2013/02/11 - 2013/02/15
406位(同エリア581件中)
明石DSさん
部屋の窓から写した写真
四方の風景もこんな感じ
これじゃあ分らないはずだ
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2013/平成25年2月12日(火)
■小背包民宿(しゃおべいばおみんす)の朝
金門島の朝が明けた。6時半ごろ起床し、昨日は夜に空港から周囲に何もない一軒家?うら寂しい“小背包民宿”に迷った挙句に辿り着き、まったく周囲の状況が分らないまま朝を迎えた。窓から外を見たら窓の外には「これじゃあ迷うのも無理はない」という雑木林の風景が広がっていた。
日本での天気予報は降水確率の高い「曇り時々雨」の予報が続いていたが、雨はなくひとまずラッキーだった。この民宿は朝食付き。7時半からなので、ひとまず外に散策に出る。我金門島に来る。地図を頭に浮かべれば、ここはすぐ対岸が厦門、大陸中国にへばりついた場所にある島だ。
地政学的に考えても、この島を今も台湾が統治し続けていることが奇跡としか思えない。台湾の日本統治は台湾本島と澎湖諸島であり、この金門島も馬祖島も含まれていない。しかし根本博中将が作戦指導した1949年:昭和24年の古寧頭の戦いによって国府軍がこの島を死守し、その後も台湾が実効支配を続けている。
一体、この島の島民の感覚は、台湾人なのか?それとも中国人なのか?中華民国人なのか?少し想像するだけでも何もが複雑だ。大陸支那が今や台湾を凌駕する軍事大国となり、経済的にも台湾を飲み込もうとするこれから「台湾・金門島」の運命やいかに。
昨日の朝は西明石の我が家で目を覚まし、リュックを担いで快速に乗り、リムジンバスで関空、そして台北〜金門島。一夜空けた今朝7時、金門島を散歩する自分にいつも旅の驚きがある。ホンマかいなと。そういえば西明石ではない。風景も違う。気温も違う。
民宿を出て朝の散歩は、まず民宿の位置関係を知ることから始まる。民宿の場所は、地図では北に国立金門大学があり西南方向に歩けば、金門縣政府がある金門島最大の町「金城」から近い。まず町の方向に向かって歩いた。この島の経済が何で成り立っているのか知らないが、この民宿周辺もそうだが、島全体を巡っても瀟洒な家が多かった。
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小背包民宿の玄関
民宿の建物は新しいけど -
見事に雑木林の中に建っている
でも周囲は建築中の建物が多くあり
一年後は民宿周辺の景色も一変するだろう -
?民宿の西横傍にある「金城供水站」
これが民宿に戻る目印となった
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■金門島、朝の散歩
島滞在中に感じたのは大陸支那とは似ている雰囲気もあるが、町外れの風景は違った感じも多い。なかでも道路は大小金門島内は日本と変わらず整備されていた。高粱畑が広がる農村風景もあるが、全体的に生活水準の高さを感じた。島内の車は8割以上日本車であり、それも日本と変わらず新しい車が多い。もちろんAT車。
金門島は台湾本島から約250キロ。大陸の厦門からは6キロ。対岸の厦門はどうなのだろう?台湾統治の「金門島」と中共政府下の「厦門」は、1949年古寧頭の戦いが終わるまで、その両島で暮らす人たちは、一つの国に属し同じ文化を共有する親戚縁者も当然いるだろうお隣さんさんたちだ。それが台湾統治・共産党統治と分断された。
それ以後の64年間で、両島の街の雰囲気もそうだが、住民の態度や、住民の言動を比較するのも面白いだろう。日本に対しては「厦門」反日・「金門島」親日なのだろうか?そういったことも含めて、今から思えば、もう少しここで滞在し、厦門も行っておきたかった。今更仕方が無いので次に機会あれば厦門と金門島と両方行って雰囲気を比べてみたい。
今、金門島にいる不思議を思いながら、民宿の周囲を歩いた。民宿の隣に「金城供水站」という青いタンクの給水塔があり、滞在中はこれが民宿に戻る時の目印になった。瀟洒な家並みや新しい日本車がマイカーとして停まっている風景を見ながら歩いた。迷彩服を着た若い軍人が、そこかしこ歩いているのも普通に見かけるのが金門島だった。 -
こういった瀟洒な家並みが多い
あんまりボロ家は見掛けなかったけど -
信仰心が熱いのか?
小さな祠の廟も綺麗に整えられ
蝋燭が灯り、お花が飾られお供えがあった
こんな祠があることだけでもホッとする -
金城市内はすぐそこだ
ここは金城市内から北北東にあたる
歩いて15分ほどで中心部に行ける -
アチコチに駐屯地はあるようだけど
警備兵が門に立っているような基地は見なかった
台北・金門島を訪ねる(三)"背包民宿"の周辺
http://youtu.be/JHoiuzT3Q7M -
金門島初めての食事
玉子雑炊風お粥、朝はこれが一番
美味しかった
それとパンもくれた
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■朝食を食べて
8時前に民宿に戻ったら一階フロントロビーに女性の服務員:Sさん(仮名)がいた。Sさんは独身で弟さんがマカオにいる。今年、友達を訪ねて一人で大阪・京都を旅する予定だと言っていた。朝食付きなので頼んだら早速作ってくれた。お粥というより「玉子雑炊」という感じだったが美味しかった。あとからパンも追加でくれた。
Sさんに今日の予定を聞かれ『今から“水頭碼頭”からフェリーで「小金門島」に渡って、タクシーを包車(貸切)して午前中観光し、昼前に大金門島に戻って、昼からまたタクシーを包車して今度は大金門島を見て回る』と話した。
それなら・・・と、Sさんが“水頭碼頭”まで車で送ってくれ小金門に着いたらタクシーが迎えに来るよう、その場で電話で手配してくれた。そしてメモ用紙にタクシーのナンバー「587−EQ」を書いてくれた。料金は、「行きたい場所の数」もあるので「向こうで直接タクシーの運転手と交渉して下さい」ということになった。
この民宿は旅行社も兼ねているかのように空港への送迎や“水頭碼頭”までの送迎も¥200元でしてくれる。その日の予定を聞いてくれたり、スタッフは少ないけどみんな親切だった。自転車の貸し出しもある。 -
小背包民宿のフロント
小さな民宿だけど、泊まり心地は良かった
文句はないけど
でも、もう一度金門島に来る機会があれば
多分、金城の市内中心にあるホテルに泊まる -
?旅行前に写真でよく見ていた水頭埠頭の
観光センター(旅客服務中心)ビルが目の前に
http://www.tabitabi-taipei.com/youyou/201001/port.php
来て!見て!初めて分る!
「ふ〜ん、こんなところにあるんやなァ〜」と
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■“水頭碼頭”(Shuǐtóu mǎtóu シュイトウマァトウ)
8時半のフェリーに乗れるようにSさんに送ってもらった。小金門島へ渡るフェリーの切符売り場は、厦門行きの切符を買う7階建ての観光センター(旅客服務中心)ではなく、埠頭の先っぽにある。大金門島⇔小金門島は、午前7時から30分ごとに出ている。そんなに頻繁に出ていて乗客はどれほどいるのか?採算はどうなのか?心配になるが、今は春節なので乗客は多かった。
たった10分の渡し舟だが、そこそこ大きな「仙洲號」と言う名前のフェリーに乗船した。岸壁から船が離れると大金門島の火力発電所が見える。船は金列水道を10分足らずで横切り小金門島の九宮碼頭(Jiǔgōng mǎtóu ジィヨゴンマァトウ)に接岸。昨日の朝は西明石の自宅、20数時間後の今、小金門島(烈嶼郷)に無事来る。ホンマ旅は楽しからずや・・・。 -
金門島で三泊して厦門に行けば良かった・・・と
ここに来て思った。折角の機会だったのに
金門島と厦門の人間も含めて雰囲気の違いを感じたかった
自由主義陣営と共産主義陣営との違いや如何に?
親日と反日の違いはあるのか?感じるのか? -
この埠頭の先に小金門島行きの切符売り場がある
料金は片道60元(180円)
金門島は小豆島と同じくらい
小金門島はごく小さい島なのに
フェリーは30分おきに往復している
そんなに乗降客が多いのか?
http://www.kma.gov.tw/new_page_227.htm -
仙洲號
なかなかカッコ良い名前のフェリー
往復ともこれに乗船 -
春節休暇中だから乗船客もそこそこなのか?
いつもこれくらいなのか?
乗船客は、少ないといえば少ないけど
もっと少ないのかと思っていた -
岸壁を離れる仙洲號
デジカメ写真の時刻表示が
現在時間より2時間遅くなっている
只今の時刻:午前8時31分です -
大金門島の火力発電所を写す
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さあ烈嶼郷に上陸だ!
良くぞ台湾が今も実効支配をしている
尖閣も一日も早く自衛隊を常駐させ
島嶼防衛の確固たる意思を世界に示さないと
今のようにつまらぬ問題を生じさせる
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■小金門島(烈嶼郷)
「587−EQ」のタクシーが待ってくれているのか?
