2012/09/16 - 2012/09/23
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けちゃたびたび(NaokoSaimi)さん
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9/20(木)、赤い矢号でモスクワより早朝8時にサンクトペテルブルク着。ネヴァ川に囲まれた北の地に首都を築いたのは1712年、かの大帝ピョートル1世。この街はピョートル大帝とその後歴史を飾ったロマノフ王朝の皇帝や貴族の栄光の時代の空気が残されていて、それは革命と共産主義の90年が過ぎて、あらためて美しい文化遺産として蘇ったようです。
イサク聖堂前にある老舗のアストリアホテルに宿をとり、とにかく2日目は朝から「エルミタージュ美術館」を見るということにして、初日はガイドさんに半日の市内観光をお願いしました。車でまわるにつけ、降りてゆっくり見てみたい箇所が多くなる一方。
最も時間を割いたのは「血の上の教会」。ここも他のロシア正教の例に漏れず、共産時代は倉庫として扱われ、長い修復を経て復元したという。
「アンナ・カレーニナ」や「坂の上の雲」、何より漫画ですが「オルフェウスの窓」、大浪漫の舞台となった北の都。軍服の貴族や毛皮のレディの幻が浮かんでは消える。サンクトはフィンランド・ヘルシンキの方がモスクワよりも近く、北欧とサンクトという旅で再訪してみたいな・・と思いました。
- 旅行の満足度
- 5.0
- 観光
- 5.0
- ホテル
- 5.0
- グルメ
- 3.5
- 同行者
- 友人
- 交通手段
- 徒歩
- 航空会社
- アエロフロート・ロシア航空
- 旅行の手配内容
- 個別手配
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9/20(木)夜行列車「赤い矢号」でモスクワを深夜に出立、朝の8時の北の都サンクト・ペテルブルグに到着しました。ホームにガイドさんが待っていてくれ、ピロシキ(こちらのピロシキは揚げてなく、焼いてあります)で軽い朝ごはんを済ませ、さっそく市内観光に出かけました。モスクワ駅からサンクト最大の大通りネフスキー大通りを抜けて、イサク聖堂の正面にある広場へ。中心にはニコライ1世の馬上像が建っています。
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イサク広場側から見た巨大な金のドームを戴くイサク聖堂。高さは101.5メートル。1818年〜1858年に建てられた。
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デカプリスト広場側から見たイサク聖堂。
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イサク広場に面して、私達の泊まったアストリアホテルがあります。
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創業はなんと1912年。第二次世界大戦のドイツ・ナチによるレニングラード(当時名称)包囲戦の折、レニングラードを占領したらヒトラーはこのホテルで祝賀会をする予定だという伝説が残っているそうだ。
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ロビー。
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室内はモダンに改装されている。
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日は異なるのですが、ホテルのカフェでアフタヌーンティーを頂きました。
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どうしてもシャンパンが飲みたかった私達。それなら「キャビアつきのコースがお得ですよ」と店員さんに言われ、少々値ははっても確かにお得かも・・と、先に出されたシャンパンと、ケーキ&軽食ビュッフェを前にワクワクとキャビアを待つこと数分。
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出てきたのは山盛りのイクラとクレープ。え??えええ???そうなんです、ロシアで「キャビア=イクラ=魚の卵全般」。あの黒い本物のキャビアを頼むには「チョールナヤ・イクラ」と言わないとだめなんです。そして半端なく高い!
