住吉・平野旅行記(ブログ) 一覧に戻る
住吉大社(すみよしたいしゃ)は、大阪市住吉区に所在する摂津國一之宮神社である。<br /><br /><br />該社、御祭祀は、<br /><br />底筒男命(そこつつおのみこと)<br />中筒男命(なかつつおのみこと)<br />表筒男命(うわつつおのみこと)<br />息長足臣命(おきながのたらしひめ)<br /><br />の御4柱である。<br /><br /><br />大社(たいしゃ)とは、市町村所在の鎮守社と異なり、国に対する奉賛神社を意味する。<br /><br /><br />該社は大阪上町台地上に所在し、創建に就いては、住吉大社神代記(すみよしたいしゃ しんだいき)記述に拠る処が大きい。<br />即ち、神功(じんぐう)皇后(成務40年(170年)~神功摂政69年(269年)6月3日)に依る三韓征伐帰還途中、神功摂政11年(211年)5月に、日向國栢小戸憶原に立寄られた際に、伊耶那岐命(いさなぎのみこと)が海中より御誕生され、その際に、<br />吾力和魂ヲハ大津ノ淳中倉ノ長峡ニ居サムヘシ便チ因リテ行来フ船ヲ看サム<br />と神託を受け、明治5年(1872年)まで1600余年もの間、該社宮司家を世襲した津守家祖たる田裳見宿禰(たもみのすくね)( ? ~仲哀9年(200年)12月14日)の進言に拠り、現在地に住吉大神(すみよしのおおかみ)を鎮斎されたのを嚆矢とされる。<br /><br />即ち、日本書紀 第六巻第壱寿<br />海の底に沈み漕ぎつたまふ、因りて以て生ませる神の号を 底津少童命<br />潮の中に潜き漕ぎつたまふ、因りて以て生ませる神の号を 中津少童命<br />潮の上に浮き漕ぎつたまふ、因りて以て生ませる神の号を 表津少童命<br />と記述が見られる。<br /><br />但し、該資料で、三韓征伐に於ける住吉大神出自に就いては必ずしも明確では無く、該記述が明白では無い理由として、寧ろ、当時は重要事項に対しては一子口伝の可能性大で、途中口伝困難が原因で途絶したものと推定される。<br /><br />然るに、該資料は、斉明5年(659年)に於ける津守宿禰吉祥(つもりのすくね きさ)(生没不詳)に拠る注進記録、及び、大宝2年(702年)の縁起を基に、天平3年(731年)7月5日附で神祇官上申に達した解文であり、藤原定家(ふじわらの さだいえ)(應保2年(1162年)~仁治2年(1241年)9月26日)が、元久元~2年(1204~05年)に該社参篭時に該資料を閲覧する機会を得て明月記(めいげつき)に該資料閲覧した旨の記述が存在するものの、該資料は該社宮司や時の権力者と雖も閲覧厳禁の秘本として、江戸期には逆に該存在を疑念視する意見すら生ずる状態だった<br /><br /><br />古代支那に於ける隋國は、意外にも37年間しか存在しなかった短命王朝である。<br />然るに、第33代 推古女帝(すいこ てんのう)(欽明15年(554年~推古36年(628年)4月15日)が、遣隋使(けんずいし)を派遣した事で我が国史上に於いて知られた存在である。<br />第1回派遣は、推古11年(603年)に小野妹子(おのの いもこ)(生没不詳)を派遣したが、該派遣に関しては日本書紀に記述が存在せず、隋書倭國傳に記述が存在する。<br />遣隋使は計6回派遣されたが、該派遣に鑑み、遣隋使船に神主と称し該社神職を乗船奉仕させている事で、該社宮司家として現在も続く津守家たる、<br />従八位下 津守宿禰嶋麻呂(つもりのすくね しままろ)<br />正六位上 津守宿禰客人(つもりのすくね まれひと)<br />の名が登場する。<br /><br /><br />該社神階に就いては、数度の兵乱に拠り資料散逸の為に途中不明とされる。<br />天平3年(731年) 7月 5日 従三位<br />延暦3年(784年) 6月    正三位勲三等<br />   同年     12月    従二位<br />大同元年(806年) 4月   従一位<br />嘉祥4年(850年) 1月27日 正一位<br />従二位から正二位を経て従一位に飛越え進級したとは考えにくく、大同元年から嘉祥4年の44年間途中に正二位拝命事実が存在したものと推定される。<br /><br /><br />該社は、古来より物語作品記述に度々登場する。<br /><br />即ち、平安前期作とされる竹取物語(たけとり ものがたり)に於いて、赫映姫(かぐやひめ)に求婚した大納言は龍首の5色の美玉を手に入れるべく船出した処、暴風雨に遭遇し、揖取の御神に祈った処、漸く雷が治まったと言う記述の 揖取の御神(いとりのおんかみ)とは正に住吉大神の事であり、更に、平安中期作とされる源氏物語(げんじ ものがたり)では、須磨、明石、澪標、及び、若葉の場に於いて住吉大神が登場し、特に、須磨、明石の場に就いては、竹取物語の描写をそのまま取り入れられたと言って過言では無い。<br /><br /><br />該社は、奈良朝以前より軍大神として崇敬されていた事から、該社に於いて、内乱外冠の都度、当時の朝廷から天佑神助を以って奉幣が差し遣わされた。<br />即ち、<br />寛仁 3年(1019年) 4月 刀伊の来侵<br />文永11年(1274年)11月 文永の役<br />弘安 4年(1281年) 6月 弘安の役<br />然し、何れも交通不便な当時の事であり、折角の奉幣も後の祭りの感が強い。<br /><br /><br />該社は軍神であるが、同時に和歌道神であるともされている。<br />即ち、該社歴代宮司たる津守家当主が和歌に秀で、京都在の公家衆とも親交を有していた事は、平家物語(へいけものがたり)記述の一端に於いて、<br />住吉の神主長盛 院の御所にまいて大蔵卿泰経朝臣をもて奏聞しするは、去壱六日丑刻に当社第三の神殿より鏑矢の声いでて西をさして羅候ぬ<br />とあり、該文を現代語訳すると、<br />住吉神社神主(津守)長盛が後白河法皇院御所に参内し大蔵卿藤原朝臣泰時に秘話した内容は、去る(寿永4年(1185年)2月24日午前2時頃に住吉神社第三本宮から合戦開始合図の際に使用する鏑矢が音を立てて西方に飛び去った。<br />の記述からも明らかである。<br />因みに、該事件発生は屋島の合戦(やしまのかっせん)(寿永4年(1185年)2月19日直後であり、要するに、平氏滅亡を予言した内容である。<br /><br /><br />鎌倉期に於いて、該社は摂津國に君臨する大荘園領主だったが、該領地拡大化するに伴い、同時に隣接地を隔て他大荘園領主間に紛争が発生するのは自然の成行きと言うべき状態だった。<br /><br />即ち、該社と隣接する四天王寺、及び、東大寺とは境界を巡る紛争が度々発生し、特に、四天王寺間との係争に就いては、藤原定家(ふじわらの さだよし)(應保2年(1162年)~仁治2年(1241年)7月26日)の明月記(めいげつき)寛喜2年(1230年)3月20日條に、去年於天王寺、有刃傷殺害なる記述が見られ、両者に殺傷事件が発生する程の、ただならぬ緊迫した事態が発生していた事が判る。<br /><br />更に、坐摩(いかすり)神社との間に於いても重大事件が発生していた。<br />弘安6年(1283年)6月30日は大赦神事執行の為に該社は早朝から煩瑣を極めていたに相違ない。<br />然るに、大赦神事執行中、住吉神社扶持人 坐摩社重房なる人物が該社に押入り、神興、神殿等々を破壊し、拝殿を流血で毀損したと云ふ事件が発生し、事件詳細は直ちに都に相聞され、翌弘安7年(1284年)6月28日に朝廷は住吉社宮司 津守國助(つもり くにすけ)(仁治3年(1242年)~永仁7年(1299年)3月19日)、及び、坐摩神社主康重(年性没年不詳)は都に召喚され、第90代 亀山(かめやま)上皇(延長元年(1249年7月9日~嘉元3年(1305年)10月4日)院文殿に於いて対決問註させた。<br />即ち、該事件背景に、該時代まで坐摩神社が該社末社、且つ、別宮的存在に過ぎぬ状態だったが、鎌倉期末期頃より該社から独立化動向が発生し、此れに連動した最中に発生した事件であった。<br /><br /><br />第96代 後醍醐(ごだいご)天皇(正應元年(1288年)11月26日~延元4年(1339年)9月19日)(文保2年(1318年)3月29日~延元4年(1339年)9月19日御在位)の崩御を受けて即位された 第97代後村上(ごむらかみ)天皇(嘉暦3年(1328年)~正平23年(1368年)3月29日)(延元4年(1339年)9月18日~正平23年81368年)3月29日御在位)は、正平7年(1352年)3月19日に該社に行幸されたが、更に、正平15年(1360年)11月に再度行幸され該社行宮に崩御されるまで滞在された例を見る様に、該社は、南北朝時代に於いて終始南朝方として精勤した。<br /><br />また、同時代の代表的軍記物語たる太平記(たいへいき)に於いて、天弘2年(1332年)8月3日ノ條に、該社に対し、後醍醐天皇が社殿造営費として20万匹奉進した事や、楠木正成(くすのき まさしげ)(永仁2年(1294年)?~建武3年(1336年)7月4日)公が神馬3疋献納の記述が見られる。<br /><br /><br />該社本殿は遷宮を以って20年毎に造改を反復させて来た事で周知されている。<br />建長 5年(1253年)<br />文永11年(1274年)<br />永仁 2年(1294年)<br />正和 3年(1314年)<br />建武 元年(1334年)<br />正平 9年(1354年)<br />文中 3年(1374年)<br />慶永 元年(1394年)<br />慶永20年(1413年)<br />永享 6年(1434年)<br />文安 3年(1446年)修理のみ造営遷宮無<br />康正 2年(1456年)実現せず<br />文明 3年(1471年)応仁・文明ノ乱の為実現せず<br />延徳 4年(1492年)該社宮司遷宮請願<br />永正14年(1517年)勧進僧努力に拠り遷宮<br /><br /><br />ルイス・フロイス(Luis FROIS)(1532年(天文元年)~1597年(慶長2年)7月8日)はポルトガル人で、イエスズ会(Societes Iesu)に入会後、宣教師として永禄6年(1563年)7月6日に肥前國西彼杵郡に上陸後、途中帰国期間を除き長崎で没するまで30有余年間、我が国国内に於いて、カトリック布教活動に従事し、同時期に当時の権力者たる、織田信長(おだ のぶなが)(天文3年(1534年)6月23日?~天正10年(1582年)6月21日)、大友宗麟(おおとも そうりん)(享禄3年(1530年)1月31日~天正15年(1580年)6月11日)、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)(天文6年(1537年)3月17日?~慶長3年(1598年)9月18日)等々に接した数少ない外国人である。<br /><br />フロイスは、我が国滞在中に於ける記録として、日本史(Historia de Japam)の存在がある。<br />該書前半は、フロイスに先達ち来日してたガスパール・ヴィレラ(Gaspar VILELA)(1526年(大永6年)~1572年(元亀3年))神父が上長たるイエスズ会マカオ代表部ヴァリアーニョ(Varianyo)宛報告書を基に記述していたが、来日後はフロイス自身が直接見聞した内容が論述されている。<br />該資料は、記述毎に便船でマカオのイエスズ会マカオ支部宛に送付されサンパウロ寺院附属書庫に収納されたが、該所は1835年(天保6年)1月26日に火災が発生し全焼した際に該原本は烏有に帰した。<br />然し、該書は18世紀に数冊分が筆写された事で数部が現存し、現在でもリスボン国立図書館に現存する。<br />該書は、当時の織豊時代の背景、及び、当時の日本語発音研究の上で重要資料である。<br />驚くべき事に、該書第1部第36章に於いて、住吉大明神祭礼に関する記述が現存する。<br />即ち、該資料1561年(永禄4年)7月29日項に於いて、該社祭礼をして、Sumiyoxi Daimeojin なる記述を以って、当時の祭礼の詳細が判明する。<br />即ち、<br />堺〔Sacai〕では7月29日に住吉大明神〔Sumiyoxi Daimeojin〕と言う神〔Cami〕を祀る別の祭り〔Festa〕がある。<br />人々が語る処では、(住吉大明神は)、昔、日本最高の国王である内裏〔Dairi〕の侍臣であったと言う。そして、人々は彼を聖人〔Santo〕と看做し敬慕していた為に、彼の為に堺郊外約半里〔Meia legoa〕の地に、現在は大坂の住民の行楽地たる広野に大規模で、且つ、多数の杜〔Tenmplos〕を建てた。但し、此れらの多くの杜は(織田)信長〔Nobunaga〕と大坂〔Vocaca〕(本願寺)との間の兵乱で焼失してしまった。<br />人々が、(住吉大明神)の祭礼は以下の通りである。<br />当日(7月29日)午後、人々は銃の1射程半以上の長さを有する堺〔Sacai〕の街路に赴く。<br />両側共に壁や門は全て小さな材木を相互に結んだ柵を一面に(張り巡らせる)が、それは此の様な(祭礼の)際に常に起こりがちな騒動に対処する為であり、その柵内で人々は行列を観賞するのである。<br />その様な(準備)を終え、半里〔Meia legao〕離れた、かの住吉ノ杜〔Templos de Sumiyoxi〕から、両手に刀〔Montante〕を携えた偶像が騎乗して来る。その後から、弓と矢を入れた箙を携える小姓が(続き)、その後方を手に鷹を持った別の者が続く。彼らの後から、徒歩や騎馬で偶像の供をする大勢の人々がやって来る。此れらの人々は、皆、手に武器や武具を携え、「千歳楽、万歳楽」〔Xenzairacu Manzairacu〕、即ち、千年の慶び、幾千万の楽しみ(と云う意味)を唱えながら歌い、且つ、踊る。彼らが、かくも喜悦して此れを唱えるのは驚くべき事である。それぞれの間隔は役約10名の余地を有する程である。驚くべき大群衆が其処に殺到したが、その中の多くの人々は此の祭りに参加するのに(神に)誓いをたてていた。<br />馬が通過すると神主〔cannuxi〕と称する白衣の(多数の)僧〔Bonsos〕が、甚だ大きく広い袖(の衣をまとい)、紙か革で出来た非常に美しい黒の僧帽(烏帽子)を頭に被ってやって来る。<br />この後に、彼らの女妖術師(巫女)〔feiticeras〕達が馬で進むが、彼女達は(神主)同様に白衣をまとい、非常に美しく飾り、夥しい数の婦人達に付添われ、歌いながら進む。<br />その直ぐ後に輿〔andas〕を担ぐ大勢の武装した人々が来るが、彼らの証言に拠ると、その(輿の)中に、かの偶像〔Pagode〕が入っているとの事である。その輿は、それを見ようとする全ての人々から拝礼され、人々は双手を挙げ大いに畏敬の念を示す。40名前後の者が此れ(輿)を肩に担いでいる。そして此れらの人々の後から、色々な歌を歌い、「千歳楽、万歳楽」を反復させる大勢の人々が行進して来る。<br />彼らは、そこから住吉ノ杜へ帰り、かくて此の祭典と行列が終了する。<br />との記述である。<br /><br />現在では、住吉祭(夏祭り)として毎年7月30日から8月1日にかけて3日間、執り行われる該祭の中で、最終日に実施される神輿渡御(みこし とぎょ)の神事で、神輿が住吉大社を出発し大和川を渡河し堺宿院頓宮に到るまでの行程のもので、到着後は該頓宮内に存在する飯匙堀(いいさじぼり)に於いて荒和大祓神事が執行されるが、即ち、該史本文をして、フロイスやヴィレラが目撃したのは、大和川渡河以降に於ける現在の堺市内での情景を垣間見たものと推定される。<br /><br /><br />顕如(けんにょ)(天正12年(1543年)2月20日~文禄元年(1592年)12月27日は、浄土真宗(じょうどしんしゅう)開祖たる親鸞(しんらん)(承安3年(1173年)4月1日~弘長2年(1263年)1月16日)から数え第11世本願寺当主として大坂石山本願寺を拠点に、織田信長(おだ のぶなが)(天文3年(1543年?天正10年(1582年)6月21日)と敵対関係に在り、一向一揆をして信徒達を教唆覇道させ、且つ、信長と友好的関係を有するとして神道勢力をも憎悪敵視した変態的人物である。<br />信長とは本能寺一揆と称する戦いが続いたが、天正4年(1576年)に大坂布陣の際、顕如を神の如く慕う無智追従信徒連中に拠り、同年4月26日に該社境内が放火焼毀するの暴挙に出た。<br /><br /><br />豊臣秀頼(とよとみ ひでより)(文禄2年(1593年)8月29日~慶長20年(1615年)6月4日)配下の家臣 大野治胤(おおの はるたね)(生年不詳~慶長20年(1615年)7月22日)は、大坂夏ノ陣(おおさか なつのじん)に於いて、徳川方兵站拠点の1ヶ所とされた堺を攻撃焼捨させるべく進軍の途中、該社施設一切をも焼失させるべく慶長20年(1615年)5月9日に攻撃をかけ正院殿他数ヶ所を焼失させたが、第壱~四本宮に火をかけかけた処、豪雨が襲い着火に至らず焼失は免れた。<br /><br /><br />慶長19~20年(1614~15年)の大坂ノ役(おおさかのえき)が原因に拠り豊臣家滅亡後、徳川家康(とくがわ いえやす)(天文11年(1543年)1月31日~元和2年(1616年)6月1日)は該社再興を指示していたが、着手直前に死去した為に、弟2代将軍 徳川秀忠(とくがわ ひでただ)(天正7年(1579年)5月2日~寛永9年(1632年)3月14日)命に拠り、元和3年(1617年)7月17日附を以って、朱印状2060石が安堵された。<br />因みに、2060石とは、当時の12万石大名相当の石高である。<br /><br /><br />該社は江戸初期まで創建を含めた史実が混沌として、事実関係の確認を必要とする声が強まった。<br /><br />梅園惟朝(うめぞの これとも)(生没年不詳)は、該社境外摂社 山坂神社社家に出身の神道研究家であり元禄期に活躍した人物である。<br />住吉松葉大記22巻は該社に於ける歴史的全貌を明らかにし、当時、禁見書とされ閲覧不可能だった住吉大社神代記以外の原資料を精査し吟味した事から、純然たる学問的態度を堅持した内容である。<br /><br /><br />井原西鶴(いはら さいかく)(寛永19年(1642年)~元禄6年(1693年)9月9日)は、現代でこそ浮世草子作家として定着した感があるが、実は元来は俳諧師として登場し、松尾芭蕉(まつお ばしょう)(寛永21年(1644年)~元禄7年(1694年)1月28日)などとも交遊があった。<br /><br />京都蓮華院三十三間堂に於ける千本通し矢をヒントに、該社に於いて大矢数俳諧を企画し、貞享元年(1684年)7月17日に実施された。<br />当日は、暮6つ(18時)に開始し翌日暮6つに至る24時間を以って西鶴は23500句を独吟したが、此れは単純に時間換算すると、1分間16句、1句4秒相当で、流石に速記者も記録不可能で該会に於ける句は殆ど現存していない。<br /><br />発句は、<br />神誠を以て息の根とめよ大矢数<br />と勇ましかったが、該大会終了後に於ける虚脱感に苛まれたのであろう、<br />射てみたが、何の根もない大矢数<br />なる句が残されており、此れを期に西鶴は俳諧の世界から足を洗い、浮世草子作家に起向する転機となった。<br /><br />該社に関する記述として、貞享3年(1686年)公開の好色五人女に於いて、駆落ち途中の清太郎、なつの2人が乗船した舟の船頭が客に向かい、<br />さあさあ出ます、銘々の心配なれば住吉さまのお初尾でも<br />とあり、航海中の無事を期待したければ航海の神たる住吉の神に願いをかけておけとの意味である。<br /><br /><br />現在の住吉公園参道に城立する南北絵馬殿付近、及び、南駐車場付近は江戸中期まで難波湾に面し、西大鳥居は安芸國厳島神社(いつくしま じんじゃ)大鳥居に見られるが如き満潮時は海中に城立していた。<br /><br />現在の1級河川 大和川(やまとがわ)は、江戸期まで下流域は湾曲し天井川だった事から度々氾濫し流域住民を苦しめていた。<br /><br />幕府は、河村瑞賢(かわむら ずいけん)(天和3年(1617年)?~元禄12年(1699年)7月12日)に現地調査を命じ、瑞賢の報告を基に工事を進行させ、宝永元年(1700年)に現流域に付替工事が完成したが、該工事竣工に拠り氾濫自体は激減したが、反面、該社北域に存在した依羅池(いらいけ)は徐々に埋立られ、萬葉集や和歌に詠まれた景勝地は永久に姿を消した。<br /><br /><br />太田南畝(おおた なんぼ)(寛政2年(1749年)4月19日~文政6年(1823年)5月16日)は、江戸幕府高等官吏であったが、現在では寧ろ狂歌師として蜀山人(しょくさんじん)の号で知られている。<br />南畝は、享和元年(1801年)4月から約1年間、大坂銅座役人として赴任し、大坂滞在中に住吉参詣を6回実行した事が日記記述が見られるが、医師 蕪坊(かぶらぼう)(宝暦8年(1758年)~文化12年(1815年)7月19日)との歌を交わす交遊関係は現在でも知られた存在である。<br />南畝が蕪坊との交遊を永く知らしめる為に、浪速の狂歌師連に拠り、記念碑が文政5年(1822年)に該社内に建立された。<br /><br /><br />該社は、享和2年(1802年)は遷宮の為に境内は工事中だったが、同年11月23日夜半、難波湾から強い西風が吹く内、作業小屋から出火し第壱~四本宮を含む境内33施設が全焼する大火が発生した。<br />幸いにも死傷者こそ発生しなかったものの、慶長12年(1607年)造営建造物を含め境内造営物の過半が焼失した。<br />火災原因は作業小屋内を利用する人夫達が煙草に火をつける為に設置していた火縄の不始末と断定された。<br /><br />因みに、該失火に関し、当時の造営工事責任者が如何なる処分をされたか記録が現存していな為に不明だが、江戸期の通例に依れば、重過失火災として市中引き回しの上で火焙りの刑に処せられたものと推定される。<br /><br /><br />明治維新成立後、新政府は神道を国教と定義し祭政一致の方針とすべく、容赦無き神仏分離を強行し国内を混乱させ、更に、廃仏毀釈の事態に発展した。<br /><br />境内寺院取扱に就いて、明治5年(1872年)4月21日附で従来の神祇省(しんぎしょう)が改編され、新たに教部省(きょうぶしょう)が設置された。<br /><br />然し、該省通達に拠り、教憲宣布説教所設置に鑑み、該社に於ける旧神宮寺堂舎活用に依る残存を目論んだが、該省見解は強硬で、許可となる筈も無く、翌明治6年(1873年)3月20日附を以って該堂宇一切の処分が命令され、該寺西塔が徳島県阿波市在の切幡寺(きりはたじ)に金5円30銭で売却移築された他、数点を除き、全部破却された。<br /><br /><br />更に、相前後して、明治4年(1871年)2月23日附 大政官布告は、社寺領上知令(しゃじりょうちじょうちれい)が発令され、多数の社寺を困惑せしめる事態が生じた。<br />即ち、該令は神社寺院所有地以外の朱印地、黒印地、除地を除き、幕府、若しくは、藩から拝領された土地に就いて、同年8月29日に廃藩置県(はいはんちけん)実施が決定的になり、既に消滅した幕府と共に藩も消滅する事から、此れら土地付与側が消滅する事は、即ち、該地付与の法的根拠を喪失するものと解釈され、此の為に土地保有は本来の境内土地所有のみ認定し、境内外は国有地として公収される事が決定された。<br /><br />該社に於いては、朱印地、黒印地と共に馬場跡が該当地とされ、国有地収納後に於ける有効活用の方針を検討し、明治6年(1873年)に濱寺と共に大阪府初の公営公園として整備され一般開放された。<br /><br />更に、追討ちをかけるが如く、翌明治5年(1872年)1月12日附 大政官布告に依り神職世襲が禁止され、多数の神人が離職を余儀無くされたが、他方、世襲宮司たる津守家当主は永代に於ける該社神職としての功績が評価され華族に列し男爵を賜った。<br /><br />同年11月に、神祇省は該社摂社別院の扱いに就いて、堺宿院屯宮を除き該社から独立が命令され、祭器一式を大阪府に引渡を命じられた。<br /><br />即ち、<br />生根(いくね)神社<br />  住吉区住吉2-3-15<br />大依羅(おおよさみ)神社<br />  住吉区庭井2-19-11<br />若松(わかまつ)神社(現 止杼侶支比売命神社)<br />  住吉区沢入町1-10-4<br />山阪(やまさか)神社<br />東住吉区山坂2-19-22<br />の4社である。<br /><br />また、此の時点で、堺市所在の方違(かたたがえ)神社も該社境外摂社だったが独立社化している。<br /><br /><br />該社が国家管理になり明治5年(1872年)12月の教部省通達に依り、国鎮護に関する以外の神事、即ち、年1度の例祭、祈祭、新嘗祭、元始祭、天長節祭、及び、6月、12月の大祓をして官祭に分類され、他は私祭として分類され、該類に区分された祭事は不必要と判定され、殆どの歴史的神事が執行休止を余儀無くされた。<br />御田植(おたうえ)神事は、現在の御田が旧黒印地だった事から、上知令公収対象地に指定され、公収後に民間に払下げられた為に、明治8年(1875年)に一時廃絶を余儀無くさせられたが、明治20年(1887年)5月に大阪新町遊郭組合が該地を買収し該社に献納した事から同年6月に再興した。<br />然し、御田植神事復活は廃絶神事再興の呼び水になり該動が本格的になる発端になった。<br />日清戦争後に於ける我が国貿易拡大から、大阪港は外洋船舶入港可能な近代的港湾施設設置の為に大阪市が築港計画を起案し、明治30年(1897年)に起工するにあたり、当時の大阪政財界は築港地区の神社に神事が存在しない事に気づき、此れに基き、明治5年(1872年)を最後に廃絶していた宝之市(たからのいち)神事を復活させた。<br />更に、長年の懸案だった夏越祓(なごしのおはらえ)神事は昭和4年(1929年)、昭和12年(1937年)に御結鎮(みけち)神事が再興した。<br /><br /><br />第122代 明治天皇(めいじ てんのう)(嘉永5年(1852年)11月3日~明治45年(1912年)7月30日)(慶應3年(1867年)1月30日~明治45年(1912年)7月30日御在位)は、<br />   明治 元年(1868年) 5月12日<br />   明治10年(1877年) 2月14日<br />に行幸参拝されている。<br /><br /><br />明治18年(1885年)12月29日に、阪堺鐵道(現 南海電気鉄道)が難波-大和川間開通時に、同時に住吉停車場(現 住吉大社駅)を開設させた事で、大阪市内域から該社への参拝が、それまでの移動手段として乗合馬車か駕籠利用だったものが鉄道利用に拠り俄然便利になった。<br /><br /><br />後の 第124代 昭和(しょうわ)天皇(明治34年(1901年)4月29日~昭和64年(1989年)1月7日)(昭和元年(1926年)12月25日~昭和64年(1989年)1月7日御在位)は皇太子裕仁親王時代に大正6年(1917年)の関西方面行啓の際に該社に初参拝されている。<br />即ち、5月8日に陸軍大尉の軍装に大勲位勲章を佩用され、南海鐵道難波駅発3両編成の御召電車の2号車に乗車され、8時45分に住吉駅到着後、徒歩で該社に向かわれ、該社参拝後に9時40分住吉駅発の御召電車で堺に向かわれた。<br /><br /><br />昭和9年(1934年)9月21日に襲来した室戸台風(むろと たいふう)では第1~4本宮、大海神社等々、及び、石燈篭、木灯篭倒壊15基建立物に被害が発生した。<br /><br /><br />大東亜戦争中に於ける該社被害は2件発生した。<br /><br />昭和19年(1944年)12月7日13時36分に熊野灘沖を震源とする巨大地震が発生し、現在では、東南海地震(とうないいかい じしん)と呼称されるが、愛知県知多半島は震源から至近でもあり重大被害が生じたが、戦時下でもあり現在に至るも被害実態詳細は不明とされる。<br />該地震で大阪市では震度4を記録したが、該社では、住吉公園参道に城立する明治36年(1903年)建立の西大鳥居の倒壊被害が発生した。<br /><br />大東亜戦争末期、連合軍は全国各地に空襲を行使したが、該社では、昭和20年(1945年)6月1日の第2次大阪大空襲の際に、第1本宮南門前、及び、摂社若宮八幡宮前等々に焼夷弾が落下し爆発炎上したが、直ちに消火された為に該社内火災被害は発生せず済んだ。<br /><br /><br />大阪万国博覧会は昭和45年(1970年)に開催されたが、第124代 昭和(しょうわ)天皇(明治34年(1901年)4月29日~昭和64年(1989年)1月7日)(昭和元年(1926年)12月25日~昭和64年(1989年)1月7日御在位)、並びに、香淳(こうじゅん)皇后(明治36年(1903年)3月6日~平成12年(2000年)6月16日)両陛下は、7月15日に該社を行幸参拝され、此れを記念して、該社中門、中北門、中南門は、行幸に因み、個々、寿門、幸禄門、幸福門に改名された。<br /><br /><br />平成23年(2011年)5月12日、該社は鎮座1800年祭、及び、第49回式年遷宮を祭行。<br /><br /><br /><br />境内撮影は住吉大社特別許可を得て撮影。<br /><br /><br /><br />表紙写真は、<br />反橋(そりはし)<br /><br /><br /><br />住吉大社(すみよし たいしゃ)<br />大阪市住吉区住吉2-9-89<br />℡: 06-6672-0753<br />4月 1日~9月30日 6時 ~17時<br />10月30日~3月31日 6時30~17時<br />南海電気鉄道本線住吉大社駅 徒歩2分<br />http://www.sumiyoshitaisha.net/

