2012/05/12 - 2012/05/14
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frau.himmelさん
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ヨーロッパ現代史の十字路。
これは今回私が参考にした本のサブタイトルです。
まさに歴史に興味のある人にとってベルリンはこの上なく面白いところ。
プロイセン王国、ナチスによる支配、世界冷戦に伴う東西ドイツ分割、壁崩壊とドイツ統一などなど。
何度訪れても、これで満足と思ったことはありません。
今年もやってまいりました。
一人旅も20日近く経過すると、無性に日本に帰りたくなります。
まあ疲れもピークに達しているのでしょうね。
この頃は毎日毎日、あと帰国日まで何日!なんて指折り数えていました(笑)。も〜ういくつ寝ると〜お正月〜♪状態です。
ちょっと一人旅には長すぎましたね〜。
さあ!そんな弱音を吐いていないで、せっかく大好きなベルリンにいるのですから、今日も元気に頑張りましょう!!
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シュタージ博物館を後に、トレプトウに向かいます。
1駅先のフランクフルター・アレー駅からSバーンに乗ればいいのです。
歩いても大したことはないのですが、これから先の行程を考えて、1駅でも地下鉄で移動します。
ところでマクデレーネンシュトラーセ駅の壁には、前衛的なタッチの歴史画が描かれていました。
この絵は「1848年3月」。
私の愛読している歴史書によると、プロイセン王国に民衆が民主化を求めて蜂起した日だと。 -
「鉱山労働者の暴動」
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「第二次世界大戦」
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「敗戦で焦土となったベルリン」。
ベルリンの地下鉄の壁には、テーマにそっていろんな歴史図が描かれているんですよ。
電車を待つ間にも歴史のお勉強が出来ます。
まさにベルリンは歴史を忘れない街! -
フランクフルター・アレー駅からSバーンで、これも1つ目のトレプトウ公園駅に到着しました。
-
目の前には広大な公園が広がっています。
さあー困った。探すものはどこにあるんだろう?
大きなものだから駅を降りたらすぐ見えると思っていたのに…。
むやみに歩いて体力を消耗したくないし…。
通る人を待ち受けるも、なかなか来ません。
こんなところを訪れる物好きは私だけ?(笑) -
やっと通りがかった青年に聞きました。
「この近くにソ連の大きな像があると聞いたんですが、どこが分かりますか?」。
その青年、少し考えて、
「そういえばあっちの方にそんなものを見たような気がする。」って。
現地の人も知らない…!?
まあ若者だから第二次大戦のことなんか余り知らないか…。 -
彼が指さしたほうに歩きます。
「プーシキン・アレー」、おっロシアの名前ですね。
ここトレプトウ公園に、旧ソ連軍の戦没者のための巨大な慰霊碑があるというのです。
何でも高さ12メートル?
公園の中にそんな大きなものがあればすぐ判るはず…、と思っていました。 -
ここが入口のようですね。
門の上には1945年と。
第二次大戦でソ連は最も大きな被害を受けました。
ドイツとソ連は「独ソ不可侵条約」なるものを結んだものの、いろんないきさつから、1941年にナチス・ドイツは突然ソ連に侵攻しました。
その後苦難の末、ソ連軍はベルリンにたどり着きました。
そこでナチスドイツ軍との攻防戦が繰り広げられます。
ベルリンでの戦いで2万人ものソ連兵がなくなったということです。 -
第二次大戦での犠牲者はソ連が最も多く、2千万人とも言われています。
ソ連はこの戦いを「大祖国戦争」と呼び、永遠に記憶にとどめるモニュメントを造っています。
ここもその一つ。
中に入って見上げたゲートの上には、ソ連兵士を称える文字が彫ってあります。 -
中に入ると先ず最初にこの像が出迎えます。
慰霊像にむかってお祈りをしてる女性像。
台座には沢山の花が手向けてありました。 -
女神が頭を垂れているほうを見ると…。
逆光で見えにくいけど、はるか彼方に像が見えます。
わあー、あんな遠くー!? -
その手前には同じく像に向かってかしずく護衛兵。
日本のお寺に例えると、さっきの門が山門で、これはさしずめ仁王門。
この護衛兵は仁王さまね。 -
