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これは旅行記にあらず。わが能書き也。今までのも同じだ。 <br /><br />思いのままを書き連ねる。同じ事を百篇でも千篇でも。 <br /><br />公開する以上見てもらいたい読んでもらいたいのは山々だが。 <br /><br /><br /><br /><br />目 次<br />(0) 旅たち前 <br />(1) 9月18日(火)関空〜煙台経由、北京へ出発 <br />(2) 9月19日(水)北京:義和団事件・盧溝橋事件の戦跡へ <br />(3) 9月20日(木)北京〜張家口へ <br />(4) 9月21日(金)張北・丸一陣・その他へ <br />(5) 9月22日(土)張家口の散策 <br />(6) 9月23日(日)丸一陣・張家口散策 <br />(7) 9月24日(月)張家口から宣化へ <br />(8) 9月25日(火)宣化→鶏鳴山駅→北京 <br />(9) 9月26日(水)北京の一日 <br />(10) 9月27日(木)北京〜煙台〜関空 <br /><br />

張家口・丸一陣地の戦跡を訪ねる:旅立ち前

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2012/09/18 - 2012/09/27

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明石DS

明石DSさん

これは旅行記にあらず。わが能書き也。今までのも同じだ。

思いのままを書き連ねる。同じ事を百篇でも千篇でも。

公開する以上見てもらいたい読んでもらいたいのは山々だが。




目 次
(0) 旅たち前
(1) 9月18日(火)関空〜煙台経由、北京へ出発
(2) 9月19日(水)北京:義和団事件・盧溝橋事件の戦跡へ
(3) 9月20日(木)北京〜張家口へ
(4) 9月21日(金)張北・丸一陣・その他へ
(5) 9月22日(土)張家口の散策
(6) 9月23日(日)丸一陣・張家口散策
(7) 9月24日(月)張家口から宣化へ
(8) 9月25日(火)宣化→鶏鳴山駅→北京
(9) 9月26日(水)北京の一日
(10) 9月27日(木)北京〜煙台〜関空

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  • 張家口から北へ16キロ、この辺りに丸一陣地があった<br /><br />張北からこの街道をソ蒙軍は丸一陣地に迫って来た <br />//////////////////////////////////////////<br /><br />張家口の戦跡を訪ねる<br />今回、私の旅の主目的は張家口と丸一陣地。それは兄からの話で根本博中将のことを知ったことからスタートした。昭和20年、8月9日ソ連軍侵攻の日から満洲在留邦人は、悲惨な避難行が始まりソ連軍の卑劣な蛮行により多くの日本人が命を落とした。そして終戦後すぐにソ連軍の武装解除を受け入れた関東軍兵士も、60万余人がシベリアに不当抑留され悲劇を生んだ。 <br /><br />しかし、満洲に隣接した今の内モンゴル自治区西部、当時「蒙古聯合自治政府」内に散らばる在留邦人は、満州と同じくソ連軍の侵攻を受けるも北京天津経由でそのほとんどが無事帰国を果たした。私はその事実に接し、一体そこで何が起こり、満洲との歴然たる違いが何故生じたのか?そのことに興味を持った。そして書物やネットからの情報、当時張家口で中学2年生だったMさん(昭和20年5月学徒挺身隊として響5331部隊に入隊)と知己を得、資料を頂いたりご自宅でお話を伺った。それらの予備知識を元に張家口の戦跡を訪ねることになった。 <br /><br />いつもながら戦跡巡りの最初に思うのは、「そうか、そんなところで、そんな戦いがあったのか、ふ〜ん何も知らなかったなあ」という思いから始まる。特に今回は、この地の事情については、まったく何も知らなかった。その一つに彼の地に「満洲帝国」ではなく「中華民国」でもなく蒙古聨合自治政府なるものがあり、張家口は首都であったというのが私の驚きであった。首都というのは「その国の中央政府のある都市」。大平正芳元首相が若き大蔵官僚として一時期赴任していた。 <br /><br />「蒙古聯合自治政府」はモンゴルの独立を願うモンゴル人、デムチュクドンロブ「徳王」と日本が互いの思惑に添って手を結び1939年(昭和14年)成立させたものである。徳王は日本を利用して蒋介石・中華圏からの独立を目指し、日本は満洲同様徳王を使って傀儡政権を作り、防共及び大陸での日本の権益を高めようとした。昭和20年日本の敗戦によって実質的崩壊に至り6年間の幕を閉じた。 <br /><br />そんな国のようなものがあったのか?と、今頃になって初めて知った。その首都であった張家口。張家口に居住する一般邦人は昭和20年2万人を超えていたが、8月9日、ソ連参戦を機に避難のために周辺地域から集まり終戦間際に日本人は合計4万人程の人数になっていた。 <br /><br />ソ連侵攻を受けて「蒙古聨合自治政府」(以下略して蒙疆)と「満洲」のその後は如何に・・・。 <br /><br />満洲における日本軍のトップは、関東軍総司令官:山田乙三陸軍大将(享年84歳)であり、蒙疆を守備する日本軍トップは、第26師団:根本博中将(享年75歳)である。 <br /><br />このリーダー二人の決断の違いによって明暗ははっきり分かれることになった。小は家族、大は国家。その大小中味を問わず一人のリーダーの資質・決断によって、その組織のその後の行方は良きにしろ悪しきにしろ決まってしまう。終戦後の蒙疆と満洲の違いこそがその典型である。 <br /><br />私は張家口の事実を知り、今まで山田大将がソ連侵攻後の関東軍の行動、満ソ国境での陣地防御を行うも、すでに弱体化していた関東軍を、大連⇔新京⇔図們に下げて朝鮮半島への侵攻を防ぐとともに朝鮮半島を守り、最終決戦のために日本本土を守る。強力なるソ連軍との満洲全土での積極的攻防はかえって多くの犠牲者を出すことになり、ソ連軍は兵士でもない在満邦人に対して残虐非道なことはしないだろう。 <br /><br />今まで、そんな決断を支持してきたが、今回この根本司令官の終戦後の対応と結果を知ることになり。今までの考えは誤りだったと認めざるをえない。それは結果の違いを知っての私の気持ちの変化だが、それでは、もし根本中将が在留邦人を守るために終戦後も、上部命令に背きソ連軍と戦い続けた結果、隷下部隊の兵士の多くが戦死し、その上、避難途中の邦人も守りきれずに多くが犠牲になっていたらどうなのか?そういう推測も状況によって十分に有り得るのだろうが、歴史を評価するには結果を重視することがまず大前提だ。でなければ歴史から学ぶことは出来ない。 <br /><br />山田大将はソ連軍、ロシア人の戦時の非道暴虐の歴史事実を認識していなかった。それに対しての判断があまりにお粗末過ぎた。私は今回、義和団事件の顛末についても調べたが、その時にもロシア軍人の残虐非道振りが、その場にいた欧米各国の人物によって書物・記録などで克明に描写されている。ロシア人の横暴ぶりは世界でも共通の認識だったろうし、明治維新後ロシアの膨張に悩まされ続け、日露戦争を戦った日本人の間でも常識としてそれくらいの認識はあっただろうと思う。 <br /><br />なのに山田大将及び秦彦三郎参謀長(陸軍中将、昭和34年没、享年69歳)は、8月15日終戦の詔勅後、関東軍幕僚会議で圧倒的だった「侵攻ソ連軍との徹底抗戦」を封じ込め「我ら軍人は天皇陛下の勅令に従うより他に道はない」との決断を下した結果、多くの悲惨な悲劇を招いた。この判断は、ソ連軍が少なくともまともな軍隊であることが前提で成されなければならないはずだ。 <br /><br />やはり軍隊というのは国土を保全し、国民の生命を守るための組織である。ならば、いついかなる状況に而も第一義的には迷わずそれを実践すべきだ。以後それによって更に大きな犠牲が出たとしても、納得できる。例え一人を守るために千人が死んでも、それが国軍の責務であり、あるべき姿だと信じる。それをしかと念頭に置き実践を期するなら危急存亡の際に迷いもない。そしてその判断と実践は将来の国家民族の誇りとなる。決して無駄死にとはならない。 <br /><br />片や根本中将は、ソ連軍の残虐性を熟知し、刻々と入る満洲の状況を重ねて勅命に逆らう苦渋の選択だがソ連軍との戦いを決断した。根本中将はソ連軍の脅しに怯まず断固たる命令を下した。終戦をすでに知っている前線の日本軍兵士に、無論、生への執着や戦うことへの疑問もあったようだが、それにも増して同胞を救うために命を惜しまず戦う気持ちが勝っていた。これこそ「名将の下に弱卒なし」であり、その結果満洲との違いが生じたのである。 <br /><br />この二人の将軍の決断こそが「歴史に学ぶ」べきことであり、将来自らがリーダーとして同じような危機に直面した場合に生かすことが必定だ。 <br /><br />いつものことだが私の旅行記の内容は関連した著書・ネットなどを一応参考にしている。いちいち引用の注釈はしない。張家口・丸一陣地の戦いについては「昭和20年8月20日:日本人を守る最後の戦い?」:稲垣武(著) を主にして記している。乏しい知識で好き勝手に想像力を膨らませて、独断と偏見の私の思いを書き連ねている。内容についての信用は無用なり。 <br /><br />張家口:張北:「丸一陣地の戦跡を訪ねる」 <br /><br />http://youtu.be/VoZHKGvqwEE

    張家口から北へ16キロ、この辺りに丸一陣地があった

    張北からこの街道をソ蒙軍は丸一陣地に迫って来た
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    張家口の戦跡を訪ねる
    今回、私の旅の主目的は張家口と丸一陣地。それは兄からの話で根本博中将のことを知ったことからスタートした。昭和20年、8月9日ソ連軍侵攻の日から満洲在留邦人は、悲惨な避難行が始まりソ連軍の卑劣な蛮行により多くの日本人が命を落とした。そして終戦後すぐにソ連軍の武装解除を受け入れた関東軍兵士も、60万余人がシベリアに不当抑留され悲劇を生んだ。

    しかし、満洲に隣接した今の内モンゴル自治区西部、当時「蒙古聯合自治政府」内に散らばる在留邦人は、満州と同じくソ連軍の侵攻を受けるも北京天津経由でそのほとんどが無事帰国を果たした。私はその事実に接し、一体そこで何が起こり、満洲との歴然たる違いが何故生じたのか?そのことに興味を持った。そして書物やネットからの情報、当時張家口で中学2年生だったMさん(昭和20年5月学徒挺身隊として響5331部隊に入隊)と知己を得、資料を頂いたりご自宅でお話を伺った。それらの予備知識を元に張家口の戦跡を訪ねることになった。

    いつもながら戦跡巡りの最初に思うのは、「そうか、そんなところで、そんな戦いがあったのか、ふ〜ん何も知らなかったなあ」という思いから始まる。特に今回は、この地の事情については、まったく何も知らなかった。その一つに彼の地に「満洲帝国」ではなく「中華民国」でもなく蒙古聨合自治政府なるものがあり、張家口は首都であったというのが私の驚きであった。首都というのは「その国の中央政府のある都市」。大平正芳元首相が若き大蔵官僚として一時期赴任していた。

    「蒙古聯合自治政府」はモンゴルの独立を願うモンゴル人、デムチュクドンロブ「徳王」と日本が互いの思惑に添って手を結び1939年(昭和14年)成立させたものである。徳王は日本を利用して蒋介石・中華圏からの独立を目指し、日本は満洲同様徳王を使って傀儡政権を作り、防共及び大陸での日本の権益を高めようとした。昭和20年日本の敗戦によって実質的崩壊に至り6年間の幕を閉じた。

    そんな国のようなものがあったのか?と、今頃になって初めて知った。その首都であった張家口。張家口に居住する一般邦人は昭和20年2万人を超えていたが、8月9日、ソ連参戦を機に避難のために周辺地域から集まり終戦間際に日本人は合計4万人程の人数になっていた。

    ソ連侵攻を受けて「蒙古聨合自治政府」(以下略して蒙疆)と「満洲」のその後は如何に・・・。

    満洲における日本軍のトップは、関東軍総司令官:山田乙三陸軍大将(享年84歳)であり、蒙疆を守備する日本軍トップは、第26師団:根本博中将(享年75歳)である。

    このリーダー二人の決断の違いによって明暗ははっきり分かれることになった。小は家族、大は国家。その大小中味を問わず一人のリーダーの資質・決断によって、その組織のその後の行方は良きにしろ悪しきにしろ決まってしまう。終戦後の蒙疆と満洲の違いこそがその典型である。

    私は張家口の事実を知り、今まで山田大将がソ連侵攻後の関東軍の行動、満ソ国境での陣地防御を行うも、すでに弱体化していた関東軍を、大連⇔新京⇔図們に下げて朝鮮半島への侵攻を防ぐとともに朝鮮半島を守り、最終決戦のために日本本土を守る。強力なるソ連軍との満洲全土での積極的攻防はかえって多くの犠牲者を出すことになり、ソ連軍は兵士でもない在満邦人に対して残虐非道なことはしないだろう。

    今まで、そんな決断を支持してきたが、今回この根本司令官の終戦後の対応と結果を知ることになり。今までの考えは誤りだったと認めざるをえない。それは結果の違いを知っての私の気持ちの変化だが、それでは、もし根本中将が在留邦人を守るために終戦後も、上部命令に背きソ連軍と戦い続けた結果、隷下部隊の兵士の多くが戦死し、その上、避難途中の邦人も守りきれずに多くが犠牲になっていたらどうなのか?そういう推測も状況によって十分に有り得るのだろうが、歴史を評価するには結果を重視することがまず大前提だ。でなければ歴史から学ぶことは出来ない。

    山田大将はソ連軍、ロシア人の戦時の非道暴虐の歴史事実を認識していなかった。それに対しての判断があまりにお粗末過ぎた。私は今回、義和団事件の顛末についても調べたが、その時にもロシア軍人の残虐非道振りが、その場にいた欧米各国の人物によって書物・記録などで克明に描写されている。ロシア人の横暴ぶりは世界でも共通の認識だったろうし、明治維新後ロシアの膨張に悩まされ続け、日露戦争を戦った日本人の間でも常識としてそれくらいの認識はあっただろうと思う。

    なのに山田大将及び秦彦三郎参謀長(陸軍中将、昭和34年没、享年69歳)は、8月15日終戦の詔勅後、関東軍幕僚会議で圧倒的だった「侵攻ソ連軍との徹底抗戦」を封じ込め「我ら軍人は天皇陛下の勅令に従うより他に道はない」との決断を下した結果、多くの悲惨な悲劇を招いた。この判断は、ソ連軍が少なくともまともな軍隊であることが前提で成されなければならないはずだ。

    やはり軍隊というのは国土を保全し、国民の生命を守るための組織である。ならば、いついかなる状況に而も第一義的には迷わずそれを実践すべきだ。以後それによって更に大きな犠牲が出たとしても、納得できる。例え一人を守るために千人が死んでも、それが国軍の責務であり、あるべき姿だと信じる。それをしかと念頭に置き実践を期するなら危急存亡の際に迷いもない。そしてその判断と実践は将来の国家民族の誇りとなる。決して無駄死にとはならない。

    片や根本中将は、ソ連軍の残虐性を熟知し、刻々と入る満洲の状況を重ねて勅命に逆らう苦渋の選択だがソ連軍との戦いを決断した。根本中将はソ連軍の脅しに怯まず断固たる命令を下した。終戦をすでに知っている前線の日本軍兵士に、無論、生への執着や戦うことへの疑問もあったようだが、それにも増して同胞を救うために命を惜しまず戦う気持ちが勝っていた。これこそ「名将の下に弱卒なし」であり、その結果満洲との違いが生じたのである。

    この二人の将軍の決断こそが「歴史に学ぶ」べきことであり、将来自らがリーダーとして同じような危機に直面した場合に生かすことが必定だ。

    いつものことだが私の旅行記の内容は関連した著書・ネットなどを一応参考にしている。いちいち引用の注釈はしない。張家口・丸一陣地の戦いについては「昭和20年8月20日:日本人を守る最後の戦い?」:稲垣武(著) を主にして記している。乏しい知識で好き勝手に想像力を膨らませて、独断と偏見の私の思いを書き連ねている。内容についての信用は無用なり。

    張家口:張北:「丸一陣地の戦跡を訪ねる」

    http://youtu.be/VoZHKGvqwEE

  • 北京にて「義和団事件」<br /><br />“東交民巷”にあった旧日本公使館、真ん中の赤レンガだが・・・。 <br /><br /><br />「東交民巷の日本公使館の謎?」<br />http://akasids.web.fc2.com/sonota/beijing2.html <br /><br />/////////////////////////////////////////////<br /><br />義和団事件・北京「交民巷」にて<br /><br /><br />時は1900年、明治33年頃。当時世界は七つの海をまたいで白人列強の覇権主義の嵐の中で、有色人種国家は次々と植民地化されていた。そして「眠れる獅子」と恐れられていた大国:清も阿片戦争、日清戦争で敗れて以後、列強の餌食の対象となる。清は大国ゆえに清国領土分捕り合戦には多くの国が参加し、列強は互いに虚虚実実の駆け引きのなかにあった。 <br /><br />日本も唯一有色人種国家であったが独立を保つためにも維新後「富国強兵」を邁進。日清戦争に勝利し白人列強と肩を並べる存在になりつつあった。そして1900年/明治33年7月7日、日露開戦の四年前、映画「北京の55日」でも知られている北京籠城戦を連合国の一員として義和団相手に戦った。 <br /><br />清王朝の衰退と並行して列強による清領土の争奪戦と強引なキリスト教布教が清の民衆の排外主義を呼び起こし、外国人排斥、キリスト教迫害の目的で最初は山東省の武術曾組織を基盤として発生した。やがて、各地に「扶清滅洋」のスローガンを軸に清国民衆が立ち上がった。それらの総称が「義和団」であり、当初は清朝政府も義和団に対して鎮圧の動きを示していたが、義和団の乱の拡大を見て、それと手を組み清朝政府は連合国を敵に回して宣戦布告をした。 <br /><br />しかしその戦いは圧倒的多数で「東交民巷」に籠城する連合軍を取り囲みながら、日本軍の柴五郎中佐以下籠城日本軍及び日本人義勇兵の獅子奮迅の活躍によって、義和団、清政府軍は、籠城軍を壊滅させるに至らず、やがて応援に駆けつけた八ヶ国の援軍によって義和団は鎮圧されてしまう。 <br /><br />すると清朝は180度方針を変更し義和団を反乱軍と認定した。これが支那大陸での権力者の姿であり、いわゆる国民国家(国民を主体としてつくられた国家)は昔も今も将来も成立することはないと私は思っている。そこにあるのは思想信条・政治体制関係なく、今の中共政府も同じく己が利益を守るという同種同属の利益集団の絆というものが最優先される。 <br /><br />義和団との戦いは、具体的には1900年、明治33年6月10日、日本公使館の書記:杉山彬氏が殺害され、6月20日はドイツ公使が殺害された。そして西太后が列強連合国に宣戦布告を発し国外退去を言い渡したが、連合国側は応じず籠城しての戦いが始まる。 <br /><br />そして連合国側は苦戦の籠城戦を二ヶ月耐え抜き8月14日、北京に援軍が到着。武器装備に勝る連合軍は、圧倒的多数の清朝軍と義和団を降伏せしめた。その後、北京を占領した連合国は競って戦利品確保に務め日本軍も多くを手に入れた。 <br /><br />またしても敗戦国なった清朝は、多額の賠償金支払いの義務を課せられ、ますますその力は衰える。そして敗れた義和団も「扶清滅洋」から「掃清滅洋」に旗印を変更し、清王朝の滅亡が義和団事件を機に加速することになる。そして義和団事件の12年後の1912年:辛亥革命によって清王朝は終焉を迎えた。 <br /><br />その連合国が籠城した地が各国公使館があった“東交民巷”であり、2012年の今年、112年前の戦跡を私は訪れた。この戦いは日本人の勇敢なること、優秀さを世界に知らしめた戦いである。そしてアジアの雄として列強からも一目置かれることになり、日英同盟に結びついた。日本人が世界に颯爽とデビューを果たした歴史的出来事である。 <br /><br />&quot;東交民巷&quot;にて義和団事件を思う <br /><br />http://youtu.be/ZJM-u-naj4Q

    北京にて「義和団事件」

    “東交民巷”にあった旧日本公使館、真ん中の赤レンガだが・・・。


    「東交民巷の日本公使館の謎?」
    http://akasids.web.fc2.com/sonota/beijing2.html

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    義和団事件・北京「交民巷」にて


    時は1900年、明治33年頃。当時世界は七つの海をまたいで白人列強の覇権主義の嵐の中で、有色人種国家は次々と植民地化されていた。そして「眠れる獅子」と恐れられていた大国:清も阿片戦争、日清戦争で敗れて以後、列強の餌食の対象となる。清は大国ゆえに清国領土分捕り合戦には多くの国が参加し、列強は互いに虚虚実実の駆け引きのなかにあった。

