2013/02/02 - 2013/02/02
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ドクターキムルさん
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川崎市幸区下平間にある称名寺は浄土真宗大谷派(東本願寺派)のお寺で平間山称名寺という。称名寺の創建年代は不詳であるが、文化・文政期(1804年〜1830年)に編まれた新編武蔵風土記には僧円山(応永元年(1394年)示寂)が真言宗寺院として創建し、本願寺二世如信上人((1235〜1300)の代に、浄土真宗へ宗旨を改めたと伝わる。また、本尊弥陀の立像(長2尺6寸許)は本願寺の六世巧如(ぎょうにょ)(1376年〜1440年)の作とある。室町時代の創建とすれば、鎌倉時代の如信上人の頃ではなく、室町時代の巧如の頃に改宗したのであろうか。本願寺が東西に分裂する江戸時代以前からのお寺であることは間違いなかろう。
また、川崎大師と呼ばれる平間寺の弘法大師像は、かつて称名寺が真言宗寺院だった頃に所蔵していたものだと伝えられている。平間山と平間寺の平間繋がりであろうか。
赤穂浪士所縁の寺としても有名で、大石内蔵助が吉良上野助邸へ討入りを果たす前に、寺の前にあたる現在の県営下平間住宅があるところにあった下平間村軽部五兵衛宅に逗留していた。五兵衛は江戸赤穂藩の上屋敷に出かけては屋敷内から出た下肥をもらっていたので、後の赤穂浪士四十七士となる堀部弥兵衛(安兵衛の義父)・大高源吾・富森助右衛門とは特に親しい間柄であったといわれている。藩主浅野匠頭上が切腹し、即刻、赤穂藩の江戸上屋敷・下屋敷は明け渡しとなり、屋敷内の家財道具などの片付けに協力しただろうし、五兵衛宅には寓居(仮宅)を建て、富森助右衛門が住んだ。江戸に上る前に大石内蔵助が立ち寄って10日程度逗留した。多摩川を越えると江戸であり、監視の目も厳しく、討ち入り準備をするのにはここ下平間村が選ばれたのであろう。
赤穂浪士が討入りを果たした12月14日には、称名寺でも大石良雄愛用のおかめの面と書、山鹿素行の書、富森助右衛門愛藏の銚子と盃、浪士の書簡、日上幸川筆の「紙本着色四十七士像」などの遺品が一般公開されている。
(表紙写真は称名寺本堂)
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下平間住宅角の梅。
下平間住宅のある場所には、大石内蔵助が討入り前に逗留した軽部五兵衛宅があった。 -
「浄土真宗 大谷派 平間山 稱名寺」の寺号標石。
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2本線が入る築地塀。5本線か3本線が入る築地塀が普通だが。
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「赤穂浪士所縁の寺」。大石内蔵助が吉良上野助邸へ討入りをする前に、平間村に逗留していたとされ、赤穂浪士所縁の寺として知られる。
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称名寺山門。
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称名寺掲示板。
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称名寺掲示板。
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庫裡。
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庫裡。
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手水舎。
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手水鉢。
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灰皿。石には「煙草」と彫られている。
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灰皿の上には亀が。
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鐘楼。
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梵鐘。昭和51年(1976年)に再鋳造。
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親鸞上人銅像。
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親鸞上人銅像。
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客殿。
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庫裡。
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「称名寺の文化財
当寺は、浄土真宗大谷派に属し、赤穂浪士所縁の寺といわれています。
当寺所蔵の紙本着色・四十七士像は、大石内蔵助を頂点に、赤穂浪士四十七士を左右対称的に配した桂掛風縦長の小品です。図様は、江戸時代に入って盛行した戦国武将列影図を模範にしたもので、精緻に描かれた、画格の高い作品です。延享元年(一七四四)の年記をもっています。
川崎市教育委員会は、この絵画を、昭和六十年十二月二十四日、川崎市重要歴史記念物に指定しました。
昭和六十一年十月 遺品公開 年一回 十二月十四日
川崎市教育委員会」。 -
石碑。
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石碑。
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称名寺本堂。
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称名寺本堂。
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称名寺本堂に掛かる「平間山」の扁額。
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称名寺本堂の龍の彫刻。
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称名寺本堂。
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称名寺本堂の屋根に上がる蕾付き牡丹の飾り瓦。
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称名寺本堂の屋根に上がる唐獅子の飾り瓦。
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称名寺本堂の屋根に上がる唐獅子の飾り瓦。
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称名寺本堂の屋根に上がる蕾付き牡丹の飾り瓦。
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渡り廊下。
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石碑(大正3年(1914年)銘)。
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裏門。
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下平間春風公園トイレ前の早咲きの桜。
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下平間小校庭の風見鶏。
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