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桓武平氏を遠祖とし鎌倉時代の有力御家人であった渋谷氏居城であった早川城(はやかわじょう、神奈川県綾瀬市早川城山)を訪問しました。<br /><br />早川城は地形的には北からせり出す相模原台地の南端に居城を構え、城郭の南端は急崖でその裾部には相模川支流の目久尻川が流れ、同時に東西の突端部はそれぞれ谷地を見下ろす断崖となっており自然の断崖を巧みに利用しています。<br /><br />渋谷氏は桓武平氏の始祖である高望王(たかもちおう、生没不詳)の第5子である平良文(たいら・よしぶみ、生没不詳)が東国に下向し土着して村岡五郎良文と名乗り相模国に勢力を広げるなか、彼の子孫が関東各地に土着した豪族で当該地は渋谷荘と呼ばれ、その地名を自らの氏としています。<br /><br /><br />その中で渋谷氏は相模国渋谷荘に拠点を置き、現在の神奈川県綾瀬市・大和市・藤沢市一帯を支配していました。<br /><br />源頼朝が伊豆で挙兵した時、渋谷氏総帥である重国(しげくに、生没不詳)は頼朝討伐軍として動くも後に服従して幕府御家人に列せられますが、和田義盛の乱では重国二男高重(たかしげ、生年不詳~1213)は武蔵七党の横山党横山時広の娘婿であった為義盛に与して戦死、長男光重(みつしげ、生没不詳)は渋谷上庄、美作国河合郷などを相伝します。<br /><br />承久3年(1221)の承久の乱では光重は戦功により幕府より恩賞地として薩摩国北部に所領を得て、やがて長男重直のみを相模に残し二男以下5兄弟を薩摩に下向させ、二男実重が東郷、三男重保が祁答院(けどいん)、四男重諸が鶴田、五男定心が入来院(いりきいん)そして六男重貞が高城をそれぞれ所領しそれぞれ地域名を以って名乗ることになります。<br /><br />このように薩摩国北部を領有していた渋谷氏はその後薩摩に下向してきた島津氏と領有を争う関係となりますが、次第に島津氏に圧倒され戦国時代末期にはついに屈服するに至り、最後まで存在を示していた入来院重聡は娘を島津貴久(しまづ・たかひさ、1514~1571)に差出し島津家の一族となります。<br /><br />余談ですが島津貴久に嫁いだ娘は島津を一時絶頂期にもたらせた義久、義弘、歳久の母親であたります。<br /><br /><br /><br />2022年4月13日追記<br /><br />城跡の中には下記のような説明板が設置されています。<br /><br /><br />「 早 川 城 跡<br /><br />早川城跡は、地元では古くから「城山」と呼ばれ、鎌倉時代の御家人渋谷氏の城と伝えられています。しかし、文献資料がないことから、その実態は明らかではありませんでした。<br /><br />そこで、綾瀬教育委員会では平成元年度から平成6年度にかけて、早川城跡の学術調査を行いました。<br /><br />発掘調査によって、堀切・土塁・物見塚・曲輪等、多くの城郭関連遺構が発見され、圏内でも有数な保存状態の良好な中世城郭であることが明らかとなりました。また、城郭が構築される以前には、呪文時代や古代の集落が営まれていたことも明らかになりました。」<br />

相模綾瀬 桓武平氏の流れながら頼朝時代から有力御家人として相模中央部に勢力を有した渋谷氏本拠『早川城』訪問

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2012/10/27 - 2012/10/27

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滝山氏照

滝山氏照さん

桓武平氏を遠祖とし鎌倉時代の有力御家人であった渋谷氏居城であった早川城(はやかわじょう、神奈川県綾瀬市早川城山)を訪問しました。

早川城は地形的には北からせり出す相模原台地の南端に居城を構え、城郭の南端は急崖でその裾部には相模川支流の目久尻川が流れ、同時に東西の突端部はそれぞれ谷地を見下ろす断崖となっており自然の断崖を巧みに利用しています。