とタラップを上りきったら、向こうで私の方を見て笑顔で手を振る“運ちゃん”が目に入った。何の心配も要らず。
台湾旅行は、なかなか気分が良いもんだと。座って希望の行き先を伝え、料金を聞いたら「500元」ということだった。一時間半の小金門包車の相場だったので即OK。
運転手のCさんは、1951年生まれの私より1歳下。息子一人、娘二人、孫四人。アメリカ・日本は3回・上海等々海外旅行が趣味。今は奥さんと息子夫婦と孫三人で一緒に小金門島で暮らしている見るからに幸せ家族のようだった。長男はこのフェリー会社に勤務し船に乗っているそうだ。
中国のタクシードライバーとちょっと話の内容が違う。中国の“運ちゃん”で「海外旅行が趣味」なんて一度も聞いたことがない。それにこっちはAT車、日本車が多いし車の程度も違う。向こうのタクシーはまだMT車で大概ボロイ。 -
乗船客は何をしにこの島に?
観光客もいるのだろうが、団体ツアーらしきはいなかった -
「587−EQ」
色も鮮やかな黄色のタクシー
トヨタカローラ1800cc
満面の笑顔で手を振ってくれた
すぐ分った、ハハハ -
道中「中華民国万歳」の碑が目に入った
目と鼻の先の中共軍と対峙している
最前線基地でもある烈嶼郷、将来や如何に?
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■「八二三砲戦勝利紀念」の碑
まず最初に行ったのは、交差点の真ん中に砲弾の形をした「八二三砲戦勝利紀念」の碑。「八二三砲戦勝利」というのは、1958年8月23日から10月5日まで、中共が金門島奪還のために砲撃を行った戦いだ。
『戦闘開始2時間で4万発、1日では5万7千発のも砲弾が使用された。攻撃目標としては中央指揮所、観測所、交通機関や砲兵陣地であり440余名の死傷者を中華民国側に発生させた。』とされている。
米国の関与もあり、中共軍の侵攻ならずだったが、その後も定期的な砲撃は「21年間」の長きにわたり、1979年:米中国交の樹立以後砲撃はなくなり現在に至っている。砲弾の破片が包丁などの金物の材料となり、金門島土産にもなっているそうだ。
根本博中将が金門島の戦いに参画し、勝利の後に台北に引揚げたのは、1949年:昭和24年10月30日午後。それはこの砲戦の9年前のことになる。 -
アーチ型「勝利門」の前にある
「八二三砲戦勝利紀念」の碑
巨大な大陸から見れば、この二つの小さな島は
まさに「喉元に刺さった小さな棘(トゲ)」であり
棘を抜きたいのは誰しも当然だ
敵からみれば、うっとうしいことこれ以上ないだろうハハハ! -
?何故?ここに抗日七戦士が?
古寧頭戦役での英雄の方が相応しいと思うが
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■東林を経て「八達樓子(Bā dá lóu zi バァタァロゥズ)」。
交差点の中央に立つ「八達樓子」の屋上に周囲を威嚇するかのように戦闘態勢で七人の兵士の彫像がある。実は何を隠そう、この七人は小金門島とはまったく関係ない。
1931年に柳条湖事件を機に始まった満州事変の終盤1933年、日本軍の熱河作戦で関東軍と戦い、持ち場を死守して3月13日古北口(承徳から西へ直線距離で70キロほど:赤塚不二夫の出生地)で戦死した国民党軍の英雄とされている七人。
支那のネットでは、敵として戦った日本軍が七人の英雄的行為を称え「支那の七勇士」と書いた墓碑を立てたと書かれているものもある。その真偽は不明で日本の資料:ネット検索では七人のことは見つからない。
1933年:昭和8年1月の「山海関事件」から「熱河作戦」等を経て、1933年5月31日、日本と支那の間に塘沽協定(たんくーきょうてい)が結ばれ満州事変の軍事的衝突は停止された。
ここの八達樓子は台湾が未だ戒厳令下の1966年:昭和41年に建てられたそうだが、その当時はまだ中共側からの砲撃も定期的にあったようだし、まだ侵攻の脅威もあるなか士気高揚の意味もあったのだろう。でも大陸支那と砲戦期間中に抗日戦士を英雄としてここに称える意味は何なのか?台湾の複雑さの証なのか。
私はこの時、八達樓子の予備知識もなく、1949年の中共軍侵攻時か1958年からの砲撃戦に関しての物だろうと思いながら「見て」「登って」「写真を撮って」であった。戦跡巡りのモニュメントとしての価値はあるだろうけど、ここは小金門。古寧頭戦役での勇士もいたはずだろうに、何で古北口の七戦士をと思う。この樓を中心に四方に立派な道が伸びていた。 -
戦意高揚モニュメントとしては面白い
要塞島、烈嶼郷ならではの風景だ -
この八達樓子は島の中心部にあり
東西南北に道が延びている -
四方に標語が掲げられている
「獨立作戰」「自立更生」「堅持到底」「必勝必成」
2010年改修の時「死裡求生」が改められ「必勝必成」となる
「死裡求生」・・「生きるために死ぬ」・・・か、なるほど
山口多聞海軍中将
『人間、死ぬか生きるかの瀬戸際に立って、
判断に迷うような時には、
まっしぐらに死に突っこむことだ』
敵にとってこの戦法こそ脅威なり
これぞ活路を開く戦法なり -
?烈嶼郷役場
小さい島なのに、何故か?豊かに見える
観光で潤っているのか?
軍事都市としての交付金なのか?
それとも他に何か金づるが?
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■李将軍廟と上林海岸
八達樓子の交差点を左に曲がり烈嶼郷公所(役所)の前を通り(八青路)青岐(Qingqi)方向に走る。陵水湖、高粱畑が広がる風景を見ながら、烈女廟の前を走り抜け上林村にある李将軍廟を見て、それからその前の上林海岸の砂花を歩いた。
李将軍というのは誰なのか?
『李将軍とは、清朝時代の李光顕将軍ではなく、また中華民国の李光前将軍でもありません。その来歴はすでに忘れ去られましたが、明朝時代の烈嶼島にすでにこの廟が存在したそうです。』とのことのようであり古寧頭戦役の英雄「李光前将軍:享年32歳」ではない。
この砂浜から目の前に厦門の高層ビル群が靄の中、うすぼんやりと並び立っていた。天気が良ければさぞや壮観な景色だろう。この一見のんびりとし、台湾本島から離れた小島「烈嶼郷」から見れば、対岸のビル林立には発展した近代都市が手に取るように感じられる。でも小金門島の住民たちに羨ましさはないような気がする。
特に私は大陸支那に何度も行っているので近代都市のすぐ横で浮浪者が物乞いをし、富裕層は貧者を見下し、富める一部と貧困の多数が雑居し殺伐とした雰囲気がある。でもまだ着いたばかりだが、大・小金門島の家々は概ね瀟洒であり貧困の街並みも貧者も今の所見かけない。そして金門島の人たちの言動態度も大陸支那人と違ってゆったりとした余裕を感じる。
その砂浜の海岸沿いには今もずらっと支那共産軍の上陸を阻止する杭が並んでいた。
この杭は、抜粋:『海中の太く黒い棒状の物は、「軌條砦」と言い、国民党と共産党が対峙していた頃、共産党軍が上陸してこないようにするため、レールを棒状に切り、コンクリートで海上に固定して防衛柵を作り、敵の船が接岸できないようにしたものです。』
軌條砦(Guǐ tiáo zhài グイティヤオジャイ:きじょうとりで)は、人民解放軍を阻むのは無論だが、私の勝手な私見では、これは共産主義独裁体制への絶対の拒絶を示しているのだ。蒋介石の人物評価は難しいが、最後まで共産主義を嫌悪し阻んだことは最大限評価する。 -
李将軍廟
李将軍といっても来歴不明の将軍のようだ
李将軍という名前がやたらに多いのは何で? -
海岸から厦門を見ると陽炎のように高層ビル林立の風景が
軌條砦が今も敵の上陸を防いでいる -
折角の砂浜も眼前に狂気の敵がいる限り
この風景も致し方なし
共産党:中共政府は人類の敵に他ならず
どうしようもない下らぬ国が出来てしまったものだ
暴動勃発によって一日も早く内部崩壊することを願う
台北・金門島を訪ねる(四)小金門島.No.1
http://youtu.be/jOovNSmdeaE -
道沿いに米軍戦車が展示されている
ここは今でも共産軍と対峙する最前線だ
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■湖井頭戦史館(Hú jǐngtóu zhànshǐ guǎn フゥジントウジャンシーグアン)へ
杭が並び立ち人っ子一人いない物寂しい浜辺に別れを告げ、車は南環道(車轍道)を北に湖井頭戦史館へと向かった。南環道沿いには「金門の熊」ではないが戦車が何台も展示してあった。