    日本も唯一有色人種国家であったが独立を保つためにも維新後「富国強兵」を邁進。日清戦争に勝利し白人列強と肩を並べる存在になりつつあった。そして1900年/明治33年7月7日、日露開戦の四年前、映画「北京の55日」でも知られている北京籠城戦を連合国の一員として義和団相手に戦った。

    清王朝の衰退と並行して列強による清領土の争奪戦と強引なキリスト教布教が清の民衆の排外主義を呼び起こし、外国人排斥、キリスト教迫害の目的で最初は山東省の武術曾組織を基盤として発生した。やがて、各地に「扶清滅洋」のスローガンを軸に清国民衆が立ち上がった。それらの総称が「義和団」であり、当初は清朝政府も義和団に対して鎮圧の動きを示していたが、義和団の乱の拡大を見て、それと手を組み清朝政府は連合国を敵に回して宣戦布告をした。

    しかしその戦いは圧倒的多数で「東交民巷」に籠城する連合軍を取り囲みながら、日本軍の柴五郎中佐以下籠城日本軍及び日本人義勇兵の獅子奮迅の活躍によって、義和団、清政府軍は、籠城軍を壊滅させるに至らず、やがて応援に駆けつけた八ヶ国の援軍によって義和団は鎮圧されてしまう。

    すると清朝は180度方針を変更し義和団を反乱軍と認定した。これが支那大陸での権力者の姿であり、いわゆる国民国家(国民を主体としてつくられた国家)は昔も今も将来も成立することはないと私は思っている。そこにあるのは思想信条・政治体制関係なく、今の中共政府も同じく己が利益を守るという同種同属の利益集団の絆というものが最優先される。

    義和団との戦いは、具体的には1900年、明治33年6月10日、日本公使館の書記:杉山彬氏が殺害され、6月20日はドイツ公使が殺害された。そして西太后が列強連合国に宣戦布告を発し国外退去を言い渡したが、連合国側は応じず籠城しての戦いが始まる。

    そして連合国側は苦戦の籠城戦を二ヶ月耐え抜き8月14日、北京に援軍が到着。武器装備に勝る連合軍は、圧倒的多数の清朝軍と義和団を降伏せしめた。その後、北京を占領した連合国は競って戦利品確保に務め日本軍も多くを手に入れた。

    またしても敗戦国なった清朝は、多額の賠償金支払いの義務を課せられ、ますますその力は衰える。そして敗れた義和団も「扶清滅洋」から「掃清滅洋」に旗印を変更し、清王朝の滅亡が義和団事件を機に加速することになる。そして義和団事件の12年後の1912年:辛亥革命によって清王朝は終焉を迎えた。

    その連合国が籠城した地が各国公使館があった“東交民巷”であり、2012年の今年、112年前の戦跡を私は訪れた。この戦いは日本人の勇敢なること、優秀さを世界に知らしめた戦いである。そしてアジアの雄として列強からも一目置かれることになり、日英同盟に結びついた。日本人が世界に颯爽とデビューを果たした歴史的出来事である。

    "東交民巷"にて義和団事件を思う

    http://youtu.be/ZJM-u-naj4Q

  • 盧溝橋事件・北京にて<br /><br />盧溝橋と宛平県城 <br /><br /><br />//////////////////////////////////////////<br /><br /><br />私が思う盧溝橋事件<br /><br /><br />還暦を越え戦跡巡りを趣味としている無学歴無能、ただのオッサンである私が、盧溝橋事件の関連本などを読んで思うことを述べる。その思いを動画で公開することに若干の後ろめたさはあるが、今に始まったことでもなく自己満足として趣味として今後も続ける。批判は自由、信用は無用なり。 <br /><br />1937年昭和12年7月7日 この盧溝橋付近で夜間演習中の日本軍に向けて銃弾が撃ち込まれた。それが宣戦布告なき泥沼の戦いとなった支那事変の始まりとなる。国民革命軍は、国民党の軍隊であるが、ソ連の支援によって組織化され八路軍もその指揮下にあった。当時の中国は、国としても一つの国とはいい難く、軍事組織は一枚岩ではない。誰が何を企み誰の命を受けて動いているのかも定かではない。事件当時北平(北京)付近にそんな国民革命軍、宋哲元軍長が率いる第29師団が10万人以上の規模で駐屯していた。 <br /><br />支那駐屯日本軍は、天津・北平(北京)など全部あわせても5,600人程度。その内、北支全体で約二千人、北京には五百人ほどの日本軍である。外国軍隊の駐留は1900年の義和団事件の後に結ばれた北京議定書により、英米仏伊などが日本軍同様に駐屯している。その夜の日本軍の夜間演習は135人ほどの中隊規模の演習である。その演習中に中国側から銃弾が撃ち込まれた。 <br /><br />この時から泥沼の支那事変は始まり8年後の昭和20年8月15日日本の敗戦によって収束した。その後、勝者による裁判となった東京裁判によって盧溝橋での戦いの責任が問われた。そこで中国側証人である秦徳純(しんとくじゅん)が提出した捏造作文は「 日本軍が仕組んだもの」である。しかしその内容があまりに稚拙であり、判決文にはそのまま書き込まれたが審議されなかった。 <br /><br />そして盧溝橋事件容疑者として収監されていた河辺旅団長や牟田口連隊長は無罪放免となった。それだけでも、中国側の言い分に信憑性のないことが明らかだ。しかし日本にとって審議されなかったことで、戦いの発端の事実を明らかに出来ず、その結果、侵略者の烙印を押されることになる。 <br /><br />その上哀れにも自虐史観こそが戦後の日本人のよすがなのか?よりによって秦徳淳の捏造内容を、戦後日本の政治家・売国歴史家やメディア、それに迎合する多数の国民がそのまま受け入れ「自らを侵略者」としてしまった。 <br /><br />日本人は真実を追究しようとするが、中国人は結果の利得が全てだ。そこに恥も外聞もない。それが彼らの文化であり価値観である。その文化価値観の違いを理解できない、いやどうしても受け入ることが出来ない日本人は、彼らの得意とする嘘八百を、嘘だと百%立証できなければ、それが事実であるかのように認めようとする。認めないまでも「そうかも知れない」という範疇に留まり続ける。いや百%立証できてもまだそれを受け入れない日本人が存在する。 <br /><br />特に自分たちに非がある恐れがある場合は、自虐意識が数倍に高まる。自虐というのは自らの言動に関しての範疇であれば、哀れな趣味だが他者を傷つけたり迷惑を掛けることはない。しかしその対象が自分以外のこと、例えば日本軍や日本国が対象に成れば、際限無くエスカレートする。こんなにも哀しい、そして許されざることがあっていいのだろうか? <br /><br />それを潔癖と言えば聞こえは良いが、自らを善人であると思いたい歪んだ自己満足でしかなく、その罪万死に値する。盧溝橋事件は明らかに中国側が仕組んだものであり、幾ら日本軍が不拡大方針を堅持しようとしても、次から次の策謀が準備されており、それに嵌ってしまったのは止む終えない。 <br /><br />その責任を幾ら日本軍に求めても、頼りない近衛首相に求めても無意味だ。支那とその支那に手を貸した欧米ソ連の策謀は一枚も二枚も上だと言わざるを得ない。やはり欧米及びソ連は、それぞれの思惑の違いはあれ、東アジアで日本・中国が手を結ぶことを恐れたのだと思わざるを得ない。当時日本が提唱した大東亜共栄圏の成立こそが、世界で覇権主義を謳歌していた白人列強には悪夢なのだろう。 <br /><br />今もその世界の構図は変わらない。そして東アジアで中国が台頭してきた今、日本と中国が手を結ぶことは残念ながら有り得ない。それは大東亜共栄圏は日本の主導でのみ可能性がある。何故なら中国人・漢族にはアジアのリーダーとなる道徳的資質も能力もない。そして世界はこれからも昔と同じ構図で続くのだろう。それは白人主導の世界である。 <br /><br />以上 <br /><br /><br />盧溝橋事件に思う<br /><br />http://youtu.be/jzYV5sN3v9Y

    盧溝橋事件・北京にて

    盧溝橋と宛平県城


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    私が思う盧溝橋事件


    還暦を越え戦跡巡りを趣味としている無学歴無能、ただのオッサンである私が、盧溝橋事件の関連本などを読んで思うことを述べる。その思いを動画で公開することに若干の後ろめたさはあるが、今に始まったことでもなく自己満足として趣味として今後も続ける。批判は自由、信用は無用なり。

    1937年昭和12年7月7日 この盧溝橋付近で夜間演習中の日本軍に向けて銃弾が撃ち込まれた。それが宣戦布告なき泥沼の戦いとなった支那事変の始まりとなる。国民革命軍は、国民党の軍隊であるが、ソ連の支援によって組織化され八路軍もその指揮下にあった。当時の中国は、国としても一つの国とはいい難く、軍事組織は一枚岩ではない。誰が何を企み誰の命を受けて動いているのかも定かではない。事件当時北平(北京)付近にそんな国民革命軍、宋哲元軍長が率いる第29師団が10万人以上の規模で駐屯していた。

    支那駐屯日本軍は、天津・北平(北京)など全部あわせても5,600人程度。その内、北支全体で約二千人、北京には五百人ほどの日本軍である。外国軍隊の駐留は1900年の義和団事件の後に結ばれた北京議定書により、英米仏伊などが日本軍同様に駐屯している。その夜の日本軍の夜間演習は135人ほどの中隊規模の演習である。その演習中に中国側から銃弾が撃ち込まれた。

    この時から泥沼の支那事変は始まり8年後の昭和20年8月15日日本の敗戦によって収束した。その後、勝者による裁判となった東京裁判によって盧溝橋での戦いの責任が問われた。そこで中国側証人である秦徳純(しんとくじゅん)が提出した捏造作文は「 日本軍が仕組んだもの」である。しかしその内容があまりに稚拙であり、判決文にはそのまま書き込まれたが審議されなかった。

    そして盧溝橋事件容疑者として収監されていた河辺旅団長や牟田口連隊長は無罪放免となった。それだけでも、中国側の言い分に信憑性のないことが明らかだ。しかし日本にとって審議されなかったことで、戦いの発端の事実を明らかに出来ず、その結果、侵略者の烙印を押されることになる。

    その上哀れにも自虐史観こそが戦後の日本人のよすがなのか?よりによって秦徳淳の捏造内容を、戦後日本の政治家・売国歴史家やメディア、それに迎合する多数の国民がそのまま受け入れ「自らを侵略者」としてしまった。

    日本人は真実を追究しようとするが、中国人は結果の利得が全てだ。そこに恥も外聞もない。それが彼らの文化であり価値観である。その文化価値観の違いを理解できない、いやどうしても受け入ることが出来ない日本人は、彼らの得意とする嘘八百を、嘘だと百%立証できなければ、それが事実であるかのように認めようとする。認めないまでも「そうかも知れない」という範疇に留まり続ける。いや百%立証できてもまだそれを受け入れない日本人が存在する。

    特に自分たちに非がある恐れがある場合は、自虐意識が数倍に高まる。自虐というのは自らの言動に関しての範疇であれば、哀れな趣味だが他者を傷つけたり迷惑を掛けることはない。しかしその対象が自分以外のこと、例えば日本軍や日本国が対象に成れば、際限無くエスカレートする。こんなにも哀しい、そして許されざることがあっていいのだろうか?

    それを潔癖と言えば聞こえは良いが、自らを善人であると思いたい歪んだ自己満足でしかなく、その罪万死に値する。盧溝橋事件は明らかに中国側が仕組んだものであり、幾ら日本軍が不拡大方針を堅持しようとしても、次から次の策謀が準備されており、それに嵌ってしまったのは止む終えない。

    その責任を幾ら日本軍に求めても、頼りない近衛首相に求めても無意味だ。支那とその支那に手を貸した欧米ソ連の策謀は一枚も二枚も上だと言わざるを得ない。やはり欧米及びソ連は、それぞれの思惑の違いはあれ、東アジアで日本・中国が手を結ぶことを恐れたのだと思わざるを得ない。当時日本が提唱した大東亜共栄圏の成立こそが、世界で覇権主義を謳歌していた白人列強には悪夢なのだろう。

    今もその世界の構図は変わらない。そして東アジアで中国が台頭してきた今、日本と中国が手を結ぶことは残念ながら有り得ない。それは大東亜共栄圏は日本の主導でのみ可能性がある。何故なら中国人・漢族にはアジアのリーダーとなる道徳的資質も能力もない。そして世界はこれからも昔と同じ構図で続くのだろう。それは白人主導の世界である。

