェルフィ党はこの合戦で勝利した後、自立政策を掲げる富裕市民層「白党」と教皇に強く結びつこうとする封建貴族支持「黒党」に分裂します。ダンテは白党に属しますが、やがて黒党が実権を握り、ダンテが不在の間に欠席裁判で市外追放と罰金刑を宣告されてしまいます。こうして流浪の生活が始まります。やがてラヴェンナに落ち着いたダンテは、そこで『神曲』を執筆します。そのまま彼の地で客死したダンテの墓はラヴェンナにあり、フィレンツェは遺骨の返還を要求しましたが、ラヴェンナはこれに応じていません。こうしてフィレンツェのサンタクローチェ教会の中には、今も主のいない空の墓碑が置かれています。教会前の広場にダンテ像が設置されたのは1865年、ダンテ生誕600年の記念でした。彫刻家エンリコ・パッツィ作。当初は広場の中央に設置されましたが、広場で開催されるカルチョ・イン・コスチューメ(中世サッカー)の邪魔になるため、現在の教会正面左手に移設されたそうです。

  • サンタ・クローチェ教会前広場<br />教会に向かって広場の右手にある建物です。窓と窓の間隔が左に行くほど狭くなっています。故に、右手から建物を見ると実物以上に長く見えるように騙し絵的な錯覚を起こさせる設計です。建築家は不明ですが、16世紀の芸術家バッチョ・ダニョロに近い人だと言われています。この建物は、17世紀にはアンテッラ家に所有権が移り、フレスコ画の装飾がなされました。メディチ家宮廷の画家であったジョヴァンニ・ダ・サンジョヴァンニを中心に13人の若手画家が数週間で完成させました。テーマは「美徳と神」。このフレスコ画の中には「眠る天使」の絵があるそうです。色はかなり薄れて探せませんが、カラヴァッジョ作「眠れるアモル」のコピーだそうです。 <br />

    サンタ・クローチェ教会前広場
    教会に向かって広場の右手にある建物です。窓と窓の間隔が左に行くほど狭くなっています。故に、右手から建物を見ると実物以上に長く見えるように騙し絵的な錯覚を起こさせる設計です。建築家は不明ですが、16世紀の芸術家バッチョ・ダニョロに近い人だと言われています。この建物は、17世紀にはアンテッラ家に所有権が移り、フレスコ画の装飾がなされました。メディチ家宮廷の画家であったジョヴァンニ・ダ・サンジョヴァンニを中心に13人の若手画家が数週間で完成させました。テーマは「美徳と神」。このフレスコ画の中には「眠る天使」の絵があるそうです。色はかなり薄れて探せませんが、カラヴァッジョ作「眠れるアモル」のコピーだそうです。

  • 革製品ショップ Galleria MICHELANGELO<br />サンタ・クローチェ教会まで歩いてきたところで、ショッピングタイムとなりました。主人は、この時間を使ってオル・サン・ミケーレ教会へ足を運びます。当方は革財布が欲しかったのでショッピングに勤しみます。<br />ショップ名は、「Galleria MICHELANGELO」。教会に向かって左側の通り沿いですが、看板が出ていません。判り難いのですが、日本人ツアー御用達といった感じのトイレ休憩を兼ねたショップです。翌日のフリータイムではトイレをお借りしました。写真に写っているアーチを奥に進むと右手にレジカウンターがあります。その裏手がトイレです。トイレだけ借りられないようにわざと判りにくくしているのかもしれません。でも日本人ならwelcomeだと思います。<br />ショップの国内販売サイトです(日本語)。<br />http://www.kawas.jp/page/1<br />

    革製品ショップ Galleria MICHELANGELO
    サンタ・クローチェ教会まで歩いてきたところで、ショッピングタイムとなりました。主人は、この時間を使ってオル・サン・ミケーレ教会へ足を運びます。当方は革財布が欲しかったのでショッピングに勤しみます。
    ショップ名は、「Galleria MICHELANGELO」。教会に向かって左側の通り沿いですが、看板が出ていません。判り難いのですが、日本人ツアー御用達といった感じのトイレ休憩を兼ねたショップです。翌日のフリータイムではトイレをお借りしました。写真に写っているアーチを奥に進むと右手にレジカウンターがあります。その裏手がトイレです。トイレだけ借りられないようにわざと判りにくくしているのかもしれません。でも日本人ならwelcomeだと思います。
    ショップの国内販売サイトです(日本語)。
    http://www.kawas.jp/page/1

  • オル・サン・ミケーレ教会 『聖ステファノ』像 <br />今来た道をカルツァイウォーリ通りまでひたすら戻ります。と言っても700m程、10分弱の距離です。シニョーリア広場から2ブロック先にある教会です。入口はカルツァイウォーリ通りの反対側にあります。<br /><br />教会入口に向かって右に2つの壁龕があります。その左側が羊毛組合寄進のもので、ロレンツォ・ギベルティ作『聖ステファノ』。石打の刑になった殉教聖人です。<br /><br />当方のように旅程以外のスポットにアプローチする場合、詳細日程をツアー会社に確認されて計画されることをお勧めします。出発の2週間前には確定しています。例えば、どのタイミングでどれ位の時間のショッピング・タイムが適用され、その場所は何処、ホテル出発・到着時間、フリータイムの時間と解散・集合場所など。何故なら、今回の旅程ではショッピング・タイムが潤沢にとられていたからです。イタリアのトイレ事情を鑑みると団体ツアーでは止むを得ない面もありますが、物欲のない方はショッピング・タイムを利用して旅程にないスポットを訪ねることができます。ただし、時間が落ちていればショッピング・タイムは削られます。諦めも肝心ですのでバリエーションも準備しましょう。思ったように行かないのが世の常ですから…。<br />ツアー会社の担当者には真摯に対応していただき、大変感謝しております。

    オル・サン・ミケーレ教会 『聖ステファノ』像 
    今来た道をカルツァイウォーリ通りまでひたすら戻ります。と言っても700m程、10分弱の距離です。シニョーリア広場から2ブロック先にある教会です。入口はカルツァイウォーリ通りの反対側にあります。

    教会入口に向かって右に2つの壁龕があります。その左側が羊毛組合寄進のもので、ロレンツォ・ギベルティ作『聖ステファノ』。石打の刑になった殉教聖人です。

    当方のように旅程以外のスポットにアプローチする場合、詳細日程をツアー会社に確認されて計画されることをお勧めします。出発の2週間前には確定しています。例えば、どのタイミングでどれ位の時間のショッピング・タイムが適用され、その場所は何処、ホテル出発・到着時間、フリータイムの時間と解散・集合場所など。何故なら、今回の旅程ではショッピング・タイムが潤沢にとられていたからです。イタリアのトイレ事情を鑑みると団体ツアーでは止むを得ない面もありますが、物欲のない方はショッピング・タイムを利用して旅程にないスポットを訪ねることができます。ただし、時間が落ちていればショッピング・タイムは削られます。諦めも肝心ですのでバリエーションも準備しましょう。思ったように行かないのが世の常ですから…。
    ツアー会社の担当者には真摯に対応していただき、大変感謝しております。

  • オル・サン・ミケーレ教会 『聖エリギウス』像<br />右側が蹄鉄工組合のもので、ナンニ・ディ・バンコ作『聖エリギウス』。彼はフランス、リモージュ生まれの聖人で、金属を扱う職人でした。数々の修道院を建立する敬虔なキリスト教徒で、ノワイヨンの司教にもなりました。<br />ある日、暴れ馬に蹄鉄を打つため、その脚を切り落とし、作業を終えてから奇跡によって切断した脚を元に戻したと伝えられます。この壁龕の中には鍛冶屋の象徴のヤットコがデザインされています。そして彫像が立つ基盤には、暴れ馬に蹄鉄を打ちつける聖人の姿が表されています。

    オル・サン・ミケーレ教会 『聖エリギウス』像
    右側が蹄鉄工組合のもので、ナンニ・ディ・バンコ作『聖エリギウス』。彼はフランス、リモージュ生まれの聖人で、金属を扱う職人でした。数々の修道院を建立する敬虔なキリスト教徒で、ノワイヨンの司教にもなりました。
    ある日、暴れ馬に蹄鉄を打つため、その脚を切り落とし、作業を終えてから奇跡によって切断した脚を元に戻したと伝えられます。この壁龕の中には鍛冶屋の象徴のヤットコがデザインされています。そして彫像が立つ基盤には、暴れ馬に蹄鉄を打ちつける聖人の姿が表されています。

  • オル・サン・ミケーレ教会 『聖エリギウス』像<br />基盤に彫られた、暴れ馬に蹄鉄を打ちつける聖人の姿です。 <br />上の壁龕の中には、ヤットコのデザインも見られます。<br />

    オル・サン・ミケーレ教会 『聖エリギウス』像
    基盤に彫られた、暴れ馬に蹄鉄を打ちつける聖人の姿です。
    上の壁龕の中には、ヤットコのデザインも見られます。

  • オル・サン・ミケーレ教会 『聖マタイ』像 ギベルティ作<br />教会内部は残念ながら写真撮影禁止になっていました。<br />内部には、聖マリアの母である聖アンナの祭壇があります。イエスとマリア、アンナの像は、フランチェスコ・ダ・サンガッロによる16世紀の作品。かつてここにあったアテネ公追放記念に制作された絵画の代わりに設置されたものです。<br />14世紀、フランス系貴族アテネ公グアルティエリはフィレンツェ共和国の長官として迎えられました。その時、フィレンツェは、エドワード3世が銀行から借入した金の返済を滞らせたため、経済危機に陥っていました。銀行破産と疫病ペストの蔓延。これが時代の様相に翳りを与えていました。異邦人を長官に据えたのは、分裂したグエルフィ派とギッベリーニ派に中立な立場を執らせる配慮からでした。意に反し、アテネ公は、フィレンツェを追放された領主と結び、専制支配を執ろうと企てました。こうして、長官に迎えて10ヶ月後にフィレンツェは叛旗を翻し、1343年7月26日(聖アンナの日)にアテネ公は追放されます。その後、この追放劇が栄光ある歴史として語り継がれ、その記念碑として聖アンナ像が飾られています。 <br />

    オル・サン・ミケーレ教会 『聖マタイ』像 ギベルティ作
    教会内部は残念ながら写真撮影禁止になっていました。
    内部には、聖マリアの母である聖アンナの祭壇があります。イエスとマリア、アンナの像は、フランチェスコ・ダ・サンガッロによる16世紀の作品。かつてここにあったアテネ公追放記念に制作された絵画の代わりに設置されたものです。
    14世紀、フランス系貴族アテネ公グアルティエリはフィレンツェ共和国の長官として迎えられました。その時、フィレンツェは、エドワード3世が銀行から借入した金の返済を滞らせたため、経済危機に陥っていました。銀行破産と疫病ペストの蔓延。これが時代の様相に翳りを与えていました。異邦人を長官に据えたのは、分裂したグエルフィ派とギッベリーニ派に中立な立場を執らせる配慮からでした。意に反し、アテネ公は、フィレンツェを追放された領主と結び、専制支配を執ろうと企てました。こうして、長官に迎えて10ヶ月後にフィレンツェは叛旗を翻し、1343年7月26日(聖アンナの日)にアテネ公は追放されます。その後、この追放劇が栄光ある歴史として語り継がれ、その記念碑として聖アンナ像が飾られています。

  • オル・サン・ミケーレ教会 『聖ペテロ』像<br />北側には4つの彫像が並び、左端は15世紀半ばのドナテッロ作、肉屋組合が寄贈した「聖ペテロ」。イエスがペテロに手渡した天国の鍵を持っています。<br />

    オル・サン・ミケーレ教会 『聖ペテロ』像
    北側には4つの彫像が並び、左端は15世紀半ばのドナテッロ作、肉屋組合が寄贈した「聖ペテロ」。イエスがペテロに手渡した天国の鍵を持っています。