私が金門島に来たのは、根本博中将が湯恩伯(とうおんはく Tāng'ēnbó タンユエンボゥ)の参謀として1949年の古寧頭戦役に参加し、共産軍の侵攻を大金門島で食い止めたことによる。その時、この小金門島には共産軍の上陸はなく戦場にはなっていない。それは何故なのか?「この命、義に捧ぐ」門田隆将(著)186頁にその理由が以下のごとく書かれている。
『共産軍は金門島のほかの方面への上陸を企図しなかった。共産軍の兵力は優勢だ。他方面への上陸も不可能ではないはずなのに、共産軍はなぜやらないのか。おそらく第一回の上陸作戦で多数のジャンクを焼かれたため、ジャンクの徴集が間に合わなくなって「計画が狂った」ことが想像された』・・・とある。
根本は湯恩伯に(150頁)『「総司令部を厦門から小金門島に移す』ことを進言した。小金門島とは、厦門と金門の真ん中に浮かぶ面積15平方キロに過ぎない小島。だが足場がいいため、両島への連絡や補給には最も適している。』・・・そんなことで根本博中将はこの小金門島での現地検討を頻繁に行っていた。
湖井頭戦史館は、まだ大陸と緊張状態の時は、ここは観測所であり播音站(Bòyīn zhàn ブゥインジャン 大陸に向けてプロパガンダ放送をする場所)だったそうだ。展示内容も“八二三砲戦”と、それ以降の今に繋がる金門島防衛の状況、蛙人(Wā rén ワーレン あじん:フロッグマン)部隊訓練風景等の紹介があった。
小説:「金門島流離譚」船戸与一(著)によれば、この蛙人部隊は、ゲリラ部隊として泳いで海を渡り人民解放軍の歩哨を殺害したりもしたそうだ。古寧頭戦役後、そして“八二三砲戦”以降も砲戦は続き両岸は戦争継続中だったのだから充分ありえる話だろう。
観測所の小窓から厦門の山並みや高層ビルが霞の中に浮かんでいた。「天気が良ければ・・・」と思うがそればかりは日頃の行いのせいなのか?致し方がない。大小金門島は要塞島でもあり、蒋介石の大陸への侵攻拠点でもあり、逆に大陸からの侵攻を何が何でもこの島で防ぐという確固たる意思が凝縮した鋼の島だ。しかしながら今後の台中関係は如何に?経済的に大陸に飲み込まれることを危惧する。
この観測所の窓から敵側を覗いているだけで、何故か敵を意識し気持ちは高ぶる(笑)。ここにも“テレサ・テン”が慰問に来たのか、写真の展示があった。私もファンだから、歌は無論だけど人柄・雰囲気を含めて今も台湾の人たちに慕われているのが良くわかる。この湖井頭戦史館の隣は今も軍隊が駐屯していた。 -
観測所であり、敵側へのプロパガンダ放送局
互いに宣伝合戦があったのだろう
その遣り取りを聞いてみたいけど
観光用にでも再現して欲しい -
ここにも沢山の観光客が
対岸の支那人もきっと多いのだろう -
目の前大陸のこの小さな島が
今も台湾が統治していることを
日本人の何人が知っているのだろう?
ちなみに私が知ったのは去年 -
大砲撃ち合っていたときはこの場も恐怖だったろう
この小窓から覗けば厦門が見える -
これは九宮坑道の映像を写した写真
晴れてたら対岸、厦門がこんな風に見える -
この写真でははっきり分らないけど
霞の中に上の映像写真と同じように
左側の山も高層ビルが並んでいるのも見えた -
“テレサ・テン”は外省人だが
「愛國藝人」と呼ばれる台湾の英雄 -
ここにも砲弾の陳列が
砲弾の鋼で作る包丁が特産品 -
湖井頭戦史館入り口を背中にして写真を撮る
前方に広がる景色はこんな風景です
左隣は軍隊が駐屯している
背伸びして覗いたら訓練中のようだった -
?全長790m、最大幅15m、高さ11.5m
大金門島の翟山坑道の倍の大きさ
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■九宮坑道へ
湖井頭戦史館から八達樓子を経て九宮碼頭傍の九宮坑道が「小金門」最後の見学地となった。タクシー包車「500元、1時間半コース」の定番コースのようだが、ほぼその通りの時間で戻って来た。
九宮坑道の入り口で私を下ろし、Cさんが一片の紙切れに「四維坑道→九宮碼頭往走出口左轉坐船、謝謝光臨」とボールペンで書いて渡してくれた。最初は「???」と思ったが、すぐに理解できた。ようするにこの坑道を見学して出口に出れば、そこから左側にフェリー乗り場があるから、ここで終了ということだった。「謝謝!再見!」と、そこでCさんと別れた。
今回の金門島への旅は、昨年12月からの家内の病気入院で一端諦めた。でも退院が思ったより早く即予定を組んでの旅となって準備も出来なかった。だから「飛び込み旅行」と言う感じで帰国してから行った場所を調べこの旅行記を記している。行きたい場所が結構抜けているのが帰国後分ったが仕方がない。
この九宮坑道は説明では『1960年代に、人員や物資を輸送するために掘られました。全長790m、最大幅15m、高さ11.5mです。』 大金門島の翟山(てきざん)坑道の全長:357メートルに比べて倍くらいの大きさらしい。
こういった地下坑道:要塞を見て思うのは、戦争に費やすエネルギーの凄さだ。国家の存亡を賭しての武力衝突で敗れたら、敗者は即座に「国家の滅亡」を意味する。生存を賭しての戦いのためにはありとあらゆる手段方法を用いて勝利を目指す。
その土木工事たるや半端ではなく、工期も方法も限られるなかで最善を尽くす。負ければ死。まことに生死をかけた戦いにおいては、これだけのことを人間は出来る。今は観光の対象でしかない坑道だが、そのとてつもなく硬い花崗岩の壁を手でなぞるだけでその苦労が分る。
満洲の満ソ国境に残る関東軍が作った要塞跡もそうだ。あの辺境の地にあれだけの土木建設工事を莫大な費用と人海戦術で営々と行いソ連軍侵攻に備えた。しかしながらいざその時に、武器も兵力も残されていなく有効活用出来ぬまま無念にも敗れ去った。大いなる無駄と言われるだろうが無駄とは言えない、負けることは国を亡くし死ぬことだから。
なら「戦争をするな」・・・か。まあそうだが、それは少年少女が語る理想でしかない。人殺しが趣味以外の普通の人間は誰だって自分が戦争の当事者になりたくない。戦争は嫌だ。しかし相手がいるから、戦わざるを得ない時がある。それが人間社会の掟であり、否応ない現実世界だ。いくら戦争から目を背けても相手がいることだ。敵となった相手が攻めてくれば戦わないと国土を奪われ奴隷になるか殺されるかの二者択一となる。
奴隷の程度にもよるが、たしかにそれを受け入れている国も人間も世界にはどの時代も沢山ある。敗戦後の日本もそうだ。自ら牙を抜き戦いを放棄し自国に米軍基地の駐屯を頼み安全を委ねている。そんな現状でも日本人の多くは独立国家との思いだろうが、私の認識では戦後の日本は奴隷の範疇に入る。日本国、日本人の劣化はすべてここに原点があると私自身は確信している。
九宮坑道の一画に展示場があったので入った。その受付の女性が館内の展示内容の説明をしてくれるようだ。その時、たまたま入場者が私一人で日本人だと分るとビデオ映像を日本語に切り換えてくれた。そして出口に向かったらさっき別れたタクシー運転手のCさんが待っていてくれた。入り口で別れたが、私が迷わないかとの心配で来てくれたようだった。その心遣いが嬉しかった。
九宮坑道出口から大金門島の全貌が見えた。Cさんに「謝謝!再見!」と再び別れてフェリー乗り場と反対方向に展望台があったので見に行こうと歩いて行った。そしたらまた親切にもフェリー乗り場で客待ちのタクシー運転手の“おっちゃん”が、私が道に迷っているのかと勘違いしたのか、わざわざ歩いて来て「乗り場はこっちだ」と教えに来てくれた。烈嶼郷の人はみんな親切だった。
そして、小金門島から再び来た時と同じフェリー「仙洲號」に乗船(60元)して午前11時頃、2時間半くらいの滞在を終えて九宮碼頭の岸壁から離れた。 -
「無用の長物」とはいえず
これぞ民族の誇りと名誉を守った代物なり
後世に先人たちの気概と覚悟を伝え遺す -
幾ら砲弾が飛び交おうとも
この坑道はびくともしない
備えあれば憂いなし -
九宮坑道内の展示館
日本語解説のビデオ映像もある
親切に私一人のために切り替えて放映してくれた -
九宮坑道の出入り口は大金門島方向にある
出入り口から大金門島が一望できる -
九宮埠頭:船着場
2時間半前にタクシーに乗った場所に戻って来た
たった2時間半の滞在だったがここに来れて良かった
地球儀を見れば生涯に自分が立ち寄れる場所なんて
自らの選択とはいえ、奇跡的遭遇のようなものだ -
仙洲號・・・が迎えに来る
名前といい、色合いといい、何か親しみを感じる
長生きしろよ、仙洲號!
