2012/09/18 - 2012/09/26
26位(同エリア36件中)
明石DSさん
張家口「東升大酒店」にて
晴天の朝、14Fからの景色
川向う右側大きなビルが
「北方学院付属第一病院」
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6日目:9月23日(日):晴れ
張家口を散策する
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2012/平成24年9月23日(日)
■張家口の朝、晴れ
久しぶりに晴天の朝を迎え、「よし!やっぱりもう一度丸一陣地に行こう」と決めた。丸一陣地跡と言っても、その陣地跡に作られたであろうソ蒙烈士陵園というだけで、丸一陣地跡という明らかな何かが残っているのではない。「丸一陣地戦車壕跡」も帰国後に写真を見比べ、Mさんに再度確認して「やはりそうだったなあ」と今は自分自身納得しているが、私自身が元兵士に確認した訳ではなく、残念ながらそれ以上でも以下でもない。
その時は「これがたぶんそうだろう」と推測するぐらいで、何ら表示もなかったので、もう一度そこに行こうかどうか?迷っていた。そして昨日の夜は、「行かない」と一応決めていた。でも今朝の青空を見て、「やっぱり行かないと悔いが残る」と行くことにした。
朝の14階の展望レストランでは、初めて快晴の張家口の景色が360度広がっていた。天気が良いと気分も良くなる。食事をして一階ロビーに下りてフロントの小姐に「包車しいたから運転手を紹介して」と頼んだ。三人の小姐がその場に居たが、その中の一人が携帯で連絡をしてくれた。
「すぐに来る」ということだったが、なかなか来ないので聞いたら、あと50分間くらい掛かるとのこと、「それなら自分で見つけるからもうええわ」とナップサックを担いで外に出た。出た途端、小姐が追っかけて来て「あと10分で来るから・・・」と言う。“ふざけやがって”と思いながら待つ。
来たのはがっちりした30代の男の運転手(楊慶豐:仮名)。「ソ蒙烈士陵園・大境門・西太平山・最後は張家口市中級人民法院(第一国民学校跡)で降りる」ということで包車料金を聞いたら、「ソ蒙烈士陵園は遠いから¥350元」と言われた。「高い!」と私が言うと、「幾らなら良いのか?」と聞いてきた。包車の時はいつもこのパターンである。
「300元」と私が言うと「320元なら」というので、「まあええか」と、その金額で包車は成立した。今思えば最初に張家口南駅に着いて、そこから東升大酒店まで乗った運転手に「張北まで幾ら?」と聞いたら、¥180元と言っていたから、その他何ヶ所か回って¥320元は高い。他のタクシーを探せば半日¥250元でOKだと思う。
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尾根伝いに長城が延びている
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■再度、丸一陣地に向かう
久しぶりの青空の下、今日はタクシーをチャーターして9時出発「丸一陣地」へ向かった。
清河に架かる張家口通泰大橋を通り、西太平山隊道(トンネル)を抜けて右手に万里の長城を見ながら、前回と同じ悪路をしばらく走り、膳房堡には寄らないから途中から高速道路へ入って野狐?(Yě hú lǐng 野狐嶺)で高速を降りたらすぐにソ蒙烈士陵園に到着。 -
野狐嶺の出口で高速を降りたらすぐにソ蒙烈士陵園がある
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蒙烈士墓
数字はあてにならないが・・・。
ここにソ連軍兵士54名、蒙古軍兵士6名
計60名の犠牲者が葬られているとのこと
日の丸峠を越えてすぐの所だから
やはり海抜1561米と高い
