2012/09/18 - 2012/09/27
29位(同エリア36件中)
明石DSさん
張家口「東升大酒店」にて
毎朝朝食時に眺望を楽しんだ14階展望レストラン入り口
これだけでも東升大酒店を選ぶ価値はある
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7日目:9月24日(月):晴れ
張家口から宣化へ
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2012/平成24年9月24日(月)
■張家口最後の朝
四日間同じホテルに泊まり、朝は14階の展望レストランからの眺望を満喫した。今日も薄靄が掛かっていたが眺めよく、街の中心を流れる清河のある風景は、いつまでも私の記憶に残るだろう。
その後、部屋に戻ってテレビを付ければ、今朝も尖閣問題でCCTV女子アナは金切り声で喚いている。そして私のテンションも下がる。今回の旅はそれの繰り返しであり、正直気分は悪かった。「見なければ良い」と言われればそれまでだが、やはり旅行中はエスカーレートしていないかと気になって見ていた。
そんな番組の中で特に嫌悪感を抱いたのは、中国に媚びた日本人の発言を聞く時だ。なかでも野中広務の発言は最悪だった。このインタビュー番組は何度も流されていた。その他にも元国連事務次長:の「明石 康」とか元外交官「孫崎 享」とかがインタビューに答えていたが、奴らに利用されるのを承知の発言は聞くに堪えない。
8時半に昨日の楊慶豐が迎えに来てくれるので、8時過ぎに部屋を出て退房の手続きをし、押金から部屋代を差し引いた残額を返してもらった。部屋代一泊¥398元×4=¥1592元、それとズボンの洗濯代¥8元で計1600元(¥20,800円)。押金に¥3000元渡していたので、¥1400元が戻ってきた。
一階ロビーの椅子に座って時間が来るのを待っていたが、隣に「中国人民解放軍 空軍」という星一つの腕記章をつけた“おっさん”兵士が作業着のような制服姿で座っていた。やはりZJ君が言っていたように張家口には軍人が沢山いるのだろう。
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今日の空模様
快晴は一日だけだった
青空だけど靄が掛かっている -
元外交官「孫崎 享」
こいつは自分の中国配慮発言によって緊張緩和されると思っているのだろう
その相手に媚びた言辞が、今の結果を生んでいる
売国奴として日本で叩かれないから、こういった外交官を次々と生み出す
綺麗ごとは互いの本音を理解出来ず更に悪化を辿り、両国の国益を損ない続ける -
一階ロビーに座って楊慶豐を待つ
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空軍兵士がのんびり椅子に座っていた
朝から軍務なのか暇つぶしなのか
日本の自衛官の姿とは異質だが
所変わればシナ変わる -
トヨタ
玄関に中国国旗を二本掲げ
窓にも中国国旗を貼り付け
商売とはいえ惨めなものだ
中国なんて無視しておけば
儲けのネタになるなら
向こうから擦り寄ってくる
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■宣化に向かう
時間が迫ったので玄関から外を見たら、楊慶豐はすでに停まっていた。ちょうど東升大酒店を8時半に出発し、一路宣化賓館に向かう。
途中マツダ、トヨタ、ホンダなどの日本車販売会社が並んでいたが、どことも中国国旗を何本も掲げ、窓には中国国旗を貼り付けている姿は、まるでお怒りの中国様に「お許しを乞う」朝貢国日本の惨めな姿にしか見えなかった。「金儲け・・・か」成るほどそれも立派だが、なりふり構わぬ商人根性には哀れを誘う。
ユニクロなどその最たるものだ。誇りも名誉もいらず、恥の心もない者は、金がすべてと言う訳だろう。そういいながらユニクロ商品を着ているが、でも最近は買わなくなった。あのユニクロ柳井の顔は貧相だ。靖國参拝自粛発言までする奴の晩年はどうなるのか・・・。商人道さえ弁えないつまらぬ商人だ。
走り出して30分が過ぎた頃、火力発電所が見えてきた。この発電所は、元は日本時代に作られた物で、Mさんのお父さんが二基の火力発電所のタワーを作ったそうだ。この発電所が完成してすぐに終戦となった。
今は四基に増えたのか?それぞれ稼動し、冷却タワーと煙突から黙々と煙が立ち上っていた。そして火力発電所沿いの道路路肩には延々と長蛇の列を作り、燃料の石炭を満載した大型トレーラーが並んでいた。