台北・金門島を訪ねる(五)小金門島No.2
http://youtu.be/uUoLGIuRXk4 -
この右手の建物内に売店と食堂があった
そこに入って昼食をとる
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■大金門島“水頭碼頭”で昼食
午前11時10分、大金門島の“水頭碼頭”に戻って来た。午前中に予定通り無事に小金門島を周遊できたのでホッとした。午後からの大金門島巡りを前に、まずは昼食をと碼頭にある食堂に入った。そしてラーメンと揚豆腐のセットを注文した。24年前の“匂い”を警戒したけど、そんな匂いはなく味も美味しかった。ゆで玉子を追加して腹ごしらえをし、包車の車を探しに出る。
碼頭に停まっていたタクシーの一台に声を掛けたが、どうも包車はダメなようで、客待ちに並んでいる先頭のタクシーと交渉した。数年前の旅行記に「1時間300元」とかネット相場は知っていたが「1時間500元、四時間¥2000元」と言われた。最近はどうも値切り交渉も面倒臭くなって、それでOKした。春節相場なのかも? -
このカウンターが売店のレジでもあり
食堂の注文場所でもある
厨房は別の部屋にあった
見た目よりまともな食堂 -
拉麺と揚げ豆腐、ゆで卵を食べる
正味これなら日本でも食える、美味しかった -
?『昔は金門への航行の目印』
なるほどこの塔は灯台だったのか
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■午後からの大金門島観光:「文臺寶塔」が最初
午前11時40分頃に“水頭碼頭”から大金門島周遊はスタート。
最初に行ったのは、「茅山塔」のつもりだったのに「文臺寶塔」だった。『文台宝(文臺寶)塔は、金城南磐山頭に建っています。伝説によると、明朝の太祖年間に江夏侯の周徳興が建てたとのことです。昔は金門への航行の目印であり、国の指定文化財に認定されています。』
高台からの眺めを期待して行ったが、あいにく霞が掛かり景色はぼんやりだった。でも来る前の予報で雨を覚悟していたので、雨さえなければ天気は上々文句はない。春節休みなのでどこに行っても観光客が多かったが、日本は春節休みとは無関係で大小金門島の三日間、日本人団体客とは出会ったことはない。 -
大金門島巡り
「文臺寶塔」「翟山坑道」「乳山故壘」
「八二三戦史館」「金門民族文化村」「獅山砲陣地」
「馬山観測所」「古寧頭戦史館」 -
上陸用舟艇の発着基地だけに
舟艇が展示されている
行け!大陸解放へ!
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■翟山坑道(てきざんこうどう Dí shān kēngdào ディシャンカンダオ)
抜粋:『翟山坑道は、1963年八二三砲撃戦後に掘削された海にまで通じる地下坑道です。上陸用舟艇の発着基地であり、約42艘の小型船を収容することができる』
こういった地下水路や地下坑道は、観光史跡として公開されている物も多いが、まだ軍事機密となっている地下要塞もあるだろうと思う。翟山坑道は出入り口が二ヶ所のA字型になっている。花崗岩の岩盤をくり抜いているようだが、工事の至難さんを想像してしまう。見るからに迫力もある。この倍の大きさが小金門の九宮坑道だ。
ここにも多くの観光客が訪れていたし、迷彩服の軍服姿の若い兵隊もグループで見学に来ていた。この先、果たして台湾vs大陸支那との戦争が起きることはあるのだろうか?例えそういった戦いが起きても近代戦の形態は様変わりしているし、この坑道は軍事史跡として百年後二百年後も同じようにここに姿を留めているのだろう。 -
翟山坑道見取り図
V字型:出入口は二ヶ所
金門島の西南側に出入口はある -
いざ翟山坑道へ
兵士を鼓舞する標語が並んでいる -
九宮坑道の長さでは約半分のようだが
規模は結構大きく感じた -
尖閣諸島を支那の侵略から守るには
日本人の断固たる決意と覚悟が必要だ
その覚悟なくして守ることは出来ぬ -
小説「金門島流離譚」船戸与一(著)
金門島のいろんな状況が分って面白い
その真偽は?・・・でも
知られざる一面が良くわかる
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■乳山故壘(Rǔshān gù lěi ルーシャングーレイ)
環島南路一段を走り、「金門酒廠:Jīnmén jiǔ chǎng:ジンメンジィヨチャン」という金門島の作物である高粱を醸造して作る高粱酒工場の前を右折すると道路左側に軍事博物公園のような乳山故壘がある。そこには実物の輸送機・ジェット戦闘機・戦車、その他各種武器の展示がある。見た目は自然が溢れのどかな島だが、当然かのように戦争に直結した軍事関係の見学地が多い。
この公園の周囲は中山紀念林で大きな公園のようだった。金門島に高粱酒メーカーはあるけど、その他農業・漁業などの経済基盤があるのか?日本の沖縄県のように国民党軍の駐屯や大陸支那から領土を守る最前線として防衛予算が出ているだろう。金門島内の道はどこも整備され島民の生活レベルも貧しい感じはない。
金門島の経済に関して小説「金門島流離譚」船戸与一(著)のなかに以下のような説得力のある話が書かれていた。小説だが信憑性はある。その40頁を一部抜粋する。
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金門島の存在
40頁
『・・・ブランド品のショルダーバックを引き寄せた。「そいつは広東省の山のなかの秘密工場で作られてる。原材料はタイから送られて来るんだよ。鑑定士ならべつだが、ふつうの客の眼なら簡単にごまかせる」わたしはそう言いながら腕組みをした。
「今年の八月に中華人民共和国国務院発展研究センターが発表した数字を知ってるかね? 偽物生産・販売の国民経済への損害についての調査研究という報告書が出されたんだ。それは日本の新聞にも掲載された」
「どんな数字が発表されたんだね?」
「大陸の偽物市場だけで年間二千億人民元、ドルにすりゃ、ほぼ二百六十億ドル。それによる国家税収の損失は二百四十五億人民元、四十五億ドル。しかしね、これは大陸の国内だけの数字だ。その三倍の偽物が世界にじゅうに出まわってる。このうちの半分近くがここ金門島から流れだす。このことだけで金門島の政治的意味がわかるだろう?」
「何か言いたいんだよ?」
「偽物の生産は確かに大陸の国家税収には繋がらない。しかし、現実には莫大な額の外貨をもたらすんだよ。民間の経済的効果は計り知れん。要するに大陸は実質的にたっぷり甘い汁を吸ってるんだよ。だが、偽造品の積出しを大陸の港からやるわけにはいかない。WTOに加盟したいま、そんなことをすればすさまじい国際問題に発展する。そこで選ばれたのが、この金門島だよ。
中国共産党は台湾全体が中華人民共和国の一部だとずうっと言い続けて来た。もし金門や馬祖の領有権を主張すればどうなると思う?それは結果として台湾の独立を認めたことになる。共産党にとっちゃでっかいジレンマだが、逆に台湾領なのか大陸の一部なのか帰属問題の曖昧なここは絶好の積み出し港となる。
どういうふうにでも責任逃れができるからな。そういう意味じゃ、金門島は中台関係の象徴だ。口先でどんな激しいやりとりをしていても、経済的にはずぶずぶの関係にある。どれほどの政治論争がなされても台湾海峡の波が荒れることはないだろう」』
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この小説によれば、金門島に出回っている商品は唯一「金門高粱酒」以外は偽物とのこと。残念ながら対岸の高層ビル林立の厦門に行かなかったので、金門島との比較が出来ないが台湾本島から遠く離れ、対岸の大陸とは敵対している小さな島だ。まあ日本で言えば沖縄のように軍事基地として政府からの交付金はあるだろうが高粱畑と高粱酒、それに砲弾を使っての包丁だけでは、豊かな島にはなり得ないだろう。
三通政策以降の金門島は、観光の島としての収入は増えただろうけど、やはりそれだけではなく、その特異な存在を利用してのビジネスがあるのだろう。それくらい島内の雰囲気は明るくのんびりし人々の暮らしは豊かに見えた。でもマフィアが絡むような雰囲気は感じなかったけど。ハハハ。「金門島」その不思議な島の実態は如何に?
