2013/02/11 - 2013/02/15
379位(同エリア581件中)
明石DSさん
民宿から徒歩5分の場所にある「国立金門大学」
小豆島とほぼ同じ面積の金門島に立派な国立大学がある
その他にも他の大学の学部が三つくらいあるらしい
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2013/平成25年2月13日(水)
■小背包民宿の朝
こっちに来る前に日本で見ていた金門島の週間天気予報では、私が滞在中は降水確率も高く雨を覚悟の旅立ちだったが、幸いにも好天気ではないが雨が降ることなく、今朝の金門島の空模様も雨にはなりそうになかった。
6時半ごろに起き、朝食前の散歩に出た。この時はまだ古寧頭に行くつもりだった。ここから「どうやって行こう」「自転車を借りて行こうか・・・」と、思って道路に出たが、あいにく風が強いし、最近自転車にも乗っていないし、道路は整備されているので交通量は多くはないが走っている車の速度が出ている。
私の危険回避の本能が「やっぱし、古寧頭行きは諦めよう」の決断をしてしまった。帰国後の今、この旅行記を記しながら「行っておけば良かった」と少し悔やんでいるけど仕方がない。古寧頭再訪はやめて金城市内徒歩での散策に決めて民宿に戻り朝食を食べた。
ここの朝食は二泊なので二回食べただけだが、昨日は「お粥」、そして今朝は「コーヒーとパン」私には、量もそうだが、気が利いたちょうど良い朝食で美味しかった。昨日と同じく民宿フロントには前半担当のSさんが来ている。Sさんに今日の予定を言って、午前10時頃にここから空港まで送迎(200元)を頼んだ。
金門空港(尚義機場)には11日夜に着いたが、ここから飛び立ったことがなく手続きに不安なので早く空港に着くことにためらいはない。「取り越し苦労」は私の性分だ。死んでも治らないハハハ。
そして到着した晩に無料の金門政府発行の二冊の金門観光地図をもらっていたが、Sさんからまた別に四冊の地図をもらった。その中の一冊に「漫遊・探訪:後浦小鎮」という地図があった。金門島に行けば、どこのホテルにも置いているはずの、これらの地図をもらえばガイドブックより価値がある。今手元に6冊ある。同じ大きさで大小金門島の全図と目的別の案内が詳しく載っている。日本語の案内地図もその中に一冊ある。
この「漫遊・探訪:後浦小鎮」の地図を見て、金城散策はこれだと決めた。ちなみに後浦(Hòu pǔ ホープゥ)は金城の旧名。金城市内に1番から10番の目的地が徒歩ルートで示され、全行程約2時間となっている。それぞれの距離も明示され、地図上に分りやすくルートが示してあるので「よし!これに挑戦だ」ということで、午前7時半頃民宿を出発した。
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量と質、朝食はこれで満足
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金門島のいろんな地図が揃っている
全島の詳しい地図で目的別の紹介がある
無料でもらえるのでありがたい
この中の一冊に「漫遊・探訪:後浦小鎮」があった -
?金城市の住宅風景
路地裏の道も整備され
商店街にも近く
暮らしやすそうだ
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■漫遊・探訪:後浦小鎮へ出発
1〜10までの目的地は、「廟」「書院」「樓」「祠」等々で中味は良くわからないが、そんなことよりルート探索に興味深々で歩く。まずスタート地点の總兵署を目指した。昨日の喫茶店の横にあるというのは地図で分ったが、何しろまだ金城市内の地理不案内なので、さっとは行けない。
大陸支那の街は大概歩道は駐車車輌等々で占拠されまともに歩道の役割をなしていない。この金門島は歩道の上にラインを敷いて原付単車の駐車場となっている。でも歩行者の歩くスペースは確保され歩道の機能は失っていない。目の前の対岸、厦門はどうなのか?興味あるなァ〜行くべきだった。後の祭り。
「漫遊・探訪:後浦小鎮」徒歩ラリー「行程建議(歩行約約2小時旅程)」という表記だったので、民宿を7時半に出発し、8時に出発点の總兵署から歩き始めて2時間なら最後が午前10時、民宿を午前10時(発)で空港へ送ってもらう段取りだったので、一時間半で完走しようと各拠点でゆっくり見ることもなくひたすら早足で歩いた。
ガイドもいなく予備知識もない旅は、こんなものだろう。約2時間と言うのは、それぞれの場所で説明を聞き、見学すべきは見学しての行程であり、早足で回ればその半分の一時間での完走だった。でも自分ではスタンプラリー?に参加している気持ちで地図を広げて立ち止まり、時々地元の人に道を聞き、「これがそうか?」と確かめながら十分楽しめた。
それぞれの建物は旧跡でもあり、今も地元の人たちが参拝したりの廟でもある。「えっ、これが」という超狭い路地が道順になっていたり、まさに私には探訪であった。大陸にへばりつく島でありながら今も台湾政府が統治している不思議を時々思いながら金城市内を歩いていた。
尖閣もそうだが、南沙諸島を自国領と嘯く支那共産党である。誰が見ても「そりゃあいくら何でも、そこはベトナム・フィリピン・インドネシアの領有権争いの場やろ!地図見てお前ら恥ずかしくないんか!」というくらいの離れた島々を軍事力で強引に不法占拠している中共政府。
それが目と鼻の先の金門島を、今もって自国領と出来ない。ここを占拠することはイコール台湾を獲ることになるからだ。この“目の上のたんこぶ”を作った一番の功績は、私は根本中将にあると思っている。奴らには今も獲るに取れない“いまいましさ”があるに違いない。だからこそ触れない。
日本統治時代の台湾は、本島と澎湖諸島だけだった。日本の敗戦によって日本統治は終了したが、台湾の地位は今に至るも確定していない。蒋介石率いる国民党軍が台湾に進駐したが、それは建前は勝者連合軍司令官が出した正式命令「第一号」で、国民党軍は台湾に進駐し日本軍の降伏文書を受け取った。
この時の降伏文書調印式では、国民党の青天白日旗ではなく連合国軍の旗が立っていたそうだ。そして「国際法的には占領軍は占領地の主権を変更出来ない」「領土・主権の変更は統治人民の同意を得なければならない」というのが原則だ。だから占領軍として入ってきた国民党が、その軍事力を持って台湾を支配することは国際法上、当時も今も有り得ない。
これだけでも台湾と言うのがいかなる立場の存在なのかが良くわかる。その流れから見れば、今も蒋介石率いる外省人たちの国民党には、台湾の権力者となる資格はない。そもそも占領軍として台湾に侵攻してきた立場でありながら。そのまま居座っただけの存在だ。そして台湾は無論、1949年に建国した今の中華人民共和国に返還されたものでもない。
台湾本島の立場がはっきりしない上に、金門島・馬祖島は中共政府にすれば難儀なことこの上ない島だろう。 -
歩道には単車用の駐車スペースあり
それだけ単車利用者が多いのだろう
歩道としての機能は保たれている -
?中庭の木がガジュマルと説明されているものが多い
それでは外の木はキワタなのか?