  • オル・サン・ミケーレ教会 『聖ペテロ』像<br />教会内部のもうひとつの見所は、『聖母子と天使たち』です。<br />14世紀半ばにアンドレア・オルカーニャが10年間を費やして制作した祭壇には、ベルナルド・ダッディ作『聖母子と天使たち』(1347年)が収められています。元々ここには「奇跡を招く」と評判のウゴリーノ・ディ・ネーリオ作「聖母像」がありましたが、14世紀初頭に焼失し、その代わりにベルナルドが聖母子像を描きました。 絵画を収める壁龕は、色のついた大理石や金箔を幾何学模様に嵌め込んだ繊細な天蓋で構成されています。小礼拝堂には4本の螺旋状の小柱がついた柱があり、ベースの部分は「美徳」や「マリアの物語」が高浮き彫りされたパネルで装飾されています。反対に祭壇の裏側は、大きな浅浮き彫りの「聖母被昇天」が見られます。疫病や銀行破産が続く暗澹たる時代、その時代背景を絵画に反映させたオルカーニャは、ジョットの生み出した「人間らしさ」から「神の厳格さ」へと中世に後戻りした作風を凝らしています。<br />

    オル・サン・ミケーレ教会 『聖ペテロ』像
    教会内部のもうひとつの見所は、『聖母子と天使たち』です。
    14世紀半ばにアンドレア・オルカーニャが10年間を費やして制作した祭壇には、ベルナルド・ダッディ作『聖母子と天使たち』(1347年)が収められています。元々ここには「奇跡を招く」と評判のウゴリーノ・ディ・ネーリオ作「聖母像」がありましたが、14世紀初頭に焼失し、その代わりにベルナルドが聖母子像を描きました。 絵画を収める壁龕は、色のついた大理石や金箔を幾何学模様に嵌め込んだ繊細な天蓋で構成されています。小礼拝堂には4本の螺旋状の小柱がついた柱があり、ベースの部分は「美徳」や「マリアの物語」が高浮き彫りされたパネルで装飾されています。反対に祭壇の裏側は、大きな浅浮き彫りの「聖母被昇天」が見られます。疫病や銀行破産が続く暗澹たる時代、その時代背景を絵画に反映させたオルカーニャは、ジョットの生み出した「人間らしさ」から「神の厳格さ」へと中世に後戻りした作風を凝らしています。

  • オル・サン・ミケーレ教会 『聖トマスの疑惑』像<br />目抜き通りのカルツァイオーリ通りに面した東側中央には、「聖トマスの不信」像があります。「手を伸ばして私の脇腹に差し入れてみなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。トマスはイエスの復活を疑いました。そこでイエスは、トマスに傷口に触らせて奇跡を確かめさせます。これはそのシーンを表した、レオナルドの師匠ヴェロッキオ作の彫像。元は、ここにはドナテッロ作「聖ルイ像」が置かれていました。そのため、壁龕壁の奥行きは浅く、ヴェロッキオは左手前にトマス、右奥にイエスを斜めに配置することで対処しました。それでもトマスの右足が壁龕の外に迫り出しています。豊かな衣服のドレープが美しい作品です。<br />余談ですが、このイエスの右手は、時々誰かの悪戯でタバコを挟んでいるそうです。彫像自体がかなり高所にあるので、悪戯をするには相当のエネルギーが必要なのですが…。<br />

    オル・サン・ミケーレ教会 『聖トマスの疑惑』像
    目抜き通りのカルツァイオーリ通りに面した東側中央には、「聖トマスの不信」像があります。「手を伸ばして私の脇腹に差し入れてみなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」。トマスはイエスの復活を疑いました。そこでイエスは、トマスに傷口に触らせて奇跡を確かめさせます。これはそのシーンを表した、レオナルドの師匠ヴェロッキオ作の彫像。元は、ここにはドナテッロ作「聖ルイ像」が置かれていました。そのため、壁龕壁の奥行きは浅く、ヴェロッキオは左手前にトマス、右奥にイエスを斜めに配置することで対処しました。それでもトマスの右足が壁龕の外に迫り出しています。豊かな衣服のドレープが美しい作品です。
    余談ですが、このイエスの右手は、時々誰かの悪戯でタバコを挟んでいるそうです。彫像自体がかなり高所にあるので、悪戯をするには相当のエネルギーが必要なのですが…。

  • オル・サン・ミケーレ教会<br />教会の外側4つの角には、それぞれ胸の高さに小さなレリーフが見られます。磨り減っていて見え難いのですが、それぞれが四季の1つを表しています。<br /><br />青っぽい写真は早朝に写した証です。他の写真は昼間に撮り直したのですが、一部漏れがありました。当方の写真のホワイトバランスの設定は、原則として晴天モード固定です。これは、見た目通りの画像を記録に残しておきたいからです。WBモードを変更すれば昼間に近い写真になりますが、早朝の感じが出ません。

    オル・サン・ミケーレ教会
    教会の外側4つの角には、それぞれ胸の高さに小さなレリーフが見られます。磨り減っていて見え難いのですが、それぞれが四季の1つを表しています。

    青っぽい写真は早朝に写した証です。他の写真は昼間に撮り直したのですが、一部漏れがありました。当方の写真のホワイトバランスの設定は、原則として晴天モード固定です。これは、見た目通りの画像を記録に残しておきたいからです。WBモードを変更すれば昼間に近い写真になりますが、早朝の感じが出ません。

  • ヴェッキオ宮殿<br />早朝は固く扉が閉じられていたヴェッキオ宮殿ですが、この時間は開いていました。宮殿内ですが、中庭は無料で見学ができます。ただし、噴水は修理中でした。<br /><br />宮殿入口の上には2頭のライオン像があり、右は古代ローマ帝国時代の作品、左はフラミーニオ・ヴァッカの作品(1600年)のコピー。伝統的にライオンは悪霊などから「場」を守るシンボルとして使われ、その図像学的起源は古代メソポタミア時代に遡るそうです。<br /><br />ロッジアでは海外要人などによる記念式典が行なわれていました。最後に迎えられたのは、まだ美しかった頃のエリザベス女王。彼女の帽子の上にハトが糞を落とすというハプニングがあったそうです。<br /><br /><br />

    ヴェッキオ宮殿
    早朝は固く扉が閉じられていたヴェッキオ宮殿ですが、この時間は開いていました。宮殿内ですが、中庭は無料で見学ができます。ただし、噴水は修理中でした。

    宮殿入口の上には2頭のライオン像があり、右は古代ローマ帝国時代の作品、左はフラミーニオ・ヴァッカの作品(1600年)のコピー。伝統的にライオンは悪霊などから「場」を守るシンボルとして使われ、その図像学的起源は古代メソポタミア時代に遡るそうです。

    ロッジアでは海外要人などによる記念式典が行なわれていました。最後に迎えられたのは、まだ美しかった頃のエリザベス女王。彼女の帽子の上にハトが糞を落とすというハプニングがあったそうです。


  • ヴェッキオ宮殿 中庭<br />宮殿の入口を潜ると、グロテスク模様と白と黄金の漆喰で彩られた豪華絢爛な中庭に出ます。「ミケロッツォの中庭」と呼ばれるこの空間は、1453年にミケロッツォによって設計されました。1565年、メディチ家フランチェスコ1世とハプスブルグ家ジョヴァンナの婚姻を契機に、ジョルジョ・ヴァザーリによってマニエリスム風の手が加えられて現在のように装飾されました。元々この空間の中央には井戸があり、ファエッロ・ディ・ドメニコ・ディ・ポロが製作した噴水が置かれることになりました。この噴水の天辺に乗せられたのが、アンドレア・ヴェッロッキ作「イルカを抱く少年(プット)」です。1959年にオリジナルはヴェッキオ宮殿の2階に移され、現在のものはブルーノ・ベアルツィによるコピーです。<br />

    ヴェッキオ宮殿 中庭
    宮殿の入口を潜ると、グロテスク模様と白と黄金の漆喰で彩られた豪華絢爛な中庭に出ます。「ミケロッツォの中庭」と呼ばれるこの空間は、1453年にミケロッツォによって設計されました。1565年、メディチ家フランチェスコ1世とハプスブルグ家ジョヴァンナの婚姻を契機に、ジョルジョ・ヴァザーリによってマニエリスム風の手が加えられて現在のように装飾されました。元々この空間の中央には井戸があり、ファエッロ・ディ・ドメニコ・ディ・ポロが製作した噴水が置かれることになりました。この噴水の天辺に乗せられたのが、アンドレア・ヴェッロッキ作「イルカを抱く少年(プット)」です。1959年にオリジナルはヴェッキオ宮殿の2階に移され、現在のものはブルーノ・ベアルツィによるコピーです。

  • ヴェッキオ宮殿 『イルカを抱く少年像(プット)』<br />かわいらしい天使がイルカを抱えています。ヴェロッキオは、レオナルドの師匠。ネオプラトンアカデミーの人文主義者が集う場所「アモルの噴水」は、この作品を指すという説もあるそうです。元々、メディチ家カレッジの別荘用に造られ、スポンサーはロレンツォ豪華王自身。コジモ1世が、ヴェッキオ宮殿が改築された折りに中庭に移設しました。ヴェロッキオが、デジデーリオ・ダ・セッティニャーノから習得したダイナミックな自然主義の影響が随所に窺えます。ブロンズの質感を滑らかで柔らかく変容させ、「微笑みながら踊る幼児」という古代伝承のテーマに「微妙なバランス」という新しい解釈を加味した傑作です。ふっくらした頬、膝頭やふくらはぎの肉感美は、見応えがあります。まさしく温故知新を地で行く、時代の魁となる作風です。ヴェロッキオはいくつものプット像を制作していますが、その中でも最も古い作品だと言われています。

    ヴェッキオ宮殿 『イルカを抱く少年像(プット)』
    かわいらしい天使がイルカを抱えています。ヴェロッキオは、レオナルドの師匠。ネオプラトンアカデミーの人文主義者が集う場所「アモルの噴水」は、この作品を指すという説もあるそうです。元々、メディチ家カレッジの別荘用に造られ、スポンサーはロレンツォ豪華王自身。コジモ1世が、ヴェッキオ宮殿が改築された折りに中庭に移設しました。ヴェロッキオが、デジデーリオ・ダ・セッティニャーノから習得したダイナミックな自然主義の影響が随所に窺えます。ブロンズの質感を滑らかで柔らかく変容させ、「微笑みながら踊る幼児」という古代伝承のテーマに「微妙なバランス」という新しい解釈を加味した傑作です。ふっくらした頬、膝頭やふくらはぎの肉感美は、見応えがあります。まさしく温故知新を地で行く、時代の魁となる作風です。ヴェロッキオはいくつものプット像を制作していますが、その中でも最も古い作品だと言われています。

  • ヴェッキオ宮殿 中庭<br />市庁舎でもあるヴェッキオ宮殿。この地下にローマ時代の遺構が見つかり、2011年に一般公開できるように整備されました。半円形の古代ローマ劇場跡は、ヴェッキオ宮殿とその横のゴンディ宮殿にまたがり、観客席はシニョーリア広場に扇状に広がり、ステージは現在のヴェッキオ宮殿裏手のレオーニ通りに添うような形になっているという壮大なものだそうです。<br /><br />時間があれば地下遺跡に立ち寄りたかったのですが、ここは自粛します。 <br /><br />

    ヴェッキオ宮殿 中庭
    市庁舎でもあるヴェッキオ宮殿。この地下にローマ時代の遺構が見つかり、2011年に一般公開できるように整備されました。半円形の古代ローマ劇場跡は、ヴェッキオ宮殿とその横のゴンディ宮殿にまたがり、観客席はシニョーリア広場に扇状に広がり、ステージは現在のヴェッキオ宮殿裏手のレオーニ通りに添うような形になっているという壮大なものだそうです。

    時間があれば地下遺跡に立ち寄りたかったのですが、ここは自粛します。

  • ゴンディ宮殿<br />写真は広大なゴンディ宮殿の一画です。<br />レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』は、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会の法王の間で薄暮の時間に描かれたと言われています。しかし、そういった話は他にもあります。何度も筆が加えられ、レオナルドが生涯手放さずにいた作品ですので、一箇所で描かれた作品でないのは明白。その場所が、この建物のこの2階と言われています。<br />ヴェッキオ宮殿右脇のボルゴ・ディ・グレチ通りをサンタ・クローチェ教会側へ進んだ十字路にあります。正面に旧裁判所のファサードが見られる四つ角の、左後方の風景です。<br />