この公園の片隅に?蒋経国先生紀念館があった。台北の中正紀念館と規模は違うが、「執務室に蝋人形」は同じだった。その他多くの写真の展示もあり興味深くゆっくり見たが、最初入場したときは誰も見学者がいなかった。その後も、パラパラと人が入ってくるだけで案内のガイドもなく、警備員もいない。この状況が金門島での蒋経国の立場を表しているのだろう。
軍事公園にある迷彩色塗装した展望台に上がり周囲を見渡した。森林ばかりで自然環境の良さは感じたが眺望はいまひとつ。ここも春節なのか?そこそこ賑わっていた。 -
?高粱酒メーカー「金門酒廠」
その他、不発砲弾の鋼を使っての金物が特産品らしいが
それでも貧しき島の雰囲気はなく、今も基本は軍島なのだろう
それとも帰属のあいまいさを利用しての
支那・台湾双方が利用する密輸拠点として栄えているのか? -
軍事博物館の如く
いろんな武器の展示あり
戦跡めぐりは趣味なれど武器のことは知らず
私は物心ついた時から(笑)強固な核武装論者である
核兵器・大量破壊兵器の抑止には核武装しか有り得ない -
蒋経国先生紀念館
台北の中正祈念堂と同じなのは
蝋人形と執務室の再現
執務室に寂しく座る蒋経国の後ろ姿
人気の程はいかほどなり -
乳山故壘の迷彩色展望台に上る
とにかく旅先ではどこでも
高台から自分の周囲を見渡したい
これも自己防衛本能の発露だろう
今、自分はこんなところにいるのか・・・と -
迷彩色展望台からの風景は四方ともこんな感じ
島の外観は自然に恵まれた風景が広がる
しかし地下は軍事要塞として守りを固める
それが大小金門島の今の姿でもある -
?1958年8月23日、共産軍から金門島奪還のために砲撃を仕掛けた
共産軍は自ら仕掛け、形勢不利になると一方的に砲撃を止めている
しかし砲撃はその後も続き、完全終息は米中国交回復の1979年
私が29歳の時なのか・・・当時、関心なく記憶にない
21年間も支那は包丁の材料を金門島に撃ち込んでいた
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■八二三戦史館
乳山故壘を出て環島南路三段、四段を経て太湖を横切八二三戦史館に到着した。
私の旅の目的は根本博中将が参謀として活躍した古寧頭戦役なので、どうもそれ以後の台中の戦いにはあまり興味が湧かない。戦史館には大砲の弾が各種並べて展示してあり、建物周囲には、『砲撃戦時に使用されたF86軍刀型戦闘機、LVT水陸両用兵士運送車両、M-24軽戦車、155mm榴弾砲などの兵器が展示されています。』ということで「来て、一応見た」というだけだ。
戦史館の横に「兪 大維(ゆ だいい)Yú Dàwéií ユ、ダーウェイ」紀念館があった。兪 大維は古寧頭戦役が概ね決着した直後の11月米国に逃れているようだ。何があったのか?分らないが、その後帰国して“八二三砲戦”時は戦傷を負っている。
紀念館内の展示は彼がハーバード大学留学時の展示物が多かった。なるほどハーバード大学留学は誰しも誇りだろう。世界に冠たる人物を輩出している実績がある。晩年は『1993年(民国82年)2月、仏門に入り、法号は浄維とした。同年7月8日、台北市にて死去。享年96(満95歳)。』大往生・・・とある。 -
各種砲弾が各種包丁に変わる
これは人も殺戮する
しかし共産支那に負ける訳にはいかない -
兪大維紀念館
知る人しか知らない -
確かにハーバード大学(卒)の肩書きは栄誉だろう
でも以下の一覧を見れば、つまらぬ奴も沢山だ
学歴・肩書きなど人間評価のホンの一部でしかない
ハーバード大学:日本人の一覧
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%89%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E3%81%AB%E9%96%A2%E4%BF%82%E3%81%99%E3%82%8B%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7
文臺寶塔:翟山坑道
乳山故壘:八二三戦史館
http://youtu.be/T0vMt0Ufd3M -
?そもそも日本在住華僑が建てたのか・・・
日本と支那の関係は遠く過去の歴史に遡るが
出来ることならすべてに近くて遠〜い関係を望む
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■金門民族文化村
ここも多くの観光客で賑わっていた。
抜粋
『地元では「十八室」と呼ばれ、18棟の閩南様式(福建式)の古い民家で構成された集落で、日本在住華僑のリーダーであった王氏親子が親族に住ませるために建てた豪華な建物です。』
ふ〜ん、25年の歳月を費やして完成させた村だそうだが、その後住民が移住し今は政府による管理で再建し保存している。実生活の場ではないようなので寂しいが、それなりの雰囲気はあった。
お土産店で金門島訪問の記念に唯一の土産となった風獅爺の安い飾りを買い、露店でラムネを飲んだ。ラムネのダンボール箱には日本語のカタカナで「ラムネ」「ビーダマ」と書いてあった -
実生活の伴わないモデルハウスは面白みも半減
時間もなくゆっくり見れず -
金門島民族文化村でラムネ発見
思わず飲んでみた。ラムネだった -
観光地は人がそこそこあってこそ気分が出る
多すぎてもうっとうしいし、少なすぎてもつまらない
そこそこ適当の人出だった -
?獅山砲陣地入り口
最新坑道ミュージアム
デジタル技術を駆使した見世物が沢山
一見の価値あり
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■獅山砲陣地
この陣地は民族村から歩いて10分のすぐ横にあった。この陣地のことは何も知らなかったが、運転手のRさんに「見るか?」と聞かれて入って行った。2011年9月から開放されたようで、一般開放してまだ二年しか経っていないのでこの場所に関しての情報がなく知らなかった。
抜粋
『全国で唯一の坑道式の砲陣地で、標高約103メートルの五虎山に設置された坑道は全長508メートル、堡塁4基を備え、8インチ榴弾砲を間近に見ることができる。』
最近開放した坑道なので、観光用に整備され「砲陣地ミュージアム」として創意工夫があった。新しくて人気スポットなのか一番人出も多く坑道内部は人で溢れていた。砲弾戦の時はこの坑道要塞から大陸に向かって大砲を撃ち続けたのだろう。時間によっては「獅山砲陣地砲操表演」という大砲発射の模擬演習を見せているようだ。
ここもゆっくり見たかったが、まだ馬山観測所と旅の一番のメーンである古寧頭戦史館見学が残っており、馬山と古寧頭は島の東と西に離れているので時間も気になりその気持ちの余裕のなさが坑道内で写した写真のブレに如実に出ていた。ホンマにこれでは報道カメラマンにはなれないハハハ。でも面白かった。この陣地が2年前の2011年開放ということだから、まだまだ金門島には機密の広大な地下軍事基地があるはずだ。
迷彩服姿の若い軍人グループの陣地見学や市内で買い物したりの姿は、ありふれた光景として金門島の各所で目にしたが、その兵隊たちがいるはずの駐屯地や軍施設はほとんど目に付かない。こうやって坑道陣地の見学をしなければ、自然溢れるのんびりした島であり軍島と思えない。 -
内部は結構広くて各所に見せ場を作っている
予備知識まったくなく、ここ何処?
凄いなァ〜、ゆっくり見たいけど
ゆっくりと見学するだけの見所を作っていたように思う -
砲弾の弾筋鮮やかに対岸の厦門方向に飛んで行く
音と光の砲弾戦をこの坑道で見るべし -
ここなら敵砲弾も何ら脅威ではなく
包丁材料溜めるだけ
写真ぶれてるけど -
?還我河山:Huán wǒ héshān:ホアンウオハーシャン
共産党政権の崩壊を祈る
どうしようもない・・・国ではなく
もうちょっと、まもともな国になってくれ
といっても無理なことは分かっている
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■馬山観測所
抜粋
『馬山観測所は、金門最北端の突出部分に位置し、対岸の福建省の角嶼・大・小嶝島との距離はわずか2キロメートルの場所にあります。金門の中で最も中国大陸に近い場所であり、国民党と共産党が対峙していた時期には、常に対岸の動静を観察し、宣伝活動をする軍事要衝となっていました』
この観測所の入り口に「還我河山」と色鮮やかな赤地に白色の文字で書かれた標語が嫌でも目に入る。直訳すれば「私たちの山や河を返せ」だが、昨年秋に行った張家口の旅で、二日間案内をしてくれた地元の青年ZJ君は、「北京の北門」張家口の象徴とも言える大境門に「大好河山(ダーハオハォーシャン:Dàhǎo héshān) 」という四文字が描かれている。
これは「麗しき山河」ではなく「河、山はすなわち“国”を表し、素晴らしい国という意味」と学校で教えられたと言っていた。この「還我河山:Huán wǒhéshān:ホアンウオハーシャン」も「支那大陸を返せ!」だ。
ここは小金門島の湖井頭と同じ意味を持つ軍事施設。観測窓から備え付けのニコン製の双眼鏡で対岸を覗いたら、人民解放軍の二人の若い兵士が笑顔で団欒している姿が見えた。すでに互いにまったく緊張感もなく、向こうは分らないがこっちは観光場所と化している。台湾の共産化は絶対阻止しなければならないが、大陸支那が共産党の独裁から抜け出せる日は何時になるのだろうか?
この目と鼻の先で対峙する国と国。といってもこの金門島に暮らす住民と目の前の角嶼・大・小嶝島、厦門市・泉州市に暮らす人たちは、同じ民族、同じ言語を使い同国人として生きて来た。それが1949年10月の古寧頭戦役以後に両岸は分断され、片や自由主義陣営に属し、片や共産主義国家の国民としての生活を送っている。敵対した両岸の人たちの気持ちは如何に?三通政策以降はどうなのか?
