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東海道53次、No3,川崎宿から神奈川宿へ<br /><br />【川崎宿】<br />川崎宿は、宿駅制度発足から20年遅れて制定された。東海道を往来する旅人の宿と、厄除けで有名な川崎大師の参拝客でも大いに賑わった。 しかし度重なる火災や戦災、工場開発などで昔の面影はほとんど残っていない。<br />  旧東海道川崎宿には、大名や公家などが宿泊する本陣、宿駅の業務を司る問屋場、近村より徴発した人馬が集まる助郷会所、高札場や火之番所などの公的施設をはじめ、旅籠や商家など350軒程の建物が約1400mの長さにわたって軒を並べ、賑わいを見せていた。<br /><br /> 古文書や絵図から宿の町並みを探ってみると、旅籠は約七十軒を数え、油屋・煙草屋・小間物屋・酒屋などが店を広げる一方、大工・鍛冶屋・桶屋ほか多くの職人や農民も居住しており、活気にみちた都市的景観を認めることができる。<br /> もともと、川崎宿のあたりは砂浜の低地で、多摩川の氾濫時には、冠水の被害に見舞われる地域であった。そのため、旧東海道は砂州の微高地上を通るように配慮がなされ、さらに川崎宿の設置に当たっては、宿域に盛土が施されたという。<br />  現在でも砂子(いさこ)から小土呂(こどろ)辺りを歩いていると旧街道筋が周囲よりも幾分高いことが良く分かる。<br />  川崎宿は、慶安・元禄年間の大地震や宝暦十一年(1761)の大火など度重なる災害に見舞われ、明治維新以降も関東大震災や空襲などで、往時の景観は全く失われてしまった。<br /> しかし、大きな変貌を遂げてきた今日の町並みの中に、宿の成立にかかわる地形や寺院の配置など、川崎宿のおもかげを見ることができる。

東海道53次、No3,川崎宿(2)から神奈川宿(3)へ

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2016/02/18 - 2016/02/18

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ムッシュ

ムッシュさん

東海道53次、No3,川崎宿から神奈川宿へ

【川崎宿】
川崎宿は、宿駅制度発足から20年遅れて制定された。東海道を往来する旅人の宿と、厄除けで有名な川崎大師の参拝客でも大いに賑わった。 しかし度重なる火災や戦災、工場開発などで昔の面影はほとんど残っていない。
  旧東海道川崎宿には、大名や公家などが宿泊する本陣、宿駅の業務を司る問屋場、近村より徴発した人馬が集まる助郷会所、高札場や火之番所などの公的施設をはじめ、旅籠や商家など350軒程の建物が約1400mの長さにわたって軒を並べ、賑わいを見せていた。

 古文書や絵図から宿の町並みを探ってみると、旅籠は約七十軒を数え、油屋・煙草屋・小間物屋・酒屋などが店を広げる一方、大工・鍛冶屋・桶屋ほか多くの職人や農民も居住しており、活気にみちた都市的景観を認めることができる。
 もともと、川崎宿のあたりは砂浜の低地で、多摩川の氾濫時には、冠水の被害に見舞われる地域であった。そのため、旧東海道は砂州の微高地上を通るように配慮がなされ、さらに川崎宿の設置に当たっては、宿域に盛土が施されたという。
  現在でも砂子(いさこ)から小土呂(こどろ)辺りを歩いていると旧街道筋が周囲よりも幾分高いことが良く分かる。
  川崎宿は、慶安・元禄年間の大地震や宝暦十一年(1761)の大火など度重なる災害に見舞われ、明治維新以降も関東大震災や空襲などで、往時の景観は全く失われてしまった。
 しかし、大きな変貌を遂げてきた今日の町並みの中に、宿の成立にかかわる地形や寺院の配置など、川崎宿のおもかげを見ることができる。

旅行の満足度
4.5
  • 多摩川の六郷橋を渡ると川崎宿。以前は舟で渡った時代もあった。木道の橋を架けても多摩川の激流に流されるので、やむなく舟渡しとなった。<br /><br /> 【六郷橋のおいたち】 <br /> 貞享五年(1688)の大洪水で橋が流失してから、江戸の玄関口である東海道を横ぎる多摩川は、もっぱら渡船によって交通していた。<br /> 八幡塚村名主鈴木左内は、幕末から明治初年にかけての交通量の増加を目前に見て、明治七年、左内橋(木造橋)を架橋した。<br /> しかし、木造橋では、破損のたびごとに幹線道路が、渡船に頼るという時代逆行をまねき、その上、自動車の発達も伴って、強度上からもその近代化が急がれた。<br />  木造橋の鉄橋への架け換え計画は大正三年にはじまったが、大正九年、東京府と神奈川県で工費を相互に負担することで、着工のはこびとなった。大正十四年に開通した橋は、タイドアーチ式の近代的なもので、その長さ四四六メートル、幅十六・四メートルにおよぶ長大橋であった。<br />  しかし、交通量の激増、車輌の重量化に対応できなくなり、昭和六十年、新六郷橋が架橋された。<br /> この緑地には、旧橋の橋門と親柱を当時の姿のまま保存している。<br /><br />【六郷の渡し】 <br /> 徳川家康が征夷大将軍に任ぜられる前の慶長五年(1600)に、東海道の多摩川に橋が架けられた。その後何回かの補修や、洪水により流失すると、以後は架橋することなく渡船場が設けられ、船で川を往来するようになった。<br /> 最初は江戸町人が請負っていたものが、元禄四年(1691)からは今の大田区の八幡塚村の請負いとなり、人が六文、本馬が十五文、軽尻が十文と渡船料を徴収した。