渋谷氏は桓武平氏の始祖である高望王(たかもちおう、生没不詳)の第5子である平良文(たいら・よしぶみ、生没不詳)が東国に下向し土着して村岡五郎良文と名乗り相模国に勢力を広げるなか、彼の子孫が関東各地に土着した豪族で当該地は渋谷荘と呼ばれ、その地名を自らの氏としています。


その中で渋谷氏は相模国渋谷荘に拠点を置き、現在の神奈川県綾瀬市・大和市・藤沢市一帯を支配していました。

源頼朝が伊豆で挙兵した時、渋谷氏総帥である重国(しげくに、生没不詳)は頼朝討伐軍として動くも後に服従して幕府御家人に列せられますが、和田義盛の乱では重国二男高重(たかしげ、生年不詳~1213)は武蔵七党の横山党横山時広の娘婿であった為義盛に与して戦死、長男光重(みつしげ、生没不詳)は渋谷上庄、美作国河合郷などを相伝します。

承久3年(1221)の承久の乱では光重は戦功により幕府より恩賞地として薩摩国北部に所領を得て、やがて長男重直のみを相模に残し二男以下5兄弟を薩摩に下向させ、二男実重が東郷、三男重保が祁答院(けどいん)、四男重諸が鶴田、五男定心が入来院(いりきいん)そして六男重貞が高城をそれぞれ所領しそれぞれ地域名を以って名乗ることになります。

このように薩摩国北部を領有していた渋谷氏はその後薩摩に下向してきた島津氏と領有を争う関係となりますが、次第に島津氏に圧倒され戦国時代末期にはついに屈服するに至り、最後まで存在を示していた入来院重聡は娘を島津貴久(しまづ・たかひさ、1514~1571)に差出し島津家の一族となります。

余談ですが島津貴久に嫁いだ娘は島津を一時絶頂期にもたらせた義久、義弘、歳久の母親であたります。



2022年4月13日追記

城跡の中には下記のような説明板が設置されています。


「 早 川 城 跡

早川城跡は、地元では古くから「城山」と呼ばれ、鎌倉時代の御家人渋谷氏の城と伝えられています。しかし、文献資料がないことから、その実態は明らかではありませんでした。

そこで、綾瀬教育委員会では平成元年度から平成6年度にかけて、早川城跡の学術調査を行いました。

発掘調査によって、堀切・土塁・物見塚・曲輪等、多くの城郭関連遺構が発見され、圏内でも有数な保存状態の良好な中世城郭であることが明らかとなりました。また、城郭が構築される以前には、呪文時代や古代の集落が営まれていたことも明らかになりました。」

交通手段
高速・路線バス 私鉄 徒歩
  • 城山(じょうやま)公園案内板<br /><br />早川城跡は「城山公園」となり地元住民の憩いの場となっています。

    城山(じょうやま)公園案内板

    早川城跡は「城山公園」となり地元住民の憩いの場となっています。

  • 早川城跡・案内板<br /><br />平成元年から平成6年にかけての発掘調査の結果、堀切・土塁・物見塚・郭等数多くの中世城郭関連遺構が発見されています。<br />

    早川城跡・案内板

    平成元年から平成6年にかけての発掘調査の結果、堀切・土塁・物見塚・郭等数多くの中世城郭関連遺構が発見されています。

  • 城山公園・入口広場<br /><br />手前の市役所側は平坦な台地でバスが通る幹線道路となっています。バス停を降りますと眼前には城山公園があります。

    城山公園・入口広場

    手前の市役所側は平坦な台地でバスが通る幹線道路となっています。バス停を降りますと眼前には城山公園があります。

  • 早川城・堀切<br /><br />広場から主郭に向かう途中に堀切が見えます。早川城は東西と南側は厳しい崖に囲まれていますが、北側は平坦部のため堀切と土塁を築き外敵の侵入を防御していました。

