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エトルリア人によって建設され、古代ローマ時代に花の女神フローラに因んでフロレンティアと呼ばれるようになったフィレンツェ。ヨーロッパに美しい都は数あれど、「花の都」という名を授けられたフィレンツェはその中でも類稀なる美しさを誇ります。町の中心をたおやかに悠々と流れるアルノ川、中世の面影をそのまま遺す佇まい、そしてルネッサンス時代の史跡群、等々。見所が凝縮された小さな町フィレンツェを紐解くキーワードは、ずばり「ルネッサンス」と「メディチ家」です。<br /><br />ホテルは2連泊です。荷物のパッキングを省けるので、睡眠不足を解消し、体調を整えることができありがたいです。途中、ピサ観光(半日)が入りますが、フィレンツェ編と題してPart.1~3を連続してご紹介いたします。前段ともなるPart.1は、ドゥオーモ広場の夜景と早朝散策を現地ガイドさんも舌を巻くようなお宝情報満載でお届けします。<br /><br />観光スポットの営業時間をチェックしたサイトです。<br />http://www.amoitalia.com/firenze/museum_schedule.html<br />公衆トイレをチェックするのに用いたサイトです。<br />http://www.amoitalia.com/firenze/map.html<br />街歩きのプランニングに利用したサイトです。<br />http://map.utravelnote.com/italy/toscana_state/firenze<br />こちらも市街マップです。(データが重いです)<br />http://www.easyfirenze.com/immagini/index/mappa.PDF<br />その他、「まっぷる」の付録マップを併用させていただきました。<br /><br /><日程><br />5月2日:出発(関空~ローマ経由ミラノ)アリタリア航空(AZ793便)<br />     アタホテル クァーク宿泊<br />5月3日:午前 ミラノ観光<br />     午後 ヴェローナ観光<br />     アマデウス(ヴェネツィア本島)宿泊<br />5月4日:ヴェネツィア観光<br />     午後 フィレンツェへバス移動(245km)<br />     クローチェ・ディ・マルタ宿泊 (2連泊)<br />5月5日:午前 フィレンツェ観光<br />     ドゥオーモ外観→シニョーリア広場→ウフィツィ美術館<br />     (1時間)→サンタ・クローチェ教会→革製品ショッピング→<br />     ランチ後、ピサへ移動(80km)<br />     奇蹟の広場→ドゥオーモ内部→斜塔入場→フリータイム<br />     クローチェ・ディ・マルタ宿泊 (2連泊)<br />5月6日:午前 フィレンツェ フリータイム<br />     午後 イタリア版新幹線「イタロ」でナポリへ<br />     ホリディイン・ナポリ宿泊<br />5月7日:アマルフィ海岸ドライブ(3時間半)<br />     午後 ポンペイ遺跡見学<br />     水中翼船でカプリ島へ移動(45分)→フリータイム<br />     レジーナ・クリスティーナ宿泊<br />5月8日:カプリ島観光<br />     午後 ナポリ港着後、ローマへバスで移動<br />     シェラトン・ゴルフ・パルコ・デ・メディチ宿泊(2連泊)<br />5月9日:ローマ市内観光<br />     シェラトン・ゴルフ・パルコ・デ・メディチ宿泊(2連泊)<br />5月10日:午前 ローマ市内観光<br />     観光後、ローマ空港へ<br />     アリタリア航空(AZ792便)で一路関空へ <br />5月11日:関空着<br />

ときめきのイタリア周遊⑤フィレンツェ編Part1

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2013/05/02 - 2013/05/11

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montsaintmichel

montsaintmichelさん

エトルリア人によって建設され、古代ローマ時代に花の女神フローラに因んでフロレンティアと呼ばれるようになったフィレンツェ。ヨーロッパに美しい都は数あれど、「花の都」という名を授けられたフィレンツェはその中でも類稀なる美しさを誇ります。町の中心をたおやかに悠々と流れるアルノ川、中世の面影をそのまま遺す佇まい、そしてルネッサンス時代の史跡群、等々。見所が凝縮された小さな町フィレンツェを紐解くキーワードは、ずばり「ルネッサンス」と「メディチ家」です。

ホテルは2連泊です。荷物のパッキングを省けるので、睡眠不足を解消し、体調を整えることができありがたいです。途中、ピサ観光(半日)が入りますが、フィレンツェ編と題してPart.1~3を連続してご紹介いたします。前段ともなるPart.1は、ドゥオーモ広場の夜景と早朝散策を現地ガイドさんも舌を巻くようなお宝情報満載でお届けします。

観光スポットの営業時間をチェックしたサイトです。
http://www.amoitalia.com/firenze/museum_schedule.html
公衆トイレをチェックするのに用いたサイトです。
http://www.amoitalia.com/firenze/map.html
街歩きのプランニングに利用したサイトです。
http://map.utravelnote.com/italy/toscana_state/firenze
こちらも市街マップです。(データが重いです)
http://www.easyfirenze.com/immagini/index/mappa.PDF
その他、「まっぷる」の付録マップを併用させていただきました。

<日程>
5月2日:出発(関空~ローマ経由ミラノ)アリタリア航空(AZ793便)
     アタホテル クァーク宿泊
5月3日:午前 ミラノ観光
     午後 ヴェローナ観光
     アマデウス(ヴェネツィア本島)宿泊
5月4日:ヴェネツィア観光
     午後 フィレンツェへバス移動(245km)
     クローチェ・ディ・マルタ宿泊 (2連泊)
5月5日:午前 フィレンツェ観光
     ドゥオーモ外観→シニョーリア広場→ウフィツィ美術館
     (1時間)→サンタ・クローチェ教会→革製品ショッピング→
     ランチ後、ピサへ移動(80km)
     奇蹟の広場→ドゥオーモ内部→斜塔入場→フリータイム
     クローチェ・ディ・マルタ宿泊 (2連泊)
5月6日:午前 フィレンツェ フリータイム
     午後 イタリア版新幹線「イタロ」でナポリへ
     ホリディイン・ナポリ宿泊
5月7日:アマルフィ海岸ドライブ(3時間半)
     午後 ポンペイ遺跡見学
     水中翼船でカプリ島へ移動(45分)→フリータイム
     レジーナ・クリスティーナ宿泊
5月8日:カプリ島観光
     午後 ナポリ港着後、ローマへバスで移動
     シェラトン・ゴルフ・パルコ・デ・メディチ宿泊(2連泊)
5月9日:ローマ市内観光
     シェラトン・ゴルフ・パルコ・デ・メディチ宿泊(2連泊)
5月10日:午前 ローマ市内観光
     観光後、ローマ空港へ
     アリタリア航空(AZ792便)で一路関空へ 
5月11日:関空着

旅行の満足度
5.0
観光
5.0
同行者
カップル・夫婦
一人あたり費用
30万円 - 50万円
交通手段
観光バス 徒歩
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)
利用旅行会社
阪急交通社
  • サンタ・マリア・ノヴェッラ教会<br />ホテル到着後、夜景見物に出かけます。時計は22時前を指しています。明日でもよかったのですが、明日はミケランジェロ広場から夜景を楽しむ予定です。ホテルは第一候補から変更され、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会から至近距離のクローチェ・ディ・マルタとなり、フィレンツェ中心部へのアプローチが短縮されラッキーでした。<br /><br />この教会はフィレンツェ駐在のドメニコ派の修道院付属教会として建造され、1325年頃に今の形となりました。ファサードは、2008年に修復が終わり、とても綺麗な姿に戻っています。

    サンタ・マリア・ノヴェッラ教会
    ホテル到着後、夜景見物に出かけます。時計は22時前を指しています。明日でもよかったのですが、明日はミケランジェロ広場から夜景を楽しむ予定です。ホテルは第一候補から変更され、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会から至近距離のクローチェ・ディ・マルタとなり、フィレンツェ中心部へのアプローチが短縮されラッキーでした。

    この教会はフィレンツェ駐在のドメニコ派の修道院付属教会として建造され、1325年頃に今の形となりました。ファサードは、2008年に修復が終わり、とても綺麗な姿に戻っています。

  • ドゥオーモ広場<br />土曜日と言うこともあり、22時過ぎだというのにドゥオーモ広場は若者たちで賑わっています。道端を占拠しているのは、物売りのお兄さん方です。青白く光っているのは、空中に放り投げて遊ぶおもちゃです。<br /><br />人通りが多いのでカメラの感度をISO100に設定し、長時間露光・スローシャッターで人影を消す撮影方法に挑戦。しかし、物売りはほとんど動かないので消えていません。消えるのは、カメラの前を通った人だけです。勿論、三脚を使っています。

    ドゥオーモ広場
    土曜日と言うこともあり、22時過ぎだというのにドゥオーモ広場は若者たちで賑わっています。道端を占拠しているのは、物売りのお兄さん方です。青白く光っているのは、空中に放り投げて遊ぶおもちゃです。

    人通りが多いのでカメラの感度をISO100に設定し、長時間露光・スローシャッターで人影を消す撮影方法に挑戦。しかし、物売りはほとんど動かないので消えていません。消えるのは、カメラの前を通った人だけです。勿論、三脚を使っています。

  • ドゥオーモ広場<br />ドゥオーモのファサード下の階段には、沢山の若者たちが腰を下ろして談話の真っ最中です。こうして見ると、まるで不夜城のようなドゥオーモです。

    ドゥオーモ広場
    ドゥオーモのファサード下の階段には、沢山の若者たちが腰を下ろして談話の真っ最中です。こうして見ると、まるで不夜城のようなドゥオーモです。

  • ドゥオーモ広場<br />右端に写っているのは救急車です。ここはミゼルコルディア同信会。中世から続く福祉施設で、今でもここから救急車が出動するそうです。<br /><br />ところで、これだけ大きなドゥオーモ全体をライトアップするのは、さぞかし大変なことなのでしょうね。

    ドゥオーモ広場
    右端に写っているのは救急車です。ここはミゼルコルディア同信会。中世から続く福祉施設で、今でもここから救急車が出動するそうです。

    ところで、これだけ大きなドゥオーモ全体をライトアップするのは、さぞかし大変なことなのでしょうね。

  • ドゥオーモ広場<br />角度を変えると相貌も変わるから不思議です。

    ドゥオーモ広場
    角度を変えると相貌も変わるから不思議です。

  • ホテル前のスカラ通り<br />細い道ですが、ATAF(アタフ)と呼ばれる市バスが通る道です。最寄のバス停は、12番(ミケランジェロ広場行)のSANTA MARIA NOVELLA(SMN)です。SMN教会前広場を右に折れてすぐの所です。バスのチケットが買えるタバッキは、バス停の斜め左向かいにあります。<br /><br />ミケランジェロ広場へバスで行く方法を紹介しておきます。ATAFはオレンジ色のバスで、「Autobus(アウトブス)」と言います。切符は、タバッキ(Tabacchi)という雑貨屋や鉄道駅などで購入します(1枚1.2ユーロ)。バスの運転手から買うと2ユーロ(おつりはもらえません)。フィレンツェでは打刻時間から90分間有効ですので往復で1枚も可(但し、降りる時間が90分を超えないように)。バスには3箇所扉があり、真ん中の扉は降車専用。切符を事前購入している場合は、一番後ろの扉から乗車します。前の扉からでは切符の刻印から遠いです。乗車したら切符に刻印するのを忘れないように! 抜き打ちで検札があり、高額な罰金が重要な運営費になっているとの情報もあります。<br />往路は12番、復路は13番のバスを使うと便利です。<br />12番:SMN駅前広場→ローマ門→ミケランジェロ広場→国鉄カンポ・マルテ駅→SMN駅(SMNはSMN駅を出て二つ目の停留場。一方通行が多く、復路はSMNを通りませんのでSMN駅で降ります。) <br />13番:SMN駅→国鉄カンポ・マルテ駅→ミケランジェロ広場→ローマ門→SMN駅(ミケランジェロ広場の停留所は、ダビデ像の近くです。)<br />時刻表は、次のサイト(英語)で確認してください。平日、土曜、日曜日で替わります。 http://www.ataf.net/en/ataf.aspx?idC=2&amp;LN=en-US<br />①Plan your routeでLineに12番路線を選んでください。<br />②画面が切り替わります。右側のCHOOSE A TIMETABLEで日付を選びます。<br /> 下のDetailed routeをクリックすればバスのルートが見られます。<br />③方向が合っているか確認します。(from Stazione SMN ならOK)<br />④所望の時間帯を選びます。(from 18:55 to 00:00など)<br />⑤同様に、復路は13番路線を選びます。(方向を間違えないでね。)<br />車内の電光掲示板のないふるいバスも運行しているそうですので、外の景色を頼りに降車ボタンを押してください。<br />タクシー利用の場合は、「ピアッツァーレ・ミケランジェロ(Piazzale Michelangelo)、ペル・ファボーレ」と言えばOK。SMN教会前広場にタクシー乗場があり、10分程、料金15ユーロ前後だと思います。ミケランジェロ広場にはタクシーが待機しているので帰りの心配もありません。<br />

    ホテル前のスカラ通り
    細い道ですが、ATAF(アタフ)と呼ばれる市バスが通る道です。最寄のバス停は、12番(ミケランジェロ広場行)のSANTA MARIA NOVELLA(SMN)です。SMN教会前広場を右に折れてすぐの所です。バスのチケットが買えるタバッキは、バス停の斜め左向かいにあります。

    ミケランジェロ広場へバスで行く方法を紹介しておきます。ATAFはオレンジ色のバスで、「Autobus(アウトブス)」と言います。切符は、タバッキ(Tabacchi)という雑貨屋や鉄道駅などで購入します(1枚1.2ユーロ)。バスの運転手から買うと2ユーロ(おつりはもらえません)。フィレンツェでは打刻時間から90分間有効ですので往復で1枚も可(但し、降りる時間が90分を超えないように)。バスには3箇所扉があり、真ん中の扉は降車専用。切符を事前購入している場合は、一番後ろの扉から乗車します。前の扉からでは切符の刻印から遠いです。乗車したら切符に刻印するのを忘れないように! 抜き打ちで検札があり、高額な罰金が重要な運営費になっているとの情報もあります。
    往路は12番、復路は13番のバスを使うと便利です。
    12番:SMN駅前広場→ローマ門→ミケランジェロ広場→国鉄カンポ・マルテ駅→SMN駅(SMNはSMN駅を出て二つ目の停留場。一方通行が多く、復路はSMNを通りませんのでSMN駅で降ります。)
    13番:SMN駅→国鉄カンポ・マルテ駅→ミケランジェロ広場→ローマ門→SMN駅(ミケランジェロ広場の停留所は、ダビデ像の近くです。)
    時刻表は、次のサイト(英語)で確認してください。平日、土曜、日曜日で替わります。 http://www.ataf.net/en/ataf.aspx?idC=2&LN=en-US
    ①Plan your routeでLineに12番路線を選んでください。
    ②画面が切り替わります。右側のCHOOSE A TIMETABLEで日付を選びます。
     下のDetailed routeをクリックすればバスのルートが見られます。
    ③方向が合っているか確認します。(from Stazione SMN ならOK)
    ④所望の時間帯を選びます。(from 18:55 to 00:00など)
    ⑤同様に、復路は13番路線を選びます。(方向を間違えないでね。)
    車内の電光掲示板のないふるいバスも運行しているそうですので、外の景色を頼りに降車ボタンを押してください。
    タクシー利用の場合は、「ピアッツァーレ・ミケランジェロ(Piazzale Michelangelo)、ペル・ファボーレ」と言えばOK。SMN教会前広場にタクシー乗場があり、10分程、料金15ユーロ前後だと思います。ミケランジェロ広場にはタクシーが待機しているので帰りの心配もありません。

  • ホテル クローチェ・ディ・マルタ<br />ホテル帰還は22時半過ぎでした。 <br />今回2連泊したホテルです。サンタ・マリア・ノヴェッラ教会からすぐの距離にある、古き時代の姿を遺したフィレンツェの町並みに溶け込むような佇まいを見せるホテルです。ホテルの建物は、19世紀半ばにカリタ修道女会の修道院として建造されたものを改装したもので、フィレンツェの「清貧な少女たちの修道院」として知られていました。その修道院のルーツは、ローマ時代の建造物を改造したものであり、今でも往時の大理石の彫刻や彫像が遺され、中でもイオニア式の柱頭を持った大理石の柱は荘厳で存在感を顕にしています。<br /><br />水回りに多少難点がありますが、イタリアのホテルでは珍しいことではないそうです。フィレンツェ気分を満喫したい方にはお勧めのホテルです。シャワーの切り替えが分からないなど皆さん困られていました。壊れた物から順に修理するので部屋によって色々な方式があったようです。因みに、キーはカード式です。カードを入口付近にある所定の場所に挿入しないと、暫くしてブラックアウトに遭遇しますのでご注意下さい。本当に何も見えません。(経験者談)<br />