    多摩川の六郷橋を渡ると川崎宿。以前は舟で渡った時代もあった。木道の橋を架けても多摩川の激流に流されるので、やむなく舟渡しとなった。

    【六郷橋のおいたち】 
     貞享五年(1688)の大洪水で橋が流失してから、江戸の玄関口である東海道を横ぎる多摩川は、もっぱら渡船によって交通していた。
     八幡塚村名主鈴木左内は、幕末から明治初年にかけての交通量の増加を目前に見て、明治七年、左内橋(木造橋)を架橋した。
     しかし、木造橋では、破損のたびごとに幹線道路が、渡船に頼るという時代逆行をまねき、その上、自動車の発達も伴って、強度上からもその近代化が急がれた。
      木造橋の鉄橋への架け換え計画は大正三年にはじまったが、大正九年、東京府と神奈川県で工費を相互に負担することで、着工のはこびとなった。大正十四年に開通した橋は、タイドアーチ式の近代的なもので、その長さ四四六メートル、幅十六・四メートルにおよぶ長大橋であった。
      しかし、交通量の激増、車輌の重量化に対応できなくなり、昭和六十年、新六郷橋が架橋された。
     この緑地には、旧橋の橋門と親柱を当時の姿のまま保存している。

    【六郷の渡し】 
     徳川家康が征夷大将軍に任ぜられる前の慶長五年(1600)に、東海道の多摩川に橋が架けられた。その後何回かの補修や、洪水により流失すると、以後は架橋することなく渡船場が設けられ、船で川を往来するようになった。
     最初は江戸町人が請負っていたものが、元禄四年(1691)からは今の大田区の八幡塚村の請負いとなり、人が六文、本馬が十五文、軽尻が十文と渡船料を徴収した。

  • 浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像を使用しています<br />【東海道五拾三次 川崎『六郷渡船』広重画】<br />右端、富士山を望みながら、川崎宿へ向う行商人や旅人、川崎大師参りの女達が乗っているところを描いている。

    浮世絵著作権フリー作品「東海道五十三次」からの画像を使用しています
    【東海道五拾三次 川崎『六郷渡船』広重画】
    右端、富士山を望みながら、川崎宿へ向う行商人や旅人、川崎大師参りの女達が乗っているところを描いている。

  • 【史跡東海道川崎宿 六郷の渡し】<br />関東でも屈指の大河である多摩川の下流域は六郷川とよばれ東海道の交通を遮る障害でもありました。<br />  そこで慶長 五年(1600)徳川家康は、六郷川に六郷大橋を架けました。以来、修復や架け直しが行われましたが、元禄元年(1688)七月の大洪水で流されたあとは、架橋をやめ明治に入るまで船渡しとなりました。<br /><br /> 渡船は 、当初江戸の町人らが請け負いましたが、宝永六年(1709)川崎宿が請け負うことになり、これによる渡船収入が宿の財政を大きく支えました。<br />     川崎市

    【史跡東海道川崎宿 六郷の渡し】
    関東でも屈指の大河である多摩川の下流域は六郷川とよばれ東海道の交通を遮る障害でもありました。
      そこで慶長 五年(1600)徳川家康は、六郷川に六郷大橋を架けました。以来、修復や架け直しが行われましたが、元禄元年(1688)七月の大洪水で流されたあとは、架橋をやめ明治に入るまで船渡しとなりました。

     渡船は 、当初江戸の町人らが請け負いましたが、宝永六年(1709)川崎宿が請け負うことになり、これによる渡船収入が宿の財政を大きく支えました。
         川崎市

  • 『六郷の渡しと旅籠街』。<br />「家康が架けた六郷大橋は洪水で流され、以後、実に二百年の間、渡し舟の時代が<br />続きました。舟を降りて川崎宿に入ると、街道筋は賑やかな旅籠町。幕末のはやり唄に<br />「川崎宿で名高い家は、万年、新田屋、会津屋、藤屋、小土呂じゃ小宮・・・・・・」。<br />なかでも万年屋とその奈良茶飯は有名でした。 」

    『六郷の渡しと旅籠街』。
    「家康が架けた六郷大橋は洪水で流され、以後、実に二百年の間、渡し舟の時代が
    続きました。舟を降りて川崎宿に入ると、街道筋は賑やかな旅籠町。幕末のはやり唄に
    「川崎宿で名高い家は、万年、新田屋、会津屋、藤屋、小土呂じゃ小宮・・・・・・」。
    なかでも万年屋とその奈良茶飯は有名でした。 」