どちらも存在感ある
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(1)總兵署から出発:午前8時頃
Web頁:抜粋
『元は明朝の萬暦年間に才子であった許獬が勉学に励む場所でした。昔は「叢青軒」と称され、清朝の康熙21年に総兵である陳龍が後浦にやってきた後、総兵署に改築され、現在まで残っています。台湾、福建省地域にわずかに残る総兵署役所で、県指定文化財となっています。建物内は計1堂2室4庁で構成され、敷地も広く、正庁の右側と前方にそれぞれ樹齢が百年近い1本のキワタとガジュマルが植樹されています。』 』
内部には地下牢もあるようだし、牢人形もあるらしい。私は總兵署が何かも知らず内部は何も見ず、ただ樹齢100年のキワタ(金門懸の県花)とガジュマルは迫力あった。 -
地下に牢獄あり、蝋人形もある
總兵署内部のことは、すべて帰国後に知る
これを“後の祭り”という -
?總兵署から北鎭廟目指して歩く
普段の金城商店街はもっと賑やかだろう -
玄天「古代の想像上の動物」
東西南北を四神がそれぞれ守護
東「青竜」西「白虎」南「朱雀」北「玄武」
日本の高松塚古墳にも玄武が描かれている
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(2)北鎭廟(ほくちんびょう Běi zhèn miào ベイジェンミャオ)
午前8時過ぎの金城市内はまだ人出も少なかった。約2時間の行程というプレッシャーで、キョロキョロしながらも先をひたすら急いだ。2番目は「北鎮廟」
Web頁抜粋↓
『伝説によると、昔ある老婦人が北京から玄天上帝の像を携行し、この地を通ったところ、一泊することになり、その翌日の早朝、神像が地面にしっかりと固定されていることが発見されたため、地元の住民がこれを神のお告げと考え、資金を集めて北鎮廟を建てたとのことです。』 -
(3)将軍第
?盧成金将軍の居宅
貧しい家に生まれ、少年の頃から軍に身を置き
小刀會(清代の秘密結社)の属し、活躍した
素朴な建物だが地元の人に大切にされているようだ
内部も小奇麗に祭られていた -
(△)陳氏宗祠
?陳と言う名前は金門で一番多い
“陳佐才”が風水の観点でこの地を選び
宣統二年:1910年:明治43年に完成した
日本ではこの年「佐久間艇遭難事件」があり
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E5%85%AD%E6%BD%9C%E6%B0%B4%E8%89%87
日韓併合条約調印が成った -
(△)後浦武廟(内武廟)
?この地の人は「後浦關帝廟」と言っている
創建1652年、1930年に毀損し1984年再建
鄭成功が後浦に居る時海軍の訓練のために作った?
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?金城の路地裏を歩くのも楽しからずや
この小さな島に原付が多い
道路が良いから原付も走りやすい -
乾隆45年に建設
1780年・・・か、233年前の建物としては
綺麗に保存されている
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(4)浯江書院(朱子祠)
Web頁:抜粋
『浯江書院は、昔の金門の四大書院としてわずかに残る書院の一つで、清朝の乾隆45年に建設されました。書院の中庭が講堂で、後方の中庭に朱子祠が建設され、祠内には朱子学の規範及び歴代の賢才を表彰した横額が残されています。
書院内には朱子祠と講堂が古代建築様式として残り、古式ゆかしさを残してます。朱子祠は国指定文化財となっています。』 -
大陸支那との比較は
掃除も行き届き綺麗 -
(△)外武廟
?俗称「馬舍宮」 -
(5)浯島城隍廟
?清代:1813年創建、その後何度も修復され
最初の姿はほとんどないが雰囲気を残しているとのこと
清代の陳龍(軍)が移駐時に建てた廟 -
この建物の隙間の道が、正規の通路
この案内を見逃さないように
私も一度は行き過ぎ、目を凝らして見て分った
これが「トライアルウォーク」一番の“傑作”だった -
(6)陳詩吟洋樓
崩壊間近の“陳詩吟”(人の名前)洋樓
保存か?解体か?
