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二伝寺(にでんじ、神奈川県藤沢市渡内)は村岡城主、村岡良文(むらおか・よしぶみ)と息子忠光(ただみつ)、そして孫の忠通(ただみち)の三代について墓が配置されています。<br /><br />そもそも村岡良文の遠祖は桓武平氏で桓武天皇の曾孫にあたる高望王(たかもちおう、生没年不詳)が、昌泰元年(898)上総介(かずさのすけ)として任国上総に赴きこれにより桓武平氏の坂東進出が始まります。<br /><br />良文は高望王の第五子にあたり、武蔵守に任ぜられ武蔵、相模一帯に勢力を伸ばして良文の二男忠頼(ただより、930?~1019?)は武蔵平氏諸流の宗家である秩父氏の祖となり、ここから千葉、上総、畠山、長尾、大庭、梶原、土肥そして三浦など有力豪族が分流しその子孫がやがて鎌倉幕府創設にかかわってゆきます。<br /><br />しかしながら上記庶流が発展すればするほど嫡流家である村岡氏の存在が薄くなり平安時代末期にはすでに一族を統率する力もなく、地方の豪族としての立場となったようです。<br /><br /><br /><br />2022年8月19日追記<br /><br />境内に建立の「村岡五郎平良文公墓前碑」には次の如く説明があります。<br /><br />『良文公は桓武天皇の玄孫(五代目の子孫)にして仁和2年(886年)3月18日生まれ、延長元年(923年)3月母と共に東国に下り相模の国村岡郷渡内村に館を構え(今の村岡城址公園周辺)比叡山麓の日吉大社の祭神大山咋命を城砦の守護神に勧請し、(現在の日枝神社)天慶2年(939)鎮守府将軍従四位下陸奥守に任ぜられ、翌年の天慶3年、平将門征伐と国家安穏を祈願し、京の山城国の御霊宮の祭神平良親王(追善号崇道天皇)を同郷宮前村に勧請した(現在の御霊神社)と旧くより伝えられ、関東一円に強力なる努力を張った坂東八平氏(三浦・千葉・上総。大庭・畠山・長尾・梶原・土肥)の始祖として多くの荘園有し武威を関東に振るたり。その子孫は前九年の役、後三年の役の堂々たる武功、頼朝の鎌倉幕府創設に尽力する等、大いに繁栄せり。公の晩年は仔細は不詳なるも、天慶6年(952年)12月18日67歳を以て病没しこの地に葬る。右に二代忠光公、左に三代忠通公、之を村岡城御三代城主の墳墓なりと旧くより里人の口碑に伝えられている。<br /><br />  平成17年乙酉年   11月吉日<br />    <br />               村岡郷土史研究会    建立 』<br /><br /><br /><br /><br /><br />また当該寺院ホームページには下記の通り紹介されています。<br /><br />『 「歴史」<br /><br />平安中期九百年代、平良文が鎮守将軍として東下りし、鎌倉郡村岡郷に入り村岡城としました。これが村岡の歴史の始まりだと伝えられています。<br /><br /><二伝寺と村岡・玉縄の歴史><br /><br />村岡城は歴代城主など不明な点が数多くありますが、現在、城址公園が二伝寺の南西にあります。<br /><br />鎌倉幕府成立後の村岡は、鎌倉の北の入り口として交通の要所となりました。当時、二伝寺の前は鎌倉街道となっていた為、新田義貞の鎌倉攻めの時などは合戦場となったりもしています。<br /><br />二伝寺は開祖が北条(小田原)ですが、良文三代の塚や北条滅亡後の玉縄城主松平正次一族の墓があるなど、村岡・玉縄周辺の歴史に深く関わっていた事が窺われます。<br /><br /><br />「史跡」<br /><br />二伝寺の境内から裏山にかけて平安時代・戦国時代から江戸時代の史跡があります。<br /><br />本殿には、藤沢市指定重要文化財となる二尺八寸の木造聖観音坐像が安置されるなど、歴史を短に知ることができます。<br /><br /><500年を超える歴史が息づく><br /><br />二伝寺は、福原左衛門忠重が尽力して永正2年(1505年)に鎌倉光明寺九世正空(北条時国の子)が創建しました。開基は玉縄城主北条氏時(新編相模風土記稿)と伝えられています。<br /><br />二伝寺とは、大本山光明寺に伝わる「本山伝」が紛失した時に、写しの伝書があったので二伝寺となったと伝えられています。』

相模藤沢 桓武平氏の子孫で坂東八平氏の始祖村岡良文ら三代の居館跡に眠る墓所、戦国時代には小田原北条氏玉縄城主北条氏時開基の『二伝寺』散歩

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2012/10/25 - 2012/10/25

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滝山氏照

滝山氏照さん

二伝寺(にでんじ、神奈川県藤沢市渡内)は村岡城主、村岡良文(むらおか・よしぶみ)と息子忠光(ただみつ)、そして孫の忠通(ただみち)の三代について墓が配置されています。

そもそも村岡良文の遠祖は桓武平氏で桓武天皇の曾孫にあたる高望王(たかもちおう、生没年不詳)が、昌泰元年(898)上総介(かずさのすけ)として任国上総に赴きこれにより桓武平氏の坂東進出が始まります。

良文は高望王の第五子にあたり、武蔵守に任ぜられ武蔵、相模一帯に勢力を伸ばして良文の二男忠頼(ただより、930?~1019?)は武蔵平氏諸流の宗家である秩父氏の祖となり、ここから千葉、上総、畠山、長尾、大庭、梶原、土肥そして三浦など有力豪族が分流しその子孫がやがて鎌倉幕府創設にかかわってゆきます。