摂津國一之宮 住吉大社参拝記

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2017/05/31 - 2017/05/31

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横浜臨海公園

横浜臨海公園さん

住吉大社(すみよしたいしゃ)は、大阪市住吉区に所在する摂津國一之宮神社である。


該社、御祭祀は、

底筒男命(そこつつおのみこと)
中筒男命(なかつつおのみこと)
表筒男命(うわつつおのみこと)
息長足臣命(おきながのたらしひめ)

の御4柱である。


大社(たいしゃ)とは、市町村所在の鎮守社と異なり、国に対する奉賛神社を意味する。


該社は大阪上町台地上に所在し、創建に就いては、住吉大社神代記(すみよしたいしゃ しんだいき)記述に拠る処が大きい。
即ち、神功(じんぐう)皇后(成務40年(170年)~神功摂政69年(269年)6月3日)に依る三韓征伐帰還途中、神功摂政11年(211年)5月に、日向國栢小戸憶原に立寄られた際に、伊耶那岐命(いさなぎのみこと)が海中より御誕生され、その際に、
吾力和魂ヲハ大津ノ淳中倉ノ長峡ニ居サムヘシ便チ因リテ行来フ船ヲ看サム
と神託を受け、明治5年(1872年)まで1600余年もの間、該社宮司家を世襲した津守家祖たる田裳見宿禰(たもみのすくね)( ? ~仲哀9年(200年)12月14日)の進言に拠り、現在地に住吉大神(すみよしのおおかみ)を鎮斎されたのを嚆矢とされる。

即ち、日本書紀 第六巻第壱寿
海の底に沈み漕ぎつたまふ、因りて以て生ませる神の号を 底津少童命
潮の中に潜き漕ぎつたまふ、因りて以て生ませる神の号を 中津少童命
潮の上に浮き漕ぎつたまふ、因りて以て生ませる神の号を 表津少童命
と記述が見られる。

但し、該資料で、三韓征伐に於ける住吉大神出自に就いては必ずしも明確では無く、該記述が明白では無い理由として、寧ろ、当時は重要事項に対しては一子口伝の可能性大で、途中口伝困難が原因で途絶したものと推定される。

然るに、該資料は、斉明5年(659年)に於ける津守宿禰吉祥(つもりのすくね きさ)(生没不詳)に拠る注進記録、及び、大宝2年(702年)の縁起を基に、天平3年(731年)7月5日附で神祇官上申に達した解文であり、藤原定家(ふじわらの さだいえ)(應保2年(1162年)~仁治2年(1241年)9月26日)が、元久元~2年(1204~05年)に該社参篭時に該資料を閲覧する機会を得て明月記(めいげつき)に該資料閲覧した旨の記述が存在するものの、該資料は該社宮司や時の権力者と雖も閲覧厳禁の秘本として、江戸期には逆に該存在を疑念視する意見すら生ずる状態だった


古代支那に於ける隋國は、意外にも37年間しか存在しなかった短命王朝である。
然るに、第33代 推古女帝(すいこ てんのう)(欽明15年(554年~推古36年(628年)4月15日)が、遣隋使(けんずいし)を派遣した事で我が国史上に於いて知られた存在である。
第1回派遣は、推古11年(603年)に小野妹子(おのの いもこ)(生没不詳)を派遣したが、該派遣に関しては日本書紀に記述が存在せず、隋書倭國傳に記述が存在する。
遣隋使は計6回派遣されたが、該派遣に鑑み、遣隋使船に神主と称し該社神職を乗船奉仕させている事で、該社宮司家として現在も続く津守家たる、
従八位下 津守宿禰嶋麻呂(つもりのすくね しままろ)
正六位上 津守宿禰客人(つもりのすくね まれひと)
の名が登場する。


該社神階に就いては、数度の兵乱に拠り資料散逸の為に途中不明とされる。
天平3年(731年) 7月 5日 従三位
延暦3年(784年) 6月    正三位勲三等
   同年     12月    従二位
大同元年(806年) 4月   従一位
嘉祥4年(850年) 1月27日 正一位
従二位から正二位を経て従一位に飛越え進級したとは考えにくく、大同元年から嘉祥4年の44年間途中に正二位拝命事実が存在したものと推定される。


該社は、古来より物語作品記述に度々登場する。

即ち、平安前期作とされる竹取物語(たけとり ものがたり)に於いて、赫映姫(かぐやひめ)に求婚した大納言は龍首の5色の美玉を手に入れるべく船出した処、暴風雨に遭遇し、揖取の御神に祈った処、漸く雷が治まったと言う記述の 揖取の御神(いとりのおんかみ)とは正に住吉大神の事であり、更に、平安中期作とされる源氏物語(げんじ ものがたり)では、須磨、明石、澪標、及び、若葉の場に於いて住吉大神が登場し、特に、須磨、明石の場に就いては、竹取物語の描写をそのまま取り入れられたと言って過言では無い。


該社は、奈良朝以前より軍大神として崇敬されていた事から、該社に於いて、内乱外冠の都度、当時の朝廷から天佑神助を以って奉幣が差し遣わされた。
即ち、
寛仁 3年(1019年) 4月 刀伊の来侵
文永11年(1274年)11月 文永の役
弘安 4年(1281年) 6月 弘安の役
然し、何れも交通不便な当時の事であり、折角の奉幣も後の祭りの感が強い。


該社は軍神であるが、同時に和歌道神であるともされている。
即ち、該社歴代宮司たる津守家当主が和歌に秀で、京都在の公家衆とも親交を有していた事は、平家物語(へいけものがたり)記述の一端に於いて、
住吉の神主長盛 院の御所にまいて大蔵卿泰経朝臣をもて奏聞しするは、去壱六日丑刻に当社第三の神殿より鏑矢の声いでて西をさして羅候ぬ
とあり、該文を現代語訳すると、
住吉神社神主(津守)長盛が後白河法皇院御所に参内し大蔵卿藤原朝臣泰時に秘話した内容は、去る(寿永4年(1185年)2月24日午前2時頃に住吉神社第三本宮から合戦開始合図の際に使用する鏑矢が音を立てて西方に飛び去った。
の記述からも明らかである。
因みに、該事件発生は屋島の合戦(やしまのかっせん)(寿永4年(1185年)2月19日直後であり、要するに、平氏滅亡を予言した内容である。


鎌倉期に於いて、該社は摂津國に君臨する大荘園領主だったが、該領地拡大化するに伴い、同時に隣接地を隔て他大荘園領主間に紛争が発生するのは自然の成行きと言うべき状態だった。

即ち、該社と隣接する四天王寺、及び、東大寺とは境界を巡る紛争が度々発生し、特に、四天王寺間との係争に就いては、藤原定家(ふじわらの さだよし)(應保2年(1162年)~仁治2年(1241年)7月26日)の明月記(めいげつき)寛喜2年(1230年)3月20日條に、去年於天王寺、有刃傷殺害なる記述が見られ、両者に殺傷事件が発生する程の、ただならぬ緊迫した事態が発生していた事が判る。

更に、坐摩(いかすり)神社との間に於いても重大事件が発生していた。
弘安6年(1283年)6月30日は大赦神事執行の為に該社は早朝から煩瑣を極めていたに相違ない。
然るに、大赦神事執行中、住吉神社扶持人 坐摩社重房なる人物が該社に押入り、神興、神殿等々を破壊し、拝殿を流血で毀損したと云ふ事件が発生し、事件詳細は直ちに都に相聞され、翌弘安7年(1284年)6月28日に朝廷は住吉社宮司 津守國助(つもり くにすけ)(仁治3年(1242年)~永仁7年(1299年)3月19日)、及び、坐摩神社主康重(年性没年不詳)は都に召喚され、第90代 亀山(かめやま)上皇(延長元年(1249年7月9日~嘉元3年(1305年)10月4日)院文殿に於いて対決問註させた。
即ち、該事件背景に、該時代まで坐摩神社が該社末社、且つ、別宮的存在に過ぎぬ状態だったが、鎌倉期末期頃より該社から独立化動向が発生し、此れに連動した最中に発生した事件であった。


第96代 後醍醐(ごだいご)天皇(正應元年(1288年)11月26日~延元4年(1339年)9月19日)(文保2年(1318年)3月29日~延元4年(1339年)9月19日御在位)の崩御を受けて即位された 第97代後村上(ごむらかみ)天皇(嘉暦3年(1328年)~正平23年(1368年)3月29日)(延元4年(1339年)9月18日~正平23年81368年)3月29日御在位)は、正平7年(1352年)3月19日に該社に行幸されたが、更に、正平15年(1360年)11月に再度行幸され該社行宮に崩御されるまで滞在された例を見る様に、該社は、南北朝時代に於いて終始南朝方として精勤した。

また、同時代の代表的軍記物語たる太平記(たいへいき)に於いて、天弘2年(1332年)8月3日ノ條に、該社に対し、後醍醐天皇が社殿造営費として20万匹奉進した事や、楠木正成(くすのき まさしげ)(永仁2年(1294年)?~建武3年(1336年)7月4日)公が神馬3疋献納の記述が見られる。


該社本殿は遷宮を以って20年毎に造改を反復させて来た事で周知されている。
建長 5年(1253年)
文永11年(1274年)
永仁 2年(1294年)
正和 3年(1314年)
建武 元年(1334年)
正平 9年(1354年)
文中 3年(1374年)
慶永 元年(1394年)
慶永20年(1413年)
永享 6年(1434年)
文安 3年(1446年)修理のみ造営遷宮無
康正 2年(1456年)実現せず
文明 3年(1471年)応仁・文明ノ乱の為実現せず
延徳 4年(1492年)該社宮司遷宮請願
永正14年(1517年)勧進僧努力に拠り遷宮