    ホテル クローチェ・ディ・マルタ
    ホテル帰還は22時半過ぎでした。 
    今回2連泊したホテルです。サンタ・マリア・ノヴェッラ教会からすぐの距離にある、古き時代の姿を遺したフィレンツェの町並みに溶け込むような佇まいを見せるホテルです。ホテルの建物は、19世紀半ばにカリタ修道女会の修道院として建造されたものを改装したもので、フィレンツェの「清貧な少女たちの修道院」として知られていました。その修道院のルーツは、ローマ時代の建造物を改造したものであり、今でも往時の大理石の彫刻や彫像が遺され、中でもイオニア式の柱頭を持った大理石の柱は荘厳で存在感を顕にしています。

    水回りに多少難点がありますが、イタリアのホテルでは珍しいことではないそうです。フィレンツェ気分を満喫したい方にはお勧めのホテルです。シャワーの切り替えが分からないなど皆さん困られていました。壊れた物から順に修理するので部屋によって色々な方式があったようです。因みに、キーはカード式です。カードを入口付近にある所定の場所に挿入しないと、暫くしてブラックアウトに遭遇しますのでご注意下さい。本当に何も見えません。(経験者談)

  • ホテル クローチェ・ディ・マルタ<br />中央にあるのが、イオニア式の柱頭を持つローマ時代の大理石柱の遺跡です。<br />回りの景観に溶け込んでいるので、何の違和感もありません。遺跡があると聞いていなければ、全く気付かずにいたでしょう。<br /><br />何故、ホテルまで節電に躍起になっているのか分かりますか?<br />イタリアでは1988年末で原発が廃止されました。従って、エネルギー資源は、石炭や石油、天然ガスの火力発電が全体の9割を占め、消費電力の84%をフランスをはじめ隣国からの輸入に依存しています。そのため、イタリアでは電気代が非常に高く、フランスに比べ2倍近い電気代を払っているそうです。原発にNOを突きつけた国民は、電力不足に悩まされながらも高い電気代を払い、夏の暑さに耐え、冬の寒さを凌ぐというリスクを抱えています。しかし、これを克服し、再生可能エネルギーへの転換や節電対策に成功すれば、世界中のロールモデルになり得るのですが…。その最大の敵は、イタリア電力業界に潜在している、原子力発電回帰へのノスタルジーだと言われています。後半のくだりは、どこかの国と似ているように思いませんか? <br />業界の思惑に水を差すため、政府は「骨太の方針」で最新技術を活用した石炭火力に舵を切る一方、二酸化炭素の排出量に基準を設けて新規増設に拍車をかけました。石炭が再評価される背景には、原発停止で高価なLNG(液化天然ガス)に頼らざるを得ないジャパンプレミアムに経済活動が苦しめられる中、石炭火力発電が最新技術導入により、コストや安全性、環境面で優れたエネルギー源に進化したことが揚げられます。石炭は未だに世界発電量の4割を占め、日本の石炭火力の発電効率は4割以上で世界トップレベルにあります。コストも1kW当たり、石炭では5円程度でLNGの13円に比べて格段に安いそうです。ただ、偏重すると退路を断たれる危険性もあり、こうした過度期には多様なアプローチを適用してリスクヘッジすることが求められます。政府ブレーンの慎重な判断を見守りたいと思います。<br />

    ホテル クローチェ・ディ・マルタ
    中央にあるのが、イオニア式の柱頭を持つローマ時代の大理石柱の遺跡です。
    回りの景観に溶け込んでいるので、何の違和感もありません。遺跡があると聞いていなければ、全く気付かずにいたでしょう。

    何故、ホテルまで節電に躍起になっているのか分かりますか?
    イタリアでは1988年末で原発が廃止されました。従って、エネルギー資源は、石炭や石油、天然ガスの火力発電が全体の9割を占め、消費電力の84%をフランスをはじめ隣国からの輸入に依存しています。そのため、イタリアでは電気代が非常に高く、フランスに比べ2倍近い電気代を払っているそうです。原発にNOを突きつけた国民は、電力不足に悩まされながらも高い電気代を払い、夏の暑さに耐え、冬の寒さを凌ぐというリスクを抱えています。しかし、これを克服し、再生可能エネルギーへの転換や節電対策に成功すれば、世界中のロールモデルになり得るのですが…。その最大の敵は、イタリア電力業界に潜在している、原子力発電回帰へのノスタルジーだと言われています。後半のくだりは、どこかの国と似ているように思いませんか?
    業界の思惑に水を差すため、政府は「骨太の方針」で最新技術を活用した石炭火力に舵を切る一方、二酸化炭素の排出量に基準を設けて新規増設に拍車をかけました。石炭が再評価される背景には、原発停止で高価なLNG(液化天然ガス)に頼らざるを得ないジャパンプレミアムに経済活動が苦しめられる中、石炭火力発電が最新技術導入により、コストや安全性、環境面で優れたエネルギー源に進化したことが揚げられます。石炭は未だに世界発電量の4割を占め、日本の石炭火力の発電効率は4割以上で世界トップレベルにあります。コストも1kW当たり、石炭では5円程度でLNGの13円に比べて格段に安いそうです。ただ、偏重すると退路を断たれる危険性もあり、こうした過度期には多様なアプローチを適用してリスクヘッジすることが求められます。政府ブレーンの慎重な判断を見守りたいと思います。

  • 小さな悪魔<br />フィレンツェ最初の夜が明けました。8:30集合なので、主人は早朝散策に出かけます。シニョーリア広場などの彫像は、日中は人だかりができるので早朝散策で写真に収めるのがいいそうです。このように旅先で主人が早朝やホテル到着後の時間を有効利用するのは、決して珍しいことではありません。<br /><br />いきなり「小さな悪魔」なんて、ドキッとされたことでしょうね。<br />ヴェッキエッティ通りとストロッツィ通りが交差する北東の角に風変わりな像が設置されています。ブロンズ製「小さな悪魔」です。このため、この場所は「悪魔の角」と呼ばれているそうです。実は、1578年にジャン・ボローニャが制作したブロンズ製の旗立てです。単なる旗立てなら、悪魔の形にする必要はないのですが、実はこの作品はこの場所で起きた中世の伝説に由来しています。<br />1245年、聖ピエトロが共和国広場で異端弾圧の説教をしていました。すると突然、群衆の中に奇妙な黒い馬が出現したのです。ピエトロは危険を察知し、手を上げて十字を切りました。馬は「小悪魔の像」がある地点で止まり、強い硫黄の匂いを放ちながら消え失せたそうです。この伝説は「ビガッロのロッジャ」の横の壁にも14世紀のフレスコ画として描かれています(かなりかすれて見にくい状態)。ピエトロは、財産を没収した貴族の恨みを買い、異教審問にかけらて頭を割られて亡くなりました。そのため絵の中でも頭を割られた姿で描かれています。 <br /><br />まだ、日が昇った間際の薄暗がりでの撮影でしたので、青黒く、グロテスクさが引き立っています。<br /><br />

    小さな悪魔
    フィレンツェ最初の夜が明けました。8:30集合なので、主人は早朝散策に出かけます。シニョーリア広場などの彫像は、日中は人だかりができるので早朝散策で写真に収めるのがいいそうです。このように旅先で主人が早朝やホテル到着後の時間を有効利用するのは、決して珍しいことではありません。

    いきなり「小さな悪魔」なんて、ドキッとされたことでしょうね。
    ヴェッキエッティ通りとストロッツィ通りが交差する北東の角に風変わりな像が設置されています。ブロンズ製「小さな悪魔」です。このため、この場所は「悪魔の角」と呼ばれているそうです。実は、1578年にジャン・ボローニャが制作したブロンズ製の旗立てです。単なる旗立てなら、悪魔の形にする必要はないのですが、実はこの作品はこの場所で起きた中世の伝説に由来しています。
    1245年、聖ピエトロが共和国広場で異端弾圧の説教をしていました。すると突然、群衆の中に奇妙な黒い馬が出現したのです。ピエトロは危険を察知し、手を上げて十字を切りました。馬は「小悪魔の像」がある地点で止まり、強い硫黄の匂いを放ちながら消え失せたそうです。この伝説は「ビガッロのロッジャ」の横の壁にも14世紀のフレスコ画として描かれています(かなりかすれて見にくい状態)。ピエトロは、財産を没収した貴族の恨みを買い、異教審問にかけらて頭を割られて亡くなりました。そのため絵の中でも頭を割られた姿で描かれています。

    まだ、日が昇った間際の薄暗がりでの撮影でしたので、青黒く、グロテスクさが引き立っています。

  • 共和国広場手前 ストロッツィ通り(ブランド通り)<br />ストロッツィ宮殿を過ぎると目の前に共和国広場のアーチ門が迫ってきます。<br />広場の西に立つアーチ門は19世紀後半に建てられたものです。よく分かりませんが、君主サヴォイア家の香りが漂うトリノ風仕様と言うそうです。

    共和国広場手前 ストロッツィ通り(ブランド通り)
    ストロッツィ宮殿を過ぎると目の前に共和国広場のアーチ門が迫ってきます。
    広場の西に立つアーチ門は19世紀後半に建てられたものです。よく分かりませんが、君主サヴォイア家の香りが漂うトリノ風仕様と言うそうです。

  • 共和国広場<br />正面はヴィンチェンツォ・ミケーレ設計による大アーチ門の柱廊です。<br />フィレンツェの市街地図を見ると判るように、その中央に君臨するのがこの広場です。つまりこの広場はフィレンツェのおヘソと言えます。そしてフィレンツェ発祥の中心地となったのは紀元前1世紀、街がローマの植民地となり「フロレンティア」と呼ばれていた頃からのことだそうです。<br />ローマの植民地政策では、東西・南北に道を敷き、その交差する部分の広場(フォーロ)に市場や劇場などが設けられ、市民の集会場になりました。<br />都市は、その性格上、道路敷設や新しい建築物などによって中心部が変わったりするものですが、ここは2000年以上も町の中心となっています。何気なく歩いている場所も歴史を刻んでいるのだなぁと改めて実感しています。<br /><br />広場の右にある円柱は『豊穣の円柱』と呼ばれるもの。オリジナルは1431年にドナテッロによって制作されましたが、現在の円柱は三代目で1956年製です。この柱にある2箇所の鉄の輪の上部には、メルカート・ヴェッキオの開閉を知らせる鐘が吊られ、下部には不誠実な商人を繋ぐ晒し台があったそうです。<br /><br />

    共和国広場
    正面はヴィンチェンツォ・ミケーレ設計による大アーチ門の柱廊です。
    フィレンツェの市街地図を見ると判るように、その中央に君臨するのがこの広場です。つまりこの広場はフィレンツェのおヘソと言えます。そしてフィレンツェ発祥の中心地となったのは紀元前1世紀、街がローマの植民地となり「フロレンティア」と呼ばれていた頃からのことだそうです。
    ローマの植民地政策では、東西・南北に道を敷き、その交差する部分の広場(フォーロ)に市場や劇場などが設けられ、市民の集会場になりました。
    都市は、その性格上、道路敷設や新しい建築物などによって中心部が変わったりするものですが、ここは2000年以上も町の中心となっています。何気なく歩いている場所も歴史を刻んでいるのだなぁと改めて実感しています。

    広場の右にある円柱は『豊穣の円柱』と呼ばれるもの。オリジナルは1431年にドナテッロによって制作されましたが、現在の円柱は三代目で1956年製です。この柱にある2箇所の鉄の輪の上部には、メルカート・ヴェッキオの開閉を知らせる鐘が吊られ、下部には不誠実な商人を繋ぐ晒し台があったそうです。

  • オル・サン・ミケーレ教会 <br />元々、この場所には女子修道院の菜園(オルト)があり、その中に小さな祈祷所がありました。これが13世紀に大天使ミカエルに捧げた小さな教会に生まれ変わります。教会は「菜園のサン・ミケーレ」と呼ばれ、そこからオル・サン・ミケーレと名付けられました。その後、1240年に教会は取り壊され、穀物市場のためのロッジャが建築されます。その柱の1本に聖マリアのフレスコ画が描かれており、民衆の信仰を集めていました。市場の名残か、建物の四隅には穀物を表す浮き彫りが施されています。しかしロッジャは14世紀初頭に焼失し、現在の姿で再建築されました。周囲にある14の壁龕は、フィレンツェの各同業者組合に割り当てられ、各守護聖人が大理石やブロンズで制作され、ギベルティやドナテッロ、ボローニャに至る巨匠の作品が野外彫刻館のように並べられています。 入口はこの通りの反対側、西側にあります。<br />

    オル・サン・ミケーレ教会
    元々、この場所には女子修道院の菜園(オルト)があり、その中に小さな祈祷所がありました。これが13世紀に大天使ミカエルに捧げた小さな教会に生まれ変わります。教会は「菜園のサン・ミケーレ」と呼ばれ、そこからオル・サン・ミケーレと名付けられました。その後、1240年に教会は取り壊され、穀物市場のためのロッジャが建築されます。その柱の1本に聖マリアのフレスコ画が描かれており、民衆の信仰を集めていました。市場の名残か、建物の四隅には穀物を表す浮き彫りが施されています。しかしロッジャは14世紀初頭に焼失し、現在の姿で再建築されました。周囲にある14の壁龕は、フィレンツェの各同業者組合に割り当てられ、各守護聖人が大理石やブロンズで制作され、ギベルティやドナテッロ、ボローニャに至る巨匠の作品が野外彫刻館のように並べられています。 入口はこの通りの反対側、西側にあります。

  • ヴェッキオ宮殿<br />この宮殿は1299〜1314年に彫刻家アルノルフォ・ディ・カンビオによって建造され、高さ94mある「アルノルフォの塔」が特徴。時計は1353年に二コロ・ベルナルドが制作。力強いゴシック様式の外観とは真逆に、内部はルネサンス様式の豪華絢爛な装飾が満載。宮殿は、フィレンツェ共和国の最高機関 政庁舎(シニョーリア)に因み「シニョリーア宮殿」と呼ばれていましたが、メディチ家のコジモ・ルイ・ヴェッキオが1540〜1565年の間住居したことから『ヴェッキオ宮殿』と呼ばれるようになりました。<br />ここで結婚式を挙げた日本の有名人と言えば、米々クラブのカールスモーキー石井さんがいます。 <br />

    ヴェッキオ宮殿
    この宮殿は1299〜1314年に彫刻家アルノルフォ・ディ・カンビオによって建造され、高さ94mある「アルノルフォの塔」が特徴。時計は1353年に二コロ・ベルナルドが制作。力強いゴシック様式の外観とは真逆に、内部はルネサンス様式の豪華絢爛な装飾が満載。宮殿は、フィレンツェ共和国の最高機関 政庁舎(シニョーリア)に因み「シニョリーア宮殿」と呼ばれていましたが、メディチ家のコジモ・ルイ・ヴェッキオが1540〜1565年の間住居したことから『ヴェッキオ宮殿』と呼ばれるようになりました。
    ここで結婚式を挙げた日本の有名人と言えば、米々クラブのカールスモーキー石井さんがいます。

  • ヴェッキオ宮殿<br />宮殿の塔の頂上には獅子が見えます。これは風見鶏ならぬ、「風見獅子」。オリジナルは、ヴェッキオ宮殿に所蔵されています。獅子は大きなブロンズのレリーフを2枚合わせた形になっており、中は空洞でその上に金箔が貼られています。ポールの頂上にはフィレンツェ市の象徴である、アヤメの花が付いています。この獅子はポールに挑みかかる姿に造られていますが、フィレンツェ人は違った風に見るそうです。獅子が南を向いている時、つまりアルノ川に向かっている時、フィレンツェは雨になるそうです。フィレンツェではこれを称し、「ヴェッキオ宮殿のライオンがアルノ川におしっこするので雨が降る」と言うそうです。<br /><br />今は、西を向いていますが、変わり易いと言われているイタリアの天気。さてどうなることやら。<br />

    ヴェッキオ宮殿
    宮殿の塔の頂上には獅子が見えます。これは風見鶏ならぬ、「風見獅子」。オリジナルは、ヴェッキオ宮殿に所蔵されています。獅子は大きなブロンズのレリーフを2枚合わせた形になっており、中は空洞でその上に金箔が貼られています。ポールの頂上にはフィレンツェ市の象徴である、アヤメの花が付いています。この獅子はポールに挑みかかる姿に造られていますが、フィレンツェ人は違った風に見るそうです。獅子が南を向いている時、つまりアルノ川に向かっている時、フィレンツェは雨になるそうです。フィレンツェではこれを称し、「ヴェッキオ宮殿のライオンがアルノ川におしっこするので雨が降る」と言うそうです。