はっきりして欲しいけど・・・
朽ちるを待つ様相である
英国様式で建てたが、完成をまたずして
陳詩吟は病のために亡くなった
ああ無常 -
(7)奎閣
抜粋
『清朝の道光16年に建設され、県指定文化財となっています。浯江新荘の向かいにある狭い裏通りから入ると見つけることができます。天魁星楼には、北斗七星の星主である天魁星が祭られ、科挙試験に参加する学生が敬虔な気持ちでひれ伏していました。
奎閣は六角形の2階建て楼閣で、建築の特徴は柱廊、双塔形式で、泉州晋江派の伝統的な様式の雰囲気を醸し出しています。』
「天魁星楼」とも言う
科挙試験に参加する学生がここで合格を祈願していたのか・・・。
?http://tour.kinmen.gov.tw/japanese/spot_detail.aspx?sn=105&n=10523
「陳詩吟洋樓」と「奎閣」は同じ場所にある -
風制石
日本で言えばお地蔵さんのような物なのか?閩南語では「皇帝石」ともいう
他にもいろんな守護石があるようで
それぞれにその役割は違う
何かオモロイ物が道端にと写真を撮る
?http://www.khjh.km.edu.tw/knlgbase/report/kmstory_2.html -
(8)邱良功母節孝坊
Web頁:抜粋↓
『清朝嘉慶17年に建設され、海賊を征伐し輝かしい戦功を挙げた大将軍である邱良功を厳しく育て、再婚もせず婦人の操を守ったという母親の許氏の事跡を称えたもので、国指定文化財となっています。牌坊は、深緑色の輝緑岩と泉州の白石に彫刻され、台湾、福建地域に現存する牌坊の中でも最も華麗で壮観なものとなっています。
柱脚の石獅子の1匹が「石獅仙姑」の彩衣母獅子として祭られています。伝説では邱良功の母親許氏の化身だといわれ、また地元住民の守護神とされています。』 -
国指定文化財
邱良功は大将軍 -
(9)靈濟古寺
写真右斜め前方:邱良功母節孝坊
この辺りの商店街はそれなりに雰囲気がある
俗称「観音停」
昔、大火事があった時
ここから突然水が湧き出て火事を消したた
その霊験にあやかって名前を「靈濟古寺」と変更した
散歩も楽しい -
春節だからか?
いつもこうなのか?
小さなお寺だが
お参りの人が絶えない -
模範街の傍にある「油条:揚げパン」の店
えらい沢山の人が列をなしていた
結構有名な店のようだけど・・・ -
(10)模範街
抜粋
『明朝鄭時代に陸軍の訓練所がありました。民国14年(1925年)に金門商会の傅錫琪会長が華僑から資金を募り、この日本の大正時代の建築物が建ち並ぶ街道を作りました。アーチが連なった回廊式の洋館32棟がT字形に並んでいます。』
1925年、大正14年か。
『模範街は金門出身の華僑が全盛期の時に
当時最もモダンで最先端な街』
この模範街がそんな由緒ある街だと露知らず
「また中途半端な街並みを・・・」とバカにしていた
帰国後に知る -
金城公車站(バス停)の二階に坑道への入り口がある
ガイド付きでの案内があるようだった
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■金城民防坑道
「漫遊・探訪:後浦小鎮」を走破したところで、この金城市内の地下坑道見学があることが分った。「金城民防坑道」という名前で、入坑の時間が決まっている。入坑口は金城公車站の二階にあった。早速急いでそこに出向いたが、次の入坑まで待ち時間があった。全長1285メートルを解説してもらいながら歩けば、出口の金城高中まで約40分の時間が掛かるとのこと。
残念ながら諦めざるを得ず。ブラブラと最後の金城街の散歩を楽しみながら民宿へと向かう。金門懸政府庁舎の右横に警察署と金門憲兵隊が並んでいる。地図にも明記されているので、それも大陸支那との違いを感じた。向こうの地図は、人民解放軍駐屯の広大な場所でも空白であり地図上にはなにもない。
今日も散策中、若い兵隊姿が沢山目に付いた。これがこの島の日常の光景なのだろう。支那共産党崩壊のその日まできっちり続くに違いない。中共政府は1949年10月建国で、今年の10月でまだ64年の新しいがどうしよううもない国だ。
モンゴル人が支那大陸で作った元は97年で崩壊した。どの道遠からず中華人民共和国なる国?は崩壊する。少しでも早く、そして次はもうちょっとまともな国として大陸に出現することを望む。まあ歴史を鑑みればその望みも空しく、ただ国名が変わるだけで難儀な隣国であり続けるのは間違いない。先人たちの苦労が偲ばれる。 -
坑道・展示館への入り口
時間なく坑道見学はならず
次に来る機会はあるやなしや?
大金門島No.5
漫遊・探訪:後浦小鎮
台北・金門島を訪ねる(十)
http://youtu.be/5jp0b2CdIEw -
MLさんご家族と乳山故壘を再訪する
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■尚義空港へ、サラバ金門島!