    以上


    盧溝橋事件に思う

    http://youtu.be/jzYV5sN3v9Y

  • 旅たち前<br /><br />(旧)蒙古聨合自治政府 <br />(旧)首都:張家口 <br /><br />張家口、東升大酒店14階展望レストランより清水河方向を写す <br /><br />2012/平成24年9月22日<br /><br />////////////////////////////////////////////<br /><br />2012.平成24年4月9日(月) <br /><br /><br />■次は張家口へ <br /><br />マニラの旅行記が完成したら、気持ちはすぐに次の戦跡へ。次は・・・。張家口。丸一陣地跡へ行こう。 <br /><br />駐蒙軍司令官・根本博中将は終戦の詔勅のあとも頑なに武装解除を拒み侵攻ソ連軍と戦って、四万人の在日邦人を無事に避難させた。張家口から北方27キロにある丸一陣地でソ連軍と戦い避難の時間を稼いだ。詔勅に反して逆賊となる汚名を恐れずの決断は賞賛に値する。 <br /><br />同胞4万救出作戦<br />http://www2s.biglobe.ne.jp/%257Enippon/jogbd_h16/jog357.html&quot; TARGET=&quot;_BRANK <br /><br />この根本中将の決断と実行とその結果を思えば、満洲の関東軍が8月16日幕僚会議を開いて「ただちに戦闘行動を停止する」と決定したことの間違いが鮮明になる。内蒙古では残留日本人孤児は実質的に皆無だそうだ。 <br /><br />丸一陣地がどこなのか場所の特定は今は出来てない。早く見つけたいけど・・・。 <br /><br />--------------------------------------------------<br /><br />2012.平成24年4月11日(水) <br /><br /><br />■丸一陣地 <br /><br />「戦略将軍 根本博」小松 茂朗(著)<br />「この命、義に捧ぐ」門田 隆将(著)<br />「昭和20年8月20日 日本人を守る最後の戦い」稲垣 武(著)<br />「祖国はるか(三)」門脇 朝秀(著) <br /><br />上記の本や幾らネットで探しても丸一陣地の写真もなければ、戦跡らしき場所もない。「ソ蒙烈士陵園」というのが地図の上に記されているので、其の辺りのようでもあるがそこに陣地跡があるのか何も今の所わからない。張家口の旅行記も少ないし・・・と思っていたが。 <br /><br />そんな時、ネットで下記のHPを見つけ「丸一陣地跡の場所を教えてもらいたい」とメールを送った。同窓会を経由してのメールだったがすぐに本人に連絡をして下さったようで、その旨の返信があった。そしてそのMさんに早速電話を掛けた。 <br /><br />昭和20年、中学生だったMさんは「学徒挺身隊」として「響5331部隊」に入隊し、留守部隊の警備、弾丸弾薬運びをしていた。Mさんも電話では場所を説明しにくいので、私が又質問を整理してから訪ねることにした。今も「張家口の会」がありこの土曜日(14日)に東京で総会があるそうだ。そして秋にツアーを計画しているとのこと。 <br /><br />一人旅が基本の私だが、日程もなにも未定なので「丸一陣地への慰霊」にだけ同行できればと勝手に考えている。Mさんは大淀町の元町長でもあったようだ。思わぬことで次回の戦跡巡りの目途が付いた。さあ次はどんな旅になるのだろう。 <br /><br />故郷紀行<br />http://www.oyodo-h.ed.jp/alumni/contents/katsudou/katsudou.html <br /><br />内蒙古からの脱出<br />http://www.geocities.jp/shougen60/shougen-list/m-S7-2.html <br /><br /><br />---------------------------------------<br /><br />2012.平成24年4月14日(土) <br /><br /><br />■張家口/丸一陣地 <br /><br />今日は鹿蔵叔父さんの位牌にも驚いたが、11日(水)に張家口:丸一陣地のことで電話した大淀町の元町長Mさんが、兄の知り合いだったことが分かりビックリ仰天だった。綾部に行く前に西紀のサービスエリアで待ち合わせレストランで軽食をした。 <br /><br />その時に、私が張家口:丸一陣地の話しをすると、兄も同じようにその陣地を知っている人がいると言い、その人から聞いた話を語りだした。その内容が似ていたので私は冗談半分に「それMさんやろ」というと、「えっ!そうやけど」というので私がまだ半信半疑でフルネームで「M〇〇さん」というと「そうや!」だった。 <br /><br />ホンマにビックリ仰天というしかない。世間はこんなにも狭かったのか?同じ奈良県、同じ中国語講座の生徒同士だったようだ。そして二年ほど前にMさんが体調を壊した時に兄が丸一陣地のことが書かれている本「この命、義に捧ぐ」を見つけ、お見舞いを兼ねてMさんに贈ったという。 <br /><br />そして兄は数年前、その講座の中国人先生や仲間と一緒、Mさんも一緒に張家口周辺を旅したそうだ。ほんまにほんまにほんまに今日はビックリすることばかりなり。今度兄と一緒にMさんを訪ねることにした。きっとMさんも驚くだろう。 <br /><br />-------------------------<br /><br />2012.平成24年4月16日(月) <br /><br /><br />■支那の今昔 <br /><br />終戦後、ソ連侵攻によって満洲では関東軍兵士がシベリアに抑留され、在留邦人が言語に絶する苦難の避難行を余儀なくされた。無事に日本に帰国できた人は幸運の範疇にはいるのだろう。しかし、蒋介石が率いる国民党傘下の地域では敗戦後の様子は満洲と全然違う。 <br /><br />そのことを今まであまり考えたこともなかった。国民党軍・八路軍とも内戦を勝ち抜くために日本軍や日本人を味方に付けたほうが今後の得策だということもあったのだろうが・・・。今との違い、そして蒋介石(Jiang jie shi)についても今回考え直す機会になっている。 <br /><br />蒋介石の言葉「徳を以って恨みに報いる(以徳報怨)」なんて所詮本心とは程遠い偽善に過ぎないと思っていたが、どうも一概にそう言い切れないものがあるかも??と、思うようになった。台湾/本省人粛清の悪名高き二・二八事件は1947年(昭和22年)であり、蒋介石はまだその時大陸にいたということも今初めて知った。 <br /><br />「この命・義に捧ぐ」は根本博中将が蒋介石の恩義に自分の命を捧げるというものであり、当時の日本人の蒋介石に対しての評価に正直驚くとともに、私の思いも半信半疑ながらも変化が出てきた。それは蒋介石一人だけではなく支那人に対しての評価もそうだ。 <br /><br />「義理堅い」というか「まとも」というか・・・今の中国人とは全く別人種であるかのような支那人を感じる。それがこの終戦以降の混乱の一時期に現れている。ソ連との比較をすれば、まだまともな人たちだった。 <br /><br />そのことで思い出したのが、あの満洲龍井の小学校に通っていたIさんが語っていた言葉。「終戦後、日本人に対して冷徹だったのは、どっちかといえば朝鮮人のほうで、まだ満人のほうが優しかった」と言っていた。今度の旅行に備えて根本博中将に関する本を読みながら、私の支那人への思いに変化が出ているのは確かだ。 <br /><br />根本中将が「命を捧げる」くらい蒋介石に感謝したのは、戦争末期、日本の戦後処理に関してルーズベルト・チャーチル・蒋介石のカイロ会談において、後日、蒋介石総統から直接聞いた話として、ルーズベルトから「日本は民主国にして、南北に二分割し、北を米国、南を中国が統治し、天皇制は廃止する」という提案があった。 <br /><br />この時、蒋介石は「私は、日本及び日本人を良く知っている。日本は一国で完全統治しなければ巧くゆかない。また日本人は先祖から精神的な柱として、天皇は絶対必要である」と強く主張した。そしてチャーチルも「英国もデモクラシーの国である。しかしそれでもキングは存在する」と言った。そこで手打ちして現在の姿となったそうである。 <br /><br />もしこれが事実なら蒋介石は敗戦日本の救世主とも言える。敗戦後、武装解除命令に背き、ソ連軍と死闘を演じて四万人の日本人を北京から天津へと無事に避難させ、シベリア抑留も防いだ根本博中将。そして戦後、密航してまで台湾に赴き「この命・義に捧ぐ」を実践し、金門島で中共軍を殲滅した。そんな名将が、「命を捧ぐ」とまで敬意を抱いた人物が蒋介石なのか・・・と。 <br /><br />無論「通州事件」で見られるような支那人の残虐性は言うまでもないが、今まで考えていた支那人と違う支那人が当時は存在していたのかも知れないと思うようになっている。 <br /><br />そして支那人を現在のように道徳心の欠片もなく、物欲と利己主義の塊として世界の嫌われ者にしたのは、共産主義と文化大革命ではないかと思う。共産主義・社会主義は、どうしようもないほど人心を荒廃させる。「平等」などという綺麗ごとの行く末はすべて「醜悪」でしかない。 <br /><br /><br />■根本博中将の逸話 <br /><br />根本中将の逸話は沢山あるが、以下の話もいろんな書物に記されている。 <br /><br />『南京事件:1927年/昭和2年3月(36歳)、南京駐在武官の時に南京事件に遭遇、領事館を襲撃してきた北伐軍暴兵に銃剣を突きつけられ金庫の鍵を開けるように要求されたが「殺されても鍵は渡せない自殺しよう」と、腹と足を銃剣で刺されながらも窓から飛び降りた。しかし落ちたところがトタン屋根の上で、瀕死の重傷を負っていたが、日頃可愛がっていた二人の中国人ボーイに助けられ命拾いをした。』 <br /><br />「世に何事かを成せる大人」と小市民の違いは、やっぱり「いざとなったときの度胸の有無」のような気がする。その究極は命を掛けれるか?否か?ということだろう。分かり易くいえば、その掛けることの出来る大きさによって人の器は決まる。そうではないのか・・・。 <br /><br />金庫の中味がどうであれ、駐在武官が暴兵の恫喝に屈し鍵を渡せば幾ら命は助かっても汚点は残る。危機の瞬間の言動こそが器量だ。その資質の大部分は生まれ持ったものとしか思えない。そして瞬時の判断なので運や吉凶別れることもありそうだと思うのは間違いで、瞬時の時の言動こそ、その人物そのものだ。何があっても言い訳は見苦しい。<br /><br />しかし、この世に生まれ来る命に不要なるものはなし、どんな自分であっても偉人、大人と共に世界を作っている。 <br /><br /><br />----------------------------------<br /><br />2012.平成24年4月17日(火) <br /><br /><br />■「祖国はるか③」門脇朝秀(著) <br /><br />この本の一篇が「敗軍の将なれども」であり、根本中将のことが書かれている。そして二篇が「中ソ国境、葦の茂みに」ということで、昭和20年8月9日、ソ連侵攻後の満ソ国境の悲劇が纏められている。 <br /><br />撫遠・饒河・海青など私がまだ行っていない満ソ国境・東北の果てから生き延びて日本の土を踏んだ人たちの手記である。それを読めば、ソ連軍の残虐非道ぶりは話にもならないが、やはり満人・朝鮮人の態度も満洲以外の大陸からの引揚げとは、何故?こうも違うのかと思わざるをえない。 <br /><br />解放軍と称するソ連軍兵士の暴虐三昧を見て、朝鮮人・満人も、それに倣って良心の呵責もなくエスカレートしたのだろう。最後の関東軍最高司令官:山田乙三大将の決断:侵攻してきたソ連軍と全面対決を避け「大連 - 新京 - 図們」まで防衛線を下げたことはともかく、終戦後早々の武装解除承諾は誤りだった。 <br /><br />結果論だが、もし日本が8月15日に降伏せず、その後も長期に渡って戦うのであれば、防衛線を下げ仕切り直そうとしたことが、正しい戦略であったのかも知れない。その評価は難しいが、終戦後ソ連軍の蛮行を前に邦人保護を放棄し早々の武装解除承諾は最悪だった。根本中将が断固戦った背景は、ソ連軍の傍若無人を予想し意識しての判断だった。山田大将にはその観点がまったく抜けている。 <br /><br />根本中将と山田大将の違いは何ぞや?帝国軍人として、その時の心中に去来した優先順位はなんであったのか?目の前の同胞を見捨てて命令に従順に服すのか?大東亜戦争の戦域は広く、各所において状況は様々だ。敗戦処理の経験がなかったこともあって司令官の人間としての差が出てしまった。 <br /><br />命令に服する前に眼前の同胞を守ることに徹することが第一義だろう。そのために後に責任を問われ死刑に処せられたとしても、その覚悟のあるなしが大陸と満洲の明暗を分けた。 <br /><br />-----------------------------------<br /><br />2012.平成24年4月23日(月) <br /><br /><br />■張北ソ蒙聨軍烈士紀念塔 <br /><br />張家口から北西に27キロ、張北から南に16キロ。そのあたりで昭和20年8月15日の終戦後、張家口を目指すソ蒙連合軍の進撃を阻止した日本軍「響兵団」の死闘があった。その「丸一陣地」を探していたが、中国のホーム頁でその場所を確認できた。 <br /><br />そこに「張北ソ蒙聨軍烈士紀念塔」が建っている。 <br /><br />丸一陣地での戦いを指揮した辻田新太郎少佐によれば「野戦陣地に毛の生えたようなもので、ところどころに拠点としてコンクリート製の機関銃座があるだけだった」ということだが、「モンゴル人民革命軍五十年史」によれば、丸一陣地はまるで永久要塞のように記されている。 <br /><br />『日本帝国主義者は、45万人の中国民間人を駆使し、1935年から1940年にかけて、同地区に要塞兵舎20余の他、大砲及び機関銃陣地36を作っていた。張家口に入る主要道路に沿って掩蔽して作られ、最新の技術を用いて造築された地下交通壕、兵舎、食堂、軍需用品貯蔵庫があった。』・・・その他、延々とこの陣地の強固なることを形容している。 <br /><br />『主力はソ連の機甲部隊と外蒙騎兵隊の混成部隊で、兵員四万二千名、戦車、装甲車合わせて約四百両、迫撃砲等約六百門が駐蒙軍に襲いかかってきた。』・・・こんなソ蒙軍が、この丸一陣地で2500名程の日本軍に進撃を止められた。そしてその間に張家口に集まっていた在留邦人四万人が北京、天津へと避難した。 <br /><br />丸一陣地の場所も写真も探しても見つからずだったが、敵側の記念碑によってその場所が分かった。この秋そこに行く。そして今週、張家口で中学までを過ごした方に会い当時の話を伺うことになった。今、その為の質問事項を列挙している。縁とは不思議なり。根本博中将から張家口、そして丸一陣地に繋がった。 <br /><br /><br />-----------------------------------<br /><br />2012.平成24年4月26日(木) <br /><br /><br />■張家口 <br /><br />奈良のMさん宅に行き張家口:丸一陣地のことを聞いてきた。Mさんは終戦時中学2年生で、学徒動員として親元を離れ「響(ひびき)5331部隊」に配属され警備などに従事していた。 <br /><br />そして8月21日、突如解散命令を受け帰宅。家で待っていたくれた母と妹の三人で最後の避難列車にのり北京・天津を経て日本に無事帰国された。小学校2年生から7年間過ごした張家口はMさんの第二の故郷でもある。その旧居も現在残っているそうだ。 <br /><br />三人(兄・友人)でご自宅にお邪魔し話を伺った。質問事項をプリントして持って行き順番に答えてもらった。しかし折角、ICレコーダーで録音したはずが帰宅後パソコンに取り込んだら最初の数分しか録音できていず残念無念なり。電池を新しく換えて用意万端のはずが、理由は分からない。 <br /><br />でもメモっているし、肝心なことは大体は把握出来たので、それ以上は最早仕方がない。街の真ん中を南北に流れる河、清水河とかいて「せいすいが」:清河「せいが」と呼んでいたそうだ。 <br /><br />四合院で暮らし、暖房は石炭ストーブ一つ。冬は氷点下20度以下になる地域だ。いつもストーブは真っ赤に焼けていたそうだ。風呂は五右衛門風呂。電気製品はラジオのみ。米は近くで美味しい米もできて豊富にあったそうだ。 <br /><br />Mさんは旧城内に住んで周囲は中国人ばかりだった(現在もある)。でも向かいは日本人。張家口には白系ロシア人もそこそこ住んでおり、いろんな仕事をしていた。張家口駅は1945年当時のまま。今は張家口北駅となっている。中学は日本中学。男子高校はなし。学徒動員の服やゲートル、靴などは支給品。 <br /><br />お父さんが自宅にモーゼル銃四丁、実弾箱入りを置いていた。Mさん自身も試射したことは何度もある。弾丸の火薬の量を減らして撃ったら、弾はふらふら飛ぶ。友人の誤射で左上腕部から腕を貫通し、腹部に入り骨盤で跳ね返って腸に何ヶ所も穴が開いた。半身麻酔の手術、一ヵ月半の療養で部隊に復帰する。 <br /><br />そして帰国数年後日本で摘出手術を受ける。その弾丸を今日、見せてもらった。写真を写すのを忘れた。三八銃の弾と同じくらい。手榴弾は中学生には重くそんなに飛ばせない。部隊に配属後すぐに手榴弾二個をもらう。 <br /><br />8月15日玉音放送を30人くらいの同級生と一緒に聞く。天皇陛下の声は初めて聞く。時間は日本と同時刻。その時は意味は分からず。負けたといわれても、こっちでは八路軍に負けなしなので実感は全然なかったそうだ。根本博中将は見たことなし、多分ほとんどの一般市民も知らない。 <br /><br />玉音放送後に根本博中将がマイクを通して在留邦人に呼び掛けたラジオ放送も誰も聴いていない。19日~21日に避難とあるが、その前の14日に脱出した友人家族もいた。張家口に各地から集まってきた避難民の宿泊先は分からない。 <br /><br />8月17日のソ連機の空襲は爆弾投下1発か2発、Mさんも直後に見に行った。支那人の家に落ちて一人、二人死んだらしい。血痕があった。北方学院第一病院は「察南(さつなん)病院」。「蒙疆神社」あとに、今も狛犬がある。それと社務所?ような建物も今そのまま使われている。 <br /><br />アヘンの配給は、お父さんは土木建築の仕事で、中国人労工の多くがアヘン中毒者が多く、アヘンがなければ仕事をしないので必要だった。アヘンはグリコの飴のような感じでキセルに詰めて吸う。 <br /><br />清水河中州で、北白川宮殿下が事故死した時、Mさんもその後を見に行ったそうだ。 <br /><br />張家口の市街地図やその他の資料も頂いた。Mさんたちの「張家口の会」は毎年のように現地旅行を重ねている。今年も8月にツアーがあるそうだ。今も残っている丸一陣地の戦車壕の写真も見せてもらった。さあ、これからボチボチ整理をしよう。今度の旅では、今も明の時代からある城内のMさんの旧居を見つけたい。 <br /><br /><br />

    旅たち前

    (旧)蒙古聨合自治政府
    (旧)首都:張家口

    張家口、東升大酒店14階展望レストランより清水河方向を写す

    2012/平成24年9月22日

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    2012.平成24年4月9日(月)


    ■次は張家口へ

    マニラの旅行記が完成したら、気持ちはすぐに次の戦跡へ。次は・・・。張家口。丸一陣地跡へ行こう。

    駐蒙軍司令官・根本博中将は終戦の詔勅のあとも頑なに武装解除を拒み侵攻ソ連軍と戦って、四万人の在日邦人を無事に避難させた。張家口から北方27キロにある丸一陣地でソ連軍と戦い避難の時間を稼いだ。詔勅に反して逆賊となる汚名を恐れずの決断は賞賛に値する。

    同胞4万救出作戦
    http://www2s.biglobe.ne.jp/%257Enippon/jogbd_h16/jog357.html" TARGET="_BRANK

    この根本中将の決断と実行とその結果を思えば、満洲の関東軍が8月16日幕僚会議を開いて「ただちに戦闘行動を停止する」と決定したことの間違いが鮮明になる。内蒙古では残留日本人孤児は実質的に皆無だそうだ。

    丸一陣地がどこなのか場所の特定は今は出来てない。早く見つけたいけど・・・。

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    2012.平成24年4月11日(水)


    ■丸一陣地

    「戦略将軍 根本博」小松 茂朗(著)
    「この命、義に捧ぐ」門田 隆将(著)
    「昭和20年8月20日 日本人を守る最後の戦い」稲垣 武(著)
    「祖国はるか(三)」門脇 朝秀(著)

    上記の本や幾らネットで探しても丸一陣地の写真もなければ、戦跡らしき場所もない。「ソ蒙烈士陵園」というのが地図の上に記されているので、其の辺りのようでもあるがそこに陣地跡があるのか何も今の所わからない。張家口の旅行記も少ないし・・・と思っていたが。

    そんな時、ネットで下記のHPを見つけ「丸一陣地跡の場所を教えてもらいたい」とメールを送った。同窓会を経由してのメールだったがすぐに本人に連絡をして下さったようで、その旨の返信があった。そしてそのMさんに早速電話を掛けた。

    昭和20年、中学生だったMさんは「学徒挺身隊」として「響5331部隊」に入隊し、留守部隊の警備、弾丸弾薬運びをしていた。Mさんも電話では場所を説明しにくいので、私が又質問を整理してから訪ねることにした。今も「張家口の会」がありこの土曜日(14日)に東京で総会があるそうだ。そして秋にツアーを計画しているとのこと。

    一人旅が基本の私だが、日程もなにも未定なので「丸一陣地への慰霊」にだけ同行できればと勝手に考えている。Mさんは大淀町の元町長でもあったようだ。思わぬことで次回の戦跡巡りの目途が付いた。さあ次はどんな旅になるのだろう。

    故郷紀行
    http://www.oyodo-h.ed.jp/alumni/contents/katsudou/katsudou.html

    内蒙古からの脱出
    http://www.geocities.jp/shougen60/shougen-list/m-S7-2.html


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    2012.平成24年4月14日(土)


    ■張家口/丸一陣地

    今日は鹿蔵叔父さんの位牌にも驚いたが、11日(水)に張家口:丸一陣地のことで電話した大淀町の元町長Mさんが、兄の知り合いだったことが分かりビックリ仰天だった。綾部に行く前に西紀のサービスエリアで待ち合わせレストランで軽食をした。

    その時に、私が張家口:丸一陣地の話しをすると、兄も同じようにその陣地を知っている人がいると言い、その人から聞いた話を語りだした。その内容が似ていたので私は冗談半分に「それMさんやろ」というと、「えっ!そうやけど」というので私がまだ半信半疑でフルネームで「M〇〇さん」というと「そうや!」だった。

    ホンマにビックリ仰天というしかない。世間はこんなにも狭かったのか?同じ奈良県、同じ中国語講座の生徒同士だったようだ。そして二年ほど前にMさんが体調を壊した時に兄が丸一陣地のことが書かれている本「この命、義に捧ぐ」を見つけ、お見舞いを兼ねてMさんに贈ったという。

    そして兄は数年前、その講座の中国人先生や仲間と一緒、Mさんも一緒に張家口周辺を旅したそうだ。ほんまにほんまにほんまに今日はビックリすることばかりなり。今度兄と一緒にMさんを訪ねることにした。きっとMさんも驚くだろう。

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    2012.平成24年4月16日(月)


    ■支那の今昔

    終戦後、ソ連侵攻によって満洲では関東軍兵士がシベリアに抑留され、在留邦人が言語に絶する苦難の避難行を余儀なくされた。無事に日本に帰国できた人は幸運の範疇にはいるのだろう。しかし、蒋介石が率いる国民党傘下の地域では敗戦後の様子は満洲と全然違う。

    そのことを今まであまり考えたこともなかった。国民党軍・八路軍とも内戦を勝ち抜くために日本軍や日本人を味方に付けたほうが今後の得策だということもあったのだろうが・・・。今との違い、そして蒋介石(Jiang jie shi)についても今回考え直す機会になっている。

    蒋介石の言葉「徳を以って恨みに報いる(以徳報怨)」なんて所詮本心とは程遠い偽善に過ぎないと思っていたが、どうも一概にそう言い切れないものがあるかも??と、思うようになった。台湾/本省人粛清の悪名高き二・二八事件は1947年(昭和22年)であり、蒋介石はまだその時大陸にいたということも今初めて知った。

    「この命・義に捧ぐ」は根本博中将が蒋介石の恩義に自分の命を捧げるというものであり、当時の日本人の蒋介石に対しての評価に正直驚くとともに、私の思いも半信半疑ながらも変化が出てきた。それは蒋介石一人だけではなく支那人に対しての評価もそうだ。

    「義理堅い」というか「まとも」というか・・・今の中国人とは全く別人種であるかのような支那人を感じる。それがこの終戦以降の混乱の一時期に現れている。ソ連との比較をすれば、まだまともな人たちだった。

    そのことで思い出したのが、あの満洲龍井の小学校に通っていたIさんが語っていた言葉。「終戦後、日本人に対して冷徹だったのは、どっちかといえば朝鮮人のほうで、まだ満人のほうが優しかった」と言っていた。今度の旅行に備えて根本博中将に関する本を読みながら、私の支那人への思いに変化が出ているのは確かだ。

    根本中将が「命を捧げる」くらい蒋介石に感謝したのは、戦争末期、日本の戦後処理に関してルーズベルト・チャーチル・蒋介石のカイロ会談において、後日、蒋介石総統から直接聞いた話として、ルーズベルトから「日本は民主国にして、南北に二分割し、北を米国、南を中国が統治し、天皇制は廃止する」という提案があった。

    この時、蒋介石は「私は、日本及び日本人を良く知っている。日本は一国で完全統治しなければ巧くゆかない。また日本人は先祖から精神的な柱として、天皇は絶対必要である」と強く主張した。そしてチャーチルも「英国もデモクラシーの国である。しかしそれでもキングは存在する」と言った。そこで手打ちして現在の姿となったそうである。

    もしこれが事実なら蒋介石は敗戦日本の救世主とも言える。敗戦後、武装解除命令に背き、ソ連軍と死闘を演じて四万人の日本人を北京から天津へと無事に避難させ、シベリア抑留も防いだ根本博中将。そして戦後、密航してまで台湾に赴き「この命・義に捧ぐ」を実践し、金門島で中共軍を殲滅した。そんな名将が、「命を捧ぐ」とまで敬意を抱いた人物が蒋介石なのか・・・と。

    無論「通州事件」で見られるような支那人の残虐性は言うまでもないが、今まで考えていた支那人と違う支那人が当時は存在していたのかも知れないと思うようになっている。

    そして支那人を現在のように道徳心の欠片もなく、物欲と利己主義の塊として世界の嫌われ者にしたのは、共産主義と文化大革命ではないかと思う。共産主義・社会主義は、どうしようもないほど人心を荒廃させる。「平等」などという綺麗ごとの行く末はすべて「醜悪」でしかない。


    ■根本博中将の逸話

    根本中将の逸話は沢山あるが、以下の話もいろんな書物に記されている。

    『南京事件:1927年/昭和2年3月(36歳)、南京駐在武官の時に南京事件に遭遇、領事館を襲撃してきた北伐軍暴兵に銃剣を突きつけられ金庫の鍵を開けるように要求されたが「殺されても鍵は渡せない自殺しよう」と、腹と足を銃剣で刺されながらも窓から飛び降りた。しかし落ちたところがトタン屋根の上で、瀕死の重傷を負っていたが、日頃可愛がっていた二人の中国人ボーイに助けられ命拾いをした。』

    「世に何事かを成せる大人」と小市民の違いは、やっぱり「いざとなったときの度胸の有無」のような気がする。その究極は命を掛けれるか?否か?ということだろう。分かり易くいえば、その掛けることの出来る大きさによって人の器は決まる。そうではないのか・・・。

    金庫の中味がどうであれ、駐在武官が暴兵の恫喝に屈し鍵を渡せば幾ら命は助かっても汚点は残る。危機の瞬間の言動こそが器量だ。その資質の大部分は生まれ持ったものとしか思えない。そして瞬時の判断なので運や吉凶別れることもありそうだと思うのは間違いで、瞬時の時の言動こそ、その人物そのものだ。何があっても言い訳は見苦しい。

    しかし、この世に生まれ来る命に不要なるものはなし、どんな自分であっても偉人、大人と共に世界を作っている。


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    2012.平成24年4月17日(火)


    ■「祖国はるか③」門脇朝秀(著)

    この本の一篇が「敗軍の将なれども」であり、根本中将のことが書かれている。そして二篇が「中ソ国境、葦の茂みに」ということで、昭和20年8月9日、ソ連侵攻後の満ソ国境の悲劇が纏められている。

    撫遠・饒河・海青など私がまだ行っていない満ソ国境・東北の果てから生き延びて日本の土を踏んだ人たちの手記である。それを読めば、ソ連軍の残虐非道ぶりは話にもならないが、やはり満人・朝鮮人の態度も満洲以外の大陸からの引揚げとは、何故?こうも違うのかと思わざるをえない。