    今は、西を向いていますが、変わり易いと言われているイタリアの天気。さてどうなることやら。

  • ヴェッキオ宮殿<br />入口にある2つの像は、向かって左がミケランジェロ作「ダビデ像」(コピー)、右側はバンディネッリ作「ヘラクレスとカクス」。16世紀初頭、ミケランジェロがこの像を造った時、像設置委員だったレオナルド・ダ・ヴィンチは横のロッジアに設置するよう意見を述べましたが、ミケランジェロは政庁正面を主張して譲らなかったそうです。そんなこんなで、2人の天才はずっと仲が悪かったそうです。本来なら素晴らしいダビデ象が出迎えてくれるのでしょうが、オリジナルは100年ほど前にアカデミア美術館に移されています。<br />

    ヴェッキオ宮殿
    入口にある2つの像は、向かって左がミケランジェロ作「ダビデ像」(コピー)、右側はバンディネッリ作「ヘラクレスとカクス」。16世紀初頭、ミケランジェロがこの像を造った時、像設置委員だったレオナルド・ダ・ヴィンチは横のロッジアに設置するよう意見を述べましたが、ミケランジェロは政庁正面を主張して譲らなかったそうです。そんなこんなで、2人の天才はずっと仲が悪かったそうです。本来なら素晴らしいダビデ象が出迎えてくれるのでしょうが、オリジナルは100年ほど前にアカデミア美術館に移されています。

  • ミケランジェロ作『ダビデ像』<br />大聖堂からシニョーリア広場へ設置場所が変更になった折、象徴対象が宗教的な「預言者ダビデ王」から市民的「英雄ダビデ」に変更されました。こうして『ダビデ像』は、市民の自由を守るフィレンツェ共和国の旗印となりました。往時、右足の後に彫られた切り株は金色に塗られ、鍍金した銅の葉をつけた真鍮の冠を頭に付けていたそうです。また石投げ器の革帯も付けていたそうですから、今とは少し違った姿だったようです。 さて、広場のどの地点に設置するか?レオナルドは、ロッジアの壁龕に設置する案を提示します。式典の邪魔にならないように広場から追いやる案です。レオナルドがミケランジェロの筋骨隆々の表現を評価していなかったことも影響しているそうです。侃々諤々、議論を醸した結果、ヴェッキオ宮殿正面に設置されました。もし、ロッジアに納められていたら、今のように広場の主役にはなれなかったでしょう。<br />

    ミケランジェロ作『ダビデ像』
    大聖堂からシニョーリア広場へ設置場所が変更になった折、象徴対象が宗教的な「預言者ダビデ王」から市民的「英雄ダビデ」に変更されました。こうして『ダビデ像』は、市民の自由を守るフィレンツェ共和国の旗印となりました。往時、右足の後に彫られた切り株は金色に塗られ、鍍金した銅の葉をつけた真鍮の冠を頭に付けていたそうです。また石投げ器の革帯も付けていたそうですから、今とは少し違った姿だったようです。 さて、広場のどの地点に設置するか?レオナルドは、ロッジアの壁龕に設置する案を提示します。式典の邪魔にならないように広場から追いやる案です。レオナルドがミケランジェロの筋骨隆々の表現を評価していなかったことも影響しているそうです。侃々諤々、議論を醸した結果、ヴェッキオ宮殿正面に設置されました。もし、ロッジアに納められていたら、今のように広場の主役にはなれなかったでしょう。

  • ミケランジェロ作『ダビデ像』<br />旧約聖書のユダヤ人王で、少年時代にユダヤの敵ペリシテ軍の将軍ゴリアテを石投げ器一つで倒した英雄です。ミケランジェロが彫った『ダビデ』はこれからゴリアテに立ち向かっていく直前の様子を表わし、遠くを見据えるその瞳には敵のゴリアテが映っているはずなのですが・・・。ところが、その瞳はハート形をしています。まさかダビデがゴリアテに恋心?いいえ、「ハートマーク」は18世紀にヨーロッパで生まれたもので、ダビデが彫られた16世紀には「ハートマーク」自体ありませんでした。ミケランジェロはダビデの瞳に明暗と立体感を出すためにこのような意匠を使ったのです。それがハート形をしているのは偶然だそうです。因みに、ドナテッロのダビデは、「神の意思が宿る」様子を表すため、わざと黒目を彫っていません。瞳の彫り方にも色々意味が込められていることを知りました。<br />

    ミケランジェロ作『ダビデ像』
    旧約聖書のユダヤ人王で、少年時代にユダヤの敵ペリシテ軍の将軍ゴリアテを石投げ器一つで倒した英雄です。ミケランジェロが彫った『ダビデ』はこれからゴリアテに立ち向かっていく直前の様子を表わし、遠くを見据えるその瞳には敵のゴリアテが映っているはずなのですが・・・。ところが、その瞳はハート形をしています。まさかダビデがゴリアテに恋心?いいえ、「ハートマーク」は18世紀にヨーロッパで生まれたもので、ダビデが彫られた16世紀には「ハートマーク」自体ありませんでした。ミケランジェロはダビデの瞳に明暗と立体感を出すためにこのような意匠を使ったのです。それがハート形をしているのは偶然だそうです。因みに、ドナテッロのダビデは、「神の意思が宿る」様子を表すため、わざと黒目を彫っていません。瞳の彫り方にも色々意味が込められていることを知りました。

  • バッチョ・バンディネッリ作『ヘラクレスとカークスの像』<br />メディチ家お抱えの彫刻家バッチョ・バンディネッリの作品。彼は、ミケランジェロを崇拝しつつもライバル視していました。<br />次のようなエピソードがあります。フィレンツェ共和国がレオナルドとミケランジェロにヴェッキオ宮殿「五百人の間」の壁画を依頼し、ミケランジェロは下絵を描き上げました。下絵はリッカルド宮で披露され、絵画を志す者は模写が許され、ラファエロなども集ったそうです。バンディネッリも模写に明け暮れますが、どうしても見る者に迫り来るような模写ができませんでした。怒った彼は、メディチ家の政権不安の動乱に紛れ、下絵を小片にして売り飛ばしたそうです。そんなバンディネッリがミケランジェロの「ダビデ像」に対抗したのが、「ヘラクレスとカークスの像」。残念ながら、「ダビデ像」と同レベルに達したのは大きさだけでした。「ヘラクレス像」の評価は、チェッリーニに任せましょう。『まず何よりも、この像は人間なのか、怪物なのか?現に、両目がどこを見ているのか分かりゃしない!頭部は髪の毛を取ったら脳ミソが入らないほどの大きさで、首は短く、肩はロバに載せた鞍のようだ。体は正面から見ると壁に下がったメロンが入った藁袋みたいで、後ろはかぼちゃが入った袋のようだ!両腕は死体みたいだし、カークスにひっついているあの足では全身を支えることはできぬ。しかも、カークスは炎の上に座っているようだ!』。因みに、近年、イギリスの新聞「Gardian」紙も「ヘラクレス像」を『ルネッサンス期の腐った林檎』と酷評しています。では、なぜこのような像が「ダビデ像」と並んで堂々と置かれたのでしょうか? バンディネッリは、メディチ家派。ミケランジェロの「ダビデ像」がフィレンツェ共和国のシンボルならば、「ヘラクレス像」は神話の英雄ヘラクレス(=メディチ家)が怪物カークス(=共和制)を倒したことを象徴します。醜い「ヘラクレス像」も、こうした訳でメディチ家の手厚い庇護を受けてきたのではないでしょうか?チェッリーニはフィレンツェ人ゆえに辛口ですが、彼の批判を踏まえて改めてヘラクレス像を観ると一味違ってきます。

    バッチョ・バンディネッリ作『ヘラクレスとカークスの像』
    メディチ家お抱えの彫刻家バッチョ・バンディネッリの作品。彼は、ミケランジェロを崇拝しつつもライバル視していました。
    次のようなエピソードがあります。フィレンツェ共和国がレオナルドとミケランジェロにヴェッキオ宮殿「五百人の間」の壁画を依頼し、ミケランジェロは下絵を描き上げました。下絵はリッカルド宮で披露され、絵画を志す者は模写が許され、ラファエロなども集ったそうです。バンディネッリも模写に明け暮れますが、どうしても見る者に迫り来るような模写ができませんでした。怒った彼は、メディチ家の政権不安の動乱に紛れ、下絵を小片にして売り飛ばしたそうです。そんなバンディネッリがミケランジェロの「ダビデ像」に対抗したのが、「ヘラクレスとカークスの像」。残念ながら、「ダビデ像」と同レベルに達したのは大きさだけでした。「ヘラクレス像」の評価は、チェッリーニに任せましょう。『まず何よりも、この像は人間なのか、怪物なのか?現に、両目がどこを見ているのか分かりゃしない!頭部は髪の毛を取ったら脳ミソが入らないほどの大きさで、首は短く、肩はロバに載せた鞍のようだ。体は正面から見ると壁に下がったメロンが入った藁袋みたいで、後ろはかぼちゃが入った袋のようだ!両腕は死体みたいだし、カークスにひっついているあの足では全身を支えることはできぬ。しかも、カークスは炎の上に座っているようだ!』。因みに、近年、イギリスの新聞「Gardian」紙も「ヘラクレス像」を『ルネッサンス期の腐った林檎』と酷評しています。では、なぜこのような像が「ダビデ像」と並んで堂々と置かれたのでしょうか? バンディネッリは、メディチ家派。ミケランジェロの「ダビデ像」がフィレンツェ共和国のシンボルならば、「ヘラクレス像」は神話の英雄ヘラクレス(=メディチ家)が怪物カークス(=共和制)を倒したことを象徴します。醜い「ヘラクレス像」も、こうした訳でメディチ家の手厚い庇護を受けてきたのではないでしょうか?チェッリーニはフィレンツェ人ゆえに辛口ですが、彼の批判を踏まえて改めてヘラクレス像を観ると一味違ってきます。

  • ドナテッロ作『ユディットとホロフェルネス』(1460年頃)<br />ヴェッキオ宮殿の前に並ぶ比較的小振りなブロンズ像。美しい女性が倒れている男の首を刎ねようとしています。ランツィのロッジアにある「ペルセウス」は逆に男性が女性の首を刎ねており、これらのブロンズ彫刻は男女間で復讐をし合っていると揶揄されたりするそうです。本当の話は旧約聖書外典「ユディット書」に記されています。ユダヤの町ベッリアは、アッシリアの軍隊に包囲され、絶体絶命の危機に瀕します。ベッリアには裕福な美しい未亡人ユディットがいました。ある夜、美しく着飾って召使いと2人で敵の陣地に向かいます。アッシリアの将軍ホロフェルネスは、彼女の美しさについ気を許します。彼女と楽しく酌み交わした酒でウトウトしたところを、ユディットは彼の刀を抜き取って首を刎ねてしまいました。その首を籠に入れて持ち帰ります。翌朝、首のない将軍の姿を見つけ、アッシリアの軍隊は退散していきました。オリジナルは1980年にヴェッキオ宮殿「ユリの間」へ納められました。<br />

    ドナテッロ作『ユディットとホロフェルネス』(1460年頃)
    ヴェッキオ宮殿の前に並ぶ比較的小振りなブロンズ像。美しい女性が倒れている男の首を刎ねようとしています。ランツィのロッジアにある「ペルセウス」は逆に男性が女性の首を刎ねており、これらのブロンズ彫刻は男女間で復讐をし合っていると揶揄されたりするそうです。 本当の話は旧約聖書外典「ユディット書」に記されています。ユダヤの町ベッリアは、アッシリアの軍隊に包囲され、絶体絶命の危機に瀕します。ベッリアには裕福な美しい未亡人ユディットがいました。ある夜、美しく着飾って召使いと2人で敵の陣地に向かいます。アッシリアの将軍ホロフェルネスは、彼女の美しさについ気を許します。彼女と楽しく酌み交わした酒でウトウトしたところを、ユディットは彼の刀を抜き取って首を刎ねてしまいました。その首を籠に入れて持ち帰ります。翌朝、首のない将軍の姿を見つけ、アッシリアの軍隊は退散していきました。オリジナルは1980年にヴェッキオ宮殿「ユリの間」へ納められました。

  • ドナテッロ作『マルゾッコ』<br />百合の紋章を抱え、誇らしげに見つめるライオン像があります。動物を町のシンボルとする伝統は中世に普及し、特に北〜中部イタリアに多数見られます。 ピサ=鷹、ルッカ=ヒョウ、ピストイア=熊、アレッツォ=馬、シエナ=雌狼、 ヴェネツィア&フィレンツェ=ライオン。 フィレンツェは「百合の花(実際はアヤメ科の花)」もシンボル。この二つを組合わせたのが『マルゾッコ』。語源は、ラテン語の「martius(戦の神マルス)」あるいは「Martocus(小さいマルス)」。往時、詩人ダンテを筆頭にフィレンツェ市民は、町が「軍神マルスに捧げられていた」と信じていたそうです。なぜライオンなのかと言うと、12世紀にフィレンツェに善き政府を立上げたグリエルモの渾名が「レオーネ(ライオン)」だったことから、感謝の意を込めてライオンをシンボルにしたそうです。分かり易く言えば、反メディチ家のフィレンツェ共和国のシンボル。14世紀、政庁舎ヴェッキオ宮殿横にはライオンの檻があり、権力や富の象徴として30頭ものライオンが飼われていたそうです。オリジナルの『マルゾッコ』は、バルジェッロ博物館にあります。<br />

    ドナテッロ作『マルゾッコ』
    百合の紋章を抱え、誇らしげに見つめるライオン像があります。動物を町のシンボルとする伝統は中世に普及し、特に北〜中部イタリアに多数見られます。 ピサ=鷹、ルッカ=ヒョウ、ピストイア=熊、アレッツォ=馬、シエナ=雌狼、 ヴェネツィア&フィレンツェ=ライオン。 フィレンツェは「百合の花(実際はアヤメ科の花)」もシンボル。この二つを組合わせたのが『マルゾッコ』。語源は、ラテン語の「martius(戦の神マルス)」あるいは「Martocus(小さいマルス)」。往時、詩人ダンテを筆頭にフィレンツェ市民は、町が「軍神マルスに捧げられていた」と信じていたそうです。なぜライオンなのかと言うと、12世紀にフィレンツェに善き政府を立上げたグリエルモの渾名が「レオーネ(ライオン)」だったことから、感謝の意を込めてライオンをシンボルにしたそうです。分かり易く言えば、反メディチ家のフィレンツェ共和国のシンボル。14世紀、政庁舎ヴェッキオ宮殿横にはライオンの檻があり、権力や富の象徴として30頭ものライオンが飼われていたそうです。オリジナルの『マルゾッコ』は、バルジェッロ博物館にあります。

  • バルトロメオ・アンマンナーティ作『ネプチューンの噴水』(1575年)<br />別名「ビアンコーネ」(大きな白いでくのぼう)。アンマンナーティは、この噴水を造った時に酷評されました。「お前は何て沢山の大理石を無駄にしたんだ」という歌まであります。広場の中央にあるため盗難や破損にも遭い、酔っ払いがよじ登ってハシゴ車が出動したこともあるそうです。最近ではフェラーリの50周年記念パレードの際、馬の脚が一本折られました。幸い水中に落ちたので修復できたそうです。正面2頭のうち、右の馬の脚です。また鳩除けの電気ショックが付けられていますが、その電線が水中に落ちて危うく感電事故ということもあったそうです。ここまで来るとアンマンナーティの呪いとしか言いようがありません。 因みに、ネプチューンはローマ神話の海の神様、ギリシャ神話のポセイドンに相当します。足元にはサチュロス(ギリシア神話の下半身が山羊の怪物)がいたりして、複雑な構成になっています。<br />

    バルトロメオ・アンマンナーティ作『ネプチューンの噴水』(1575年)
    別名「ビアンコーネ」(大きな白いでくのぼう)。アンマンナーティは、この噴水を造った時に酷評されました。「お前は何て沢山の大理石を無駄にしたんだ」という歌まであります。広場の中央にあるため盗難や破損にも遭い、酔っ払いがよじ登ってハシゴ車が出動したこともあるそうです。最近ではフェラーリの50周年記念パレードの際、馬の脚が一本折られました。幸い水中に落ちたので修復できたそうです。正面2頭のうち、右の馬の脚です。また鳩除けの電気ショックが付けられていますが、その電線が水中に落ちて危うく感電事故ということもあったそうです。ここまで来るとアンマンナーティの呪いとしか言いようがありません。 因みに、ネプチューンはローマ神話の海の神様、ギリシャ神話のポセイドンに相当します。足元にはサチュロス(ギリシア神話の下半身が山羊の怪物)がいたりして、複雑な構成になっています。