    ゴンディ宮殿
    写真は広大なゴンディ宮殿の一画です。
    レオナルド・ダ・ヴィンチの『モナ・リザ』は、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会の法王の間で薄暮の時間に描かれたと言われています。しかし、そういった話は他にもあります。何度も筆が加えられ、レオナルドが生涯手放さずにいた作品ですので、一箇所で描かれた作品でないのは明白。その場所が、この建物のこの2階と言われています。
    ヴェッキオ宮殿右脇のボルゴ・ディ・グレチ通りをサンタ・クローチェ教会側へ進んだ十字路にあります。正面に旧裁判所のファサードが見られる四つ角の、左後方の風景です。

  • 旧裁判所<br />格調高い建物ですが、今では市民向けの料理教室などの催しにも使われ、一般市民に開放されているそうです。

    旧裁判所
    格調高い建物ですが、今では市民向けの料理教室などの催しにも使われ、一般市民に開放されているそうです。

  • 童話『ピノッキオの冒険』の作者カルロ・コッローディは、フィレンツェ生まれ。ですから、町中にはピノッキオ・グッズを扱うお店が沢山あります。このショップは、シニョーリア広場からサンタ・クローチェ教会へ抜ける通りの右側にあります。<br />因みに、『ピノッキオの冒険』誕生の地は、トスカーナ州ピストイア県ペーシャです。作品が世に認められるようになったのは、彼が亡くなった後の20世紀になってからでした。

    童話『ピノッキオの冒険』の作者カルロ・コッローディは、フィレンツェ生まれ。ですから、町中にはピノッキオ・グッズを扱うお店が沢山あります。このショップは、シニョーリア広場からサンタ・クローチェ教会へ抜ける通りの右側にあります。
    因みに、『ピノッキオの冒険』誕生の地は、トスカーナ州ピストイア県ペーシャです。作品が世に認められるようになったのは、彼が亡くなった後の20世紀になってからでした。

  • アルノ川河畔<br />家族連れが河畔に佇み、のんびりと川の流れを見つめる昼下がり。うらやましい限りです。<br />当方の旅行は慌しいスケジュールのものが多いのですが、年を重ねてもう少しのんびりした旅行の本質を味わいたいものです。<br /><br />ショッピング・タイムの後にランチを終え、これからピサ観光の始まりです。まず、バス駐車場まで5分強歩きます。基本的にフィレンツェ市街へは大型バスは乗り入れが禁じられています。ピサへは距離にして80km、1時間強のドライブです。<br /><br />ピサ編は、フィレンツェ編Part.1〜3の後で紹介したいと思います。<br />引き続き、ピサ観光後のフィレンツェ観光をお楽しみください。<br /><br />

    アルノ川河畔
    家族連れが河畔に佇み、のんびりと川の流れを見つめる昼下がり。うらやましい限りです。
    当方の旅行は慌しいスケジュールのものが多いのですが、年を重ねてもう少しのんびりした旅行の本質を味わいたいものです。

    ショッピング・タイムの後にランチを終え、これからピサ観光の始まりです。まず、バス駐車場まで5分強歩きます。基本的にフィレンツェ市街へは大型バスは乗り入れが禁じられています。ピサへは距離にして80km、1時間強のドライブです。

    ピサ編は、フィレンツェ編Part.1〜3の後で紹介したいと思います。
    引き続き、ピサ観光後のフィレンツェ観光をお楽しみください。

  • ミケランジェロ広場(パノラマ)<br />予想外でしたが、ピサからの帰途にミケランジェロ広場に立ち寄れました。ここには、フィレンツェ市街の大パノラマが待っています。ここは絶対に外せない観光スポットです。これで、予定していたここの夜景鑑賞はスキップできます。<br /><br />小高い丘に位置し、フィレンツェ市街が見下ろせる展望台であり、疲れた心の癒しの場でもあります。やさしく髪をなでる風に吹かれながら町並みを俯瞰し、その比類なき歴史の流れと人々の営みに思いを馳せることができます。眼下にはアルノ川が緩やかに伸び、目の前にはドゥオーモのクーポラ、左にはヴェッキオ橋が見下ろせ、中世にタイムスリップした気分が満喫できます。夜は建物や橋がロマンチックにライトアップされ、フィレンツェっ子のデートスポットにもなります。広場にはミケランジェロの記念碑が建ち、ブロンズ製コピーですがダビデ像が置かれています。 <br /><br />

    ミケランジェロ広場(パノラマ)
    予想外でしたが、ピサからの帰途にミケランジェロ広場に立ち寄れました。ここには、フィレンツェ市街の大パノラマが待っています。ここは絶対に外せない観光スポットです。これで、予定していたここの夜景鑑賞はスキップできます。

    小高い丘に位置し、フィレンツェ市街が見下ろせる展望台であり、疲れた心の癒しの場でもあります。やさしく髪をなでる風に吹かれながら町並みを俯瞰し、その比類なき歴史の流れと人々の営みに思いを馳せることができます。眼下にはアルノ川が緩やかに伸び、目の前にはドゥオーモのクーポラ、左にはヴェッキオ橋が見下ろせ、中世にタイムスリップした気分が満喫できます。夜は建物や橋がロマンチックにライトアップされ、フィレンツェっ子のデートスポットにもなります。広場にはミケランジェロの記念碑が建ち、ブロンズ製コピーですがダビデ像が置かれています。

  • ミケランジェロ広場<br />ここは旅程になかったのですが、添乗員さんの機転でピサからの復路で立ち寄っていただきました。実は、ヴェネツィアのジュデッカ運河をトロンケットに向けてクルーザーに乗っている時、添乗員さんに「何故、フィレンツェ観光の定番のミケランジェロ広場が旅程にないのか?」と質問したのがきっかけです。添乗員さんは、ミケランジェロ広場は当然旅程に含まれていると思われていたようです。このツアーは、他のツアーでは行けないスポットが含まれているのが最大の魅力ですが、定番を外している所もあるようです。ちょっとの寄り道ですので、ここを追加されるといいのでは?(旅行後のツアー・アンケートにはその旨記載しておきました。)<br /><br />今回は添乗員さんの機転で旅程にないスポットを巡ることができましたが、時間に余裕がなければ当然不可能です。集合時間を厳守することが、このようなご利益として還元されます。集合時間の遅れは最終的にその数十倍にもなって跳ね返ってきますので、ツアーメンバーさんのご協力の賜物と感謝しております。また、コース変更を快諾してくれたドライバーさんにも感謝です。

    ミケランジェロ広場
    ここは旅程になかったのですが、添乗員さんの機転でピサからの復路で立ち寄っていただきました。実は、ヴェネツィアのジュデッカ運河をトロンケットに向けてクルーザーに乗っている時、添乗員さんに「何故、フィレンツェ観光の定番のミケランジェロ広場が旅程にないのか?」と質問したのがきっかけです。添乗員さんは、ミケランジェロ広場は当然旅程に含まれていると思われていたようです。このツアーは、他のツアーでは行けないスポットが含まれているのが最大の魅力ですが、定番を外している所もあるようです。ちょっとの寄り道ですので、ここを追加されるといいのでは?(旅行後のツアー・アンケートにはその旨記載しておきました。)

    今回は添乗員さんの機転で旅程にないスポットを巡ることができましたが、時間に余裕がなければ当然不可能です。集合時間を厳守することが、このようなご利益として還元されます。集合時間の遅れは最終的にその数十倍にもなって跳ね返ってきますので、ツアーメンバーさんのご協力の賜物と感謝しております。また、コース変更を快諾してくれたドライバーさんにも感謝です。

  • ミケランジェロ広場<br />ヴェッキオ宮殿のアルノルフォの塔が如何に高い建造物(94m)であるか一目瞭然です。元々、フィレンツェの街の建物は高さも色も制限されていますので、統一感があり整然としています。<br />

    ミケランジェロ広場
    ヴェッキオ宮殿のアルノルフォの塔が如何に高い建造物(94m)であるか一目瞭然です。元々、フィレンツェの街の建物は高さも色も制限されていますので、統一感があり整然としています。

  • ミケランジェロ広場<br />中央にあるサンタ・クローチェ教会は、フィレンツェでドゥオーモに次いで大きな教会です。教会の鐘楼が印象的です。この鐘楼は、最初のものが落雷によって傷んだため、1842年に再建されたものです。

    ミケランジェロ広場
    中央にあるサンタ・クローチェ教会は、フィレンツェでドゥオーモに次いで大きな教会です。教会の鐘楼が印象的です。この鐘楼は、最初のものが落雷によって傷んだため、1842年に再建されたものです。

  • ミケランジェロ広場<br />サンタ・クローチェ教会からさらに右手方向に、赤茶色の煉瓦屋根が広がる町の中に、異質なコバルトグリーンの銅張りの円蓋が目を惹きつける建物があります。これはユダヤ教礼拝堂、いわゆるシナゴーグです。19世紀後半にユダヤ人が建造したもので、中心にある円筒型の建物から四方にかまぼこ型の建物が突き出している形がビザンチン文化を偲ばせます。建物の高さや配色に制約があるフィレンツェの街では、珍しい配色の建物だと思います。

    ミケランジェロ広場
    サンタ・クローチェ教会からさらに右手方向に、赤茶色の煉瓦屋根が広がる町の中に、異質なコバルトグリーンの銅張りの円蓋が目を惹きつける建物があります。これはユダヤ教礼拝堂、いわゆるシナゴーグです。19世紀後半にユダヤ人が建造したもので、中心にある円筒型の建物から四方にかまぼこ型の建物が突き出している形がビザンチン文化を偲ばせます。建物の高さや配色に制約があるフィレンツェの街では、珍しい配色の建物だと思います。

  • ミケランジェロ広場<br />アルノ川河畔です。一番手前にあるのがウフィッツィ美術館から眺めたヴェッキオ橋。その後ろに何重もの橋が続いているのが分かりますか?

    ミケランジェロ広場
    アルノ川河畔です。一番手前にあるのがウフィッツィ美術館から眺めたヴェッキオ橋。その後ろに何重もの橋が続いているのが分かりますか?