拳銃を捧げ持つ仁王さま、じゃなかった兵士像。
ここにも花とリボンが…。 -
ソ連の戦勝記念碑&戦没者慰霊碑。
ここまで来たけど、あの階段を登って像に近づくのは止めました。
体力温存体力温存! -
少し大きくして、画像処理を少し加えて…。
やっぱりボケはボケですね。
高さ12メートル、重さ70トンのソ連兵士の英雄像。
右手には長い剣を持ち、左手には小さな女の子(この子は新生ドイツの象徴なんですって)、そして靴の下にはナチスのハーケン・クロイツを踏みつぶしているんだそうです。 -
まあとにかく広いのなんのって、
これ全部詳しく見ていたら他が回れなくなります。
あそこに見える石板の一つ一つにも歴史的な事柄を表した浮き彫りがあるのですが、これもパスしました。
いつもそう感じるのですが、ソ連関係のモニュメントって大きいですね。 -
パネルで説明してありました。
これは1949年5月8日、この慰霊碑の落成式が行われたときの模様です。
光が差し込まないように斜めから撮っていますので、見にくいですがご容赦を。 -
あ、これで少しは兵士の顔の表情が見て取れますね。
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ソ連の子供達も落成式に参列させられちゃった?のですね。
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さーて、戻りましょうか。
入口のほうからロシア人でしょうか、ゾクゾクこちらに向かってきています。 -
トレプトウ駅からSバーン環状線で(ベルリンにも山の手線みたいな環状線があります)で4つ目のテンペルホーフ駅に。
そうテンペルホーフと言ったら飛行場ですね。
ここからもう少し地下鉄に乗換えて…。 -
プラッツ・デア・ルフトブリュッケ駅。
ここもテンペルホーフ空港の一部なのです。 -
案内にしたがって地下道をくぐります。
-
駅を出ると見えてきました。
「空の架け橋記念碑」 -
さてどこが入口なんだろう。
こんなケモノミチのはずはないし…。 -
入口を見つけて中に入ります。
大戦後ベルリンは2つに分裂することになりました。
西側は米英仏の分割統治になり、東側はソ連が統括することに。
ところが、戦後復興の方は、西側が急速に進み、東側は取り残されます。
東西間で経済格差が生じることはソ連にとっては面白くないことです。 -
そこで、1948年6月24日、ソ連は西ベルリンに入る陸路を全て封鎖して、生活物資などの供給網を断つ作戦にでました。
それに対抗して米空軍が行ったのは、史上最大の大空輸作戦です。
孤立した西ベルリン市民の命を救うため、飛行機で生活物資や燃料などを輸送しました。
テンペルホーフ飛行場に物資を積んで到着した飛行機。
テロのトポグラフィーより。 -
東西冷戦の中心となったベルリン、西側諸国の面子もあります。
なんと、西ドイツから西ベルリンへの空輸作戦の回数は、27万8228回に達するそうです。
3分に1本の割合で、輸送飛行機がテンペルホーフ空港に発着していたことになります。
ついに、西側の物量作戦の前に屈したソ連は、1949年5月11日ベルリン封鎖を中止しました。
封鎖は1年近く続きました。
写真右はベルリン封鎖が解かれ喜んでいるベルリン市民。
1949年5月12日 -
大空輸作戦「空の架け橋」を記念して造られた記念碑「ルフトブリュッケ」。
3本の線は西ドイツから物資を輸送する、空の通路を表現しているそうです。
間違ってソ連領空の上を飛ぶと撃墜される恐れがありました。
パイロットも命がけでした。 -
記念碑の土台には、作戦中に犠牲になったパイロットの名前が刻まれています
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-
テンペルホーフの庭園の整備に、日本の「イセキ」が一役かっていました。
-
さて、まだまだ私の歴史散策は続きます。
地下鉄でやってきたところはフリードリヒシュトラーセ駅。
今でこそ人々が自由に行き交っていますが、東西分断時代はここに国境検問所がありました。 -
東ベルリンの市民は西側に行くことは許されていませんでしたが、西側の市民が東側の家族や親戚を訪ねることはできました。
西ドイツ市民が帰る際、この検問所の前で、涙・涙のお別れをしなければらなかった。
そこでこの検問所は「涙の宮殿」と呼ばれるようになりました。 -
「ベルリンの壁」と表示された柱。その当時の様子が展示してあります。
-
大きくしてみましょう。
この宮殿の前で、涙ながらにお別れの抱擁をしている二人の女性。
姉妹かしら?親戚なのかしら?