この大唐国際張家口発電所が、ちょうど張家口⇔宣化の中間にある。 -
宣化市内の手前(張家口より)にある火力発電所
完成後すぐに終戦になり新品を置いて来た
Mさんのお父さんが冷却塔の建設をした -
路肩には発電所の燃料である石炭を満載しているのか
荷降ろしを待つ大型トレーラーが延々と並んでいた -
宣化の街に入ったら城壁の一部らしき物が目に入った
我宣化に来たる -
宣化賓館
中国のホテルは朝からチェックインをしてくれるので助かる
まあいつでも空き部屋が用意されているのだろうけど
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■宣化に到着
宣化賓館に到着は、張家口を出発して1時間、9時半ごろになった。楊慶豐の運転は、安全運転に徹しているのか速度が遅く時間がかかるが旅行者の私には最適の運転手だった。
宣化賓館は日本でネット予約していた。上海が本拠の中国の会社のようだが、返信メールも早くて価格も妥当だと思う。このホテルの料金は¥286元。あらぬことで問題が起きたが、その他は十分満足だった。
「中国倶楽部ホテル予約」
http://www.china-club.jp/
3階205号室、ツインベッドで部屋も広く、窓も大きくて前の道路に面しているので良かった。部屋に入って出かける準備をし、早速出て行った。 -
窓側に面し、ベッドもツイン
一泊しか泊まらないのが惜しいくらい -
宣化賓館
一泊二日、いろいろあったけど良いホテルだった
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■教会と宣化駅へ
とりあえずホテルの向かいにある宣化天主教堂へ行く。今時の中国の光景なのか?ウェディングドレスでの新婚夫婦らしきカップルが教会を背に撮影をしていた。この教会は1872年に建立されたが1900年の義和団の乱によって焼失し、1904年に再建されている。
宣化駅へ行く
タクシーに乗って駅まで行った。料金は7元、この宣化市内は一番遠くても10元でいけるとホテルの服務員が言っていた。この時乗った女性の運転手に、明日「下花園」まで行くから迎えを頼んだ。料金は80元。ホテル前に8時半に来てくれと頼んだ。
宣化駅はそれなりに昔ながらの駅舎に見えたので、「もしかしたら昔のままの駅舎なのかも?」と思って駅員に聞いたら即座に「変了、変わった」と言われた。
この宣化でも終戦以降いろんなドラマがあったようだ。在留邦人の引揚げは、張家口とほぼ同じく20日〜22日にかけて行われている。宣化は城壁で囲まれた都市で、市郊外には龍烟鉄鉱所もあり、そこに赴任した日本人技術者とその家族たちも暮らしていた。
引揚げ当時の手記を読めば、その雰囲気を想像できる。
手記:「宣化より帰る」
『二十二日、領事館から、在留邦人は北京への引揚げ列車が到着するから、午前十時までに宣化駅に集合するよう通報があった。宣化駅は引揚げ邦人でプラットホームはあふれるばかりであったが、引揚げ列車は予定の時刻になってもなかなかこない。午後遅くなって、張家口方面から引揚げ邦人を乗せた列車が到着したので皆、われさきにと必死で乗りこんだ。』
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/02hikiage/H_02_369_1.pdf#search='%E5%8D%88%E5%89%8D%E5%8D%81%E6%99%82%E3%81%BE%E3%81%A7%E3%81%AB%E5%AE%A3%E5%8C%96%E9%A7%85%E3%81%AB%E9%9B%86%E5%90%88'
手記:「内蒙古・宣化で迎えた終戦」
『一時に出発するといっていた汽車は、夕方になってやっと着いた。石炭を運ぶ無蓋貨車だったが、大勢の人が乗るため、たくさんの荷物が山のように置き去りにされた。線路には障害物が置かれたり、爆破されていたので、修復しながら列車は進み、当時八時間ぐらいで行くことができた北京でも三日もかかった。』
http://www.heiwakinen.jp/shiryokan/heiwa/07hikiage/H_07_356_1.pdf#search='%E9%BE%8D%E7%83%9F%E9%89%84%E9%89%B1+%E5%AE%A3%E5%8C%96' -
道を隔てて立派な教会がある
思えば日本は寺社仏閣が至る所にあるが
中国ではそんなに見かけない
結婚式には良く遭遇したが
葬式に出会ったことが一度しかない
14億誰も死なないのか?