  • ミケランジェロ広場<br />ドゥオーモのクーポラの美しい姿は、筆舌に尽くし難いのものがあります。<br />数字データでクーポラの調和美の謎に迫ってみましょう。タンブロ(クーポラを支える壁)の高さは13m。クーポラの上にある白い頂塔の高さは21m。クーポラの高さの平均は34m(クーポラは2重構造で、内側の屋根は32m、外側の屋根は36m)。クーポラが立ち上がっている地点の地上高は55m。これらの数字を並べると13、21、34、55となります。これは有名なフィボナッチ数列を構成してます。 13+21=34、21+34=55 <br />フィボナッチ数列は自然界にもその法則に従ったものが少なくなく、ルネッサンス時代には黄金数、黄金分割と共に建築設計に使われていたそうです。対比による究極のバランスの上に造られたルネサンス建築の代表作が、このクーポラというわけです。因みに、サン・ピエトロ大聖堂のクーポラを設計したミケランジェロは、この大聖堂のクーポラに匹敵するものを造るようにとプレッシャーをかけられたそうです。 <br />

    ミケランジェロ広場
    ドゥオーモのクーポラの美しい姿は、筆舌に尽くし難いのものがあります。
    数字データでクーポラの調和美の謎に迫ってみましょう。タンブロ(クーポラを支える壁)の高さは13m。クーポラの上にある白い頂塔の高さは21m。クーポラの高さの平均は34m(クーポラは2重構造で、内側の屋根は32m、外側の屋根は36m)。クーポラが立ち上がっている地点の地上高は55m。これらの数字を並べると13、21、34、55となります。これは有名なフィボナッチ数列を構成してます。 13+21=34、21+34=55
    フィボナッチ数列は自然界にもその法則に従ったものが少なくなく、ルネッサンス時代には黄金数、黄金分割と共に建築設計に使われていたそうです。対比による究極のバランスの上に造られたルネサンス建築の代表作が、このクーポラというわけです。因みに、サン・ピエトロ大聖堂のクーポラを設計したミケランジェロは、この大聖堂のクーポラに匹敵するものを造るようにとプレッシャーをかけられたそうです。

  • ミケランジェロ広場 ダビデ像<br />コピーですが、ここにも英雄ダビデ像が置かれています。平坦なミケランジェロ広場に凛々しく立つ姿は、孤高の人といった威厳に満ちた感じに映ります。<br />ただし、ここのダビデ像はブロンズ製です。台座はオリジナルにないものですが、これはメディチ家礼拝堂の「曙」「黄昏」「昼」「夜」のコピーだそうです。<br /><br />雲がでているので薄暗いですが、時刻は19時前です。この時期の日没は20時半頃です。

    ミケランジェロ広場 ダビデ像
    コピーですが、ここにも英雄ダビデ像が置かれています。平坦なミケランジェロ広場に凛々しく立つ姿は、孤高の人といった威厳に満ちた感じに映ります。
    ただし、ここのダビデ像はブロンズ製です。台座はオリジナルにないものですが、これはメディチ家礼拝堂の「曙」「黄昏」「昼」「夜」のコピーだそうです。

    雲がでているので薄暗いですが、時刻は19時前です。この時期の日没は20時半頃です。

  • ウフィッツィ美術館 夜景 <br />夕食後、レストランを出たのは21時頃。フィレンツェ名物のTボーンステーキと舌ビラメのソテーを味わい、ツアーメンバーさんと一緒にレストランからホテルまで市街地の夜景散策を堪能します。夜間のフィレンツェは、昼間とは別の顔を見せてくれるので驚きが絶えません。<br /><br />この夜景は、ISO感度を6400まで上げ、手持ちで撮ったものです。ISO感度を上げることでシャッタースピードが速められ、手振れが防止できます。ここがデジコンとデジイチの最大の差ではないでしょうか?定石ではデジイチでもノイズを勘案してISO3200がMAX.とされていますが、それでは一味違う写真は撮れません。掟は破るためにあるものですから…。

    ウフィッツィ美術館 夜景 
    夕食後、レストランを出たのは21時頃。フィレンツェ名物のTボーンステーキと舌ビラメのソテーを味わい、ツアーメンバーさんと一緒にレストランからホテルまで市街地の夜景散策を堪能します。夜間のフィレンツェは、昼間とは別の顔を見せてくれるので驚きが絶えません。

    この夜景は、ISO感度を6400まで上げ、手持ちで撮ったものです。ISO感度を上げることでシャッタースピードが速められ、手振れが防止できます。ここがデジコンとデジイチの最大の差ではないでしょうか?定石ではデジイチでもノイズを勘案してISO3200がMAX.とされていますが、それでは一味違う写真は撮れません。掟は破るためにあるものですから…。

  • ヴェッキオ宮殿 アルノルフォの塔 夜景<br />実に存在感のある、雄渾無双の塔です。<br /><br />

    ヴェッキオ宮殿 アルノルフォの塔 夜景
    実に存在感のある、雄渾無双の塔です。

  • ロッジア・ディ・ランツィ 夜景<br />シニョーリア広場の片隅では、大道芸人3人が楽器演奏のパフォーマンスを披露しています。ロッジアの階段に腰掛けながら、大勢の人たちが陽気な楽曲に傾聴しています。<br />フィレンツェの住人と偶然観光で立ち寄ったツーリストが主要な観客ですが、物音を立てず身動きすらしないという行儀の良さは感動ものでした。<br /><br />

    ロッジア・ディ・ランツィ 夜景
    シニョーリア広場の片隅では、大道芸人3人が楽器演奏のパフォーマンスを披露しています。ロッジアの階段に腰掛けながら、大勢の人たちが陽気な楽曲に傾聴しています。
    フィレンツェの住人と偶然観光で立ち寄ったツーリストが主要な観客ですが、物音を立てず身動きすらしないという行儀の良さは感動ものでした。

  • ヴェッキオ宮殿 ミケロッツォの中庭 夜景<br />ドゥオーモ経由でホテルへ戻ると言うことなので、ここから別行動に移ります。とりあえず、夜のヴェッキオ宮殿中庭を鑑賞します。

    ヴェッキオ宮殿 ミケロッツォの中庭 夜景
    ドゥオーモ経由でホテルへ戻ると言うことなので、ここから別行動に移ります。とりあえず、夜のヴェッキオ宮殿中庭を鑑賞します。

  • ヴェッキオ宮殿 ミケロッツォの中庭 夜景<br />中庭から仰ぎ見たアルノルフォの塔です。

    ヴェッキオ宮殿 ミケロッツォの中庭 夜景
    中庭から仰ぎ見たアルノルフォの塔です。

  • ヴェッキオ宮殿 ミケロッツォの中庭 夜景<br />昼間とは全く雰囲気が違います。<br />警備の婦警さんが我々をじっと監視しています。市庁舎にもなっているので当然かもしれませんが、仕事熱心さに頭が下がります。時刻は21時40分です。ところで、いつまで開いているのでしょうか?

    ヴェッキオ宮殿 ミケロッツォの中庭 夜景
    昼間とは全く雰囲気が違います。
    警備の婦警さんが我々をじっと監視しています。市庁舎にもなっているので当然かもしれませんが、仕事熱心さに頭が下がります。時刻は21時40分です。ところで、いつまで開いているのでしょうか?

  • シニョーリア広場 ダビデ像 夜景<br />ヴェッキオ宮殿前にあるコピーも、すでに100年以上経っているのですから年代物と言えます。<br />見上げるような大きな作品ですが、その高さは何mあるのでしょう? <br />以前、ダビデの身長は「4.1m」と公表されていたそうです。ところが数年前に驚くべき発表がなされたました。「ダビデの身長は5.17mで、今までの表示は間違いでした」。実際、1m以上も間違えるなんてことがあり得るのでしょうか?<br />イタリアのいい加減さが如実に現れた事例と言えます。 <br />

    シニョーリア広場 ダビデ像 夜景
    ヴェッキオ宮殿前にあるコピーも、すでに100年以上経っているのですから年代物と言えます。
    見上げるような大きな作品ですが、その高さは何mあるのでしょう?
    以前、ダビデの身長は「4.1m」と公表されていたそうです。ところが数年前に驚くべき発表がなされたました。「ダビデの身長は5.17mで、今までの表示は間違いでした」。実際、1m以上も間違えるなんてことがあり得るのでしょうか?
    イタリアのいい加減さが如実に現れた事例と言えます。

  • シニョーリア広場 『ネプチューンの噴水』<br />こちらは白とパープルのライトアップがなされ、幻想的な雰囲気を醸しています。馬子にも衣装とはよく言ったものです。

    シニョーリア広場 『ネプチューンの噴水』
    こちらは白とパープルのライトアップがなされ、幻想的な雰囲気を醸しています。馬子にも衣装とはよく言ったものです。

  • シニョーリア広場の夜景<br />シニョーリア広場の全景です。<br />ダビデ像の影がいいですね!

    シニョーリア広場の夜景
    シニョーリア広場の全景です。
    ダビデ像の影がいいですね!

  • 共和国広場の夜景<br />広場の一画ではメリーゴーランドが回っていました。<br />聞く所によると1年中営業しているようです。<br /><br />この共和国広場には、借用できるトイレが2か所あります。<br />①共和国広場の東側(写真の反対側左)にあるデパートLa Rinascente( リナシェンテ)の4階(男性衣料品売り場)。無料。下りエスカレーターの正面にあります。<br />②エジソン(edison)という本屋の1階にも無料トイレがあります。店内へ入って5m程まっすぐ行った右手にトイレへの扉があります。夜中の12時まで開いている本屋さんです。<br />その他、フィレンツェ編Part.1の旅行概要の欄で記したようにフィレンツェには以下のトイレが使えます。<br />③SMN駅構内の、あるいは駅を出てすぐ左に折れた所にあるマクドナルド店内。<br />④サンジョバンニ礼拝堂の北側のアーチ状の通路の奥まったところに公衆トイレあり。<br />⑤サンタ・クローチェ教会前の広場、教会に向かって左側にツアー客が寄る革製品ショップGalleria MICHELANGELOがあります。日本人御用達のショップ。<br />⑥サンタ・クローチェ教会前の路地を入った所に公衆トイレがあります。<br />公衆トイレの詳しい場所は次のマップでご確認下さい。<br />http://www.amoitalia.com/firenze/map.html<br />

    共和国広場の夜景
    広場の一画ではメリーゴーランドが回っていました。
    聞く所によると1年中営業しているようです。

    この共和国広場には、借用できるトイレが2か所あります。
    ①共和国広場の東側(写真の反対側左)にあるデパートLa Rinascente( リナシェンテ)の4階(男性衣料品売り場)。無料。下りエスカレーターの正面にあります。
    ②エジソン(edison)という本屋の1階にも無料トイレがあります。店内へ入って5m程まっすぐ行った右手にトイレへの扉があります。夜中の12時まで開いている本屋さんです。
    その他、フィレンツェ編Part.1の旅行概要の欄で記したようにフィレンツェには以下のトイレが使えます。
    ③SMN駅構内の、あるいは駅を出てすぐ左に折れた所にあるマクドナルド店内。
    ④サンジョバンニ礼拝堂の北側のアーチ状の通路の奥まったところに公衆トイレあり。
    ⑤サンタ・クローチェ教会前の広場、教会に向かって左側にツアー客が寄る革製品ショップGalleria MICHELANGELOがあります。日本人御用達のショップ。
    ⑥サンタ・クローチェ教会前の路地を入った所に公衆トイレがあります。
    公衆トイレの詳しい場所は次のマップでご確認下さい。
    http://www.amoitalia.com/firenze/map.html

  • フェラーリ・ショップ<br />夜景を堪能し、22時過ぎにホテルへ帰還しました。

    フェラーリ・ショップ
    夜景を堪能し、22時過ぎにホテルへ帰還しました。

  • サン・ロレンツォ教会<br />フィレンツエ2日目の夜が明けました。今日の予定は、午前中がフリータイム(8:30〜12:30)、ランチ後にイタリア版新幹線「イタロ」でナポリへ向かいます。<br />フリータイムではドゥオーモのクーポラへ登られる方が多く(往復1時間、8時半オープン)、ドゥオーモまでは団体行動です。我々はクーポラには登らず、ドゥオーモの北側のメディチ・リッカルディ宮方向へ向かいます。(ドゥオーモ内部入場は10:00オープン、サンタ・クローチェ教会は9:30オープン)<br />煉瓦造りの屋敷が続く通りを進むと荒々しいファサードのサン・ロレンツォ教会が見えてきました。<br /><br />メディチ家の菩提寺でもあり、393年サンタ・アンブロージョにより献堂式が行われたフィレンツェ最古の教会です。現在の教会はメディチ家の依頼でフィリッポ・ブルネッレスキが設計し、1442年に再建されました。建設中、ルッカとの戦争で工事が中断されましたが、コジモ1世が全面的に資金援助をしたことで再開。こうして教会とメディチ家の繋がりが強まりました。 ブルネッレスキは全体にまとまった建設設計を提案し、彼の死後、工事はA.マネッティに引き継がれ1460年に完成。しかし、粗いレンガ積みが印象的なファザードは、メディチ家出身の教皇レオ10世の依頼でミケランジェロが建築する予定でしたが、手をつける前に死去したため、このような状態で残されています。 <br />

    サン・ロレンツォ教会
    フィレンツエ2日目の夜が明けました。今日の予定は、午前中がフリータイム(8:30〜12:30)、ランチ後にイタリア版新幹線「イタロ」でナポリへ向かいます。
    フリータイムではドゥオーモのクーポラへ登られる方が多く(往復1時間、8時半オープン)、ドゥオーモまでは団体行動です。我々はクーポラには登らず、ドゥオーモの北側のメディチ・リッカルディ宮方向へ向かいます。(ドゥオーモ内部入場は10:00オープン、サンタ・クローチェ教会は9:30オープン)
    煉瓦造りの屋敷が続く通りを進むと荒々しいファサードのサン・ロレンツォ教会が見えてきました。