二人の気持ちを思うと、胸が締め付けられます。 -
この付近はベルリンでも人気のあるショップが連ねています。
-
その中にあって、古い外装の昔からの劇場が目に止まりました。
「アドミラル・パラスト」。
今でも活躍している劇場です。
「涙の宮殿」という名前は、この近くにパラスト(宮殿)と名の付いた劇場がいくつかあったので付いたんだそうです。 -
さて、別な日。
Sバーンのノーレンドルフプラッツ駅でU4に乗り換えて、ラートハウス・シェーネベルク駅にやってきました。 -
この付近は東西ドイツ分断時代は西側でした。
住宅街が広がっています。 -
見えてきました、訪問の目的地が。
あそこの旗が翻っている塔がシェーネベルク市役所です。
分断時代は西ドイツの首都はボンに置かれていましたが、西ベルリン市庁舎と議会がここに置かれていました。 -
西ベルリンの政治の中心となっていたこの市庁舎。
ここに1963年6月26日、アメリカのケネディー大統領が訪れました。
まだ西ベルリン市民にとっては、自分達がどう流されていくのか、不安を抱えている時代でした。 -
正面に回りましょう。
この市役所を訪れたケネディーは、2階のあのバルコニーから集まった45万人の西ベルリン市民を前に演説したのです。 -
入口正面に掲げてあるケネディーのレリーフ。
”Ich bin ein Berliner.” 私もベルリン市民だ!。
これを聞いたベルリン市民達は喜びました。
自分達は西側世界から決して見捨てられていないのだ!と。 -
この5ヵ月後のことです。
1963年11月22日、ケネディー大統領は銃弾に倒れました。
ここに、彼の功績と死を悼むプレートが残されています。 -
あのバルコニーでケネディーが演説をしたのねー。
感慨深く眺めます。
バルコニーの幕に「BIOGRAFIEN JUDISCHER ZEUTZEUGEN」。
何かユダヤ人関係の展示をやっているみたいです。
入ってみましょう。 -
入口にいたベルリンのマスコットのクマ。
-
反対側の入口には紋章がスラリ。
-
中に入ってみま〜す。
矢印の方には、6時までと…。
もうそろそろ6時ですね。 -
残念だけど仕方がない、諦めよう。
-
ラートハウスを後にして…。
ケネディーの暗殺後、彼の栄誉を讃えて市役所前の広場は、
「ジョン・F・ケネディー広場」と命名されました。 -
さっき目をつけていた公園。
ルドルフ・ヴィルデ・パークという市立公園だそうです。 -
とっても雰囲気のいい公演です。
黄金の鹿の噴水があります。
市庁舎にも鹿の紋章があったけど…。
付近の人たちが散策したり休憩したり…。 -
あちらには宮殿のようなものが見えます。
あとで調べたら、あれは上は橋だけど、実は地下鉄の駅なんですって。 -
周りの彫刻なども素晴らしい!
雰囲気のいい公園で、私もベルリン市民になったつもりで、少しだけ夕暮れの散歩を楽しみました。
さあ、それではホテルに戻りましょう。
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この旅行記へのコメント (8)
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- jijidarumaさん 2017/05/20 02:35:52
- トレプトウ公園とベルリーナー
- himmelさん
こんばんは。折角書いたのに間違った所をクリックして、消えてしまい
あらためて書きだしました。
最近、歳の所為か、こうした事も多くあります(苦笑)。
また、皆さんの日記を拝読し、思い出す事が多く、今日も2016.5 とことん
旧東ベルリン?の日記から、こちらにお邪魔した次第です。
トレプトウ公園の名が、昔の事に反応し、アルバムを引っ張り出すと、
この公園を訪れた写真も出てきました。
1983年4月1日〜4日、家族とOster-Reiseオースターライゼで東西分離時のベルリンに
旅行しました。
4月2日の午後、バスツアーで東ベルリンにも行き、ポツダム、サンスーシ―宮殿、
ポツダム会談の会議場(Schloss Cecilienhof)、トレプトウ公園などを訪れました。
とりわけ、東西分離中のドイツ・ベルリンの頃ですから、当然のようにトレプトウ公園にあるソ連兵の戦没者記念公園訪問が、ツアーの目玉のような扱いになっていたのです。
ベルリンでのドイツ軍との戦いで倒れたソ連軍戦没者の為に、丁重とも思われ、克つ
広大なソ連風公園が造られていました。小雨の降る寒い日でしたが、写真の入口の門、
見上げたゲート、お祈りをしている女性像、かしずく左右の護衛兵、そして左右に
並ぶソ連の各共和国を示す16の碑が見られ、最後は巨大な戦勝記念碑&戦没者慰霊碑が立っていました。
巨大なソ連軍兵士は象徴的に巨大な剣を抜き、幼子(この場合新生ドイツ=旧東独を象徴する)を抱き、ヒトラー総統官邸の壁で作ったと云う記念碑像の土台(ナチスを象徴)を踏みしめている姿でした。
当時のソ連と東独の力関係がよく分かるものでした。
昨秋の旅の始めに訪れたFreudenberg(Siegerland)フロイデンベルクの
スーパー内のカフェで軽食を取りました。好物のリンゴ入りのBerliner
Pfannkuchenベルリーナー・プファンクーヘン(ジャムパン)です。
お好きですか?