    解放軍と称するソ連軍兵士の暴虐三昧を見て、朝鮮人・満人も、それに倣って良心の呵責もなくエスカレートしたのだろう。最後の関東軍最高司令官:山田乙三大将の決断:侵攻してきたソ連軍と全面対決を避け「大連 - 新京 - 図們」まで防衛線を下げたことはともかく、終戦後早々の武装解除承諾は誤りだった。

    結果論だが、もし日本が8月15日に降伏せず、その後も長期に渡って戦うのであれば、防衛線を下げ仕切り直そうとしたことが、正しい戦略であったのかも知れない。その評価は難しいが、終戦後ソ連軍の蛮行を前に邦人保護を放棄し早々の武装解除承諾は最悪だった。根本中将が断固戦った背景は、ソ連軍の傍若無人を予想し意識しての判断だった。山田大将にはその観点がまったく抜けている。

    根本中将と山田大将の違いは何ぞや?帝国軍人として、その時の心中に去来した優先順位はなんであったのか?目の前の同胞を見捨てて命令に従順に服すのか?大東亜戦争の戦域は広く、各所において状況は様々だ。敗戦処理の経験がなかったこともあって司令官の人間としての差が出てしまった。

    命令に服する前に眼前の同胞を守ることに徹することが第一義だろう。そのために後に責任を問われ死刑に処せられたとしても、その覚悟のあるなしが大陸と満洲の明暗を分けた。

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    2012.平成24年4月23日(月)


    ■張北ソ蒙聨軍烈士紀念塔

    張家口から北西に27キロ、張北から南に16キロ。そのあたりで昭和20年8月15日の終戦後、張家口を目指すソ蒙連合軍の進撃を阻止した日本軍「響兵団」の死闘があった。その「丸一陣地」を探していたが、中国のホーム頁でその場所を確認できた。

    そこに「張北ソ蒙聨軍烈士紀念塔」が建っている。

    丸一陣地での戦いを指揮した辻田新太郎少佐によれば「野戦陣地に毛の生えたようなもので、ところどころに拠点としてコンクリート製の機関銃座があるだけだった」ということだが、「モンゴル人民革命軍五十年史」によれば、丸一陣地はまるで永久要塞のように記されている。

    『日本帝国主義者は、45万人の中国民間人を駆使し、1935年から1940年にかけて、同地区に要塞兵舎20余の他、大砲及び機関銃陣地36を作っていた。張家口に入る主要道路に沿って掩蔽して作られ、最新の技術を用いて造築された地下交通壕、兵舎、食堂、軍需用品貯蔵庫があった。』・・・その他、延々とこの陣地の強固なることを形容している。

    『主力はソ連の機甲部隊と外蒙騎兵隊の混成部隊で、兵員四万二千名、戦車、装甲車合わせて約四百両、迫撃砲等約六百門が駐蒙軍に襲いかかってきた。』・・・こんなソ蒙軍が、この丸一陣地で2500名程の日本軍に進撃を止められた。そしてその間に張家口に集まっていた在留邦人四万人が北京、天津へと避難した。

    丸一陣地の場所も写真も探しても見つからずだったが、敵側の記念碑によってその場所が分かった。この秋そこに行く。そして今週、張家口で中学までを過ごした方に会い当時の話を伺うことになった。今、その為の質問事項を列挙している。縁とは不思議なり。根本博中将から張家口、そして丸一陣地に繋がった。


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    2012.平成24年4月26日(木)


    ■張家口

    奈良のMさん宅に行き張家口:丸一陣地のことを聞いてきた。Mさんは終戦時中学2年生で、学徒動員として親元を離れ「響(ひびき)5331部隊」に配属され警備などに従事していた。

    そして8月21日、突如解散命令を受け帰宅。家で待っていたくれた母と妹の三人で最後の避難列車にのり北京・天津を経て日本に無事帰国された。小学校2年生から7年間過ごした張家口はMさんの第二の故郷でもある。その旧居も現在残っているそうだ。

    三人(兄・友人)でご自宅にお邪魔し話を伺った。質問事項をプリントして持って行き順番に答えてもらった。しかし折角、ICレコーダーで録音したはずが帰宅後パソコンに取り込んだら最初の数分しか録音できていず残念無念なり。電池を新しく換えて用意万端のはずが、理由は分からない。

    でもメモっているし、肝心なことは大体は把握出来たので、それ以上は最早仕方がない。街の真ん中を南北に流れる河、清水河とかいて「せいすいが」:清河「せいが」と呼んでいたそうだ。

    四合院で暮らし、暖房は石炭ストーブ一つ。冬は氷点下20度以下になる地域だ。いつもストーブは真っ赤に焼けていたそうだ。風呂は五右衛門風呂。電気製品はラジオのみ。米は近くで美味しい米もできて豊富にあったそうだ。

    Mさんは旧城内に住んで周囲は中国人ばかりだった(現在もある)。でも向かいは日本人。張家口には白系ロシア人もそこそこ住んでおり、いろんな仕事をしていた。張家口駅は1945年当時のまま。今は張家口北駅となっている。中学は日本中学。男子高校はなし。学徒動員の服やゲートル、靴などは支給品。

    お父さんが自宅にモーゼル銃四丁、実弾箱入りを置いていた。Mさん自身も試射したことは何度もある。弾丸の火薬の量を減らして撃ったら、弾はふらふら飛ぶ。友人の誤射で左上腕部から腕を貫通し、腹部に入り骨盤で跳ね返って腸に何ヶ所も穴が開いた。半身麻酔の手術、一ヵ月半の療養で部隊に復帰する。

    そして帰国数年後日本で摘出手術を受ける。その弾丸を今日、見せてもらった。写真を写すのを忘れた。三八銃の弾と同じくらい。手榴弾は中学生には重くそんなに飛ばせない。部隊に配属後すぐに手榴弾二個をもらう。

    8月15日玉音放送を30人くらいの同級生と一緒に聞く。天皇陛下の声は初めて聞く。時間は日本と同時刻。その時は意味は分からず。負けたといわれても、こっちでは八路軍に負けなしなので実感は全然なかったそうだ。根本博中将は見たことなし、多分ほとんどの一般市民も知らない。

    玉音放送後に根本博中将がマイクを通して在留邦人に呼び掛けたラジオ放送も誰も聴いていない。19日~21日に避難とあるが、その前の14日に脱出した友人家族もいた。張家口に各地から集まってきた避難民の宿泊先は分からない。

    8月17日のソ連機の空襲は爆弾投下1発か2発、Mさんも直後に見に行った。支那人の家に落ちて一人、二人死んだらしい。血痕があった。北方学院第一病院は「察南(さつなん)病院」。「蒙疆神社」あとに、今も狛犬がある。それと社務所?ような建物も今そのまま使われている。

    アヘンの配給は、お父さんは土木建築の仕事で、中国人労工の多くがアヘン中毒者が多く、アヘンがなければ仕事をしないので必要だった。アヘンはグリコの飴のような感じでキセルに詰めて吸う。

    清水河中州で、北白川宮殿下が事故死した時、Mさんもその後を見に行ったそうだ。

    張家口の市街地図やその他の資料も頂いた。Mさんたちの「張家口の会」は毎年のように現地旅行を重ねている。今年も8月にツアーがあるそうだ。今も残っている丸一陣地の戦車壕の写真も見せてもらった。さあ、これからボチボチ整理をしよう。今度の旅では、今も明の時代からある城内のMさんの旧居を見つけたい。


  • 反日デモの首謀者は警察官? <br /><br />男は日の丸の上にバツが描かれたTシャツを着ている。<br />防弾チョッキと警察官が使用するイヤホンを身につけている。 <br /><br />画像をアップしたのは、“足元”である中国のネットユーザーだ。<br />「この男を注意して見てみろ。デモのリーダーの一人で、日本製の車をひっくりかえしていた」<br />とコメントを添えて、新浪微博(中国のミニブログ)にその旨を書きこんだところ、<br />数時間後には削除されたとのこと。 <br /><br />http://getnews.jp/archives/252224 <br /><br /><br />////////////////////////////////<br /><br />2012.平成24年5月9日(水) <br /><br />■旅行の日程決まる <br /><br />関空⇔北京の格安航空券を手に入れた。それに際して、出発日と帰国日を決めた。出発は9月18日(火)、帰国は9月27日(木)の9泊10日とする。 <br /><br />ヤフーの格安航空券は、「関空⇔北京」で検索すれば、いつでも期日に拘わらず「1万3千円台」の超安値が表示されているが、実際電話で問い合わせると、その安値に割り当てられている席は二、三席ですでにその切符はない。 <br /><br />結局、関空から煙台・経由・北京の乗り継ぎで全て含む計33,500円で往復切符を手に入れた。昨日電話で申し込み、振込み期日一日ということで早速ネットバンクから振込み、今日夕方メールに添付してEチケットが手に入った。さあ、これから中味を詰めていかなければ・・・。 <br /><br />チームトラベルクラモト<br />http://team-travel.co.jp/ <br /><br />2月にマニラに旅をし、帰国して旅行記を完成した直後から次の旅が始まった。今の時点では、「北京→張家口→鶏鳴山→北京」・・・この範囲で、丸一陣地・張北・盧溝橋の戦跡を巡ろうと思っている。どうなることか。 <br /><br />中国東方航空 <br /><br />出発日:2012年9月18日:MU278:関空/16:10 →煙台→19:30/北京<br />帰国日:2012年9月27日:MU277:北京/09:55 →煙台→15:10/関空 <br /><br />航空券代金¥16,500<br />国内空港施設使用料¥2,650<br />海外空港税¥1,400<br />航空保険料¥800<br />燃油特別付加運賃¥9,000*原油価格の変動で変更の可能性有<br />取扱手数料¥3,150 <br /><br />合計請求金額¥33,500 <br /><br /><br />-----------------------------------<br /><br />2012.平成24年5月14日(月) <br /><br /><br />■Mさんからの手紙 <br /><br />先日、中学2年まで張家口で暮らした奈良のMさんから手紙を頂いた。その中にはMさんが中学2年まで暮らした張家口の旧居の持ち主へのお土産代まで入っていた。そしてMさんの知人の旅行会社の社長さんやホテルの紹介と気配り一杯の内容である。 <br /><br />そして私はその手紙の感謝とともに又張家口のことについての質問事項を書き、14日夜に電話をすることを書き送っていた。今日はその日で、約束どおりMさん方に電話をしたら質問の回答は、すでに当方宛に書き送ってくれたとのことだった。 <br /><br />それに加えての質問もあったので電話でいろいろ聞いた。<br />//////////////////////////////////////////////<br />Mさんの家があった堡子里(橋西区)は、当時「城内」と呼ばれていた。そして橋の東は「市内」。大原橋(現在:解放橋)を渡って第一国民学校に通っていた。城内は東西南北の門があったが、東と南に立派な門があった。 <br /><br />北門には寺がありそこでは少年が青龍刀などを使った武術をしていた。日本人は誰もしていない。お寺はそのままある。鶏鳴山は下花園⇔砂城の間で、当時鶏鳴山の長城には赤い寺があった。その寺は文革で破壊されたようだ。<br />////////////////////////////////////////////// <br /><br />一応質問事項を箇条書きしておくのだけど、電話を切ったあとから聞きたいことが次々と出てくる。Mさんは丁寧に答えてくれた。そして今後も「何でも気兼ねせずに聞いて下さい」と言ってもらった。また質問したいことを書き溜めておこう。 <br /><br />すでに関空⇔北京の航空券は手配した。私の張家口への旅はとっくに始まっている。 <br /><br /><br />--------------------------------------<br /><br />2012.平成24年5月25日(金) <br /><br />■張家口 <br /><br />奈良のMさんから、写真を貼り付けての手作り資料を送付してもらった。そして、今日も電話を頂き、張家口で合弁事業をしている方(日本の観光会社の社長:日本人)に、向こうでのタクシーを紹介してもらえるように手配して下さったとのこと。戦跡巡りなので、その方面に詳しい運転手を紹介してくれるようだ。 <br /><br />まだ9月のことで航空券はすでに手元にあるけど、到着日と帰国日が決まっているだけで内容は何一つ決まっていない。今回のようなケースも初めてなので、それをありがたく生かして有意義な旅にしたい。一体どんな旅になるのやら・・・。Mさんに少しは喜んでもらえうように気合を入れて「旅行記」and「動画」を作りたい。頑張ろう! <br /><br />今日もついでに一つ質問をした。<br />Mさんが住んでいた城内から見える山「賜爾山(Ci er shan:ツーアールシャン)」は、日本人もこの山のことを「ツーアールシャン」と中国語読みで呼んでいたそうだ。山の上にあったお寺は、今と違って小さく、その寺院を含めて「ツーアールシャン」と呼んでいたとのこと。 <br /><br />そして今はもうないようだが、当時は洞窟が二つあり一つには夏でも氷が張っていたという。洞窟の中の氷は私も要塞巡りで経験した。2009:平成21年5月19日(火)に虎頭の「猛虎山の要塞」の洞窟跡の一つにびっしり氷が張り詰められていたことを思い出した。 <br /><br /><br />--------------------------------<br /><br />2012.平成24年6月4日(月) <br /><br /><br />■張家口への旅に備えて <br /><br />丸一陣地でのソ蒙軍との戦いの状況は大体分かった。その前後のこともある程度は把握できた。そこで私の旅に備えての頭の準備は停止状態となっている。 <br /><br />まだ三ヶ月以上先なので、という気持ちがどこかにあり集中できなくなっている。結局、期日が迫ってからでないと準備完了とはなりそうにない。それも完了とはほど遠い不完全・中途半端な状態での出発となるのだろう。 <br /><br />集中できない自分にイライラする。せっかく十分に時間がありながら無為にその時間を費やすばかり。まあ我ながらこんなものかと現実の自分を改めて思う。物事に集中出来ないのは年齢のせいか?スタミナの衰えなのか?元よりこんなものだったのか?以前はもうちょっとましだったような気がするけど。 <br /><br />したいこと、しなければならないこと、あれもこれもとあるのに、まったくもってはかどらない。 <br /><br /><br />----------------------------------<br /><br />2012.平成24年6月15日(金) <br /><br /><br />■「虎口の難/義和団事件始末記」:高橋長敏(著) <br /><br />今秋、張家口への旅で北京に行くので、義和団事件についての本を読んでいる。この本は小説だが、当時の様子が分かって面白い。柴五郎中佐の下で共に戦った日本人有志で構成された遊撃隊の話が中心である。 <br /><br />遊撃隊に参加している日本人は、昔泥棒稼業で大陸に流れ着いた者やいろんな訳あり連中の寄せ集めだが彼らは正規の兵士に劣らず、いや志願しての参加なので驚くほど勇敢だ。北京では「盧溝橋事件」と「義和団事件」の戦跡を訪ねるつもりだ。やはりこれらの事件も大雑把な概要くらいは知っているが詳しくは知らない。 <br /><br />「義和団事件」は1900年明治33年のことか・・・。日露戦争開戦まであと4年、その時この事件は起こった。まだまだ時系列に沿って歴史の流れを掴むことは出来ないが、ちょっとづつでも知識は増え、「そうだったのか」と新たに分かることが多い。 <br /><br />黒河の対岸、ブラゴヴェシチェンスクでの清国人虐殺(1900/7月16日)も同じ時期にあった。そこには柴五郎中佐を慕う石光真清が諜報員として滞在していた。日本人の誰もが国のために命を惜しまず生きていた時代である。義和団と戦った遊撃隊の日本人の心根にもそれが“ぶれず”にある。 <br /><br />そしてこの本の中に以下の一文がある<br />『アナーキ(無政府主義者)というものは、極端なる平和主義で反戦主義である。国家に危機を招くものだ。長すぎる平和は贅沢や官僚の腐敗、悪政をつくる原因ともなるし、私欲を生む基になる』 <br /><br />戦後67年を経た今の日本をそのまま表している。今の日本人の多くは日本という国に帰属していることを忘れ、市民や個人があるだけになってしまっている。全くの「地球市民」「世界市民」かのようで、極端な平和主義なのか?無責任なのか?生活保護を外国人に支給し、地方選挙権さえ外国人に与えようとしている。 <br /><br />まさに国家の危機を招いている。地球市民として個人の豊かさと権利さえ確保していれば、国の誇りも名誉も義務も、国家の将来に対しての責任も眼中にないが如くである。上記の一文は、百年以上前の1900年、北京の遊撃隊の日本人同士の議論のなかで交わされている言葉として書かれている。 <br /><br />知らない間に日本は民主党に政権を委ね無政府主義の国へと加速した。このまま泥沼に沈み込むのか?それとも目覚めて現実を直視し、日本国あっての日本人であることを認識するのか?日本と言う自分の国を優先せず支那朝鮮・在日外国人への過剰で異常な配慮と優遇は、日本だけではなく相互の利益には決してならない。国益を損ない真っ当な日本人の不満を募らせるだけである。 <br /><br />日本軍人の義和団動乱における戦没者数は「1256柱」であったと、靖國神社広報部の発表である。 <br /><br /><br />-----------------------------------<br /><br />2012.平成24年6月22日(金) <br /><br /><br />■義和団事件:「籠城戦」 <br /><br />映画「北京の55日」は、主役のチャールトン・ヘストン演じる米海兵隊ルイス少佐の活躍が中心である。無論それは米国映画なので致し方ないが、事実籠城戦の中心を成し死傷者も一番多かった日本軍のあまりの影の薄さに苛立ったが、ウィキペディアに以下のようなことが記されていた。 <br /><br />米海兵隊の活躍:「義和団の乱」 <br /><br />『柴大佐が報告書の中でアメリカ軍人の活躍を賞賛しているし、柴の部下、守田利遠中尉は、「列国中もっとも強きは米国の兵なり。米兵の強さは蛮勇的な強さに非ずして、よくその義務を守るという一点において強し。これまさに文明国の兵というべし。」と絶賛している』 <br /><br />「イギリス・アメリカ・ロシア・フランス・ドイツ・オーストリア=ハンガリー・イタリア・日本」の八ヶ国、総勢約2万人弱の混成軍の中で、日本軍人が米兵士をの戦いぶりをこのように評価しているとは知らなかった。ロシア兵の程度の悪い傍若無人ぶりはこの時もそうであったようだが。 <br /><br /><br />-------------------------------<br /><br />2012.平成24年7月4日(水) <br /><br /><br />■盧溝橋事件 <br /><br />今秋の旅で北京行くので、この機会に「義和団事件」だけではなく「盧溝橋事件」のことも初めて勉強している。事件や事変と名がつくもので、日本が巻き込まれたことのほとんどが、戦後日本に加害者としての責任があるように言われているが、真相はその真逆だということが良く分かる。 <br /><br />今の所、自分なりに真相に迫って、それで「日本が加害者、日本が悪い」と思うことはなにもない。いつも戦争のことを考える。戦争を考えるのは面白い。これくらい国も国民も必死になることはないから。特に大東亜戦争は国家国民あげての総力戦だ。これ以上の凄みは無い。 <br /><br />「能天気な平和、長すぎる平和は、人間が腐敗し、悪政がはびこり、私欲を膨らませる」・・・これが平和の代償である。戦争はその反対で「人間が輝き、自己犠牲が尊ばれ、私心がなくなる」 戦争は悲惨であるが英雄を輩出し輝く歴史を作る。平和は楽だが世の中も人心も腐る。 <br /><br />どっちをとるのか?そりゃあ幾ら人間が腐っても平和を選択する。切り刻まれて殺害されたり、釜茹でのように残酷に殺されたり、拷問に掛けられたり、そんな非業の死を想像すれば戦争は恐怖でしかない。ましてや我が子や孫に戦争を体験させるなど考えることは出来ない。 <br /><br />戦争は極力避けたい。しかし平和ゆえに腐った世の中で人生を終えるのも空しさが募る。それが普通の良識ある人間だと思う。だからこそ私は国を守るために戦った先人を非難することなど絶対に出来ない。 <br /><br />盧溝橋事件は、普通に当時の状況を分析すれば、日本軍が仕掛けたことはあり得ず。「盧溝橋事件・日中開戦の実相」岡野篤夫(著)を読むだけでも明らかだ。支那の言い分などバカバカしくて話しにもならない。支那の性根は今も昔もまったく同じだ。そんな奴等の嘘八百を真に受ける日本人は愚かを通り越して国賊でしかない。 <br /><br /><br />---------------------------------<br /><br />2012.平成24年7月16日(月) <br /><br /><br />■盧溝橋事件 <br /><br />「盧溝橋事件:日中開戦の実相」岡野篤夫(著)と「日本の悲劇:盧溝橋事件」寺平忠輔(著)・・・この二冊の本を読めば真相が分かる。 <br /><br />共に事件の当事者であり、寺平氏に至っては、事件の渦中で中国側と体を張って停戦調停を結んだその人物である。最高責任者ではないが現場での実務者だ。これらは本というより一級資料であり歴史の真相を詳しく記録しているものだ。 <br /><br />こんな本がありながら、今もって盧溝橋事件の真実が日本国民に周知徹底されていないことを嘆くしかない。一読すればその全貌も細部も分かり、誤解もなにも起こり得ないはずだ。「真相は歴史の闇」なんてことは有り得ない。 <br /><br />そして今も昔も中国人の停戦調停に臨む交渉態度も、その後の経過も、今の日中交渉とまったく同じであり、奴等とはまともな交渉や約束は無理だ。そこに唯一あるのは「力で奴等を押さえるしかない」ということである。 <br /><br />盧溝橋事件後の不拡大方針を健気に遵守しようとする日本軍と、はなからそんなもの守る気も無い中国軍とでは交渉は形だけで成立しない。幾ら粘り強く話し合っても、誠意を示しても、奴等にあるのは、隙あらば相手をやっつけようという下心だけだ。その隙のない時だけ奴等は媚を浮かべて平気で擦り寄る。 <br /><br />「恥も外聞もない」のは彼らの文化であり、それを認知し、それに即した対応しかない。奴等ともめたくなければ、ただ一つ「軍事力の優位」を見せつけ、奴等の戦意を挫くことだけだ。尖閣問題も盧溝橋事件もまったく同じであり、船を「自ら当てておいて、当てられた」というのが奴等だ。 <br /><br />これで交渉になると思うほうが馬鹿でしかない。人間の愚かさを思う。日本人と中国人、「まともな人間」と「どうしようもない人間」、幾らその内容に天地の差があろうとも、やってることは共に歴史に学べず同じ事を繰り返す。人間というのは結局同じ“むじな”なのか? <br /><br /><br /><br /><br />

    反日デモの首謀者は警察官?