  • 『ジローラモ・サヴォナローラの火刑の銘板』<br />「ネプチューンの噴水」の正面、宗教改革の先駆者サヴォナローラが火刑された場所にあるのがこの銘板。1498年の処刑の400年後にこの銘板が置かれました。現在あるのは、2代目だそうです。<br />サン・マルコ修道院長になったサヴォナローラは、フィレンツェの享楽的な腐敗ぶりやメディチ家の独裁体制を批判し、信仰に立ち返るよう訴えました。メディチ家はフランス軍侵攻への対処を誤ったことからフィレンツェを追放され、代わりに彼が政治を担いました。しかし、清貧を重んじた神権政治がエスカレートし、工芸・美術品を贅沢品として焼却する「虚栄の焼却」が断行され、彼に信奉したボッティチェッリは作品を火にくべたそうです。しかし、あまりの厳格さに市民の反発が高まり、絞首刑の後、火刑に処されました。キリスト教では「聖人」と呼ばれるまでに、神の僕、尊者、福者という列聖の段階があり、サヴォナローラは殉教したということで神の僕に列されています。 現地ガイドさんが嘆くには、「日本人ツーリストは、ジローラモの部分で盛り上がる」のだそうです。「チョイ悪オヤジのジローラモ」の方が「サヴォナローラ」より知名度が高いなんて、どんな教育をしてるの!? <br />

    『ジローラモ・サヴォナローラの火刑の銘板』
    「ネプチューンの噴水」の正面、宗教改革の先駆者サヴォナローラが火刑された場所にあるのがこの銘板。1498年の処刑の400年後にこの銘板が置かれました。現在あるのは、2代目だそうです。
    サン・マルコ修道院長になったサヴォナローラは、フィレンツェの享楽的な腐敗ぶりやメディチ家の独裁体制を批判し、信仰に立ち返るよう訴えました。メディチ家はフランス軍侵攻への対処を誤ったことからフィレンツェを追放され、代わりに彼が政治を担いました。しかし、清貧を重んじた神権政治がエスカレートし、工芸・美術品を贅沢品として焼却する「虚栄の焼却」が断行され、彼に信奉したボッティチェッリは作品を火にくべたそうです。しかし、あまりの厳格さに市民の反発が高まり、絞首刑の後、火刑に処されました。キリスト教では「聖人」と呼ばれるまでに、神の僕、尊者、福者という列聖の段階があり、サヴォナローラは殉教したということで神の僕に列されています。 現地ガイドさんが嘆くには、「日本人ツーリストは、ジローラモの部分で盛り上がる」のだそうです。「チョイ悪オヤジのジローラモ」の方が「サヴォナローラ」より知名度が高いなんて、どんな教育をしてるの!?

  • ジャンボローニャ作『コジモ1世の騎馬像』<br />逞しい馬の姿の精巧な描写が素晴らしい作品。コジモ1世は、初代トスカーナ大公としてフィレンツェの都市改造事業を行ない、ウッフィツィ美術館やヴァザーリの回廊などを建造し、今日のフィレンツェの景観を作り上げた立役者。息子フェルディナンド1世が、父を讃えるために発注した作品です。 ジャンボローニャは、それまで鳥や魚などの小動物の像ばかり造っていたため、力量を発揮できる場を与えられて歓喜したそうです。1594年に完成しますが、馬は4.5トン、騎士が2.5トンというから驚きです。<br />完璧主義者ジャンボローニャを物語るエピソードがあります。彼は、騎馬像に民衆がどんな反応をするかを確かめるため、空洞になっている馬のお腹に潜んだそうです。そこへ農民がやってきて、馬の附蝉がないとぼやいたのを聞き、早速付け足したそうです。附蝉とは、馬の肢の前膝や飛節の内側に付着する角質部分。我々からすれば、重箱の隅をつつくような指摘なんですが…。もっともロバの類には附蝉がないそうですから、騎馬に威厳を付与するには不可欠だったのかも? 以来、ヨーロッパ中から彼に騎馬像の注文が殺到。フェルディナンド1世も自身の騎馬像を発注したそうです。<br />塩野七生著「銀色のフィレンツェ」ではコジモ1世はあまりいいイメージを受けなかったのですが、フィレンツェの歴史を語るには不可欠な人物です。

    ジャンボローニャ作『コジモ1世の騎馬像』
    逞しい馬の姿の精巧な描写が素晴らしい作品。コジモ1世は、初代トスカーナ大公としてフィレンツェの都市改造事業を行ない、ウッフィツィ美術館やヴァザーリの回廊などを建造し、今日のフィレンツェの景観を作り上げた立役者。息子フェルディナンド1世が、父を讃えるために発注した作品です。 ジャンボローニャは、それまで鳥や魚などの小動物の像ばかり造っていたため、力量を発揮できる場を与えられて歓喜したそうです。1594年に完成しますが、馬は4.5トン、騎士が2.5トンというから驚きです。
    完璧主義者ジャンボローニャを物語るエピソードがあります。彼は、騎馬像に民衆がどんな反応をするかを確かめるため、空洞になっている馬のお腹に潜んだそうです。そこへ農民がやってきて、馬の附蝉がないとぼやいたのを聞き、早速付け足したそうです。附蝉とは、馬の肢の前膝や飛節の内側に付着する角質部分。我々からすれば、重箱の隅をつつくような指摘なんですが…。もっともロバの類には附蝉がないそうですから、騎馬に威厳を付与するには不可欠だったのかも? 以来、ヨーロッパ中から彼に騎馬像の注文が殺到。フェルディナンド1世も自身の騎馬像を発注したそうです。
    塩野七生著「銀色のフィレンツェ」ではコジモ1世はあまりいいイメージを受けなかったのですが、フィレンツェの歴史を語るには不可欠な人物です。

  • ミケランジェロの落書き<br />「ダヴィデ像」の右にある「ヘラクレスとカクス」の後の壁の右下に不思議な彫刻があります。目を凝らして観ると、男性の横顔が彫られています。これは「ミケランジェロの落書き」と呼ばれ、彼がシニョリーア広場で友人と雑談中、暇つぶしに後ろ手に彫刻刀を持ち、腕を交叉させて彫ったと言われています。彼の作品にしては稚拙というのも頷けます。確か、映画「アマデウス」のモーツァルトがこれと同じ方法で後ろ手にピアノを弾いていました。<br />別の説では、この横顔はミケランジェロを苦しめて絞首刑になった債務者を彫ったとも言われます。レオナルドやボッティチェッリなど多くの芸術家が罪人の姿を「さらし絵」として表わしたことがあり、それに倣って彼が個人的恨みを晴らしたものなのでしょうか? ただし、伝説の域を超えていないので、ミケランジェロの真作にはまだ数えられていないそうです。<br />

    ミケランジェロの落書き
    「ダヴィデ像」の右にある「ヘラクレスとカクス」の後の壁の右下に不思議な彫刻があります。目を凝らして観ると、男性の横顔が彫られています。これは「ミケランジェロの落書き」と呼ばれ、彼がシニョリーア広場で友人と雑談中、暇つぶしに後ろ手に彫刻刀を持ち、腕を交叉させて彫ったと言われています。彼の作品にしては稚拙というのも頷けます。確か、映画「アマデウス」のモーツァルトがこれと同じ方法で後ろ手にピアノを弾いていました。
    別の説では、この横顔はミケランジェロを苦しめて絞首刑になった債務者を彫ったとも言われます。レオナルドやボッティチェッリなど多くの芸術家が罪人の姿を「さらし絵」として表わしたことがあり、それに倣って彼が個人的恨みを晴らしたものなのでしょうか? ただし、伝説の域を超えていないので、ミケランジェロの真作にはまだ数えられていないそうです。

  • ミケランジェロの落書き<br />ネットで調べて「ヘラクレスとカクス」の背後辺りにあると特定できましたが、それでも探す範囲は結構広いです。<br />こうして周辺が分かる写真を撮っておけば、これからフィレンツエへ行かれる方のお役に立てるのではと思います。これで探すためのロス時間が短縮できると思います。

    ミケランジェロの落書き
    ネットで調べて「ヘラクレスとカクス」の背後辺りにあると特定できましたが、それでも探す範囲は結構広いです。
    こうして周辺が分かる写真を撮っておけば、これからフィレンツエへ行かれる方のお役に立てるのではと思います。これで探すためのロス時間が短縮できると思います。

  • 洗濯禁止のプレート<br />「ミケランジェロの落書き」の反対側に、白大理石のプレートが埋め込まれています。これは18世紀半ばに設置されたもので、興味深い碑文が付いています。「この噴水から20ブラッチャ半径(約12m)において、何人もインク壷や洗濯物などを洗ってはいけない。また材木などを投げ込んで汚してもいけない。違反者には4ドゥカーティの罰金を科す」。これはイタリア各地に見られるもので、公共の場を清潔に保とうという精神の表れだそうです。上下水道が発達していなかった頃、こういう所に洗濯物を持ってきてしまう人が後を絶たなかったそうです。石に彫って警告する程、事態は深刻だったことが窺えます。 <br />

    洗濯禁止のプレート
    「ミケランジェロの落書き」の反対側に、白大理石のプレートが埋め込まれています。これは18世紀半ばに設置されたもので、興味深い碑文が付いています。「この噴水から20ブラッチャ半径(約12m)において、何人もインク壷や洗濯物などを洗ってはいけない。また材木などを投げ込んで汚してもいけない。違反者には4ドゥカーティの罰金を科す」。これはイタリア各地に見られるもので、公共の場を清潔に保とうという精神の表れだそうです。上下水道が発達していなかった頃、こういう所に洗濯物を持ってきてしまう人が後を絶たなかったそうです。石に彫って警告する程、事態は深刻だったことが窺えます。

  • シニョーリア広場の日時計  <br />広場の北、現在銀行になっているグイドゥッチ宮殿の正面には19世紀初頭の日時計があります。8の字を縦に引き伸ばした形で、中心には垂直線が入れられています。この上に付けられた指針の陰が、8の字の上に落ちて時間を知らせる仕組みです。12ヶ月それぞれ計測地点が変わるそうで、その軌跡が8の字になっています。天文学的正午は8の字の線上に陰が来た時、さらにグリニッジ標準時は中心の垂直線に影が差した時に示されるそうです。<br />

    シニョーリア広場の日時計  
    広場の北、現在銀行になっているグイドゥッチ宮殿の正面には19世紀初頭の日時計があります。8の字を縦に引き伸ばした形で、中心には垂直線が入れられています。この上に付けられた指針の陰が、8の字の上に落ちて時間を知らせる仕組みです。12ヶ月それぞれ計測地点が変わるそうで、その軌跡が8の字になっています。天文学的正午は8の字の線上に陰が来た時、さらにグリニッジ標準時は中心の垂直線に影が差した時に示されるそうです。

  • シニョーリアのロッジア<br />広場の南側にある巨大なアーケードの正式名前は「シニョーリアのロッジア」。また、神聖ローマ皇帝軍がローマへ遠征する際、ここにドイツ兵(=ランツィケネッティ)が野営したため、「ランツィのロッジア」とも呼ばれてもいます。 ここで飲食をすると罰金だそうです。また、ヴェッキオ宮殿前の階段に腰を下ろしてもいけませんのでご注意を!<br /><br />ところで、コピーとレプリカの違いをご存知でしょうか? <br />レプリカは「オリジナルの制作者自身によって作られた複製品」で、作者の工房の弟子が参加して作ったものもレプリカと呼ぶそうです。コピーは「オリジナルの制作者以外が作った複製品」となります。 <br />現代では、スモッグ公害や酸性雨で彫像が影響を受けることが多く、オリジナル作品は美術館に展示してコピーを野外に設置するようになっています。酸性雨の影響は、大理石の欠片を一晩酢に浸すことで確かめることができます。酢と酸性雨はほぼ同じ酸性度を持ち、たった一晩で質量が軽くなるから驚きです。大理石に含まれる炭酸カルシウムと酢酸が反応し、 酢酸カルシウムと水と二酸化炭素になるということらしいです。懐かしい化学式で示せば、CaCO3 + 2CH3COOH → Ca(CH3COO)2 + H2O + CO2 。

    シニョーリアのロッジア
    広場の南側にある巨大なアーケードの正式名前は「シニョーリアのロッジア」。また、神聖ローマ皇帝軍がローマへ遠征する際、ここにドイツ兵(=ランツィケネッティ)が野営したため、「ランツィのロッジア」とも呼ばれてもいます。 ここで飲食をすると罰金だそうです。また、ヴェッキオ宮殿前の階段に腰を下ろしてもいけませんのでご注意を!

    ところで、コピーとレプリカの違いをご存知でしょうか?
    レプリカは「オリジナルの制作者自身によって作られた複製品」で、作者の工房の弟子が参加して作ったものもレプリカと呼ぶそうです。コピーは「オリジナルの制作者以外が作った複製品」となります。
    現代では、スモッグ公害や酸性雨で彫像が影響を受けることが多く、オリジナル作品は美術館に展示してコピーを野外に設置するようになっています。酸性雨の影響は、大理石の欠片を一晩酢に浸すことで確かめることができます。酢と酸性雨はほぼ同じ酸性度を持ち、たった一晩で質量が軽くなるから驚きです。大理石に含まれる炭酸カルシウムと酢酸が反応し、 酢酸カルシウムと水と二酸化炭素になるということらしいです。懐かしい化学式で示せば、CaCO3 + 2CH3COOH → Ca(CH3COO)2 + H2O + CO2 。

  • ベンベヌート・チェッリーニ作<br />『メドゥーサの頭を持つペルセウス』(1545〜1554年)<br />テーマは女性が男性の首を切るドナテッロ作「ユディットとホロフェルネス」と対峙するものですが、作風はドナテッロのルネッサンス盛期とは一線を画し、ミケランジェロ風のマニエリズムの香りが漂い、うっとりさせます。肉体の細部表現は、貴金属細工師出身の芸術家に見られる典型。4つのパーツ(「ペルセウスの身体」「メデューサの身体」「メデューサの首」「ペルセウスの剣」)で構成され、英雄の腕や足を含めた身体はブロンズの一体鋳造品。 メドゥーサは、ギリシア神話に登場する恐ろしい三姉妹ゴルゴンのひとり。睨みつける恐ろしい目を持ち、歯は牙、舌は口から突き出し、頭髪は蛇の形相。容姿があまりに醜怪なため、直接その顔を見ると石にされてしまうメドゥーサに対し、ペルセウスは青銅の盾を磨き、そこに映った怪物を見ながら退治します。左手に高々とメデューサの首を掲げる凛とした雄姿は、どの方向から見ても惚れ惚れします。ペルセウスは目線を落としていますが、これは足元からこのように見上げて鑑賞されることを意識したポーズというサービスぶりです。<br />この作品は芸術的に高い評価を得ていますが、政治的背景もちらついています。切断されたメデューサの首からは無数の蛇が這い出しており、これは民主主義を衰退させた市民同士の対立のメタファーだそうです。台座にも美しい4体のブロンズ小像が施されています。オリジナルはバルジェッロ博物館所蔵。<br />

    ベンベヌート・チェッリーニ作
    『メドゥーサの頭を持つペルセウス』(1545〜1554年)
    テーマは女性が男性の首を切るドナテッロ作「ユディットとホロフェルネス」と対峙するものですが、作風はドナテッロのルネッサンス盛期とは一線を画し、ミケランジェロ風のマニエリズムの香りが漂い、うっとりさせます。肉体の細部表現は、貴金属細工師出身の芸術家に見られる典型。4つのパーツ(「ペルセウスの身体」「メデューサの身体」「メデューサの首」「ペルセウスの剣」)で構成され、英雄の腕や足を含めた身体はブロンズの一体鋳造品。 メドゥーサは、ギリシア神話に登場する恐ろしい三姉妹ゴルゴンのひとり。睨みつける恐ろしい目を持ち、歯は牙、舌は口から突き出し、頭髪は蛇の形相。容姿があまりに醜怪なため、直接その顔を見ると石にされてしまうメドゥーサに対し、ペルセウスは青銅の盾を磨き、そこに映った怪物を見ながら退治します。左手に高々とメデューサの首を掲げる凛とした雄姿は、どの方向から見ても惚れ惚れします。ペルセウスは目線を落としていますが、これは足元からこのように見上げて鑑賞されることを意識したポーズというサービスぶりです。
    この作品は芸術的に高い評価を得ていますが、政治的背景もちらついています。切断されたメデューサの首からは無数の蛇が這い出しており、これは民主主義を衰退させた市民同士の対立のメタファーだそうです。台座にも美しい4体のブロンズ小像が施されています。オリジナルはバルジェッロ博物館所蔵。