ルイス・フロイス(Luis FROIS)(1532年(天文元年)~1597年(慶長2年)7月8日)はポルトガル人で、イエスズ会(Societes Iesu)に入会後、宣教師として永禄6年(1563年)7月6日に肥前國西彼杵郡に上陸後、途中帰国期間を除き長崎で没するまで30有余年間、我が国国内に於いて、カトリック布教活動に従事し、同時期に当時の権力者たる、織田信長(おだ のぶなが)(天文3年(1534年)6月23日?~天正10年(1582年)6月21日)、大友宗麟(おおとも そうりん)(享禄3年(1530年)1月31日~天正15年(1580年)6月11日)、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)(天文6年(1537年)3月17日?~慶長3年(1598年)9月18日)等々に接した数少ない外国人である。

フロイスは、我が国滞在中に於ける記録として、日本史(Historia de Japam)の存在がある。
該書前半は、フロイスに先達ち来日してたガスパール・ヴィレラ(Gaspar VILELA)(1526年(大永6年)~1572年(元亀3年))神父が上長たるイエスズ会マカオ代表部ヴァリアーニョ(Varianyo)宛報告書を基に記述していたが、来日後はフロイス自身が直接見聞した内容が論述されている。
該資料は、記述毎に便船でマカオのイエスズ会マカオ支部宛に送付されサンパウロ寺院附属書庫に収納されたが、該所は1835年(天保6年)1月26日に火災が発生し全焼した際に該原本は烏有に帰した。
然し、該書は18世紀に数冊分が筆写された事で数部が現存し、現在でもリスボン国立図書館に現存する。
該書は、当時の織豊時代の背景、及び、当時の日本語発音研究の上で重要資料である。
驚くべき事に、該書第1部第36章に於いて、住吉大明神祭礼に関する記述が現存する。
即ち、該資料1561年(永禄4年)7月29日項に於いて、該社祭礼をして、Sumiyoxi Daimeojin なる記述を以って、当時の祭礼の詳細が判明する。
即ち、
堺〔Sacai〕では7月29日に住吉大明神〔Sumiyoxi Daimeojin〕と言う神〔Cami〕を祀る別の祭り〔Festa〕がある。
人々が語る処では、(住吉大明神は)、昔、日本最高の国王である内裏〔Dairi〕の侍臣であったと言う。そして、人々は彼を聖人〔Santo〕と看做し敬慕していた為に、彼の為に堺郊外約半里〔Meia legoa〕の地に、現在は大坂の住民の行楽地たる広野に大規模で、且つ、多数の杜〔Tenmplos〕を建てた。但し、此れらの多くの杜は(織田)信長〔Nobunaga〕と大坂〔Vocaca〕(本願寺)との間の兵乱で焼失してしまった。
人々が、(住吉大明神)の祭礼は以下の通りである。
当日(7月29日)午後、人々は銃の1射程半以上の長さを有する堺〔Sacai〕の街路に赴く。
両側共に壁や門は全て小さな材木を相互に結んだ柵を一面に(張り巡らせる)が、それは此の様な(祭礼の)際に常に起こりがちな騒動に対処する為であり、その柵内で人々は行列を観賞するのである。
その様な(準備)を終え、半里〔Meia legao〕離れた、かの住吉ノ杜〔Templos de Sumiyoxi〕から、両手に刀〔Montante〕を携えた偶像が騎乗して来る。その後から、弓と矢を入れた箙を携える小姓が(続き)、その後方を手に鷹を持った別の者が続く。彼らの後から、徒歩や騎馬で偶像の供をする大勢の人々がやって来る。此れらの人々は、皆、手に武器や武具を携え、「千歳楽、万歳楽」〔Xenzairacu Manzairacu〕、即ち、千年の慶び、幾千万の楽しみ(と云う意味)を唱えながら歌い、且つ、踊る。彼らが、かくも喜悦して此れを唱えるのは驚くべき事である。それぞれの間隔は役約10名の余地を有する程である。驚くべき大群衆が其処に殺到したが、その中の多くの人々は此の祭りに参加するのに(神に)誓いをたてていた。
馬が通過すると神主〔cannuxi〕と称する白衣の(多数の)僧〔Bonsos〕が、甚だ大きく広い袖(の衣をまとい)、紙か革で出来た非常に美しい黒の僧帽(烏帽子)を頭に被ってやって来る。
この後に、彼らの女妖術師(巫女)〔feiticeras〕達が馬で進むが、彼女達は(神主)同様に白衣をまとい、非常に美しく飾り、夥しい数の婦人達に付添われ、歌いながら進む。
その直ぐ後に輿〔andas〕を担ぐ大勢の武装した人々が来るが、彼らの証言に拠ると、その(輿の)中に、かの偶像〔Pagode〕が入っているとの事である。その輿は、それを見ようとする全ての人々から拝礼され、人々は双手を挙げ大いに畏敬の念を示す。40名前後の者が此れ(輿)を肩に担いでいる。そして此れらの人々の後から、色々な歌を歌い、「千歳楽、万歳楽」を反復させる大勢の人々が行進して来る。
彼らは、そこから住吉ノ杜へ帰り、かくて此の祭典と行列が終了する。
との記述である。

現在では、住吉祭(夏祭り)として毎年7月30日から8月1日にかけて3日間、執り行われる該祭の中で、最終日に実施される神輿渡御(みこし とぎょ)の神事で、神輿が住吉大社を出発し大和川を渡河し堺宿院頓宮に到るまでの行程のもので、到着後は該頓宮内に存在する飯匙堀(いいさじぼり)に於いて荒和大祓神事が執行されるが、即ち、該史本文をして、フロイスやヴィレラが目撃したのは、大和川渡河以降に於ける現在の堺市内での情景を垣間見たものと推定される。


顕如(けんにょ)(天正12年(1543年)2月20日~文禄元年(1592年)12月27日は、浄土真宗(じょうどしんしゅう)開祖たる親鸞(しんらん)(承安3年(1173年)4月1日~弘長2年(1263年)1月16日)から数え第11世本願寺当主として大坂石山本願寺を拠点に、織田信長(おだ のぶなが)(天文3年(1543年?天正10年(1582年)6月21日)と敵対関係に在り、一向一揆をして信徒達を教唆覇道させ、且つ、信長と友好的関係を有するとして神道勢力をも憎悪敵視した変態的人物である。
信長とは本能寺一揆と称する戦いが続いたが、天正4年(1576年)に大坂布陣の際、顕如を神の如く慕う無智追従信徒連中に拠り、同年4月26日に該社境内が放火焼毀するの暴挙に出た。


豊臣秀頼(とよとみ ひでより)(文禄2年(1593年)8月29日~慶長20年(1615年)6月4日)配下の家臣 大野治胤(おおの はるたね)(生年不詳~慶長20年(1615年)7月22日)は、大坂夏ノ陣(おおさか なつのじん)に於いて、徳川方兵站拠点の1ヶ所とされた堺を攻撃焼捨させるべく進軍の途中、該社施設一切をも焼失させるべく慶長20年(1615年)5月9日に攻撃をかけ正院殿他数ヶ所を焼失させたが、第壱~四本宮に火をかけかけた処、豪雨が襲い着火に至らず焼失は免れた。


慶長19~20年(1614~15年)の大坂ノ役(おおさかのえき)が原因に拠り豊臣家滅亡後、徳川家康(とくがわ いえやす)(天文11年(1543年)1月31日~元和2年(1616年)6月1日)は該社再興を指示していたが、着手直前に死去した為に、弟2代将軍 徳川秀忠(とくがわ ひでただ)(天正7年(1579年)5月2日~寛永9年(1632年)3月14日)命に拠り、元和3年(1617年)7月17日附を以って、朱印状2060石が安堵された。
因みに、2060石とは、当時の12万石大名相当の石高である。


該社は江戸初期まで創建を含めた史実が混沌として、事実関係の確認を必要とする声が強まった。

梅園惟朝(うめぞの これとも)(生没年不詳)は、該社境外摂社 山坂神社社家に出身の神道研究家であり元禄期に活躍した人物である。
住吉松葉大記22巻は該社に於ける歴史的全貌を明らかにし、当時、禁見書とされ閲覧不可能だった住吉大社神代記以外の原資料を精査し吟味した事から、純然たる学問的態度を堅持した内容である。


井原西鶴(いはら さいかく)(寛永19年(1642年)~元禄6年(1693年)9月9日)は、現代でこそ浮世草子作家として定着した感があるが、実は元来は俳諧師として登場し、松尾芭蕉(まつお ばしょう)(寛永21年(1644年)~元禄7年(1694年)1月28日)などとも交遊があった。

京都蓮華院三十三間堂に於ける千本通し矢をヒントに、該社に於いて大矢数俳諧を企画し、貞享元年(1684年)7月17日に実施された。
当日は、暮6つ(18時)に開始し翌日暮6つに至る24時間を以って西鶴は23500句を独吟したが、此れは単純に時間換算すると、1分間16句、1句4秒相当で、流石に速記者も記録不可能で該会に於ける句は殆ど現存していない。

発句は、
神誠を以て息の根とめよ大矢数
と勇ましかったが、該大会終了後に於ける虚脱感に苛まれたのであろう、
射てみたが、何の根もない大矢数
なる句が残されており、此れを期に西鶴は俳諧の世界から足を洗い、浮世草子作家に起向する転機となった。

該社に関する記述として、貞享3年(1686年)公開の好色五人女に於いて、駆落ち途中の清太郎、なつの2人が乗船した舟の船頭が客に向かい、
さあさあ出ます、銘々の心配なれば住吉さまのお初尾でも
とあり、航海中の無事を期待したければ航海の神たる住吉の神に願いをかけておけとの意味である。


現在の住吉公園参道に城立する南北絵馬殿付近、及び、南駐車場付近は江戸中期まで難波湾に面し、西大鳥居は安芸國厳島神社(いつくしま じんじゃ)大鳥居に見られるが如き満潮時は海中に城立していた。

現在の1級河川 大和川(やまとがわ)は、江戸期まで下流域は湾曲し天井川だった事から度々氾濫し流域住民を苦しめていた。

幕府は、河村瑞賢(かわむら ずいけん)(天和3年(1617年)?~元禄12年(1699年)7月12日)に現地調査を命じ、瑞賢の報告を基に工事を進行させ、宝永元年(1700年)に現流域に付替工事が完成したが、該工事竣工に拠り氾濫自体は激減したが、反面、該社北域に存在した依羅池(いらいけ)は徐々に埋立られ、萬葉集や和歌に詠まれた景勝地は永久に姿を消した。


太田南畝(おおた なんぼ)(寛政2年(1749年)4月19日~文政6年(1823年)5月16日)は、江戸幕府高等官吏であったが、現在では寧ろ狂歌師として蜀山人(しょくさんじん)の号で知られている。
南畝は、享和元年(1801年)4月から約1年間、大坂銅座役人として赴任し、大坂滞在中に住吉参詣を6回実行した事が日記記述が見られるが、医師 蕪坊(かぶらぼう)(宝暦8年(1758年)~文化12年(1815年)7月19日)との歌を交わす交遊関係は現在でも知られた存在である。
南畝が蕪坊との交遊を永く知らしめる為に、浪速の狂歌師連に拠り、記念碑が文政5年(1822年)に該社内に建立された。


該社は、享和2年(1802年)は遷宮の為に境内は工事中だったが、同年11月23日夜半、難波湾から強い西風が吹く内、作業小屋から出火し第壱~四本宮を含む境内33施設が全焼する大火が発生した。
幸いにも死傷者こそ発生しなかったものの、慶長12年(1607年)造営建造物を含め境内造営物の過半が焼失した。
火災原因は作業小屋内を利用する人夫達が煙草に火をつける為に設置していた火縄の不始末と断定された。

因みに、該失火に関し、当時の造営工事責任者が如何なる処分をされたか記録が現存していな為に不明だが、江戸期の通例に依れば、重過失火災として市中引き回しの上で火焙りの刑に処せられたものと推定される。


明治維新成立後、新政府は神道を国教と定義し祭政一致の方針とすべく、容赦無き神仏分離を強行し国内を混乱させ、更に、廃仏毀釈の事態に発展した。

境内寺院取扱に就いて、明治5年(1872年)4月21日附で従来の神祇省(しんぎしょう)が改編され、新たに教部省(きょうぶしょう)が設置された。

然し、該省通達に拠り、教憲宣布説教所設置に鑑み、該社に於ける旧神宮寺堂舎活用に依る残存を目論んだが、該省見解は強硬で、許可となる筈も無く、翌明治6年(1873年)3月20日附を以って該堂宇一切の処分が命令され、該寺西塔が徳島県阿波市在の切幡寺(きりはたじ)に金5円30銭で売却移築された他、数点を除き、全部破却された。


更に、相前後して、明治4年(1871年)2月23日附 大政官布告は、社寺領上知令(しゃじりょうちじょうちれい)が発令され、多数の社寺を困惑せしめる事態が生じた。
即ち、該令は神社寺院所有地以外の朱印地、黒印地、除地を除き、幕府、若しくは、藩から拝領された土地に就いて、同年8月29日に廃藩置県(はいはんちけん)実施が決定的になり、既に消滅した幕府と共に藩も消滅する事から、此れら土地付与側が消滅する事は、即ち、該地付与の法的根拠を喪失するものと解釈され、此の為に土地保有は本来の境内土地所有のみ認定し、境内外は国有地として公収される事が決定された。

該社に於いては、朱印地、黒印地と共に馬場跡が該当地とされ、国有地収納後に於ける有効活用の方針を検討し、明治6年(1873年)に濱寺と共に大阪府初の公営公園として整備され一般開放された。

更に、追討ちをかけるが如く、翌明治5年(1872年)1月12日附 大政官布告に依り神職世襲が禁止され、多数の神人が離職を余儀無くされたが、他方、世襲宮司たる津守家当主は永代に於ける該社神職としての功績が評価され華族に列し男爵を賜った。

同年11月に、神祇省は該社摂社別院の扱いに就いて、堺宿院屯宮を除き該社から独立が命令され、祭器一式を大阪府に引渡を命じられた。

即ち、
生根(いくね)神社
  住吉区住吉2-3-15
大依羅(おおよさみ)神社
  住吉区庭井2-19-11
若松(わかまつ)神社(現 止杼侶支比売命神社)
  住吉区沢入町1-10-4
山阪(やまさか)神社
東住吉区山坂2-19-22
の4社である。

また、此の時点で、堺市所在の方違(かたたがえ)神社も該社境外摂社だったが独立社化している。


該社が国家管理になり明治5年(1872年)12月の教部省通達に依り、国鎮護に関する以外の神事、即ち、年1度の例祭、祈祭、新嘗祭、元始祭、天長節祭、及び、6月、12月の大祓をして官祭に分類され、他は私祭として分類され、該類に区分された祭事は不必要と判定され、殆どの歴史的神事が執行休止を余儀無くされた。
御田植(おたうえ)神事は、現在の御田が旧黒印地だった事から、上知令公収対象地に指定され、公収後に民間に払下げられた為に、明治8年(1875年)に一時廃絶を余儀無くさせられたが、明治20年(1887年)5月に大阪新町遊郭組合が該地を買収し該社に献納した事から同年6月に再興した。
然し、御田植神事復活は廃絶神事再興の呼び水になり該動が本格的になる発端になった。
日清戦争後に於ける我が国貿易拡大から、大阪港は外洋船舶入港可能な近代的港湾施設設置の為に大阪市が築港計画を起案し、明治30年(1897年)に起工するにあたり、当時の大阪政財界は築港地区の神社に神事が存在しない事に気づき、此れに基き、明治5年(1872年)を最後に廃絶していた宝之市(たからのいち)神事を復活させた。
更に、長年の懸案だった夏越祓(なごしのおはらえ)神事は昭和4年(1929年)、昭和12年(1937年)に御結鎮(みけち)神事が再興した。


第122代 明治天皇(めいじ てんのう)(嘉永5年(1852年)11月3日~明治45年(1912年)7月30日)(慶應3年(1867年)1月30日~明治45年(1912年)7月30日御在位)は、
   明治 元年(1868年) 5月12日
   明治10年(1877年) 2月14日
に行幸参拝されている。


明治18年(1885年)12月29日に、阪堺鐵道(現 南海電気鉄道)が難波-大和川間開通時に、同時に住吉停車場(現 住吉大社駅)を開設させた事で、大阪市内域から該社への参拝が、それまでの移動手段として乗合馬車か駕籠利用だったものが鉄道利用に拠り俄然便利になった。


後の 第124代 昭和(しょうわ)天皇(明治34年(1901年)4月29日~昭和64年(1989年)1月7日)(昭和元年(1926年)12月25日~昭和64年(1989年)1月7日御在位)は皇太子裕仁親王時代に大正6年(1917年)の関西方面行啓の際に該社に初参拝されている。
即ち、5月8日に陸軍大尉の軍装に大勲位勲章を佩用され、南海鐵道難波駅発3両編成の御召電車の2号車に乗車され、8時45分に住吉駅到着後、徒歩で該社に向かわれ、該社参拝後に9時40分住吉駅発の御召電車で堺に向かわれた。


昭和9年(1934年)9月21日に襲来した室戸台風(むろと たいふう)では第1~4本宮、大海神社等々、及び、石燈篭、木灯篭倒壊15基建立物に被害が発生した。


大東亜戦争中に於ける該社被害は2件発生した。

昭和19年(1944年)12月7日13時36分に熊野灘沖を震源とする巨大地震が発生し、現在では、東南海地震(とうないいかい じしん)と呼称されるが、愛知県知多半島は震源から至近でもあり重大被害が生じたが、戦時下でもあり現在に至るも被害実態詳細は不明とされる。
該地震で大阪市では震度4を記録したが、該社では、住吉公園参道に城立する明治36年(1903年)建立の西大鳥居の倒壊被害が発生した。

大東亜戦争末期、連合軍は全国各地に空襲を行使したが、該社では、昭和20年(1945年)6月1日の第2次大阪大空襲の際に、第1本宮南門前、及び、摂社若宮八幡宮前等々に焼夷弾が落下し爆発炎上したが、直ちに消火された為に該社内火災被害は発生せず済んだ。


大阪万国博覧会は昭和45年(1970年)に開催されたが、第124代 昭和(しょうわ)天皇(明治34年(1901年)4月29日~昭和64年(1989年)1月7日)(昭和元年(1926年)12月25日~昭和64年(1989年)1月7日御在位)、並びに、香淳(こうじゅん)皇后(明治36年(1903年)3月6日~平成12年(2000年)6月16日)両陛下は、7月15日に該社を行幸参拝され、此れを記念して、該社中門、中北門、中南門は、行幸に因み、個々、寿門、幸禄門、幸福門に改名された。


平成23年(2011年)5月12日、該社は鎮座1800年祭、及び、第49回式年遷宮を祭行。



境内撮影は住吉大社特別許可を得て撮影。



表紙写真は、
反橋(そりはし)



住吉大社(すみよし たいしゃ)
大阪市住吉区住吉2-9-89
℡: 06-6672-0753
4月 1日~9月30日 6時 ~17時
10月30日~3月31日 6時30~17時
南海電気鉄道本線住吉大社駅 徒歩2分
http://www.sumiyoshitaisha.net/