  • 「渡し場跡碑と川崎大師灯籠」 明治天皇六郷渡御碑<br />右の灯明は、厄除川崎大師への献灯。川崎大師(平間寺)はここから川沿いの道(大師道)を下り、18丁(1962m)の所にある。<br />川崎大師は大治年間(1126~1131年)の開創といわれ、後北条氏の時代から弘法大師信仰の零場として賑わっていた。江戸時代になると、徳川家斉、家慶、家定、家茂らも厄除け参りをするようになり、御膳所、御成門も建立され、門前町も発達した。<br />川崎宿の繁栄は、この川崎大師の隆盛の影響も大きかった。それほどの賑わいであったという。<br /><br />【東海道と大師道】<br />東海道は、江戸から京都まで、道のりは百二十五里二十町、およそ五百二キロ。<br />徳川家康により特に重視され、整備が急がれた街道。大名行列の多くがここを通り、物資が行き交い、東西の文化交流が進んだ。<br />東海道川崎宿は元和九年(1623)、遅れて宿駅となり、今の小川町あたりから六郷橋まで、小土呂、砂子、新宿、久根崎の四町で構成された。江戸後期から幕末にかけて、旅籠や茶店などが一段と多くなる宿場の最盛期には、渡し舟を乗り降りする旅人、川崎大師へ向う参詣客などで大いに賑わった。<br />川崎大師は当時から日帰り参詣のできる関東屈指の霊場として、広く江戸庶民の人気を集めていたのである。江戸と京都を結ぶ東海道。その宿駅として、また同時に、それに続く大師道に拠点として栄えた川崎宿。  

    「渡し場跡碑と川崎大師灯籠」 明治天皇六郷渡御碑
    右の灯明は、厄除川崎大師への献灯。川崎大師(平間寺)はここから川沿いの道(大師道)を下り、18丁(1962m)の所にある。
    川崎大師は大治年間(1126~1131年)の開創といわれ、後北条氏の時代から弘法大師信仰の零場として賑わっていた。江戸時代になると、徳川家斉、家慶、家定、家茂らも厄除け参りをするようになり、御膳所、御成門も建立され、門前町も発達した。
    川崎宿の繁栄は、この川崎大師の隆盛の影響も大きかった。それほどの賑わいであったという。

    【東海道と大師道】
    東海道は、江戸から京都まで、道のりは百二十五里二十町、およそ五百二キロ。
    徳川家康により特に重視され、整備が急がれた街道。大名行列の多くがここを通り、物資が行き交い、東西の文化交流が進んだ。
    東海道川崎宿は元和九年(1623)、遅れて宿駅となり、今の小川町あたりから六郷橋まで、小土呂、砂子、新宿、久根崎の四町で構成された。江戸後期から幕末にかけて、旅籠や茶店などが一段と多くなる宿場の最盛期には、渡し舟を乗り降りする旅人、川崎大師へ向う参詣客などで大いに賑わった。
    川崎大師は当時から日帰り参詣のできる関東屈指の霊場として、広く江戸庶民の人気を集めていたのである。江戸と京都を結ぶ東海道。その宿駅として、また同時に、それに続く大師道に拠点として栄えた川崎宿。  

  • 【明治天皇六郷渡御碑】<br />明治天皇が御幸された際にまだ多摩川に架橋されておらず、川の中に23艘もの舟を並べて橋のように渡してその上を渡った時の模様が描かれていた。

    【明治天皇六郷渡御碑】
    明治天皇が御幸された際にまだ多摩川に架橋されておらず、川の中に23艘もの舟を並べて橋のように渡してその上を渡った時の模様が描かれていた。

  • この辺り、海に面した海岸街道であった。<br />現在は、埋め立てにより、海ははるかかなたへ。<br />【旧東海道川崎宿】<br />旧東海道川崎宿には、大名や公家などが宿泊する本陣、宿駅の業務を司る問屋場、近村より徴発した人馬が集まる助郷会所、高札場や火之番所などの公的施設をはじめ、旅籠や商家など350軒程の建物が約1400mの長さにわたって軒を並べ、賑わいを見せていた。<br />  古文書や絵図から宿の町並みを探ってみると、旅籠は約70軒を数え、油屋・煙草屋・小間物屋・酒屋などが店を広げる一方、大工・鍛冶屋・桶屋ほか多くの職人や農民も居住しており、活気にみちた都市的景観を認めることができる。<br />  もともと、川崎宿のあたりは砂浜の低地で、多摩川の氾濫時には、冠水の被害に見舞われる地域であった。そのため、旧東海道は砂州の微高地上を通るように配慮がなされ、さらに川崎宿の設置に当たっては、宿域に盛土が施されたという。<br />  現在でも砂子(いさこ)から小土呂(こどろ)辺りを歩いていると旧街道筋が周囲よりも幾分高いことが良く分かる。<br />  川崎宿は、慶安・元禄年間の大地震や宝暦十一年(1761)の大火など度重なる災害に見舞われ、明治維新以降も関東大震災や空襲などで、往時の景観は全く失われてしまった。<br />  しかし、大きな変貌を遂げてきた今日の町並みの中に、宿の成立にかかわる地形や寺院の配置など、川崎宿のおもかげを見ることができる。

