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高遠町(たかとおまち)は、長野県中部の上伊那郡に属した町。サクラの名所として全国的に有名。高遠藩の城下町であった。<br />2006年(平成18年)3月31日 伊那市、長谷村と合併し、新『伊那市』として発足。117年の歴史に幕を閉じた。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)<br /><br />絵島(えじま、天和元年(1681年) - 寛保元年4月10日(1741年5月24日))は、旗本・白井平右衛門の娘で、江戸時代中期の江戸城大奥御年寄である。名前は「江島」が正しいとされている。歌舞伎役者・生島新五郎とともに大奥につとめる多数が処罰された風紀粛正事件、江島生島事件の中心人物である。<br /><br />三河国に生まれ、江戸で育つ。実父・疋田彦四郎(甲府藩士)の死後に母が再婚したため、平右衛門の養女となる。彼女は最初、尾張徳川家に仕えた。次いで甲府徳川家の桜田御殿に仕え、藩主・徳川綱豊が6代将軍・家宣になるとともに大奥入りする。<br />家宣の側室で7代将軍・家継の生母であるお喜世の方(後の月光院)に仕え、その月光院の右腕とも言われていた。正徳4年(1714年)、月光院の名代として前将軍・家宣の墓参りのため奥女中の宮路らと共に寛永寺、増上寺へ参詣。その帰路の途中、木挽町(現在の東京都中央区東銀座界隈、歌舞伎座周辺)の芝居小屋・山村座に立ち寄り、帰城が遅れた。その門限に間に合わなかった咎で評定所の審理を受ける。山村座の役者であった生島新五郎との密会を疑われ、死罪を減じての島流し処分と裁決が下りたが月光院が減刑を嘆願したため、結局は信濃高遠藩(現在の長野県伊那市高遠町)へ流された。<br />絵島は屋敷に幽閉され、朝夕二度、一汁一菜の食事を摂り、酒、菓子類を口にすることを禁じられ、着用する衣服も木綿のもののみと定められた生活のなか、お経などを読んで時を過ごした、ともいう。しかし、大奥在籍のころから信仰していた日蓮宗の蓮華寺に行くことは許された。ただ、大奥の事を一切口にしなかったほどの清廉な姿勢が後に高遠藩の藩主に一目置かれるようになったという。そして27年間の幽閉(閑居)生活の後、寛保元年(1741年)に風邪をひいて全身がむくみはじめ、それが元になって死去した。墓所は高遠の蓮華寺にある。法名は「信敬院妙立日如大姉」。<br />現在では高遠城址公園に隣接した伊那市立高遠町歴史博物館の敷地に、絵島が幽閉された建物が復元され絵島囲み屋敷として公開されている。それは一見、普通の屋敷や家屋のようにも見えなくないが、庭に面した格子戸は「はめ殺し」で開けられず出入りできず、唯一の出入り口の脇には詰所が設けられ監視人が配置され、板塀の上には二重の忍び返しがあり、外部の世界と完全に遮断。つまり屋敷は実質的には監獄であった。また、手紙のやりとりも出来なかったという。<br />しかし徳川吉宗が8代将軍となり、享保7年(1722年)に高遠藩主内藤頼卿が江戸家老の野木多宮に絵島の赦免嘆願書を届けさせ、翌年月番老中安藤信友から内藤家の江戸藩邸に「非公式ながらこれを許可する」という達しがあった。そのため絵島は高遠城内での起居は比較的自由になり、囲い屋敷の周囲の散歩は認められた。藩主や内藤蔵人の好意で、月に何度かは城に出てきて、城に勤める女性たちの躾の指導をしていた。<br />(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)<br /><br />絵島囲み屋敷については・・<br />http://inashi-kankoukyoukai.jp/cms2/archives/1466<br />http://www.mapbinder.com/Map/Japan/Nagano/InaShi/Ejima/Ejima.html<br />http://www.genbu.gr.jp/genhp/files/kasou/topic/ezima/ezima.html<br />