    メディチ家の菩提寺でもあり、393年サンタ・アンブロージョにより献堂式が行われたフィレンツェ最古の教会です。現在の教会はメディチ家の依頼でフィリッポ・ブルネッレスキが設計し、1442年に再建されました。建設中、ルッカとの戦争で工事が中断されましたが、コジモ1世が全面的に資金援助をしたことで再開。こうして教会とメディチ家の繋がりが強まりました。 ブルネッレスキは全体にまとまった建設設計を提案し、彼の死後、工事はA.マネッティに引き継がれ1460年に完成。しかし、粗いレンガ積みが印象的なファザードは、メディチ家出身の教皇レオ10世の依頼でミケランジェロが建築する予定でしたが、手をつける前に死去したため、このような状態で残されています。

  • メディチ家礼拝堂<br />サン・ロレンツォ教会の背後にあるのが、メディチ家礼拝堂です。栄華を極めたメディチ家の霊廟にしては簡素な内装だそうです。ここにはメディチ家の若き公爵、ウルビーノ公ロレンツォとヌムール公ジュリアーノが祀られています。そして、この礼拝堂の中にはミケランジェロ作の目を見張る彫刻が並んでいます。「昼」「夜」「曙」「黄昏」と4つのテーマに沿った彫刻です。昨日見た、ミケランジェロ広場のダビデ像の台座にあった彫刻のオリジナルです。<br /><br />意外にも、メディチ家は田舎出身の成り上がり者だったそうです。フィレンツェから北へ30kmのムジェッロ渓谷の村出身というのが定説で、一族郎党が何を生業にしていたかは明らかでないそうです。権力組織を説明する上で欠かせないのが「組合」(アルテ)。その中でも、大アルテと呼ばれる7組合は格が上で、毛織物業、銀行業、医師・薬種関係が含まれていました。「メディチ」は「薬」を意味する言葉から派生した苗字とされ、同家は元々薬剤師あるいはそれに近い職に就いていたと推測されますが、大アルテにメディチ家が加盟していたことを示す記録はないそうです。メディチ家が家紋に使った、丸薬と見るのが最も説得力のある「球体(パッレ)」も、実は起源が不明。フランス王妃として嫁いだカテリーナ・デ・メディチは、卑しい銀行家の娘といびられましたが、先祖の職業が不明ならば血統を重んじる王侯貴族から蔑まれたとしても何の不思議もありません。メディチ家の辿った道は豊臣秀吉級の波乱万丈に満ち、しかも一族には血の気の多い人物が少なくなく、強奪罪、殺人罪に問われた者が複数あったそうです。殺人は身内抗争のケースもあり、マフィアや極道を彷彿とさせます。「出自は怪しく、血筋のガラが悪い」という一族ながら、他の有力商人に打ち勝つための必須条件を備えていました。それは、強運あるいは運命を味方につける力。それが大いに発揮されるのは、ご存知のように15世紀になってからのことでした。<br /><br />途中、露店で気になるバックを発見。普段使いのバックが欲しかったのです。Made in Firenzeでしっかりした物です(フィレンツェ革工房で作られた無印品)。初めは60ユーロと吹っかけてきましたが、50、40、35と値段を落としてきました。「エ トロッポ カーロ(高すぎる)」と答えるといくらなら買うのかと聞いてきました。25ユーロと答えると渋々OKしました。初値の半額以下が相場なのだと思います。

    メディチ家礼拝堂
    サン・ロレンツォ教会の背後にあるのが、メディチ家礼拝堂です。栄華を極めたメディチ家の霊廟にしては簡素な内装だそうです。ここにはメディチ家の若き公爵、ウルビーノ公ロレンツォとヌムール公ジュリアーノが祀られています。そして、この礼拝堂の中にはミケランジェロ作の目を見張る彫刻が並んでいます。「昼」「夜」「曙」「黄昏」と4つのテーマに沿った彫刻です。昨日見た、ミケランジェロ広場のダビデ像の台座にあった彫刻のオリジナルです。

    意外にも、メディチ家は田舎出身の成り上がり者だったそうです。フィレンツェから北へ30kmのムジェッロ渓谷の村出身というのが定説で、一族郎党が何を生業にしていたかは明らかでないそうです。権力組織を説明する上で欠かせないのが「組合」(アルテ)。その中でも、大アルテと呼ばれる7組合は格が上で、毛織物業、銀行業、医師・薬種関係が含まれていました。「メディチ」は「薬」を意味する言葉から派生した苗字とされ、同家は元々薬剤師あるいはそれに近い職に就いていたと推測されますが、大アルテにメディチ家が加盟していたことを示す記録はないそうです。メディチ家が家紋に使った、丸薬と見るのが最も説得力のある「球体(パッレ)」も、実は起源が不明。フランス王妃として嫁いだカテリーナ・デ・メディチは、卑しい銀行家の娘といびられましたが、先祖の職業が不明ならば血統を重んじる王侯貴族から蔑まれたとしても何の不思議もありません。メディチ家の辿った道は豊臣秀吉級の波乱万丈に満ち、しかも一族には血の気の多い人物が少なくなく、強奪罪、殺人罪に問われた者が複数あったそうです。殺人は身内抗争のケースもあり、マフィアや極道を彷彿とさせます。「出自は怪しく、血筋のガラが悪い」という一族ながら、他の有力商人に打ち勝つための必須条件を備えていました。それは、強運あるいは運命を味方につける力。それが大いに発揮されるのは、ご存知のように15世紀になってからのことでした。

    途中、露店で気になるバックを発見。普段使いのバックが欲しかったのです。Made in Firenzeでしっかりした物です(フィレンツェ革工房で作られた無印品)。初めは60ユーロと吹っかけてきましたが、50、40、35と値段を落としてきました。「エ トロッポ カーロ(高すぎる)」と答えるといくらなら買うのかと聞いてきました。25ユーロと答えると渋々OKしました。初値の半額以下が相場なのだと思います。

  • サンタ・クローチェ教会<br />オープン時間を見計らって内部見学の目的地に辿り着きました。<br />ここはフィレンツェでのフリータイムのハイライト・スポットです。

    サンタ・クローチェ教会
    オープン時間を見計らって内部見学の目的地に辿り着きました。
    ここはフィレンツェでのフリータイムのハイライト・スポットです。

  • サンタ・クローチェ教会<br />以下のサイトを参考にして作成したフロア・マップです。ご参考になさっていただけると幸甚です。<br /><br />教会内部を案内する公式サイトです。<br />http://www.santacroceopera.it/en/Architetturaearte_Spaziarchitettonici.aspx<br />http://www.santacroceopera.it/en/Architetturaearte_Percorsitematici.aspx<br />チケット売り場で日本語併記の案内図がいただけます。<br /><br />

    サンタ・クローチェ教会
    以下のサイトを参考にして作成したフロア・マップです。ご参考になさっていただけると幸甚です。

    教会内部を案内する公式サイトです。
    http://www.santacroceopera.it/en/Architetturaearte_Spaziarchitettonici.aspx
    http://www.santacroceopera.it/en/Architetturaearte_Percorsitematici.aspx
    チケット売り場で日本語併記の案内図がいただけます。

  • サンタ・クローチェ教会<br />外部の雑踏とは裏腹に内部は静謐そのもので、ひんやりと清しい空気が漂っています。天井の木造梁が素朴さを感じさせ、「清貧」を説いた聖フランチェスコの教えが思い起こされます。<br /><br />サンタ・クローチェ教会と言うとお墓で有名ですが、日本のお墓とは違って一種のモニュメントのような性格のものです。アートとして評価の高いものも多々あります。また、教会内のジョットやガッディのフレスコ画をはじめ、付属美術館の絵画も見応えのある秀逸な粒ぞろいです。聖堂の他、パッツィ家礼拝堂、付属美術館がセットで、入場料は6ユーロです。チケット売り場と入口は、教会の左側面にあります。日曜日の午前中は休館。冬季は、12:30〜15:00間がお昼休みです。<br /><br />

    サンタ・クローチェ教会
    外部の雑踏とは裏腹に内部は静謐そのもので、ひんやりと清しい空気が漂っています。天井の木造梁が素朴さを感じさせ、「清貧」を説いた聖フランチェスコの教えが思い起こされます。

    サンタ・クローチェ教会と言うとお墓で有名ですが、日本のお墓とは違って一種のモニュメントのような性格のものです。アートとして評価の高いものも多々あります。また、教会内のジョットやガッディのフレスコ画をはじめ、付属美術館の絵画も見応えのある秀逸な粒ぞろいです。聖堂の他、パッツィ家礼拝堂、付属美術館がセットで、入場料は6ユーロです。チケット売り場と入口は、教会の左側面にあります。日曜日の午前中は休館。冬季は、12:30〜15:00間がお昼休みです。

  • サンタ・クローチェ教会 自由の女神像<br />ファサードの裏面にある19世紀のイタリアの劇作家ジョヴァンニ・バッティスタ・ニッコリーニのお墓です。彼は、リソルジメント(「覚醒」の意)と呼ばれたイタリア統一運動時代に活躍しました。歴史的なモチーフを扱った悲劇を書き下ろしています。お墓の制作者は、フィンレツェ美術アカデミー出身ピオ・フェーディ。この「自由の女神」制作が1883年、ニューヨークの女神像の3年前です。こちらがオリジナルと言っては、「自由の女神」をNYへ贈ったフランス人が気分を害するでしょうね。因みに、「自由の女神」のデザインの起源は、フランス画家ドラクロワ作「民衆を導く自由の女神」と言われています。<br /><br />

    サンタ・クローチェ教会 自由の女神像
    ファサードの裏面にある19世紀のイタリアの劇作家ジョヴァンニ・バッティスタ・ニッコリーニのお墓です。彼は、リソルジメント(「覚醒」の意)と呼ばれたイタリア統一運動時代に活躍しました。歴史的なモチーフを扱った悲劇を書き下ろしています。お墓の制作者は、フィンレツェ美術アカデミー出身ピオ・フェーディ。この「自由の女神」制作が1883年、ニューヨークの女神像の3年前です。こちらがオリジナルと言っては、「自由の女神」をNYへ贈ったフランス人が気分を害するでしょうね。因みに、「自由の女神」のデザインの起源は、フランス画家ドラクロワ作「民衆を導く自由の女神」と言われています。

  • サンタ・クローチェ教会 『ミケランジェロの墓』<br />右身廊にあるミケランジェロのお墓です。ミケランジェロ自身が自分の手で墓を作ると言って制作を始めたものの間に合わず、ヴァザーリとその弟子の手で1572年に完成したそうです。<br />中央に彼の胸像があり、墓碑前面に並ぶ三つの彫像は、それぞれ「彫刻」「絵画」「建築」を表わし、その分野でのミケランジェロの業績の偉大さを讃えています。

    サンタ・クローチェ教会 『ミケランジェロの墓』
    右身廊にあるミケランジェロのお墓です。ミケランジェロ自身が自分の手で墓を作ると言って制作を始めたものの間に合わず、ヴァザーリとその弟子の手で1572年に完成したそうです。
    中央に彼の胸像があり、墓碑前面に並ぶ三つの彫像は、それぞれ「彫刻」「絵画」「建築」を表わし、その分野でのミケランジェロの業績の偉大さを讃えています。