    この辺り、海に面した海岸街道であった。
    現在は、埋め立てにより、海ははるかかなたへ。
    【旧東海道川崎宿】
    旧東海道川崎宿には、大名や公家などが宿泊する本陣、宿駅の業務を司る問屋場、近村より徴発した人馬が集まる助郷会所、高札場や火之番所などの公的施設をはじめ、旅籠や商家など350軒程の建物が約1400mの長さにわたって軒を並べ、賑わいを見せていた。
      古文書や絵図から宿の町並みを探ってみると、旅籠は約70軒を数え、油屋・煙草屋・小間物屋・酒屋などが店を広げる一方、大工・鍛冶屋・桶屋ほか多くの職人や農民も居住しており、活気にみちた都市的景観を認めることができる。
      もともと、川崎宿のあたりは砂浜の低地で、多摩川の氾濫時には、冠水の被害に見舞われる地域であった。そのため、旧東海道は砂州の微高地上を通るように配慮がなされ、さらに川崎宿の設置に当たっては、宿域に盛土が施されたという。
      現在でも砂子(いさこ)から小土呂(こどろ)辺りを歩いていると旧街道筋が周囲よりも幾分高いことが良く分かる。
      川崎宿は、慶安・元禄年間の大地震や宝暦十一年(1761)の大火など度重なる災害に見舞われ、明治維新以降も関東大震災や空襲などで、往時の景観は全く失われてしまった。
      しかし、大きな変貌を遂げてきた今日の町並みの中に、宿の成立にかかわる地形や寺院の配置など、川崎宿のおもかげを見ることができる。

  • 『川崎宿の家並 』<br />「旅籠六二軒をはじめ、八百屋、下駄屋、駕籠屋、提灯屋、酒屋、畳屋、湯屋、<br />鍛冶屋、髪結床、油屋、道具屋、鋳掛屋、米屋など合計三六八軒、 文久三年の宿図から 」

    『川崎宿の家並 』
    「旅籠六二軒をはじめ、八百屋、下駄屋、駕籠屋、提灯屋、酒屋、畳屋、湯屋、
    鍛冶屋、髪結床、油屋、道具屋、鋳掛屋、米屋など合計三六八軒、 文久三年の宿図から 」

  • 砂子(いさこ)の里資料館。浮世絵が沢山展示されています。

    砂子(いさこ)の里資料館。浮世絵が沢山展示されています。

  • 曹洞宗の寺。本尊は釈迦如来。鎌倉時代の僧、玄統が開山。川崎宿で最も古い寺である。<br />境内にはかつて宿場の賑わいを支えた飯盛女(遊女)の供養塔があることでも有名。

    曹洞宗の寺。本尊は釈迦如来。鎌倉時代の僧、玄統が開山。川崎宿で最も古い寺である。
    境内にはかつて宿場の賑わいを支えた飯盛女(遊女)の供養塔があることでも有名。

  • 【宗三寺】<br /> 砂子1丁目にある宗三寺の墓所の一番奥に、川崎宿貸座敷組合の建立による遊女供養碑がある。<br />宗三寺は、川崎宿の中心にあり、本陣や問屋場の近くにあった。鎌倉時代の初期に僧玄統が開いた古刹である。<br />後に宇治川の先陣で名高い佐々木高綱がこの辺を領した時の菩提寺でもあった。<br />「江戸名所図会」に、ここの「本尊釈迦如来は一尺ばかりの唐仏」と紹介されている。<br /><br />【宗三寺】 川崎歴史ガイド・東海道と大師ルート<br /> 宗三寺は、中世の河崎庄において信仰を集めた勝福寺の後見とみられる宿内一の古刹である。寺内には、かつて宿の賑わいの中で働いた飯盛り女を供養する石造物が今に残る。<br />【宗三寺】 史跡東海道川崎宿<br /> 中世前期、この付近は「川崎荘」と呼ばれる一つの地域単位を構成していたが、その時代荘内勝福寺という寺院があり、弘長三年(1263)在地領主である佐々木泰綱が中心となり、五千人余りの浄財をあつめて梵鐘の鋳造が行われた。勝福寺はその後退転したようであるが、宗三寺はその後進とみられ、戦国時代、この地を知行した間宮氏が当寺を中興している。<br />  『江戸名所図絵』に本尊釈迦如来は、「一尺ばかりの唐仏なり」とあるように、本尊はひくい肉鬢、玉状の耳朶、面長な顔、腹前に下着紐を結び、大きく掩腋衣をあらわす中国風の像である。墓地には大阪方の牢人で、元和元年(1615)川崎に土着した波多野伝右衛門一族の墓や、川崎宿貸座敷組合の建立した遊女の供養碑がある。        川崎市