この光景に20歳前半の時、根室で見た北方四島のことを思い出した。納沙布岬から見れば、すぐそこにロシアが不法に奪っている貝殻島、水晶島の島々が見えた。「こんな近いのか・・・」と思った記憶が今も鮮明に残っている。まさに「返せ!北方四島を!」である。軍事大国から取り返すのは至難だが、いつの日にか策を練り必ず取り返す! -
コンクリートで囲まれた通路を通り観測所に行く
満ソ国境の日本軍要塞にも似たり -
観測所の観光用双眼鏡はニコン
角嶼・小嶝島の人民解放軍兵士の姿が見える
二人の若い兵隊が談笑していた -
地図で見れば馬山観測所はこの位置にある
目の前の二つの小さな島
「右:角嶼」「左:小嶝島」 -
「左:小嶝島」「右:角嶼」
まことに、のどかなものだ -
馬山観測の外からの風景
民族文化村:獅山砲陣地:馬山観測所
台北・金門島を訪ねる(七)
http://youtu.be/M6qcOhG3r7E -
左手に太武山を見ながら一路古寧頭に向かって走る
海抜253mだが金門島の最高峰
登ればさぞかし眺望は良いだろう
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■古寧頭戦史館へ
大金門島最後の見学地となった古寧頭戦史館へと向かった。ホントは后江湾(Hòu jiāng wān)に面した海岸を歩きたかったし、10月25日夜明と共に根本中将が錫麟號から金門島に上陸し、戦況視察に来た「湖南高地」からの景色も見たかった。
湖南高地から戦況を見たときの様子が「この命、義に捧ぐ」門田隆将(著)184頁に記されている。
『海岸には、帆柱が折れたり、帆のないジャンクが人影もなく、乗り捨てになっているのが見える。焼かれた時の煙がまだ消えていないものもある。丘から右手前方に砂浜が見えるので、そこだけを数えても61隻もあった。いずれにしても、従前の作戦通り、海岸に乗り付けて来たジャンクを国府軍が果敢に焼き払ったことは間違いなかった。
増援部隊の来襲を阻止できた。狂ったように撃ちまくっている大嶝島の野砲が敵の焦りを表している。よくやった。立派だ。この戦争は勝てる・・・』
馬山からの道中に湖南高地との案内も目に入ったが、その時は運転手のRに強く頼む熱意もなく、そのまま通り過ぎ金門島の東端から西端の古寧頭まで車で20分そこそこで到着した。
この戦史館の前で初めて「金門の熊」に出会えた。玄関の両脇に神社の狛犬のようにそれは鎮座していた。大小金門島の至る所にといって良いほど、米軍戦車が展示されていたが、古寧頭のヒーローである米国製「M5A1軽戦車」、その時、21両がこの島に配備されていた。
「M5A1軽戦車」は「M3軽戦車」の「改良型M5」の更に「改良型」で1942年9月に制式化されている。 -
古寧頭戦史館に到着
昭和24年10月24日夜10時頃から共産軍の砲撃で火蓋を切り
25日、26日の二日間でほぼ決着が付いた
27日午前10時に共産軍は降伏し終結を迎える
古寧頭戦役
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E5%AF
%A7%E9%A0%AD%E6%88%A6%E5%BD%B9 -
勝利の立役者:金門の熊
「M5A1軽戦車」
21両が獅子奮迅の働きをした -
共産軍上陸に備えての塹壕堀
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■古寧頭の戦い
この島を訪れた目的である古寧頭戦役の戦史館にやっと着いた。急遽決めた旅となり何もが準備不足で、金門巡りも中途半端に終わった。昨年の張家口への旅は、日本軍の戦いの跡であり気分も高揚したが、今回は国府軍vs共産軍の戦いなので日本語での情報も少なく、私自身の気持ちも違う。
私の思いは、根本博中将が蒋介石や国府軍幹部に義を感じ、なぜ身命を賭してまでの行動をしたのか?そのことに関心を持っての旅となった。“蒋公”とは一体どんな人間だったのか?今の中共政府と支那人の反日言動には辟易とするだけで“義”どころかまったく品性を感じない。今と昔の支那人の違いはどうなのか?台湾人と大陸支那人との違いは?そんなことを探る旅でもあった。
これは帰国後だが、私自身が納得出来る「台灣を救った根本博中將」というコラムをネットで見つけた。蒋介石の人物評には納得だが、朴正熙の高い評価には驚いたし、正直分らない。今の南北朝鮮半島の朝鮮民族の妄言は病的としか思えず。支那朝鮮、大小中華思想・見栄と面子の文化は愚民を作るとしか思えない。
以下コラムの一部転載
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台灣を救った根本博中將
伊原吉之助教授の読書室
http://www.jas21.com/athenaeum/athenaeum147.htm
根本博中將と金門防衞戰
略
日本統治の下で工業化まで達成してゐた台灣は、農業でも工業でも第三次産業でも近代化の遲れた中國大陸の國家建設を 「 軌道に載せる力 」 を秘めてゐたのに、蒋介石は 「 單なる戰利品 」 としか扱ひませんでした。
蒋介石の 「 近代國家 」 に對する見識の低さは、シナ人の近代國家に對する見識の低さの反映です。韓國を日本に倣つて近代國家化した朴正熙韓國大統領に遙か遠く及びません。だからこそ、蒋介石は大陸を保持できなかつたのです。
中略
蒋介石は 5月、それまで無視してゐた台灣を逃亡先と決め、防衛を固めます。蒋介石の敗因は、腐敗墮落による自滅と語られますが、そもそもの元兇は米國です。林彪軍は滿洲で國府軍に連戰連敗してゐたのに、大統領特使 マーシャルが無理に休戰させたため、中共軍は、ソ聯軍の庇護育成下で再起する餘裕を得ました。
略
米國のお蔭で中共軍は生延びたばかりか、政治宣傳で國府軍の厭戰氣分を煽り、續々寝返らせました。國共内戰とは、ドンパチ は 極く僅か、基本的に政治宣傳合戰でした。
國共雙方の兵力變化は、雪崩現象といふほかない状況です ( 下記の數字を見よ ) 。
國府軍 中共軍 比 率
1946.7. 430萬 120萬 3.58 : 1
1947.6. 373 195 1.9 : 1
1948.6. 365 280 1.3 : 1
1949.6. 114.9 400 0.3 : 1
( 劉馥 『 中國現代軍事史 』 奧付なし。284頁 )
台灣人は救はれたか?
戰意を喪失し、烏合の衆と化した國府軍は連戰連敗。その中で唯一の勝利が中華人民共和國建國後に發生した金門防衞戰でした。勝てたのは、蒋介石の指示により、總司令湯恩伯將軍の顧問に就いた根本中將が勝てる作戰をた樹てからです。
その要點は、以下の通り。
蒋介石が指示した厦門 ( コロンス島 ) 防衛を放棄し、金門島で迎へ討つ
蒋介石の指示に背けたのは、根本中將が日本人だつたからです。だから、根本中將が居なければ、國府軍は金門島を喪つてゐた筈です。中共軍を上陸させ、船を燒いて退路を斷つた上、包圍殲滅する住民を捲込まずに中共軍を叩く、など
根本中將は、國共内戰で國府軍が連敗してゐるのを憂慮し、皇室の安泰を守つてくれ、百萬の支那派遣軍を無事歸國させてくれた。蒋介石の恩義に報ひようと、49年6月、死を覺悟して台灣に密航しました。そして中共軍が、氣樂な殘敵掃蕩のつもりでやつて來た金門上陸作戰で、捲返したのです。
金門防衞戰の勝利で國府軍は總崩れを免れました。この勝利のお蔭で、蒋介石の台灣統治が順調に展開します。しかし、蒋介石は金門戰の勝利から日本人の貢献を消しました。國府の台灣統治の 「 正統性 」 legitimacyに關るからです。
シナ人は、牢固たる 「 勝てば官軍 」 史觀の持主です。その上、歴史とは勝者を稱 ( タタ ) へるものですから、都合の惡いことを殘す筈がありません。著者は周到に調べて、根本博ばかりか、總司令湯恩伯まで戰史から消された經緯を調べます。
シナ人は上述した如く 「 勝てば官軍 」 史觀で權力鬪爭の敗者を歴史から消してしまふのです。湯恩伯は陳誠との政爭に敗れたため、金門の勝利を指導した司令官の名を消されたのです。台灣人はよく 「 蒋介石は台灣に原爆以上の慘事を齎した 」 と言ひますが、毛澤東に占領されるよりましでした。蒋介石軍が逃げて來てゐなければ、中共軍はやすやすと台灣に乘り込んだのではないでせうか。
毛澤東の台灣占領を阻止したのが金門戰の勝利です。
海軍を持たぬ中共軍が海軍育成を圖るうちに朝鮮戰爭が始り、蒋介石の 「 大陸反攻 」 も、毛澤東の 「 台灣解放 」 も、米國が凍結します。 「 一中 」 を爭ふ 「 二中 」 の出現です。
根本中將が台灣に密航したのは、先に述べたやうに、蒋介石の恩義に報ひるためといふのですが、著者は、根本中將は 「 軍人として死所を求めたのではないか 」といふ台灣人研究者の聲を記録してゐます。
駐蒙軍司令官だつた根本中將は、ポツダム宣言受諾後もソ聯への武裝解除を拒否し、邦人を守り抜きました。武裝解除を安易に受入れ、邦人への虐殺・強姦・暴行の限りを許してしまつた隣の關東軍とは大違ひです。根本中將は、身命を賭して半世紀日本國民であつた台灣人を中共の“解放" から守りました。
でも、その努力は圖らずも、台灣人を 「 二等國民 」 と蔑視して台灣人に君臨する外省人政權の延命に手を貸したことになりました。これは、根本中將の思案の外にあつた問題ではありますが、その後、在台“中華民國" 政權が台灣人蔑視統治を續けた事實を知る私達には、「 曾ての同胞 」 台灣人に對する新たな對應の必要を問ひかけてゐます。
( 2010.5.9/5.31補筆 )
////////////////////////////////以上 転載終わり
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?共産軍との戦いの絵画
戦場の写真は一枚もなかった
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根本博中将:古寧頭での戦い