旅行の満足度
5.0
観光
4.5
ホテル
5.0
グルメ
4.5
交通
4.5
同行者
一人旅
一人あたり費用
1万円 - 3万円
交通手段
新幹線 JRローカル 私鉄 徒歩
旅行の手配内容
個別手配
  • 住吉公園<br /><br /><br /><br />高燈籠(たかとうろう)<br />住吉大社境内外奉納され現存する石燈籠は、住吉信仰が庶民階層に拡大を見せた江戸中期頃から該社への奉納が盛んになったが、殊に、享保年間(1716~35年)頃から、石燈籠自体が巨大化傾向を見せる。<br />即ち、寛保2年(1742年)に奉納された石燈籠は5mに達する物が出現し、更に、延享5年(1748年)には高さ6mに及ぶ次第となった。<br />然るに、明和7年(1770年)に全国的規模での大旱魃に拠る凶作が発生し、更に、安永~天明年間(1772~1801年)に於ける度重なる旱魃、富士山、及び、浅間山大爆発、江戸大火、大飢饉が発生した時代に、流石に燈籠献納は下火にならざるを得なかった。<br />然し、田沼意次(たぬま おきつぐ)(享保4年(1714年)9月11日~天明8年(1788年)7月27日)が老中職に就任し、田沼が自由放任政策を採用行使した事で、我が国に於いて初期資本主義が萌芽し商人が実力を伴う事態と相俟って、天明末期に再び巨大石燈籠奉納が見られる様になり高燈籠の出現を見る。<br />当時構築された高燈籠は、高さ70尺(21m)、台座石40尺(12m)で、結果的に見て我が国燈台の嚆矢の存在となった。<br />台座に於ける書は、当時の漢学者 頼 山陽(らい さんよう)(安永9年(1781年)1月21日~天保3年(1132年)10月16日)の揮毫である。<br />該燈籠は、明治以降も残存したが、明治末期頃迄に付近一帯は埋立が進み燈台としての役目は大正中期に終えた。<br />昭和9年(1934年)9月21日来襲の室戸台風(むろと たいふう)、及び、昭和19年(1944年)12月7日発生の東南海大地震(ひがしなんかい だいじしん)に依り各部に弛緩が発生していた処、昭和25年(1950年)9月3日来襲のジェーン(Jane)台風で上部木造構築部分が損傷傾斜した為に、崩壊防止の為に上部構造部分は解体し台座のみ残存していたが、大阪市は国道26号線道路拡張計画に該台座が抵触する事を理由に昭和47年(1972年)台座も撤去されるに至った。<br />然るに、地元では由緒を有する該高燈籠の廃絶を惜しみ復活を希求する声が起き、住吉公園に於ける景観施設として改めて鉄筋コンクリート製にて再建され、昭和49年(1974年)12月9日に竣工したのが現高燈籠である。<br />平成17年(2005年)8月に該高燈籠内部が史料館として改装整備された。<br />平成24年(2012年)12月21日 大阪市都市景観資源登録。<br />www.osaka-park.or.jp/rinkai/sumiyoshi/main/html

    住吉公園



    高燈籠(たかとうろう)
    住吉大社境内外奉納され現存する石燈籠は、住吉信仰が庶民階層に拡大を見せた江戸中期頃から該社への奉納が盛んになったが、殊に、享保年間(1716~35年)頃から、石燈籠自体が巨大化傾向を見せる。
    即ち、寛保2年(1742年)に奉納された石燈籠は5mに達する物が出現し、更に、延享5年(1748年)には高さ6mに及ぶ次第となった。
    然るに、明和7年(1770年)に全国的規模での大旱魃に拠る凶作が発生し、更に、安永~天明年間(1772~1801年)に於ける度重なる旱魃、富士山、及び、浅間山大爆発、江戸大火、大飢饉が発生した時代に、流石に燈籠献納は下火にならざるを得なかった。
    然し、田沼意次(たぬま おきつぐ)(享保4年(1714年)9月11日~天明8年(1788年)7月27日)が老中職に就任し、田沼が自由放任政策を採用行使した事で、我が国に於いて初期資本主義が萌芽し商人が実力を伴う事態と相俟って、天明末期に再び巨大石燈籠奉納が見られる様になり高燈籠の出現を見る。
    当時構築された高燈籠は、高さ70尺(21m)、台座石40尺(12m)で、結果的に見て我が国燈台の嚆矢の存在となった。
    台座に於ける書は、当時の漢学者 頼 山陽(らい さんよう)(安永9年(1781年)1月21日~天保3年(1132年)10月16日)の揮毫である。
    該燈籠は、明治以降も残存したが、明治末期頃迄に付近一帯は埋立が進み燈台としての役目は大正中期に終えた。
    昭和9年(1934年)9月21日来襲の室戸台風(むろと たいふう)、及び、昭和19年(1944年)12月7日発生の東南海大地震(ひがしなんかい だいじしん)に依り各部に弛緩が発生していた処、昭和25年(1950年)9月3日来襲のジェーン(Jane)台風で上部木造構築部分が損傷傾斜した為に、崩壊防止の為に上部構造部分は解体し台座のみ残存していたが、大阪市は国道26号線道路拡張計画に該台座が抵触する事を理由に昭和47年(1972年)台座も撤去されるに至った。
    然るに、地元では由緒を有する該高燈籠の廃絶を惜しみ復活を希求する声が起き、住吉公園に於ける景観施設として改めて鉄筋コンクリート製にて再建され、昭和49年(1974年)12月9日に竣工したのが現高燈籠である。
    平成17年(2005年)8月に該高燈籠内部が史料館として改装整備された。
    平成24年(2012年)12月21日 大阪市都市景観資源登録。
    www.osaka-park.or.jp/rinkai/sumiyoshi/main/html

    住吉高燈籠 名所・史跡

    住吉高燈籠〔歴史的記念物〕 by 横浜臨海公園さん
  • 住吉公園(すみよし こうえん)<br /><br /><br /><br />全景<br />慶應4年(1868年)に王政復古ノ大号令と共に明治政府が成立したが、新政府は神道を国教として、政教一致の立場から容赦無き廃仏毀釈政策を強行した。<br />更に、明治4年(1871年)2月23日附 大政官布告は、社寺領上知令(しゃじりょうちじょうちれい)が発令され、多数の社寺を困惑せしめる事態になった。<br />即ち、該令は神社寺院所有地以外の朱印地、黒印地等々は幕府や藩から付与された土地だったが、同年8月29日に廃藩置県(はいはんちけん)実施が決定的になり、既に消滅した幕府と共に藩も消滅する事から、此れら土地付与側が消滅する事は該地付与根拠を喪失すると解釈され、本来の境内土地所有のみ認定し、境内地外は国有地として収納する事が決定された。<br />該社に於いては、朱印地、黒印池と共に馬場跡が該当地とされ、国有地収納後に於ける有効活用の方針を検討し、明治6年(1873年)に濱寺と共に大阪府初の公営公園として整備され一般開放された。<br />元来が住吉大社馬場だった所故に大樹が多い事でも知られている。<br />該参道に城立する西大鳥居は明治36年(1903年)に建立されたが、昭和19年(1944年)12月7日13時36分に発生した東南海地震で倒壊したが戦後再建された。<br />明治18年(1885年)に阪堺鐵道(現 南海電気鉄道本線)、及び、大正13年(1924年9に国道26号線開通に依り公園範囲が分断縮小を余儀無くされた為に、現在の住之江公園は、該公園第2施設として昭和5年(1930年)に開設された。<br />平成24年(2012年)12月21日 大阪市都市景観資源登録。<br />www.osaka-park.or.jp/rinkai/sumiyoshi/main/html

    住吉公園(すみよし こうえん)



    全景
    慶應4年(1868年)に王政復古ノ大号令と共に明治政府が成立したが、新政府は神道を国教として、政教一致の立場から容赦無き廃仏毀釈政策を強行した。
    更に、明治4年(1871年)2月23日附 大政官布告は、社寺領上知令(しゃじりょうちじょうちれい)が発令され、多数の社寺を困惑せしめる事態になった。
    即ち、該令は神社寺院所有地以外の朱印地、黒印地等々は幕府や藩から付与された土地だったが、同年8月29日に廃藩置県(はいはんちけん)実施が決定的になり、既に消滅した幕府と共に藩も消滅する事から、此れら土地付与側が消滅する事は該地付与根拠を喪失すると解釈され、本来の境内土地所有のみ認定し、境内地外は国有地として収納する事が決定された。
    該社に於いては、朱印地、黒印池と共に馬場跡が該当地とされ、国有地収納後に於ける有効活用の方針を検討し、明治6年(1873年)に濱寺と共に大阪府初の公営公園として整備され一般開放された。
    元来が住吉大社馬場だった所故に大樹が多い事でも知られている。
    該参道に城立する西大鳥居は明治36年(1903年)に建立されたが、昭和19年(1944年)12月7日13時36分に発生した東南海地震で倒壊したが戦後再建された。
    明治18年(1885年)に阪堺鐵道(現 南海電気鉄道本線)、及び、大正13年(1924年9に国道26号線開通に依り公園範囲が分断縮小を余儀無くされた為に、現在の住之江公園は、該公園第2施設として昭和5年(1930年)に開設された。
    平成24年(2012年)12月21日 大阪市都市景観資源登録。
    www.osaka-park.or.jp/rinkai/sumiyoshi/main/html

    住吉公園 公園・植物園

    住吉公園〔公園〕 by 横浜臨海公園さん
  • 住吉公園<br /><br /><br /><br />潮掛道(しおかけ みち)<br />住吉公園内を東西に縦断貫通する道路で、且つ、該社参道である。<br />明治中期頃まで該道路両側に茶店、土産物店が林立していたが、明治18年(1885年)12月に現在の南海電気鉄道本線の前身たる 堺鉄道に依り難波-大和川間が開通し住吉公園停車場が開設された事で、飲食関係店は駅付近に移動し、更に、明治後半には官幣大社参道に茶店等々は好ましからぬ存在とされ、残存店舗は悉く立退き撤去を強いられた。<br />現在は松林に囲まれた純然たる参道である。<br />www.osaka-park.or.jp/rinkai/sumiyoshi/main/html

    住吉公園



    潮掛道(しおかけ みち)
    住吉公園内を東西に縦断貫通する道路で、且つ、該社参道である。
    明治中期頃まで該道路両側に茶店、土産物店が林立していたが、明治18年(1885年)12月に現在の南海電気鉄道本線の前身たる 堺鉄道に依り難波-大和川間が開通し住吉公園停車場が開設された事で、飲食関係店は駅付近に移動し、更に、明治後半には官幣大社参道に茶店等々は好ましからぬ存在とされ、残存店舗は悉く立退き撤去を強いられた。
    現在は松林に囲まれた純然たる参道である。
    www.osaka-park.or.jp/rinkai/sumiyoshi/main/html

    住吉公園 公園・植物園

    住吉公園〔公園〕 by 横浜臨海公園さん
  • 住吉公園<br /><br /><br /><br />松尾芭蕉 句碑(まつお ばしょう くひ)<br />升かふて分別かはる月見哉<br />願主 備前屋惣兵衛 元文三戊午正月吉日<br />松尾芭蕉(まつお ばしょう)(宝永21年(1644年)~元禄7年(1694年)11月28日)は、亡くなる直前たる同年9月13日に該社 宝ノ市神事(たからのいち しんじ)時に参詣した際に詠んだ句である。<br />因みに、9月13日は太陰暦で太陽暦に換算すると10月31日である。<br />芭蕉は在坂の俳席に招待され多忙を極めたが、赤痢に罹病し、看護も空しく翌11月28日に御堂前で死去した。<br />正に芭蕉死の直前の句である。<br />www.osaka-park.or.jp/rinkai/sumiyoshi/main/html

    住吉公園



    松尾芭蕉 句碑(まつお ばしょう くひ)
    升かふて分別かはる月見哉
    願主 備前屋惣兵衛 元文三戊午正月吉日
    松尾芭蕉(まつお ばしょう)(宝永21年(1644年)~元禄7年(1694年)11月28日)は、亡くなる直前たる同年9月13日に該社 宝ノ市神事(たからのいち しんじ)時に参詣した際に詠んだ句である。
    因みに、9月13日は太陰暦で太陽暦に換算すると10月31日である。
    芭蕉は在坂の俳席に招待され多忙を極めたが、赤痢に罹病し、看護も空しく翌11月28日に御堂前で死去した。
    正に芭蕉死の直前の句である。
    www.osaka-park.or.jp/rinkai/sumiyoshi/main/html

    住吉公園 公園・植物園

    住吉公園〔公園〕 by 横浜臨海公園さん
  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />表参道

    住吉大社



    表参道

  • 住吉街道(すみよし かいどう)<br /><br /><br /><br />表参道前<br />該道は、浪速区恵美須町を起点に堺市大道に至る県道で、該地は安土桃山期まで難波湾を形成していたが、豊秀吉(とよとみ ひでよし)(天文6年(1537年)3月17日?慶長~3年(1598年)9月19日)に依り埋立開設された。<br />明治44年(1911年)12月1日に、該道路上を現在の阪堺電気軌道が路面電車を開通させた。

    住吉街道(すみよし かいどう)



    表参道前
    該道は、浪速区恵美須町を起点に堺市大道に至る県道で、該地は安土桃山期まで難波湾を形成していたが、豊秀吉(とよとみ ひでよし)(天文6年(1537年)3月17日?慶長~3年(1598年)9月19日)に依り埋立開設された。
    明治44年(1911年)12月1日に、該道路上を現在の阪堺電気軌道が路面電車を開通させた。

    住吉鳥居前停留場

  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />境内表参道

    住吉大社



    境内表参道

    住吉大社 寺・神社・教会

  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />狛犬(左)

    住吉大社



    狛犬(左)

    住吉大社 寺・神社・教会

  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />狛犬(右)

    住吉大社



    狛犬(右)

    住吉大社 寺・神社・教会

  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />北絵馬殿(きた えまでん)<br />一重 切妻造 本瓦葺<br />桁行3間 梁間1間<br />桁行33.05尺 梁間15.02尺<br />桁行10.02m 梁行4.55m<br />昭和11年(1936年)造営。

    住吉大社



    北絵馬殿(きた えまでん)
    一重 切妻造 本瓦葺
    桁行3間 梁間1間
    桁行33.05尺 梁間15.02尺
    桁行10.02m 梁行4.55m
    昭和11年(1936年)造営。

    住吉大社 寺・神社・教会

  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />南絵馬殿(みなみ えまでん)<br />一重 切妻造 本瓦葺<br />桁行3間 梁間1間<br />桁行33.05尺 梁間15.02尺<br />桁行10.02m 梁行4.55m<br />昭和11年(1936年)造営。

    住吉大社



    南絵馬殿(みなみ えまでん)
    一重 切妻造 本瓦葺
    桁行3間 梁間1間
    桁行33.05尺 梁間15.02尺
    桁行10.02m 梁行4.55m
    昭和11年(1936年)造営。

    住吉大社 寺・神社・教会

  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />反橋(そりはし)<br />該橋は太鼓状で該社創建時まで該橋入口が難波湾(大阪湾)海浜に面し造営。<br />此れまでは、慶長12年(1607年)に、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)(天文6年(1537年)3月17日?~慶長3年(1598年)9月18日)側室 淀君(よどぎみ)(永禄12年(1569年)?~慶長20年(1615年)6月4日)、及び、子の豊臣秀頼(とよとみ ひでより)(文禄2年(1593年)8月29日~慶長20年(1615年)6月4日)が奉納架橋したとされていたが、昨今の研究で該時代文書に該橋梁架橋に冠する記述が存在せず、架橋様式を含め江戸初期が正当と推定される。<br />明治維新まで住吉大神、即ち、神輿に限定し通行可能だった。

    住吉大社



    反橋(そりはし)
    該橋は太鼓状で該社創建時まで該橋入口が難波湾(大阪湾)海浜に面し造営。
    此れまでは、慶長12年(1607年)に、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)(天文6年(1537年)3月17日?~慶長3年(1598年)9月18日)側室 淀君(よどぎみ)(永禄12年(1569年)?~慶長20年(1615年)6月4日)、及び、子の豊臣秀頼(とよとみ ひでより)(文禄2年(1593年)8月29日~慶長20年(1615年)6月4日)が奉納架橋したとされていたが、昨今の研究で該時代文書に該橋梁架橋に冠する記述が存在せず、架橋様式を含め江戸初期が正当と推定される。
    明治維新まで住吉大神、即ち、神輿に限定し通行可能だった。

    住吉大社 寺・神社・教会

  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />反橋<br />6組花崗岩組合様式<br />昭和30年(1955年)佐野安船渠社奉仕に拠る造船技術を活用し橋上部鋼鉄化すると同時に横木が設置され以前と比較して昇降が便利になる。<br />平成3年(1991年)改修。

    住吉大社



    反橋
    6組花崗岩組合様式
    昭和30年(1955年)佐野安船渠社奉仕に拠る造船技術を活用し橋上部鋼鉄化すると同時に横木が設置され以前と比較して昇降が便利になる。
    平成3年(1991年)改修。

    住吉大社 寺・神社・教会

  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />反橋<br />橋上部

    住吉大社



    反橋
    橋上部

    住吉大社 寺・神社・教会

  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />南牧橋<br />長さ38.84尺 幅15.48尺<br />長さ11.77m 幅4.69m<br />江戸中期架橋。<br />反橋は明治初期まで神輿祭例執行者に限定し通行可能な存在であり、一般参拝者が通行可能なのは南北牧橋だけだった。<br />該橋は、承應期まで木造構造だったものと思われ、該期に新造祭が執行されている事から、該期に木造構造から現在の如き石積構造に造替されたものと推定される。

    住吉大社



    南牧橋
    長さ38.84尺 幅15.48尺
    長さ11.77m 幅4.69m
    江戸中期架橋。
    反橋は明治初期まで神輿祭例執行者に限定し通行可能な存在であり、一般参拝者が通行可能なのは南北牧橋だけだった。
    該橋は、承應期まで木造構造だったものと思われ、該期に新造祭が執行されている事から、該期に木造構造から現在の如き石積構造に造替されたものと推定される。

    住吉大社 寺・神社・教会

  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />北牧橋<br />長さ38.84尺 幅15.48尺<br />長さ11.77m 幅4.69m<br />反橋は明治初期まで神輿祭例執行者に限定し通行可能な存在であり、一般参拝者が通行可能なのは南北牧橋だけだった。<br />該橋は、承應期まで木造構造だったものと思われ、該期に新造祭が執行されている事から、該期に木造構造から現在の如き石積構造に造替されたものと推定される。

    住吉大社



    北牧橋
    長さ38.84尺 幅15.48尺
    長さ11.77m 幅4.69m
    反橋は明治初期まで神輿祭例執行者に限定し通行可能な存在であり、一般参拝者が通行可能なのは南北牧橋だけだった。
    該橋は、承應期まで木造構造だったものと思われ、該期に新造祭が執行されている事から、該期に木造構造から現在の如き石積構造に造替されたものと推定される。

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  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />住吉鳥居<br />全景<br />元和年間(1615~1624年)建立。

    住吉大社



    住吉鳥居
    全景
    元和年間(1615~1624年)建立。

    住吉大社 寺・神社・教会

  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />住吉鳥居<br />扁額<br />陶器製<br />有栖川宮幟仁(ありすがわのみや たるひと)親王(文化5年(1812年)12月27日~明治19年(1886年)1月24日)筆。

    住吉大社



    住吉鳥居
    扁額
    陶器製
    有栖川宮幟仁(ありすがわのみや たるひと)親王(文化5年(1812年)12月27日~明治19年(1886年)1月24日)筆。

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  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />住吉鳥居<br />4角柱構造から角鳥居とも称する。

    住吉大社



    住吉鳥居
    4角柱構造から角鳥居とも称する。

    住吉大社 寺・神社・教会

  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />幸壽門(こうじゅもん)<br />4脚門 切妻造 銅版葺<br />桁行15.02尺 梁間12.08尺<br />桁行4.55m 梁行3.66m<br />中門とも称する。<br />應永年間造営。

    住吉大社



    幸壽門(こうじゅもん)
    4脚門 切妻造 銅版葺
    桁行15.02尺 梁間12.08尺
    桁行4.55m 梁行3.66m
    中門とも称する。
    應永年間造営。

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  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />第壱本宮(だいいち ほんぐう)<br />幣殿<br />切妻造 檜皮葺<br />桁行5間 梁間2間<br />桁行12.01m 梁行4.24m <br />該本宮に於ける幣殿設置は、鎌倉期文永年間(1264?75年)以前と推定。<br />文化7年(1810年)造営。<br />平成22年(2010年)12月24日附 国重要文化財指定。<br />http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp

    住吉大社



    第壱本宮(だいいち ほんぐう)
    幣殿
    切妻造 檜皮葺
    桁行5間 梁間2間
    桁行12.01m 梁行4.24m
    該本宮に於ける幣殿設置は、鎌倉期文永年間(1264?75年)以前と推定。
    文化7年(1810年)造営。
    平成22年(2010年)12月24日附 国重要文化財指定。
    http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp

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  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />第壱本宮<br />神額<br />文化7年(1810年)造営。<br />平成22年(2010年)12月24日附 国重要文化財指定。<br />http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp

    住吉大社



    第壱本宮
    神額
    文化7年(1810年)造営。
    平成22年(2010年)12月24日附 国重要文化財指定。
    http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp

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  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />第壱本宮<br />渡殿<br />桁行2間 梁間1間 両下造 檜皮葺 <br />桁行5.40m 梁行4.72m<br />本殿 対 幣殿間の屋根を渡殿と称し、直下、瑞垣門 対 幣殿間を間ノ廊下(あいだのろうか)と称する。<br />文化7年(1810年)造営。<br />平成22年(2010年)12月24日附 国重要文化財指定。<br />http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp

    住吉大社



    第壱本宮
    渡殿
    桁行2間 梁間1間 両下造 檜皮葺
    桁行5.40m 梁行4.72m
    本殿 対 幣殿間の屋根を渡殿と称し、直下、瑞垣門 対 幣殿間を間ノ廊下(あいだのろうか)と称する。
    文化7年(1810年)造営。
    平成22年(2010年)12月24日附 国重要文化財指定。
    http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp

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  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />第壱本宮<br />本殿<br />該社御祭祀は、<br />底筒男命(そこつつのおのみこと)<br />御1柱である。<br />妻入 住吉造 檜皮葺<br />桁行4間 梁間正面3間<br />桁行8.00m 梁行4.72m<br />文化7年(1810年)造営。<br />昭和28年(1953年)11月14日附 国宝指定。<br />http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp

    住吉大社



    第壱本宮
    本殿
    該社御祭祀は、
    底筒男命(そこつつのおのみこと)
    御1柱である。
    妻入 住吉造 檜皮葺
    桁行4間 梁間正面3間
    桁行8.00m 梁行4.72m
    文化7年(1810年)造営。
    昭和28年(1953年)11月14日附 国宝指定。
    http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp

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  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />第弐本宮(だいに ほんぐう)<br />幣殿<br />切妻造 檜皮葺<br />桁行3間 梁間2間<br />桁行8.00m 梁行4.75m<br />該本宮に於ける幣殿設置は、慶長元?20年(1596?1615年)以降。<br />文化7年(1810年)造営。<br />平成22年(2010年)12月24日附 国重要文化財指定。<br />http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp

    住吉大社



    第弐本宮(だいに ほんぐう)
    幣殿
    切妻造 檜皮葺
    桁行3間 梁間2間
    桁行8.00m 梁行4.75m
    該本宮に於ける幣殿設置は、慶長元?20年(1596?1615年)以降。
    文化7年(1810年)造営。
    平成22年(2010年)12月24日附 国重要文化財指定。
    http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp

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  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />第弐本宮<br />神額<br />http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp

    住吉大社



    第弐本宮
    神額
    http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp

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  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />第弐本宮(だいにほんぐう)<br />本殿<br />該社御祭祀は、<br />中筒男命(なかつつのおのみこと)<br />御1柱である。<br />妻入 住吉造 檜皮葺<br />桁行4間 梁間3間 背面2間<br />桁行8.00m 梁行4.75m<br />文化7年(1810年)造営。<br />昭和28年(1953年)11月14日附 国宝指定。<br />http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp

    住吉大社



    第弐本宮(だいにほんぐう)
    本殿
    該社御祭祀は、
    中筒男命(なかつつのおのみこと)
    御1柱である。
    妻入 住吉造 檜皮葺
    桁行4間 梁間3間 背面2間
    桁行8.00m 梁行4.75m
    文化7年(1810年)造営。
    昭和28年(1953年)11月14日附 国宝指定。
    http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp

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  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />第参本宮(だいさん ほんぐう)<br />幣殿<br />切妻造 檜皮葺<br />桁行3間 梁間2間<br />桁行7.47m 梁行4.23m <br />該本宮に於ける幣殿設置は、慶長元?20年(1596?1615年)以降。<br />文化7年(1810年)造営。<br />平成22年(2010年)12月24日附 国重要文化財<br />http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp指定。<br />http://www.sumiyoshitaisha.net/

    住吉大社



    第参本宮(だいさん ほんぐう)
    幣殿
    切妻造 檜皮葺
    桁行3間 梁間2間
    桁行7.47m 梁行4.23m
    該本宮に於ける幣殿設置は、慶長元?20年(1596?1615年)以降。
    文化7年(1810年)造営。
    平成22年(2010年)12月24日附 国重要文化財
    http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp指定。
    http://www.sumiyoshitaisha.net/

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  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />第参本宮<br />神額<br />http://www.sumiyoshitaisha.net/

    住吉大社



    第参本宮
    神額
    http://www.sumiyoshitaisha.net/

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  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />第参本宮<br />本殿<br />該社御祭祀は、<br />表筒男命(うわつつのみこと)<br />御1柱である。<br />妻入 住吉造 檜皮葺<br />桁行4間 梁間3間 背面2間<br />桁行8.00m 梁行4.75m<br />文化7年(1810年)造営。<br />昭和28年(1953年)11月14日附 国宝指定。<br />http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp<br />http://www.sumiyoshitaisha.net/

    住吉大社



    第参本宮
    本殿
    該社御祭祀は、
    表筒男命(うわつつのみこと)
    御1柱である。
    妻入 住吉造 檜皮葺
    桁行4間 梁間3間 背面2間
    桁行8.00m 梁行4.75m
    文化7年(1810年)造営。
    昭和28年(1953年)11月14日附 国宝指定。
    http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp
    http://www.sumiyoshitaisha.net/

    住吉大社 寺・神社・教会

  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />第四本宮(だいよん ほんぐう)<br />幣殿<br />切妻造 檜皮葺<br />桁行3間 梁間2間<br />桁行7.47m 梁行4.23m<br />該本宮に於ける幣殿設置は、慶長元?20年(1596?1615年)以降。<br />文化7年(1810年)造営。<br />平成22年(2010年)12月24日附 国重要文化財指定。<br />http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp<br />http://www.sumiyoshitaisha.net/

    住吉大社



    第四本宮(だいよん ほんぐう)
    幣殿
    切妻造 檜皮葺
    桁行3間 梁間2間
    桁行7.47m 梁行4.23m
    該本宮に於ける幣殿設置は、慶長元?20年(1596?1615年)以降。
    文化7年(1810年)造営。
    平成22年(2010年)12月24日附 国重要文化財指定。
    http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp
    http://www.sumiyoshitaisha.net/

    住吉大社 寺・神社・教会

  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />第四本宮<br />神額<br />http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp<br />http://www.sumiyoshitaisha.net/

    住吉大社



    第四本宮
    神額
    http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp
    http://www.sumiyoshitaisha.net/

    住吉大社 寺・神社・教会

  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />第四本宮<br />本殿<br />該社御祭祀は、<br />息長足姫命(おきながたらしひめ)(神功皇后)<br />御1柱である。<br />妻入 住吉造 檜皮葺<br />桁行4間 梁間3間 背面2間<br />桁行8.00m 梁行4.75m<br />文化7年(1810年)造営。<br />昭和28年(1953年)11月14日附 国宝指定。<br />http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp<br />http://www.sumiyoshitaisha.net/

    住吉大社



    第四本宮
    本殿
    該社御祭祀は、
    息長足姫命(おきながたらしひめ)(神功皇后)
    御1柱である。
    妻入 住吉造 檜皮葺
    桁行4間 梁間3間 背面2間
    桁行8.00m 梁行4.75m
    文化7年(1810年)造営。
    昭和28年(1953年)11月14日附 国宝指定。
    http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp
    http://www.sumiyoshitaisha.net/

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  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />南瑞籬門<br />4脚門 切妻造 銅版葺<br />桁行14.57尺 梁間10.26尺<br />桁行4.51m 梁行3.11m<br />文化期造営。<br />昭和38年(1963年)現位置移転。<br />http://www.sumiyoshitaisha.net/

    住吉大社



    南瑞籬門
    4脚門 切妻造 銅版葺
    桁行14.57尺 梁間10.26尺
    桁行4.51m 梁行3.11m
    文化期造営。
    昭和38年(1963年)現位置移転。
    http://www.sumiyoshitaisha.net/

    住吉大社 寺・神社・教会

  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />北瑞籬門<br />4脚門 切妻造 銅版葺<br />桁行14.60尺 梁間10.10尺<br />桁行4.42m 梁行3.06m<br />文化期造営。<br />http://www.sumiyoshitaisha.net/

    住吉大社



    北瑞籬門
    4脚門 切妻造 銅版葺
    桁行14.60尺 梁間10.10尺
    桁行4.42m 梁行3.06m
    文化期造営。
    http://www.sumiyoshitaisha.net/

    住吉大社 寺・神社・教会

  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />侍者社(おもとしゃ)<br />本殿(内殿)<br />該社末社<br />御祭祀は、<br />田裳見宿禰(たもみのすくね)<br />市姫(いちひめ)<br />御2柱である。<br />1間社 正面入母屋造 背面切妻造 檜皮切<br />桁行1間 梁間3間<br />桁行12.74m 梁行6.50m<br />該社は中世以前は、4本宮に次ぎ重要視扱された境内社だった。<br />毎年3月5日10時より該社前に於いて酒壷神事(さけつぼ しんじ)が執行される。<br />享和2年(1802年)11月23日該社火災で類焼。<br />文政5年(1822年)再建。

    住吉大社



    侍者社(おもとしゃ)
    本殿(内殿)
    該社末社
    御祭祀は、
    田裳見宿禰(たもみのすくね)
    市姫(いちひめ)
    御2柱である。
    1間社 正面入母屋造 背面切妻造 檜皮切
    桁行1間 梁間3間
    桁行12.74m 梁行6.50m
    該社は中世以前は、4本宮に次ぎ重要視扱された境内社だった。
    毎年3月5日10時より該社前に於いて酒壷神事(さけつぼ しんじ)が執行される。
    享和2年(1802年)11月23日該社火災で類焼。
    文政5年(1822年)再建。

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  • 住吉大社<br /><br /><br />楯社(たてしゃ)<br />本殿<br />該社末社<br />御祭祀は、<br />武蓋槌命(たけみかづちのみこと)<br />御1柱である。<br />1間社 切妻造 妻入 檜皮葺<br />桁行5.02尺 梁間4.0尺<br />桁行1.52m 梁行1.22m<br />昭和37年(1962年)新築。<br />http://www.sumiyoshitaisha.net/

    住吉大社


    楯社(たてしゃ)
    本殿
    該社末社
    御祭祀は、
    武蓋槌命(たけみかづちのみこと)
    御1柱である。
    1間社 切妻造 妻入 檜皮葺
    桁行5.02尺 梁間4.0尺
    桁行1.52m 梁行1.22m
    昭和37年(1962年)新築。
    http://www.sumiyoshitaisha.net/

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  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />南中門<br />4脚門 切妻造 銅板葺<br />構造様式から、文政(1818?31年)年間造営と推定。<br /><br />大阪市住吉区住吉2?9?89<br />?: 06?6672?0753<br />4月1日?9月30日 6?17時<br />10月1日?3月31日 6時30分?17時<br />南海電気鉄道本線住吉大社駅 徒歩2分<br />http://www.sumiyoshitaisha.net/

    住吉大社



    南中門
    4脚門 切妻造 銅板葺
    構造様式から、文政(1818?31年)年間造営と推定。

    大阪市住吉区住吉2?9?89
    ?: 06?6672?0753
    4月1日?9月30日 6?17時
    10月1日?3月31日 6時30分?17時
    南海電気鉄道本線住吉大社駅 徒歩2分
    http://www.sumiyoshitaisha.net/

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  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />五所御前(ごしょ ごぜん)<br />高天原(たかまがはら)とも称する。<br />神功皇后(じんぐう こうごう)(成務40年(170年)?神功摂政69年(269年)6月3日)が神託に依り住吉の地に於いて、底筒男神、中筒男神、表筒男神3神を祀遷地選定中に、該大杉に白鷺3羽が舞い降り止った事から、該地をして第1本宮に決した故事に依り、神意降臨の地をして高天原と称するに至った。<br />http://www.sumiyoshitaisha.net/

    住吉大社



    五所御前(ごしょ ごぜん)
    高天原(たかまがはら)とも称する。
    神功皇后(じんぐう こうごう)(成務40年(170年)?神功摂政69年(269年)6月3日)が神託に依り住吉の地に於いて、底筒男神、中筒男神、表筒男神3神を祀遷地選定中に、該大杉に白鷺3羽が舞い降り止った事から、該地をして第1本宮に決した故事に依り、神意降臨の地をして高天原と称するに至った。
    http://www.sumiyoshitaisha.net/

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  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />五所御前<br />裏手<br />御神木は現在は枯木。<br />http://www.sumiyoshitaisha.net/

    住吉大社



    五所御前
    裏手
    御神木は現在は枯木。
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  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />若宮八幡宮<br />鳥居<br />石製<br />明治40年(1907年)2月建立。

    住吉大社



    若宮八幡宮
    鳥居
    石製
    明治40年(1907年)2月建立。

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  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />若宮八幡宮(わかみや はちまんぐう)<br />本殿<br />該社摂社<br />御祭祀は、<br />景光帝(けいこう てんのう)<br />武内宿禰(たけしうちの すくね)<br />御2柱である。<br />1間社 住吉造 本瓦葺 瑞垣付<br />桁行7,86尺 梁間6.25尺<br />桁行2.38m 梁行1.89m<br />毎年1月12日11時より該社前に於いて五穀豊穣を占うべく 湯立神事(ゆだて しんじ)が執行される。<br />享和2年(1802年)11月23日該社火災で焼失。<br />該年以降再建。

    住吉大社



    若宮八幡宮(わかみや はちまんぐう)
    本殿
    該社摂社
    御祭祀は、
    景光帝(けいこう てんのう)
    武内宿禰(たけしうちの すくね)
    御2柱である。
    1間社 住吉造 本瓦葺 瑞垣付
    桁行7,86尺 梁間6.25尺
    桁行2.38m 梁行1.89m
    毎年1月12日11時より該社前に於いて五穀豊穣を占うべく 湯立神事(ゆだて しんじ)が執行される。
    享和2年(1802年)11月23日該社火災で焼失。
    該年以降再建。

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  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />斎館(さいかん)<br />平屋建 入母屋造 一重 本瓦葺 背面向拝付<br />桁行43.0尺 梁間33.7尺<br />桁行13.02m 梁行10.20m<br />下神館とも称する。<br />大正4年(1915年)に現神館竣工まで旧神館。<br />玄関は大正13年(1924年)改修時に取付。<br />文政11年(1828年)造営。

    住吉大社



    斎館(さいかん)
    平屋建 入母屋造 一重 本瓦葺 背面向拝付
    桁行43.0尺 梁間33.7尺
    桁行13.02m 梁行10.20m
    下神館とも称する。
    大正4年(1915年)に現神館竣工まで旧神館。
    玄関は大正13年(1924年)改修時に取付。
    文政11年(1828年)造営。

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  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />南門(みなみもん)<br />4脚門 切妻造 本瓦葺<br />桁行5.30m 梁行4.30m<br />慶長12年(1607年)に、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)(天文6年(1537年)3月17日?~慶長3年(1598年)9月18日)側室 淀君(よどぎみ)(永禄12年(1569年)?~慶長20年(1615年)6月4日)、及び、子の豊臣秀頼(とよとみ ひでより)(文禄2年(1593年)8月29日~慶長20年(1615年)6月4日)が奉納造営。<br />昭和28年(1953年)11月14日附 国宝指定。<br />昭和49年(1974年) 5月21日附 国重要文化財指定。<br />http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp

    住吉大社



    南門(みなみもん)
    4脚門 切妻造 本瓦葺
    桁行5.30m 梁行4.30m
    慶長12年(1607年)に、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)(天文6年(1537年)3月17日?~慶長3年(1598年)9月18日)側室 淀君(よどぎみ)(永禄12年(1569年)?~慶長20年(1615年)6月4日)、及び、子の豊臣秀頼(とよとみ ひでより)(文禄2年(1593年)8月29日~慶長20年(1615年)6月4日)が奉納造営。
    昭和28年(1953年)11月14日附 国宝指定。
    昭和49年(1974年) 5月21日附 国重要文化財指定。
    http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp

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  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />東大鳥居(にし おおとりい)<br />明神鳥居<br />柱間 5.83m<br />柱径 0.74m<br />間数部5.66m<br />江戸初期まで木製だったが明暦期(1655~58年)に現在の石製に造改。

    住吉大社



    東大鳥居(にし おおとりい)
    明神鳥居
    柱間 5.83m
    柱径 0.74m
    間数部5.66m
    江戸初期まで木製だったが明暦期(1655~58年)に現在の石製に造改。

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  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />蜀山人ノ碑(しょくさんじんのひ)<br />太田南畝(おおたなんぼ)(寛政2年(1749年)4月19日~文政6年(1823年)5月16日)は、幕府官吏であったが蜀山人(しょくさんじん)の号で知られた狂歌師でもある。<br />南畝は、享和元年(1801年)4月から約1年間、大坂銅座役人として赴任し、大坂滞在中に住吉参詣を6回実行した事が日記記述が見られる。<br />医師 蕪坊(かぶらぼう)(宝暦8年(1758年)?文化12年(1815年)7月19日)との歌を交わす交遊関係は現在でも知られた存在である。<br />該碑は、南畝が蕪坊との交遊を永く知らしめる為に、浪速の狂歌師連に拠り、文政5年(1822年)に建立された。<br />碑文は、<br />享和二のとしむつき朔日すみよしにまうてける蕪坊とく来て帰りけるよしをききて茶屋のはしらに書きつけるをこゝにうつす<br />すみよしのまつべきものをうら波のたち帰りしそしつこゝろなき 蜀山人<br />文政五の年<br />壬午の仲秋建之<br />催主 種丸<br />   梅干丸<br />   年年留

    住吉大社



    蜀山人ノ碑(しょくさんじんのひ)
    太田南畝(おおたなんぼ)(寛政2年(1749年)4月19日~文政6年(1823年)5月16日)は、幕府官吏であったが蜀山人(しょくさんじん)の号で知られた狂歌師でもある。
    南畝は、享和元年(1801年)4月から約1年間、大坂銅座役人として赴任し、大坂滞在中に住吉参詣を6回実行した事が日記記述が見られる。
    医師 蕪坊(かぶらぼう)(宝暦8年(1758年)?文化12年(1815年)7月19日)との歌を交わす交遊関係は現在でも知られた存在である。
    該碑は、南畝が蕪坊との交遊を永く知らしめる為に、浪速の狂歌師連に拠り、文政5年(1822年)に建立された。
    碑文は、
    享和二のとしむつき朔日すみよしにまうてける蕪坊とく来て帰りけるよしをききて茶屋のはしらに書きつけるをこゝにうつす
    すみよしのまつべきものをうら波のたち帰りしそしつこゝろなき 蜀山人
    文政五の年
    壬午の仲秋建之
    催主 種丸
       梅干丸
       年年留

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  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />蜀山人ノ碑<br />近接<br />

    住吉大社



    蜀山人ノ碑
    近接

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  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />生田南水句碑(いくた なんすい くひ)<br />長閑さや岸の姫松忘れ貝<br />生田南水(萬延元年(1860年)5月24日~昭和9年(1934年)1月12日)は、明治中期から昭和初期にかけて活躍した、大坂史実踏破、及び、寺社縁起研究家。<br />他方、ミナミの芦辺踊り、及び、新町の浪花踊り、等々の大阪歌謡を多数残した。<br />住吉松林は、奈良期以来、萬葉集他に多数の歌に詠まれた著名な存在だったが、江戸天明期(1781?89年)頃から枯死木が続出した為に、将来への存続が危惧される事態になった事から、明治期に南水が松苗献上運動を提唱し発端となった。<br />更に、南水は該社反橋西畔に松苗茶屋を設置し、該社一般参拝者に対し、松苗勧請を推奨し、奉納松苗に対し添付句を加えた事から、該句を募集し、続松苗集として住吉御文庫に奉納した。<br />現在の松苗神事(まつなえ しんじ)は、明治5年(1872年)に1度廃絶したが、南水の努力に拠り、明治42年(1909年)4月17日に再興したもので、現在では毎年4月3日に執行されている。<br />因みに、忘れ貝とは蛤を称し、忘れ貝以外に、忘れ草、忘れ水をして住吉三忘れと称した。<br />暇あらば拾ひに行かむ住吉の岸によるてふ戀忘れ貝 萬葉集 巻七 詠人知不<br />等々でしられている。<br />昭和41年(1966年)1月12日建立。