しかしながら上記庶流が発展すればするほど嫡流家である村岡氏の存在が薄くなり平安時代末期にはすでに一族を統率する力もなく、地方の豪族としての立場となったようです。



2022年8月19日追記

境内に建立の「村岡五郎平良文公墓前碑」には次の如く説明があります。

『良文公は桓武天皇の玄孫(五代目の子孫)にして仁和2年(886年)3月18日生まれ、延長元年(923年)3月母と共に東国に下り相模の国村岡郷渡内村に館を構え(今の村岡城址公園周辺)比叡山麓の日吉大社の祭神大山咋命を城砦の守護神に勧請し、(現在の日枝神社)天慶2年(939)鎮守府将軍従四位下陸奥守に任ぜられ、翌年の天慶3年、平将門征伐と国家安穏を祈願し、京の山城国の御霊宮の祭神平良親王(追善号崇道天皇)を同郷宮前村に勧請した(現在の御霊神社)と旧くより伝えられ、関東一円に強力なる努力を張った坂東八平氏(三浦・千葉・上総。大庭・畠山・長尾・梶原・土肥)の始祖として多くの荘園有し武威を関東に振るたり。その子孫は前九年の役、後三年の役の堂々たる武功、頼朝の鎌倉幕府創設に尽力する等、大いに繁栄せり。公の晩年は仔細は不詳なるも、天慶6年(952年)12月18日67歳を以て病没しこの地に葬る。右に二代忠光公、左に三代忠通公、之を村岡城御三代城主の墳墓なりと旧くより里人の口碑に伝えられている。

  平成17年乙酉年   11月吉日
    
               村岡郷土史研究会    建立 』





また当該寺院ホームページには下記の通り紹介されています。

『 「歴史」

平安中期九百年代、平良文が鎮守将軍として東下りし、鎌倉郡村岡郷に入り村岡城としました。これが村岡の歴史の始まりだと伝えられています。

<二伝寺と村岡・玉縄の歴史>

村岡城は歴代城主など不明な点が数多くありますが、現在、城址公園が二伝寺の南西にあります。

鎌倉幕府成立後の村岡は、鎌倉の北の入り口として交通の要所となりました。当時、二伝寺の前は鎌倉街道となっていた為、新田義貞の鎌倉攻めの時などは合戦場となったりもしています。

二伝寺は開祖が北条(小田原)ですが、良文三代の塚や北条滅亡後の玉縄城主松平正次一族の墓があるなど、村岡・玉縄周辺の歴史に深く関わっていた事が窺われます。


「史跡」

二伝寺の境内から裏山にかけて平安時代・戦国時代から江戸時代の史跡があります。

本殿には、藤沢市指定重要文化財となる二尺八寸の木造聖観音坐像が安置されるなど、歴史を短に知ることができます。

<500年を超える歴史が息づく>

二伝寺は、福原左衛門忠重が尽力して永正2年(1505年)に鎌倉光明寺九世正空(北条時国の子)が創建しました。開基は玉縄城主北条氏時(新編相模風土記稿)と伝えられています。

二伝寺とは、大本山光明寺に伝わる「本山伝」が紛失した時に、写しの伝書があったので二伝寺となったと伝えられています。』

交通手段
高速・路線バス JRローカル 徒歩
  • 二伝寺案内板<br /><br />歴史探索コースとして案内標識が立っています。

    二伝寺案内板

    歴史探索コースとして案内標識が立っています。

  • 二伝寺風景

    二伝寺風景

  • 村岡歴代城主墓案内<br /><br />村岡城主であった良文、忠光、忠通の三代の墓が紹介されています。

    村岡歴代城主墓案内

    村岡城主であった良文、忠光、忠通の三代の墓が紹介されています。

  • 村岡良文墓石碑<br /><br />平良文は坂東八平氏の祖で村岡城を居城として村岡五郎と名乗っていました。桓武平氏系図と共に村岡良文の略歴が刻されています。尚坂東八平氏とは三浦、千葉、上総、大庭、畠山、長尾、梶原そして土肥を指します。

    村岡良文墓石碑

    平良文は坂東八平氏の祖で村岡城を居城として村岡五郎と名乗っていました。桓武平氏系図と共に村岡良文の略歴が刻されています。尚坂東八平氏とは三浦、千葉、上総、大庭、畠山、長尾、梶原そして土肥を指します。

  • 村岡三代墓地<br /><br />左から村岡忠通、良文、忠光の順で三代の墓が配置されています。

    村岡三代墓地

    左から村岡忠通、良文、忠光の順で三代の墓が配置されています。

  • 村岡氏三代の墓地<br /><br />一番右側が忠光の墓となっています。

    村岡氏三代の墓地

    一番右側が忠光の墓となっています。

  • 村岡良文墓

    村岡良文墓

  • 村岡忠通墓<br /><br />忠通は良文の孫で子供の為通は三浦氏、景通は梶原氏、景成は長江・香川、景村は大庭・長尾のそれぞれの祖となって平安末期から次第にその勢力を拡大しやがて鎌倉時代には活躍します。

    村岡忠通墓

    忠通は良文の孫で子供の為通は三浦氏、景通は梶原氏、景成は長江・香川、景村は大庭・長尾のそれぞれの祖となって平安末期から次第にその勢力を拡大しやがて鎌倉時代には活躍します。

  • 村岡忠光墓

    村岡忠光墓

  • 二伝寺本堂

    二伝寺本堂

  • 木造観音座像案内板<br /><br />製作は14世紀の鎌倉時代末期で藤沢市指定重要文化財となっています。

    木造観音座像案内板

    製作は14世紀の鎌倉時代末期で藤沢市指定重要文化財となっています。

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