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■ソ蒙烈士陵園
21日に続いて二日後の二回目だから、迷わず陵園内を歩き、青空の下、周囲の景色を見渡した。そして21日には霞がかかっていたからなのか?余裕がなかったからなのか?気がつかなかった張北街道がはっきりと認識できた。ここなら迎え撃つ陣地としては最高の場所だろう。
東西に広がる丘陵の谷底に南北にカーブしながら張北からの一本の道が通っている。そしてその道を横切り丘陵に伸びて東西に「幅6メートル、深さ4メートル」で掘られたの戦車壕跡が今も人知れず草原の亀裂として残っている。
そして街道と戦車壕が交わるところに一本の木橋が架けられていた。この眼下に広がる景色の中で、67年前の8月19日日本軍は在留邦人避難の時間を稼ぐために自らの命を犠牲にしてソ蒙軍と戦いを始めた。 -
赤丸の所にタバコとビスケットを置き
ここで戦死された方々に哀悼の意を表す
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8月19日、ここでの戦闘
「日本人を守る最後の戦い」:稲垣 武(著)より
8月19日
8月19日未明。細雨のなか、低くたれこめた朝霧の彼方から無数のエンジン音が近づいて来た。「来たぞ!」 一斉に陣地についた響兵団の将兵の眼に、自い霧のカーテンをすり抜けるように黒いシルエットが浮かび上がる。陣地中央を、張家口に走る街道の左の斜面に布陣した第二連隊第二中隊長の畑丈夫中尉が双眼鏡で見ると、張北に通ずる街道を、一列縦隊になって、薄明のなかを煌々とライトを照らしながら敵装甲車群が殺到して来る。
道路の両脇には、対戦車地雷が裡設してあった。敵装甲車は、それを避け、道路上を進む。その前後左右には、敵歩兵が、起伏の多い地形を見えかくれしながら躍進して来る。「直ちに木橋を爆破せよ」命令が飛んだ。装甲車群が直進して来る街道を横切る対戦車壕の上に頑丈な木橋がかかっている。これは、張北方面から撤収して来るであろう特務機関員や護衛隊を収容するためと、水汲みのために、最後まで残してあったのである。
丸一陣地には塩水しか出ず、真水を得るには前方の井戸を頼るしかなかった。木橋の下には、すでに爆破作業隊長の横田昭軍曹以下、八名が待機していた。橋脚の四力所にセットしてあった黄色火薬の導火線に火をつけた。そして壕から一斉に飛び出し、陣地へ駆け戻ろうとした。十数秒後、爆発音と共に、木橋の陣地側(内側)の橋脚が吹き飛び、木橋は傾いた。同時に、疾走して来た装甲車群が停止し、戦車砲、機関銃の猛烈なつるべ射ちが始まった。敵陣の後方からは、12センチ榴弾砲や、迫撃砲の猛砲撃も加わる。
爆破の土煙にかくれて、あと少しで陣地内の壕にたどり着こうとしていた作業隊員たちは、その場にクギ付けになった。わずかのクボ地や、砲弾跡の穴に身を伏せ、雨あられと飛んで来る敵弾にさらされていた。陣地前面の鉄条網付近には「ワレ抗戦セズ」という意志表示のための白旗が掲げられていたが、敵の猛射のため、すでに作業隊員の半数が死傷した。「衛生兵、前ヘ!」悲痛な号令が飛ぶ。しかし、救護に飛び出そうとした衛生兵も顔をあげられぬ程の敵の猛射のため、壕から飛び出すこともてきない。
第二中隊は、たまりかねて、作業隊の撤退援護のため応射した。全火力を集中した。戦車壕内のトーチカにいた多田正夫上等兵は、侵入した敵歩兵に、銃身も裂けよとばかり軽機関銃を射ちまくり、敵を撃退したが、自らも頭部に銃弾を受け、また第三小隊、田中華二等兵も、敵砲弾の直撃を受け、瞬時に上半身を吹き飛ばされた。
その時、最前線に位置していた第一小隊が、擲弾筒の一斉連続射撃を始めた。装甲車群の周辺を爆煙が包む。擲弾筒の榴弾ぐらいでは、装甲車はビクともしないが、敵は、野砲の弾幕射撃とでもカン違いしたのであろう、クルリと向き今変えて、引返し始めた。そのスキに、作業退隊員らは壕に走りこみ。死傷者も収容された。