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イサク広場から南西に800メートルくらいにマリンスキー劇場があります。サンクトを代表するオペラ・バレエの劇場。この近くには、ユスポフ公爵の宮殿があり、かの怪僧ラスプーチンを招いて毒殺した地下室は見学可とか。麗しの池田理代子ワールド全開の漫画「オルフェウスの窓」のシーンを思いだし、思わず興奮してしまいましたが、残念ながら見学の時間がありませんでした。
ロマノフ王朝最後の皇帝ニコライ2世の(在位1894〜1917)皇后アレクサンドラは僧侶ラスプーチンに傾倒し、ラスプーチンは政治にまで影響を持つようになる。それを憂いたユスポフ公爵は1916年12月にラスプーチンを宮殿に招き毒殺を図るも、毒が聞かず、銃殺し川に沈めるも、検視の結果は溺死だったという。まさに怪僧。 -
綺麗な水色の聖ニコラウス神現海軍大聖堂。1753年〜1762年に建築。
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敷地内には優美な四重の鐘楼がある。
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サンクトはバルト海に続くフィンランド湾にそそぐネヴァ川がU字にカーブしたエリアにあり、ピョートル大帝(在位1682〜1725)は何もない一面の沼地に運河を掘り、杭をうち、都市を築いた。聖ニコラウス大聖堂は2つの運河がクロスする一角にあり、運河と建物が美しい景観を作っている観光の穴場だと、ガイドさんが説明してくれました。
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運河沿いには淡い緑の玉ねぎが乗った教会も見える。
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再びイサク聖堂へ戻り、ネヴァ川に面するデカブリスト広場へ。中央にはサンクトのシンボルであるピョートル大帝像「青銅の騎士」がある。前に書いたとおり、サンクトは1703年にピョートル大帝により開かれ、1712年にモスクワから帝政ロシアの首都として移された。ピョートル大帝は領土をスウェーデンにまで広げ、サンクトはあらゆる面で当時最先端だった西洋文明のレベルに近づく美しい都市に発展した。しかしその建設は多くのスウェーデン他から連れてこられた捕虜の犠牲の上にたっているという。サンクトはロマノフ王朝の最盛期、革命、さらには第二次世界大戦の悲劇と、激しい歴史の波にさらされた街。名前がサンクトペテルブルグ→ペトログラード→レニングラード→サンクトペテルブルグと変わったことからも、政治に翻弄された歴史が表れている。
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ビョートル大帝像は1782年にエカテリーナ2世によって建てられた。後に見える黄色い建物は元老院。元は元老院広場と呼ばれていたこの場所で歴史に名高いデカブリストの乱が発起し、革命後はデカブリスト広場と呼ばれるようになった。1825年12月に専制政治や農奴制に反対した、志高い青年貴族たちが起こした反乱がデカプリストの乱。ニコライ1世(在位1822〜1855)の弾圧下、軍に鎮圧され、青年貴族5名は処刑された。この思いは受け継がれ、かのロシア革命につながっていく。
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ネヴァ川をはさんだデカブリスト広場の対岸はヴァシリエフスキー島の岬部分で、大学河岸通りと呼ばれるように学問に関わる建物がつらなっている。芸術アカデミー、科学アカデミー、博物館や12の学院と呼ばれる教育機関など。芸術アカデミーの前には1832年にロシアがエジプトから購入した2つのスフィンクス像が建っている。
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スフィンクスの足元にはグリフォンの像も。まさかロシアの北の都、ネヴァ川のほとりが永住の地となろうとは思ってもいなかっただろう。
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ヴァシリエフスキー島の岬のとったんストリェールカに建つロストラの燈台柱(海戦勝利記念柱)。
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そこからネヴァ川にかかる宮殿橋と、その向こうに旧海軍省を見る。海軍省の金の尖塔がネフスキー大通りのネヴァ川沿いの端となる。
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ペトログラード側にわたり、ペトロパヴロフスク要塞や砲兵博物館を通り過ぎる。1900年に建造された巡洋艦オーロラは、ロシア革命の始まりを合図して冬宮に向けて発砲した船で、1905年の日露戦争の折には日本海海戦に参加している。かのバルチック艦隊の一隻だったということ。なんという歴史を見てきた船なのでしょうか。また「坂の上の雲」を読み直したくなってきました。
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サンクト側に戻り西に1.5キロほど、スモーリヌイ聖堂へ。ここは18世紀に女帝エリザヴェータが女子修道院を開き、その後エカテリーナ2世が女学校にしたもの。この聖堂は1748年〜1835年と100年近く時間をかけて建築された。
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サンクトでのランチはRestaurant 1913にて。
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前菜はカニのタルタル、お約束のボルシチ。
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さらにお約束のビーフストロガノフ。どちらもモスクワで食べたものとは、ちょっと違う味わいでしたが、美味しかったです。添え物のポテトもgood。
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午後はフリーだったので、ネフスキー大通りと、特に素晴らしい造形と変わった名前が忘れられない「血の上の救世主教会」をゆっくり見学しました。
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ロシアでいくつも玉ねぎ教会を見ましたが、この装飾の美しさは群を抜いています。「血の上の救世主教会」の名前の由来は、1881年に皇帝アテクサンドル2世が暗殺された地の上に建設されたからです。完成は1907年。