無事に10時前に民宿に戻った。てっきり昨日の朝と同じようにSさんの運転で空港へ行くとばかりに思っていたが、誰なのか?良くわからないが夫婦子供の四人家族に車で送ってもらうことになった。車は民宿の車だったけど・・・。そしてSさんの見送りを受けて出発した。
出発して間もなく、運転していた四人家族の主人であるMLさんが、「午後1時発ならまだ時間がたっぷりあるので、空港近くの公園に私たちと一緒に行きませんか?」と誘ってくれた。その公園がどんなところなのか分らなかったので気楽な気持ちで「それならお願いします」ということになった。
到着したら「あ、ここか、昨日来た場所だ」の「乳山故壘」であったが、内緒で何も言わず四人で散策。展示場で休憩しアイスキャンデーをご馳走になった。子供さんは小学校一年と幼稚園で男子二人。一学年七組ある金門一のマンモス校とのこと。
この小さな離島とも言うべき金門島に、何でそんなに子供や若者が多いのだろう。今もって不明だが、予備知識も乏しく正味一日半の滞在ではまったく分らない。1時間足らず公園で過ごし空港へ送ってもらった。一期一会の出会いは終了し、帰国後メールに写真を添付して送ったら丁寧な返信を頂いた。
尚義空港から台北:松山空港へ
来る時は、立榮航空¥9,120 復路は復興航空¥8,580。その差¥540円。 到着時は夜だったのでこの空港の雰囲気は分らなかったが、各航空会社のブースが並び感じは良かった。手続きもあっというまに完了。どこに行っても大陸支那との雰囲気の差を感じて仕方がない。「小日本」「日本鬼子」の世界とはやはり違う・・・。まことに居心地が良い。
航空会社と料金は違っても飛行機の型は同じプロペラ機。ほぼ定刻に八割方の乗客を乗せて金門島上空に飛び立った。太武山が望め、地図の通りの島の半分の形が見えた。あっけないといえばあっけない金門島訪問。通り過ぎ垣間見ただけでの気持ちがするが、やはり来たればこそ分ったことばかりでもある。旅はなんといっても私の成長の糧。
帰国してからの旅行記作りで知ることも多いが、この地に来てこそ身近にイメージできる。この飛行機の小窓から覗き見だけの島影でも、実際に自分の目で見るのと見ないのと全然違う。そうかこれが金門島だ。良くぞあの時「根本博中将」がいてくれた。台湾史に埋没し消されようとしたが事実は強い。いつの日か必ず真実は浮かび上がる。事実はそれだけの力を持つ。いつになろうが真実を求めようとする人間がいれば時を越えて必ずや。
この小さな島のおかげで台湾海峡は支那の思うがままの内海とはならず。ハハハそれだけでも傑作だ。今もこれからも共産党にとっては「喉に刺さった棘」の如く、金門島は台湾とともにその存在感を保ち続けることだろう。日本人「根本中将」が一役買った。根本中将ありがとう!ご苦労様でした。 -
キャンディーを奢ってもらう
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尚義空港は綺麗で明るい雰囲気だった
分りやすく不安なく利用できる空港だ -
航空会社は違うが飛行機は同じ
プロペラ機は何故か郷愁を誘う
よりアナログに近いほうが親近感が沸くのはなぜ? -
太武山が見える
我金門人ならきっと
富士山が見えるが如し
これが故郷というものだ -
地図と同じの金門島の形
飛行機は窓側の席ばかり頼む
靠窗?(Kào chuānghù カオチュアンフ) -
24年前の台湾旅行でも見た圓山飯店が眼下に
台北松山空港に着陸
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■松山空港から長富時尚旅店へ
台北の象徴のような圓山飯店が眼下に見え、すぐに松山空港に午後2時に着陸した。
長富旅店へ行く
台北長富時尚旅店(Taibei zhangfu shishang ludian)宿泊:13日 14日 二泊 ¥20,474
このホテルの所在が地図でも確認できず来るまで不安だった。どうもホテルとしての一棟ではなく、ビルの一画がホテルのような気がしていた。住所と所在地図のプリントをタクシーの運転手に渡して頼んだが、すぐ傍に来ても私自身は分らず。“運ちゃん”が指を指して「ここでしょ」という指先を見たら「長富時尚旅店」のネオンが看板になっていて、「あっ、ホンマここや」だった。松山空港→長富旅店(タクシー代¥145元)
やはり雑居ビルの一画をホテルとしているようだった。ホテルフロントと言っても喫茶店のような感じでお酒も置いている。後から聞いた話だが、昨年12月に新規開店したそうだ。一階はまだ壁面の工事中だった。部屋は5階の508号室といってもエレベータにも4階はなく、504号室もない。
日本語も中国語も4は、日本語「シ:死」中国語「Si:ス:死」と不吉な数字とされ台湾人も忌み嫌っているようだ。日本では建物に4階は大概あるけど。すなわち私が泊まった部屋は4階だった。部屋に入って窓がないことに驚いたが、部屋の綺麗なことにも驚いた。新装だからか部屋はピカピカ。
TOTOウォッシュレット完備。浴槽も十分の深さあり。バスルームは換気、暖房、乾燥設備ありで“サウナ”としても楽しめそう。それに朝食付きで、そこらのモーニングサービスより豪華。これで二泊¥20,474は、文句はない。MRT(地下鉄)中山站から徒歩15分足らず。 -
乗客は八割くらいで盛況なり
この中に私以外の日本人はいたのだろうか? -
ホテルのある長春路を走る