魔か不思議だ -
こうやって結婚式風景はしょっちゅう目にするが
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トヨタ・レクサス
持ち主の悲痛な叫び↓↓
「私はずっと前にこの車を買ってしまいました
でもしかし日本が犯罪を犯してからすぐに
日本製品不買を始めているので車を壊さないで」
もう今後日本車は絶対買いません
中国車はすぐに壊れるけど
壊されるよりましです -
この宣化駅でも終戦後に避難する人たちがごった返し
プラットホームは溢れんばかりの人で
張家口からの列車が着いたら我先にと乗りこんだ
この駅舎は戦後建て替えられて姿を変えている
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響兵団第五大隊:宣化で機関車を動かす
「日本人を守る最後の戦い」:稲垣 武(著)より
http://blogs.yahoo.co.jp/izumiyujyun/14272821.html
丸一陣地の西端:春懇に陣を構えていた響兵団第五大隊:大隊張:上松友七大尉たちも張家口への撤退が遅れ、すでに主力部隊はいなかった。張家口駅には蒸気を上げる機関車もあり、貨車も残っていた。機関士がいなかったので隊長は、経験者を部隊から募ったが「経験はあっても自信がない」という者ばかりで、徒歩撤退を覚悟し夜間行軍でこの宣化駅に辿りついた。
宣化駅で朝食をとっていると、「機関車を動かして見ます」と言う者が現れ、再度経験者を募ると「何とかやってみます」とたちまち数人が名乗り出た。隊長は苦笑しながらも数名残っていた宣化の駅員とともに列車編成をし機関車を動かす準備をした。そこに龍烟鉄鉱所で働いていた朝鮮人200名余りが現れ「ぜひ一緒に連れて帰ってほしい」と哀訴されたので快く乗せた。
そして列車は最初快調に走っていたが、24日朝、懐来平野に出て、もうここまで来れば、ソ蒙軍の追撃もあるまいと、一安心したところ列車は突然止まってしまった。にわか機関士の悲しさ、機関車に水を補給して置くのを忘れ、ボイラーの水が切れてしまったのである。また、歩け歩けとなった -
宣化駅入り口から駅前広場を眺める
鬼気迫る状況でみんな必死だったのだろう
路線沿線上は八路軍の襲撃や線路妨害が頻発した
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宣化駅
http://youtu.be/qF3P640lilg -
張家口→北京、鉄道路線図
大きな地図↓↓
http://akasids.web.fc2.com/sonota/201210/hinankou.html -
姉妹らしき二人が路上で寄付を募っていた
父親の透析費用などなど治療費が必要らしい
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■路上で寄付を募る二人姉妹
私の今回の旅の目的は「北京・張家口・丸一陣地跡・張北」を訪ねることがメーンであり、宣化と鶏鳴驛は、そのついでに立ち寄りたいと思った場所だ。それはこの宣化が今も周囲に城壁が残り、中国古代都市の雰囲気を残しているかも・・・「一体どんな所なのだろう?」と期待して来た。
そして地図を見て宣化駅から「拱極楼」(ゴンジロウ)へと歩いた。途中、二人の若い姉妹が、「有愛就有希望」「愛があれば希望がある」「百善孝為先」「親孝行の為に」などと書いた大きな布を道に広げ看板を二人で持ち、父親の病院費用の寄付を募っていた。二人の姉妹は見るからにぽっちゃりと太り健康的だった。
誰かがお金を箱に投じると、二人は黙って何度も揃って頭を下げる。まるでコインを入れれば動き出すロボット人形のように・・・。写真や診断書を貼っており、真実か否か?は知らないが・・・。箱の中にお金は入っていたし、入れる人も少ないがいた。私はしばし見ていただけ・・・。書かれている内容が真実であることを願う。 -
こっちは寄付を集めるパフォーマンスが多いので
どうにもピンとこない、真実であることを祈る?? -
宣化の地図
「拱極楼」−「鎮朔楼」−「清遠楼」
この三つの楼が南北に並んでいる
そして西の端に大新門楼がある
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■南大街で昼食、そして散歩
拱極楼(拱极楼 Gǒng jí lóu)はあった。「そうか、こんなんか」であり、この時は登楼も考えず、そのまま歩行者天国である南大街を歩いて正面に見える「鎮朔楼(?朔楼 Zhèn shuò lóu)」へ向かって歩いた。南大街を歩いていたらKFC(ケンタッキーフライドチキン)が目に入り、お腹も空いていたし休憩を兼ねて入った。ホットドックとポテトチップ、コーラのセットで15元だった。
鎮朔楼(ジェンショウロウ)も門票を買って登楼出来るのは、「午前8時半〜12時、午後2時〜5時40分」ということで昼の2時間は、管理人の休憩時間で閉まっている。観光地であるのに日本では考えられないが、日本以外ではこういったことも多々あるのだろう。昼の2時間といえば旅行者にとって一番の活動時間帯と言っても過言でないのに、その時間が入場できないのは、初めてこの地を訪れた者にとっては要領を得ず不便だった。