  • チェッリーニ作『メドゥーサの頭を持つペルセウス』<br />余談ですが、往時の鋳造技術でどれほどの困難を伴ったかは、「チェッリーニ自伝」(古賀弘人訳)に詳しいです。チェッリーニは、この作品を鋳造している最中、連日の過労がたたり、高熱で寝込んでしまいます。その間、弟子ベルナルディーノに任せますが、失敗してブロンズが冷えてしまいます。その報告を聞くや否や押っ取り刀で現場に馳せ参じ、猛烈な勢いで弟子たちを焚き付けて鋳物を再溶融させることに成功したそうです。 <br />チェッリーニは、フィレンツェで生まれ、トスカーナ大公コジモ1世の寵愛を受けた金細工師かつ文筆家。喧嘩や殺人、投獄、ヴァイオレンスに満ち溢れた波乱万丈の生涯を送っています。<br />

    チェッリーニ作『メドゥーサの頭を持つペルセウス』
    余談ですが、往時の鋳造技術でどれほどの困難を伴ったかは、「チェッリーニ自伝」(古賀弘人訳)に詳しいです。チェッリーニは、この作品を鋳造している最中、連日の過労がたたり、高熱で寝込んでしまいます。その間、弟子ベルナルディーノに任せますが、失敗してブロンズが冷えてしまいます。その報告を聞くや否や押っ取り刀で現場に馳せ参じ、猛烈な勢いで弟子たちを焚き付けて鋳物を再溶融させることに成功したそうです。
    チェッリーニは、フィレンツェで生まれ、トスカーナ大公コジモ1世の寵愛を受けた金細工師かつ文筆家。喧嘩や殺人、投獄、ヴァイオレンスに満ち溢れた波乱万丈の生涯を送っています。

  • チェッリーニ作『メドゥーサの頭を持つペルセウス』<br />ペルセウスの後頭部にはチェッリーニの自画像が強かに彫られています。判りますか?<br />

    チェッリーニ作『メドゥーサの頭を持つペルセウス』
    ペルセウスの後頭部にはチェッリーニの自画像が強かに彫られています。判りますか?

  • ピオ・フェーディ作『ポリュクセネの掠奪』<br />ポリュクセネはトロイア王プリアモスの娘。ギリシアの英雄アキレウスは、トロイア戦争の折、敵方の娘ポリュクセネに一目惚れ。図らずも彼女に心を許し、唯一の弱点が「かかと」であることを吐露してしまいます。そしてアキレウスは、彼女の兄弟パリスが射た毒矢が「かかと」に刺さり、亡くなります。トロイア征服後、アキレウスの霊が、墓前にポリュクセネを生け贄にするように求めます。この作品は、アキレウスの息子ネオプトレモスが、彼女を生け贄にしようと掠奪するシーン。娘を守ろうとする母親にまで剣を振り下ろそうとする彼の凶暴性が強調されています。この作品は、19世紀イタリア彫刻の代表作とも称されています。それは、他にも古代ローマやルネッサンス時代の作品が多数存在するにもかかわらず、展示されている唯一の19世紀作品であることからも窺えます。 <br />

    ピオ・フェーディ作『ポリュクセネの掠奪』
    ポリュクセネはトロイア王プリアモスの娘。ギリシアの英雄アキレウスは、トロイア戦争の折、敵方の娘ポリュクセネに一目惚れ。図らずも彼女に心を許し、唯一の弱点が「かかと」であることを吐露してしまいます。そしてアキレウスは、彼女の兄弟パリスが射た毒矢が「かかと」に刺さり、亡くなります。トロイア征服後、アキレウスの霊が、墓前にポリュクセネを生け贄にするように求めます。この作品は、アキレウスの息子ネオプトレモスが、彼女を生け贄にしようと掠奪するシーン。娘を守ろうとする母親にまで剣を振り下ろそうとする彼の凶暴性が強調されています。この作品は、19世紀イタリア彫刻の代表作とも称されています。それは、他にも古代ローマやルネッサンス時代の作品が多数存在するにもかかわらず、展示されている唯一の19世紀作品であることからも窺えます。

  • ピオ・フェーディ作『ポリュクセネの掠奪』<br />色々な角度で観ると、迫ってくるものがそれぞれ違ってきます。

    ピオ・フェーディ作『ポリュクセネの掠奪』
    色々な角度で観ると、迫ってくるものがそれぞれ違ってきます。

  • ジャンボローニャ作『サビニの女たちの掠奪』<br />高さ4.1mある彫像はシニョーリア広場では「ダビデ像」に次ぐ背の高い作品で、ジャンボローニャの最高傑作と称されています。この石膏版がアカデミア美術館に展示されています。 <br />若者が女性を高々と持ち上げ、その下には老年の男が絶望の風体で恨めしげに見上げています。3人の男女は螺旋を描いて天空へと身体を伸ばし、360度あらゆる方向から醍醐味が楽しめます。この作品は人生の3つの世代の象徴と言われますが、ジャンボローニャは主題を持たず、ただ複雑な群像彫刻で自らの技量を示したかっただけだそうです。彼は、「古代芸術家は、一つの大理石から一つの彫像を彫っていた」と誤解していたため、それに挑んで一塊の大理石からこの作品を彫り上げたというから驚きです。この作品はバロック黎明期の代表作で、垂直の動きに溢れるもののしなやかさに欠け、一塊の大理石から彫り出すという無理が災いしたと言われます。斜め方向の動きを完成させたのは40年後のベルニーニで「プロセルピナの略奪」や「アポロンとダフネ」がその典型です。

    ジャンボローニャ作『サビニの女たちの掠奪』
    高さ4.1mある彫像はシニョーリア広場では「ダビデ像」に次ぐ背の高い作品で、ジャンボローニャの最高傑作と称されています。この石膏版がアカデミア美術館に展示されています。
    若者が女性を高々と持ち上げ、その下には老年の男が絶望の風体で恨めしげに見上げています。3人の男女は螺旋を描いて天空へと身体を伸ばし、360度あらゆる方向から醍醐味が楽しめます。この作品は人生の3つの世代の象徴と言われますが、ジャンボローニャは主題を持たず、ただ複雑な群像彫刻で自らの技量を示したかっただけだそうです。彼は、「古代芸術家は、一つの大理石から一つの彫像を彫っていた」と誤解していたため、それに挑んで一塊の大理石からこの作品を彫り上げたというから驚きです。この作品はバロック黎明期の代表作で、垂直の動きに溢れるもののしなやかさに欠け、一塊の大理石から彫り出すという無理が災いしたと言われます。斜め方向の動きを完成させたのは40年後のベルニーニで「プロセルピナの略奪」や「アポロンとダフネ」がその典型です。

  • ジャンボローニャ作『サビニの女たちの掠奪』<br />彫刻の基盤にはブロンズのパネルが嵌め込まれ、この部分も掠奪シーンを窺わせます。大きさを違えた人物が、浮き彫り高さの差も相俟って奥行きを強調する秀作です。<br />

    ジャンボローニャ作『サビニの女たちの掠奪』
    彫刻の基盤にはブロンズのパネルが嵌め込まれ、この部分も掠奪シーンを窺わせます。大きさを違えた人物が、浮き彫り高さの差も相俟って奥行きを強調する秀作です。

  • ジャンボローニャ作『サビニの女たちの掠奪』<br />この作品が『サビニの女たちの掠奪』と命名されたのは、フランチェスコ1世がロッジアに展示することを決めた後のことだそうです。 伝説に基づけば、ローマはロムルスと彼が率いる男集が建国。ローマ人は妻を娶るために近隣のサビニ人と交渉するも、決裂します。そこでサビニ人女性の掠奪を画策し、彼らを祭りに招待します。祭りの最中、ロムルスの合図で女性を捕まえます。それを阻止しようと格闘が始まります。掠奪はしたものの、ロムルスは女性に選択の自由を提供し、市民権と財産権を約束したそうです。良くできた人物だったのですね。

    ジャンボローニャ作『サビニの女たちの掠奪』
    この作品が『サビニの女たちの掠奪』と命名されたのは、フランチェスコ1世がロッジアに展示することを決めた後のことだそうです。 伝説に基づけば、ローマはロムルスと彼が率いる男集が建国。ローマ人は妻を娶るために近隣のサビニ人と交渉するも、決裂します。そこでサビニ人女性の掠奪を画策し、彼らを祭りに招待します。祭りの最中、ロムルスの合図で女性を捕まえます。それを阻止しようと格闘が始まります。掠奪はしたものの、ロムルスは女性に選択の自由を提供し、市民権と財産権を約束したそうです。良くできた人物だったのですね。

  • ジャンボローニャ作『ヘラクレスとケンタウロスのネッソス』<br />ヘラクレスと妻デイアネイラが旅の途中で大河を渡る際、渡し守ケンタウロスのネッソスに川を渡してくれるように頼みました。デイアネイラを渡す際、ネッソスが彼女に乱暴しようとしたため、向こう岸で待っていたヘラクレスはネッソスに矢を射ます。ネッソスは、ヘラクレスの毒矢に穢された自分の血を惚れ薬だと騙して彼女に手渡します。後にこの薬が原因でヘラクレスは命を落とします。神話はネッソスが矢で射られる話ですが、この作品では格闘技風の戦いに演出されています。ジャンボローニャは、フランドル地方出身で若い頃からイタリアに滞在し、ミケランジェロのマニエリズムを学んだ芸術家。ねじられた体の力強さが見所で、ネッソスの身体がヘラクレスの力でねじ曲げられる、その造形美に魅了されます。<br />

    ジャンボローニャ作『ヘラクレスとケンタウロスのネッソス』
    ヘラクレスと妻デイアネイラが旅の途中で大河を渡る際、渡し守ケンタウロスのネッソスに川を渡してくれるように頼みました。デイアネイラを渡す際、ネッソスが彼女に乱暴しようとしたため、向こう岸で待っていたヘラクレスはネッソスに矢を射ます。ネッソスは、ヘラクレスの毒矢に穢された自分の血を惚れ薬だと騙して彼女に手渡します。後にこの薬が原因でヘラクレスは命を落とします。神話はネッソスが矢で射られる話ですが、この作品では格闘技風の戦いに演出されています。 ジャンボローニャは、フランドル地方出身で若い頃からイタリアに滞在し、ミケランジェロのマニエリズムを学んだ芸術家。ねじられた体の力強さが見所で、ネッソスの身体がヘラクレスの力でねじ曲げられる、その造形美に魅了されます。

  • 『パトロクロスの身体を支えるメネラオス』<br />メネラオスは、スパルタ王の娘ヘレネ(ゼウスが白鳥に変身し、レダに生ませた子)の求婚者達の中から選ばれ、ヘレネの夫すなわち新スパルタ王となりました。その後、ヘレネはトロイア王子パリスに心を奪われ、夫と娘を捨てトロイアへ駆け落ちします。そして、ヘレネ奪還のため、メネラオスの兄弟アガメムノンを総大将としたギリシア軍とトロイア軍の間で戦争が勃発。ところがアキレウスは、アガメムノンと諍いを起こして出陣を拒否。そこでアキレウスの竹馬の友パトロクロスがアキレウスの鎧を着けて出陣しますが、トロイア王子へクトルに討たれてしまいます。激怒したアキレウスは、ヘクトルに一騎討ちを申し込み、パトロクロスの仇を討ちます。この作品は、息を引きとったパトロクロスの亡骸をメネラオスが抱きかかえるシーン。ローマのトライヤヌスのフォロで発見された作品で、16世紀に法王ピオ5世からメディチ家当主コジモ1世に寄贈されたものだそうです。 <br />

    『パトロクロスの身体を支えるメネラオス』
    メネラオスは、スパルタ王の娘ヘレネ(ゼウスが白鳥に変身し、レダに生ませた子)の求婚者達の中から選ばれ、ヘレネの夫すなわち新スパルタ王となりました。その後、ヘレネはトロイア王子パリスに心を奪われ、夫と娘を捨てトロイアへ駆け落ちします。そして、ヘレネ奪還のため、メネラオスの兄弟アガメムノンを総大将としたギリシア軍とトロイア軍の間で戦争が勃発。ところがアキレウスは、アガメムノンと諍いを起こして出陣を拒否。そこでアキレウスの竹馬の友パトロクロスがアキレウスの鎧を着けて出陣しますが、トロイア王子へクトルに討たれてしまいます。激怒したアキレウスは、ヘクトルに一騎討ちを申し込み、パトロクロスの仇を討ちます。この作品は、息を引きとったパトロクロスの亡骸をメネラオスが抱きかかえるシーン。ローマのトライヤヌスのフォロで発見された作品で、16世紀に法王ピオ5世からメディチ家当主コジモ1世に寄贈されたものだそうです。

  • 「花の都」フィレンツェの朝は、清掃車で始まります。ご覧のように前方で2つのブラシが回転し、散水しながら道を清掃しています。<br />

    「花の都」フィレンツェの朝は、清掃車で始まります。ご覧のように前方で2つのブラシが回転し、散水しながら道を清掃しています。

  • ジョットの鐘楼<br />大聖堂の脇に建設された、高さ85mのゴシック様式の鐘楼。1334年にジョットが指揮を執り、教会と同時に建設が開始されました。ジョットは、56枚のレリーフと16体の彫刻がなされた基底部分の建築が済んだ時点で永遠の眠りにつきますが、弟子のアンドレア・ピサーノ、フランチェスコ・タレンティが引き継ぎ、聖堂より100年早く完成。重厚なドゥオーモの迫力とは対照的に上層部が軽やかなデザインとなっている美しい塔です。基底部分にはピサーノによって彫られた『芸術と職業』があり、一部はジョットのデザインだと言われています。タレンティが指揮した3階には、装飾的な意味しかもたない破風とねじれ柱を備えたランセット窓(槍の穂先に似たアーチを持つ窓)が見られます。414段の階段を上ると鐘楼の最上階まで上がることができ、予言者と巫女16の像が出迎えてくれるそうです。<br />

    ジョットの鐘楼
    大聖堂の脇に建設された、高さ85mのゴシック様式の鐘楼。1334年にジョットが指揮を執り、教会と同時に建設が開始されました。ジョットは、56枚のレリーフと16体の彫刻がなされた基底部分の建築が済んだ時点で永遠の眠りにつきますが、弟子のアンドレア・ピサーノ、フランチェスコ・タレンティが引き継ぎ、聖堂より100年早く完成。重厚なドゥオーモの迫力とは対照的に上層部が軽やかなデザインとなっている美しい塔です。基底部分にはピサーノによって彫られた『芸術と職業』があり、一部はジョットのデザインだと言われています。タレンティが指揮した3階には、装飾的な意味しかもたない破風とねじれ柱を備えたランセット窓(槍の穂先に似たアーチを持つ窓)が見られます。414段の階段を上ると鐘楼の最上階まで上がることができ、予言者と巫女16の像が出迎えてくれるそうです。

  • サンタマリア・デル・フィオーレ聖堂(ドゥオーモ)<br />ドゥオーモの正式名称は、サンタ・マリア・デル・フィオーレ(=花の聖母)。元々、この場所には、小さなサンタ・レパラータ教会が建っていたそうです。<br />1401年、ドゥオーモ正面にある洗礼堂の扉のコンペが開催されました。題材は、「イサクの犠牲」。ロレンツォ・ギベルティー、フィリッポ・ブルネッレスキとヤコポ・デッラ・クエルチャが最終選考に残り、ギベルティーが優勝。時が経ち1418年、今度はドゥオーモのクーポラのコンペが開催されました。またしても宿敵ギベルティーとブルネッレスキが競り合い、今度はブルネッレスキが優勝。1436年にクーポラが完成し、ドゥオーモは140年かかってやっと完成に至りました。同年、ローマ法王エウジェーニオ4世により奉納の儀式が行われました。59歳になったブルネッレスキもこの式典に清々しい気持ちで参列したことでしょう。<br />実は、ブルネッレスキは、洗礼堂のコンペで負けた後、失意の中、ローマへ建築の勉強に行っていました。そこでローマ遺跡を目の当りにし、パンテオンの屋根によじ登って構造を研究したそうです。規模は異なりますが、彼が設計し、完成させたドゥオーモのクーポラの構造の一部はパンテオンからヒントを得たことは明白。もし、ギベルティーではなく、ブルネッレスキが洗礼堂のコンペに優勝していたら、また、失望したブルネッレスキがローマに行っていなかったら、ドゥオーモにはクーポラは存在していなかったかも知れません。できるかどうか判らないものを設計し、実際に建て始めてしまう15世紀のフィレンツェ人の前向きな姿勢に脱帽です。<br />