もうすぐ到着のはず -
長富時尚旅店
タクシーの“運ちゃん”に「ここでしょ」と言われるまで
私はまったく気がつかなかった。良くぞ連れて来てくれた -
窓がない・・・けど、室内はピカピカ
これなら文句はない -
バス・トイレも完璧快適
ホテルのウォッシュレットは
二年前の延辺での北朝鮮直営ホテル
「柳京飯店」以来二度目なり -
目の前が雨農橋
その前方が海抜52メートルの芝山
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■芝山巌学堂へ
ホテルに荷物を置き早速出かける。行き先は「芝山巌学堂」。旅立ち前に台北での空き時間にどこに行こうかと探している時、この六士先生のことを知った。
Web頁要約抜粋
『1895年:明治28年5月17日、日清戦争に勝利し台湾が日本に割譲され、すぐの5月21日より日本統治が始まった。日本統治開始後すぐに初代台湾総督に就任した樺山資紀は「教育こそ最優先すべき」とし同年6月、日本全国から集めた人材7名を連れて台湾へ渡り、台北北部の芝山巌恵済宮という道観の一部を借りて同年7月に芝山巌学堂という小学校を設立した。』:以上
当時の日本人に欧米列強のような収奪によっての植民地支配という意識はなかったのだろう。その証が初代総督が「教育こそ最優先すべき」と公言し即座に実行に移したことだ。これには当時世界で覇権を謳歌し植民地から多大の利益を貪っていた欧米諸国は、さぞやそんな日本人に驚愕しただろう。今のように情報は瞬時に世界を駆け巡らないにしたとしても。併合か合邦なのか或いはその是非は別として、所謂欧米型の植民地化ではないことは確かだ。
台湾史
「先史時代」→「オランダ植民統治時代」→「鄭氏政権時代」→「清朝統治時代」→「日本統治時代」→「中華民国統治時代」→「南京国民政府」→「台湾国民政府」→「総統民選期」
誰がどのように台湾史を紐解いても、客観的に見れば「日本統治時代の50年間」に飛躍的・画期的に教育制度が整い、インフラが整備され、現在の経済力を有する国としての基盤とその国を発展維持出来るだけの人間形成の礎が出来たのだと思う。例えそのことを誰もが否定してもだ。
そして日本が統治を始めた頃は、新たな外来権力者への反発から台湾人による抗日闘争も各地で激しく行われたが、それは当然だろう。しかしその後の日本統治の内容に、台湾人も日本なるものを許容し収束した。台湾「併合」或いは「合邦」の50年の歴史は、この台湾においては少なくとも日本の敗戦後に大陸から追われて来た外省人以外の台湾人、本省人は好意的に評価し日台関係は今も良好だ。
戦後から今に至る支那朝鮮の反日意識は、ひとえに中華思想と反日教育のなすところであり、あまりに真実・事実を歪曲し捏造の歴史を誇張し続ける限り、支那朝鮮に明るい未来はない。特に朝鮮半島は日本の併合によってそれまでとはまったく違う国となり、それに加えて戦後の日本の援助によってアジアで有数の経済力を有する国になったのにである。
無事にホテルにチェックインし、30分くらいでホテル前からタクシーで芝山公園に向かった。雨が降りそうな空模様も心配だったが、タクシー(¥200元)で15分ほどで雨農橋を越えて公園に到着。当時、芝山巌の学堂は恵済堂という廟に設けられていた。そして1930/昭和5年、芝山巌学堂跡に芝山巌神社が創建された。
恵済堂は今は隣の場所に立派な本堂があり、春節の今日は、芝山公園全体もそうだが多くの参詣客で賑わっていた。芝山巌学堂へ向かう旧芝山巌学神社の階段の何ヶ所かの踏み石に「百二崁歩道」と書き込まれているのでてっきりこの階段が百二段なのかと思ったが一番上を加えたら「124+1=125段」だった。
階段の上り口付近の案内板にも「百二崁」とあり、その下に事件の説明と毎年2月1日ここで慰霊祭が行われていると書かれていた。「百二崁」の「崁:kan かん」は辞書によれば「地名に用いる」とある。「百二崁」はこの場所を示す名前なのかも?階段に手摺が付き年配の方も散歩がてらなのか登っていた。 -
戦後、廃社となった芝山巌神社への階段
六士先生が殺害されて34年後に芝山巌神社は建立された -
百二崁
この案内板の説明は、1895年台湾割譲後に
日本人による台湾での教育の起点であり
翌年六士事件があり、教育精神の象徴
「崁:kan かん」は辞書によれば「地名に用いる」とある
「百二崁」はこの場所を示す名前なのかも?分らん -
この文字盤を見れば誰しも百二段だと思うけど
一ヶ所だけではなく何ヶ所かに嵌め込んでいる -
最上部のこの写真の薄い一段を加えて125段なり
指折り数え、また数えなおして
我62歳にして二往復し、疲れた -
芝山巌神社拝殿へ向かう石段
1930:昭和5年1月15日創建される
今から83年前のことである
その階段を踏みしめ上る
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■六士先生
最初に教師として赴任した責任者は、伊沢修二。日本全国から集めた先生の中に17歳の平井数馬がいる。いつも敗戦までの日本人を思う時、その行動もそうだが文章を読んでも面構えも、今の日本人と比べると10歳以上は大人と感じる。
それは平均寿命との比較より、やはり社会の背景、教育やその他すべてにおいてそうなるべく環境があったとしか思えない。今のヘタレ日本人も、環境が激変すればそのような面構えになり精神年齢も真っ当になると思う。一挙には無理だろうが、ある程度の時間差をもってすれば多分そうなるだろう。という願望だが・・・。