登楼出来ないので、鼓楼巡りをしながらブラブラ歩いた。拱極楼⇔鎮朔楼⇔清遠楼(??楼 Qǐng yuǎn lóu)と南北の大通りに、この三つの鼓楼が並んでいる。ここが宣化観光の中心だろう。鎮朔楼と、その北にある清遠楼の間、牌楼北路が両側に古い家並みが並び何とかそれなりの雰囲気を保っている。
清遠楼は、説明によれば『宣化城内を南北に走る大通りの北端にあって、建造開始は明代の成化18年(1482)、清代に大改修をしたが、建物の骨格には明代の建築技法をそのまま採用した。その姿はと独特の風格をもち、建築史上すこぶる貴重なものとなっている。』とあるが、写真ではともかく実際に現物を現場で見ると味気ない。 -
宣化の地図
「拱極楼」−「鎮朔楼」−「清遠楼」
この三つの楼が南北に並んでいる
そして西の端に大新門楼がある -
拱極楼
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歩行者天国「南大街」のケンタッキーで昼食
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やっぱりどっちかといえば
こっちの方が美味い
無論、日本で食う日本食が何より美味いけけど
もう地元料理の試食も飽きたし -
1元(13円)拱極楼(ゴンジロウ)⇔清遠楼の間を走る
どこでも乗ってもOK
こそっと乗っても運転手は見逃さない
2回乗った -
南大街(歩行者天国)を北に向かって歩く
鎮朔楼(ジェンショウロウ Zhèn shuò lóu)が正面に見える
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■正午から午後2時まで服務員の休憩で、鼓楼に入れずウロウロする
中国の修復された古建造物?は、どれもこれも見るに味気ない
姫路城と比べれば、法隆寺と比べれば、書写山圓教寺の木造建築と比べれば、その他の日本の寺社仏閣の木造建築と比べればがっかりの一言。
中国旅行で史跡や建造物で記憶に残っているのは、私の意識の中では中国ではないが新疆ウィグル庫車の「天山神秘大峡谷」と、昆明の「西山龍門」といったところだ。壮大と言う点では、景山公園から見た紫禁城も見応えはあるけど。
どの鼓楼も午後2時まで入れないので、それまでどこに行こうと考えた。まず西南隅にある「立化寺塔 Lì huà sì tǎ」に行くこうと、タクシーを停めたが、二人の運転手に「入れない、ダメだ」といわれた。この時、女性の運転手から私の中国語が変なので「あんたどこの人?」と聞かれ「日本人や」と答えたら、怒った顔で「日本人は嫌いだ」と言って走って行った。
Web頁「平成の遣唐使」によれば・・・「立化寺塔」。
http://www.eonet.ne.jp/~omiya6/travel/nishiki2.htm
『大徳年間(1297年・日本の永仁4年)、日持上人が宣徳府(今の宣化)へ来て立下寺を建てました。日蓮宗を布教するためです。それまでの我が国は遣唐使を派遣して、先進国の中国よりあらゆるモノを吸収してきましたが、日持上人はそのお返しとして日本の宗教の布教のために来たのです。その功績で土地の鄭日昌より「銀箱・磁器」を貰っています』『塔の下が日持上人の墓になっています』
帰国後、この寺が鎌倉時代、宣化に来た日本人僧侶によって建立されていることを知った。そして結局、この塔が今どうなっているのか?確認できなかったか。その時に、タクシーの運転手が「入れない」と言った意味が帰国後上記Web頁を見て分った。『「1953年(昭和28年)中国軍がこの地に軍事基地を作り、現在(2005年5月)は煉瓦塔のみが残っています。』
塔があるのは解放軍基地内だった。地図で見ても空白の場所になっている。グーグルアースでも塔は確認できない。 -
楼の券販所は昼休み
昼の2時間入れないなんて
日本の常識ではないが、世界にはままあるようだ -
鎮朔楼から清遠楼が正面に見える
こ間の通りが昔の名残がいささか感じられて雰囲気がある -
清遠楼
http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/zhuanji/lou/ban-9412.htm
この北端にある清遠楼が最も有名らしい。
私はこういった建築物は木造でないと感動しない -
清遠楼から1元の観光バスで拱極楼へ行く
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拱極楼に到着 所要時間約8分
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拱極楼から
清遠楼までまたバスUターン
行ったり来たりで時間を潰す
これも旅の楽しさのうちなり -
また清遠楼に戻る
石畳に刻まれた轍跡
まるで凹レールの如し -
午後12時50分、宣化の西側、城壁がある大新門に来たが
やはりここも2時まで入れず