    住吉大社



    生田南水句碑(いくた なんすい くひ)
    長閑さや岸の姫松忘れ貝
    生田南水(萬延元年(1860年)5月24日~昭和9年(1934年)1月12日)は、明治中期から昭和初期にかけて活躍した、大坂史実踏破、及び、寺社縁起研究家。
    他方、ミナミの芦辺踊り、及び、新町の浪花踊り、等々の大阪歌謡を多数残した。
    住吉松林は、奈良期以来、萬葉集他に多数の歌に詠まれた著名な存在だったが、江戸天明期(1781?89年)頃から枯死木が続出した為に、将来への存続が危惧される事態になった事から、明治期に南水が松苗献上運動を提唱し発端となった。
    更に、南水は該社反橋西畔に松苗茶屋を設置し、該社一般参拝者に対し、松苗勧請を推奨し、奉納松苗に対し添付句を加えた事から、該句を募集し、続松苗集として住吉御文庫に奉納した。
    現在の松苗神事(まつなえ しんじ)は、明治5年(1872年)に1度廃絶したが、南水の努力に拠り、明治42年(1909年)4月17日に再興したもので、現在では毎年4月3日に執行されている。
    因みに、忘れ貝とは蛤を称し、忘れ貝以外に、忘れ草、忘れ水をして住吉三忘れと称した。
    暇あらば拾ひに行かむ住吉の岸によるてふ戀忘れ貝 萬葉集 巻七 詠人知不
    等々でしられている。
    昭和41年(1966年)1月12日建立。

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  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />東薬医門<br />薬医門 切妻造 本瓦葺<br />昭和46年(1971年)造営。<br />http://www.sumiyoshitaisha.net/

    住吉大社



    東薬医門
    薬医門 切妻造 本瓦葺
    昭和46年(1971年)造営。
    http://www.sumiyoshitaisha.net/

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  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />立聞社(たちききしゃ)<br />本殿<br />該社末社<br />御祭祀は、<br />天児屋根命(あめのこやねのみこと)<br />御1柱である。<br />1間社 切妻造 妻入 本瓦葺 見世棚形式<br />桁行7.86尺 梁間6.25尺<br />桁行1.98m 梁行1.52m<br />昭和27年(1952年)に現在地に移築前は住之江山中腹に所在し長岡社と称されていた。<br />それ故、該社末社群と構造が微妙に相違する。<br />文政11年(1828年)造営。

    住吉大社



    立聞社(たちききしゃ)
    本殿
    該社末社
    御祭祀は、
    天児屋根命(あめのこやねのみこと)
    御1柱である。
    1間社 切妻造 妻入 本瓦葺 見世棚形式
    桁行7.86尺 梁間6.25尺
    桁行1.98m 梁行1.52m
    昭和27年(1952年)に現在地に移築前は住之江山中腹に所在し長岡社と称されていた。
    それ故、該社末社群と構造が微妙に相違する。
    文政11年(1828年)造営。

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  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />貴船社(きぶねしゃ)<br />本殿<br />該社末社<br />御祭祀は、<br />高靈神(たこがみのかみ)<br />御1柱である。<br />1間社 切妻造 妻入 本瓦葺 見世棚形式<br />桁行7.86尺 梁間6.25尺<br />桁行1.98m 梁行1.52m<br />昭和27年(1952年)に現在地に移築前は住之江山中腹に所在し立間社東方に所在した。<br />それ故、立間社同様、該社末社群と微妙に構造が相違する。<br />江戸後期造営。<br />http://www.sumiyoshitaisha.net/

    住吉大社



    貴船社(きぶねしゃ)
    本殿
    該社末社
    御祭祀は、
    高靈神(たこがみのかみ)
    御1柱である。
    1間社 切妻造 妻入 本瓦葺 見世棚形式
    桁行7.86尺 梁間6.25尺
    桁行1.98m 梁行1.52m
    昭和27年(1952年)に現在地に移築前は住之江山中腹に所在し立間社東方に所在した。
    それ故、立間社同様、該社末社群と微妙に構造が相違する。
    江戸後期造営。
    http://www.sumiyoshitaisha.net/

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  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />楠君社(なんくんしゃ)<br />本殿<br />該社摂社<br />御祭祀は、<br />宇迦魂命(うがのみたまのみこと)<br />御1柱である。<br />1間社 切妻造 銅版葺<br />本殿、及び、拝殿から構成される。<br />神木千年楠北側に所在。<br />祭祀とは別に楠ノ精霊を讃え楠君社と称する。<br />元来は、住吉大社宮司家たる津守家屋敷内に祀られていたが、明治期に現在地に移遷した。<br />例祭として、毎月最初の辰の日に潮の水と称し各家屋屋根に塩水撒き防火の効果有りとされていたが、現在地へ移遷と共に該風習が廃れ、代りに、初辰詣が現出した。<br />即ち、初辰とは発達に通じる事から該日参拝に依り、商売発達家内安全の御利益に在りと解され、特に、料理屋女将、水商売女性に人気を有するとされる。<br />該社は、昭和27年(1952年)12月24日未明に、燈明転倒に拠る火災が原因で全焼したが、本殿は昭和29年(1954年)、拝殿は昭和31年(1956年)に再建された。<br />該社本殿は、樹齢1000年余を超える大楠根本に祠を取込んだ特異な形態である。

    住吉大社



    楠君社(なんくんしゃ)
    本殿
    該社摂社
    御祭祀は、
    宇迦魂命(うがのみたまのみこと)
    御1柱である。
    1間社 切妻造 銅版葺
    本殿、及び、拝殿から構成される。
    神木千年楠北側に所在。
    祭祀とは別に楠ノ精霊を讃え楠君社と称する。
    元来は、住吉大社宮司家たる津守家屋敷内に祀られていたが、明治期に現在地に移遷した。
    例祭として、毎月最初の辰の日に潮の水と称し各家屋屋根に塩水撒き防火の効果有りとされていたが、現在地へ移遷と共に該風習が廃れ、代りに、初辰詣が現出した。
    即ち、初辰とは発達に通じる事から該日参拝に依り、商売発達家内安全の御利益に在りと解され、特に、料理屋女将、水商売女性に人気を有するとされる。
    該社は、昭和27年(1952年)12月24日未明に、燈明転倒に拠る火災が原因で全焼したが、本殿は昭和29年(1954年)、拝殿は昭和31年(1956年)に再建された。
    該社本殿は、樹齢1000年余を超える大楠根本に祠を取込んだ特異な形態である。

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  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />楠君社<br />大楠<br />全景<br />幹周5.8m 樹高12m

    住吉大社



    楠君社
    大楠
    全景
    幹周5.8m 樹高12m

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  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />楠君社(なんくんしゃ)<br />本殿<br />該社摂社<br />御祭祀は、<br />宇迦魂命(うがのみたまのみこと)<br />御1柱である。<br />1間社 切妻造 銅版葺<br />本殿、及び、拝殿から構成される。<br />神木千年楠北側に所在。<br />祭祀とは別に楠ノ精霊を讃え楠君社と称する。<br />元来は、住吉大社宮司家たる津守家屋敷内に祀られていたが、明治期に現在地に移遷した。<br />例祭として、毎月最初の辰の日に潮の水と称し各家屋屋根に塩水撒き防火の効果有りとされていたが、現在地へ移遷と共に該風習が廃れ、代りに、初辰詣が現出した。<br />即ち、初辰とは発達に通じる事から該日参拝に依り、商売発達家内安全の御利益に在りと解され、特に、料理屋女将、水商売女性に人気を有するとされる。<br />該社は、昭和27年(1952年)12月24日未明に、燈明転倒に拠る火災が原因で全焼したが、本殿は昭和29年(1954年)、拝殿は昭和31年(1956年)に再建された。<br />該社本殿は、樹齢1000年余を超える大楠根本に祠を取込んだ特異な形態である。

    住吉大社



    楠君社(なんくんしゃ)
    本殿
    該社摂社
    御祭祀は、
    宇迦魂命(うがのみたまのみこと)
    御1柱である。
    1間社 切妻造 銅版葺
    本殿、及び、拝殿から構成される。
    神木千年楠北側に所在。
    祭祀とは別に楠ノ精霊を讃え楠君社と称する。
    元来は、住吉大社宮司家たる津守家屋敷内に祀られていたが、明治期に現在地に移遷した。
    例祭として、毎月最初の辰の日に潮の水と称し各家屋屋根に塩水撒き防火の効果有りとされていたが、現在地へ移遷と共に該風習が廃れ、代りに、初辰詣が現出した。
    即ち、初辰とは発達に通じる事から該日参拝に依り、商売発達家内安全の御利益に在りと解され、特に、料理屋女将、水商売女性に人気を有するとされる。
    該社は、昭和27年(1952年)12月24日未明に、燈明転倒に拠る火災が原因で全焼したが、本殿は昭和29年(1954年)、拝殿は昭和31年(1956年)に再建された。
    該社本殿は、樹齢1000年余を超える大楠根本に祠を取込んだ特異な形態である。

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  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />新宮社(しんぐうしゃ)<br />本殿<br />該社末社<br />御祭祀は、<br />伊邪那命(いざなぎのみこと)<br />事解男命(ことさかのおのこのみこと)<br />速玉男命(はやたまのおのこのみこと)<br />御3柱である。<br />1間社 切妻造 瓦葺 妻入 庇付<br />桁行6.47尺 梁間3.80尺<br />桁行1.96m 梁行1.15m<br />江戸後期造営。

    住吉大社



    新宮社(しんぐうしゃ)
    本殿
    該社末社
    御祭祀は、
    伊邪那命(いざなぎのみこと)
    事解男命(ことさかのおのこのみこと)
    速玉男命(はやたまのおのこのみこと)
    御3柱である。
    1間社 切妻造 瓦葺 妻入 庇付
    桁行6.47尺 梁間3.80尺
    桁行1.96m 梁行1.15m
    江戸後期造営。

    住吉大社 寺・神社・教会

  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />八所社(はっしょしゃ)<br />本殿<br />該社末社<br />御祭祀は、<br />素盞鳴尊(すさのおのみこと)<br />御1柱である。<br />1間社 流造 桟瓦葺<br />桁行2.70尺 梁間2.18尺<br />桁行0.82m 梁行0.66m<br />建立期不詳

    住吉大社



    八所社(はっしょしゃ)
    本殿
    該社末社
    御祭祀は、
    素盞鳴尊(すさのおのみこと)
    御1柱である。
    1間社 流造 桟瓦葺
    桁行2.70尺 梁間2.18尺
    桁行0.82m 梁行0.66m
    建立期不詳

    住吉大社 寺・神社・教会

  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />今主社(いまぬししゃ)<br />本殿<br />御祭祀は、<br />國助霊神(つもりくにすけのみたまのかみ)<br />御1柱である。<br />桁行7.95尺 梁間7.00尺<br />桁行2.41m 梁間2.12m<br />津守家第48代当主 國助(仁治3年(1242年)~永仁7年(1299年)3月19日)の霊社<br />明治11年(1878年)以前造営。

    住吉大社



    今主社(いまぬししゃ)
    本殿
    御祭祀は、
    國助霊神(つもりくにすけのみたまのかみ)
    御1柱である。
    桁行7.95尺 梁間7.00尺
    桁行2.41m 梁間2.12m
    津守家第48代当主 國助(仁治3年(1242年)~永仁7年(1299年)3月19日)の霊社
    明治11年(1878年)以前造営。

    住吉大社 寺・神社・教会

  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />斯主社(このぬししゃ)<br />本殿<br />御祭祀は、<br />國盛霊神(つもりくにもりのみたまのかみ)<br />御1柱である。<br />桁行6.47尺 梁間3.80尺<br />桁行1.96m 梁間1.15m<br />津守家第43代当主 國盛(嘉元元年(1094年)~ ? )の霊社。<br />享和火災以降造営。

    住吉大社



    斯主社(このぬししゃ)
    本殿
    御祭祀は、
    國盛霊神(つもりくにもりのみたまのかみ)
    御1柱である。
    桁行6.47尺 梁間3.80尺
    桁行1.96m 梁間1.15m
    津守家第43代当主 國盛(嘉元元年(1094年)~ ? )の霊社。
    享和火災以降造営。

    住吉大社 寺・神社・教会

  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />薄墨社(うすずみしゃ)<br />本殿<br />御祭祀は、<br />國基霊神(つもりくにもとのみたまのかみ)<br />御1柱である。<br />桁行8.48尺 梁間7.00尺<br />桁行2.57m 梁間2.12m<br />津守家第39代当主 國基(萬寿3年(1026年)~康和4年(1102年)7月28日)の霊社。<br />斯主社から分祀。<br />昭和38年(1963年)新築。

    住吉大社



    薄墨社(うすずみしゃ)
    本殿
    御祭祀は、
    國基霊神(つもりくにもとのみたまのかみ)
    御1柱である。
    桁行8.48尺 梁間7.00尺
    桁行2.57m 梁間2.12m
    津守家第39代当主 國基(萬寿3年(1026年)~康和4年(1102年)7月28日)の霊社。
    斯主社から分祀。
    昭和38年(1963年)新築。

    住吉大社 寺・神社・教会

  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />招魂社(しょうこんしゃ)<br />本殿<br />該社末社<br />御祭祀は、<br />諸霊神<br />御1柱である。<br />入母屋造 向拝1間 本瓦葺<br />桁行3間 梁行3間<br />桁行20.70尺 梁間20.70尺<br />桁行6.27m 梁行6.27m<br />該社は明治元年(1868年)の廃仏毀釈まで境内寺院 住吉神宮寺護摩堂として慶長12年(1607年)造営されたが、宝永年間に社寺間に於いて所有権騒動が発生し、宝永5年に該社所有と決着し市恵比寿社になったが、明治以降は招魂社として解体を免れた該社境内唯一の近世仏堂建造物。<br />昭和49年(1974年) 大阪府有形文化財指定。<br />平成22年(2010年)12月24日附 国重要文化財指定。<br />http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp

    住吉大社



    招魂社(しょうこんしゃ)
    本殿
    該社末社
    御祭祀は、
    諸霊神
    御1柱である。
    入母屋造 向拝1間 本瓦葺
    桁行3間 梁行3間
    桁行20.70尺 梁間20.70尺
    桁行6.27m 梁行6.27m
    該社は明治元年(1868年)の廃仏毀釈まで境内寺院 住吉神宮寺護摩堂として慶長12年(1607年)造営されたが、宝永年間に社寺間に於いて所有権騒動が発生し、宝永5年に該社所有と決着し市恵比寿社になったが、明治以降は招魂社として解体を免れた該社境内唯一の近世仏堂建造物。
    昭和49年(1974年) 大阪府有形文化財指定。
    平成22年(2010年)12月24日附 国重要文化財指定。
    http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp

    住吉大社 寺・神社・教会

  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />五社(ごしゃ)<br />本殿<br />該社末社<br />御祭祀は、<br />田裳見宿禰<br />大領<br />板屋<br />狛<br />津<br />高木<br />大宅<br />神奴<br />御8柱である。<br />何れも住吉7神職家。<br />5間社 流造 本瓦葺<br />桁行15.45尺 梁間8.05尺<br />桁行4.68m 梁行2.44m<br />明治41年(1908年)新築。

    住吉大社



    五社(ごしゃ)
    本殿
    該社末社
    御祭祀は、
    田裳見宿禰
    大領
    板屋


    高木
    大宅
    神奴
    御8柱である。
    何れも住吉7神職家。
    5間社 流造 本瓦葺
    桁行15.45尺 梁間8.05尺
    桁行4.68m 梁行2.44m
    明治41年(1908年)新築。

    住吉大社 寺・神社・教会

  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />后土社(ごとしゃ)<br />本殿<br />該社末社<br />御祭祀は、<br />土御祖神(つちのみおやのかみ)<br />御1柱である。<br />1間社 切妻造 妻入 桟瓦葺<br />桁行7.36尺 梁間5.02尺<br />桁行2.23m 梁行1.52m<br />明治11年(1878年)以前造営。

    住吉大社



    后土社(ごとしゃ)
    本殿
    該社末社
    御祭祀は、
    土御祖神(つちのみおやのかみ)
    御1柱である。
    1間社 切妻造 妻入 桟瓦葺
    桁行7.36尺 梁間5.02尺
    桁行2.23m 梁行1.52m
    明治11年(1878年)以前造営。

    住吉大社 寺・神社・教会

  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />兒安社(こやすしゃ)<br />本殿<br />該社末社<br />御祭祀は、<br />興台産霊神(こごとむすびひめのかみ)<br />御1柱である。<br />1間社 切妻造 妻入<br />桁行3.47尺 梁間3.70尺<br />桁行1.52m 梁行1.72m<br />承應期前後造営。

    住吉大社



    兒安社(こやすしゃ)
    本殿
    該社末社
    御祭祀は、
    興台産霊神(こごとむすびひめのかみ)
    御1柱である。
    1間社 切妻造 妻入
    桁行3.47尺 梁間3.70尺
    桁行1.52m 梁行1.72m
    承應期前後造営。

    住吉大社 寺・神社・教会

  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />志賀神社(しが じんしゃ)<br />本殿<br />該社摂社<br />御祭祀は、<br />底津少童命(そこつわたつみのみこと)<br />中津少童命(なかつわたつみのみこと)<br />表津少童命(うわつわたつみのみこと)<br />御3柱である。<br />3間社流造 見世棚 本瓦葺<br />桁行9.01尺 梁間4.31尺 庇出3.78尺<br />桁行2.730m 梁行1.306m 庇出1.146m<br />昭和38年(1963年)現在地移築。<br />江戸前期造営。

    住吉大社



    志賀神社(しが じんしゃ)
    本殿
    該社摂社
    御祭祀は、
    底津少童命(そこつわたつみのみこと)
    中津少童命(なかつわたつみのみこと)
    表津少童命(うわつわたつみのみこと)
    御3柱である。
    3間社流造 見世棚 本瓦葺
    桁行9.01尺 梁間4.31尺 庇出3.78尺
    桁行2.730m 梁行1.306m 庇出1.146m
    昭和38年(1963年)現在地移築。
    江戸前期造営。

    住吉大社 寺・神社・教会

  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />志賀神社<br />神額

    住吉大社



    志賀神社
    神額

    住吉大社 寺・神社・教会

  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />海土子神社(あまで じんじゃ)<br />本殿<br />該社末社<br />鵜茅葦不合尊(うがやふきあえずのみこと)<br />御1柱である。<br />1間社 切妻造 妻入 本瓦葺<br />桁行6.51尺 梁間5.00尺<br />桁行1.97m 梁行1.52m<br />享和火災の際に被災せず残存。

    住吉大社



    海土子神社(あまで じんじゃ)
    本殿
    該社末社
    鵜茅葦不合尊(うがやふきあえずのみこと)
    御1柱である。
    1間社 切妻造 妻入 本瓦葺
    桁行6.51尺 梁間5.00尺
    桁行1.97m 梁行1.52m
    享和火災の際に被災せず残存。

    住吉大社 寺・神社・教会

  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />船玉社(ふなだましゃ)<br />本殿<br />該社摂社<br />御祭祀は、<br />天鳥船命(あめのとりふねのみこと)<br />猿田彦命(さるたひこのかみ)<br />御2柱である。<br />1間社 住吉造 檜皮葺 前縁 瑞垣付<br />桁行6.47尺 梁間3.80尺<br />桁行1.96m 梁行1.15m<br />昭和44年(1969年)まで第4本宮前に存在したが同年に現位置に移築。<br />明治初期造営。