3/4【李登輝元総統】熊本滞在編・平井数馬先生墓参、熊本城参観[H21/9/14]
http://youtu.be/aU38xHXK5a8
その責任者の伊沢修二が日本に一時帰国中の1896年1月1日、元旦の祝典に向かう途中、危険なので退去を勧められたが、楫取道明(山口県、38歳、吉田松陰の甥)の答えは、抜粋:『「死して余栄あり、実に死に甲斐あり」たとえ、説得の利かない相手であっても、もし、逃げてしまえば、臣子の道をはずすことになる。そういって、教員たちはゲリラによる襲撃を知りながら、教育者として説得にあたることを選んだ。』
そして道中、100名ほどの匪賊に襲われ説得の甲斐なく、6人の先生と用務員:小林清吉は惨殺された。その後、六士先生は英雄となり「芝山巌精神」は終戦まで、台湾教育界の指針とされた。そうか、そんなことがあったのか・・・である。戦後生まれの私は、小中高を通じ外地での日本人の英雄偉人伝は、存在が無かったかのように教わった記憶はない。
外地での英雄偉人は、この六士先生もそうだが、戦争に直接関わることではなくても知る機会のないまま今に至っている。インターネットのおかげで知らなかったことが分るようになり、「そんな人がいたのか」「そんなことがあったのか」「今まで何にも知らずにいたなあ」のオンパレードだ。そして知ること知ること先人たちの偉業に感服し感謝の気持ちが募ることばかり。
「南京事件」を筆頭に「慰安婦問題」「731部隊」「柳条湖事件」「盧溝橋事件」「張鼓峰・ノモンハン事件」等々数々の日本悪玉論も、ちょっと調べれば、その構図はどれもが今の支那朝鮮ロシアの言動とまったく同じ構図だ。日本人の悪行がまったくゼロとは言わないが、その事実は謝罪の必要性は微塵もないことばかりである。
「船を当てておきながら当てられた」「毒を入れておきながら、入れたのは日本だ」「レーザー照射をしながら、悪いのはそっちだ」「仏像を盗んでおきながら返さない」・・・とにかく支那朝鮮ロシアは昔も今も結果が全てで、あくまでも自分の都合の良いように捏造する。彼らに真実は不要であり、あるのは相手を貶め、自分を正当化することだけだ。
これを善悪で論じても“せんなきこと”彼らの性根なり。ただ我ら先人同胞の行為を、支那朝鮮ロシアの言い分に組して謝罪し、先人を非難し自らを善とすることだけは万死に値する。支那朝鮮人ならいざ知らず。そんな日本人は必ずや子々孫々の代にいたるも「因果応報の報い」あり。日本人よ、ホントに日本人なら頼むから軽々に先人を貶めるなと思う。
この台湾でも日本の敗戦後、国共内戦で敗れ台湾に逃げ延び居座った国民党政権の排日政策により、六士先生の慰霊碑等はことごとく倒され壊された。そして1958年国民党政府がこの地に立てた石碑「芝山巌事件碑記」では、襲った匪賊は「抗日義士」と称えられ内容はそれまでと正反対になっている。そしてこの地は反日教育の場となった。当時、恵濟宮の住職が密かに六人の墓から遺骨を運び出し、別の場所に隠してくれたとのことである。
しかし時は流れ、蒋介石が死亡し戒厳令も1987年:昭和62年解除され、李登輝が総統に就任。以後台湾が民主化されて民進党の陳水扁が総統に選ばれた2000年頃から台湾でも歴史を見直す動きが始まり、ここも再建されている。なかでも時の総理・伊藤博文が揮毫し明治29年(1896年)に建立された「學務官僚遭難之碑」は引き倒されたあと大きなベンチになっていたそうだが、文字面が地面に接しており石碑の文字の状態は良く残っている。
再建後も外省人などの反日勢力によって今も落書きなどがあるそうだが、この日私が見る限り何事もなく堂々と立っていた。面白いのは戦後引き倒され再建された「學務官僚遭難之碑」と、匪賊を抗日義士と称えた反日「芝山巌事件碑記」が、芝山巌神社本殿跡の雨農閲覧室を正面に参道を隔てて左右に並び立ててあることだ。雨農閲覧室は春節休みなのか施錠され入れずに残念だった。
ちなみに雨農というのは人物の名前で「戴 笠(たい りゅう)」のこと。『蒋介石は、「戴笠が生きていたら、台湾に撤退せずにすんだのに。」とのちに述べたといわれる。』特務機関を作り、軍の秘密活動で主導的役割を果たした。そんな人間が、この本堂跡の図書館の名前になっているとは・・・ -
私の瞼には正面に芝山巌神社拝殿があり
昭和5年といえば父や叔母はとっくに生まれていた
勇躍、命懸けの情熱で日本人は台湾の国の発展に尽力した
当時の白人植民地統治を考えればまるで驚天動地の統治なり
生活保護受給を恥とも思わぬ今時の日本人は不幸の極みなり -
神社拝殿跡は中華風休憩所になった
-
學務官僚遭難之碑
台灣全島歸我版圖革故鼎新聲教為先正五位
楫取道明等六人帶學務派八芝蘭士林街專從其事會
土匪蜂起道明等死之時明治二十九年一月一日也
内閣總理大臣大勳位侯爵 伊藤博文書
「用務員:小林清吉」を含めて七人が犠牲になる -
匪賊を抗日義士と称えた「芝山巌事件碑記」
本堂に向かって左が「學務官僚遭難之碑」
右にこの「芝山巌事件碑記」が建つ -
芝山巌神社本堂跡「雨農閲覧室」
残念ながら休館なのか施錠して入れず -
芝山巌事件の展示があった
窓外から写真を撮る -
観光客たちらしき人たちが
「學務官僚遭難之碑」を見ていた -
壊されていたのを再建してくれただけでも有難い
この碑に刻まれた一人一人にどんな人生があったのか?