    【宗三寺】
     砂子1丁目にある宗三寺の墓所の一番奥に、川崎宿貸座敷組合の建立による遊女供養碑がある。
    宗三寺は、川崎宿の中心にあり、本陣や問屋場の近くにあった。鎌倉時代の初期に僧玄統が開いた古刹である。
    後に宇治川の先陣で名高い佐々木高綱がこの辺を領した時の菩提寺でもあった。
    「江戸名所図会」に、ここの「本尊釈迦如来は一尺ばかりの唐仏」と紹介されている。

    【宗三寺】 川崎歴史ガイド・東海道と大師ルート
     宗三寺は、中世の河崎庄において信仰を集めた勝福寺の後見とみられる宿内一の古刹である。寺内には、かつて宿の賑わいの中で働いた飯盛り女を供養する石造物が今に残る。
    【宗三寺】 史跡東海道川崎宿
     中世前期、この付近は「川崎荘」と呼ばれる一つの地域単位を構成していたが、その時代荘内勝福寺という寺院があり、弘長三年(1263)在地領主である佐々木泰綱が中心となり、五千人余りの浄財をあつめて梵鐘の鋳造が行われた。勝福寺はその後退転したようであるが、宗三寺はその後進とみられ、戦国時代、この地を知行した間宮氏が当寺を中興している。
      『江戸名所図絵』に本尊釈迦如来は、「一尺ばかりの唐仏なり」とあるように、本尊はひくい肉鬢、玉状の耳朶、面長な顔、腹前に下着紐を結び、大きく掩腋衣をあらわす中国風の像である。墓地には大阪方の牢人で、元和元年(1615)川崎に土着した波多野伝右衛門一族の墓や、川崎宿貸座敷組合の建立した遊女の供養碑がある。        川崎市

  • 【田中家本陣跡】<br />田中本陣は寛永5年(1628)に設けられたという宿内最古の本陣。主人の田中丘禺は本陣・名主・問屋の三役を務め後には、幕府の勘定支配格(大名並)にも登用された。<br />本町1丁目。川崎宿の中心の新宿と呼ばれていた所で、ここに田中本陣があった。<br />農政家田中兵庫こと丘偶(きゅうぐ、休愚とも)が田中本陣の主人で、のちに8代将軍吉宗に召しだされ、支配勘定格(代官)となった人である。<br />農政書「民間省要(せいよう)」などの著作がある。また、酒匂川の治水でも大きな業績をあげた人。

    【田中家本陣跡】
    田中本陣は寛永5年(1628)に設けられたという宿内最古の本陣。主人の田中丘禺は本陣・名主・問屋の三役を務め後には、幕府の勘定支配格(大名並)にも登用された。
    本町1丁目。川崎宿の中心の新宿と呼ばれていた所で、ここに田中本陣があった。
    農政家田中兵庫こと丘偶(きゅうぐ、休愚とも)が田中本陣の主人で、のちに8代将軍吉宗に召しだされ、支配勘定格(代官)となった人である。
    農政書「民間省要(せいよう)」などの著作がある。また、酒匂川の治水でも大きな業績をあげた人。

  • 【田中家本陣跡説明】<br /> 川崎宿に三つあったといわれる本陣の中で、最も古くからあった田中本陣は、寛永五年(1628)に設置されている。田中本陣はその場所が最も東、すなわち江戸に近いため「下(しも)の本陣」ともいわれた。<br /> 本陣は大名や幕府の役人、勅使など武士階級専用の宿であった。その構造は、武士階級を宿泊させるために、当時一般の民家には許されなかった門や玄関構え、上段のある書院など、書院造りを取り入れた空間と、本陣の主(宿場の中でも財力があり、信頼のおける名家などが幕府から選ばれた)の一家の生活空間との二つを併せ持っていた。建物の改造や再建には幕府や諸藩から助成を受け、半官半民的な運営がなされた。<br /> 本陣は参勤交代の導入により、多くの大名が街道を旅するようになるとともに栄えたが、江戸後期には、大名家の財政難や参勤交代の緩和により、衰えも目立った。安政四年(1857)、アメリカ駐日総領事ハリスが、田中本陣の荒廃ぶりを見て、宿を万年屋に変えたことは有名である。<br /> 明治元年(1868)、明治天皇の東幸の際、田中本陣で昼食をとり、休憩したとの記録がある。明治三年(1870)、新政府は天然痘流行を機に各地で種痘を行ったが、川崎では十一月から十二月にかけて六回、田中本陣で行う旨の布達が出されている。<br />  宝永元年(1704)、四十二歳で田中本陣の運営を継いだ田中休愚(兵庫)は、幕府に働きかけ六郷川(多摩川)の渡し船の運営を川崎宿の請負とすることに成功し、渡船賃の収益を宿の財政にあて、伝馬役で疲弊していた宿場の経営を立て直した。さらに商品経済の発展にともなう物価の上昇、流通機構の複雑化、代官の不正や高年貢による農村の荒廃、幕府財政の逼迫に対し、自己の宿役人としての経験や、するどい観察眼によって幕府を論じた「民間省要」(みんかんせいよう)を著した。これによって、享保の改革を進める八代将軍吉宗に認められ、幕府に登用されてその一翼を担い、晩年には代官となったのである。