    サンタマリア・デル・フィオーレ聖堂(ドゥオーモ)
    ドゥオーモの正式名称は、サンタ・マリア・デル・フィオーレ(=花の聖母)。元々、この場所には、小さなサンタ・レパラータ教会が建っていたそうです。
    1401年、ドゥオーモ正面にある洗礼堂の扉のコンペが開催されました。題材は、「イサクの犠牲」。ロレンツォ・ギベルティー、フィリッポ・ブルネッレスキとヤコポ・デッラ・クエルチャが最終選考に残り、ギベルティーが優勝。時が経ち1418年、今度はドゥオーモのクーポラのコンペが開催されました。またしても宿敵ギベルティーとブルネッレスキが競り合い、今度はブルネッレスキが優勝。1436年にクーポラが完成し、ドゥオーモは140年かかってやっと完成に至りました。同年、ローマ法王エウジェーニオ4世により奉納の儀式が行われました。59歳になったブルネッレスキもこの式典に清々しい気持ちで参列したことでしょう。
    実は、ブルネッレスキは、洗礼堂のコンペで負けた後、失意の中、ローマへ建築の勉強に行っていました。そこでローマ遺跡を目の当りにし、パンテオンの屋根によじ登って構造を研究したそうです。規模は異なりますが、彼が設計し、完成させたドゥオーモのクーポラの構造の一部はパンテオンからヒントを得たことは明白。もし、ギベルティーではなく、ブルネッレスキが洗礼堂のコンペに優勝していたら、また、失望したブルネッレスキがローマに行っていなかったら、ドゥオーモにはクーポラは存在していなかったかも知れません。できるかどうか判らないものを設計し、実際に建て始めてしまう15世紀のフィレンツェ人の前向きな姿勢に脱帽です。

  • ジョットの鐘楼<br />ドゥオーモの正面に向かい、その右に聳え立つ『ジョットの鐘楼』を見上げると、正面(西側)に4体並んだ彫像が見えます。そのうちの2体が、初期ルネッサンスの巨匠ドナテッロの作品のコピーです。左から2番目が預言者ハバクク。旧約聖書『ハバクク書』で神との対話をする人物です。

    ジョットの鐘楼
    ドゥオーモの正面に向かい、その右に聳え立つ『ジョットの鐘楼』を見上げると、正面(西側)に4体並んだ彫像が見えます。そのうちの2体が、初期ルネッサンスの巨匠ドナテッロの作品のコピーです。左から2番目が預言者ハバクク。旧約聖書『ハバクク書』で神との対話をする人物です。

  • ジョットの鐘楼 預言者ハバクク<br />この彫像は、フィレンツェでは「ズッコーネ(かぼちゃ頭=ばか)」という愛称で呼ばれることが多いそうです。フィレンツェの住人ジョヴァンニ・ケリキーニという頭の大きい実在の人物をモデルに彫られたと言われ、この作品はリアルな人物表現を目的としたものだったそうです。<br />

    ジョットの鐘楼 預言者ハバクク
    この彫像は、フィレンツェでは「ズッコーネ(かぼちゃ頭=ばか)」という愛称で呼ばれることが多いそうです。フィレンツェの住人ジョヴァンニ・ケリキーニという頭の大きい実在の人物をモデルに彫られたと言われ、この作品はリアルな人物表現を目的としたものだったそうです。

  • ジョットの鐘楼<br />基底部分にあるピサーノによって彫られた『芸術と職業』。一部はジョットのデザインだと言われています。

    ジョットの鐘楼
    基底部分にあるピサーノによって彫られた『芸術と職業』。一部はジョットのデザインだと言われています。

  • ドゥオーモ<br />完成した大聖堂は、ミケランジェロをも感動させました。後にミケランジェロがローマに呼ばれ、サン・ピエトロ大聖堂の建設を任された際、時の教皇から「フィレンツェに負けないすばらしいクーポラを」と命じられ、彼は「いくら教皇様の御依頼でも、私の力をもってしても、あれより美しいものは造れません。フィレンツェの妹を造るベく最善は尽くします」と語ったそうです。<br />

    ドゥオーモ
    完成した大聖堂は、ミケランジェロをも感動させました。後にミケランジェロがローマに呼ばれ、サン・ピエトロ大聖堂の建設を任された際、時の教皇から「フィレンツェに負けないすばらしいクーポラを」と命じられ、彼は「いくら教皇様の御依頼でも、私の力をもってしても、あれより美しいものは造れません。フィレンツェの妹を造るベく最善は尽くします」と語ったそうです。

  • ドゥオーモ<br />フィレンツェのランドマークと言えば、壮大な大聖堂のオレンジ色のクーポラ。その建設は、建築家ブルネッレスキの下、1420〜1436年までの歳月を投じて行われました。しかし、工事中に亡くなった職人はたった一人。お酒を飲んで泥酔していたのが原因だそうです。事故後、再発防止を図るため、職人に対して「水で薄めたワインを飲むように」と布告したそうです。しかし、ワインを禁じた訳ではありませんでした。なぜなら、ワインは水を消毒する役割があったからです。当時フィレンツェは毛織物業が主要産業で、その加工には川の水を潤沢に使ったため、水質汚染が進んでいたのです。この布告と安全性を重視したブルネッレスキ発案の足場により、これ以後の事故は起きなかったそうです。<br />

    ドゥオーモ
    フィレンツェのランドマークと言えば、壮大な大聖堂のオレンジ色のクーポラ。その建設は、建築家ブルネッレスキの下、1420〜1436年までの歳月を投じて行われました。しかし、工事中に亡くなった職人はたった一人。お酒を飲んで泥酔していたのが原因だそうです。事故後、再発防止を図るため、職人に対して「水で薄めたワインを飲むように」と布告したそうです。しかし、ワインを禁じた訳ではありませんでした。なぜなら、ワインは水を消毒する役割があったからです。当時フィレンツェは毛織物業が主要産業で、その加工には川の水を潤沢に使ったため、水質汚染が進んでいたのです。この布告と安全性を重視したブルネッレスキ発案の足場により、これ以後の事故は起きなかったそうです。

  • ダンテの石<br />大聖堂の南側、クーポラを仰ぎ見る像のある区画のもうひとつ先にある柱に「サッソ・ディ・ダンテ(ダンテの石)」と記した、30x40cm程の赤大理石のプレートが見られます。ダンテは、ひねもすベンチに腰掛け、世紀の大事業とその向こうに見える「わが麗しきサン・ジョバンニ(礼拝堂)」の姿を眺めていたそうです。「ダンテの石」はその時のベンチに使われていたものだそうです。<br /><br />以下はここで起こったと言われるエピソード。<br />ダンテの超記憶力 「塩付きゆで卵」 <br />ダンテがいつもの場所で佇んでいると、旅人が話し掛けてきました。学識があったので、見知らぬ他人にも拘らずつい長話に。そのうち話は食べ物へ。「ダンテさん、あなたの好きなものは?」。ダンテ曰く、「ゆで卵!」。あの名高いダンテが案外シンプルなものが好みと知り、旅人は妙に感心して去って行きました。数年後、この男はまたフィレンツェを訪れ、ボーッと座っているダンテを見つけます。彼はちょっとした悪戯心を起こし、何の挨拶もなしに唐突に問いかけました。「どんな風にして?」。すると「塩を付けて!」とダンテは即答したのでした。恐るべし、ダンテの超憶力というお話です。<br />

    ダンテの石
    大聖堂の南側、クーポラを仰ぎ見る像のある区画のもうひとつ先にある柱に「サッソ・ディ・ダンテ(ダンテの石)」と記した、30x40cm程の赤大理石のプレートが見られます。ダンテは、ひねもすベンチに腰掛け、世紀の大事業とその向こうに見える「わが麗しきサン・ジョバンニ(礼拝堂)」の姿を眺めていたそうです。「ダンテの石」はその時のベンチに使われていたものだそうです。

    以下はここで起こったと言われるエピソード。
    ダンテの超記憶力 「塩付きゆで卵」
    ダンテがいつもの場所で佇んでいると、旅人が話し掛けてきました。学識があったので、見知らぬ他人にも拘らずつい長話に。そのうち話は食べ物へ。「ダンテさん、あなたの好きなものは?」。ダンテ曰く、「ゆで卵!」。あの名高いダンテが案外シンプルなものが好みと知り、旅人は妙に感心して去って行きました。数年後、この男はまたフィレンツェを訪れ、ボーッと座っているダンテを見つけます。彼はちょっとした悪戯心を起こし、何の挨拶もなしに唐突に問いかけました。「どんな風にして?」。すると「塩を付けて!」とダンテは即答したのでした。恐るべし、ダンテの超憶力というお話です。

  • ドゥオーモの傑作『こおろぎの籠』<br />クーポラの裾部に、白いバルコニーが突き出ています。正確にはクーポラの下を一周するための回廊です。しかし、8辺あるうちの1辺にしかありません。これは「こおろぎの籠」と呼ばれています。<br />16世紀初頭、新進気鋭の建築家バッチョ・ダーニョロがバルコニーの設計と工事監督を命じられ、クーポラの赤とのコントラストを考えて白大理石で8辺ある壁を覆う回廊をデザインしました。しかし、一辺だけ出来上がったある日、この下をミケランジェロが通りががり、工事中の回廊を見て呟きました。「なんだみっともない。まるでコオロギを入れる虫カゴじゃないか」と酷評。これが世間の噂となり、哀れなことに作業はそのまま永遠に中断されてしまいました。皮肉にも、その建築家の超傑作は「コオロギの籠」と呼ばれ、長く後世に残ることになったそうです。 <br />

    ドゥオーモの傑作『こおろぎの籠』
    クーポラの裾部に、白いバルコニーが突き出ています。正確にはクーポラの下を一周するための回廊です。しかし、8辺あるうちの1辺にしかありません。これは「こおろぎの籠」と呼ばれています。
    16世紀初頭、新進気鋭の建築家バッチョ・ダーニョロがバルコニーの設計と工事監督を命じられ、クーポラの赤とのコントラストを考えて白大理石で8辺ある壁を覆う回廊をデザインしました。しかし、一辺だけ出来上がったある日、この下をミケランジェロが通りががり、工事中の回廊を見て呟きました。「なんだみっともない。まるでコオロギを入れる虫カゴじゃないか」と酷評。これが世間の噂となり、哀れなことに作業はそのまま永遠に中断されてしまいました。皮肉にも、その建築家の超傑作は「コオロギの籠」と呼ばれ、長く後世に残ることになったそうです。

  • ドゥオーモのライオン像<br />ドゥオーモの北側にライオンがいます。正面から常に日陰になっている北側に回ってすぐの所に、バッラ門という大扉があります。狛獅子のように2頭の動物が対に置かれ、その右側はまさしくライオン。大理石の彫像ですが、顎が崩れ落ちています。その昔、ある男が大聖堂に駆け込み、「恐ろしい夢を見ました。ライオンに手を噛まれたせいで、死ぬって言うのです。すぐにお払いをしてください」と懇願しました。司祭は直ちにバッラ門へ連れて行き、手をライオン像の口の中に入れました。司祭には、こうすることが最良の方法に思えたからです。ところが、その中にはサソリの巣があり、男は手を刺されてその毒で亡くなってしまいました。彼の恐ろしい夢は正夢だったのです。 <br />

    ドゥオーモのライオン像
    ドゥオーモの北側にライオンがいます。正面から常に日陰になっている北側に回ってすぐの所に、バッラ門という大扉があります。狛獅子のように2頭の動物が対に置かれ、その右側はまさしくライオン。大理石の彫像ですが、顎が崩れ落ちています。その昔、ある男が大聖堂に駆け込み、「恐ろしい夢を見ました。ライオンに手を噛まれたせいで、死ぬって言うのです。すぐにお払いをしてください」と懇願しました。司祭は直ちにバッラ門へ連れて行き、手をライオン像の口の中に入れました。司祭には、こうすることが最良の方法に思えたからです。ところが、その中にはサソリの巣があり、男は手を刺されてその毒で亡くなってしまいました。彼の恐ろしい夢は正夢だったのです。

  • ドゥオーモ<br />ドゥオーモとジョットの鐘楼が整然と並ぶ姿は迫力満点です。

    ドゥオーモ
    ドゥオーモとジョットの鐘楼が整然と並ぶ姿は迫力満点です。

  • ドゥオーモ<br />ファサードを正面から撮る場合、洗礼堂との距離がないので超広角レンズがあると重宝します。因みに、この写真は焦点距離10mm(35mm換算で15mm)で撮ったものです。<br /><br />19世紀に完成したファサードはネオ・ゴシックによる華麗なる混成様式。しかし、1059年に完成したサン・ジョヴアン二洗礼堂や1359年に完成したジョットの鐘楼と見比べても違和感がなく、美しい白・緑・ピンクの大理石が描く幾何学模様の壁が見事に調和しています。と言ってしまうと簡単なのですが、そこには深い歴史が刻まれています。<br />最初、ファサードはアルノルフォ・ディ・カンビオの設計により、ドゥオーモの建設と同時に着工されました。カンビオの死でファサードは下部のみが完成。しかし15世紀後半、このファサードは堅固でないという報告がなされ、再建案の議論を重ねましたが結論がでませんでした。16世紀後半、メディチ家のトスカーナ大公フランチェスコ1世の命でファサードが撤去されました。一時、17世紀後半に石とセメントの表面に彫刻が施されているだまし絵が描かれたこともありましたが、それも剥げ落ち、19世紀までファサードは未完成のままでした。1864年にコンペが開催され、エミリオ・デ・ファブリスによる新しいファサードが建造されました。銅製の巨大な扉は1899〜1903年にかけて制作されたものです。<br />

    ドゥオーモ
    ファサードを正面から撮る場合、洗礼堂との距離がないので超広角レンズがあると重宝します。因みに、この写真は焦点距離10mm(35mm換算で15mm)で撮ったものです。

    19世紀に完成したファサードはネオ・ゴシックによる華麗なる混成様式。しかし、1059年に完成したサン・ジョヴアン二洗礼堂や1359年に完成したジョットの鐘楼と見比べても違和感がなく、美しい白・緑・ピンクの大理石が描く幾何学模様の壁が見事に調和しています。と言ってしまうと簡単なのですが、そこには深い歴史が刻まれています。
    最初、ファサードはアルノルフォ・ディ・カンビオの設計により、ドゥオーモの建設と同時に着工されました。カンビオの死でファサードは下部のみが完成。しかし15世紀後半、このファサードは堅固でないという報告がなされ、再建案の議論を重ねましたが結論がでませんでした。16世紀後半、メディチ家のトスカーナ大公フランチェスコ1世の命でファサードが撤去されました。一時、17世紀後半に石とセメントの表面に彫刻が施されているだまし絵が描かれたこともありましたが、それも剥げ落ち、19世紀までファサードは未完成のままでした。1864年にコンペが開催され、エミリオ・デ・ファブリスによる新しいファサードが建造されました。銅製の巨大な扉は1899〜1903年にかけて制作されたものです。

  • ドゥオーモ<br />中央の玉座には聖母子像が佇みます。町の人々は広場を見下ろす聖母子像を見上げながら、見守られている安堵の気持ちを抱いているのでしょう。ことさらクーポラがスポットを浴びますが、こうしてじっくり見てみるとファサードは「花の聖母大聖堂」の顔のように思えます。

    ドゥオーモ
    中央の玉座には聖母子像が佇みます。町の人々は広場を見下ろす聖母子像を見上げながら、見守られている安堵の気持ちを抱いているのでしょう。ことさらクーポラがスポットを浴びますが、こうしてじっくり見てみるとファサードは「花の聖母大聖堂」の顔のように思えます。