親があり兄弟もいる、そして日本を離れた台湾で死す
当時の親も今の親も子を思う気持ちは変わらない
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■故教育者姓名
その他にも「故教育者姓名」の碑が破壊された物を繋ぎ合わせて修理し、二基並んで再建されている。名前は日本人名で女性の名前もあった。ざっと数えただけだが「175名」ほどの名が刻まれていた。どれくらいの期間に亡くなったのか?分らないが、日本統治50年の間に多くの日本人教育者が台湾の地で亡くなっている。
「大東亜戦争遺跡」
http://sakurasakujapan.web.fc2.com/main02/taiwantaipei/area21.html
によれば『芝山巌神社にはこの6人をはじめ、台湾教育に殉じた人々が1933年までに330人祀られた。そのうち台湾人教育者は24人であった。』とある。
その他にも、士林公学校卒業生有志が1995年に建立した「六氏先生之墓」があった。この芝山岩文化遺跡公園は、自然環境を守る目的があるのか?柵がある板敷きの遊歩道上を歩くようになっている。「六氏先生之墓」は、苔むす石畳の遊歩道の向こうに立つ立派な墓碑だった。でも傍には寄れず遊歩道の上から眺めるしかなかった。卒業生有志が立ててくれたことに大きな意味がある。
敗戦後、神社や石碑が破壊されたとはいえ、時代が変わりこうやって再建されているのは日本人として嬉しいことだ。同じ併合を経ての朝鮮半島人との民族の資質の違いを感じる。私は大東亜戦争を日本の歴史上燦然と輝く快挙だと賛美する者であり、江戸から明治維新、そして日清日露戦争を経て敗戦にいたるまで、日本が選択してきた道は、当時の世界情勢の中でほぼ間違っていなかったと思っている。
唯一、私が間違いだったと思うのは「支那事変の拡大」だけだ。満洲建国・台湾・朝鮮半島の併合もしかり。当時の世界情勢においては間違ってはいないと信じる。結果的に朝鮮併合は、「労多くして益なし」を今も実感しているが台湾は日本と欧米の植民地政策の遣り方がまったく異質だったことの証明の地でもある。
台湾・満洲・朝鮮半島・南洋群島併合で私が学んだことは、日本は未来永劫どんな状況になっても他国を併合も合邦も金輪際するなという一点に尽きる。その理由は、日本人は他民族を冷徹に扱うことも出来ず、共生も不向きな民族だからである。
交流は大いにすべしだが、同じ民族・文化を共有したものが共同体(国家)を形作り、他民族とは互いにそれぞれの国家を尊重しあい、互いに侵すべからざるルールを遵守しながら、共にそれぞれの国土を守り、その枠内で共栄共存を図るのが日本と日本人の最善の道だ。
日本人は世界のどの民族よりも、相手に気遣いし、おひとよしで厚かましさもなく、「庇を貸して母屋を取られる」・・・その典型が日本人。他民族との共生は自分で自分の首を締めるに等しい。動物の本能と習性に学ぶことが第一であり、本能は全て善である。理性や綺麗ごとこそ争いの種を作り不幸を招く。
しばらくの間、この芝山巌学堂付近に佇み六士先生を偲び、ぶらぶらと訪れる人たちを眺めていた。 -
女性の名前もあった
日本統治の五十年
残念ながら今回の旅で
日本語で話す出会いはなかった -
六氏先生之墓
遊歩道から離れ苔むす石畳の向こうに墓がある
花が供えられ線香が立っていた
合掌し冥福を祈る -
こうやって遊歩道が芝山の周囲を巡る
台北市民の憩いの場なのだろう -
■六氏先生
楫取道明 (山口県、38歳、吉田松陰の甥)
関口長太郎 (愛知県、37歳)
中島長吉 (群馬県、25歳)
桂金太郎 (東京都、27歳、東京府士族)
井原順之助 (山口県、23歳)
平井数馬 (熊本県、17歳)
六士先生のひとりである楫取(かとり)道明の母親は、吉田松陰の妹の寿子(ひさこ)。道明は寿子と小田村素太郎、後に揖取素彦との間に次男として生まれた。因みに小田村四郎は素彦の孫。
揖取道明と久坂玄瑞との関係
吉田松陰には三人の妹がいた。二番目の妹:寿子は揖取素彦に嫁いだが早世した。三番目の妹:文は、安政4年(1857年)、松蔭より10歳年下の久坂玄瑞の嫁に行くが、久坂が元治元年:1864年8月20日満24歳で自刃し文の結婚生活は7年で終止符をうった。その後、文は美和子と改名、姉、寿子が先に嫁いだ揖取素彦と再婚する。なるほどそうだったのか。
山口県萩市には「芝山巖六氏先生追慕之碑」や楫取道明遺骨碑や墓がある。関口長太郎は愛知県の西尾小学校の初代校長。『最年少の平井数馬は、日本最年少の十六歳の若さで高等文官試験に合格した優秀な人材であった。』・・・そうか、そんな優秀な人材が台湾行きを希望し、日本政府は台湾人教育に送り出していた。 -
この六士先生のことを知っている日本人は
今この日本にどれくらいいるのだろう
芝山巌学堂
台北・金門島を訪ねる(十一)
http://youtu.be/uyIyY6yPlnc -
戦後、国民党の反日政策が始まり六士先生の墓が破壊された時
恵濟宮の住職が密かに六人の墓から遺骨を運び出し別の場所に隠してくれた
感謝!