    住吉大社



    船玉社(ふなだましゃ)
    本殿
    該社摂社
    御祭祀は、
    天鳥船命(あめのとりふねのみこと)
    猿田彦命(さるたひこのかみ)
    御2柱である。
    1間社 住吉造 檜皮葺 前縁 瑞垣付
    桁行6.47尺 梁間3.80尺
    桁行1.96m 梁行1.15m
    昭和44年(1969年)まで第4本宮前に存在したが同年に現位置に移築。
    明治初期造営。

    住吉大社 寺・神社・教会

  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />龍社(りゅうしゃ)<br />本殿<br />該社末社<br />御祭祀は、<br />水波野女神(みづはのめのかみ)<br />御1柱である。<br />1間社 切妻造 妻入 本瓦葺<br />桁行9.77尺 梁間7.45尺<br />桁行2.96m 梁行2.56m<br />内陣に井戸が存在する事から御井殿社とも称する。<br />享和2年(1802年)該社火災で被災を免れ無事。<br />元は神館門付近に存在したが昭和4年(1929年)現在地に移築。<br />江戸後期造営。

    住吉大社



    龍社(りゅうしゃ)
    本殿
    該社末社
    御祭祀は、
    水波野女神(みづはのめのかみ)
    御1柱である。
    1間社 切妻造 妻入 本瓦葺
    桁行9.77尺 梁間7.45尺
    桁行2.96m 梁行2.56m
    内陣に井戸が存在する事から御井殿社とも称する。
    享和2年(1802年)該社火災で被災を免れ無事。
    元は神館門付近に存在したが昭和4年(1929年)現在地に移築。
    江戸後期造営。

    住吉大社 寺・神社・教会

  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />種貸社(たねかししゃ)<br />全景

    住吉大社



    種貸社(たねかししゃ)
    全景

    住吉大社 寺・神社・教会

  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />種貸社<br />該社末社<br />御祭祀は、<br />倉稲魂命(うがのみたまのみこと)<br />御1柱である。<br />切妻造 妻入 銅版葺 瑞垣付<br />桁行2間 梁間1間 見世棚形式<br />桁行2.42m 梁行2.12m<br />元来は、苗見明神として摂津國長居宿に存在したが、天正年間(1573~92年)に兵火が原因で全焼し、明暦元年(1655年)該社遷宮時に該社猪鼻に移転し、明治期以降、住吉神宮寺跡に造営。<br />昭和5年(1930年)に現在地に再移転した。<br />初辰参拝は、楠君社から種貸社に廻るを順礼とされる。<br />即ち、種貸とは稲作を授かる農耕信仰が原点であり、現在では御種銭が授与され、此れを資本に加算し商売をする事で金銭が増殖するとされる。<br />尚、該社は子宝奉授の神ともされている。

    住吉大社



    種貸社
    該社末社
    御祭祀は、
    倉稲魂命(うがのみたまのみこと)
    御1柱である。
    切妻造 妻入 銅版葺 瑞垣付
    桁行2間 梁間1間 見世棚形式
    桁行2.42m 梁行2.12m
    元来は、苗見明神として摂津國長居宿に存在したが、天正年間(1573~92年)に兵火が原因で全焼し、明暦元年(1655年)該社遷宮時に該社猪鼻に移転し、明治期以降、住吉神宮寺跡に造営。
    昭和5年(1930年)に現在地に再移転した。
    初辰参拝は、楠君社から種貸社に廻るを順礼とされる。
    即ち、種貸とは稲作を授かる農耕信仰が原点であり、現在では御種銭が授与され、此れを資本に加算し商売をする事で金銭が増殖するとされる。
    尚、該社は子宝奉授の神ともされている。

    住吉大社 寺・神社・教会

  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />種貸社<br />拝殿

    住吉大社



    種貸社
    拝殿

    住吉大社 寺・神社・教会

  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />住吉御文庫(すみよし おぶんこ)<br />2階建 土蔵造 寄棟造 単層 本瓦葺 正面唐破風庇<br />桁行19.39尺 梁間12.02尺<br />桁行5.88m 梁行3.97m<br />享保8年(1723年)9月に創建。<br />昭和13年(1938年)に現在地に修営移築。

    住吉大社



    住吉御文庫(すみよし おぶんこ)
    2階建 土蔵造 寄棟造 単層 本瓦葺 正面唐破風庇
    桁行19.39尺 梁間12.02尺
    桁行5.88m 梁行3.97m
    享保8年(1723年)9月に創建。
    昭和13年(1938年)に現在地に修営移築。

    住吉大社 寺・神社・教会

  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />住吉御文庫<br />正面

    住吉大社



    住吉御文庫
    正面

    住吉大社 寺・神社・教会

  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />北神苑<br />住吉神宮寺跡碑

    住吉大社



    北神苑
    住吉神宮寺跡碑

    住吉大社 寺・神社・教会

  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />住吉神宮寺跡碑(すみよし じんぐうじ あとひ)<br />該社北神苑は、明治6年(1873年)まで神仏習合期に於ける境内寺院が薬師寺式伽藍配置を以って存立した一帯だった。<br />創建は、天平宝字2年(758年)に、弟46代 孝謙女帝(こうけん てんのう)(養老2年(718年)~神護景雲4年(770年)8月28日)(天平勝宝元年(749)年8月19日~天平宝字2年(758年)9月7日御在位)祈願に依る。<br />江戸末期には、本堂を中心に、東西三女笂ー、大日堂、聞持堂、食堂、護摩堂、東西2塔、及び、東西僧房等々の堂宇が存在した。<br />然るに、明治維新と共に新政府は神仏分離を強行させ、該寺院も数件の物件を除き該年までに全部解体され、跡地は国有化された後、民間に払下げられ該社境内に私有地が混在し田畑化され桜畠に名の痕跡を残す。<br />該地は、昭和12年(1937年)までに該社に依り買収され該社有地となったが、現在では、住吉文華館、神楽殿、吉祥殿、参集所、土俵場等々が造営された。

    住吉大社



    住吉神宮寺跡碑(すみよし じんぐうじ あとひ)
    該社北神苑は、明治6年(1873年)まで神仏習合期に於ける境内寺院が薬師寺式伽藍配置を以って存立した一帯だった。
    創建は、天平宝字2年(758年)に、弟46代 孝謙女帝(こうけん てんのう)(養老2年(718年)~神護景雲4年(770年)8月28日)(天平勝宝元年(749)年8月19日~天平宝字2年(758年)9月7日御在位)祈願に依る。
    江戸末期には、本堂を中心に、東西三女笂ー、大日堂、聞持堂、食堂、護摩堂、東西2塔、及び、東西僧房等々の堂宇が存在した。
    然るに、明治維新と共に新政府は神仏分離を強行させ、該寺院も数件の物件を除き該年までに全部解体され、跡地は国有化された後、民間に払下げられ該社境内に私有地が混在し田畑化され桜畠に名の痕跡を残す。
    該地は、昭和12年(1937年)までに該社に依り買収され該社有地となったが、現在では、住吉文華館、神楽殿、吉祥殿、参集所、土俵場等々が造営された。

    住吉大社 寺・神社・教会

  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />大海神社<br />玉ノ井(たまのい)<br />山幸彦が潮満珠を沈めた事で知られる井戸。<br />潮干珠は堺宿院飯匙堀に奉納された。

    住吉大社



    大海神社
    玉ノ井(たまのい)
    山幸彦が潮満珠を沈めた事で知られる井戸。
    潮干珠は堺宿院飯匙堀に奉納された。

    大海神社 寺・神社・教会

    大海神社〔神社〕 by 横浜臨海公園さん
  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />大海神社(おおわたつみ じんじゃ)<br />拝殿<br />両下造 檜皮葺<br />桁行1間 梁行正面1間<br />桁行14.49尺 梁間15.61尺<br />桁行4.39m 梁行4.73m<br />宝永5年(1708年)造営。<br />平成22年(2010年)12月24日附 国重要文化財指定。<br />http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp

    住吉大社



    大海神社(おおわたつみ じんじゃ)
    拝殿
    両下造 檜皮葺
    桁行1間 梁行正面1間
    桁行14.49尺 梁間15.61尺
    桁行4.39m 梁行4.73m
    宝永5年(1708年)造営。
    平成22年(2010年)12月24日附 国重要文化財指定。
    http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp

    大海神社 寺・神社・教会

    大海神社〔神社〕 by 横浜臨海公園さん
  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />大海神社<br />幣殿<br />切妻造 檜皮葺<br />桁行3間 梁行正面2間<br />桁行23.33尺 梁間23.63尺<br />桁行7.07m 梁行4.13m<br />宝永5年(1708年)造営。<br />平成22年(2010年)12月24日附 国重要文化財指定。<br />http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp

    住吉大社



    大海神社
    幣殿
    切妻造 檜皮葺
    桁行3間 梁行正面2間
    桁行23.33尺 梁間23.63尺
    桁行7.07m 梁行4.13m
    宝永5年(1708年)造営。
    平成22年(2010年)12月24日附 国重要文化財指定。
    http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp

    大海神社 寺・神社・教会

    大海神社〔神社〕 by 横浜臨海公園さん
  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />大海神社<br />本殿<br />該社摂社<br />該社御祭祀は、<br />豊玉彦命(とよたまひこのみこと)<br />豊玉姫命(とよたまひめのみこと)<br />御2柱である。<br />妻入 住吉造<br />桁行4間 梁行正面3間 背面3間<br />桁行26.34尺 梁間25.78尺<br />桁行7.98m 梁行4.78m<br />延喜式内社。<br />田裳見宿禰(たもみのすくね)は天火明命の流れを有し、三韓征伐に功績を得た事から、子の豊吾団(とよあたい)の時に、應神帝(おうじん てんのう)(仲哀9年(201年)1月5日~應神41年(310年)3月31日)より津守姓を賜り、津守連(つもりのむらじ)を称したのが嚆矢である。<br />宝永5年(1708年)造営。<br />昭和39年(1964年)5月26日附 国重要文化財指定。<br />http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp

    住吉大社



    大海神社
    本殿
    該社摂社
    該社御祭祀は、
    豊玉彦命(とよたまひこのみこと)
    豊玉姫命(とよたまひめのみこと)
    御2柱である。
    妻入 住吉造
    桁行4間 梁行正面3間 背面3間
    桁行26.34尺 梁間25.78尺
    桁行7.98m 梁行4.78m
    延喜式内社。
    田裳見宿禰(たもみのすくね)は天火明命の流れを有し、三韓征伐に功績を得た事から、子の豊吾団(とよあたい)の時に、應神帝(おうじん てんのう)(仲哀9年(201年)1月5日~應神41年(310年)3月31日)より津守姓を賜り、津守連(つもりのむらじ)を称したのが嚆矢である。
    宝永5年(1708年)造営。
    昭和39年(1964年)5月26日附 国重要文化財指定。
    http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp

    大海神社 寺・神社・教会

    大海神社〔神社〕 by 横浜臨海公園さん
  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />大海神社<br />拝殿<br />全景<br />http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp

    住吉大社



    大海神社
    拝殿
    全景
    http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp

    大海神社 寺・神社・教会

    大海神社〔神社〕 by 横浜臨海公園さん
  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />大海神社<br />拝殿<br />内部<br />http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp

    住吉大社



    大海神社
    拝殿
    内部
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    大海神社 寺・神社・教会

    大海神社〔神社〕 by 横浜臨海公園さん
  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />大海神社<br />神額<br />http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp

    住吉大社



    大海神社
    神額
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    大海神社〔神社〕 by 横浜臨海公園さん
  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />大海神社<br />西門<br />一間一戸 4脚門 切妻造 本瓦葺<br />桁行13.10尺 梁間10.49尺<br />桁行3.968m 梁行3.177m<br />元和期造営と推定。<br />平成22年(2010年)12月24日附 国重要文化財指定。<br />http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp

    住吉大社



    大海神社
    西門
    一間一戸 4脚門 切妻造 本瓦葺
    桁行13.10尺 梁間10.49尺
    桁行3.968m 梁行3.177m
    元和期造営と推定。
    平成22年(2010年)12月24日附 国重要文化財指定。
    http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp

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    大海神社〔神社〕 by 横浜臨海公園さん
  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />大海神社<br />参堂<br />狛犬(左)<br />http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp

    住吉大社



    大海神社
    参堂
    狛犬(左)
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    大海神社 寺・神社・教会

    大海神社〔神社〕 by 横浜臨海公園さん
  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />大海神社<br />参堂<br />狛犬(右)<br />http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp

    住吉大社



    大海神社
    参堂
    狛犬(右)
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    大海神社〔神社〕 by 横浜臨海公園さん
  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />大海神社<br />壱之鳥居<br />http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp

    住吉大社



    大海神社
    壱之鳥居
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    大海神社〔神社〕 by 横浜臨海公園さん
  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />神宮遥拝所(じんぐう ようはいじょ)<br />

    住吉大社



    神宮遥拝所(じんぐう ようはいじょ)

    住吉大社 寺・神社・教会

  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />南高蔵<br />寄棟造 本瓦葺<br />桁行3間 梁行2間<br />桁行16.01尺 梁間13.98尺<br />桁行4.85m 梁行4.24m<br />慶長11年(1606年)造営。<br />昭和45年(1970年)現在地移築。<br />平成22年(2010年)12月24日附 国重要文化財指定。<br />http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp

    住吉大社



    南高蔵
    寄棟造 本瓦葺
    桁行3間 梁行2間
    桁行16.01尺 梁間13.98尺
    桁行4.85m 梁行4.24m
    慶長11年(1606年)造営。
    昭和45年(1970年)現在地移築。
    平成22年(2010年)12月24日附 国重要文化財指定。
    http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp

    住吉大社 寺・神社・教会

  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />南高蔵<br />寄棟造 本瓦葺<br />桁行3間 梁行2間<br />桁行16.01尺 梁間13.98尺<br />桁行4.85m 梁行4.24m<br />慶長11年(1606年)造営。<br />昭和45年(1970年)現在地移築。<br />平成22年(2010年)12月24日附 国重要文化財指定。<br />http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp

    住吉大社



    南高蔵
    寄棟造 本瓦葺
    桁行3間 梁行2間
    桁行16.01尺 梁間13.98尺
    桁行4.85m 梁行4.24m
    慶長11年(1606年)造営。
    昭和45年(1970年)現在地移築。
    平成22年(2010年)12月24日附 国重要文化財指定。
    http://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails.asp

    住吉大社 寺・神社・教会

  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />誕生石(たんじょういし)<br />全景

    住吉大社



    誕生石(たんじょういし)
    全景

    住吉大社 寺・神社・教会

  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />誕生石<br />薩摩島津家初代とされる 島津忠久(しまづ ただひさ)(治平3年(1179年)~安貞元年(1227年)8月1日)は、源 頼朝(みなもとの よりとも)(久安3年(1147年)5月9日~建久10年(1199年)2月9日)が比企氏丹後局との間に出生した私生児として天暦2年(1185年)8月に日向國島津荘下司地頭職任命で土着したものとされているが、何れも江戸期に島津家が清和源氏嫡流たる事を誇示する為に興起した内容で、忠久が該社境内で生誕故事を示す物として島津家が奉納した。<br />然し、現在の歴史研究に於いて、該論支持者は狂信的島津研究関係者以外絶無に均しい。

    住吉大社



    誕生石
    薩摩島津家初代とされる 島津忠久(しまづ ただひさ)(治平3年(1179年)~安貞元年(1227年)8月1日)は、源 頼朝(みなもとの よりとも)(久安3年(1147年)5月9日~建久10年(1199年)2月9日)が比企氏丹後局との間に出生した私生児として天暦2年(1185年)8月に日向國島津荘下司地頭職任命で土着したものとされているが、何れも江戸期に島津家が清和源氏嫡流たる事を誇示する為に興起した内容で、忠久が該社境内で生誕故事を示す物として島津家が奉納した。
    然し、現在の歴史研究に於いて、該論支持者は狂信的島津研究関係者以外絶無に均しい。

    住吉大社 寺・神社・教会

  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />市戎大國社(いちえびす だいこくしゃ)<br />本殿<br />該社末社<br />御祭祀は、<br />事代主命(ことしろぬしのみこと)<br />大國主命(おおくにぬしのみこと)<br />御2柱である。<br />切妻造 妻入<br />放火に拠り焼失後、本殿は昭和44年(1969年)、拝殿は昭和56年(1981年)再建。

    住吉大社



    市戎大國社(いちえびす だいこくしゃ)
    本殿
    該社末社
    御祭祀は、
    事代主命(ことしろぬしのみこと)
    大國主命(おおくにぬしのみこと)
    御2柱である。
    切妻造 妻入
    放火に拠り焼失後、本殿は昭和44年(1969年)、拝殿は昭和56年(1981年)再建。

    住吉大社 寺・神社・教会

  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />五月殿(さつきでん)<br />桁行3間 播間2間 一重 切妻造 本瓦葺<br />棟木下に帆柱転用<br />江戸初期造営。 昭和11年(1936年)移築。

    住吉大社



    五月殿(さつきでん)
    桁行3間 播間2間 一重 切妻造 本瓦葺
    棟木下に帆柱転用
    江戸初期造営。 昭和11年(1936年)移築。

    住吉大社 寺・神社・教会

  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />神館南門(かんだち みなみもん)<br />4脚門 切妻造 本瓦葺<br />桁行9.04尺 梁間6.00尺<br />桁行2.74m 梁行1.81m<br />建築期不詳(近世?)

    住吉大社



    神館南門(かんだち みなみもん)
    4脚門 切妻造 本瓦葺
    桁行9.04尺 梁間6.00尺
    桁行2.74m 梁行1.81m
    建築期不詳(近世?)