その日記にベルリンのベルリーナーの逸話もついでに日記に書きこんでいます。
こんな話もご存知でしょうか?
<ジョン・F・ケネディの逸話>
英語圏で有名な逸話にアメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディが西ベルリンを訪問した際のスピーチ「Ich bin ein Berliner(私はベルリン市民である)」が「I am a jelly doughnut(私はジャムドーナツである)」と通訳されたというものがある。
ベルリン市民とジャムパンのベルリーナーが同じ単語のため些細な文法のミスを笑うものだが、現地のドイツでは全く知られていない逸話であり、実際には文法も誤っていないため、英語圏を中心にジョークが広まった都市伝説のようである。
しかしこの都市伝説を逆手に取り、ベルリーナーにケネディの顔が描かれたキーホルダーがベルリンの土産店で広く販売されている。(Wiki)
ジョン・F・ケネディのベルリン演説:
https://www.youtube.com/watch?v=hH6nQhss4Yc
・・・・・・・・・・・・・・
ベルリーナーにケネディの顔が描かれたキーホルダーの事はベルリンで
見ていませんけど。
それではまた。
jijidaruma
- frau.himmelさん からの返信 2017/05/20 21:48:57
- RE: トレプトウ公園とベルリーナー
- jijidarumaさん、こんばんは。
>折角書いたのに間違った所をクリックして、消えてしまい・・・
わあー、それは悔しいですね。
実は私もそれをよくやります。歳ですから(笑)。
そんな時は同じことを思いだしながら2度書くのが悔しくて、もういいや!って投げ出すこともたびたびです。
jijidarumaさんはそれにもめげず、再び書いてくださってありがとうございます。しかも長文で丁寧な・・・。
前に統一前の東ドイツを、ご家族様とご一緒に旅行なさったことはお伺いしたことがありましたね。
あの時はベルリンにもいらっしゃったのですか。
東側はバスツアーで回られたそうですが、その目玉がトレプトウ公園の巨大なソ連兵の像だったことは驚きです。
今は観光としてはあまり人気がないらしく、4トラの旅行記でもほとんど取り上げられていませんものね。
jijidarumaさんのお詳しいコメントを拝見しながら、5年前訪れた時の状況を思い出しました。
あの大きな兵士の土台はヒトラー総統官邸の壁で造ったものだったのですか。知りませんでした。
当時のソ連のものって巨大なものが多いですね。6月17日通りの兵士の像も巨大ですし。
Berliner Pfannkuchen、私も好物です。そう言えば、今回の旅行では食べるのをすっかり忘れていました。残念!