    男は日の丸の上にバツが描かれたTシャツを着ている。
    防弾チョッキと警察官が使用するイヤホンを身につけている。

    画像をアップしたのは、“足元”である中国のネットユーザーだ。
    「この男を注意して見てみろ。デモのリーダーの一人で、日本製の車をひっくりかえしていた」
    とコメントを添えて、新浪微博(中国のミニブログ)にその旨を書きこんだところ、
    数時間後には削除されたとのこと。

    http://getnews.jp/archives/252224


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    2012.平成24年5月9日(水)

    ■旅行の日程決まる

    関空⇔北京の格安航空券を手に入れた。それに際して、出発日と帰国日を決めた。出発は9月18日(火)、帰国は9月27日(木)の9泊10日とする。

    ヤフーの格安航空券は、「関空⇔北京」で検索すれば、いつでも期日に拘わらず「1万3千円台」の超安値が表示されているが、実際電話で問い合わせると、その安値に割り当てられている席は二、三席ですでにその切符はない。

    結局、関空から煙台・経由・北京の乗り継ぎで全て含む計33,500円で往復切符を手に入れた。昨日電話で申し込み、振込み期日一日ということで早速ネットバンクから振込み、今日夕方メールに添付してEチケットが手に入った。さあ、これから中味を詰めていかなければ・・・。

    チームトラベルクラモト
    http://team-travel.co.jp/

    2月にマニラに旅をし、帰国して旅行記を完成した直後から次の旅が始まった。今の時点では、「北京→張家口→鶏鳴山→北京」・・・この範囲で、丸一陣地・張北・盧溝橋の戦跡を巡ろうと思っている。どうなることか。

    中国東方航空

    出発日:2012年9月18日:MU278:関空/16:10 →煙台→19:30/北京
    帰国日:2012年9月27日:MU277:北京/09:55 →煙台→15:10/関空

    航空券代金¥16,500
    国内空港施設使用料¥2,650
    海外空港税¥1,400
    航空保険料¥800
    燃油特別付加運賃¥9,000*原油価格の変動で変更の可能性有
    取扱手数料¥3,150

    合計請求金額¥33,500


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    2012.平成24年5月14日(月)


    ■Mさんからの手紙

    先日、中学2年まで張家口で暮らした奈良のMさんから手紙を頂いた。その中にはMさんが中学2年まで暮らした張家口の旧居の持ち主へのお土産代まで入っていた。そしてMさんの知人の旅行会社の社長さんやホテルの紹介と気配り一杯の内容である。

    そして私はその手紙の感謝とともに又張家口のことについての質問事項を書き、14日夜に電話をすることを書き送っていた。今日はその日で、約束どおりMさん方に電話をしたら質問の回答は、すでに当方宛に書き送ってくれたとのことだった。

    それに加えての質問もあったので電話でいろいろ聞いた。
    //////////////////////////////////////////////
    Mさんの家があった堡子里(橋西区)は、当時「城内」と呼ばれていた。そして橋の東は「市内」。大原橋(現在:解放橋)を渡って第一国民学校に通っていた。城内は東西南北の門があったが、東と南に立派な門があった。

    北門には寺がありそこでは少年が青龍刀などを使った武術をしていた。日本人は誰もしていない。お寺はそのままある。鶏鳴山は下花園⇔砂城の間で、当時鶏鳴山の長城には赤い寺があった。その寺は文革で破壊されたようだ。
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    一応質問事項を箇条書きしておくのだけど、電話を切ったあとから聞きたいことが次々と出てくる。Mさんは丁寧に答えてくれた。そして今後も「何でも気兼ねせずに聞いて下さい」と言ってもらった。また質問したいことを書き溜めておこう。

    すでに関空⇔北京の航空券は手配した。私の張家口への旅はとっくに始まっている。


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    2012.平成24年5月25日(金)

    ■張家口

    奈良のMさんから、写真を貼り付けての手作り資料を送付してもらった。そして、今日も電話を頂き、張家口で合弁事業をしている方(日本の観光会社の社長:日本人)に、向こうでのタクシーを紹介してもらえるように手配して下さったとのこと。戦跡巡りなので、その方面に詳しい運転手を紹介してくれるようだ。

    まだ9月のことで航空券はすでに手元にあるけど、到着日と帰国日が決まっているだけで内容は何一つ決まっていない。今回のようなケースも初めてなので、それをありがたく生かして有意義な旅にしたい。一体どんな旅になるのやら・・・。Mさんに少しは喜んでもらえうように気合を入れて「旅行記」and「動画」を作りたい。頑張ろう!

    今日もついでに一つ質問をした。
    Mさんが住んでいた城内から見える山「賜爾山(Ci er shan:ツーアールシャン)」は、日本人もこの山のことを「ツーアールシャン」と中国語読みで呼んでいたそうだ。山の上にあったお寺は、今と違って小さく、その寺院を含めて「ツーアールシャン」と呼んでいたとのこと。

    そして今はもうないようだが、当時は洞窟が二つあり一つには夏でも氷が張っていたという。洞窟の中の氷は私も要塞巡りで経験した。2009:平成21年5月19日(火)に虎頭の「猛虎山の要塞」の洞窟跡の一つにびっしり氷が張り詰められていたことを思い出した。


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    2012.平成24年6月4日(月)


    ■張家口への旅に備えて

    丸一陣地でのソ蒙軍との戦いの状況は大体分かった。その前後のこともある程度は把握できた。そこで私の旅に備えての頭の準備は停止状態となっている。

    まだ三ヶ月以上先なので、という気持ちがどこかにあり集中できなくなっている。結局、期日が迫ってからでないと準備完了とはなりそうにない。それも完了とはほど遠い不完全・中途半端な状態での出発となるのだろう。

    集中できない自分にイライラする。せっかく十分に時間がありながら無為にその時間を費やすばかり。まあ我ながらこんなものかと現実の自分を改めて思う。物事に集中出来ないのは年齢のせいか?スタミナの衰えなのか?元よりこんなものだったのか?以前はもうちょっとましだったような気がするけど。

    したいこと、しなければならないこと、あれもこれもとあるのに、まったくもってはかどらない。


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    2012.平成24年6月15日(金)


    ■「虎口の難/義和団事件始末記」:高橋長敏(著)

    今秋、張家口への旅で北京に行くので、義和団事件についての本を読んでいる。この本は小説だが、当時の様子が分かって面白い。柴五郎中佐の下で共に戦った日本人有志で構成された遊撃隊の話が中心である。

    遊撃隊に参加している日本人は、昔泥棒稼業で大陸に流れ着いた者やいろんな訳あり連中の寄せ集めだが彼らは正規の兵士に劣らず、いや志願しての参加なので驚くほど勇敢だ。北京では「盧溝橋事件」と「義和団事件」の戦跡を訪ねるつもりだ。やはりこれらの事件も大雑把な概要くらいは知っているが詳しくは知らない。

    「義和団事件」は1900年明治33年のことか・・・。日露戦争開戦まであと4年、その時この事件は起こった。まだまだ時系列に沿って歴史の流れを掴むことは出来ないが、ちょっとづつでも知識は増え、「そうだったのか」と新たに分かることが多い。

    黒河の対岸、ブラゴヴェシチェンスクでの清国人虐殺(1900/7月16日)も同じ時期にあった。そこには柴五郎中佐を慕う石光真清が諜報員として滞在していた。日本人の誰もが国のために命を惜しまず生きていた時代である。義和団と戦った遊撃隊の日本人の心根にもそれが“ぶれず”にある。

    そしてこの本の中に以下の一文がある
    『アナーキ(無政府主義者)というものは、極端なる平和主義で反戦主義である。国家に危機を招くものだ。長すぎる平和は贅沢や官僚の腐敗、悪政をつくる原因ともなるし、私欲を生む基になる』

    戦後67年を経た今の日本をそのまま表している。今の日本人の多くは日本という国に帰属していることを忘れ、市民や個人があるだけになってしまっている。全くの「地球市民」「世界市民」かのようで、極端な平和主義なのか?無責任なのか?生活保護を外国人に支給し、地方選挙権さえ外国人に与えようとしている。

    まさに国家の危機を招いている。地球市民として個人の豊かさと権利さえ確保していれば、国の誇りも名誉も義務も、国家の将来に対しての責任も眼中にないが如くである。上記の一文は、百年以上前の1900年、北京の遊撃隊の日本人同士の議論のなかで交わされている言葉として書かれている。

    知らない間に日本は民主党に政権を委ね無政府主義の国へと加速した。このまま泥沼に沈み込むのか?それとも目覚めて現実を直視し、日本国あっての日本人であることを認識するのか?日本と言う自分の国を優先せず支那朝鮮・在日外国人への過剰で異常な配慮と優遇は、日本だけではなく相互の利益には決してならない。国益を損ない真っ当な日本人の不満を募らせるだけである。

    日本軍人の義和団動乱における戦没者数は「1256柱」であったと、靖國神社広報部の発表である。


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    2012.平成24年6月22日(金)


    ■義和団事件:「籠城戦」

    映画「北京の55日」は、主役のチャールトン・ヘストン演じる米海兵隊ルイス少佐の活躍が中心である。無論それは米国映画なので致し方ないが、事実籠城戦の中心を成し死傷者も一番多かった日本軍のあまりの影の薄さに苛立ったが、ウィキペディアに以下のようなことが記されていた。

    米海兵隊の活躍:「義和団の乱」

    『柴大佐が報告書の中でアメリカ軍人の活躍を賞賛しているし、柴の部下、守田利遠中尉は、「列国中もっとも強きは米国の兵なり。米兵の強さは蛮勇的な強さに非ずして、よくその義務を守るという一点において強し。これまさに文明国の兵というべし。」と絶賛している』

    「イギリス・アメリカ・ロシア・フランス・ドイツ・オーストリア=ハンガリー・イタリア・日本」の八ヶ国、総勢約2万人弱の混成軍の中で、日本軍人が米兵士をの戦いぶりをこのように評価しているとは知らなかった。ロシア兵の程度の悪い傍若無人ぶりはこの時もそうであったようだが。


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    2012.平成24年7月4日(水)


    ■盧溝橋事件

    今秋の旅で北京行くので、この機会に「義和団事件」だけではなく「盧溝橋事件」のことも初めて勉強している。事件や事変と名がつくもので、日本が巻き込まれたことのほとんどが、戦後日本に加害者としての責任があるように言われているが、真相はその真逆だということが良く分かる。

    今の所、自分なりに真相に迫って、それで「日本が加害者、日本が悪い」と思うことはなにもない。いつも戦争のことを考える。戦争を考えるのは面白い。これくらい国も国民も必死になることはないから。特に大東亜戦争は国家国民あげての総力戦だ。これ以上の凄みは無い。

    「能天気な平和、長すぎる平和は、人間が腐敗し、悪政がはびこり、私欲を膨らませる」・・・これが平和の代償である。戦争はその反対で「人間が輝き、自己犠牲が尊ばれ、私心がなくなる」 戦争は悲惨であるが英雄を輩出し輝く歴史を作る。平和は楽だが世の中も人心も腐る。

    どっちをとるのか?そりゃあ幾ら人間が腐っても平和を選択する。切り刻まれて殺害されたり、釜茹でのように残酷に殺されたり、拷問に掛けられたり、そんな非業の死を想像すれば戦争は恐怖でしかない。ましてや我が子や孫に戦争を体験させるなど考えることは出来ない。

    戦争は極力避けたい。しかし平和ゆえに腐った世の中で人生を終えるのも空しさが募る。それが普通の良識ある人間だと思う。だからこそ私は国を守るために戦った先人を非難することなど絶対に出来ない。

    盧溝橋事件は、普通に当時の状況を分析すれば、日本軍が仕掛けたことはあり得ず。「盧溝橋事件・日中開戦の実相」岡野篤夫(著)を読むだけでも明らかだ。支那の言い分などバカバカしくて話しにもならない。支那の性根は今も昔もまったく同じだ。そんな奴等の嘘八百を真に受ける日本人は愚かを通り越して国賊でしかない。


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    2012.平成24年7月16日(月)


    ■盧溝橋事件

    「盧溝橋事件:日中開戦の実相」岡野篤夫(著)と「日本の悲劇:盧溝橋事件」寺平忠輔(著)・・・この二冊の本を読めば真相が分かる。

    共に事件の当事者であり、寺平氏に至っては、事件の渦中で中国側と体を張って停戦調停を結んだその人物である。最高責任者ではないが現場での実務者だ。これらは本というより一級資料であり歴史の真相を詳しく記録しているものだ。

    こんな本がありながら、今もって盧溝橋事件の真実が日本国民に周知徹底されていないことを嘆くしかない。一読すればその全貌も細部も分かり、誤解もなにも起こり得ないはずだ。「真相は歴史の闇」なんてことは有り得ない。

    そして今も昔も中国人の停戦調停に臨む交渉態度も、その後の経過も、今の日中交渉とまったく同じであり、奴等とはまともな交渉や約束は無理だ。そこに唯一あるのは「力で奴等を押さえるしかない」ということである。

    盧溝橋事件後の不拡大方針を健気に遵守しようとする日本軍と、はなからそんなもの守る気も無い中国軍とでは交渉は形だけで成立しない。幾ら粘り強く話し合っても、誠意を示しても、奴等にあるのは、隙あらば相手をやっつけようという下心だけだ。その隙のない時だけ奴等は媚を浮かべて平気で擦り寄る。

    「恥も外聞もない」のは彼らの文化であり、それを認知し、それに即した対応しかない。奴等ともめたくなければ、ただ一つ「軍事力の優位」を見せつけ、奴等の戦意を挫くことだけだ。尖閣問題も盧溝橋事件もまったく同じであり、船を「自ら当てておいて、当てられた」というのが奴等だ。

    これで交渉になると思うほうが馬鹿でしかない。人間の愚かさを思う。日本人と中国人、「まともな人間」と「どうしようもない人間」、幾らその内容に天地の差があろうとも、やってることは共に歴史に学べず同じ事を繰り返す。人間というのは結局同じ“むじな”なのか?