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■大新門、そして清真南寺(イスラム寺院)へ
立化寺塔に行けないので、宣化の西端にある「大新門」に行くことにしてタクシーに乗った。この時、タクシーにメーターが付いていることを忘れ「大新門まで幾ら?」と聞いてしまった。「10元」と言われて、その時は何も思わず乗ったが、すぐにしまったと気付く。そんなに遠くないのに10元は高い。メーター倒せば6元か7元だったはずだ。宣化の街の端から端まで行って10元だとホテルの服務員に教えてもらっていたのに。
ピカピカの城壁と立派な鼓楼あり、しかれども到着は12時50分、ここも城壁に上るには2時開門だった。ホンマ昼の2時間が入場出来ないのは、たった一日滞在の旅行者にとって段取り悪いこと甚だしい。この待ち時間の間に回教寺院の「清真南寺 Qīngzhēn nánsì」にタクシーで行ったというより戻った。清真南寺は清遠楼の西北500mくらいのところにある。
清真南寺の正面に「領土を守れ」というような赤い横断幕が掲げられていた。「回族よ思えもか・・・」である。少数民族は大多数の漢民族に気兼ねしながら生きるしかないのだろう。時は午後1時、誰もいないので勝手に入っていった。ちょうど祈りの時間なのか本堂を覗くと、白い帽子を被ってパラパラと数人が祈りを捧げていた。宗教を否定する共産主義独裁政権下で、イスラム教徒である彼らはどう過ごして来たのだろう?文革の時代はどうだったのだろう? -
城壁は新品です
あと1時間あるので清真南寺に行くことにしました -
清真南寺
清真南寺お前もか・・・と、一瞬がっかりだったが
宗教弾圧の共産党独裁国家で少数民族が生き抜くには
何かと気苦労は多いだろう
率先して反日横断幕を掲げねばならないのか -
礼拝堂
ちょうど祈りの時間なのか、数名が祈りを捧げていた -
やはり礼拝堂は厳粛な空気が漂う
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イスラム寺院内
『回族の人口は2000年の時点で約980万人で、
中国に住むムスリム人口のおよそ半数を占める。』
半数といえば新疆ウィグルを中国としてのことか・・・。
ふざけやがって、新疆ウィグルのどこが中国だ!
チベット・新疆ウィグル・内蒙古は、過去の歴史がどうであろうと
自らの言語と文字を持ち、独自の文化を有するまったく別の民族であり
今も現在進行形で中共政府に侵略されているのだ -
こんな自転車にも反日語録か
宣化のような地方都市でもこの調子だ
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■再度、大新門に向かう
2時まであと30分くらいになったので、ここからまた大新門に行くことにして今度は清真南寺の傍で三輪自転車に乗った。ちょっと自転車では遠いかと思ったけど、“おっちゃん”は5元でOKというので鐘楼大街(Zhōnglóu dàjiē)を三輪自転車でひたすら西に向かった。15分くらいで到着。まだ2時まで20分ほどあったけど大新門前で開くのを待った。
宣化の大新門から南北に延びる西城壁は修復されてピカピカ城壁になっている。修復といっても城壁の元の状態がどんな感じだったのか?知らないので、どうにも新品にしか見えない。大部分が新品になってしまうと、その中に一部古い物が例え残っていたとしても古さを感じない。
その修復下手には呆れる。いくら愚痴をいっても始まらないが、私は中国の遺跡・史跡等々に関して期待は、ゼロとは言わないが・・・元より期待しないのでもう失望もしない。その気持ちは翌日「鶏鳴驛」に行って、「万事休す」と自分の中で確定した。
「人民網日本語版」によれば
『河北省宣化文物保護部門が明らかにしたところによると、宣化古城の北城壁(全長3500メートル)の修復プロジェクトがこのほど国家文物局の認可を得て、まもなく着工することとなった。宣化古城はこれまでに西城壁、南城壁の修復および大新門城台、城門楼の再建が完了しており、かつての様子がある程度復元されている。』ということだ。
大新門の横に管理事務所があり、“オバチャン”が出てきて2時前に城壁に登る門を開けてくれた。5〜6人の中国人観光客も一緒に入る。ここは料金は無料。宣化の北側や東側に古いままの城壁があるのを知らなかったので、そっちは見ていない。万里の長城を作り、その上、街はそれぞれ堅固な城壁で囲まなければ守れない。そんな時代から見れば、今は平和で暮らしやすいと言えるのだろう・・・か。
そんな城壁を必要とした時代は、どれくらの頻度で戦いがあり、城壁都市同士の交流とは如何なるものだったのか?日本も城を築き戦いに明け暮れた戦後時代があったが、戦ったのは武士集団だけで庶民は、戦いに兵士として駆り立てられたり、戦いに巻き込まれ殺戮されたという話は、なくはないだろうがあまり聞かない。
大新門の城壁の上から宣化の町並みを見下ろし、またタクシーで清遠楼に戻った。 -
自転車に乗って来た
5元=65円
一体毎日いくらぐらい稼ぎがあるのか?