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アレクサンドル2世(在位1855〜1881)は、デカプリストを弾圧したニコライ1世の次の皇帝。彼の治世下、ロシアはトルコとのクリミア戦争(1853〜1855)に負けて黒海の制覇権を失い、西欧各国との国力に差がついてきた。アレクサンドル2世は1861年に農奴解放令を発するも、解放後の制度が農民にとって厳しいものであり、社会改革の過激派一派によって暗殺されてしまった。
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ロマノフ王朝の皇帝。★が歴史に名高い皇帝です。
ミハイル(1613年 - 1645年) - フョードル1世の義理の従弟
アレクセイ(1645年 - 1676年) - ミハイルの子
フョードル3世(1676年 - 1682年) - アレクセイの子
イヴァン5世(1682年 - 1689年) - フョードル3世の弟
★ピョートル1世(ピョートル大帝)(1682年 - 1725年) - 1721年「インペラートル(皇帝)」に戴冠 - イヴァン5世の弟
エカテリーナ1世(1725年 - 1727年) - ピョートル1世の皇后
ピョートル2世(1727年 - 1730年) - ピョートル1世の孫
アンナ(1730年 - 1740年) - イヴァン5世の子
イヴァン6世(1740年 - 1741年) - ブラウンシュヴァイク=ベーヴェルン家、アンナの姪の子
エリザヴェータ(1741年 - 1762年) - ピョートル1世とエカチェリーナ1世の娘
ピョートル3世(1762年1月5日 - 6月28日)- ホルシュタイン=ゴットルプ家、エリザヴェータの甥
★エカテリーナ2世(1762年 - 1796年) - ピョートル3世の皇后(アンハルト=ツェルプスト家)
パーヴェル1世(1796年 - 1801年) - ピョートル3世とエカチェリーナ2世の子
アレクサンドル1世(1801年 - 1825年) - パーヴェル1世の長男
★ニコライ1世(1825年 - 1855年) - パーヴェル1世の3男
★アレクサンドル2世(1855年 - 1881年) - ニコライ1世の長男
アレクサンドル3世(1881年 - 1894年) - アレクサンドル2世の次男
★ニコライ2世(1894年 - 1917年) - アレクサンドル3世の長男 -
この教会は外装も内装も素晴らしいモザイクで覆われています。外装のカラフルさは、モザイクと、色とりどりのタイル・瓦によります。
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ぐるりと回って聖堂の入口側にきました。
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6560平米ある内部に入ります。正面のイコンと素晴らしい床模様。
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ロシアの教会はステンドグラスはないのですが、壁という壁、柱という柱に装飾が施されているところが多いです。比較的新しい教会なだけに、色が鮮やか。
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中央の天蓋を見上げます。ロシアの聖堂は必ず中央天蓋にキリストが描かれています。
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あまりの美しさに呆然としてしまいます。
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向かって右手にあるローズ色の石で作られた祭壇。
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驚嘆すべきは、308点のモザイク画。こちらは北側の壁で「使徒マタイの召命」
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写真でもモザイクのつぶつぶとした質感やきらめきがわかると思います。
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イチオシ
マグダラのマリア。窓から差し込む光があたり、なんと神々しいこと。この地に積み重なった血の歴史を清め、人々を祝福しているようです。
血の上の教会をあとにして、ミハイロフスキー公園を歩き、またネフスキー大通りに戻りました。 -
ネフスキー大通りを歩いてみました。カザン聖堂はロシア正教の寺院にしては珍しいバチカンのサン・ピエトロ大聖堂風の建物で、1801〜1811年建設。ここにはナポレオンのロシア侵攻の折、ナポレオン軍を撃退したクトゥーゾフ将軍が埋葬されている。アレクサンドル1世(在位1801〜25)の時代。
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ネフスキー大通りには18世紀〜20世紀初頭にかけての素晴らしい建築が並んでいる。サンクトにはもとは貴族の邸宅だった豪華な建物が数多く残されていて、今は博物館などの公共施設や病院その他に利用されている。たいへん目立つこの建物は1904年建設のシンガー社。現在は本屋になっている。
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本屋のウィンドウを飾るのは村上春樹の1Q84。ここロシアでも人気が高い。
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アニチコ橋を飾る馬の調教をテーマとしたピョートル・クロット作のブロンズ像。(1841〜48年)9月末のサンクトはジャケット一枚でそぞろ歩くのにとても気持ち良い気候。ネフスキー大通りは平日の日中も多くの人で賑わっている。デパートもカフェも人でいっぱい。途中、通りの中心に位置するグランド・ホテル・ヨーロッパでお茶をしました。
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アニチコ橋自体は1715年にピョートル大帝が建築。この橋のたもとからは、川&運河のクルーズが出発しています。
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中華レストランで夕食を・・と思って歩いていたのですが、どこにでもあると思った中華レストランが殆ど無い。アニチコ橋そばの居酒屋風日本レストランに入って、カリフォルニアロールで軽い夕食にしました。ロールはまずまずでしたが、味噌汁は激マズでした(笑)。ここの隣に人が並んでいるソフトクリーム屋もあって、友は心惹かれているようでしたが、お腹具合と相談して食べずにホテルに戻りました。サンクト初日終了。明日は、いよいよエルミタージュ!
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