  • “東交民巷飯店”<br />このホテルに9月18日、19日二日間宿泊する<br />二軒東隣に旧日本公使館がある<br /><br />//////////////////////////////////////////////////<br /><br />2012.平成24年7月26日(木) <br /><br /><br />■「北京燃ゆ・義和団事変とモリソン」ウッドハウス暎子(著) <br /><br />1897年11月4日 ドイツ海軍陸戦隊の青島上陸。列強による清国領土の争奪戦 「清国メロン切取り競争」という言葉がある。まさに列強が弱小国を植民地化することが、何の不思議もなく当たり前であった雰囲気がよく分かる。 <br /><br />そして衰退する清国もその例外ではなく、日本を含めた11ヶ国。日・英・米・露・独・仏・伊・墺・西・蘭・ベルギー 計11ヶ国の公使館があった。その北京に外国人やキリスト教民を敵とした義和団とそれと組んで列強を敵に回した清国軍が迫った。 <br /><br />1900年/明治33年6月20日午後4時 衙門からの最後通牒の時間切れをきっかりに、清国側からの砲撃が始まった。籠城側もこれに応戦。北京籠城戦が始まった。 <br /><br />その戦いで日本軍の指揮官であった柴五郎中佐(当時40歳)と日本兵は、抜群の働きをし、共に籠城していた西欧人の日本人の評価を一変させた。籠城した人たちが記した日記などが、その後、本として出版され、その内容が紹介されている。 <br /><br />「北京籠城」ピーターフレミング(著) <br /><br />「戦略上の最重要地・王府では、日本兵が守備のバックボーンであり、頭脳であった。日本を補佐したのは頼りにならないイタリア兵で、日本を補強したのはイギリス義勇兵であった。日本軍を指揮した柴中佐は、籠城中のどの国の士官よりも有能で経験も豊かであったばかりか、誰からも好かれ、尊敬された。当時、日本人と付き合う欧米人はほとんどいなかったが、この籠城を通じてそれが変わった。 <br /><br />日本人の姿が模範生として、みなの目に映るようになったからだ。日本人の勇気、信頼性、そして明朗さは、籠城者一同の賞賛の的となった。籠城に関する数多い記録の中で、直接的にも間接的にも、一言も非難を浴びていないのは、日本人だけである」 <br /><br />P・C・スミス嬢の日記 <br /><br />若いアメリカ女性 アメリカ大使館参事官のお客として夏休みを北京で過ごしていた。ポーリー・コンデット・スミス。『北京の舞台裏』という本を後日発行する。 <br /><br />「柴中佐は素晴らしい人です。彼が交民巷(ジャオミンシャン)で現在の地位を占めるようになったのは、一に彼の智力と実行力によるものです。なぜならば、一回目(6月21日)の朝の会議では、各国公使も守備隊指揮官も別に柴中佐の見解を求めようとしませんでしたし、柴中佐も特に発言しようとはしなかったと思います。でも、今(7月2日)では、すべてが変わりました。柴中佐は王府での絶え間ない激戦で快腕を奮い、偉大な将校であることを実証したからです。だから今では、すべての国の指揮官が、柴中佐の見解と支援を求めるようになったのです」 <br /><br />「彼(柴中佐)の部下の日本兵は、いつまでも長時間バリケードの後ろに勇敢にかまえています。その様子は、柴中佐の下でやはり王府の守備にあたっているイタリア兵と大違いです。北京に来ているイタリア兵はイタリア本国の中でも最低の兵隊たちなのだ、と私はイタリアの名誉のためにも思いたいぐらいです」 <br /><br />B・レノックス・シンプソンの日記 <br /><br />清帝国海関勤めのイギリス人下級職員、23歳のB・レノックス・シンプソン(ペンネームはパットナム・ウィール)は、籠城中、義勇兵となり、柴のもとに派遣されて戦った。彼は当時の日記を、1907年に出版した。『率直な北京便り』というその題が示すように、実に遠慮のない日記である。 <br /><br />6月21日付日記 <br /><br />「数十人の義勇兵を補佐として持っただけの小勢日本軍は、王府の高い壁の守備にあたった。その壁はどこまでも延々と続き、それを守るには少なくとも五百名の兵を必要とした。しかし、日本軍は素晴らしい指揮官に恵まれていた。公使館付武官・柴中佐である。彼は他の日本人と同様、ぶざまで硬直した足をしているが、真剣そのもので、もうすでに出来ることと出来ないこととの見境をつけていた。 <br /><br />ぼくは長時間かけて各国受け持ちの部署を視察して回ったが、ここで初めて組織化された集団をみた。この小男は、いつの間にか混乱を秩序へとまとめ込んでいた。彼は自分の注意を要する何千という詳細事を処理することに成功していた。彼は部下たちを組織化し、さらに、大勢の教民を召集して前線を強化した。実のところ、彼はなすべきことはすべてした。ぼくは自分がすでのこの小男に傾倒していることを感じる。ぼくは間もなく、彼の奴隷になってもいいと思うようになるだろう」 <br /><br />籠城第一日目にして、柴にほれこんでいる。 <br /><br />///////////////////////////// <br /><br />柴五郎中佐だけではなく、戦死した「安藤辰五郎大尉」の活躍も彼らの日記に記されている。その他にも「とびきり勇敢な、眼鏡をかけた日本公使館、楢原二等書記官」との記述もある。籠城で戦ったのは軍人だけではなく、そこにいた民間人も戦える者は戦いに参加した。 <br /><br />この本のなかの日本人の活躍を記しウッドハウス暎子(著者)は各国兵士の違いを記したものが「日本のものの中には不思議と見当たらないが、イギリスの記録にはたくさんある」と書いている。この暎子女史の正体は?と思ったら、ソウル生まれであることは書いているが、その他の詳しい経歴は分からない。暎子女史がどんな人物なのか分からないが、この本を出版してくれたことは有難い。 <br /><br />イギリス人下級職員、23歳のB・レノックス・シンプソン(ペンネームはパットナム・ウィール) <br /><br />「安藤辰五郎大尉」ウィール日記より <br /><br />「ぼく(ウィール)は安藤大尉のもとに駆けつけた。こんな可哀想な光景を、ぼくは今まで目にしたことがない。地面に広げられたコートの上に寝かされた彼の脇腹、弾丸で引き裂かれ、口を開けていた。彼はひどい事故にあった子供のように見えた。 <br /><br />身長は5フィート(約1,52メートル)足らず。彼の剣は約30インチ(76センチメートル)ほどの短いもので、それは紐で手首にしっかりとくくりつけており、彼はそれを解き外されるのを拒んだ。彼は両腕を空中に上げ下げして苦痛と戦っていたが、そのたびに手首の剣も跳ね上がったり下がったりした。しかし、この努力にも力尽きて彼は我にもあらず、うめき声をだしつづけた」 <br /><br />昔の日本人は偉かった。今秋、北京にて、安藤辰五郎大尉が戦死した近くであろう場所で大尉のご冥福を祈ろう。 <br /><br />-------------------------------<br /><br />2012.平成24年7月29日(日) <br /><br /><br />■「北京燃ゆ・義和団事変とモリソン」ウッドハウス暎子(著) <br /><br />この本は面白い、というより北京籠城の様子が良く分かる。「モリソン」 <br /><br />モリソンは籠城戦で負傷し <br /><br />『七月十六日の負傷以来動けなくなったモリソンは、ワインーケースの麦わらを詰めたにわか作りの粗末なベッドに横たわり、身の苦痛をも顧みず、寵城の状況報告書をひたすらに書きつづけた。そして、この百八枚、三万語にわたる報告書を、寵城が解かれた翌日タイムス社に郵送した。モリソン・リポートは同紙の十月十四日、十五日の二回に分けて大々的に報道された。』 <br /><br />『義和団の蜂起以来、全世界の耳目は北京に注がれていたが、寵城内部のことは皆目分からず、流されるニュースはいずれも想像によるでっち上げのデマばかり。世界中が気をもんで焦っていた。そこへ、モリソン報告が投下されたのである。それはプロの現役報道人が体験したそのものずばりのドキュメンタリーであった。 <br /><br />みなは海綿が水を吸い込むように、むさぼり読んだ。東の果ての小国・日本のことなど、今まで欧州人はよく知らなかったし、知ろうともしなかったが、モリソンの生き生きとした報告は彼らを開眼させた。』 <br /><br />『モリソン博士の記事を読めばおのずから明白であるが、博士は水晶のように透明な公平さをもって、寵城者たちの言動を判断するという任務を果たした……各国を代表する北京在留外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘しその任務を全うした国民は他にいない……日本兵が輝かしい武勇と戦術をもって寵城を持ちこたえた……ということが、この籠城事件の一大特徴であった』 <br /><br />////////////////////////// <br /><br />モリソンだけでなくその場にいた外国人の日本軍への賛美は、日本軍兵士及び日本人義勇兵の死者が圧倒的に多いことがその証でもある。それは日本人自身が犠牲を省みず「日本の国威発揚の機会だ」と籠城日本人の誰もが認識していたのだろう。それくらい白人連合国の中で、最初は相手にされなかった。 <br /><br />しかしこのモリソン報告によって欧米は日本人を見直した。そして日英同盟の下地が作られた。それくらい柴中佐を指揮官としての日本軍は犠牲をいとわず活躍をした。150センチそこそこの日本人が、ここまで彼らに賛美され尊敬されるまでの行動を成し得たのには、今の性根の腐った日本人として育ってきた私には信じられないが、彼ら先人の活躍に感謝し誇りとする。 <br /><br />この本の著者「ウッドハウス暎子」女史は、ソウル市生まれで早稲田大学在学中にオーストラリア・カンタス航空のスチュワーデスになり、その後、シドニー日本国総領事館の翻訳担当及び秘書国際会議同時通訳・・・等々。今はシドニーに暮らしているようだが、それ以上の情報はネットで調べても分からない。 <br /><br />この本は当時中国に関わった列強の関係や、内実が良く分かり面白い。この一冊に出会えてホント良かった。ロシアは当時もホンマにどうしようもない国であり残酷非道・道徳ナシは今もってまったく変わらない。ロシア・中国のような道徳なき国家が力を持てば、弱い者はどこまでも痛め付けられる。 <br /><br />--------------------------------<br /><br />2012.平成24年8月19日(日) <br /><br /><br />■「大地の子」 <br /><br />来月に行く張家口の旅の前に、山崎豊子(原作)のNHKドラマ「大地の子」をもう一度見たくなり、NHKのオンデマンドに登録して見ている。ソ連参戦で満洲に残された残留孤児の物語。 <br /><br />非道な養父母から命からがら逃げ出し、人身売買の売人から救ってくれた陸徳志という小学校の教師に育てられた陸一心。その後大学まで出て製鉄所に就職するが、文化大革命で日本人ということでスパイ容疑を掛けられ内蒙古の労改(ろうがい)に収容された。その物語を一挙に一部から四部くらいを見ている。面白い。 <br /><br />共産主義・共産思想というのは、最悪の主義思想であり、そんな政治体制の国はどこであろうが結局最後には悲劇しか生まない。まして支那大陸での共産党こそは、中国を牛耳る権力者にとってこれほどピッタリの政治体制はないだろう。 <br /><br />支那大陸の歴史は権力者が誰に代わっても、統治する民族が代わっても、どんな政治体制であろうが、そんなことは無関係に一部の特権階級とその他の奴隷で構成されてきた。過去も現在もまともな国の呈をなしていない大陸である。 <br /><br />そんな中で、優しさや思いやりを持ち、自分の危険を顧みずに他人を助ける人間もいる。だから余計にそんな物語に心を打たれる・・・。そして少し救われる。でも原作が日本人であるからなのかも?と、疑う自分に呆れるが、それくらい私は彼の国の人間に不信感を持っているということなのだ。 <br /><br /><br />--------------------------------<br /><br />2012.平成24年8月22日(水) <br /><br /><br />■「大地の子」 <br /><br />NHKの連続ドラマ「大地の子」11部を全部見終わった。放映があった時も見たから今回2回目になる。思い出したこともあるが、忘れていたこともあった。 <br /><br />満洲での敗戦後、ソ連軍の侵攻によって起きた在留邦人惨劇の避難行のなかで、日本人残留孤児が中国人の養父母に育てられ成長した。そして日中国交回復後に日本人の父親と再会を果たす。結局、その息子は養父母と実父の狭間で、自分は「大地の子」だと言って中国に残る決意をする。 <br /><br />愚かしい文革の様子も描かれている。ドラマでも文革騒動は、あまりに馬鹿げているが、実際はもっともっと容赦のない暗黒の時代だったのだろう。文革が終わった中国もアジアでは最貧国であり格差も少なく、誰もが貧しいから故に人の心を打つドラマがあるのだろう。 <br /><br />誰もが貧しいのは、もしかしたら不幸ではないのかも・・・。フムフムなるほど。 <br /><br /><br /><br /><br />

    “東交民巷飯店”
    このホテルに9月18日、19日二日間宿泊する
    二軒東隣に旧日本公使館がある

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    2012.平成24年7月26日(木)


    ■「北京燃ゆ・義和団事変とモリソン」ウッドハウス暎子(著)

    1897年11月4日 ドイツ海軍陸戦隊の青島上陸。列強による清国領土の争奪戦 「清国メロン切取り競争」という言葉がある。まさに列強が弱小国を植民地化することが、何の不思議もなく当たり前であった雰囲気がよく分かる。

    そして衰退する清国もその例外ではなく、日本を含めた11ヶ国。日・英・米・露・独・仏・伊・墺・西・蘭・ベルギー 計11ヶ国の公使館があった。その北京に外国人やキリスト教民を敵とした義和団とそれと組んで列強を敵に回した清国軍が迫った。

    1900年/明治33年6月20日午後4時 衙門からの最後通牒の時間切れをきっかりに、清国側からの砲撃が始まった。籠城側もこれに応戦。北京籠城戦が始まった。

    その戦いで日本軍の指揮官であった柴五郎中佐(当時40歳)と日本兵は、抜群の働きをし、共に籠城していた西欧人の日本人の評価を一変させた。籠城した人たちが記した日記などが、その後、本として出版され、その内容が紹介されている。

    「北京籠城」ピーターフレミング(著)

    「戦略上の最重要地・王府では、日本兵が守備のバックボーンであり、頭脳であった。日本を補佐したのは頼りにならないイタリア兵で、日本を補強したのはイギリス義勇兵であった。日本軍を指揮した柴中佐は、籠城中のどの国の士官よりも有能で経験も豊かであったばかりか、誰からも好かれ、尊敬された。当時、日本人と付き合う欧米人はほとんどいなかったが、この籠城を通じてそれが変わった。

    日本人の姿が模範生として、みなの目に映るようになったからだ。日本人の勇気、信頼性、そして明朗さは、籠城者一同の賞賛の的となった。籠城に関する数多い記録の中で、直接的にも間接的にも、一言も非難を浴びていないのは、日本人だけである」

    P・C・スミス嬢の日記

    若いアメリカ女性 アメリカ大使館参事官のお客として夏休みを北京で過ごしていた。ポーリー・コンデット・スミス。『北京の舞台裏』という本を後日発行する。

    「柴中佐は素晴らしい人です。彼が交民巷(ジャオミンシャン)で現在の地位を占めるようになったのは、一に彼の智力と実行力によるものです。なぜならば、一回目(6月21日)の朝の会議では、各国公使も守備隊指揮官も別に柴中佐の見解を求めようとしませんでしたし、柴中佐も特に発言しようとはしなかったと思います。でも、今(7月2日)では、すべてが変わりました。柴中佐は王府での絶え間ない激戦で快腕を奮い、偉大な将校であることを実証したからです。だから今では、すべての国の指揮官が、柴中佐の見解と支援を求めるようになったのです」

    「彼(柴中佐)の部下の日本兵は、いつまでも長時間バリケードの後ろに勇敢にかまえています。その様子は、柴中佐の下でやはり王府の守備にあたっているイタリア兵と大違いです。北京に来ているイタリア兵はイタリア本国の中でも最低の兵隊たちなのだ、と私はイタリアの名誉のためにも思いたいぐらいです」

    B・レノックス・シンプソンの日記

    清帝国海関勤めのイギリス人下級職員、23歳のB・レノックス・シンプソン(ペンネームはパットナム・ウィール)は、籠城中、義勇兵となり、柴のもとに派遣されて戦った。彼は当時の日記を、1907年に出版した。『率直な北京便り』というその題が示すように、実に遠慮のない日記である。

    6月21日付日記

    「数十人の義勇兵を補佐として持っただけの小勢日本軍は、王府の高い壁の守備にあたった。その壁はどこまでも延々と続き、それを守るには少なくとも五百名の兵を必要とした。しかし、日本軍は素晴らしい指揮官に恵まれていた。公使館付武官・柴中佐である。彼は他の日本人と同様、ぶざまで硬直した足をしているが、真剣そのもので、もうすでに出来ることと出来ないこととの見境をつけていた。

    ぼくは長時間かけて各国受け持ちの部署を視察して回ったが、ここで初めて組織化された集団をみた。この小男は、いつの間にか混乱を秩序へとまとめ込んでいた。彼は自分の注意を要する何千という詳細事を処理することに成功していた。彼は部下たちを組織化し、さらに、大勢の教民を召集して前線を強化した。実のところ、彼はなすべきことはすべてした。ぼくは自分がすでのこの小男に傾倒していることを感じる。ぼくは間もなく、彼の奴隷になってもいいと思うようになるだろう」

    籠城第一日目にして、柴にほれこんでいる。

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    柴五郎中佐だけではなく、戦死した「安藤辰五郎大尉」の活躍も彼らの日記に記されている。その他にも「とびきり勇敢な、眼鏡をかけた日本公使館、楢原二等書記官」との記述もある。籠城で戦ったのは軍人だけではなく、そこにいた民間人も戦える者は戦いに参加した。

    この本のなかの日本人の活躍を記しウッドハウス暎子(著者)は各国兵士の違いを記したものが「日本のものの中には不思議と見当たらないが、イギリスの記録にはたくさんある」と書いている。この暎子女史の正体は?と思ったら、ソウル生まれであることは書いているが、その他の詳しい経歴は分からない。暎子女史がどんな人物なのか分からないが、この本を出版してくれたことは有難い。

    イギリス人下級職員、23歳のB・レノックス・シンプソン(ペンネームはパットナム・ウィール)

    「安藤辰五郎大尉」ウィール日記より

    「ぼく(ウィール)は安藤大尉のもとに駆けつけた。こんな可哀想な光景を、ぼくは今まで目にしたことがない。地面に広げられたコートの上に寝かされた彼の脇腹、弾丸で引き裂かれ、口を開けていた。彼はひどい事故にあった子供のように見えた。

    身長は5フィート(約1,52メートル)足らず。彼の剣は約30インチ(76センチメートル)ほどの短いもので、それは紐で手首にしっかりとくくりつけており、彼はそれを解き外されるのを拒んだ。彼は両腕を空中に上げ下げして苦痛と戦っていたが、そのたびに手首の剣も跳ね上がったり下がったりした。しかし、この努力にも力尽きて彼は我にもあらず、うめき声をだしつづけた」

    昔の日本人は偉かった。今秋、北京にて、安藤辰五郎大尉が戦死した近くであろう場所で大尉のご冥福を祈ろう。

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    2012.平成24年7月29日(日)


    ■「北京燃ゆ・義和団事変とモリソン」ウッドハウス暎子(著)

    この本は面白い、というより北京籠城の様子が良く分かる。「モリソン」

    モリソンは籠城戦で負傷し

    『七月十六日の負傷以来動けなくなったモリソンは、ワインーケースの麦わらを詰めたにわか作りの粗末なベッドに横たわり、身の苦痛をも顧みず、寵城の状況報告書をひたすらに書きつづけた。そして、この百八枚、三万語にわたる報告書を、寵城が解かれた翌日タイムス社に郵送した。モリソン・リポートは同紙の十月十四日、十五日の二回に分けて大々的に報道された。』

    『義和団の蜂起以来、全世界の耳目は北京に注がれていたが、寵城内部のことは皆目分からず、流されるニュースはいずれも想像によるでっち上げのデマばかり。世界中が気をもんで焦っていた。そこへ、モリソン報告が投下されたのである。それはプロの現役報道人が体験したそのものずばりのドキュメンタリーであった。

    みなは海綿が水を吸い込むように、むさぼり読んだ。東の果ての小国・日本のことなど、今まで欧州人はよく知らなかったし、知ろうともしなかったが、モリソンの生き生きとした報告は彼らを開眼させた。』

    『モリソン博士の記事を読めばおのずから明白であるが、博士は水晶のように透明な公平さをもって、寵城者たちの言動を判断するという任務を果たした……各国を代表する北京在留外国人の中で、日本人ほど男らしく奮闘しその任務を全うした国民は他にいない……日本兵が輝かしい武勇と戦術をもって寵城を持ちこたえた……ということが、この籠城事件の一大特徴であった』

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    モリソンだけでなくその場にいた外国人の日本軍への賛美は、日本軍兵士及び日本人義勇兵の死者が圧倒的に多いことがその証でもある。それは日本人自身が犠牲を省みず「日本の国威発揚の機会だ」と籠城日本人の誰もが認識していたのだろう。それくらい白人連合国の中で、最初は相手にされなかった。

    しかしこのモリソン報告によって欧米は日本人を見直した。そして日英同盟の下地が作られた。それくらい柴中佐を指揮官としての日本軍は犠牲をいとわず活躍をした。150センチそこそこの日本人が、ここまで彼らに賛美され尊敬されるまでの行動を成し得たのには、今の性根の腐った日本人として育ってきた私には信じられないが、彼ら先人の活躍に感謝し誇りとする。

    この本の著者「ウッドハウス暎子」女史は、ソウル市生まれで早稲田大学在学中にオーストラリア・カンタス航空のスチュワーデスになり、その後、シドニー日本国総領事館の翻訳担当及び秘書国際会議同時通訳・・・等々。今はシドニーに暮らしているようだが、それ以上の情報はネットで調べても分からない。

    この本は当時中国に関わった列強の関係や、内実が良く分かり面白い。この一冊に出会えてホント良かった。ロシアは当時もホンマにどうしようもない国であり残酷非道・道徳ナシは今もってまったく変わらない。ロシア・中国のような道徳なき国家が力を持てば、弱い者はどこまでも痛め付けられる。

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    2012.平成24年8月19日(日)


    ■「大地の子」

    来月に行く張家口の旅の前に、山崎豊子(原作)のNHKドラマ「大地の子」をもう一度見たくなり、NHKのオンデマンドに登録して見ている。ソ連参戦で満洲に残された残留孤児の物語。

    非道な養父母から命からがら逃げ出し、人身売買の売人から救ってくれた陸徳志という小学校の教師に育てられた陸一心。その後大学まで出て製鉄所に就職するが、文化大革命で日本人ということでスパイ容疑を掛けられ内蒙古の労改(ろうがい)に収容された。その物語を一挙に一部から四部くらいを見ている。面白い。

    共産主義・共産思想というのは、最悪の主義思想であり、そんな政治体制の国はどこであろうが結局最後には悲劇しか生まない。まして支那大陸での共産党こそは、中国を牛耳る権力者にとってこれほどピッタリの政治体制はないだろう。

    支那大陸の歴史は権力者が誰に代わっても、統治する民族が代わっても、どんな政治体制であろうが、そんなことは無関係に一部の特権階級とその他の奴隷で構成されてきた。過去も現在もまともな国の呈をなしていない大陸である。

    そんな中で、優しさや思いやりを持ち、自分の危険を顧みずに他人を助ける人間もいる。だから余計にそんな物語に心を打たれる・・・。そして少し救われる。でも原作が日本人であるからなのかも?と、疑う自分に呆れるが、それくらい私は彼の国の人間に不信感を持っているということなのだ。


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    2012.平成24年8月22日(水)


    ■「大地の子」

    NHKの連続ドラマ「大地の子」11部を全部見終わった。放映があった時も見たから今回2回目になる。思い出したこともあるが、忘れていたこともあった。

    満洲での敗戦後、ソ連軍の侵攻によって起きた在留邦人惨劇の避難行のなかで、日本人残留孤児が中国人の養父母に育てられ成長した。そして日中国交回復後に日本人の父親と再会を果たす。結局、その息子は養父母と実父の狭間で、自分は「大地の子」だと言って中国に残る決意をする。

    愚かしい文革の様子も描かれている。ドラマでも文革騒動は、あまりに馬鹿げているが、実際はもっともっと容赦のない暗黒の時代だったのだろう。文革が終わった中国もアジアでは最貧国であり格差も少なく、誰もが貧しいから故に人の心を打つドラマがあるのだろう。