    【田中家本陣跡説明】
     川崎宿に三つあったといわれる本陣の中で、最も古くからあった田中本陣は、寛永五年(1628)に設置されている。田中本陣はその場所が最も東、すなわち江戸に近いため「下(しも)の本陣」ともいわれた。
     本陣は大名や幕府の役人、勅使など武士階級専用の宿であった。その構造は、武士階級を宿泊させるために、当時一般の民家には許されなかった門や玄関構え、上段のある書院など、書院造りを取り入れた空間と、本陣の主(宿場の中でも財力があり、信頼のおける名家などが幕府から選ばれた)の一家の生活空間との二つを併せ持っていた。建物の改造や再建には幕府や諸藩から助成を受け、半官半民的な運営がなされた。
     本陣は参勤交代の導入により、多くの大名が街道を旅するようになるとともに栄えたが、江戸後期には、大名家の財政難や参勤交代の緩和により、衰えも目立った。安政四年(1857)、アメリカ駐日総領事ハリスが、田中本陣の荒廃ぶりを見て、宿を万年屋に変えたことは有名である。
     明治元年(1868)、明治天皇の東幸の際、田中本陣で昼食をとり、休憩したとの記録がある。明治三年(1870)、新政府は天然痘流行を機に各地で種痘を行ったが、川崎では十一月から十二月にかけて六回、田中本陣で行う旨の布達が出されている。
      宝永元年(1704)、四十二歳で田中本陣の運営を継いだ田中休愚(兵庫)は、幕府に働きかけ六郷川(多摩川)の渡し船の運営を川崎宿の請負とすることに成功し、渡船賃の収益を宿の財政にあて、伝馬役で疲弊していた宿場の経営を立て直した。さらに商品経済の発展にともなう物価の上昇、流通機構の複雑化、代官の不正や高年貢による農村の荒廃、幕府財政の逼迫に対し、自己の宿役人としての経験や、するどい観察眼によって幕府を論じた「民間省要」(みんかんせいよう)を著した。これによって、享保の改革を進める八代将軍吉宗に認められ、幕府に登用されてその一翼を担い、晩年には代官となったのである。

  • 佐藤本陣跡説明<br />【佐藤本陣(上の本陣)跡地】 <br /> 本陣は江戸時代、大名や幕府の役人、勅使などが街道を旅する際に宿泊するために、各宿場町に設置された公認の武士階級専用の宿舎である。<br /> 川崎宿が最も栄えた頃には、京都に近い方から、上(佐藤本陣)、中(惣兵衛本陣)、下(田中本陣)の三つの本陣があった。<br />佐藤本陣は、十四代将軍徳川家茂も京都に上がる旅中に宿泊したと言われている。<br />  本陣は、宿場の中でも財力があり、信頼のおける名家が幕府に選ばれて、その主人が運営に当った。<br /> 本陣には、当時武器階級の建築様式であった門や玄関構え、上段のある書院が設置され、主人にはしばしば名字帯刀が許された。<br /> 門を入ると、敷台と玄関からなる「玄関構え」があり、そこで本陣の主と来客の武士とが正式に挨拶を交わした。<br />  門の外にはその日宿泊する大名の紋所の入った提灯が下げられ、大名の権威を象徴する関札が宿入口と本陣前に掲げられた。<br />     東海道川崎宿二〇二三(川崎宿起立四百年(2023年)にむけて、その文化と歴史をまちづくりに活かそう)

    佐藤本陣跡説明
    【佐藤本陣(上の本陣)跡地】 
     本陣は江戸時代、大名や幕府の役人、勅使などが街道を旅する際に宿泊するために、各宿場町に設置された公認の武士階級専用の宿舎である。
     川崎宿が最も栄えた頃には、京都に近い方から、上(佐藤本陣)、中(惣兵衛本陣)、下(田中本陣)の三つの本陣があった。
    佐藤本陣は、十四代将軍徳川家茂も京都に上がる旅中に宿泊したと言われている。
      本陣は、宿場の中でも財力があり、信頼のおける名家が幕府に選ばれて、その主人が運営に当った。
     本陣には、当時武器階級の建築様式であった門や玄関構え、上段のある書院が設置され、主人にはしばしば名字帯刀が許された。
     門を入ると、敷台と玄関からなる「玄関構え」があり、そこで本陣の主と来客の武士とが正式に挨拶を交わした。
      門の外にはその日宿泊する大名の紋所の入った提灯が下げられ、大名の権威を象徴する関札が宿入口と本陣前に掲げられた。
         東海道川崎宿二〇二三(川崎宿起立四百年(2023年)にむけて、その文化と歴史をまちづくりに活かそう)