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「日本人を守る最後の戦い」:稲垣 武(著)では
戦死が判明された方、73名の名簿が記されている
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この地にはソ蒙軍戦死者の霊を慰める碑はあるが、日本軍戦死者を弔うものは何もない。今も丘陵に死闘を演じたはずの溝が人知れず残っているだけだ。その戦いのことも私はこの旅に来る前に初めて知った。
戦争を生き抜き終わりを告げた其の後で、彼らは黙って戦いに身を捧げたというのに、その慰霊の碑も何もなく壕らしきものだけが、彼らの激戦の証として残っていた。それすら私には定かではない。
晴天の23日、草原が広がる丘陵で日本から持参したビスケットとタバコをそっと置き、一人般若心経を唱えた。此処で亡くなった戦死者は浮かばれることはない。戦後の日本人が自虐史観に埋没し、大東亜戦争を負の歴史としている限り戦死者は浮かばれることはない。平和こそ全てだと誰が叫ぼうが私は違う。誰の同意も不要だ。例え英霊がそんな私を否定してもだ。
長くいたつもりだったが30分ちょっとだった。私はいつものように自己満足して帰路についた。もう二度と来ることはないだろうこの地に別れを告げて・・・。 -
門の向こう側に止まっているタクシーで来た
1945/昭和20年8月19日〜21日まで
この地でソ蒙軍と戦い邦人引揚げの時間を稼いだ
日本人の誇りである -
勾配の急な下り坂が続くので
各所に緊急停止用の砂溜りが設置されている
登りでは・・・
排気ガスを大量に吐き出しながら
あえぎあえぎのトラックが多い
下り坂はブレーキが効かなくなることも多いだろう
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■日の丸峠を下る
帰路、運転手の楊慶豐は次の大境門に行く都合なのか高速道路ではなく日の丸峠を下り旧街道を走った。私にはその方が嬉しかったが。ソ蒙烈士陵園から20分程で、先日立ち寄った膳房堡を通過した。
20分も掛かったのは、きっと楊慶豐がゆっくり走るからだと思う。終始安全運転というか、速度は遅く急ぐ旅ではないので安心感はあった -
当時この峠を行き来した日本軍兵士たちも
この風景を見ながら故郷を思い浮かべていたかも -
後ろの赤い屋根が膳房堡客運站
我これより張家口に撤退する、サラバ! -
楊慶豐がローンで購入したマンション
6階建てだがエレベーターはない
低層階の窓の防犯金網が治安を物語る
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■楊慶豐の自宅訪問
大境門が近づいた時、楊慶豐が「自宅に寄らないか?」と誘ってくれた。私はそれならと寄せもらうことにした。子供のいない若夫婦の家を訪ねるのは初めてだし、何でも好奇心旺盛なので付いて行った。6階建てマンションの5階、それでもエレベーターはない。部屋は広くて、確か80?以上あると言っていた。ローンで購入している。
部屋は綺麗に片付いていた。液晶大型テレビが居間に置いてある。リビングの広い2LDKだったと思う。そして楊慶豐は「百年維新路」という日本の本を読んでいた。明治維新のことを書いている本のようだった。そこで私は自分の思う日本の誇り「天皇陛下:皇室の存在」の有り難さを筆談を使って説明した。
権力なき統合の要:誰しもとって変わることが出来ない、男系継承による万世一系「天皇陛下」の下に日本人は平等の立場を得て、家族のような形で国家を成している。だから日本には悪しき独裁者も出現出来ず、共産主義も台頭しない。この国の形(国体)を守り続ける限り、日本人は不幸な民とならない・・・と。