    住吉大社 寺・神社・教会

  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />川端康成 反橋 碑(かわばた やすなり そりばし ひ)<br />川端康成(かわばた やすなり)(明治32年(1899年)6月14日~昭和47年(1972年)4月16日)は、大阪府茨木市出身の作家である。<br />大東亜戦争の記憶も未だ新しい、昭和22年(1947年)10月に風雪別冊に掲載された短編小説 反橋 が有る。<br />康成は大阪出身だが、3歳で父、翌年4歳で母を亡くし、旧制府立茨木中学校(現 府立茨木高校)卒業まで祖父母の下で育てられた事から、容易に人を信ぜず、常に社会に対する不信の視線を向け、更に実母の死の真相に就いて疑念が晴れぬまま不審を抱きつつ心の葛藤を含め作品全体から漂うシニカルな雰囲気を有していた。<br />出身地大阪に関する作品は、住吉、及び、反橋の小品2編しか存在せず、反橋は本文に於ける前置きがやたらと長く、反橋上に於ける出来事を、儚く描写した作品である。

    住吉大社



    川端康成 反橋 碑(かわばた やすなり そりばし ひ)
    川端康成(かわばた やすなり)(明治32年(1899年)6月14日~昭和47年(1972年)4月16日)は、大阪府茨木市出身の作家である。
    大東亜戦争の記憶も未だ新しい、昭和22年(1947年)10月に風雪別冊に掲載された短編小説 反橋 が有る。
    康成は大阪出身だが、3歳で父、翌年4歳で母を亡くし、旧制府立茨木中学校(現 府立茨木高校)卒業まで祖父母の下で育てられた事から、容易に人を信ぜず、常に社会に対する不信の視線を向け、更に実母の死の真相に就いて疑念が晴れぬまま不審を抱きつつ心の葛藤を含め作品全体から漂うシニカルな雰囲気を有していた。
    出身地大阪に関する作品は、住吉、及び、反橋の小品2編しか存在せず、反橋は本文に於ける前置きがやたらと長く、反橋上に於ける出来事を、儚く描写した作品である。

    住吉大社 寺・神社・教会

  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />川端康成 反橋 碑<br />反橋<br />(前略)<br />霊華の月の桂からも義尚の歌切からも、なぜ私は強ひて住吉を思ひ出したりするのでありませうか。私は住吉へ行つてはならない人間だからでありませう。<br />私が五つの時に住吉神社の反橋を渡つたことがあるかないか、それが私には夢やゆめうつつや夢とわかぬかなであります。<br />五つの私は母に手をひかれて住吉へ参りました。手をひかれてといふのが決して形容ではなく、私は手をひかれなければおもてに出られないやうな子供でありました。私と私の母とは反橋の前に長いことてつてゐたやうに思ひます。私には反橋がおそろしく高くまたその反りがくうとふくらんで迫つて来たやうにおぼえてゐます。母はいつもよりもつとやさしく私をいたはりながら、行平も強くなつたからこの橋が渡れるでせうと言ひました。私は泣きそうなのをこらへてうなづきました。母はじつと私の顔を見てゐました。<br />「この橋を渡れたら、いいお話しを聞かせてあげるわね。」<br />「どんなお話し?」<br />「大事な大事なお話し。」<br />「可哀想なお話し?」<br />「ええ、かわいそうな、悲しい悲しいお話し。」<br />そのころ大人はかわいそうで悲しいお話を好んで子供に聞かせたものであつたやうです。<br />反橋はのぼつてみると案外こはくありませんでした。私は自分の力に驚きました。一人で登れたやうに思ってゐますが、しかし母が手を引つぱつてくれたが抱き助けてくれたかがほんとうであつたやうにも思ひます。とにく橋の頂上で得意の絶頂でした。その橋の上で母はおそろしい話を聞かせました。<br />母の言葉ははつきりおぼえてをりません。母は私のほんたうの母ではないと言つたのでありました。私は母の姉の子で、その私のほんたうの母はこのあひだ死んだと言つたのでありました。<br />反橋は上るよりもおりる方がこはいものです。私は母に抱かれておりました。反橋の頂上でそのやうな話をするのはあまりに芝居ががつてゐるやうに思はれます。ほんたうにその時五つの私が反橋を渡つたのでありませうか。それさへ疑ひ出すと記憶は怪しくなります。私の妄想が描き出した夢であるのかもしれません。しかし五十年も前の女は神に祈つて打ち明けるのに、幼い私が反橋を渡る力を見たかつたのかもしれません。私のうぶすなまゐりは住吉神社でありました。<br />姉の死といふ衝撃で真實を明かさずにゐられなかつた母は憎みはしませんし、それが反橋の上であつたかなかつたかはとにかく母の白いあごに涙のながれたのをおぼえてゐまさうけれど、私の生涯はこの時に狂つたのでありました。<br />私の出生が尋常なものではあるまい、生みの母の死が自然なものではあるまいと、やがて疑い出すやうになりましたのもしかたがないことでありました。<br />私の生みの母の家も育ての母の家も住吉からさう遠くない土地にありましたけれども、私は五つのその時から二度と住吉へ行つたことがありませんでした。<br />それがもはや生にやぶれ果て死も近いと思はれる今、もう一度だけ住吉の反橋を見たいといふ心に追い立てられられるやうに来たのでありましたが、その住吉の宿ではからずも須山が書き残した色紙にめぐりあひましたのはなにかの因縁でありませうか。

    住吉大社



    川端康成 反橋 碑
    反橋
    (前略)
    霊華の月の桂からも義尚の歌切からも、なぜ私は強ひて住吉を思ひ出したりするのでありませうか。私は住吉へ行つてはならない人間だからでありませう。
    私が五つの時に住吉神社の反橋を渡つたことがあるかないか、それが私には夢やゆめうつつや夢とわかぬかなであります。
    五つの私は母に手をひかれて住吉へ参りました。手をひかれてといふのが決して形容ではなく、私は手をひかれなければおもてに出られないやうな子供でありました。私と私の母とは反橋の前に長いことてつてゐたやうに思ひます。私には反橋がおそろしく高くまたその反りがくうとふくらんで迫つて来たやうにおぼえてゐます。母はいつもよりもつとやさしく私をいたはりながら、行平も強くなつたからこの橋が渡れるでせうと言ひました。私は泣きそうなのをこらへてうなづきました。母はじつと私の顔を見てゐました。
    「この橋を渡れたら、いいお話しを聞かせてあげるわね。」
    「どんなお話し?」
    「大事な大事なお話し。」
    「可哀想なお話し?」
    「ええ、かわいそうな、悲しい悲しいお話し。」
    そのころ大人はかわいそうで悲しいお話を好んで子供に聞かせたものであつたやうです。
    反橋はのぼつてみると案外こはくありませんでした。私は自分の力に驚きました。一人で登れたやうに思ってゐますが、しかし母が手を引つぱつてくれたが抱き助けてくれたかがほんとうであつたやうにも思ひます。とにく橋の頂上で得意の絶頂でした。その橋の上で母はおそろしい話を聞かせました。
    母の言葉ははつきりおぼえてをりません。母は私のほんたうの母ではないと言つたのでありました。私は母の姉の子で、その私のほんたうの母はこのあひだ死んだと言つたのでありました。
    反橋は上るよりもおりる方がこはいものです。私は母に抱かれておりました。反橋の頂上でそのやうな話をするのはあまりに芝居ががつてゐるやうに思はれます。ほんたうにその時五つの私が反橋を渡つたのでありませうか。それさへ疑ひ出すと記憶は怪しくなります。私の妄想が描き出した夢であるのかもしれません。しかし五十年も前の女は神に祈つて打ち明けるのに、幼い私が反橋を渡る力を見たかつたのかもしれません。私のうぶすなまゐりは住吉神社でありました。
    姉の死といふ衝撃で真實を明かさずにゐられなかつた母は憎みはしませんし、それが反橋の上であつたかなかつたかはとにかく母の白いあごに涙のながれたのをおぼえてゐまさうけれど、私の生涯はこの時に狂つたのでありました。
    私の出生が尋常なものではあるまい、生みの母の死が自然なものではあるまいと、やがて疑い出すやうになりましたのもしかたがないことでありました。
    私の生みの母の家も育ての母の家も住吉からさう遠くない土地にありましたけれども、私は五つのその時から二度と住吉へ行つたことがありませんでした。
    それがもはや生にやぶれ果て死も近いと思はれる今、もう一度だけ住吉の反橋を見たいといふ心に追い立てられられるやうに来たのでありましたが、その住吉の宿ではからずも須山が書き残した色紙にめぐりあひましたのはなにかの因縁でありませうか。

    住吉大社 寺・神社・教会

  • 住吉公園<br /><br /><br /><br />禁裏祈祷所址碑(きんり きとうじょ あとひ)<br />我が国は江戸期大半が鎖国状態に置かれ、外国との通交は極めて例外的存在を除いた状況下に在ったが、嘉永6年(1853年)7月8日に相模國浦賀沖に出現した米艦隊は黒船来航と称され、我が国国内に於いて不安定要素の一件として改めて浮彫りにされた。<br />当時の、第121代 孝明(こうめい )天皇(天保2年(1831年)7月22日~慶應3年(1867年)1月30日)(弘化3年(1846年)2月21日~慶應3年(1867年)1月30日御在位)は、本質的、且つ、感情的に欧米嫌いで知られた存在であり、京都朝廷では該事を国難と捉え、全国主要社寺に対し外患掃討祈願を執行する事に決し、該社は此れを受け、文久2年(1862年)9月に該所に禁裏祈願所を設置した。<br />場所柄、当時は難波湾に面した海浜で在った事から濱祈願所とも称する。<br />現在では埋立が進行した事に拠り海岸線も遠のき、幕末の混乱状態が忘れ去られたの如く石柱が建植されている。

    住吉公園



    禁裏祈祷所址碑(きんり きとうじょ あとひ)
    我が国は江戸期大半が鎖国状態に置かれ、外国との通交は極めて例外的存在を除いた状況下に在ったが、嘉永6年(1853年)7月8日に相模國浦賀沖に出現した米艦隊は黒船来航と称され、我が国国内に於いて不安定要素の一件として改めて浮彫りにされた。
    当時の、第121代 孝明(こうめい )天皇(天保2年(1831年)7月22日~慶應3年(1867年)1月30日)(弘化3年(1846年)2月21日~慶應3年(1867年)1月30日御在位)は、本質的、且つ、感情的に欧米嫌いで知られた存在であり、京都朝廷では該事を国難と捉え、全国主要社寺に対し外患掃討祈願を執行する事に決し、該社は此れを受け、文久2年(1862年)9月に該所に禁裏祈願所を設置した。
    場所柄、当時は難波湾に面した海浜で在った事から濱祈願所とも称する。
    現在では埋立が進行した事に拠り海岸線も遠のき、幕末の混乱状態が忘れ去られたの如く石柱が建植されている。

    住吉大社 寺・神社・教会

  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />御田(おんだ)<br />毎年6月14日に執行される御田植神事(おんたうえ しんじ)祭場。<br />該祭礼は、南北朝期まで執行日が不定だったが、大永8年(1528年)より毎年5月28日、太陽暦採用たる明治6年(1873年)より毎年6月24日に執行される。<br />神功皇后(じんぐう こうごう)(成務40年(170年)~神功摂政69年(269年)6月3日)が三韓征伐帰路、長門國に立ち寄られた際に該地田植女を召抱え、御供田に於いて稲を植付けさせたのが該神事発祥とされる。<br />田植の際に八乙女と称する8名の巫女が田舞を踊るが、該歌詞内に清少納言(せいしょうなごん)(康保3年(966年)?~萬寿2年(1025年)?)の枕草子に記述が存在する箇所が存在する。<br />神事末に住吉踊(すみよし おどり)が披露されるが、該踊は、元々、該社別当神宮寺が存在していた時代に、僧侶が家屋前で該踊りを披露し金銭を得ていたもので、該社が神仏習合時代を現在に伝える数少ない存在である。<br />昭和54年(1979年) 国重要無形文化財指定。

    住吉大社



    御田(おんだ)
    毎年6月14日に執行される御田植神事(おんたうえ しんじ)祭場。
    該祭礼は、南北朝期まで執行日が不定だったが、大永8年(1528年)より毎年5月28日、太陽暦採用たる明治6年(1873年)より毎年6月24日に執行される。
    神功皇后(じんぐう こうごう)(成務40年(170年)~神功摂政69年(269年)6月3日)が三韓征伐帰路、長門國に立ち寄られた際に該地田植女を召抱え、御供田に於いて稲を植付けさせたのが該神事発祥とされる。
    田植の際に八乙女と称する8名の巫女が田舞を踊るが、該歌詞内に清少納言(せいしょうなごん)(康保3年(966年)?~萬寿2年(1025年)?)の枕草子に記述が存在する箇所が存在する。
    神事末に住吉踊(すみよし おどり)が披露されるが、該踊は、元々、該社別当神宮寺が存在していた時代に、僧侶が家屋前で該踊りを披露し金銭を得ていたもので、該社が神仏習合時代を現在に伝える数少ない存在である。
    昭和54年(1979年) 国重要無形文化財指定。

    住吉大社 寺・神社・教会

  • 住吉大社<br /><br /><br /><br />反橋<br />

    住吉大社



    反橋

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この旅行記へのコメント (11)

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  • yuriさん 2022/03/12 12:54:33
    住吉大社
    横浜臨海公園さん

    こんにちは。

    横浜臨海公園さんは本当に知識が豊富なのですね!

    住吉大社は好きな神社で
    今まで2回訪れており
    大阪を訪れることがあったら
    また行きたいと考えています。

    その際には、横浜臨海公園さんの
    こちらの日記を参考に参拝したいと思いました。

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2022/03/12 13:39:37
    拝復
    yuriさま、こんにちは。


    掲示板にコメントを賜りまして、誠に有難うございました。
    仰せの様に、住吉大社は何度訪れても魅力ある神社だと思います。
    とにかく、境内を探索すると気分が晴れる想いがさせられます。



    横浜臨海公園
  • しにあの旅人さん 2022/02/11 14:11:27
    力作、感心しました。
    大作読み切りました。
    7年かかったそうですが、なるほどと思いました。
    私も分不相応に古文献を漁ります。しかし現代語訳があるものばかりで、たまにそれがない漢文にぶち当たると「あっちゃー」という感じです。
    東大寺要録と薬師寺縁起には往生しました。解読するのはほんのちょっとなので、助字を取っ払って本体だけにすれば、意味は概ねわかります。従って読み下しはできません。

    この作品を読みますと、元文献にとても現代語訳があるはずもなく、原文に当たっておられると思います。大変だろうな~。とても真似はできません。
    現代語訳どころか、活字化もされてないのではないですか。古いものだと楷書で書いてくれますが、近世だとサラーと達筆で流しくさります。あれはもうお手上げです。
    「数百年後に読むやつのことを考えんかい、ボケが」と言いたくなります。
    近世文書もお読みになるのですね。すごいなあ。
    20年ほど前、手書き古文書の解読を通信教育でトライしましたが、3ヶ月でギブアップ。ちゃんとやっておけばよかったと、後悔先に立たずであります。
    手書きを読まされたのは薬師寺縁起だけです。By妻と2人で1行1時間という感じ。もうやりたくない。

    とにかくご苦労様でした。
    心から感服いたしました。

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2022/02/13 17:32:53
    拝復
    しにあの旅人さま、こんばんは。


    拙稿に投票と掲示板に過分に過ぎるコメントを賜りまして深謝しております。
    古文書は国会図書館に収納された原典本のマイクロコピーの閲覧でしたが、何度読んでも理解が出来ず、一時は投げ出しかけた状態になりました。
    本当に江戸期の草書体は理解困難ですね。
    正面から見ると理解不能でしたが、ナナメから見たら何とか読めました。
    それから、小生、現代スペイン語であれば日常会話程度なら読み書きも可能ですが、中世イスパニア語となると最初は歯が立たず、困惑の連続でした。
    明治期から大東亜戦争直後に至る内務省提出文読解が本当に楽でした。
    当初計画では2年もあれば発表可能と考えておりましたが、実に考えの甘さに思い知られ、結局7年半が経過してしまいました。、
    兎に角、本当に頭痛が痛くなる想いでしたが、手前味噌と笑われるのを覚悟で完成したものが当該旅行記でございます。




    横浜臨海公園
  • naniwa ladyさん 2022/02/01 16:34:46
    懐かしいです♩♩
    我が家といっても結婚前の話ですが、初詣はいつも住吉さんでした。阪堺線、チンチン電車に乗ってお参りに行きました。大きなコッポリを履いて、あの太鼓橋を渡るのは大変でした。小さい頃のことを思い出しましたが、何せウン十年も前のこと、住吉さんはだいぶ変わりました。ちなみにうちの両親は住吉さんの近くでお見合いをしたそうです。
    それにしても詳しいご説明、素晴らしいです。歴史をひもといていただき、ありがとうございました。

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2022/02/02 17:36:17
    拝復
    naniwa ladyさま、こんにちは。

    拙稿に投票と掲示板にコメントを賜りまして、誠に有難うございました。
    小生、横浜在故に関西には疎く、当該旅行記作成では関東に資料らしい資料が少なく、一時は旅行記作成を諦め放棄しかけた事もありました。
    その為にアレヤコレヤで作成開始から7年以上も経過したものとなり、現地は若干違いが出ているかもしれません。
    手前味噌ながら資料として読んで頂ければ尚幸甚でございます。



    横浜臨海公園
  • ふわっくまさん 2022/01/20 07:55:04
    住吉大社・・
    横浜臨海公園さん、おはようございます。
    いつもお世話になり、ありがとうございます。

    さて2017年5月、住吉大社を訪れられたそうで・・
    年月をかけて、大変な力作を書かれたのですね。
    実は私も先日コロナ禍に細心の注意を払いつつ、東京・佃島の住吉神社に行ってきました。
    そちらで観た鳥居の扁額と住吉大社の扁額がスゴク似ていたので、思わず書き込みした次第です。
    関東におられる方から、住吉大社のことを詳しく教えていただけるなんて・・
    ・・朝から、嬉しい驚き(!)です(^_-)-☆

    また川端康成氏の生い立ちも、とても興味深く拝見させていただきました。
    ・・今年もどうぞ、よろしくお願いいたします。 ふわっくま


    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2022/01/20 09:32:44
    拝復
    ふわっくまさま、おはようございます。


    拙稿に投票と掲示板にコメントを賜りまして、誠に有難うございました。
    旅行記を作成するために、古文書の類を覚えきれないほど、検討させられました。
    小生、現代スペイン語なら日常会話程度は読み書きが可能ですが、流石に中世イスパニア語は解らずだらけで、解読に相当苦労を伴いました。

    東京佃の住吉神社は難波住吉大社から勧請されたものでございます。

    昨今では、フォートラベル会員で遠距離旅行に出掛ける方が散見されますが、コロナに対する危機管理の方はどうなっているのだろうと、少なからず呆れております。

    小生こそ本年も亦宜敷くお願い申します。



    横浜臨海公園
  • mistralさん 2022/01/19 23:14:06
    力作ぞろいです。
    横浜臨海公園さん

    こんばんは。
    いつもご訪問と、ご投票までいただきましてありがとうございます。
    また先日は、貴重な情報をお届けくださいました事、
    今回はフォローもしていただきました事、
    重ねてお礼を申し上げます。

    いつも訪問させていただくたびに一編が大変な力作だということに驚かされます。
    一体どのぐらいの時間をかけて一編の旅行記が出来上がるのか想像もつきません。
    今回の住吉大社の旅行記、お写真だけでも、くまなく撮影され
    それぞれのコメントも膨大な時間をかけて調べておられることとおもいます。
    拝見する当方が、理解力が伴わずにおり、かえって申し訳なく思っております。

    このようなmistralですが、今後ともどうぞ宜しくお願い致します。

    mistral

    横浜臨海公園

    横浜臨海公園さん からの返信 2022/01/20 04:20:52
    拝復
    mistralさま、おはようございます。

    此の度は拙稿に投票と掲示板にコメントを賜りまして、誠に有難うございました。
    住吉大社の旅行記作成は、小生がフォートラベルに会員登録した10年前以上に構想があったものの、歴史的資料、江戸期の草書体の読みと解釈、住吉大社が監督官庁だった内務省に提出した諸資料の閲覧は大変でした。
    当然の事ながら当時の資料でコピーが許される訳も無く、国立公文書館で手書き筆写の反復で4年かかりました。
    また、フロイスの書き残した記録は現代スペイン語では無く中世イスパニア語だった事で、文章を読んでも断片的にしか判明せず、頭が痛くなるような日々でした。
    結局、あれやこれやで7年かかったしまいました。
    住吉大社を訪れた日は天候が芳しく無く、曇天か雨天の撮影だった為に、もともと写真撮影ぎぎゅつなど無に均しき腕しか無いく、何卒写りが悪いことをお許しくださいま何卒




    横浜臨海公園

    mistral

    mistralさん からの返信 2022/01/20 13:17:14
    RE: 拝復
    横浜臨海公園さん

    早速お返事をいただきましてありがとうございます。

    > 住吉大社の旅行記作成は、小生がフォートラベルに会員登録した10年前以上に構想があったものの、歴史的資料、江戸期の草書体の読みと解釈、住吉大社が監督官庁だった内務省に提出した諸資料の閲覧は大変でした。

    拝見しまして、かなりの力作!ということはわかりましたが、構想は10年前からおありだったんですね。更に江戸期の草書体の読破、内務省扱いの諸資料の閲覧、
    などなど困難なことにも一つ一つ取り組まれた成果と

    > 当然の事ながら当時の資料でコピーが許される訳も無く、国立公文書館で手書き筆写の反復で4年かかりました。

    コピーができないのなら手書きでの書き写し、

    > また、フロイスの書き残した記録は現代スペイン語では無く中世イスパニア語だった事で、文章を読んでも断片的にしか判明せず、頭が痛くなるような日々でした。

    また中世イスパニア語なる言語にも挑まれて。

    > 結局、あれやこれやで7年かかったしまいました。

    7年という歳月が準備段階でかかった、と伺いますと
    今回の旅行記そのものが貴重な文化財なみに思えます。

    > 住吉大社を訪れた日は天候が芳しく無く、曇天か雨天の撮影だった為に、もともと写真撮影ぎぎゅつなど無に均しき腕しか無いく、何卒写りが悪いことをお許しくださいま何卒

    お写真はすっきりきれいに写っておりますね。
    もう一度じっくりと拝見させていただきますね。
    ありがとうございました。

    mistral

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