  • ドゥオーモ<br />大扉の上にあるフレスコ画です。イエスとそれを取り巻く使徒が描かれています。

    ドゥオーモ
    大扉の上にあるフレスコ画です。イエスとそれを取り巻く使徒が描かれています。

  • ドゥオーモ<br />中央大扉の左側の装飾です。<br />聖女像が誰だとかではなく、色彩の美しさやレース編みのような繊細な模様に圧倒されます。<br />

    ドゥオーモ
    中央大扉の左側の装飾です。
    聖女像が誰だとかではなく、色彩の美しさやレース編みのような繊細な模様に圧倒されます。

  • ドゥオーモ<br />中央大扉の右側の装飾です。<br />螺旋状の柱がとても美しいです。

    ドゥオーモ
    中央大扉の右側の装飾です。
    螺旋状の柱がとても美しいです。

  • ドゥオーモ<br />小扉の上、絵の横のリュネット脇の彫像は「毛皮を着た少年」のように見えます。<br />中世絵画では、成人した洗礼者ヨハネは毛皮の衣を着け、十字架の杖を持ってイエスを指し示しています。これがヨハネのアトリビュートです。しかし、聖母子の隣に幼児もしくは少年ヨハネ(ジョヴァンニーノ)が描かれる場合、多くは「ラクダの皮衣」か「十字架の杖」か「指差し」のうちの少なくともひとつが付されます。確かではありませんが、小扉のリュネット脇の柱にある彫像はジョバンニーノではないかと思いました。

    ドゥオーモ
    小扉の上、絵の横のリュネット脇の彫像は「毛皮を着た少年」のように見えます。
    中世絵画では、成人した洗礼者ヨハネは毛皮の衣を着け、十字架の杖を持ってイエスを指し示しています。これがヨハネのアトリビュートです。しかし、聖母子の隣に幼児もしくは少年ヨハネ(ジョヴァンニーノ)が描かれる場合、多くは「ラクダの皮衣」か「十字架の杖」か「指差し」のうちの少なくともひとつが付されます。確かではありませんが、小扉のリュネット脇の柱にある彫像はジョバンニーノではないかと思いました。

  • ドゥオーモ広場<br />手前にサン・ジョヴァンニ洗礼堂が加わり、3役揃い踏みです。<br />役者が揃うと尚一層迫力が増します。

    ドゥオーモ広場
    手前にサン・ジョヴァンニ洗礼堂が加わり、3役揃い踏みです。
    役者が揃うと尚一層迫力が増します。

  • サン・ジョヴァンニ洗礼堂 <br />サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂付属の洗礼堂。八角形クーポラ構造で、ロマネスク様式の最も重要な集中形式の教会建築のひとつ。フィレンツェで最も古い聖堂で、フィレンツェの守護聖人ヨハネ(聖ジョヴァンニ)を祀っています。<br /><br />正面に見える金色の扉が『天国の扉』です。この扉の両脇に赤い大理石製の2本の柱があります。かつて、ピサ市民がフィレンツェ市民に贈呈したもですが、実はピサとフィレンツェは今も昔も犬猿の仲だそうです。 <br />1114年、ピサ海軍は地中海でイスラム海軍と戦闘の真っ最中。しか、しその隙を狙ってルッカが攻撃の機会を窺っていました。仕方なく、ピサ市民はフィレンツェ軍に守護を依頼し、お礼に戦利品の中から好きな物を贈ることにしました。候補は、ブロンズの扉とマヨリカ島から持ってきた2本の美しい赤大理石の柱。フィレンツェの人達は後者を選びました。実はこの柱は不思議な力を持ち、この後ろから回りの人々を見ると誰が泥棒かが分かったそうです。華やかなパレードと共に、厳重に梱包された古代の柱が大聖堂の前まで運ばれてきました。ラッパと太鼓が鳴り響き、市民が固唾を呑んで見守る中、包みが開けられました。所がビックリ仰天。美しい柱は粉々。その上真っ黒に燻されていました。「フィレンツェ人は盲目で、ピサ人は裏切り者」という諺は、ここから生まれたそうです。(差別用語ですが、原典に従いました。お許し下さい。)<br /><br /><br />

    サン・ジョヴァンニ洗礼堂
    サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂付属の洗礼堂。八角形クーポラ構造で、ロマネスク様式の最も重要な集中形式の教会建築のひとつ。フィレンツェで最も古い聖堂で、フィレンツェの守護聖人ヨハネ(聖ジョヴァンニ)を祀っています。

    正面に見える金色の扉が『天国の扉』です。この扉の両脇に赤い大理石製の2本の柱があります。かつて、ピサ市民がフィレンツェ市民に贈呈したもですが、実はピサとフィレンツェは今も昔も犬猿の仲だそうです。
    1114年、ピサ海軍は地中海でイスラム海軍と戦闘の真っ最中。しか、しその隙を狙ってルッカが攻撃の機会を窺っていました。仕方なく、ピサ市民はフィレンツェ軍に守護を依頼し、お礼に戦利品の中から好きな物を贈ることにしました。候補は、ブロンズの扉とマヨリカ島から持ってきた2本の美しい赤大理石の柱。フィレンツェの人達は後者を選びました。実はこの柱は不思議な力を持ち、この後ろから回りの人々を見ると誰が泥棒かが分かったそうです。華やかなパレードと共に、厳重に梱包された古代の柱が大聖堂の前まで運ばれてきました。ラッパと太鼓が鳴り響き、市民が固唾を呑んで見守る中、包みが開けられました。所がビックリ仰天。美しい柱は粉々。その上真っ黒に燻されていました。「フィレンツェ人は盲目で、ピサ人は裏切り者」という諺は、ここから生まれたそうです。(差別用語ですが、原典に従いました。お許し下さい。)


  • サン・ジョヴァンニ洗礼堂 『天国の扉』<br />洗礼堂には3方向(東・南・北)に扉が付けられ、「旧約聖書」、「洗礼者ヨハネの物語」、「新約聖書」」を表わす巨大な聖書となっています。最も著名なのが、東側のロレンツォ・ギベルティ作『天国の扉』(15世紀)。<br />ミケランジェロが「天国への門」と呼んで賞賛したことからこの名で呼ばれています。実は、現在展示されているのはコピーで、オリジナルはドゥオーモ付属美術館に所蔵。コピーの制作資金を提供したのが茂登山長市郎さんで、日本にフェラガモやグッチなどの高級ブランドを紹介した方だそうです。2010年、茂登山さんは「フィレンツェ市の鍵(名誉市民賞)」を市長より授与されました。海外でこのような日本人の功績に触れると嬉しい気持ちになります。

    サン・ジョヴァンニ洗礼堂 『天国の扉』
    洗礼堂には3方向(東・南・北)に扉が付けられ、「旧約聖書」、「洗礼者ヨハネの物語」、「新約聖書」」を表わす巨大な聖書となっています。最も著名なのが、東側のロレンツォ・ギベルティ作『天国の扉』(15世紀)。
    ミケランジェロが「天国への門」と呼んで賞賛したことからこの名で呼ばれています。実は、現在展示されているのはコピーで、オリジナルはドゥオーモ付属美術館に所蔵。コピーの制作資金を提供したのが茂登山長市郎さんで、日本にフェラガモやグッチなどの高級ブランドを紹介した方だそうです。2010年、茂登山さんは「フィレンツェ市の鍵(名誉市民賞)」を市長より授与されました。海外でこのような日本人の功績に触れると嬉しい気持ちになります。

  • サン・ジョヴァンニ洗礼堂 『天国の扉』<br />旧約聖書の物語を10枚のパネルに表わし、最初の物語は左上で「アダムとイヴの物語」から始まっています。

    サン・ジョヴァンニ洗礼堂 『天国の扉』
    旧約聖書の物語を10枚のパネルに表わし、最初の物語は左上で「アダムとイヴの物語」から始まっています。

  • サン・ジョヴァンニ洗礼堂 『天国の扉』<br />右下の「ソロモン王とシヴァの女王」で終わります。

    サン・ジョヴァンニ洗礼堂 『天国の扉』
    右下の「ソロモン王とシヴァの女王」で終わります。

  • サン・ジョヴァンニ洗礼堂 『天国の扉』<br />ギベルティは、誇らしげに自分を象った小さな胸像を施しています。上から4段目のパネルの上、左が「モーセ」で右が「ヨシュア」の話の所です。丸い窓みたいな所から2つの胸像が飛び出しています。左側の禿げた男性がこの門のレリーフを作ったギベルティ・ロレンツォです。右が息子のヴィトーリオ。協力者だったのでしょう。

    サン・ジョヴァンニ洗礼堂 『天国の扉』
    ギベルティは、誇らしげに自分を象った小さな胸像を施しています。上から4段目のパネルの上、左が「モーセ」で右が「ヨシュア」の話の所です。丸い窓みたいな所から2つの胸像が飛び出しています。左側の禿げた男性がこの門のレリーフを作ったギベルティ・ロレンツォです。右が息子のヴィトーリオ。協力者だったのでしょう。

  • サン・ジョヴァンニ洗礼堂 南扉<br />14世紀のアンドレア・ピサーノの作品で洗礼者ヨハネの物語がモチーフ。ゴシックからルネサンス美術への突入を示す重要な作品だそうです。

    サン・ジョヴァンニ洗礼堂 南扉
    14世紀のアンドレア・ピサーノの作品で洗礼者ヨハネの物語がモチーフ。ゴシックからルネサンス美術への突入を示す重要な作品だそうです。

  • サン・ジョヴァンニ洗礼堂 南扉<br />装飾的なブロンズの枠の部分は、『天国の門』の制作者、ロレンツォ・ギベルティの息子ヴィットーリオの作品。

    サン・ジョヴァンニ洗礼堂 南扉
    装飾的なブロンズの枠の部分は、『天国の門』の制作者、ロレンツォ・ギベルティの息子ヴィットーリオの作品。

  • サン・ジョヴァンニ洗礼堂 南扉<br />南扉の両脇にプラート産の緑大理石でできた柱が2本あり、柱の表面を良く観ると正確な長方形に凹んだ部分があります。これは中世の長さの尺度に使われていたもので、市民がいつでも統一された単位を使って公平な商活動ができるように、誰でも確かめられるようにと町の真ん中に設置されたものです。<br />

    サン・ジョヴァンニ洗礼堂 南扉
    南扉の両脇にプラート産の緑大理石でできた柱が2本あり、柱の表面を良く観ると正確な長方形に凹んだ部分があります。これは中世の長さの尺度に使われていたもので、市民がいつでも統一された単位を使って公平な商活動ができるように、誰でも確かめられるようにと町の真ん中に設置されたものです。

  • サン・ジョヴァンニ洗礼堂 北扉<br />巨匠ロレンツォ・ギベルティ作で「天国の門」よりも先の作品。ギベルティは、1401年開催のコンペでブルネッレスキを破り、制作権を入手しました。この扉は、その直後制作されたものだそうです。<br />しかし、ほとんどのパネルが剥がされ、遅まきながら修復あるいはコピー制作が始まったと言うことでしょうか?<br />南・北の2枚の扉は、ここ200年間まったく修復されていないので風化が激しく、コピーを造ってオリジナルを美術館に展示する話が持ち上がっています。コピー制作には莫大な費用がかかり、『天国の扉』には1990年当時で6億円相当かかったそうです。いつか洗礼堂の残り2枚の扉も、オリジナルの輝きを取り戻す日がくればいいですね。<br /><br />写真には写っていませんが、扉の中央左のターバンを巻いた男がギベルティの肖像だと言われています。ある日、スクーターがはねた小石が扉に当たり、そこに金色の素地があるのが発見され、この扉も「天国の門」のように金箔で覆われていたと判ったそうです。<br />

    サン・ジョヴァンニ洗礼堂 北扉
    巨匠ロレンツォ・ギベルティ作で「天国の門」よりも先の作品。ギベルティは、1401年開催のコンペでブルネッレスキを破り、制作権を入手しました。この扉は、その直後制作されたものだそうです。
    しかし、ほとんどのパネルが剥がされ、遅まきながら修復あるいはコピー制作が始まったと言うことでしょうか?
    南・北の2枚の扉は、ここ200年間まったく修復されていないので風化が激しく、コピーを造ってオリジナルを美術館に展示する話が持ち上がっています。コピー制作には莫大な費用がかかり、『天国の扉』には1990年当時で6億円相当かかったそうです。いつか洗礼堂の残り2枚の扉も、オリジナルの輝きを取り戻す日がくればいいですね。

    写真には写っていませんが、扉の中央左のターバンを巻いた男がギベルティの肖像だと言われています。ある日、スクーターがはねた小石が扉に当たり、そこに金色の素地があるのが発見され、この扉も「天国の門」のように金箔で覆われていたと判ったそうです。

  • サン・ジョヴァンニ洗礼堂 北扉<br />注目点は、その額縁と思しき所に沢山の小動物像が原寸大で彫られていること。蛇やトカゲ、クワガタ虫、カナブン、バッタ、カタツムリなど身近な生き物が満載です。

    サン・ジョヴァンニ洗礼堂 北扉
    注目点は、その額縁と思しき所に沢山の小動物像が原寸大で彫られていること。蛇やトカゲ、クワガタ虫、カナブン、バッタ、カタツムリなど身近な生き物が満載です。

  • ドゥオーモ広場 聖ザノービの柱  <br />サン・ジョヴァンニ洗礼堂の北扉の方角に6m程ある大理石柱がどっしりと構え、その頂には十字架を冠しています。これは「聖ザノービの柱」と呼ばれますが、今や市民でも何なのかを知る人は少ないそうです。現地ガイドさんの説明にもありませんでした。<br />聖ザノービは、紀元4世紀のフィレンツェの初代司教。馬車に轢かれた子供を蘇生させたり、悪魔退治をしたり、数々の奇跡を起こしたと伝えられます。その中で有名なのが、次のお話。 <br />フランスから来た巡礼婦人の子供が、ローマへの旅の途中で病に犯されました。母親は、その子をザノービに預けてローマへ向かいました。しかし、不幸にも、間もなく子供は高熱を出して亡くなります。しかし、ザノービがその子を蘇生させたので、母親は帰途で元気な我が子をひしと抱きしめることができたのでした。<br />また、別の伝説として次のようなものもあります。<br />運ばれていた聖ザビーノの棺が群衆に押されて檎の枯木にぶつかると、木はたちまち生き返って緑の葉が茂り、花が咲いたそうです。イタリア版「花咲じいさん」です。その檎の木があったのがこの場所で、柱の中段を見ると葉が茂った木が描かれています。その木は「祝福された木」として崇められ、この奇跡の木を使って彫り出された十字架は、現在もサン・ジョヴァンニーノ・デイ・カヴァリエーリ教会に祀られています。<br /><br />

    ドゥオーモ広場 聖ザノービの柱  
    サン・ジョヴァンニ洗礼堂の北扉の方角に6m程ある大理石柱がどっしりと構え、その頂には十字架を冠しています。これは「聖ザノービの柱」と呼ばれますが、今や市民でも何なのかを知る人は少ないそうです。現地ガイドさんの説明にもありませんでした。
    聖ザノービは、紀元4世紀のフィレンツェの初代司教。馬車に轢かれた子供を蘇生させたり、悪魔退治をしたり、数々の奇跡を起こしたと伝えられます。その中で有名なのが、次のお話。
    フランスから来た巡礼婦人の子供が、ローマへの旅の途中で病に犯されました。母親は、その子をザノービに預けてローマへ向かいました。しかし、不幸にも、間もなく子供は高熱を出して亡くなります。しかし、ザノービがその子を蘇生させたので、母親は帰途で元気な我が子をひしと抱きしめることができたのでした。
    また、別の伝説として次のようなものもあります。
    運ばれていた聖ザビーノの棺が群衆に押されて檎の枯木にぶつかると、木はたちまち生き返って緑の葉が茂り、花が咲いたそうです。イタリア版「花咲じいさん」です。その檎の木があったのがこの場所で、柱の中段を見ると葉が茂った木が描かれています。その木は「祝福された木」として崇められ、この奇跡の木を使って彫り出された十字架は、現在もサン・ジョヴァンニーノ・デイ・カヴァリエーリ教会に祀られています。

  • ドゥオーモ広場 ビガッロのロッジア<br />ドゥオーモ広場の南側に小さなアーケード状の「ビガッロのロッジア」があります。ここは中世からの福祉施設で、特に捨て子を受け入れたり、その養育を担っていたそうです。アーチにはすばらしい彫刻、扉の上には聖母子像があります。ロッジャは1352年にアルベルト・アルノルディの設計により建造され、彫刻の部分も彼が担当したそうです。<br />この建物の北壁の上部に、今は汚れて良く識別できないフレスコ画が残っています。これはビガッロ同心会の創立者の殉教者ペトルスを描いたものです。<br />ある日、フィレンツェで信者に説教していると、にわかに空が真っ暗になり、その中から真っ黒な馬に乗った悪魔が降り立ちました。ペトルスはそれを説教の力で瞬時に退けました。この伝説がフレスコ画に残されているそうです。 左は聖人が説教をしているシーン。信者が集まって彼の話に聞き入っています。上部には信者の頭をかすめるように黒い馬が描かれています。 ストロッツィ宮殿の広場の角に「悪魔の四つ角」という場所がありますが、旗竿をさすための小さな彫刻は前述の悪魔の姿を遺しているそうです。 <br />