    誰もが貧しいのは、もしかしたら不幸ではないのかも・・・。フムフムなるほど。




  • 張家口「堡子里」文昌閣より写す<br /><br />なかなか味のある屋根やけど<br />雨漏りの心配はいかがなものか?<br /><br />2012/平成24年9月23日撮影<br /><br />//////////////////////////////////<br />2012.平成24年9月2日(日) <br /><br />■旅の準備 <br /><br />あっという間に9月になった。張家口への旅を決めたのはマバラカットの旅行記が完成して間もなくの4月初め。出発まで半年あるので、今度はいつもよりじっくり調べて実のある旅にしようと意気込んで関係の本を探して読んだり、張家口で中学生までを過ごしたMさんを尋ねて話を聞きに奈良県まで行った。 <br /><br />それも4月、一通り調べて大体が分かったら、いつものようにそれ以上調べる熱意がなくなる。そして、ついでに北京の「義和団事件」「盧溝橋事件」に興味を持ち、そこも今回の戦跡巡りに含めて、そのことを調べた。 <br /><br />結局、すべてにおいて詳しくではなく、いつも程度で、いやそれ以下かも知れない。集中力を失って頓挫、この二、三ヶ月一体何をしていたのか?と、思うくらい張家口の旅から離れてしまっていた。まとめることも出来ず、全てを中途半端なまま。そして4〜5月に掛けて頭に入っていたことも忘れてしまっている。 <br /><br />記憶にあるのは概略だけだ。私は何に対してもそうだが、概略を知ればすべてを納得してしまい、細かいことはどうでも良くなる。年月日、人の名前、地名、その他もろもろだけど・・・だから、他人にそのことに関して説得力を持って話すことは出来ない。 <br /><br />自分ではそれに至る経緯も、経過も、結果も、それが故にその後どうなったのかも分かってしまう。それが正しいか間違っているか?なんて思わない。自分の分析が自分ではいつも正しいと思っているから何の不安もない。そして出発月になって、やっと再度やる気も出てきた。 <br /><br />北京でのホテルを決めた。義和団事件の北京籠城の中心地に立つ「東交民巷飯店」に宿泊する。隣は旧日本公使館だ。そこに二泊して、112年前の1900年の柴五郎中佐たちの戦いを思い起こそう。 <br /><br />北京での戦跡巡りは「中国旅行龍達人」に頼むことにした。ガイドと車付きで一日¥1000元(日本円¥12,346円)。以前なら頼まず一人でぶらぶらしたけど、やはりガイドの案内が会ったほうが旅は充実する。60過ぎてからお金に対しての気持ちは変わった気がする。 <br /><br />「安く=得」では決してない。物を安く買っても使わなければ高い買い物だし、高い買い物でも有効に使えば高くない。そして「高い」「安い」はホンマその人の価値観で一概に言えない。「上手く使う」ことこそが最重要だと思う。当たり前のことがこの歳にしてやっと分かった。 <br /><br />張家口で四泊五日も過ごす予定。ホテルも決めた。自宅から「張家口:東升大酒店」に電話(0313-2281000)をして予約した。いつものように冷や汗をかきながら、電話を切られないかと心配しながら粘った。なかなか女性スタッフに通じず、その女性が「外国人からだから代わって」と男性スタッフを呼ぶ声が聞こえ、男性が代わって英語で話し掛けてきたが「英語は出来ない」と中国で言い、また粘り強く中国語で予約に挑戦した。 <br /><br />宿泊費も値切ったがそれは駄目だった。まあ妥当な値段なので吹っかけられてはいないと思う。何とか名前と電話番号を聞かれ、「訂好了ロ馬?Dinghaolema? ディンハオラマ?予約OKか?」と聞いたら「OK」だと言っていた。 <br /><br />張家口でのタクシーも奈良のMさんが紹介してくれた日本のバス会社の社長さんに、張家口の合弁会社のタクシー会社「双喜平和出租有限公司」に二日間チャーターをお願いする手紙を送った。こういったやりとりも私にとっては全て旅に含まれる。そして出発前にもう一度奈良のMさん宅に訪問して張家口のことを聞く予定だ。 <br /><br /><br />---------------------------------<br /><br />2012.平成24年9月5日(水) <br /><br /><br />■旅程 <br /><br />宿泊先が決まった。 <br /><br />9月18日(火)〜19日(水) 北京 「東交民巷飯店」 ¥5,147円 <br /><br />9月20日(木)〜23日(日) 張家口「張家口東升大酒店」 ¥398元 直接電話予約 <br /><br />9月24日(土) 宣化 「宣化賓館」 ¥286元 <br /><br />9月25日(日) 下花園 「下花園聚仙楼」 ¥138元 直接電話予約  <br /><br />9月26日(月) 北京 「首都大酒店」 ¥629元 <br /><br />9月27日(火)北京→煙台経由→関空  <br /><br />今回の旅の宿泊先は、私にとって「下花園聚花園楼:Xiuhuayuan Juxianlou」以外は豪華?なホテルばかり。豪華と言っても楽天トラベルで予約した北京の「首都大酒店」の629元(約7,800円)が最高で、後は一泊5千円ほどだけど。いつもなら200元(約2,500円)前後のホテルばかりなので、それに比べれば正直嬉しい。 <br /><br />下花園の聚仙楼もネット予約不可なので電話(0313-5052591)して一応予約したつもりだけど、フロントの小姐の応対からもまとに予約を受け付けているのか?分からない。こっちの名前も聞こうとしないし・・・。たぶん予約なしでも大概は問題なく泊まれると思う。空室なければ他にもあるし心配はしていない。直線電話を掛けての予約も自分の中国語学習の一環だから。 <br /><br />ホテルの所在地はすべて地図やグーグルアースで確認できた。ホント便利な世の中になったものだとつくづく思う。 <br /><br /><br />--------------------------------<br /><br />2012.平成24年9月7日(金) <br /><br /><br />■張家口への旅 <br /><br />今日奈良のMさん宅に4月に続き兄と一緒に再訪した。Mさんは小学校2年生から中学2年生まで張家口で家族とともに過ごし敗戦後に引揚げた。 <br /><br />当時、張家口に暮らした日本人は、日本の敗戦から激変する状況で命の危機を味わったことからも、誰しも強烈な思い出があり、戦後67年たった今でも「張家口の会」を作り張家口への旅をしたり、その他の活動を続けている。 <br /><br />前回に行った時にICレコーダーのスイッチが何故か?すぐに切れていて、回答してもらったことの記憶もあいまいになり、その他聞きたいことも増えたので旅の前にもう一度聞いておこうと訪ねた。 <br /><br />そして又驚いたことに私の来訪に合わせたかのように、「張家口の会」で8月末から9月6日まで「北京→大同→張家口」の旅をしてきたGさん(仮名:昭和14年生:女性)が、同行出来なかったMさん宅に出来たばかりの写真を持ってこられた。本当に不思議だが、私にはこれも目に見えない「お導きだ」と感謝でしかない。 <br /><br />昨日の帰国、そして今日の出会い。私もGさんも何も知らないまま・・・私は張家口の最新情報と幼稚園まで張家口で過ごしたGさんの思い出話もついでに聞くことが出来た。Gさんは男三人、女二人の五人兄妹。末の妹は昭和20年生まれとのこと。乳飲み子がいたことで帰国二便で早期の帰国が叶ったそうだ。 <br /><br />Gさんの父親は張家口:税関職員で残務整理のために避難行に同行できず、お母さんが一人乳飲み子を抱え必死の形相でいたことが印象深く記憶に残っていると言われていた。そのご両親も戦後張家口を訪れることも叶わず亡くなっている。しかし乳飲み子を含めて五人兄妹が無事に帰国を果たした。 <br /><br />この事実こそが満洲と異なる。蒙疆と満洲、それぞれの軍の二人の司令官の判断・決断が明暗を分け、それが多くの在留邦人の「死と生」とを分けた。どちらもそれぞれに決断の理由はあるが、決定的な違いは「軍人として邦人の命を守る」のか「軍人として命令に従う」のかの選択である。 <br /><br />蒙疆司令官:根本博中将は、総合的な判断から、苦渋の末、天皇陛下の詔勅に逆らい「軍人として邦人の命を守る」決断をし「邦人の避難時間を稼ぐ為」に終戦後もソ連軍と戦った。そして満洲関東軍司令官:山田乙三大将は、軍人として天皇陛下の命令に従いソ連軍の武装解除を受け入れた。 <br /><br />司令官の資質・決断によって明暗が分かれる。これはどんな組織でも同じである。小から大、すなわち「家族」の単位でも「小企業」「大企業」「国家」でもまったく同じだ。幾ら取り巻きが多くても決断すべきトップの資質がすべてを左右する。 <br /><br />ゆえにトップに位置する者は、それが家庭であっても世帯主は覚悟が必要だ。覚悟とは「家族を守る覚悟」であり、それがどんな時、何を置いても優先されるべきことだと確信する。しかし「家族を守ること」すなわち「家族に対しての安易な優しさ」では決してない。「楽は苦の種苦は楽の種」が真理である。 <br /><br />根本中将は「苦を選び、みなに楽をもたらした」。山田大将は「楽を選択し、みなに苦をもたらした」。私が張家口に行くことを決めたのは、司令官の決断で在留邦人を救うために敗戦を知りながらも、命を賭して侵攻してきたソ蒙軍を「張北」そして張家口・北27キロの「丸一陣地」で食い止めた戦いの跡を見たいからだ。 <br /><br />その部隊は連隊旗を持たない混成旅団:響兵団が中心であり「またも負けたか八連隊(大阪)、それでは勲章九連隊(くれんたい:京都)」と揶揄された大阪・和歌山等々関西出身者中心の兵団である。ここに「勇将の下に弱卒なし」の格言を証する。トップがよければ全てよし。首相が無能であれば国は間違いなく劣化する。 <br /><br />昨日「張家口」の旅から帰国したGさんの話では、Mさんの自宅だった四合院のある旧城内もほとんど壊され高層住宅になっているそうだ。もはやMさんの旧宅が今も残っているのは限りなく可能性が少なくなったが、周囲の山々や町の真ん中を流れる清河は昔と変わることはない。その風景を見に行こう。 <br /><br />途中、Mさん知り合いの「バス会社の社長:Yさん」から電話があり、張家口での車の手配をしてくれるとのこと。恐縮至極であり、これも旅の縁となる。そして帰宅したら偶然にも天津で学ぶA君から北京案内の申し出のメールが届いていた。ホンマにGさんとの偶然の出会い、Yさんからの電話、そしてA君からのメールと、縁多き今日だった。 <br /><br />------------------------------<br /><br />2012.平成24年9月12日(金) <br /><br /><br />■張家口で <br /><br />昨日Mさんに紹介してもらった岐阜のH・C(株)の社長であるYさんから宅配便が届いた。それには確認書が一枚添えられ、9月21日(金)東升大酒店に午前8時半、Yさんの知り合いの息子さん(ZJ君)が自家用車で私を迎えに来てくれることが書いてあった。 <br /><br />Yさんにはタクシーでの二日間の包車(貸切)を頼んだのだが、Mさんの紹介ということもあってか日本留学の経験があり日本語も堪能なZJ君が二日間私に付き合ってくれることになった。彼のお父さんは張家口の有力者で、大きな会社の経営者でもあるそうだ。 <br /><br />「二日間の車付きガイドの費用は一切不要」ということだが、中国ではそういった付き合いが普通でも、或いは日本人でも金持ち同士の付き合いなら、そうなのかもだが・・・。私にとっては「有難いけど、こんな場合どうすれば?」というのが正直なところだ。 <br /><br />「お金は不要」と言われてもそうはいかず、「土産を持参」ということになるが、相手は大会社の御曹司。一体どんな土産を持っていけば、双方皆さんの顔を立てることが出来るのか?Yさんのアドバイスに縋るしかない。またその点について電話を頂けることになっている。 <br /><br />そのほか「東升酒店のパンフレット」「張家口旅遊ガイドブック」「張家口の地図」も同封して下さり、そのガイドブックに私の知らない旧跡が写真入りで掲載してあり有難たかった。あれもこれもすべては縁であり、何もかも良き経験として楽しもう。金なく地位なき一介の市井の民である私は、頼まれても人を助ける力はないが、有力者はすぐにそれが出来る。 <br /><br /><br />■デジカメ <br /><br />二三ヶ月前、動画撮影のためにハイビジョン・ビデオカメラを買った。旅で使うことが第一目的ではあるが孫も出来たこともあって買った。といっても2万円もしない安物だが。 <br /><br /><br />------------------------------<br /><br />2012.平成24年9月13日(木) <br /><br /><br />■支那朝鮮の反日 <br /><br />尖閣問題で支那は反日で盛り上がっている。これも鄧小平が言った「後世への棚上げ論」を、当時の日本政府は無視していたものを日本メディアがまるで、それが暗黙の了解であるかのように作り上げてしまったことに端を発する。それを政治家たちも都合よく?利用した挙句が今のこのざまだ。 <br /><br />とにかく支那朝鮮ロシアに関する問題の全ては戦後日本の低たらくに起因する。その根源は「自分で自分の国を守る」という気概を持たず、自ら牙を抜いたことにある。そんな生き物は、元より生存権を放棄したも同然で、今もって息をしていることが幸運なのだろう。 <br /><br />橋下市長は今日の記者会見で集団的自衛権について、以下のように述べた。<br />『行使を禁止している政府の憲法解釈を「国連憲章でも認められている。権利があるのに行使できないなんて、完全な役人答弁だ。論理的にも言語的にも理解できない」と批判。「それに対し何も政治がきちんと手だてできなかった。政治の恥だ」と強調し、歴代政権にも責任があるとの認識を示した。』 <br /><br />良くぞ言ってくれた。この当たり前を、今までの政治家でこれほどはっきりと述べた者を私は知らない。みんな奥歯に物の挟まった答弁ばかりだった。「政治の恥」である。その政治の恥の積み重ねが、周囲に付け入る隙を作り続け、その結果相手側にイライラが昂じて反日も増幅する。 <br /><br />しかしこの支那の反日については、昔も今も変わらず日本にとっては大陸と付き合う以上避けることの出来ない「宿痾」「業」である。明治維新後の日支関係は、大陸で白人列強が分捕り合戦で侵略していても、その中に日本が加われば、支那人の敵対意識の第一は日本となる。 <br /><br />ロシアもそのようだが、ロシア人は、やることが支那人を上回る残虐性と横暴さがあり、その上、地政学的にも陸続きでロシア人を本気で怒らせればどうなるか身を持って分っている。1900年の黒河の対岸ブラゴヴェシチェンスクで起きた支那人大虐殺がその良い例だ。その後ロシアは満洲を蹂躙し居座った。 <br /><br />しかし日本にたいしては、支那朝鮮の反発はどこまでもエスカレートする。幾らでもエスカレートし、例え「通州事件」のように日本人同胞が惨殺されても、それと同様な仕返しは日本人には出来ないし、それ以上は無論やらない。 <br /><br />まして今の日本には軍隊なく、核もない。これからも反日行動は、支那朝鮮の国内事情にどこまでも都合良く利用され、どこまでエスカレートするのか?奴らの一存でしかない。今は、彼の地で同胞が戦前の支那事変勃発前のように殺害されても軍の派遣も出来ない。そして支那からはいつも核の恫喝に怯えていなければならない。 <br /><br />全ては、身から出た錆だけど・・・。その支那にもうすぐ旅立つ。10日間の日程だが、正味8日間。「2005年、平成17年」、今のように反日デモ騒動の時に瀋陽領事館に行った。領事館前は車両通行止めで封鎖し武装警官の警備が厳重だった。その時私は用もないのに興味だけで領事館に入った。 <br /><br />デモの騒動事態には遭遇せず、日本人として危険を感じたこともなかった。しかし、かの国では何が起きても不思議はない。法治国家でもなく「反日無罪」の場所だから。A君からも注意の伝言があった。自分なりに万全の注意をして、今の様子を見てこよう。 <br /><br />私は基本的にビビリだから警戒心旺盛だし、行く前はいつも怖いけど、大概行けばそこには普通の日常生活の風景があり、何もないのが通常だ。もし何か雰囲気的に少しでも危険を感じるような時は、それこそ通常事態ではないはずだ。でもきっと偶発的なテロで殺害されたりする時も、あっけないような気がする。それを運命という。 <br /><br />---------------------------------<br /><br />2012.平成24年9月15日(土) <br /><br /><br />■旅たち前 <br /><br />いつも通り準備中途半端なまま行くことになりそうだ。切羽詰らないと何も始まらない。いろんなことを考えるだけで整理も出来ず。“だいたい”ばかり、それに今回は台風16号の行方が気になる。飛行機が欠航なんてことになれば万事休す。 <br /><br />1931年:昭和6年9月18日「柳条湖事件」勃発。満州事変から満洲建国と進んでいった。今も支那では反日の象徴的な日になっている。今回も9月18日には、もっと大規模な暴動となることが懸念されている。 <br /><br />台風で欠航がなければ、その日に私は北京に到着する。旅の日程を決めた時、9月18日という日が「何の日」というのはまったく意識になかった。今回の騒動で9月18日がクローズアップされだしてなるほどそうだったと気づいた。北京到着も午後7時半と遅いので安全を期して空港→ホテル送迎¥180元(2230円)を頼んだ。 <br /><br />この時期に尖閣問題が浮上したことはそれなりの理由があるのだろう。日本は政府が解体寸前であり、支那は主席交代の時期が迫り、米国も大統領選が始まる。こんな時期だからこそ支那漁船乗員や人民解放軍が尖閣への上陸を謀るという暴挙に出る可能性はあるだろう。 <br /><br />戦後生まれの私は、今まで日本が武器を取って敵勢力と命を賭して戦う姿は、現実になかった。想像すら遠いことだった。だからどのような経緯から実際の戦闘が起こり、それが拡大するのか、よく分らない。まだまだ現時点で日本人の多くは能天気で、似非平和の中で暮らしいるから・・・。 <br /><br />これから尖閣竹島に絡んでの支那朝鮮との関係はどうなるのか?日本固有の領土を巡っての支那朝鮮との対立は、戦前なら有り得ない。これが戦後日本が弱体化した象徴だろう。一体日本人はどう対処するのだろうか? <br /><br /><br /><br />-----------------------------<br /><br />2012.平成24年9月16日(日) <br /><br /><br />■旅たち前 <br /><br />台風16号は何とか行き過ぎてくれそうだ。反日暴動はかってない規模と惨さで拡大している。日本企業への焼き討ちや店への乱入強奪等々凄まじい様相なのに誰も逮捕されたとは聞かない。世界第二の経済大国になり、四年前にはオリンピックを開催した国がこの有様とは呆れるしかない。 <br /><br />この様を見ても、日本は中国市場に媚を売り金儲けをしようとするのか?ならば今後もこの繰り返しになり、それも対立が生じるたびに暴動はエスカレートする一方だろう。支那とのすべての関係交流の縮小を望む。そんなに反日ならば支那のほうから日本との関係断絶を願う。 <br /><br />そして、こんな時に中国旅行とは愚か者としか言えず、わが身に彼の地で何が起きても、皆に迷惑をかけ同情なく軽蔑されるだけだとは百も承知だ。2005年の反日暴動に続いて2012年、更に過激な反日暴動真っ只中の時に行く。一体そこには何が待ち受けているのやら?荷物は未だ何の準備もなく・・・。ホンマ切羽詰らないと動けない。 <br /><br /><br />----------------------------------<br /><br />2012.平成24年9月17日(月) <br /><br /><br />■旅たち前 <br /><br />支那全土に広がる反日暴動は、中共政府の内部闘争に利用され、暴動を取り締まる側の官憲が画策主導している。これも今に始まったことではなく、歴史を振り返れば一貫しての奴らのやり方だ。チベットも新疆ウィグルも内蒙古も、弾圧の前に官憲がその材料を作り、非力な民族を抹殺している。 <br /><br />日本人から見れば信じられないことばかりだが、それが奴らのやり方だ。今回の反日暴動も携帯写真などで官憲主導の証拠写真を誰かがネットに投稿して明るみに出るが、それ以上のことは何もない。良心も道徳もない人間のやることは、どこまでも卑劣で際限もない。 <br /><br />ここまでされても日本企業は支那に行くのか?哀れなものだ。奴らがまともになることは未来永劫ない。それは歴史が証明している。「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」・・・べきなのに、どこまで日本人はお人よしなのか?それとも金儲けしか頭にないのか・・・。結局は大損するだけなのに。 <br /><br /><br /><br /><br />■明日の北京は? <br /><br />明日の北京はどんな状況なのだろう?明日の今頃(午後9時40分)は、すでに天安門広場から東へすぐの“東交民巷飯店”にチェックインしている。一応、万万が一に際して家内には、後始末のことを託している(笑)。長男からも「なんかあったら自己責任では片付かんから・・・」と釘を刺されたが、私もこうなるとはまったく思っていなかった。 <br /><br />まあ今回のこの旅に関してだけでなく、これから先、私がどこでどんな惨い不慮の死を遂げても私の願いは唯一つ、残った家族は、無理やりでも「昨日までと同じように今日、明日、そして将来を生きて欲しい」。私がまるで天寿を全うしたか如く・・・。それこそが私にとっての「勝ち」であり、それ以上の私への供養はない。 <br /><br />まあ反日暴動の不安もあるが、張家口の天気予報も悪い。二日連続降水確率70%と、雨の覚悟が必要だ。でも天気は行ってみれば予報とは違ったこともたびたびなので、何とか良い天気して下さい・・・と、ご先祖に縋るしかない。 <br /><br />もし旅行中に尖閣で紛争が起き、日本人が人質として帰国をストップされれば・・・。黒河へ行きアムール川を渡河しロシアに亡命を求めようか?それとも雲南まで行ってミャンマー国境に脱出しようか?それとも図們川、鴨緑江を渡河して北朝鮮に行けばどうなるのか?まだ私は命の危機に直面したことはない。 <br /><br />やっぱり明日の出発前には、平穏無事の道中を祈り、無事帰国が叶うことを仏壇の前に座って心よりお願いしてから行く。 <br /><br /><br />

    張家口「堡子里」文昌閣より写す

    なかなか味のある屋根やけど
    雨漏りの心配はいかがなものか?