皇室の存在のありがたさは、今の日本人にさえ不幸にも分らぬ奴が多いのだから、他国人、いわんや国有ってなきが如くの漢人にそのことを理解してもらえると思わないが、彼らと比較して日本人の幸福を思う。 -
楊慶豐は新婚さん、子供はいない
居間には大型液晶テレビが置いてあった -
自分の書斎部屋に「百年維新路」という
日本の維新以降を紹介する本が置いてあった -
楊慶豐に説明した筆談メモ
別に聞かれた分けではないが
日本人にとって最重要は皇室の存在だと
筆談で皇室のありがたさを説明する
たぶん私のカタコトの中国語と筆談では
万世一系男系継承による天皇陛下の
存在の意味ついて理解してもらなんて無理だろう
日本人にもそのありがたさが分らない者が多いのが
私の一番の杞憂とするところだ -
大境門
昨日に続いて来たが、天気が良いだけで
他はなんら変わらず。遠くから眺めるだけだった
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■大境門と西太平山
天気の良い日に来たが、崩壊後はやはり天気が良くても変わりようもなく、門にも近づけない。もうすぐこの大境門と万里の長城、そして周辺に見たくもないピカピカ偽物旧古風市街出現によって、私の評価では観光価値は限りなくゼロになる。
西太平山山頂を目指す
「万里の長城第一門:大境門景区」と書かれた入場門を10元の門票(駐車代)を購入して入って行ったが、工事中故なのか?頂上まで行けないようだった。途中眺望の良い所に車を停めて周囲を眺め写真を撮る。案内図によれば、ここから古長城を通って水母宮にも大境門にも行けるようだ。
石積みの簡素な長城がどこまでも続いている。一体こんな代物で北方民族からの攻撃が防げたのだろうか?延々と続く境界を城壁で囲う発想には恐れ入るが、Web頁で検索すれば、北方騎馬民族の襲来にはそれなりの効果があったようだ。騎馬民族が羊を兵隊の糧食として帯同する場合も羊が城壁を越えられない等々。
一説に寄れば長城は『一番始めは紀元前七世紀に楚の国が作り、それから十七世紀の明朝まで、およそ二千年の間作り続けた。』・・・これだけ長期に渡って作り続けるということは、効果あればこその代物だろう。そしてそれだけ北方騎馬民族に手を焼いていた証でもあり、北方民族優勢の時には、彼らに多額の金銭を朝貢して侵攻を防いでいた。
それでも
『元(げん)は、1271年から1368年まで97年間、中国とモンゴル高原を中心とした領域を支配した。』
そんな過酷な大陸の攻防を島国日本人は、想定内として対応できるのか?「豊臣秀吉の明征服を目指しての朝鮮出兵」「支那事変」そして「現在の状況」等々を鑑みれば、日本が支那大陸へ“利”を求めての進出は結局失敗に帰する。これは経済進出も同じだ。
凄まじい攻防の歴史を経た支那との領有権争いは、こっちが軍事的に弱く、覚悟もなければ、結果はおのずと明らかだ。尖閣への侵略を企てている中共政府に対抗するには、日本人の覚悟が必須である。
そして核保有国に対しては、核でしか対抗できないことを肝に銘じ、日本は即刻の核武装を目指さなければならない。軍事力とそれを行使する覚悟で勝るしか日本を守ることは不可能だ。元寇「文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、弘安の役(こうあんのえき・1281年)」という蒙古襲来に対した日本の姿こそ「学ぶ」べきである -
西太平山の関門、10元の門票(駐車場代)
日曜日だが、観光する者はいない -
石積みの長城が尾根伝いに続く
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どでかい山からすればとるに足らない筋でしかないが
それでも人間には効果があるとはこれいかに?