    ドゥオーモ広場 ビガッロのロッジア
    ドゥオーモ広場の南側に小さなアーケード状の「ビガッロのロッジア」があります。ここは中世からの福祉施設で、特に捨て子を受け入れたり、その養育を担っていたそうです。アーチにはすばらしい彫刻、扉の上には聖母子像があります。ロッジャは1352年にアルベルト・アルノルディの設計により建造され、彫刻の部分も彼が担当したそうです。
    この建物の北壁の上部に、今は汚れて良く識別できないフレスコ画が残っています。これはビガッロ同心会の創立者の殉教者ペトルスを描いたものです。
    ある日、フィレンツェで信者に説教していると、にわかに空が真っ暗になり、その中から真っ黒な馬に乗った悪魔が降り立ちました。ペトルスはそれを説教の力で瞬時に退けました。この伝説がフレスコ画に残されているそうです。 左は聖人が説教をしているシーン。信者が集まって彼の話に聞き入っています。上部には信者の頭をかすめるように黒い馬が描かれています。 ストロッツィ宮殿の広場の角に「悪魔の四つ角」という場所がありますが、旗竿をさすための小さな彫刻は前述の悪魔の姿を遺しているそうです。

  • ホテル・ラ・ジョコンダ<br />パンツァーニ通りには沢山のホテルが軒を連ね、その2番地に「ホテル・ラ・ジョコンダ」があります。『モナ・リザ』は、フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻がモデルと言うのが定説で、苗字の女性形からジョコンダとも呼ばれます。レオナルドは、彼女の表情を和らげようと道化師を雇い笑わせたそうです。謎めいた『モナ・リザ』の微笑の陰には、このような背景があったそうです。<br />このホテルの名の由来を記しましょう。 <br />イタリアのコモ湖近隣出身のヴィンチェンツォ・ペルッジャという職人がいました。かの男は、「さる女性」とこのホテルの20号室に宿泊しました。「さる女性」とは、2年前にルーヴル美術館から失踪した『モナ・リザ』。絵が忽然と消えたのは、1911年8月21日。その頃、彼はルーヴルの保護ガラスケース設置に従事していました。まず疑われたのが「創造力を麻痺させる美術館はぶち壊すべき」と豪語して憚らなかった詩人アポリネール。ピカソも疑われました。ペルッジャは最初から捜査対象に入っていましたが、絵をテーブルの上に置き、布を掛けて隠し通しました。事情聴取の書類は、この上でサインされました。やがて彼は、絵をレオナルドが活躍したフィレンツェへ返還する決意をします。1913年12月10日、フィレンツェ駅近くのトリポリ・イタリア・ホテルに宿を取ります。このホテルが現在のホテル・ラ・ジョコンダ。古物商アルフレド・ジェリと密通し、ウフィッツィ文化財保護官ジョヴァンニ・ポッジにホテルで『モナ・リザ』を披露しました。彼の汚名返上のために言及すれば、ペルッジャは金銭目的で盗んだ訳ではありません。イタリア巨匠の絵画が、掠奪されたままフランスにあるのは理不尽と考え、故郷へ返還しようと考えたのでした。彼は憲兵に取り押さえられ、『モナ・リザ』は鞄の2重底から奇跡的に無傷で発見されました。彼の義賊的行動は一時共感を呼びましたが、実はこの絵画、元々レオナルドがフランスで亡くなるまで肌身離さず持っていたものがルーヴルに寄贈されたもので、ナポレオンが掠奪したものではなかったのです。結局、彼は1年と15日の禁固刑を言い渡されました。法廷を去る時、ふと『モナ・リザ』の微笑みを浮かべたとか…。刑期の後、出所したペルッジャを待っていたトスカーナの学生グループは、彼に4500リラの募金を渡したそうです。ところでかの『モナ・リザ』は、フランスの心遣いにより、返還前にウフィッツィ美術館で2日間展示されたそうです。<br />ホテルのフロントには、『モナ・リザ』のあまり似ていないコピーがあり、オーナーは「ここだけの話だが、本当はコレが本物なんだよ」とうそぶいてくれるそうです。ホテル・ジョコンダのHPです。なんと日本語サイトもありました。 <br />http://www.hotellagioconda.it/ja/<br />

    ホテル・ラ・ジョコンダ
    パンツァーニ通りには沢山のホテルが軒を連ね、その2番地に「ホテル・ラ・ジョコンダ」があります。『モナ・リザ』は、フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻がモデルと言うのが定説で、苗字の女性形からジョコンダとも呼ばれます。レオナルドは、彼女の表情を和らげようと道化師を雇い笑わせたそうです。謎めいた『モナ・リザ』の微笑の陰には、このような背景があったそうです。
    このホテルの名の由来を記しましょう。 
    イタリアのコモ湖近隣出身のヴィンチェンツォ・ペルッジャという職人がいました。かの男は、「さる女性」とこのホテルの20号室に宿泊しました。「さる女性」とは、2年前にルーヴル美術館から失踪した『モナ・リザ』。絵が忽然と消えたのは、1911年8月21日。その頃、彼はルーヴルの保護ガラスケース設置に従事していました。まず疑われたのが「創造力を麻痺させる美術館はぶち壊すべき」と豪語して憚らなかった詩人アポリネール。ピカソも疑われました。ペルッジャは最初から捜査対象に入っていましたが、絵をテーブルの上に置き、布を掛けて隠し通しました。事情聴取の書類は、この上でサインされました。やがて彼は、絵をレオナルドが活躍したフィレンツェへ返還する決意をします。1913年12月10日、フィレンツェ駅近くのトリポリ・イタリア・ホテルに宿を取ります。このホテルが現在のホテル・ラ・ジョコンダ。古物商アルフレド・ジェリと密通し、ウフィッツィ文化財保護官ジョヴァンニ・ポッジにホテルで『モナ・リザ』を披露しました。彼の汚名返上のために言及すれば、ペルッジャは金銭目的で盗んだ訳ではありません。イタリア巨匠の絵画が、掠奪されたままフランスにあるのは理不尽と考え、故郷へ返還しようと考えたのでした。彼は憲兵に取り押さえられ、『モナ・リザ』は鞄の2重底から奇跡的に無傷で発見されました。彼の義賊的行動は一時共感を呼びましたが、実はこの絵画、元々レオナルドがフランスで亡くなるまで肌身離さず持っていたものがルーヴルに寄贈されたもので、ナポレオンが掠奪したものではなかったのです。結局、彼は1年と15日の禁固刑を言い渡されました。法廷を去る時、ふと『モナ・リザ』の微笑みを浮かべたとか…。刑期の後、出所したペルッジャを待っていたトスカーナの学生グループは、彼に4500リラの募金を渡したそうです。ところでかの『モナ・リザ』は、フランスの心遣いにより、返還前にウフィッツィ美術館で2日間展示されたそうです。
    ホテルのフロントには、『モナ・リザ』のあまり似ていないコピーがあり、オーナーは「ここだけの話だが、本当はコレが本物なんだよ」とうそぶいてくれるそうです。ホテル・ジョコンダのHPです。なんと日本語サイトもありました。
    http://www.hotellagioconda.it/ja/

  • サンタ・マリア・ノヴェッラ教会<br />14世紀にボッカッチョが著した『デカメロン』は、イタリア散文芸術の始まりと称されます。 ダンテの『神曲』に対し、『人曲』とも呼ばれるぐらい人間臭い物語集で、『千一夜物語』<br />から多分に影響を受けています。 1348年に大流行した疫病ペストはフィレンツェでも猛威を振い、人口の半分がこの病で倒れました。ペストから逃れるために邸宅に引き篭もった10人の男女が、退屈しのぎにそれぞれ物語を語って他の人に聞かせます。1人が1物語ずつ、10日間にわたって。故に100の物語が語られます。ちなみにデカメロンはギリシャ語の「10日」に由来にします。この物語の冒頭シーンは、この教会から始まります。 「ある火曜日の朝のこと、聖マリア・ノヴェッラ教会で、ほとんど他には人影一つありませんでしたが、こうしたご時世にふさわしい喪服をつけた7人の若い淑女たちが、ミサを拝聴したあとで集まりました」。7人は町から脱出する算段をします。「この土地から出て行くのが一番いいことだと考えるのでございます。わたしくたち銘々がたくさんもっている田舎のわたくしたちの土地に行って正直に暮らすこと」。ところが一人が「女ばかりではよくない」という意見を述べ、丁度そこに教会に入ってきた3人の紳士に目を付けるのです。なんと都合の良いことに3人の紳士のそれぞれの思い人が7人の女性の中にいたので、 快諾します。据え膳食わぬはナントヤラ。 現在のサンタ・マリア・ノヴェッラ教会は16世紀の改築後の様子で、デカメロンの物語の時代のものとは全く違った容姿になっています。でもこの教会を訪れる際には、この辺りで10人の男女が話をまとめたのかなと想像してみると楽しいです。 因みに、巨匠ミケランジェロがこの聖堂に恋をして「私の花嫁」と呼んだという話もあります。

    サンタ・マリア・ノヴェッラ教会
    14世紀にボッカッチョが著した『デカメロン』は、イタリア散文芸術の始まりと称されます。 ダンテの『神曲』に対し、『人曲』とも呼ばれるぐらい人間臭い物語集で、『千一夜物語』
    から多分に影響を受けています。 1348年に大流行した疫病ペストはフィレンツェでも猛威を振い、人口の半分がこの病で倒れました。ペストから逃れるために邸宅に引き篭もった10人の男女が、退屈しのぎにそれぞれ物語を語って他の人に聞かせます。1人が1物語ずつ、10日間にわたって。故に100の物語が語られます。ちなみにデカメロンはギリシャ語の「10日」に由来にします。この物語の冒頭シーンは、この教会から始まります。 「ある火曜日の朝のこと、聖マリア・ノヴェッラ教会で、ほとんど他には人影一つありませんでしたが、こうしたご時世にふさわしい喪服をつけた7人の若い淑女たちが、ミサを拝聴したあとで集まりました」。7人は町から脱出する算段をします。「この土地から出て行くのが一番いいことだと考えるのでございます。わたしくたち銘々がたくさんもっている田舎のわたくしたちの土地に行って正直に暮らすこと」。ところが一人が「女ばかりではよくない」という意見を述べ、丁度そこに教会に入ってきた3人の紳士に目を付けるのです。なんと都合の良いことに3人の紳士のそれぞれの思い人が7人の女性の中にいたので、 快諾します。据え膳食わぬはナントヤラ。 現在のサンタ・マリア・ノヴェッラ教会は16世紀の改築後の様子で、デカメロンの物語の時代のものとは全く違った容姿になっています。でもこの教会を訪れる際には、この辺りで10人の男女が話をまとめたのかなと想像してみると楽しいです。 因みに、巨匠ミケランジェロがこの聖堂に恋をして「私の花嫁」と呼んだという話もあります。

  • サンタ・マリア・ノヴェッラ教会<br />フランチェスコ会のサンタ・クローチェ教会に対するドメニコ会の教会として1219年に建設が始められましたが、9世紀頃、この地にあったサンタ・マリア・ヴィーニェ礼拝堂が起源。ファサードは下部が14世紀半ばのもので、上半分は15世紀にフィレンツェの大貴族ジョヴァンニ・ルチェッライが指揮を執り、レオン・バッティスタ・アルベルティによるデザイン。レオンは、建築だけでなく、絵画理論や芸術論、更には数学や科学、詩作にも長け、更にスポーツ万能のハンサムという多彩な才能を持った超・天才。サン・ミニアート・アル・モンテ教会などと同じくフィレンツェ独自の様式で、白と緑の大理石が清楚で美しい模様を浮かび上がらせています。ファサードは、2008年に修復が終わり、とても綺麗になっています。<br /><br />均整の取れたファサードは、以下のようなアルベルティーの緻密な計算によって作られています。 ①ファサードの縦横はピッタリ正方形。 ②下の部分は、この正方形の半分の面積に値し、上面の四角は1/4の面積。 ③中央の2本の柱の間の部分は、幅:高さの比率が1:1.5。 ④上面の太陽(この地区のシンボルで、同時に力と理性を表す)の直径は、下のステンドグラスの丸い窓(ロソーネ)の直径の半分。

    サンタ・マリア・ノヴェッラ教会
    フランチェスコ会のサンタ・クローチェ教会に対するドメニコ会の教会として1219年に建設が始められましたが、9世紀頃、この地にあったサンタ・マリア・ヴィーニェ礼拝堂が起源。ファサードは下部が14世紀半ばのもので、上半分は15世紀にフィレンツェの大貴族ジョヴァンニ・ルチェッライが指揮を執り、レオン・バッティスタ・アルベルティによるデザイン。レオンは、建築だけでなく、絵画理論や芸術論、更には数学や科学、詩作にも長け、更にスポーツ万能のハンサムという多彩な才能を持った超・天才。サン・ミニアート・アル・モンテ教会などと同じくフィレンツェ独自の様式で、白と緑の大理石が清楚で美しい模様を浮かび上がらせています。ファサードは、2008年に修復が終わり、とても綺麗になっています。

    均整の取れたファサードは、以下のようなアルベルティーの緻密な計算によって作られています。 ①ファサードの縦横はピッタリ正方形。 ②下の部分は、この正方形の半分の面積に値し、上面の四角は1/4の面積。 ③中央の2本の柱の間の部分は、幅:高さの比率が1:1.5。 ④上面の太陽(この地区のシンボルで、同時に力と理性を表す)の直径は、下のステンドグラスの丸い窓(ロソーネ)の直径の半分。

  • サンタ・マリア・ノヴェッラ教会<br />アルベルテイによって白と深緑色の二色の大理石で描かれたシンプルかつエレガントな幾何学模様は、布地に施された刺繍のように繊細で溜め息が出ます。

    サンタ・マリア・ノヴェッラ教会
    アルベルテイによって白と深緑色の二色の大理石で描かれたシンプルかつエレガントな幾何学模様は、布地に施された刺繍のように繊細で溜め息が出ます。

  • サンタ・マリア・ノヴェッラ教会<br />ファサードの完成には、ルチェッライ家の多額の支援があったことが順風満帆を意匠化したルチェッライ家の紋章に窺えます。今で言う広告塔のようなものです。500年以上もルチェッライ家の威光が教会の正面に残っているのですから、しっかり元は取れているのかも知れません…。<br />

    サンタ・マリア・ノヴェッラ教会
    ファサードの完成には、ルチェッライ家の多額の支援があったことが順風満帆を意匠化したルチェッライ家の紋章に窺えます。今で言う広告塔のようなものです。500年以上もルチェッライ家の威光が教会の正面に残っているのですから、しっかり元は取れているのかも知れません…。

  • サンタ・マリア・ノヴェッラ教会<br />正面に飛び出している2つの器具は、左側にある球体のようなものがアルミッラ・エクイツィオナーレ(天球儀)と呼ばれる環状日時計。

    サンタ・マリア・ノヴェッラ教会
    正面に飛び出している2つの器具は、左側にある球体のようなものがアルミッラ・エクイツィオナーレ(天球儀)と呼ばれる環状日時計。

  • サンタ・マリア・ノヴェッラ教会<br />右側の大理石のプレートはニョモーネ(当時使われていた暦)。1572年に、コジモ1世がドメニコ派修道士でありトスカーナ大公付きの天文学者イニャーツィオ・ダンティに依頼して設けさせたものです。<br /><br />フィレンツェの前段である夜景と早朝散策を楽しんでいただけたでしょうか?<br />次回からは、いよいよフィレンツェ編も佳境に入ります。<br />この続きは⑥フィレンツェ編Part.2でお届けします。<br />

    サンタ・マリア・ノヴェッラ教会
    右側の大理石のプレートはニョモーネ(当時使われていた暦)。1572年に、コジモ1世がドメニコ派修道士でありトスカーナ大公付きの天文学者イニャーツィオ・ダンティに依頼して設けさせたものです。

    フィレンツェの前段である夜景と早朝散策を楽しんでいただけたでしょうか?
    次回からは、いよいよフィレンツェ編も佳境に入ります。
    この続きは⑥フィレンツェ編Part.2でお届けします。

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