  • 【芭蕉の句碑】<br />「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」元禄7年(1694)5月、故郷伊賀に向かった芭蕉は、見送りにきた門人たちと川崎宿のはずれの茶店で別れを惜しみ詠んだ句。作吟地に立てられた碑としては大変貴重なもので、江戸時代の川崎宿を偲ばせる最も記念すべき遺産の一つ。碑は1830年に建てられたもの。<br />芭蕉は、この別れから5ヶ月後、大阪で没する。<br /><br />【芭蕉の句碑】<br /> 俳人松尾芭蕉は、元禄七年(1694)五月、江戸深川の庵をたち、郷里、伊賀(現在の三重県)への帰途、川崎宿に立ち寄り、門弟たちとの惜別の思いをこの句碑にある<br />    「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」の句にたくしました。<br /><br />芭蕉は、「さび」「しおり」「ほそみ」「かろみ」の句風、すなわち「蕉風」を確立し、同じ年の十月大阪で、<br />    「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」<br />という辞世の句をのこし、五十一歳の生涯をとじました。<br />  それから 百三十余年後の文政十三年(1830)八月、俳人一種は、俳聖の道跡をしのび、天保の三大俳人のひとりに数えられた師の桜井梅室に筆を染めてもらい、この句碑を建てました。<br />             昭和五十九年十月 川崎市教育委員会<br /><br />【麦の別れ】<br />元禄七年(1694)五月十一日(現在の六月下旬)に俳人松尾芭蕉が江戸深川の庵をたって郷里伊賀国拓殖庄へ帰る時、江戸から送ってきた門人たちと川崎宿はずれの 現在の場所八丁畷の腰掛茶屋でだんごを食べ乍ら休息しました。そして最後の別れをおしんで「翁の旅を見送りて」と題して各人が俳句を読みあいました。弟子たちの句にたいし芭蕉は<br />       麦の穂をたよりにつかむ別れかな<br />と辺歌し弟子たちの親切を感謝し麦の穂を波立てて渡る浦風の中を出立しました。<br />川崎宿の八丁畷あたりになると人家はなくなり街道の両側は一面の田畑でした。このあたりによしず張りの掛茶屋ができ酒や一膳飯を売っていました。芭蕉はこの年の十月大阪で亡くなったのでこれが関東での最後の別れとなりました。

    【芭蕉の句碑】
    「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」元禄7年(1694)5月、故郷伊賀に向かった芭蕉は、見送りにきた門人たちと川崎宿のはずれの茶店で別れを惜しみ詠んだ句。作吟地に立てられた碑としては大変貴重なもので、江戸時代の川崎宿を偲ばせる最も記念すべき遺産の一つ。碑は1830年に建てられたもの。
    芭蕉は、この別れから5ヶ月後、大阪で没する。

    【芭蕉の句碑】
     俳人松尾芭蕉は、元禄七年(1694)五月、江戸深川の庵をたち、郷里、伊賀(現在の三重県)への帰途、川崎宿に立ち寄り、門弟たちとの惜別の思いをこの句碑にある
        「麦の穂をたよりにつかむ別れかな」の句にたくしました。

    芭蕉は、「さび」「しおり」「ほそみ」「かろみ」の句風、すなわち「蕉風」を確立し、同じ年の十月大阪で、
        「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」
    という辞世の句をのこし、五十一歳の生涯をとじました。
      それから 百三十余年後の文政十三年(1830)八月、俳人一種は、俳聖の道跡をしのび、天保の三大俳人のひとりに数えられた師の桜井梅室に筆を染めてもらい、この句碑を建てました。
                 昭和五十九年十月 川崎市教育委員会

    【麦の別れ】
    元禄七年(1694)五月十一日(現在の六月下旬)に俳人松尾芭蕉が江戸深川の庵をたって郷里伊賀国拓殖庄へ帰る時、江戸から送ってきた門人たちと川崎宿はずれの 現在の場所八丁畷の腰掛茶屋でだんごを食べ乍ら休息しました。そして最後の別れをおしんで「翁の旅を見送りて」と題して各人が俳句を読みあいました。弟子たちの句にたいし芭蕉は
           麦の穂をたよりにつかむ別れかな
    と辺歌し弟子たちの親切を感謝し麦の穂を波立てて渡る浦風の中を出立しました。
    川崎宿の八丁畷あたりになると人家はなくなり街道の両側は一面の田畑でした。このあたりによしず張りの掛茶屋ができ酒や一膳飯を売っていました。芭蕉はこの年の十月大阪で亡くなったのでこれが関東での最後の別れとなりました。