    2012/平成24年9月23日撮影

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    2012.平成24年9月2日(日)

    ■旅の準備

    あっという間に9月になった。張家口への旅を決めたのはマバラカットの旅行記が完成して間もなくの4月初め。出発まで半年あるので、今度はいつもよりじっくり調べて実のある旅にしようと意気込んで関係の本を探して読んだり、張家口で中学生までを過ごしたMさんを尋ねて話を聞きに奈良県まで行った。

    それも4月、一通り調べて大体が分かったら、いつものようにそれ以上調べる熱意がなくなる。そして、ついでに北京の「義和団事件」「盧溝橋事件」に興味を持ち、そこも今回の戦跡巡りに含めて、そのことを調べた。

    結局、すべてにおいて詳しくではなく、いつも程度で、いやそれ以下かも知れない。集中力を失って頓挫、この二、三ヶ月一体何をしていたのか?と、思うくらい張家口の旅から離れてしまっていた。まとめることも出来ず、全てを中途半端なまま。そして4〜5月に掛けて頭に入っていたことも忘れてしまっている。

    記憶にあるのは概略だけだ。私は何に対してもそうだが、概略を知ればすべてを納得してしまい、細かいことはどうでも良くなる。年月日、人の名前、地名、その他もろもろだけど・・・だから、他人にそのことに関して説得力を持って話すことは出来ない。

    自分ではそれに至る経緯も、経過も、結果も、それが故にその後どうなったのかも分かってしまう。それが正しいか間違っているか?なんて思わない。自分の分析が自分ではいつも正しいと思っているから何の不安もない。そして出発月になって、やっと再度やる気も出てきた。

    北京でのホテルを決めた。義和団事件の北京籠城の中心地に立つ「東交民巷飯店」に宿泊する。隣は旧日本公使館だ。そこに二泊して、112年前の1900年の柴五郎中佐たちの戦いを思い起こそう。

    北京での戦跡巡りは「中国旅行龍達人」に頼むことにした。ガイドと車付きで一日¥1000元(日本円¥12,346円)。以前なら頼まず一人でぶらぶらしたけど、やはりガイドの案内が会ったほうが旅は充実する。60過ぎてからお金に対しての気持ちは変わった気がする。

    「安く=得」では決してない。物を安く買っても使わなければ高い買い物だし、高い買い物でも有効に使えば高くない。そして「高い」「安い」はホンマその人の価値観で一概に言えない。「上手く使う」ことこそが最重要だと思う。当たり前のことがこの歳にしてやっと分かった。

    張家口で四泊五日も過ごす予定。ホテルも決めた。自宅から「張家口:東升大酒店」に電話(0313-2281000)をして予約した。いつものように冷や汗をかきながら、電話を切られないかと心配しながら粘った。なかなか女性スタッフに通じず、その女性が「外国人からだから代わって」と男性スタッフを呼ぶ声が聞こえ、男性が代わって英語で話し掛けてきたが「英語は出来ない」と中国で言い、また粘り強く中国語で予約に挑戦した。

    宿泊費も値切ったがそれは駄目だった。まあ妥当な値段なので吹っかけられてはいないと思う。何とか名前と電話番号を聞かれ、「訂好了ロ馬?Dinghaolema? ディンハオラマ?予約OKか?」と聞いたら「OK」だと言っていた。

    張家口でのタクシーも奈良のMさんが紹介してくれた日本のバス会社の社長さんに、張家口の合弁会社のタクシー会社「双喜平和出租有限公司」に二日間チャーターをお願いする手紙を送った。こういったやりとりも私にとっては全て旅に含まれる。そして出発前にもう一度奈良のMさん宅に訪問して張家口のことを聞く予定だ。


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    2012.平成24年9月5日(水)


    ■旅程

    宿泊先が決まった。

    9月18日(火)〜19日(水) 北京 「東交民巷飯店」 ¥5,147円

    9月20日(木)〜23日(日) 張家口「張家口東升大酒店」 ¥398元 直接電話予約

    9月24日(土) 宣化 「宣化賓館」 ¥286元

    9月25日(日) 下花園 「下花園聚仙楼」 ¥138元 直接電話予約 

    9月26日(月) 北京 「首都大酒店」 ¥629元

    9月27日(火)北京→煙台経由→関空 

    今回の旅の宿泊先は、私にとって「下花園聚花園楼:Xiuhuayuan Juxianlou」以外は豪華?なホテルばかり。豪華と言っても楽天トラベルで予約した北京の「首都大酒店」の629元(約7,800円)が最高で、後は一泊5千円ほどだけど。いつもなら200元(約2,500円)前後のホテルばかりなので、それに比べれば正直嬉しい。

    下花園の聚仙楼もネット予約不可なので電話(0313-5052591)して一応予約したつもりだけど、フロントの小姐の応対からもまとに予約を受け付けているのか?分からない。こっちの名前も聞こうとしないし・・・。たぶん予約なしでも大概は問題なく泊まれると思う。空室なければ他にもあるし心配はしていない。直線電話を掛けての予約も自分の中国語学習の一環だから。

    ホテルの所在地はすべて地図やグーグルアースで確認できた。ホント便利な世の中になったものだとつくづく思う。


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    2012.平成24年9月7日(金)


    ■張家口への旅

    今日奈良のMさん宅に4月に続き兄と一緒に再訪した。Mさんは小学校2年生から中学2年生まで張家口で家族とともに過ごし敗戦後に引揚げた。

    当時、張家口に暮らした日本人は、日本の敗戦から激変する状況で命の危機を味わったことからも、誰しも強烈な思い出があり、戦後67年たった今でも「張家口の会」を作り張家口への旅をしたり、その他の活動を続けている。

    前回に行った時にICレコーダーのスイッチが何故か?すぐに切れていて、回答してもらったことの記憶もあいまいになり、その他聞きたいことも増えたので旅の前にもう一度聞いておこうと訪ねた。

    そして又驚いたことに私の来訪に合わせたかのように、「張家口の会」で8月末から9月6日まで「北京→大同→張家口」の旅をしてきたGさん(仮名:昭和14年生:女性)が、同行出来なかったMさん宅に出来たばかりの写真を持ってこられた。本当に不思議だが、私にはこれも目に見えない「お導きだ」と感謝でしかない。

    昨日の帰国、そして今日の出会い。私もGさんも何も知らないまま・・・私は張家口の最新情報と幼稚園まで張家口で過ごしたGさんの思い出話もついでに聞くことが出来た。Gさんは男三人、女二人の五人兄妹。末の妹は昭和20年生まれとのこと。乳飲み子がいたことで帰国二便で早期の帰国が叶ったそうだ。

    Gさんの父親は張家口:税関職員で残務整理のために避難行に同行できず、お母さんが一人乳飲み子を抱え必死の形相でいたことが印象深く記憶に残っていると言われていた。そのご両親も戦後張家口を訪れることも叶わず亡くなっている。しかし乳飲み子を含めて五人兄妹が無事に帰国を果たした。

    この事実こそが満洲と異なる。蒙疆と満洲、それぞれの軍の二人の司令官の判断・決断が明暗を分け、それが多くの在留邦人の「死と生」とを分けた。どちらもそれぞれに決断の理由はあるが、決定的な違いは「軍人として邦人の命を守る」のか「軍人として命令に従う」のかの選択である。

    蒙疆司令官:根本博中将は、総合的な判断から、苦渋の末、天皇陛下の詔勅に逆らい「軍人として邦人の命を守る」決断をし「邦人の避難時間を稼ぐ為」に終戦後もソ連軍と戦った。そして満洲関東軍司令官:山田乙三大将は、軍人として天皇陛下の命令に従いソ連軍の武装解除を受け入れた。

    司令官の資質・決断によって明暗が分かれる。これはどんな組織でも同じである。小から大、すなわち「家族」の単位でも「小企業」「大企業」「国家」でもまったく同じだ。幾ら取り巻きが多くても決断すべきトップの資質がすべてを左右する。

    ゆえにトップに位置する者は、それが家庭であっても世帯主は覚悟が必要だ。覚悟とは「家族を守る覚悟」であり、それがどんな時、何を置いても優先されるべきことだと確信する。しかし「家族を守ること」すなわち「家族に対しての安易な優しさ」では決してない。「楽は苦の種苦は楽の種」が真理である。

    根本中将は「苦を選び、みなに楽をもたらした」。山田大将は「楽を選択し、みなに苦をもたらした」。私が張家口に行くことを決めたのは、司令官の決断で在留邦人を救うために敗戦を知りながらも、命を賭して侵攻してきたソ蒙軍を「張北」そして張家口・北27キロの「丸一陣地」で食い止めた戦いの跡を見たいからだ。

    その部隊は連隊旗を持たない混成旅団:響兵団が中心であり「またも負けたか八連隊(大阪)、それでは勲章九連隊(くれんたい:京都)」と揶揄された大阪・和歌山等々関西出身者中心の兵団である。ここに「勇将の下に弱卒なし」の格言を証する。トップがよければ全てよし。首相が無能であれば国は間違いなく劣化する。

    昨日「張家口」の旅から帰国したGさんの話では、Mさんの自宅だった四合院のある旧城内もほとんど壊され高層住宅になっているそうだ。もはやMさんの旧宅が今も残っているのは限りなく可能性が少なくなったが、周囲の山々や町の真ん中を流れる清河は昔と変わることはない。その風景を見に行こう。

    途中、Mさん知り合いの「バス会社の社長:Yさん」から電話があり、張家口での車の手配をしてくれるとのこと。恐縮至極であり、これも旅の縁となる。そして帰宅したら偶然にも天津で学ぶA君から北京案内の申し出のメールが届いていた。ホンマにGさんとの偶然の出会い、Yさんからの電話、そしてA君からのメールと、縁多き今日だった。

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    2012.平成24年9月12日(金)


    ■張家口で

    昨日Mさんに紹介してもらった岐阜のH・C(株)の社長であるYさんから宅配便が届いた。それには確認書が一枚添えられ、9月21日(金)東升大酒店に午前8時半、Yさんの知り合いの息子さん(ZJ君)が自家用車で私を迎えに来てくれることが書いてあった。

    Yさんにはタクシーでの二日間の包車(貸切)を頼んだのだが、Mさんの紹介ということもあってか日本留学の経験があり日本語も堪能なZJ君が二日間私に付き合ってくれることになった。彼のお父さんは張家口の有力者で、大きな会社の経営者でもあるそうだ。

    「二日間の車付きガイドの費用は一切不要」ということだが、中国ではそういった付き合いが普通でも、或いは日本人でも金持ち同士の付き合いなら、そうなのかもだが・・・。私にとっては「有難いけど、こんな場合どうすれば?」というのが正直なところだ。

    「お金は不要」と言われてもそうはいかず、「土産を持参」ということになるが、相手は大会社の御曹司。一体どんな土産を持っていけば、双方皆さんの顔を立てることが出来るのか?Yさんのアドバイスに縋るしかない。またその点について電話を頂けることになっている。

    そのほか「東升酒店のパンフレット」「張家口旅遊ガイドブック」「張家口の地図」も同封して下さり、そのガイドブックに私の知らない旧跡が写真入りで掲載してあり有難たかった。あれもこれもすべては縁であり、何もかも良き経験として楽しもう。金なく地位なき一介の市井の民である私は、頼まれても人を助ける力はないが、有力者はすぐにそれが出来る。


    ■デジカメ

    二三ヶ月前、動画撮影のためにハイビジョン・ビデオカメラを買った。旅で使うことが第一目的ではあるが孫も出来たこともあって買った。といっても2万円もしない安物だが。


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    2012.平成24年9月13日(木)


    ■支那朝鮮の反日

    尖閣問題で支那は反日で盛り上がっている。これも鄧小平が言った「後世への棚上げ論」を、当時の日本政府は無視していたものを日本メディアがまるで、それが暗黙の了解であるかのように作り上げてしまったことに端を発する。それを政治家たちも都合よく?利用した挙句が今のこのざまだ。

    とにかく支那朝鮮ロシアに関する問題の全ては戦後日本の低たらくに起因する。その根源は「自分で自分の国を守る」という気概を持たず、自ら牙を抜いたことにある。そんな生き物は、元より生存権を放棄したも同然で、今もって息をしていることが幸運なのだろう。

    橋下市長は今日の記者会見で集団的自衛権について、以下のように述べた。
    『行使を禁止している政府の憲法解釈を「国連憲章でも認められている。権利があるのに行使できないなんて、完全な役人答弁だ。論理的にも言語的にも理解できない」と批判。「それに対し何も政治がきちんと手だてできなかった。政治の恥だ」と強調し、歴代政権にも責任があるとの認識を示した。』

    良くぞ言ってくれた。この当たり前を、今までの政治家でこれほどはっきりと述べた者を私は知らない。みんな奥歯に物の挟まった答弁ばかりだった。「政治の恥」である。その政治の恥の積み重ねが、周囲に付け入る隙を作り続け、その結果相手側にイライラが昂じて反日も増幅する。

    しかしこの支那の反日については、昔も今も変わらず日本にとっては大陸と付き合う以上避けることの出来ない「宿痾」「業」である。明治維新後の日支関係は、大陸で白人列強が分捕り合戦で侵略していても、その中に日本が加われば、支那人の敵対意識の第一は日本となる。

    ロシアもそのようだが、ロシア人は、やることが支那人を上回る残虐性と横暴さがあり、その上、地政学的にも陸続きでロシア人を本気で怒らせればどうなるか身を持って分っている。1900年の黒河の対岸ブラゴヴェシチェンスクで起きた支那人大虐殺がその良い例だ。その後ロシアは満洲を蹂躙し居座った。

    しかし日本にたいしては、支那朝鮮の反発はどこまでもエスカレートする。幾らでもエスカレートし、例え「通州事件」のように日本人同胞が惨殺されても、それと同様な仕返しは日本人には出来ないし、それ以上は無論やらない。

    まして今の日本には軍隊なく、核もない。これからも反日行動は、支那朝鮮の国内事情にどこまでも都合良く利用され、どこまでエスカレートするのか?奴らの一存でしかない。今は、彼の地で同胞が戦前の支那事変勃発前のように殺害されても軍の派遣も出来ない。そして支那からはいつも核の恫喝に怯えていなければならない。

    全ては、身から出た錆だけど・・・。その支那にもうすぐ旅立つ。10日間の日程だが、正味8日間。「2005年、平成17年」、今のように反日デモ騒動の時に瀋陽領事館に行った。領事館前は車両通行止めで封鎖し武装警官の警備が厳重だった。その時私は用もないのに興味だけで領事館に入った。

    デモの騒動事態には遭遇せず、日本人として危険を感じたこともなかった。しかし、かの国では何が起きても不思議はない。法治国家でもなく「反日無罪」の場所だから。A君からも注意の伝言があった。自分なりに万全の注意をして、今の様子を見てこよう。

    私は基本的にビビリだから警戒心旺盛だし、行く前はいつも怖いけど、大概行けばそこには普通の日常生活の風景があり、何もないのが通常だ。もし何か雰囲気的に少しでも危険を感じるような時は、それこそ通常事態ではないはずだ。でもきっと偶発的なテロで殺害されたりする時も、あっけないような気がする。それを運命という。

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    2012.平成24年9月15日(土)


    ■旅たち前

    いつも通り準備中途半端なまま行くことになりそうだ。切羽詰らないと何も始まらない。いろんなことを考えるだけで整理も出来ず。“だいたい”ばかり、それに今回は台風16号の行方が気になる。飛行機が欠航なんてことになれば万事休す。

    1931年:昭和6年9月18日「柳条湖事件」勃発。満州事変から満洲建国と進んでいった。今も支那では反日の象徴的な日になっている。今回も9月18日には、もっと大規模な暴動となることが懸念されている。

    台風で欠航がなければ、その日に私は北京に到着する。旅の日程を決めた時、9月18日という日が「何の日」というのはまったく意識になかった。今回の騒動で9月18日がクローズアップされだしてなるほどそうだったと気づいた。北京到着も午後7時半と遅いので安全を期して空港→ホテル送迎¥180元(2230円)を頼んだ。

    この時期に尖閣問題が浮上したことはそれなりの理由があるのだろう。日本は政府が解体寸前であり、支那は主席交代の時期が迫り、米国も大統領選が始まる。こんな時期だからこそ支那漁船乗員や人民解放軍が尖閣への上陸を謀るという暴挙に出る可能性はあるだろう。

    戦後生まれの私は、今まで日本が武器を取って敵勢力と命を賭して戦う姿は、現実になかった。想像すら遠いことだった。だからどのような経緯から実際の戦闘が起こり、それが拡大するのか、よく分らない。まだまだ現時点で日本人の多くは能天気で、似非平和の中で暮らしいるから・・・。

    これから尖閣竹島に絡んでの支那朝鮮との関係はどうなるのか?日本固有の領土を巡っての支那朝鮮との対立は、戦前なら有り得ない。これが戦後日本が弱体化した象徴だろう。一体日本人はどう対処するのだろうか?



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    2012.平成24年9月16日(日)


    ■旅たち前

    台風16号は何とか行き過ぎてくれそうだ。反日暴動はかってない規模と惨さで拡大している。日本企業への焼き討ちや店への乱入強奪等々凄まじい様相なのに誰も逮捕されたとは聞かない。世界第二の経済大国になり、四年前にはオリンピックを開催した国がこの有様とは呆れるしかない。

    この様を見ても、日本は中国市場に媚を売り金儲けをしようとするのか?ならば今後もこの繰り返しになり、それも対立が生じるたびに暴動はエスカレートする一方だろう。支那とのすべての関係交流の縮小を望む。そんなに反日ならば支那のほうから日本との関係断絶を願う。

    そして、こんな時に中国旅行とは愚か者としか言えず、わが身に彼の地で何が起きても、皆に迷惑をかけ同情なく軽蔑されるだけだとは百も承知だ。2005年の反日暴動に続いて2012年、更に過激な反日暴動真っ只中の時に行く。一体そこには何が待ち受けているのやら?荷物は未だ何の準備もなく・・・。ホンマ切羽詰らないと動けない。


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    2012.平成24年9月17日(月)


    ■旅たち前

    支那全土に広がる反日暴動は、中共政府の内部闘争に利用され、暴動を取り締まる側の官憲が画策主導している。これも今に始まったことではなく、歴史を振り返れば一貫しての奴らのやり方だ。チベットも新疆ウィグルも内蒙古も、弾圧の前に官憲がその材料を作り、非力な民族を抹殺している。

    日本人から見れば信じられないことばかりだが、それが奴らのやり方だ。今回の反日暴動も携帯写真などで官憲主導の証拠写真を誰かがネットに投稿して明るみに出るが、それ以上のことは何もない。良心も道徳もない人間のやることは、どこまでも卑劣で際限もない。

    ここまでされても日本企業は支那に行くのか?哀れなものだ。奴らがまともになることは未来永劫ない。それは歴史が証明している。「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」・・・べきなのに、どこまで日本人はお人よしなのか?それとも金儲けしか頭にないのか・・・。結局は大損するだけなのに。




    ■明日の北京は?

    明日の北京はどんな状況なのだろう?明日の今頃(午後9時40分)は、すでに天安門広場から東へすぐの“東交民巷飯店”にチェックインしている。一応、万万が一に際して家内には、後始末のことを託している(笑)。長男からも「なんかあったら自己責任では片付かんから・・・」と釘を刺されたが、私もこうなるとはまったく思っていなかった。

    まあ今回のこの旅に関してだけでなく、これから先、私がどこでどんな惨い不慮の死を遂げても私の願いは唯一つ、残った家族は、無理やりでも「昨日までと同じように今日、明日、そして将来を生きて欲しい」。私がまるで天寿を全うしたか如く・・・。それこそが私にとっての「勝ち」であり、それ以上の私への供養はない。

    まあ反日暴動の不安もあるが、張家口の天気予報も悪い。二日連続降水確率70%と、雨の覚悟が必要だ。でも天気は行ってみれば予報とは違ったこともたびたびなので、何とか良い天気して下さい・・・と、ご先祖に縋るしかない。

    もし旅行中に尖閣で紛争が起き、日本人が人質として帰国をストップされれば・・・。黒河へ行きアムール川を渡河しロシアに亡命を求めようか?それとも雲南まで行ってミャンマー国境に脱出しようか?それとも図們川、鴨緑江を渡河して北朝鮮に行けばどうなるのか?まだ私は命の危機に直面したことはない。

    やっぱり明日の出発前には、平穏無事の道中を祈り、無事帰国が叶うことを仏壇の前に座って心よりお願いしてから行く。


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