    早川城・堀切

    広場から主郭に向かう途中に堀切が見えます。早川城は東西と南側は厳しい崖に囲まれていますが、北側は平坦部のため堀切と土塁を築き外敵の侵入を防御していました。

  • 早川城跡・主郭跡<br /><br />広々とした公園となっていますが、往時を偲ばせる遺構は見出せません。

    早川城跡・主郭跡

    広々とした公園となっていますが、往時を偲ばせる遺構は見出せません。

  • 早川城・土塁<br /><br />所々に土塁が部分的に残っています。

    早川城・土塁

    所々に土塁が部分的に残っています。

  • 早川城・土塁

    早川城・土塁

  • 早川城・主郭跡

    早川城・主郭跡

  • 早川の谷<br /><br />城郭の南西側は段差12mの天然の要害となっています。

    早川の谷

    城郭の南西側は段差12mの天然の要害となっています。

  • 城郭虎口周辺<br /><br />

    城郭虎口周辺

  • 主郭展望<br /><br />主郭部から谷部へ降りる階段が長く急峻であることがわかります。<br />

    主郭展望

    主郭部から谷部へ降りる階段が長く急峻であることがわかります。

  • 早川城・主郭跡

    早川城・主郭跡

  • 物見塚<br /><br />早川城跡西側に「物見塚」と呼ばれる南北21m、東西23m、高さ2mの塚があり、城郭関連の遺構で外的敵侵入を見張るために戦国時代末期に作られた塚です。

    物見塚

    早川城跡西側に「物見塚」と呼ばれる南北21m、東西23m、高さ2mの塚があり、城郭関連の遺構で外的敵侵入を見張るために戦国時代末期に作られた塚です。

  • 「東郷氏祖先發跡地碑」<br /><br />渋谷氏分家が鎌倉時代後期に薩摩国北部に入り二男が東郷氏と名乗り、戦国時代には島津藩の重臣として藩主に仕えています。<br /><br /><br />

    「東郷氏祖先發跡地碑」

    渋谷氏分家が鎌倉時代後期に薩摩国北部に入り二男が東郷氏と名乗り、戦国時代には島津藩の重臣として藩主に仕えています。


  • 「東郷元帥祖先発祥之地」石碑<br /><br />明治時代における海軍元帥東郷平八郎は薩摩に下向し東郷と名乗った渋谷氏二男の実重を祖とする東郷氏の末裔にあたります。<br />

    「東郷元帥祖先発祥之地」石碑

    明治時代における海軍元帥東郷平八郎は薩摩に下向し東郷と名乗った渋谷氏二男の実重を祖とする東郷氏の末裔にあたります。

  • 児童遊園地<br /><br />急峻な主郭跡から階段で降りますと遊具広場が控えています。

    児童遊園地

    急峻な主郭跡から階段で降りますと遊具広場が控えています。

  • 城跡腰部<br /><br />城跡の中で数少ない遺構です。

    城跡腰部

    城跡の中で数少ない遺構です。

  • 出土した火舎片(かしゃへん)<br /><br />腰郭部に建造物があったことが確認され、その周辺から火舎(=火鉢)片が出土しており鎌倉時代後期から室町時代前期に作られたものだそうです。

    出土した火舎片(かしゃへん)

    腰郭部に建造物があったことが確認され、その周辺から火舎(=火鉢)片が出土しており鎌倉時代後期から室町時代前期に作られたものだそうです。

  • 土塁<br /><br />時間経過により左右の土塁が崩れてかすかに確認できるだけです。

    土塁

    時間経過により左右の土塁が崩れてかすかに確認できるだけです。

  • 早川城跡遠景<br /><br />城山公園を離れて南側の道路から城跡方向を一望します。こんもりとした雑木に覆われ、手前の広がった畑がのんびりとさせます。

    早川城跡遠景

    城山公園を離れて南側の道路から城跡方向を一望します。こんもりとした雑木に覆われ、手前の広がった畑がのんびりとさせます。

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