  • 八丁畷駅に着く少し手前に【芭蕉の「句碑」】がある。<br />「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」とあり、碑の前にも、これにちなんで麦を植えてある。<br />元禄7年(1694)芭蕉は故郷伊賀上野に向う旅に江戸深川を出立。ここまで見送りに来た弟子達と別れを惜しんで、この句を詠んだと云います。<br />*芭蕉はこの旅の道中の大坂で亡くなったため、この句は関東で詠んだ最後の句となった。<br /><br />【八丁畷の由来と人骨】<br /> 江戸日本橋を出発点とする東海道は、川崎宿を過ぎてから隣の市場村(現在の横浜市鶴見区尻手・元宮・市場のあたり)へいたります。この区間は八丁(約870メートル)あり、畷といって、道が田畑の中をまっすぐにのびていましたので、この道を八丁畷と呼ぶようになりました。<br /> 八丁畷の付近では、江戸時代から多くの人骨が発見され、戦後になっても、道路工事などでたびたび掘り出され、その数は十数体にも及びました。これらの人骨は、東京大学の人類学の専門家によって科学的に鑑定され、江戸時代ごろの特徴を備えた人骨であることが判明しました。<br /> 江戸時代の記録によりますと、川崎宿では震災や大火・洪水・飢饉・疫病などの災害にたびたび襲われ、多くの人々が落命しています。おそらく、そうした災害で亡くなった身元不明の人々を、川崎宿のはずれの松や欅の並木の下にまとめて埋葬したのではないでしょうか。<br /> 不幸にして落命した人々の霊を供養するため、地元では昭和九年、川崎市と図ってここに慰霊塔を建てました。<br />     平成元年三月 川崎市教育委員会<br /><br />【江戸時代のこの辺りは・・・ 八丁畷(はっちょうなわて)」 東海道川崎宿史跡めぐり<br /> 宿はずれのこの辺りは、隣の市場村まで、田んぼに囲まれたまっすぐな畷道(なわてみち)が続いていました。<br /> かつては道の両側合わせて松28本、杉249本、榎7本の並木(寛政年間・石井家文書)もあり、現在の下並木の地名の由来だそうです。上並木という地名もありましたが、現在は公園の名前としてのみ残っています。<br /> 市場村との村境には棒示杭が建っていました。木造だった棒示杭は、現在残っていませんが、絵図などを見ると非常に立派なもので、建替えに代官の許可がいる公的なものでした。川崎宿に幕府の役人や地方の大名などをお迎えする際、川崎宿の名主や問屋の役人は、この棒示杭まで、お出迎え、お見送りしました。<br /> また、ここから神奈川方面、約1Km先には、日本橋を出てから5番目の一里塚が残っています。

    八丁畷駅に着く少し手前に【芭蕉の「句碑」】がある。
    「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」とあり、碑の前にも、これにちなんで麦を植えてある。
    元禄7年(1694)芭蕉は故郷伊賀上野に向う旅に江戸深川を出立。ここまで見送りに来た弟子達と別れを惜しんで、この句を詠んだと云います。
    *芭蕉はこの旅の道中の大坂で亡くなったため、この句は関東で詠んだ最後の句となった。

    【八丁畷の由来と人骨】
     江戸日本橋を出発点とする東海道は、川崎宿を過ぎてから隣の市場村(現在の横浜市鶴見区尻手・元宮・市場のあたり)へいたります。この区間は八丁(約870メートル)あり、畷といって、道が田畑の中をまっすぐにのびていましたので、この道を八丁畷と呼ぶようになりました。
     八丁畷の付近では、江戸時代から多くの人骨が発見され、戦後になっても、道路工事などでたびたび掘り出され、その数は十数体にも及びました。これらの人骨は、東京大学の人類学の専門家によって科学的に鑑定され、江戸時代ごろの特徴を備えた人骨であることが判明しました。
     江戸時代の記録によりますと、川崎宿では震災や大火・洪水・飢饉・疫病などの災害にたびたび襲われ、多くの人々が落命しています。おそらく、そうした災害で亡くなった身元不明の人々を、川崎宿のはずれの松や欅の並木の下にまとめて埋葬したのではないでしょうか。
     不幸にして落命した人々の霊を供養するため、地元では昭和九年、川崎市と図ってここに慰霊塔を建てました。
         平成元年三月 川崎市教育委員会

    【江戸時代のこの辺りは・・・ 八丁畷(はっちょうなわて)」 東海道川崎宿史跡めぐり
     宿はずれのこの辺りは、隣の市場村まで、田んぼに囲まれたまっすぐな畷道(なわてみち)が続いていました。
     かつては道の両側合わせて松28本、杉249本、榎7本の並木(寛政年間・石井家文書)もあり、現在の下並木の地名の由来だそうです。上並木という地名もありましたが、現在は公園の名前としてのみ残っています。
     市場村との村境には棒示杭が建っていました。木造だった棒示杭は、現在残っていませんが、絵図などを見ると非常に立派なもので、建替えに代官の許可がいる公的なものでした。川崎宿に幕府の役人や地方の大名などをお迎えする際、川崎宿の名主や問屋の役人は、この棒示杭まで、お出迎え、お見送りしました。
     また、ここから神奈川方面、約1Km先には、日本橋を出てから5番目の一里塚が残っています。

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