自然を前にすれば人間の小ささを思う
大地の身震い一つでどんな建造物も瓦解する
壊れないのは大きく揺れないからだ -
西太平山中腹から張家口中心部を写す
工事中で山頂まで登れず -
張家口の旧跡
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■第一国民学校跡へ
太平山を下り包車最後の地点、国民学校跡である市中級人民法院に向かった。ここには2008年には第一国民学校北側校舎が残っており、Mさんの写真にあった。そして運転手の楊慶豐が、人民法院に近づいた時に「この辺に昔の建物が残っている」と言うので、「それはどこ?」と場所を聞いたら、「あの辺り・・・」と指を指し示した。
ちょうどその場所は人民法院の西裏側で、「それならここで降りる」と言って楊慶豐と別れた。楊慶豐には明日8時半宣化賓館まで80元で送ってもらう約束をした。そして、タクシーを降りて歩いて周囲を探したが、見つからず。
建国路の第一国民学校跡に行く前に、すでに午後1時になっており建国路の手前にある日本料理店に入った。一昨日の21日夜、ここでキュウリ巻きと餃子、そして松茸スープなどの夕食を食べた。今日もキュウリ巻き・新香巻き・味噌汁を食べる。
先日は夜で気付かなかったが、看板の日本料理店の「日本」という文字だけが意図的にか?偶然か?分らないが外れていた。たぶん日本と言う文字が目立つとヤバイと思った店主が自主的に外したのだと思う。それで店主の気持ちを表し破壊の標的にならないようにとの思いが込められているように感じた。多分それは私の考えすぎだろうけど。
一服し、また気合を入れなおして張家口散策に出る。日本料理店を出るとすぐにT字路で建国路と交差している。左に曲がって建国路を歩くと、すぐに左手に大きな市中級人民法院がある。この敷地内に第一国民学校北側校舎があるのかもだが、道路を隔てた対面には人民解放軍の正面玄関があり、あっちもこっちも玄関警備が厳しそうで、どうにも反日騒動の余波が自分の気持ちの中にあり、弱気になって入るのは断念した。
この小学校には、画家・版画家・彫刻家で芥川賞作家の池田満寿夫も、この国民学校で5年生で終戦を迎えている。母親が飲食店を経営していたそうだ。
私はいつだったか記憶にないがテレビ番組で池田が、とある小学校を訪問し、魚を描いたのを見てガッカリしたことを覚えている。池田も自嘲して照れ笑いそしていたが、小学生の描く魚より下手だったから・・・。私はデッサン力のない画家は元より画家として認めない(笑)。 -
今日歩いた、Mさんの通学路
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車を降りて腹ごしらえ
東安大街にある日本料理店
前回は夕食、今日は昼食
看板の日本が外れているのは対策か? -
キュウリ巻き・新香巻き・味噌汁
味は日本と変わらず -
東安大街と建国路の角にある薬局
看護婦の制服で店頭販売 -
三回目の第一国民学校跡
写真がこの場所に建っていた当時の学校 -
第一国民学校跡にある「張家口市中級人民法院」
警備員がいるので正面から写真を撮りづらい
道の向こう側は人民解放軍の警備が立ってるし -
東安大街を西(張家口駅方向)に向かって歩く
歩道は人が歩く道ではない、人は車道しか歩けない
それでも歩道を歩きたければ三倍の時間が掛かる
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■Mさんの下校時の道を辿る
第一国民学校跡から、今度はMさんが小学校時代の下校の道を辿って歩いた。来た道を引き返し日本料理店があるのが東安大街で、やや下り勾配の道を西に歩く。この東安大街は昔はもっと狭くて両側に、怪しげな骨董品を置いている店があったり、貧民窟のような場所もありで、Mさんは、学校帰り店に並んでいるいろんな物をキョロキョロしながらの帰り道だった。
時代を表すように「モーゼル拳銃のケース」だとかも置いていたようだ。当時のことだから欲しければ拳銃も手に入ったのだろう。張家口の街には支那人は無論多数派だったが、ロシア人も結構いたようだ。それに蒙古聨合自治政府なので蒙古人、朝鮮人・台湾人なども居住していた。
Mさんが張家口に来た昭和14年
日本人:「13,829(内男:8,405)」 朝鮮人:「1298(内男:755)」 台湾人:「8」
終戦の昭和20年
日本人:「21,773(男:11,777)」 朝鮮人:「1,289 (男:713)」 台湾人:「42」
将来の独立を目指す蒙古人徳王(デムチュクドンロブ)が主席の自治政府といっても実質的には日本及び日本軍の統治下であった。一体、そんな張家口というのはどんな雰囲気の街だったのだろう?