  • サンタ・クローチェ教会 <br />『フランチェスコ・ノーリに捧げた墓碑』<br />巨匠ミケランジェロのお墓の正面の柱にノーリに捧げた墓碑があり、アーモンド型の光に包まれた聖母子が布地を模したベースに彫られています。ノーリは、間接的にミケランジェロの一生に多大な影響を与えた人です。それは1478年の出来事、メディチ家当主の暗殺を企てた「パッツィ家の陰謀」です。 ドゥオーモでのミサの最中、暗殺が行われます。弟ジュリアーノは凶刃に倒れ、ロレンツォは負傷しながらも難を逃れます。この時、自らの命を犠牲にして彼を救ったのがノーリ。この後、ロレンツォは、フィレンツェを支配し、文化の春とも言える時代を謳歌します。陰謀から11年後、ロレンツォ豪華王は、ある少年の才能を見出します。それが14歳のミケランジェロでした。ミケランジェロは、メディチ家に寄宿して後の法王ジョヴァンニやジュリオと共に英才教育を受け、芸術の礎を築きました。あの時、もしロレンツォが凶刃に倒れていたらと考えると、ミケランジェロの墓前にノーリの墓碑があるのは単なる偶然の産物ではないのかもしれません。因みに、ロレンツォは、「人はパンのみに生きるにあらず、町にサーカスを」という古代ローマの教えを好み、騎馬槍試合や仮装祭などを開き、プラトンアカデミーを主宰して学者や芸術家を庇護してフィレンツェの栄華を築いた人物です。<br />

    サンタ・クローチェ教会 
    『フランチェスコ・ノーリに捧げた墓碑』
    巨匠ミケランジェロのお墓の正面の柱にノーリに捧げた墓碑があり、アーモンド型の光に包まれた聖母子が布地を模したベースに彫られています。ノーリは、間接的にミケランジェロの一生に多大な影響を与えた人です。それは1478年の出来事、メディチ家当主の暗殺を企てた「パッツィ家の陰謀」です。 ドゥオーモでのミサの最中、暗殺が行われます。弟ジュリアーノは凶刃に倒れ、ロレンツォは負傷しながらも難を逃れます。この時、自らの命を犠牲にして彼を救ったのがノーリ。この後、ロレンツォは、フィレンツェを支配し、文化の春とも言える時代を謳歌します。陰謀から11年後、ロレンツォ豪華王は、ある少年の才能を見出します。それが14歳のミケランジェロでした。ミケランジェロは、メディチ家に寄宿して後の法王ジョヴァンニやジュリオと共に英才教育を受け、芸術の礎を築きました。あの時、もしロレンツォが凶刃に倒れていたらと考えると、ミケランジェロの墓前にノーリの墓碑があるのは単なる偶然の産物ではないのかもしれません。因みに、ロレンツォは、「人はパンのみに生きるにあらず、町にサーカスを」という古代ローマの教えを好み、騎馬槍試合や仮装祭などを開き、プラトンアカデミーを主宰して学者や芸術家を庇護してフィレンツェの栄華を築いた人物です。

  • サンタ・クローチェ教会 『ガリレオの墓』<br />左身廊にある、フォッジーニ作のガリレオのお墓です。メディチ家のコジモ2世の庇護を受け、様々な研究を続けたガリレオ・ガリレイですが、ピサで生まれ、1642年にフィレンツェ郊外のアルチェトリで亡くなっています。しかし、地動説を唱えていたために教会から異端扱いされ、当初教会内に祀られることはなく、1737年にようやくここへ墓碑を構えることになったそうです。<br />胸像は、天文学と幾何学のシンボルの間に配置され、彼の業績を讃えています。また、墓碑の背面の壁には、マリオット・ディ・ナルド作のフレスコ画「キリストの生涯」が描かれています。

    サンタ・クローチェ教会 『ガリレオの墓』
    左身廊にある、フォッジーニ作のガリレオのお墓です。メディチ家のコジモ2世の庇護を受け、様々な研究を続けたガリレオ・ガリレイですが、ピサで生まれ、1642年にフィレンツェ郊外のアルチェトリで亡くなっています。しかし、地動説を唱えていたために教会から異端扱いされ、当初教会内に祀られることはなく、1737年にようやくここへ墓碑を構えることになったそうです。
    胸像は、天文学と幾何学のシンボルの間に配置され、彼の業績を讃えています。また、墓碑の背面の壁には、マリオット・ディ・ナルド作のフレスコ画「キリストの生涯」が描かれています。

  • サンタ・クローチェ教会<br />墓碑中央のガリレオ像は、望遠鏡を持ち、積み上げられた書物の上に地球儀を載せています。台座には、太陽を中心に据え、その周りを惑星軌道に乗った地球が描かれています。<br />遙かなる宇宙を見上げるこの像の姿は、彼の無念を伝えるに余りあるものがあります。

    サンタ・クローチェ教会
    墓碑中央のガリレオ像は、望遠鏡を持ち、積み上げられた書物の上に地球儀を載せています。台座には、太陽を中心に据え、その周りを惑星軌道に乗った地球が描かれています。
    遙かなる宇宙を見上げるこの像の姿は、彼の無念を伝えるに余りあるものがあります。

  • サンタ・クローチェ教会 説教壇<br />説教壇は司教が説教をするための台ですが、この教会では柱に取り付けられています。作者はルネッサンス時代の芸術家ベネデット・ダ・マイアーノ。八角形をした大理石の四角いパネルには、聖フランチェスコの一生が彫られています。<br />ところでこの説教壇、階段が見当たりません。いったいどうやって登壇するのでしょうか?

    サンタ・クローチェ教会 説教壇
    説教壇は司教が説教をするための台ですが、この教会では柱に取り付けられています。作者はルネッサンス時代の芸術家ベネデット・ダ・マイアーノ。八角形をした大理石の四角いパネルには、聖フランチェスコの一生が彫られています。
    ところでこの説教壇、階段が見当たりません。いったいどうやって登壇するのでしょうか?

  • サンタ・クローチェ教会 説教壇<br />教会の床はお金を出してくれるスポンサーに切り売りするため、教会にとっては空けておく方が賢明。そこで修道会が考えたのが、この手段。柱を空洞にし、柱の内部に階段を造ったのです。見た目はすっきりしていますが、肝心の教会を支えているはずの柱の強度が気になるところです。他の柱と比べ、確かに空洞部は太くなっているようですが…。<br />往時、断面係数と言う強度概念は存在していたのでしょうか?

    サンタ・クローチェ教会 説教壇
    教会の床はお金を出してくれるスポンサーに切り売りするため、教会にとっては空けておく方が賢明。そこで修道会が考えたのが、この手段。柱を空洞にし、柱の内部に階段を造ったのです。見た目はすっきりしていますが、肝心の教会を支えているはずの柱の強度が気になるところです。他の柱と比べ、確かに空洞部は太くなっているようですが…。
    往時、断面係数と言う強度概念は存在していたのでしょうか?

  • サンタ・クローチェ教会<br />このように通路にもお墓があり、その上を人が自由に歩いて通れます。踏まれれば踏まれる程、生前に犯した罪が消えるのだそうです。ですからわざわざ床に埋葬されているのだそうです。<br />ところで、このお墓はロープが張られて立ち入り禁止になっています。きっと高貴な御仁だったのでしょうね。生前の罪は全てお金で贖罪したので、踏まれる必要がないということでしょうか? <br />

    サンタ・クローチェ教会
    このように通路にもお墓があり、その上を人が自由に歩いて通れます。踏まれれば踏まれる程、生前に犯した罪が消えるのだそうです。ですからわざわざ床に埋葬されているのだそうです。
    ところで、このお墓はロープが張られて立ち入り禁止になっています。きっと高貴な御仁だったのでしょうね。生前の罪は全てお金で贖罪したので、踏まれる必要がないということでしょうか?

  • サンタ・クローチェ教会 ドナテッロ作『受胎告知』<br />主祭壇を前にして、右手中央にドナテッロ作『受胎告知』があります。等身大で、ほぼ丸彫りの荒々しさとアルカイックな作風が混在する秀逸な作品です。聖母マリアの戸惑いの仕草がとてもリアルに表現されています。登場人物を左右に分け、中央に空間を設ける斬新な構図は、偉大な芸術家ドナテッロの力量の深さを感じさせます。<br />

    サンタ・クローチェ教会 ドナテッロ作『受胎告知』
    主祭壇を前にして、右手中央にドナテッロ作『受胎告知』があります。等身大で、ほぼ丸彫りの荒々しさとアルカイックな作風が混在する秀逸な作品です。聖母マリアの戸惑いの仕草がとてもリアルに表現されています。登場人物を左右に分け、中央に空間を設ける斬新な構図は、偉大な芸術家ドナテッロの力量の深さを感じさせます。

  • サンタ・クローチェ教会 ドナテッロ作『受胎告知』<br />聖母マリアのズームアップです。戸惑いの面持ちとその可憐な仕草をご堪能下さい。<br /><br />材質は、大理石ではなく、ピエトラ・セレーナというグレーの石材を使っています。フィレンツェ北部で採掘される石材で、今でも住居や窓の周りや階段部分に利用されています。大理石ほど軟らかくないので、彫るのは難儀だったと言われています。<br />

    サンタ・クローチェ教会 ドナテッロ作『受胎告知』
    聖母マリアのズームアップです。戸惑いの面持ちとその可憐な仕草をご堪能下さい。

    材質は、大理石ではなく、ピエトラ・セレーナというグレーの石材を使っています。フィレンツェ北部で採掘される石材で、今でも住居や窓の周りや階段部分に利用されています。大理石ほど軟らかくないので、彫るのは難儀だったと言われています。

  • サンタ・クローチェ教会 『レオナルド・ブルーニの墓』<br />『受胎告知』の左隣には、ベルナルド・ロッセッリーノ作『レオナルド・ブルーニの墓』があります。<br />棺を古代や東方風に意匠を凝らし、墓主の彫像や徳を讃える寓意像を取り付け、さらに聖母像や聖者、プットを添えたルネッサンス時代の典型様式です。棺の上に横たわる死者が、わずかにこちらに顔を向け、体も我々の方に傾斜した感じになっているのが特徴です。<br /><br />ブルーニは商人の家に生まれて学者となり、フィレンツェ共和国最高評議会議長に就いた人。中世まで富は後ろめたいものでした。イエスの言葉に「富者が天国に入るのはラクダが針の穴を通るより難しい」とあったからです。それで富める者の寄進で修道院が繁栄しました。ところが、このブルーニは現世的利益を肯定します。「気前の良さ」は美徳であり、「気前の良さ」を発揮するには豊かでなくてはならないという論法。こうしてフィレンツェでは「堂々たる建物」や「美しい本」が惜しみなく金を使って造られていきました。このような価値の逆転を試みた人文主義者がブルーニ。今もブルーニの像は、その手に主著である「フィレンツェの人々の歴史」1巻を携えながら横たわっています。<br />

    サンタ・クローチェ教会 『レオナルド・ブルーニの墓』
    『受胎告知』の左隣には、ベルナルド・ロッセッリーノ作『レオナルド・ブルーニの墓』があります。
    棺を古代や東方風に意匠を凝らし、墓主の彫像や徳を讃える寓意像を取り付け、さらに聖母像や聖者、プットを添えたルネッサンス時代の典型様式です。棺の上に横たわる死者が、わずかにこちらに顔を向け、体も我々の方に傾斜した感じになっているのが特徴です。

    ブルーニは商人の家に生まれて学者となり、フィレンツェ共和国最高評議会議長に就いた人。中世まで富は後ろめたいものでした。イエスの言葉に「富者が天国に入るのはラクダが針の穴を通るより難しい」とあったからです。それで富める者の寄進で修道院が繁栄しました。ところが、このブルーニは現世的利益を肯定します。「気前の良さ」は美徳であり、「気前の良さ」を発揮するには豊かでなくてはならないという論法。こうしてフィレンツェでは「堂々たる建物」や「美しい本」が惜しみなく金を使って造られていきました。このような価値の逆転を試みた人文主義者がブルーニ。今もブルーニの像は、その手に主著である「フィレンツェの人々の歴史」1巻を携えながら横たわっています。

  • サンタ・クローチェ教会 『ロッシーニの墓』<br />『レオナルド・ブルーニの墓』の左が、オペラ作曲家『ロッシーニの墓』です。<br />『セビリアの理髪師』で有名なロッシーニの生誕地はボローニャ。彼はヨーロッパ各国を転々とし、最後の地となったのがパリ郊外。当初ペール・ラシェーズ墓地に葬られたましたが、本人の希望でこの地に埋葬されたそうです。<br />彼の初めてのオペラはフィレンツェが初演だったそうですので、その繋がりということでしょうか?