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■芝山巌恵済宮
芝山巌学堂跡から六士先生の墓碑の前を通り、春節休みで賑わう海抜52メートルの芝山の遊歩道を歩き芝山巌恵済宮に行った。このお寺の前が広場になっており眺望が良い。台湾の人たちのお参り風景を見て、また来た道を芝山巌学堂へと戻る。
今から117年前の明治29年(1896年)に建立された「學務官僚遭難之碑」をもう一度眺めた。明治29年か、この8年後の1904年:明治37年日露戦争開戦となる。雄々しき時代の日本があり、日本人がいた。羨ましきかな。 -
大勢の参拝客で賑わっていた
-
お宮の前庭は広くて眺望が開けている
ゆっくり眺めていたら
いろんな風景が目に入るのだろうけど
そんな気持ちの余裕もなく -
昭和20年8月15日当時のここからの風景は
どんな風景だったのだろう?写真があれば見たいけど
昔に比べれば随分様変わりした台北市内だろう -
恵済宮への正面参道
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■MRT芝山站
ここからMRTで帰ろうと地図を見て、芝山站方向に向かう。途中何人かの人に道を聞くも要領を得ず、最後に聞いたエリート風の“おっちゃん”が、「今ウォーキング中なので、一緒について来て」と言ってくれた。
歩きながら話した所では、二人娘で長女は香港で銀行勤め、次女はアメリカに留学中とのことだった。無事に芝山站に着いたが、切符の自動販売の買い方が分らず、もたもたする。先に金を入れずに、行き先を押してからお金を投入したらプラスチックの丸型青色コインが出てきた。芝山站から六つ目の站が中山站。ここで降りて、ホテル方向に向かう。 -
MRT芝山站
芝山巌学堂から歩いてそこそこ遠かった
人に聞いて分ったけど
地図だけでは多分難しい -
芝山−士林−剣潭−圓山−民権西路−雙連−中山
芝山から六つ目の駅が中山站だった -
日本と同じような車内の雰囲気
支那の喧騒は感じない -
これが中山站
-
明日のツアーの待ち合わせ場所は
この台北晶華酒店(リージェントホテル)前のバス停
バス停はこの時確認できず
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■長春路:吉野家の牛丼を食べる
初めて歩く道だが、地図で方角は分かっているので不安はない。途中明日のオプショナルツアー「九份観光と台北市内観光」の集合地点である台北晶華酒店(リージェントホテル)を確認し、それから自分のホテルである長春路の長富時尚旅店の前を通って、これも旅たち前にネット地図で見つけ、この日この時に行こうと思っていた牛丼「吉野家」に向かった。
ハハハ地図と同じ場所に当たり前だろうけど牛丼「吉野家」を見つけて入る。ホントにグーグルアースやネット地図には感謝する。地球規模でどこでも衛星写真画像が、自宅のパソコン画面で無料で見れるなん今も半分信じられない気持ちだが、これが現実であり、ならば将来はどこまで進化するのか?百年後は如何にである。
店内は日本の吉野家とは様式は違う。先に注文カウンターで注文しお金を払う。牛丼並み¥79・キムチ¥30・味噌汁¥30・納豆¥25で計164元、でも¥30元の特別割引があるようで¥134元(約402円)だった。味は日本と同じで旨かった。この時、隣の“おっちゃん”が、胃がつかえたようで「背中を叩いてくれ」と頼まれた。
背中を叩くともっと強くと言われ平手で強く何度も叩く。この“おっちゃん”その後、気分が悪いのかトイレに長く入っていたが、半分も食えずにお持ち帰りの牛丼をぶら下げて店を出て行った。ここでも驚いたのが、セルフサービスがちゃんと成り立っていたことだ。大陸支那ではそんな光景を見たことが無い。ここでは日本と同じように食べ終わったら返却棚に返していた。 -
旅行前にグーグルアースでここにあると確認していた
不思議だが?そこにあったハハハ、来台前の望み叶う
“Google マップ”
https://maps.google.co.jp/maps?hl=ja&ll=25.054985,121.523584&spn=0.000005,0.002411&t=m&z=19&brcurrent=3,0x0:0x0,1&layer=c&cbll=25.05498,121.523779&panoid=f6S2yCkOhgLBUgP8lX82pA&cbp=12,357.25,,0,0.1
2013/平成23年2月13日(水)ここで牛丼並を食う -
日本の吉野家と店内形式は違う
海外はみんなこんな形なのかも? -
牛丼並み・キムチ・味噌汁・納豆
計134元(約402円)高いのか安いのか?
牛丼の味は変わらず、“つゆだく”は有るのか? -
ちゃんと返却口があり、セルフサービス成立せり
そういえば日本では吉野家にセルフサービスはないけど -
長春路も夕闇の風景来る
グーグルアースで探しまくったこの道を
トボトボ歩くのも面白きかな
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■ホテルに戻る
そしてこの後、ホテルに戻り、大金門島で目覚めてからの今日一日の私の旅は終了した。このホテルは去年12月オープンしたばかりで、部屋は最高に綺麗で、設備も整っていた。テレビもパナソニックの大型液晶テレビ。台湾メーカーもあるだろうに日本製テレビが備えてあった。金門島では見れたNHK放送は何故か映らなかったが、北朝鮮の三回目の核実験を報じていた。
明日は「九份観光と台北市内観光」ガイドの案内なので、何の心配もなく待ち合わせに遅れないように行くだけだ。ツアーは気分的に楽勝だ。
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