聞いておけばよかった -
修復完了の大新門及び西城壁
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大新門の城壁上から宣化の市街を望む
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大雨で崩壊の危険なきや?
現代工法は古代工法に劣るのか?
見栄えは良いとしても
無料なのに12時から2時まで鍵を掛ける意味が分らん -
清遠楼の券販所には誰もいなくて入れなかった
たぶん遅れてくるのだろうが
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■清遠楼に戻ったが入れず鎮朔楼に行く
清遠楼(1482建立:高さ 25 m) の門票売り場はあったが、誰もいなくて門も施錠され鼓楼内に入れなかった。仕方ないので清遠楼から古い街並みの雰囲気を残した牌楼北路を南にあるいて、すぐに真向かいに立つ鎮朔楼に行った。もうこの時は、2時半になっていたが、やはりここでも切符売り場はあるのに人がいなかった。でも鼓楼の周辺を掃除していた“オバチャン”に私が「入れないのか?」と聞いたら「まだ服務員が戻って来ていない。入るのだったら後から券を買って先に入っていいよ・・・」と、言ってくれた。
その時ちょうど切符売り場の“オバハン”が、昼休みから30分以上遅れて戻ってきた。無論「遅れてスミマセン」などの言葉なく、私は5元で門票を買って入った。まあこんなものだろうと、期待度が低いから腹も立たない。鎮朔楼に登って周囲を見ていると、さっきの気の良い掃除の“オバチャン”が私に「どこから来たの?」と話しかけてきた。
私は「我是小日本、日本鬼子」と言ったら、“オバチャン”は笑いながら「小日本也好」とニコッと笑っていた。そして“オバチャン”が「釣魚島 Diàoyúdǎo ディャオイダオ・・・」と言ってきた。最初良く聞き取れず「???・・・」だったが、なんとか「日本名・尖閣諸島魚釣島 」のことと分った。“オバチャン”は「打不打?一不怕、戦うのか?怖くないか」というようなことも言っていた。
私は、「将来如果日本和中国開始打仗的話,我也一定参加打。もうすぐ戦争になるかもなあ、もし戦争になれば、私も必ず戦う」と言ったら、「何を言うの?この年寄りが・・・」と怪訝な顔して笑っていた。その他何か言っていたが聞き取れない。この“オバチャン”は25歳の独身の娘と三人家族、気の良い明るい“オバチャン”だった。
鎮朔楼の中には、写真の展示や、大きな太鼓があった。鼓楼の上から北正面に清遠楼が見え、その間の通りの風景も昔風で、ここからの眺めが宣化観光では一番ましだった。というのも北側に残っているらしい修復されていない城壁を見なかったから。それが残念だったが仕方がない。 -
清遠楼に入るのは諦めて鎮朔楼(ジェンショウロウ)
清遠楼を背中に鎮朔楼方向を写す
この間の雰囲気が一番往時を偲ばせる -
鎮朔楼
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鎮朔楼の中にはこんな大太鼓があった
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清遠楼を望む
ここで掃除の“オバチャン”と尖閣問題を語る -
ズームで拱極楼を写す
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拱極楼
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■拱極楼へ行く
次は鎮朔楼から南大街の南側正面にある拱極楼へ行った。そもそも最初は拱極楼からが観光の始まりだったが、午後2時になっていなくて時間潰しに行きつ戻りつで北から南に戻って来た。鼓楼に登っただけではなく、この通りを片道一元で走っているオープンな観光バスに乗って往復した。
清遠楼⇔拱極楼の間は、どこで乗っても降りてもOK、途中でバスが停止した時、運転手の死角からすっと誰かが乗り込んですました顔で座っても、しばらく走ってから必ず切符を買わせていた。運転手と途中乗車の客のそんなやりとりこそ面白い。それは運転手の“技”でもあるように・・・きっとそれでもタダ乗りはあるだろうけど。