1949年:10月24日午後10時過ぎ頃からし錫麟號(しゃくりんごう:Xī lín hào シーリンハオ:1600トン 日本の古い護送用駆逐艦 海上司令部)の根本中将に敵が放つ砲撃音が聞こえた。そして夜明の25日根本中将は錫麟號から迎えに来た小舟に乗り移り上陸後直ちに水頭の湯恩伯総司令部に入った。しかし湯恩伯は車で10分の金門城の李良榮司令部にいることを聞いて、すぐにそっちに向かった。
根本が到着後、気がついた湯恩伯は「おめでとう。戦況は随分いい。勝利は決定的です。」「ありがとう。ありがとう。」「先立って配備を変更させて待っていたところに敵がやってきました。すべて予定通りです。顧問閣下の判断と計画のおかげです」と湯恩伯は根本中将に感謝したそうだ。
その後、根本は前線を見にジープででかけ、湖南高地の上から前線を見渡し、司令部に戻り以後の作戦を進言した。
「戦線は日没の時の位置を確保して厳に敵を監視する」「夜襲はやらない」「第18軍集結して、ほかの方面から来る敵の上陸に備える」「海岸守備隊はそのまま警戒を厳にして、任務を続行する」・・・この根本の方針によって日没と共に両軍の戦闘は自然休止した。
翌日26日掃討戦が開始され、共産軍は古寧頭・北山集落に追い込まれ村民を盾に必死の抵抗だった。根本(林保源:Línbǎoyuán リンバオユエン)は村民の巻き添えを防ぐ戦法として、敵背後に回っていた戦車を後退させ北方海岸への敵の退路を開かせ、その上で海岸へ出てくる敵を海上から砲艇で挟み撃ちにする戦法を提示し、幕僚会議はそれを支持した。
その新たな作戦は26日午後3時から始まった。作戦は功を奏し、共産軍は古寧頭から海岸へと出てきた。林保源も砲艇に乗り込み、水兵を激励しながら敵の背面海上に進航し、満を持して火砲の火蓋を切った。砂浜は阿鼻叫喚の地獄と化し勝負は決した。26日午後10時頃のことである。共産軍の上陸2万、死者は1万4千、捕虜6千といわれるが定かではない。国府軍は死者1,269人、負傷者1,982人。
その翌日の午後3時には湯恩伯の2歳年上のライバル陳誠が金門島に突如飛来し、部隊を慰問し手柄を横取りしたそうだ。こんな話しなら支那人の行動様式として良く理解できる(笑)。因みに湯恩伯は日本の士官学校留学組であり陳誠は日本留学経験はない。
その後も湯恩伯と根本中将の絆は強く、1954年5月、湯恩伯は陳誠とのライバル争いに敗れ、胃を患っての病気療養で日本に渡ったが、手術の甲斐なく慶応病院で死亡した。古寧頭戦役からわずか5年。満54歳の死であった。毎日見舞いに通った根本中将は、その死を悲しみ湯恩伯の幼い娘さんに服を仕立てて贈ったそうだ。
古寧頭戦史館の中は、海岸での塹壕堀の様子や24日夜の共産軍のジャンク船での上陸風景、その他、いろんな戦闘の模様が大きな絵画で描かれ展示されていた。戦時写真が無いのが一番の理由だろうが、これもなかなか見応えはあった。勝利後の蒋介石の閲兵風景は写真も絵画も両方あった。しかし大陸への逆進攻はならず。
尚、根本博中将だけではなく、富田直亮少将を団長とする白団という元日本軍将校たちが軍事顧問団として同時期に台湾に来ているが、白団の第一陣は古寧頭戦役終了後の10月28日に台北に来ている。なので白団は古寧頭戦役には関わってない。 -
根本博中将が進言したジャンク船焼き討ち作戦
これによって新たな増援部隊の上陸を許さず
金門上陸部隊は退却も出来ず殲滅された -
修羅場と化した金門島の海岸
共産軍の死者1万4千、捕虜6千
国府軍:死者1千2百69人 負傷1千9百82人 -
根本博中将
1891年(明治24年6月6日)- 1966年(昭和41年5月24日)享年75
?http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B9%E6%9C%AC%E5%8D%9A
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■金門島の戦い、その後
「この命、義に捧ぐ」門田隆将(著)という一冊の本からの古寧頭戦役に関しての知識だが、根本博中将:林保源参謀の作戦指導によっての勝利だとしか思えない。連戦連敗で大陸から蹴落とされ、国府軍は相次いで共産軍への寝返りなどの裏切りも出る中、最後に奇跡としか言えないこの金門島の勝利は、どう考えても国府軍だけで成し得るとは思えない。
絶妙のタイミングで根本中将がこの地に舞い降り、?拔介石がその能力を頼り、湯恩伯という司令官との二人三脚によって得られた勝利だったと言える。根本中将の意見具申に耳を傾け、それを受け入れることの出来る司令官だったからこその勝利だ。
そしてこの勝利は、台湾の共産化を防いだだけではなく、戦後日本が復興する上で重要な自由主義陣営に属する隣国「中華民国」が存在することになった。そんなことを考えれば根本博中将の功績は幾ら過大に評価しても評価しきれないくらいの価値がある。たった一人の日本人元将軍が、台湾を救うと同時に戦後日本をも救ったのである。人間と言うのは、本人の意思に係わらず思いがけずも大きな功績を生む。
そして台湾・中華民国の歴史から消されていた根本中将も、2009年:平成21年10月25日。古寧頭戦役から60周年の記念日に台湾でその歴史事実が明るみに出ることになった。
それは金門島、太武山の地下講堂「撃天廳」に、根本中将の通訳として行動を供にしていた吉村是二氏の長男・吉村勝行氏と台湾への根本招聘の立役者であった明石元長氏の長男:元紹氏、そして「この命、義に捧ぐ」の著者:門脇隆将氏が出席を許されたことにもよる。もっとも現時点では台湾メディアがこのことを大きく取り上げてはいないようだが。
台湾週報では「古寧頭戦役60周年に日本の軍事顧問団関係者の家族らが台湾を訪問」発信日時:2009/10/27 http://www.taiwanembassy.org/ct.asp?xItem=114725&ctNode=3591&mp=202
2011年には、「この命、義に捧ぐ」に沿った内容で根本中将のことが台湾ネットで紹介されている。
http://www.buddhanet.idv.tw/aspboard/dispbbs.asp?boardID=12&ID=25802&page=1
しかし古寧頭戦役60周年の式典にそれに関係する日本人3名が出席し、講堂での式後に戦役で亡くなった兵士が眠る太武山公墓で、三人は最前列に並ぶように指示された。そこにやってきた馬英九総統が公墓の前での挨拶のあと、周囲の慌てる中、三名の日本人の前に歩み出て来て、明石、吉村、門脇氏と順番に握手し、それぞれに「台湾にようこそ」と日本語で挨拶されたそうだ。
「この命、義に捧ぐ」門田隆将(著)は初版発行が2010年であり、この本の発行前に台湾は、根本博中将の功績を公に認めたことになる。これは蒋介石たち外省人の中華民国から民主主義体制に移行し、支那人の勝者の都合だけの歴史から脱却し、真実を重視する新たな価値観を形成した台湾人が台湾に生まれた証であろうと思う。最早、台湾人は外省人といえども大陸支那人と違う価値観を持つ民族となった。私はそう思いたい。あの馬英九が根本中将の存在を認めたのだから・・・・。
午前11時45分頃から大金門島巡りに出発し、午後3時34分に古寧頭戦史館見学は終了した。ここから金城の地方法院前まで車で何分掛かるのか?私には分らないが、運転手のRは、馬山観測所で「4時間過ぎるから¥2,500元欲しい」と言われ、私はOKしていた。ネットで見た包車相場では高いが、春節でもあり小金門に比較しての大きさに「まあええか・・・」と半分どうでも良かった。
法院前で降りたのが午後3時50分なので、10分の延長でしかなかったが仕方がない。まだ他に北山海岸や北山古洋樓、古寧頭や北山の集落を散歩したかったけど、その時は、明日の午前中にもう一度古寧頭に来るつもりだったので今日の散策は諦めて金城市内に戻った。
結果的には、明日こっちに来ることはなく、今日の朝から小金門、そして午後からの大金門島の周遊で今回のメーンテーマの旅は終了となった。まあこんなものだろう。欲を言えばきりがない、上出来としよう。
古寧頭戦史館
台北・金門島を訪ねる(八)
http://youtu.be/5xQFP6hKbAU -
法院前から民宿まで徒歩10分ほど
ここでタクシーを降りて
まず給水塔を確認してから
金城の町を散策した
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■金城の散策
法院前から街中に行く前に、まず民宿の場所を確認しておこうと地図を見てその方向に向かった。民宿から街中まで歩いて15分くらいと言われていたように、角を曲がって少し行くと目印の青い給水タンクが見えた。よしこれなら大丈夫と、反転して金城の中心街へと向かう。
そして金城の町を散策したが2月10日が今年の旧正月、そして今日は12日。まだまだ正月休み真っ最中なのか商店街も多くがシャッターを閉めている。ここが金門島だと私が他との違いを一番感じるのは、小豆島とほぼ同じ大きさの島の中心街に迷彩服姿の若い兵隊が沢山歩いていることだ。
金門懸政府公式HP:リンクで日本語観光頁もある
http://www.kinmen.gov.tw/Layout/main_ch/index.aspx?frame=17
春節休暇以外はどうなのか?分らないが、二泊三日滞在中、あちこちで普通に見かけた。ちなみに金門県の人口は約11万3千人。今は明らかではないが軍人が1万数千人くらいだと聞いた。大陸との緊張感関係もなく金門島が徴兵後の新兵教育の場でもあるらしい。
共産化され文革を経た支那大陸と違い、ここはお寺があちこちに目に付く。さすがに正月に花火はつき物のようで花火店は営業中。方向もなにも分らないままぶらぶら歩いていると営業中の喫茶店を見つけて休憩しようと入った。
オープンカフェ形式でもあるハイカラな雰囲気で、中に入って驚いた。若い男女の客で賑わっており、接客スタッフもみんな若くて明るく感じが良かった。やっぱり大陸との違いを感じずにいられない。もっとも私の大陸旅行は地方が多いけれど・・・。でもここだって台湾本島から遠く離れた島だし。すごそこの厦門の雰囲気はどうなんだろう?