昭和20年に入るまでは、まだ内地と違って空襲もなく敵の攻撃もなく、アジアの盟主日本人として張家口での暮らしも安定し、大手を振って暮らしていたのだろう。そんなアジアでは敵なしの日本軍も、太平洋戦線で玉砕を続け、ドイツが降伏したあとは一気にこの辺の雰囲気も変わっていった。
そんな場所に暮らし、歴史の大転換になるような経験なんて、生まれる時代と、そんな国に生まれてこそ経験できる。それは選択の余地なく否応なしであり、例え地獄を味わおうが恨みつらみをいっても始まらない。そんな稀有な経験を宝として以後の生涯を過ごす方が余程得策だと思う。一生涯愚かな周辺国に舐められて生きるのとどっちが良いのか?問うてみたい。
東安大街を西に歩いたら、勝利北路と交差する。そのまま直進して左に曲がれば張家口站前広場に出る。 -
勝利北路を西に渡って、尚、東安大街を駅に向かう
昔はこの道も狭くて、左右に不可思議な店も多かったのだろう
想像するだけで楽しいが、六十七年の歳月はこんな変化をもたらした
この先を左に曲がると張家口駅 -
張家口駅前広場
昨日に続いて今日も来た
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■張家口駅と百盛百貨店
昨日も来た張家口駅。駅内にも入り、当時を思う。どれだけの人たちがこの駅内駅前に溢れ、荷物が積み上げられていたのだろう。
駅と駅前広場から又下校時の道に戻った。そして最近出来たらしい“PARKSON百盛”という百貨店に入る。中は日本とも変わらぬ雰囲気の店が並んでいるが、驚いたことに日曜日の昼下がり、客がいない。店員が手持ち無沙汰に同僚と笑顔で話している。一人二人の客など見向きもせずに・・・。
エスカレーターで上まで上がったが、結局各階ともガラガラだった。シンガポール資本の百貨店のようだが、どうやってこれから張家口店を繁盛させるのだろう?
百盛を出て初めて清河橋を渡りMさんの家があった城内(堡子里)の二道巷に向かって歩いた。 -
“PARKSON百盛”
その外観は立派だが、客がいない -
日曜日の午後2時
どのフロアーも従業員がウロウロ
客は指折り数えるほどで、ムムム -
初めて清河橋を渡る
路上にへたり込む“おっさん”三名
アヘン中毒ではないだろうなァ -
清河橋を東から西に渡る
この時が渡り初めだった
いざゆかん城内へ -
城内には各所に案内表示あり
道の表示もされているので助かる
大きな写真↓
http://akasids.web.fc2.com/sonota/201210/jyounaitizu.html
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■張家口城内(堡子里)へ
今の地図には清河を挟んで東を「橋東区」西を「橋西区」と言った区分けがあるが、当時(1945年まで)は、そんな呼び名は無かったようだ。そしてこの堡子里(バオズリー)も城壁があり城内と呼んでいた。
この堡子里は明(宣?四年//1429年)時代に作られ、すでに600年近い歴史がある。清朝末期の1909年、北京⇔張家口の京張鉄道(京包線)・が開通し、日本・英・徳・露・美・仏・蘭(オランダ)等々の外国商社も進出していた。
しかしMさんが暮らしていた当時、城内に白人の姿はなく、城外にはロシア人が結構いたようだが、それ以外の白人の姿は見かけなかったそうだ。英米蘭など日本の敵国ばかりだから当然だろうが・・・。今も英米の洋行と記した建物跡は城内のアチコチにあった。
このあたりは昔からアヘンの産地であり、日本もこの地で製造販売をし、それによって莫大な利益を上げていた。そのことを今も執拗に非難する日本人がいるが、私は日本の阿片管理によって、それ以前よりこの地、また支那においてアヘンに関しての状況が悪くなったとは思わない。
阿片も当時の状況下に置いて利用すべきは上手く利用したということであり。今の日本人がことさらそのことに対して「道徳・正義」などを掲げて糾弾するなど偽善でしかない。当時に今時の綺麗事など通用するなんて笑止千万お笑い種だ。張家口に赴いた若き財務官僚:大平正芳元首相も張家口の経済発展に寄与し大いに活躍した。