    サンタ・クローチェ教会 『ロッシーニの墓』
    『レオナルド・ブルーニの墓』の左が、オペラ作曲家『ロッシーニの墓』です。
    『セビリアの理髪師』で有名なロッシーニの生誕地はボローニャ。彼はヨーロッパ各国を転々とし、最後の地となったのがパリ郊外。当初ペール・ラシェーズ墓地に葬られたましたが、本人の希望でこの地に埋葬されたそうです。
    彼の初めてのオペラはフィレンツェが初演だったそうですので、その繋がりということでしょうか?

  • サンタ・クローチェ教会 バロンチェッリ礼拝堂<br />教会の右奥の翼部分にあるバロンチェッリ礼拝堂。<br />清貧な身廊とは真逆に、側廊や礼拝堂は華麗な装飾を競う場になっています。このようにヴォールトにまで施された幾何学模様の繊細さと美しさは例えようがありません。<br />手前にあるポリプティク「聖母戴冠」はジョットの作品。正面の左中央の作品がタッデオ・ガッディ作「羊飼いへの天使のしらせ」です。

    サンタ・クローチェ教会 バロンチェッリ礼拝堂
    教会の右奥の翼部分にあるバロンチェッリ礼拝堂。
    清貧な身廊とは真逆に、側廊や礼拝堂は華麗な装飾を競う場になっています。このようにヴォールトにまで施された幾何学模様の繊細さと美しさは例えようがありません。
    手前にあるポリプティク「聖母戴冠」はジョットの作品。正面の左中央の作品がタッデオ・ガッディ作「羊飼いへの天使のしらせ」です。

  • サンタ・クローチェ教会 バロンチェッリ礼拝堂<br />これが手前に飾られているポリプティク(4枚もしくはそれ以上に分割された祭壇画の枠)「聖母戴冠」(1328年)です。<br />一種の屏風絵のような「バロンチェッリ・ポリプティク」と呼ばれるこの作品は、パネル中央の絵がジョットの作品で、その他の部分は弟子たちが協力しているそうです。<br /><br />

    サンタ・クローチェ教会 バロンチェッリ礼拝堂
    これが手前に飾られているポリプティク(4枚もしくはそれ以上に分割された祭壇画の枠)「聖母戴冠」(1328年)です。
    一種の屏風絵のような「バロンチェッリ・ポリプティク」と呼ばれるこの作品は、パネル中央の絵がジョットの作品で、その他の部分は弟子たちが協力しているそうです。

  • サンタ・クローチェ教会 バロンチェッリ礼拝堂<br />左側と正面にあるタッデオ・ガッディのフレスコ画は「聖母マリアの生涯」を描いています。フレスコ画は、近年修復が終わり、汚れが除去されてフレスコ画本来の明るい色彩を取り戻しているようです。

    サンタ・クローチェ教会 バロンチェッリ礼拝堂
    左側と正面にあるタッデオ・ガッディのフレスコ画は「聖母マリアの生涯」を描いています。フレスコ画は、近年修復が終わり、汚れが除去されてフレスコ画本来の明るい色彩を取り戻しているようです。

  • サンタ・クローチェ教会 <br />各礼拝堂に備えられているステンドグラスも目を惹きつけるものがあります。<br />これはバロンチェッリ礼拝堂のものです。<br />つまり、3つ前の写真と同じステンドグラスです。でもステンドグラスの映り方が違っています。これは、カメラの設定で露出補正をかけているからです。この場合は、マイナス3に設定し、周りが写り込まないようにしています。(カメラによって差がありますので、補正値−2での試し撮りをお勧めします。)3つ前の写真がゼロ補正です。因みに、プラス補正すれば、ステンドグラスは白飛びしてしまいます。<br /><br />主祭壇左脇のバルディ礼拝堂にはジョットのフレスコ画があるのですが、薄暗くてよく見えません。

    サンタ・クローチェ教会 
    各礼拝堂に備えられているステンドグラスも目を惹きつけるものがあります。
    これはバロンチェッリ礼拝堂のものです。
    つまり、3つ前の写真と同じステンドグラスです。でもステンドグラスの映り方が違っています。これは、カメラの設定で露出補正をかけているからです。この場合は、マイナス3に設定し、周りが写り込まないようにしています。(カメラによって差がありますので、補正値−2での試し撮りをお勧めします。)3つ前の写真がゼロ補正です。因みに、プラス補正すれば、ステンドグラスは白飛びしてしまいます。

    主祭壇左脇のバルディ礼拝堂にはジョットのフレスコ画があるのですが、薄暗くてよく見えません。

  • サンタ・クローチェ教会 カステッラーニ礼拝堂<br />バロンチェッリ礼拝堂に向かって右側に大きなカステッラーニ礼拝堂があります。そこの壁全体に描かれているのは、タッデオの息子のアーニョロ・ガッディ作「イエスの生涯」。また、左右にはミーノ・ダ・フィエーゾレ作の彫像が佇みます。ヴォールトと天井フレスコ画のコントラスト、掲げられたテンペラ画の磔刑像とその陰影、ステンドグラスから差し込む光の揺曳が相俟って荘厳なる宇宙空間を創り出しています。<br /><br />

    サンタ・クローチェ教会 カステッラーニ礼拝堂
    バロンチェッリ礼拝堂に向かって右側に大きなカステッラーニ礼拝堂があります。そこの壁全体に描かれているのは、タッデオの息子のアーニョロ・ガッディ作「イエスの生涯」。また、左右にはミーノ・ダ・フィエーゾレ作の彫像が佇みます。ヴォールトと天井フレスコ画のコントラスト、掲げられたテンペラ画の磔刑像とその陰影、ステンドグラスから差し込む光の揺曳が相俟って荘厳なる宇宙空間を創り出しています。

  • サンタ・クローチェ教会<br />セバスティアーノ・マイナルディ作「聖母の腰帯」です。<br />この作品はフレスコ画の一部ではなく、壁一面に描かれていて迫力があります。彼は、フィレンツェ出身、ドメニコ・ギルランダイオの義理の兄弟です。

    サンタ・クローチェ教会
    セバスティアーノ・マイナルディ作「聖母の腰帯」です。
    この作品はフレスコ画の一部ではなく、壁一面に描かれていて迫力があります。彼は、フィレンツェ出身、ドメニコ・ギルランダイオの義理の兄弟です。

  • サンタ・クローチェ教会<br />聖具室の正面には、キリストの復活を描いたフレスコ画があります。<br />中央の「キリスト磔刑」、上段の「キリスト昇天」はガッディ作。左の「ゴルゴダへの道」はピネッロ・アレティーノ作。彼は、タッデオ・ガッディの弟子だったヤコポ・デル・カセンティーノの弟子に当たります。<br />右の「キリストの復活」はニッコロ・ジェリーニ作。

    サンタ・クローチェ教会
    聖具室の正面には、キリストの復活を描いたフレスコ画があります。
    中央の「キリスト磔刑」、上段の「キリスト昇天」はガッディ作。左の「ゴルゴダへの道」はピネッロ・アレティーノ作。彼は、タッデオ・ガッディの弟子だったヤコポ・デル・カセンティーノの弟子に当たります。
    右の「キリストの復活」はニッコロ・ジェリーニ作。

  • サンタ・クローチェ教会 主祭壇<br />中央祭壇の左右の壁には「聖十字架伝説」が描かれているはずなのですが、修復工事の足場が残されたままになっています。13世紀に書かれた「黄金伝説」をベースにした物語です。アダムの息子セツがエデンの園でもらった種をアダムの墓に植え、育った木からイエスが磔刑される十字架が造られます。キリスト教を公認した古代ローマ皇帝コンスタンティヌス、そして東ローマ皇帝ヘラクリウスの時代へと物語は十字架を中心に展開していきます。作品はジョット派アニョロ・ガッディが描きました。<br /><br />修復は、日本の美術愛好家が資金を提供し、提案を受けた金沢大学の宮下教授のイニシアティブで2004年に着手され、すでに終了しています。国立フィレンツェ修復研究所との共同作業で進められていたそうです。では、何故足場が残されているかと言うと、希望者に間近で観てもらうためだそうです(予約制だそうです)。なるほどと思わせる説明ですが、職務怠慢の屁理屈とも取れますね!?<br />恐らく、近々に足場は撤去されるものと期待しています。 <br /><br />

    サンタ・クローチェ教会 主祭壇
    中央祭壇の左右の壁には「聖十字架伝説」が描かれているはずなのですが、修復工事の足場が残されたままになっています。13世紀に書かれた「黄金伝説」をベースにした物語です。アダムの息子セツがエデンの園でもらった種をアダムの墓に植え、育った木からイエスが磔刑される十字架が造られます。キリスト教を公認した古代ローマ皇帝コンスタンティヌス、そして東ローマ皇帝ヘラクリウスの時代へと物語は十字架を中心に展開していきます。作品はジョット派アニョロ・ガッディが描きました。

    修復は、日本の美術愛好家が資金を提供し、提案を受けた金沢大学の宮下教授のイニシアティブで2004年に着手され、すでに終了しています。国立フィレンツェ修復研究所との共同作業で進められていたそうです。では、何故足場が残されているかと言うと、希望者に間近で観てもらうためだそうです(予約制だそうです)。なるほどと思わせる説明ですが、職務怠慢の屁理屈とも取れますね!?
    恐らく、近々に足場は撤去されるものと期待しています。

  • サンタ・クローチェ教会 主祭壇<br />主祭壇の左脇に置かれたマリア像です。ロウソクの灯りが神々しさを引き立てます。<br />

    サンタ・クローチェ教会 主祭壇
    主祭壇の左脇に置かれたマリア像です。ロウソクの灯りが神々しさを引き立てます。

  • サンタ・クローチェ教会<br />一番気にいったステンドグラスです。

    サンタ・クローチェ教会
    一番気にいったステンドグラスです。

  • サンタ・クローチェ教会 パッツィ家礼拝堂<br />教会から中庭にでるとパッツィ家礼拝堂が迎え入れてくれます。<br />ドゥオーモのクーポラを建てた建築家フィリッポ・ブルネッレスキが建造しました。円形と方形の調和の取れたブルネッレスキらしいデザインです。1429年頃に建造が始り、ブルネッレスキの死後、1470年頃に完成。正面から見るとUFOを彷彿とさせる愛嬌のある居住まいです。入口のアーチ部分と内部とに違和感を覚えるのは、内部がブルネッレスキの設計に対し、入口部分は他の建築家の設計だからだそうです。 <br />ファサードには六本のコリント式列柱が並ぶ柱廊があり、その壁面の下の飾り縁にはデジデリオ・ダ・セッティニャーノ作の天使の頭部の浮彫りが並んでいます。<br /><br /><br />

    サンタ・クローチェ教会 パッツィ家礼拝堂
    教会から中庭にでるとパッツィ家礼拝堂が迎え入れてくれます。
    ドゥオーモのクーポラを建てた建築家フィリッポ・ブルネッレスキが建造しました。円形と方形の調和の取れたブルネッレスキらしいデザインです。1429年頃に建造が始り、ブルネッレスキの死後、1470年頃に完成。正面から見るとUFOを彷彿とさせる愛嬌のある居住まいです。入口のアーチ部分と内部とに違和感を覚えるのは、内部がブルネッレスキの設計に対し、入口部分は他の建築家の設計だからだそうです。
    ファサードには六本のコリント式列柱が並ぶ柱廊があり、その壁面の下の飾り縁にはデジデリオ・ダ・セッティニャーノ作の天使の頭部の浮彫りが並んでいます。


  • サンタ・クローチェ教会 パッツィ家礼拝堂<br />ブルネッレスキ制作の丸天井です。12等分された美しいデザインで、その周りにある4つのメダリオンは福音書記者をテーマに制作されたもので、これもブルネッレスキのデザインです。<br />簡素ですが、天窓と周囲の丸窓から採光できる構造になっています。天窓は、なんとなくローマのパンテオンを彷彿とさせる造りです。礼拝堂全体の白い壁面の上部を飾る彩色テラコッタのメダリオンは12使徒を表わし、ルカ・デラ・ロッビアが制作しました。<br /><br />

    サンタ・クローチェ教会 パッツィ家礼拝堂
    ブルネッレスキ制作の丸天井です。12等分された美しいデザインで、その周りにある4つのメダリオンは福音書記者をテーマに制作されたもので、これもブルネッレスキのデザインです。
    簡素ですが、天窓と周囲の丸窓から採光できる構造になっています。天窓は、なんとなくローマのパンテオンを彷彿とさせる造りです。礼拝堂全体の白い壁面の上部を飾る彩色テラコッタのメダリオンは12使徒を表わし、ルカ・デラ・ロッビアが制作しました。

  • サンタ・クローチェ教会 パッツィ家礼拝堂<br />美しい回廊です。この回廊を巡りながら瞑想でもするのでしょうか?