ケネディーのスピーチは有名でしたので知っていましたが、そんなオチ(私はジャムドーナツである)があったとは・・・。
ケネディーはベルリンを訪れた数か月後に暗殺されてしまうのですね。
貼り付けてくださったユーチューブで、彼がスピーチをしたシェーネベルク市庁舎は、内部見学ができるそうなので、いつか見てみたいものだと思いながらまだ果たせていません。
大変興味ある事柄を思いださせてくださってありがとうございました。
himmel
-
- 横浜臨海公園さん 2013/02/11 21:56:09
- ロシア人への感情
- frau.himmelさま、こんばんは。
ドイツは終戦直前、当時のソヴィエト兵との間にベルリン首都攻防戦を繰り広げます。
そして、ソヴィエト兵は占領当初から暴行略奪を反復させた事で、ドイツ人はロシア人に対し本質的反感を抱き現在に至っております。
ドイツや中欧に於いて、高齢女性に対し第二次世界大戦末期に何所に居たかは現在では禁句になっている事からも、当時のソヴィエト兵の狼藉ぶりが窺い知れます。
日本人も満州や樺太で同様の被害を被っておりますが、マスコミが公正に報道していない為に、我が国国民に事実関係が正確に伝わっていない恨みがあります。
横浜臨海公園
- frau.himmelさん からの返信 2013/02/11 23:38:32
- RE: ロシア人への感情
- 横浜臨海公園さま こんばんは。
いつもありがとうございます。
この慰霊碑を訪れる前に勉強していった本にも書いてありました。
あの時ソ連兵はずいぶん酷いことをやったようですね。
多くのドイツ人女性を強姦し、抵抗した家族を殺害し、また金銀財宝を奪ったりしたとか。
あのモニュメントの落成式の時に、東ドイツの初代首相は、そういうソ連兵の行状などひた隠して「ファシズムからドイツを救ってくれたソ連軍に感謝します」と挨拶したそうです。
まあ、ソ連に占領されていた東ドイツ時代なら致し方ないとしても、ソ連が崩壊してロシアとなった今でもあんな大きなモニュメントがベルリンのど真ん中にあるのですからね。
ティアガルテンの方にも巨大なモニュメントとソ連軍の戦車が飾られていました。
高齢のその時代の女性たちは心穏やかではいられないでしょうね。
私なぞには難しくて解からない問題です。
それにしても、横浜臨海公園様はいろんなことをご存知ですね。
興味深いことを教えていただいてありがとうございました。
himmel
-
- norisaさん 2013/02/11 17:04:38
- ドイツの分断ーー
- frau.himmelさん
そうですねーー。
ドイツは分かれていましたね。
EUの中で突出した経済力を持つドイツ。
分断されたままのほうがいいと思っている欧州人は少なからずいるようです。
しかし、過去の歴史を見れば国の分断は悲劇が多いですね。
お隣もそうですがーーー。
norisa
PS:20日も旅行できるなんてそーとーお若いです、ハイ(笑)
- frau.himmelさん からの返信 2013/02/11 20:31:47
- RE: ドイツの分断ーー
- norisaさん 毎度ありがとうございます。
> EUの中で突出した経済力を持つドイツ。
> 分断されたままのほうがいいと思っている欧州人は少なからずいるようです。
そうですね。20数年前、イギリスやフランスはドイツが再び強国になるのを危惧していましたからねー。
でもあの時統一されていなかったら、今頃ヨーロッパはどうなっていたでしょうね。
お隣みたいに、毎度毎度きな臭い火種がくすぶっているのでしょうかね?
そしたら私もこんなにドイツには行っていないかも。
> PS:20日も旅行できるなんてそーとーお若いです、ハイ(笑)
さすがに昨年は堪えました。やっぱり齢には敵わないなーって。
でも今年も同じくらいの旅程を組んでいます。
ノドもと過ぎればなんとやら、ハイ(笑)
himmel
-
- えあどまむさん 2013/02/11 14:56:36
- 旅情と望郷
- himmelさん
東西ベルリンに、なぜこれほどまでの経済格差が
生まれたのか、はじめて知りました。
ここにも大国のメンツが、見え隠れしますね。
ダラスの暑い日は、もう50年になるのですね。
ところで、20日過ぎると帰国したくなるものですか。
いつも“数ヶ月くらい旅がしたい”と思うのですが、
そんなものなのかも知れませんね。
えあどまむ
- frau.himmelさん からの返信 2013/02/11 20:20:31
- RE: 旅情と望郷
- えあどまむさん はじめまして。
私の暗〜い地味〜な旅行記を読んでいただきまして、ありがとうございました。
ドイツが好きでよく行っています。
だいたい1ヶ月近く滞在しますが、昨年はちょっと疲れました。
20日どころか、もっと前から早く帰国日が来ないかなーーと思っていましたよ(笑)
やっぱり齢には逆らえません。
列車乗降の際の荷物の上げ下ろし、ホテルで階段を使っての荷物運び…
それらが身体にこたえて、帰国したらもうしばらくドイツはいいや、って思ったのですが…。
懲りずにまた今年も予定しています(笑)。
えあどまむさんはお若いのでしょう?
羨ましいです。
himmel
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