拱極楼に5元の門票を買って登ったのは午後3時半頃になっていた。私の前に中国人男性二人連れが門票を買って入場した。当然だろうが観光客がいるようだ。登って南を見れば、真下に世紀広場、そして地道橋南街が南に延び、右手に人民公園がある。北に歩行者天国がありずっと向こうに鎮朔楼が見える。楼閣の中には何もなかった。
とりあえず宣化の観光は終了した。城壁に囲まれた古都が今もあるということを思い描いていたが、私が「来て」「見た」のは近代都市・宣化であり、古いままの城壁を見ること叶わず、いつものようにメーンテーマが終わった後はテンションも下がり、帰国日まで後何日?という情けない状態になってしまう。それでも歩け歩けと移動するが、今日はここまでだった。 -
ふ〜ん、観光客はいるようだ
門票5元 -
こんな階段になってます
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楼上から鎮朔楼方向を写す
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城壁都市「宣化散策」
http://youtu.be/JYKbTMAuL8A -
どこに行ってもこんな横断幕ばかりの中を歩いていると
気分のいいものではない
中国に投資しようという日本企業が信じられない
仮面の友好はあるかもだけど、歴史的にも
排日・反日・侮日は支那人の快感だ
そんなところで働きたい日本人はいない
無理やり進出しても結果は見えている
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■宣化にて思う
この宣化にも67年前の昭和20年当時は、古都の風情を残しながらも、日本人が頑張って着々と発展し、龍烟鉄鉱所の拠点としても活気付いていた。日本の病院もあり国民学校もあり日本軍も駐屯し、満洲同様、蒙古聨合自治政府の宣化での日本人の暮らしがあった。結果的には敗戦によって大陸で日本が築いた物の全ては無に帰したが、あの時代の状況のなかで先人たちは良く頑張ったと敬意を表す。
そんな時代であり、そうしなければ日本の独立は保てず、国体(皇室)も守れず、当時の世界の有色人種国家と同じく白人列強国の餌食となり、日本も植民地化されたとしか思えない。そして支那朝鮮に対しては謝罪の気持ちなど一切ない。「進出したのが他の白人列強国ではなく、日本であったからまだましだった」という気持ちが強いからだ。もちろん相手側は日本だからこその怒りと憎しみであっても無視する。言い訳不要「そんな時代だった」の一言を繰り返せば良い。
この宣化の街にも尖閣反日キャンペーンの横断幕が多くて、気分が悪かった。「何でこんな嫌な国に旅行に来たのか」・・・と。そして部屋に戻ったら「外出時には身の安全に注意して下さい」とのメモ書きが置いてあり、親切心は嬉しかったが「ここはそんな危険があるのか?」と、また一気にテンションが下がる。今回の旅を通じて、そんな感じが拭えない日々に終始した。
その後も、ちょっと外出して戻った時に部屋の前で、服務員が私を待っていて名詞を差し出し、「ここに電話して下さい」と言う。部屋の電話で電話をしたら、女性が出て「有事打電話:何かあれば、ここに電話して下さい」と言われた。後で分ったことだが、メモや名詞は、このホテルの女性マネジャーの気遣いのようだった。不安なの時の旅先での親切は、ホント嬉しかった。 -
どこに行ってもこんな横断幕ばかりの中を歩いていると
気分のいいものではない -
どこに行ってもこんな横断幕ばかりの中を歩いていると
気分のいいものではない -
アヒルの丸焼き
20元(260円)也 -
午後4時過ぎホテルの部屋に戻ったら机の上に書置きが
「外出時には身の安全に注意して下さい。宣化賓館」
「えっ、宣化はそんなに危険なの?」とビックリ
親切心なのだろうけど、ちょっとテンション下がる -
その後、外出後にホテルに戻ったら
この名詞を部屋の前で服務員から手渡された
服務員(小姐)が「電話して下さい」というので
電話したら「何か有ればここに電話を下さい」だった
こんなことは初めてで驚いたが、親切に感謝しながらも