この堡子里は、6百年の歴史はいざ知らず、今もそのまま映画のロケ地にも使える雰囲気を残している。そしてその雰囲気もこの一、二年の内に無くなってしまうかも?それは、大境門仿古街が完成したら、次にここを住民を立ち退かせ大々的に修復し保存することが決まっているそうだから・・・。
私の意識では中国においての古い建造物の修復は、ピカピカにするであり、それは、イコール「見るも無残に価値を無くす」・・・遠望から眺めればそれなりだが、近寄ればまことにつまらぬ物となる。
そのことを聞き、今年ここに来れて良かったと心底思った。万が一しかの確率はないが、いつの日か再度この地を訪れ修復後の堡子里を見たい気もする。その堡子里の路地から路地へと、歩き回りデ写真とジカメ動画を撮りまくった。 -
城内地図
大きな写真↓
http://akasids.web.fc2.com/sonota/201210/jyounaitizu.html -
鼓楼東街を西に歩く
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■城内を歩き回る
清河橋を西に渡り東関街から入り、また武城街に戻って東門大街から城内に入る。この中はすでに観光地として案内板が設置され、路地もすべて名前が表記されている。五道?巷(Wǔ dào miào xiàng 五道廟巷) ?泉?巷(Jǐn quán xìng xiàng 錦泉興巷)等々と表示のある路地を歩いているが、今もってそこがどこなのか?分らないけど・・・。
しかし城内の幹線路?は、帰国後動画や写真から自分の歩いたルートが分り、地図によって城内の全体像も掴めた。文昌閣(1618)という鼓楼が城内の中心にあり、そこから東西南北に鼓楼東街、西、南、北街と道が伸びている。それがはっきり認識できてやっと城内の感じが掴めた。
中心の鼓楼には東西南北それぞれに「東:鼓樓」「西:山樓」「南:文昌閣」「北:鐘樓」と表記されているようだけど、その意味は不知道(知らない)。
それと鼓楼北街の北端に玉皇閣(Yù huáng gé 明王朝1581建立)があり、ここは城内の北端で今も少し城壁が残っている。この二つの鼓楼の位置を把握すればこの城内散策も迷わないはずだ。
20日に張家口に来て、21日、22日、そして今日と、連続三日間ここに通ったが、最初の内は、どこを歩いても周囲の建物は古い物ばかりで景色も変わらず、迷路をさ迷う如くだった。しかしこの日は一人でブラブラと歩き、大体の感じを掴めて来た。
文昌閣に今日初めて登った。門票は10元。城内の中心にあるので東西南北の様子が良く分る。城内の建物も平屋か二階建てまでなので、屋根の惨状からも見るからに年月を感じ、その荒れ放題振りが一目瞭然だ。これでは雨漏り放題のようだが一体どうなってるのか?帰国後写真を見て”雨漏り”を聞いておくべきだと思った。
昔の建物をそのまま使ってくれているのは旅行者としては、ありがたいの一言だが、もう少し綺麗に使い続けないのかがいつも不思議だ。それなりの理由があるのだろうけど。張家口に限らず、古い家屋を使い続けているところは見事にどことも同じく荒れ放題である。
Mさんの旧宅だけではなく、Mさんのお父さんの建設会社(M組)があった場所、友人宅等々を探して歩いた。一ヶ所不明だったが、あとは探し当てた。といっても場所が特定できたがMさん宅以外は建物は立て替えられていた。
城内をあっちに行ったりこっちに行ったり、良く歩き良く見て満足した。2時間くらい城内を散策した。そしてホテルへの帰路に、今日も武城街を歩いたが、河向こうの閑散とした百盛百貨店と違ってこの商店街は今日も多くの人で賑わっていた。 -
このような表示がされている
鼓楼西街にて -
このような表示がされている
鼓楼西街にて -
城内の中心にある鼓楼:文昌閣に入る
門票10元 -
階段の上で“オバチャン”が門票を売っている
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鼓楼西街
-
鼓楼北街
この正面突き当たりに
もう一つの鼓楼「玉皇閣」がある -
鼓楼南街
この先、最初の路地を右に曲がれば
Mさんの旧宅がある二道巷 -
鼓楼東街
左の建物は小学校 -
この屋根の様相を見れば
誰しも雨漏りを心配するだろうに
一体雨の日は室内はどうなってるのか?