    サンタ・クローチェ教会 パッツィ家礼拝堂
    美しい回廊です。この回廊を巡りながら瞑想でもするのでしょうか?

  • サンタ・クローチェ教会  パッツィ家礼拝堂<br />祭壇上の丸天井には、12星座のフレスコ画があります。しかし、かなり損傷や汚れ、剥離が進んでいて原形をとどめていないような気もします。これ以上、修復不可能なのでしょうか?<br />

    サンタ・クローチェ教会  パッツィ家礼拝堂
    祭壇上の丸天井には、12星座のフレスコ画があります。しかし、かなり損傷や汚れ、剥離が進んでいて原形をとどめていないような気もします。これ以上、修復不可能なのでしょうか?

  • サンタ・クローチェ教会 付属美術館 チマブーエ作磔刑図 <br />付属美術館の最大の呼び物がこの作品です。チマブーエが1280年に描いたもので、この教会生粋のものです。

    サンタ・クローチェ教会 付属美術館 チマブーエ作磔刑図
    付属美術館の最大の呼び物がこの作品です。チマブーエが1280年に描いたもので、この教会生粋のものです。

  • サンタ・クローチェ教会 チマブーエ作磔刑図<br />1966年にフィレンツェで起きた大洪水のシンボルとして、その爪痕を今に残す作品です。アルノ川に近いこの教会では、洪水の際に水位が4.9mまで達しました。このチマブーエの磔刑図は、有志によって泥の中から探し出された絵の破片を10年に及ぶ修復で奇跡的に復元したものです。現在は、洪水に備え、この磔刑図を吊り上げることができるようになっています。<br />南海トラフ巨大地震で甚大な津波被害が想定されているはずの某市が、新たに市立美術館を建設する話が持ち上がっています。場所や建物については、こうした事例を鑑み、専門家の意見を尊重した判断をしてもらいたいと願うのは当方だけではないように思います。<br /><br />

    サンタ・クローチェ教会 チマブーエ作磔刑図
    1966年にフィレンツェで起きた大洪水のシンボルとして、その爪痕を今に残す作品です。アルノ川に近いこの教会では、洪水の際に水位が4.9mまで達しました。このチマブーエの磔刑図は、有志によって泥の中から探し出された絵の破片を10年に及ぶ修復で奇跡的に復元したものです。現在は、洪水に備え、この磔刑図を吊り上げることができるようになっています。
    南海トラフ巨大地震で甚大な津波被害が想定されているはずの某市が、新たに市立美術館を建設する話が持ち上がっています。場所や建物については、こうした事例を鑑み、専門家の意見を尊重した判断をしてもらいたいと願うのは当方だけではないように思います。

  • サンタ・クローチェ教会 付属美術館<br />タッデオ・ガッディ作「生命の木と最後の晩餐」<br />元食堂内にある1340年頃の作品。剥離してしまったため、パネル装にされたフレスコ画です。<br />上段には「生命の木」、中心にはイエス磔刑の図が見られます。その下段にはガッディの最高傑作と讃えられる「最後の晩餐」。

    サンタ・クローチェ教会 付属美術館
    タッデオ・ガッディ作「生命の木と最後の晩餐」
    元食堂内にある1340年頃の作品。剥離してしまったため、パネル装にされたフレスコ画です。
    上段には「生命の木」、中心にはイエス磔刑の図が見られます。その下段にはガッディの最高傑作と讃えられる「最後の晩餐」。

  • サンタ・クローチェ教会 付属美術館<br />タッデオ・ガッディ作「生命の木と最後の晩餐」<br />「生命の木」とは、旧約聖書の創世記に記される、エデンの園の中央に植えられた2本の木のうちの1本。もう1本がアダムとイヴが食した実が生った「善悪の知恵の木」です。<br />どことなく、ウィーン分離派の巨匠グスタフ・クリムト晩年の代表作「ストックレー・フリーズ−生命の樹」を彷彿とさせます。<br />http://www.salvastyle.com/menu_symbolism/klimt_stoclefriesa.html

    サンタ・クローチェ教会 付属美術館
    タッデオ・ガッディ作「生命の木と最後の晩餐」
    「生命の木」とは、旧約聖書の創世記に記される、エデンの園の中央に植えられた2本の木のうちの1本。もう1本がアダムとイヴが食した実が生った「善悪の知恵の木」です。
    どことなく、ウィーン分離派の巨匠グスタフ・クリムト晩年の代表作「ストックレー・フリーズ−生命の樹」を彷彿とさせます。
    http://www.salvastyle.com/menu_symbolism/klimt_stoclefriesa.html

  • サンタ・クローチェ教会 付属美術館<br />タッデオ・ガッディ作「生命の木と最後の晩餐」<br />裏切者ユダは手前側にひとりポツンと孤独感を噛締めています。イエスが「ここに裏切り者がいる」と発した直後の様子を描いたように見えます。ヨハネは悲しみのあまり、テーブルの上にうつ伏しています。 <br /><br />

    サンタ・クローチェ教会 付属美術館
    タッデオ・ガッディ作「生命の木と最後の晩餐」
    裏切者ユダは手前側にひとりポツンと孤独感を噛締めています。イエスが「ここに裏切り者がいる」と発した直後の様子を描いたように見えます。ヨハネは悲しみのあまり、テーブルの上にうつ伏しています。

  • サンタ・クローチェ教会 付属美術館<br />「生命の木と最後の晩餐」の脇にあったステンドグラスです。淡く遠慮がちでナイーブな色彩が楚々とした味わいを醸しています。ここから差し込んだ陽光が、「生命の木と最後の晩餐」をやさしく包んでいます。<br />天使が降りてきそうな光景でした。<br /><br /><br /><br />

    サンタ・クローチェ教会 付属美術館
    「生命の木と最後の晩餐」の脇にあったステンドグラスです。淡く遠慮がちでナイーブな色彩が楚々とした味わいを醸しています。ここから差し込んだ陽光が、「生命の木と最後の晩餐」をやさしく包んでいます。
    天使が降りてきそうな光景でした。



  • サンタ・クローチェ教会 中庭 <br />フローレンス・ナイチンゲールに捧げる記念碑<br />中庭にある出口に向かって左手に、楚々とした記念碑があります。ナイチンゲールの両親は、イギリスの地主階級ジェントリ家系出身。2年間に亘る新婚旅行に出かけ、その間に子を2人もうけます。フィレンツェ滞在中に生まれた次女を地名に因んでフローレンスと名付けました。幼少期は贅の限りを尽くした教育を受けますが、慈善訪問で接した貧しい農民の悲惨な生活を目の当たりにし、人々に奉仕する仕事に就きたいと考えるようになりました。ロンドンで婦人病院長となり、専門教育を施した看護婦の必要性を訴えます。往時、看護婦は、「病人の世話をする召使」と蔑まれ、専門知識の必要ない職業と見下げられていました。1854年にクリミア戦争が勃発し、負傷兵の手当てが悲惨な状況にあることが国内に伝わり、一気に世論が沸騰します。大臣は、彼女に従軍を依頼します。その働きぶりから「クリミアの天使」とも讃えられました。今日、看護師を「白衣の天使」と呼ぶのは、ナイチンゲールに由来します。また、夜回りを欠かさなかったことから「ランプの貴婦人」とも呼ばれ、そのためにこの像もランプを持った姿を象っています。 <br /><br />

    サンタ・クローチェ教会 中庭 
    フローレンス・ナイチンゲールに捧げる記念碑
    中庭にある出口に向かって左手に、楚々とした記念碑があります。ナイチンゲールの両親は、イギリスの地主階級ジェントリ家系出身。2年間に亘る新婚旅行に出かけ、その間に子を2人もうけます。フィレンツェ滞在中に生まれた次女を地名に因んでフローレンスと名付けました。幼少期は贅の限りを尽くした教育を受けますが、慈善訪問で接した貧しい農民の悲惨な生活を目の当たりにし、人々に奉仕する仕事に就きたいと考えるようになりました。ロンドンで婦人病院長となり、専門教育を施した看護婦の必要性を訴えます。往時、看護婦は、「病人の世話をする召使」と蔑まれ、専門知識の必要ない職業と見下げられていました。1854年にクリミア戦争が勃発し、負傷兵の手当てが悲惨な状況にあることが国内に伝わり、一気に世論が沸騰します。大臣は、彼女に従軍を依頼します。その働きぶりから「クリミアの天使」とも讃えられました。今日、看護師を「白衣の天使」と呼ぶのは、ナイチンゲールに由来します。また、夜回りを欠かさなかったことから「ランプの貴婦人」とも呼ばれ、そのためにこの像もランプを持った姿を象っています。

  • サンタ・クローチェ教会 中庭<br />見所の多い教会ですので見学には1時間15分費やしましたが、これでも足りないくらいです。<br />写真の左側の建屋が付属美術館、右奥が出口になります。出口の左側に「ナイチンゲールに捧げる記念碑」、右側にトイレがあります。<br />有料施設ながらトイレは大変おそまつとのネット情報があったため、昨日入った革製品ショップでお借りし、娘へのお土産にと何故か昨日は出品されていなかった財布を購入しました。その後、ドゥオーモ広場まで戻ります。ドゥオーモ内部見学の列が短いとラッキーなのですが…。<br /><br />この続きは⑦フィレンツェ編Part.3でお楽しみ下さい。ドゥオーモ内部と偶然鑑賞できたサン・ジョヴァンニ洗礼堂内部を詳しくご紹介いたします。 <br /><br />

    サンタ・クローチェ教会 中庭
    見所の多い教会ですので見学には1時間15分費やしましたが、これでも足りないくらいです。
    写真の左側の建屋が付属美術館、右奥が出口になります。出口の左側に「ナイチンゲールに捧げる記念碑」、右側にトイレがあります。
    有料施設ながらトイレは大変おそまつとのネット情報があったため、昨日入った革製品ショップでお借りし、娘へのお土産にと何故か昨日は出品されていなかった財布を購入しました。その後、ドゥオーモ広場まで戻ります。ドゥオーモ内部見学の列が短いとラッキーなのですが…。

    この続きは⑦フィレンツェ編Part.3でお楽しみ下さい。ドゥオーモ内部と偶然鑑賞できたサン・ジョヴァンニ洗礼堂内部を詳しくご紹介いたします。

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この旅行記へのコメント (2)

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  • ちょんたさん 2017/03/30 20:41:51
    素晴らしい旅行記。
    montsaintmichel様

    初めまして、ちょんたと申します。
    4月の末にフィレンツェに行くものですから、この旅行記でたっぷりと勉強いたしました。
    特にサンタクローチェは今度こそゆっくりと行こうと思っているので、大変に参考になりました。

    またゆっくりお邪魔させてくださいませ。

    トイレの地図は携帯に収めました。きっと役に立つことでしょう。ありがとうございました。

           ちょんた

    montsaintmichel

    montsaintmichelさん からの返信 2017/03/31 16:53:08
    RE: 素晴らしい旅行記。
    ちょんた 様

    こんにちは!
    旅行記にアクセスいただきありがとうございました。
    これから行かれる方に役立つ旅行記を目指していますので、こうしたコメントをいただくととても励みになります。
    自分で言うのもなんですが、かなり長文ですので、旅行前に夜更かして体調を壊されないようにしてくださいませ。
    ちょんた様の旅行記がアップされるのを愉しみにしております。

    montsaintmichel

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