宣化でも反日を、誰もが意識しているのかと複雑だった -
出前の遅れで、お詫びに果物盛り合わせを持って来てくれた
反日騒動渦中の旅だったので、こういった親切に感謝
明日から残り少ない旅を楽しもうと、ちょっと元気復活
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■宣化の夜
夜、宣化の部屋に長男から電話があった。携帯が使用不能になって家に四日間連絡していなかったから、家内が心配して長男に頼んだとのこと。一応来る前に日程表と宿泊ホテルの名前と電話番号を書いて置いているが、向こうからの安否確認は初めてだ。
宣化賓館に来てすぐに国際電話を掛けたいとフロントに聞いたら「OK」だったが、教えられた通りに何度やっても繋がらないので諦めていた。ひとまず連絡が取れて一安心。
気分的にも疲れていたので、外に夕食を食べに行く元気もなく、ホテルのレストランに行ったら混んでいるようで「申し訳ないが、一人客の席は今は無理なのでダメ」と言われ、それなら「部屋に持って来て」と、私のいつもの定番「揚州焼飯」と「玉子スープ」を頼んだ。それから部屋で延々と来るのを待ったが、30分経っても40分経っても来ない。
苛立ちで堪り兼ねレストランに電話をしたら、今作っているとの返事。それでもしばらくしても来ないので、再度電話したら「今出来た。すぐ持ってゆく」だった。やっと来るかと思っていたのに、なかなか来ない。こうなっては被害妄想で、「日本人の注文だから嫌味か・・・ふざけやがって」と、外で何か食おうと部屋から出た。
そしてエレベータの扉が開いたら、二人の小姐がお盆に「大盛り焼飯」と、大きなスープ鉢をそれぞれが持って出てこようとしたのに鉢合わせだった。それを見て、私は「それは私のだ。こんな簡単な料理なのにあまりも来るのが遅過ぎる。外で食うからもう要らない。」と言って、エレベーターから出て来ようとする小姐を堰き止め私も乗り込み下に降りた。
料金は先払いだったので、小姐は「今日はお客さんが多くて遅くなった。お金は?」というので「当然不要:無論要らない」と言って外に出た。今となっては大人気ないと思うが、あの時は反日騒動渦中で、自分の気持ちも不安定だったのか頭に来ていた。
外で食うと怒って外に出たけれど、周囲に適当な店が見当たらず、バナナ二本とりんご一個を買って部屋に戻り、それと日本から持って来ていたパンとウィンナーとチョコレートで夕食代わりにした。
「あ〜あ、オモロナイなあ〜」と思っていたが、9時頃部屋に電話があり、「今からそちらに伺いたい、いいですか?」とのことだった。その後、すぐに部屋の外から声があり、扉を開けると二人の女性が果物を盛り合わせた皿を持って立っていた。
そして「夕食はおすみですか?」と問われたので「外で食べて来ました」と答えると、出前が遅れたことを詫び、お詫びのしるしに果物を食べて下さいとのこと。そして代金¥25元を返してくれた。私は「不要、不要」と言ったが、返してくれた。
中国に来てこんな対応は初めて経験したので驚くとともに、さっきからのメモや電話の心遣いのことを含めて、この「宣化賓館」はこういうホテルなのかと見直した。誰がこのホテルの責任者なのか?知らないが、こんなホテルもあることを知った。
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■明日は鶏鳴驛へ
宣化の一日は、楽しいというには程遠い一日だったが、一日の最後にして救われる思いだった。嫌なこともあるが良きことも有る。それは人と人との係わりが、大部分を占める。大部分と言うより全てと言っても過言ではない。そんなことを改めて感じた宣化の一日だった。
張家口から宣化に来て、明日朝は次の目的地、鶏鳴驛から下花園に向かう。明日は天気が悪そうなので、もし雨のようだったら鶏鳴山に登るのは諦める。そこまでの元気はなくなった。旅も後半、いよいよ帰国日が迫ると元気も復活だ。そんな自分がいつも情けないけど事実である。
明日朝8時半にホテルに迎えが来る予定、さあ明日はどんな旅になるのやら・・・。乞うご期待。
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