そこらじゅうの屋根はこんな感じ、凄い! -
文昌閣
この城内は最高だ!
昔のままの雰囲気の中に
昔のままの生活の場がある
行き来する人たちも
何故か?映画のエキストラのごとく -
まさか屋根に畑を?ではあるまいが・・・
面白いなァ〜
こだわらないというのはこんなことなのか? -
文昌閣は道教聖地・・・か
門票10元
居士(在家の信徒 Jūshì)
信徒 門徒は免費(無料) -
右の建物
馬道底街の東角にあるSさん(Mさんの友人)の旧宅
旅館になっているので立て替えられているかもしれない
路地は鼓楼北街、左に曲がれば「玉皇閣」 -
北側城壁の上にある「玉皇閣」へ
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この境内で昔は支那人少年たちが
青龍刀などを使って武術の稽古をしていたそうだ
Mさんも格闘技が好きなので良く覚えている
日本人はその中に加わっていない -
南側正面に鼓楼「文昌閣」が見える
玉皇閣が北側城壁の上
文昌閣がこの城内の中心部に位置する -
城内の北西一帯に城内と同じく古い街並みが残っている
右斜め前方に第一病院(旧察南病院)の建物が見える -
玉皇閣の城壁
-
今も玉皇閣の左右に一部城壁が残っている
-
万里の長城がどこからでも見える
北からの守りの要所であったことが分る -
玉皇閣
-
玉皇閣の境内
ここで少年たちが武術の指導を受けていたのだろう
その様子を想像するだけで、そのまま映画のワンシーンだ -
城内周遊観光バス
私は乗らずだった
あまり見かけなかったし -
堡子里の門
この門は戦後作られている
鼓楼南街の南端にある
城壁があった時は、東西南北の門があった
そして特に東と南の門は立派だったようだ
戦後城壁が壊され南門もなくなった
この門が立派な南門の代わりなのだろう
東には今は何もない -
鼓楼南街が狭い路地に店も並び
一番雰囲気があった
良く見れば歩いている人は確かに服装は現代だが
服は関係なく昔の時代へ自然にタイムスリップできる
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張家口「城内(堡子里)」を散策する
http://youtu.be/AcjIIq8dvns -
城内を出て武城街を歩く
川向うの百盛百貨店と違って
この通りは昔ながらに賑やかで活気がある -
至善街に立つ特警と武装警官
毎日この場所に立っていた
尖閣反日騒動は、収まらないだろう
いずれ尖閣の領有をめぐって奴らは戦いを仕掛けて来る
その時に備えて日本人は覚悟と準備をしておかなければならない
チベット・新疆ウィグル・内蒙古にならないように
14億の民を抱えた中国はなりふり構わない
特に日本には容赦することはない、日本を屈服させることは
聖徳太子以降、奴らの悲願でもある
奴らの野望を諦めさせるには日本は即刻核武装をする以外にない
敵対する核保有国に対しての抑止力は、核武装しか有り得ない -
五一大街の映画館のポスター
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ホテル周辺も路地に入ればこんな感じ
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■東升大酒店へ戻る
今日も歩き疲れ東升大酒店に戻って小休止のあと、また周辺を散歩する。今日の夕食は、20日夜と同じホテル内のレストランでお粥と餃子を食べて、張家口最後の夜は終了。
中国旅行を始めてから、一人旅で同じ場所に四泊するのは初体験。実り多き張家口の四泊五日、といっても正味三日間だが、明朝を持って終了し宣化へ向かう。 -
ぐるぐるとそこらを歩き回りたくなる
旅行に来れば足が棒になるまで歩いてしまう
部屋で休息が出来ない性分だ
これも損得勘定が強すぎるからなのか?
それとも好奇心旺盛というべきなのか? -
最初の夜に食べたホテルのお粥レストランで張家口最後の晩餐
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最初の日は甘みのあるお粥だったが 今日は塩味のお粥さん
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それと餃子三つ
これが質素な私の夕飯だった
これで十分、食前に果物を食っている
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