高遠c 絵島囲み屋敷 (復元・特別開放中) 見学 ☆美しき流人 大奥から幽閉され

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2013/04/16 - 2013/04/16

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マキタン2

マキタン2さん

高遠町(たかとおまち)は、長野県中部の上伊那郡に属した町。サクラの名所として全国的に有名。高遠藩の城下町であった。
2006年(平成18年)3月31日 伊那市、長谷村と合併し、新『伊那市』として発足。117年の歴史に幕を閉じた。(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)

絵島(えじま、天和元年(1681年) - 寛保元年4月10日(1741年5月24日))は、旗本・白井平右衛門の娘で、江戸時代中期の江戸城大奥御年寄である。名前は「江島」が正しいとされている。歌舞伎役者・生島新五郎とともに大奥につとめる多数が処罰された風紀粛正事件、江島生島事件の中心人物である。

三河国に生まれ、江戸で育つ。実父・疋田彦四郎(甲府藩士)の死後に母が再婚したため、平右衛門の養女となる。彼女は最初、尾張徳川家に仕えた。次いで甲府徳川家の桜田御殿に仕え、藩主・徳川綱豊が6代将軍・家宣になるとともに大奥入りする。
家宣の側室で7代将軍・家継の生母であるお喜世の方(後の月光院)に仕え、その月光院の右腕とも言われていた。正徳4年(1714年)、月光院の名代として前将軍・家宣の墓参りのため奥女中の宮路らと共に寛永寺、増上寺へ参詣。その帰路の途中、木挽町(現在の東京都中央区東銀座界隈、歌舞伎座周辺)の芝居小屋・山村座に立ち寄り、帰城が遅れた。その門限に間に合わなかった咎で評定所の審理を受ける。山村座の役者であった生島新五郎との密会を疑われ、死罪を減じての島流し処分と裁決が下りたが月光院が減刑を嘆願したため、結局は信濃高遠藩(現在の長野県伊那市高遠町)へ流された。
絵島は屋敷に幽閉され、朝夕二度、一汁一菜の食事を摂り、酒、菓子類を口にすることを禁じられ、着用する衣服も木綿のもののみと定められた生活のなか、お経などを読んで時を過ごした、ともいう。しかし、大奥在籍のころから信仰していた日蓮宗の蓮華寺に行くことは許された。ただ、大奥の事を一切口にしなかったほどの清廉な姿勢が後に高遠藩の藩主に一目置かれるようになったという。そして27年間の幽閉(閑居)生活の後、寛保元年(1741年)に風邪をひいて全身がむくみはじめ、それが元になって死去した。墓所は高遠の蓮華寺にある。法名は「信敬院妙立日如大姉」。
現在では高遠城址公園に隣接した伊那市立高遠町歴史博物館の敷地に、絵島が幽閉された建物が復元され絵島囲み屋敷として公開されている。それは一見、普通の屋敷や家屋のようにも見えなくないが、庭に面した格子戸は「はめ殺し」で開けられず出入りできず、唯一の出入り口の脇には詰所が設けられ監視人が配置され、板塀の上には二重の忍び返しがあり、外部の世界と完全に遮断。つまり屋敷は実質的には監獄であった。また、手紙のやりとりも出来なかったという。
しかし徳川吉宗が8代将軍となり、享保7年(1722年)に高遠藩主内藤頼卿が江戸家老の野木多宮に絵島の赦免嘆願書を届けさせ、翌年月番老中安藤信友から内藤家の江戸藩邸に「非公式ながらこれを許可する」という達しがあった。そのため絵島は高遠城内での起居は比較的自由になり、囲い屋敷の周囲の散歩は認められた。藩主や内藤蔵人の好意で、月に何度かは城に出てきて、城に勤める女性たちの躾の指導をしていた。
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より引用)

絵島囲み屋敷については・・
http://inashi-kankoukyoukai.jp/cms2/archives/1466
http://www.mapbinder.com/Map/Japan/Nagano/InaShi/Ejima/Ejima.html
http://www.genbu.gr.jp/genhp/files/kasou/topic/ezima/ezima.html

旅行の満足度
4.0
観光
4.0
交通
4.0
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円 - 3万円
交通手段
観光バス
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)
利用旅行会社
阪急交通社

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