「Lin+Cofee」と言う名前の喫茶店は、「後浦(金城の旧名)小鎮:漫遊・探訪」という金城歩いて散策2時間コースの起点となっている總兵署の横にある。店内は若者客で一杯で、一人の私はカウンター席に座らされた。水の入ったグラスは傾いたグラス、まあ日本にもあるのだろうけど私は初体験で思わず、“こぼれる”とドッキリ。
「沖縄なんとか茶」と「何とかパフェ」を頼み値段は計270元(810円)、どちらも量はたっぷりでお腹が膨れるくらい、味も良かった。こんな小さな島に何でこんなに若者が多いのか?働く場所はあるのか?
この小さな島、金門懸には国立金門大学の他に、三つの大学が金門校区を置いている。こんな小さな島に何故と分からないことが多い。ここは島の中心だからこの活気なのだろうと思うけど。 -
今年の春節は2月10日
今日は2月12日の正月休み
商店街もシャッターが降りていた -
こんな光景が普通なのが金門島
尖閣諸島に一刻も早く自衛隊の常駐を
覚悟と気概を示さねば、奴らは舐めるだけだ
その毅然たる態度こそ戦争を未然に防ぐ -
正月と花火は切っても切れぬ
正月に一年分を稼ぐ? -
「後浦(金城の旧名)小鎮:漫遊・探訪」
2時間コースの起点が、この總兵署
この時は露も知らず
この右側の喫茶店に入る -
ここが喫茶店
内容質とも良好
金門島に来たら是非休憩を!
量多し、腹が膨らむ -
傾いているグラス
こんなん62年生きて来て初めての遭遇
そんな驚くほどのことではないのは分るが
最初、“こぼれる”って驚いた -
この若者の多さにまた驚く
一体なんでやねん?こんな小さな島に
離島の小島とこの若者たち、結びつかないけど -
何とかパフェだと思うけど
誰がこれを考えたのか?
同じ物を同じように作るのだろうか?
バナナの味はした、腹一杯になる -
?金門憲兵隊
道を隔てたところで写真を撮ったら
笛が鳴った。見たら警備の兵士が
「撮るな」とのゼスチャー
もう撮った後だったけど、分ったと手で合図した
笛の音は同じだが支那の恐さはない
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■便利店:セブンイレブンで夕食
午後4時頃から金城市内をブラブラしたり喫茶店で休憩して、自分ではゆっくりしたはずが時間の経過は一時間くらいだった。朝早くから小金門に渡り、アチコチ見て回って堪能し疲れたので民宿戻ることにした。途中で何かを食べようと思ったが、適当な店が見当たらず、その内、法院前も過ぎ民宿が近くなった。民宿付近には何もない。
そんな時、コンビニ・セブンイレブンがあったので「よし、コンビニ弁当でも買って帰ろう。弁当ならまずい物はないだろう」と店に入ったら、目の前に日本同様名前も同じで「おでん」があった。“揚げ”と“ちくわ”もう一つを買い、焼飯弁当を温めてもらって店に設けられている食事コーナーで外の景色を眺めながら、熱々になった焼飯を食った。旨かった。計97元(291円) -
この便利店:セブンイレブンで夕食を食べる
-
おでん三ヶと焼飯弁当、十分旨かった
大金門島No.4
金城市内の散策
台北・金門島を訪ねる(九)
http://youtu.be/4BnlsLn9oY8 -
?まだ明るいうちは何とか周囲の景色が分るが
民宿からちょっと離れた場所に家が立ち並んでいる
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■小背包民宿へ戻る
お腹も膨れ食後の散歩を兼ねて民宿方向に歩く。昨日の夜、空港からのタクシーで運転手が場所が分らず困ったが「これじゃあ無理もない」という周囲の風景だ。道は縦横に出来ているが建物は建築中の物が多く、それ以外は雑木林。ちょっとの街外れだけど夜になるとどうしようもない。
“小背包民宿”は、建物は新しくてスタッフも親切で文句はないが、“おっさん”の短期一人旅には不向きであるのは間違いない。暗くなる前に戻ってホッとし、昨日お湯が出なかったのでフロントのZY君に言おうと思ったら、用事で出かけたばかりで留守番の女性がいた。
その女性はインドネシアから働きに来ているDTさん(仮名)、23歳。彼女は温水のことは分らないのでZY君が戻って来るまで仕方がない。その間、DTさんと話をした。彼女がこの大金門島に来たのは1年半前。「インドネシアの何処に住んでいるの?」という質問に、彼女は「ジャワ」「ジャワバラ」「ジャガタラ」等々を言った。
それが何を指しての名前なのか?ジャワはジャワ島のこと? ジャガタラはジャカルタの旧称ともある。ジャワバラという地名もあるし・・・。彼女から聞いたジャガタラという言葉の響に思わずドキッとし、どっかで聞いたと思った。
帰国後考えたら「ジャガタラお春」とか「からゆきさん」そして映画「サンダカン八番娼館」のことだ。その本を読み映画も見た。詳しい内容はほとんど記憶に無いけど・・・物悲しさはあった。
日本にもそんな時代があった。DTさんは、無論健全な仕事での出稼ぎだが故国を離れて健気に家族のために働いている。ジャカルタに住む家族は母親、兄、姉二人、妹三人の八人家族。父親は早く亡くなったのか?離婚したのか?お母さん一人での子育ては苦労があったようだ。
そのためなのか?海外に働く場所を求めアラブで三年、そして金門島で二年、計5年。18歳から海外で働いている。金門島に来て1年半だけど中国語は漢字は書けないそうだが、会話は私より無論上手。私にはそんな彼女の中国語の方が聞き取りやすかった。「アラブ」というのがどこの国かは分らなかったけど、インドネシアと同じくイスラム文化圏なので出稼ぎ場所になるのだろう。
この夏には金門島から故国インドネシアに帰国の予定らしい。姉が先にここに来ていて、姉の帰国に交代して自分がこっちに来たそうだ。今はこの民宿で働いているようだけど休みはなし。収入はアラブの二年間が、こっちでは1年間の収入ということなので、金門島の方が倍の収入だ。金額は聞かなかったけど・・・参考のために聞いとけば良かった。
妹二人がまだ学生で家族の生活資金の足しに仕送りしているのだろう。故郷の友達は次々と結婚しているようだ。彼氏がいるのかどうか聞かなかったが明るくて可愛いDTさん。食事は豚肉ご法度のイスラム教徒なので、全部自分で作らねばならず、それが結構大変なようだ。こっちは肉といえば豚という食事でもあるし・・・。兄・姉二人はすでに結婚し、次はDTさんの番だ。そのための帰国かもしれない。彼女の幸せを心から祈りたい。
ZY君が戻ってくるまでDTさんと話をし、あっという間に一時間が経っていた。お湯が昨日も出なかったことを告げたら、恐縮顔ですぐに部屋に行き、室内の温水器の設定をしてくれた。そして今日の充実した一日を思い出しながら、温水でシャワーを浴び、明日に備えた。
ここではNHKの衛星放送が受信できた。台北のホテルでは見れなかったが。 -
この給水塔の右横が小背包民宿
暗くなれば闇の中で分らない -
インドネシアから働きに来ているDTさん(23才)
インドネシア語・アラブ語・中国語が話せる
明るくて感じの良い娘さんだった
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