2012/09/18 - 2012/09/27
8位(同エリア36件中)
明石DSさん
5日目:9月22日(土):曇り
?張家口「東升大酒店」
6階609号室で四泊五日を過ごす
この部屋の窓からの眺望は良くないが
このホテルは14階展望レストランがあるので
360度素晴らしい眺めがあきるまで見れる
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張家口を散策する
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2012/平成24年9月22日(土)
■張家口市内巡りの朝
旅行中は、いつも6時頃には起きていた。カーテンを開けて天気を見れば、うす曇だが雨の気配はなく一安心。朝食バイキングは7時からなので、7時になりしだい14階の展望レストランに向かう。普段は朝食抜きの日々を送っているので、旅先でも朝飯はそんなに食いたいとは思わない。
旅行中は私にとって非日常なので一応食べる。でも以前のように「食べないと損」ではなく、少しだけ食べる。そして昨日の朝と同じく写真を写しながら展望レストランを一周する。360度さえぎる物はなく眺望は抜群だ。
東西と北が山に囲まれ南だけが開口している盆地で、市街地は南北に細長く、その中心を清水河が流れている。今も人民解放軍が駐屯する軍事都市である。それゆえに1995年、平成7年に開放都市となるまで外国人旅行者は入れない街だった。
朝食を食べて部屋に戻りテレビを付ければ、相変わらず朝からCCTVは尖閣反日報道のことばかり。これを見ていると朝から気分が悪い。8時過ぎにロビーに下りたら、ホテル玄関の外で従業員が制服姿で体操をしていた。そんな朝の風景を眺めていたら間もなくZJ君が来てくれた。運転手は昨日の従兄弟のZWさんと違って、専門学校時代の3歳上の同級生で、今はZJ君の会社の運転手として働いているFT君。
FT君には小学校1年の娘さんがいるが、三日後の9月25日(火)奥さんは双子の男子を出産予定。FT君は二男だが、お兄さんも娘さんが一人で、このままではF家は家を継ぐものがいないので何とか「男の子が欲しい」となったが、それが双子ということで一人っ子が多い中国なのに、FT君は一挙に三人の父親になる。
そして中国の出産事情は、帝王切開の比率が世界一。都市では、自然分娩は少なく、ほとんどが帝王切開による分娩のようだ。双子なら当然のように帝王切開なので出産日も決まっているのだろう。
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下の写真と高さは違うが大体同じ方向を撮影
何が大きく変わろうとも・・・。
川・山 などの自然の姿は昔を想像させてくれる -
1985年or1995年 Mさん撮影
清水河の水は少ない、昭和20年までもこうだった
今は清河を堰き止め水を溜めている
10月19日Mさん宅にて写真を撮影 -
14階展望レストラン
毎朝7時から朝食バイキング
この周囲を一周回って景色を楽しんだ
旅行者にとってはこれが何より素晴らしい -
1985年or1995年 Mさん撮影
清水河の水は少ない、昭和20年までもこうだった
今は清河を堰き止め水を溜めている
10月19日Mさん宅にて写真を撮影 -
朝からCCTVは尖閣問題ばかり
三軍揃っての上陸演習
ネットも出来ず日本の情報が皆無なので
こんな番組ばかりを見ていると
今日にも尖閣で日中衝突かも?
と心配になってしまう -
玄関前で従業員が揃って体操
サボっている奴は一目瞭然
こっちも体操がしたくなる -
?ZJ君の説明によれば
「昔、観光局管理の時は整備も行き届いていた
今は観光局から林業局管理となり寂れている」
ZJ君の説明どおり見るからに寂れていた
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■水母宮へ行く
今日の行き先は、水母宮・大境門・賜ル山・城内・張家口駅・烈士塔・蒙疆神社跡・等々当時の日本人が良く行っていた場所ばかり・・・。
まず東升大酒店から北北西方向の水の神様を祀る水母宮へ向かった。ZJ君の説明では、「水母宮は以前は観光局の管理で、整備も良く行き届いていたが、今は林業局の管理になって中は荒れている」ということであり、実際の雰囲気も廃墟とまでは言わないが、寂れているのは一目瞭然だった。それでも門票は10元。水母は直訳では「クラゲ」だが、「水母」とは「水母娘娘」ともあり、それは「メデューサ女神」とある。
今日は珍しいのか?いつもの風景なのか?分らないが、高校か大学くらいの男女学生が10名ほど見学に来ていた。まず馮 玉祥(ふう ぎょくしょう)の大きな銅像と作戦室という説明の建物があった。1924年(大正13年)「馮玉祥は帝号を廃し旧・清朝皇室(愛新覚羅溥儀)を紫禁城から追い出した」とある。溥儀はこの男に紫禁城を追い出されたのか・・・。
馮 玉祥(Féng Yùxiáng)の経歴をちょっと見るだけで当時の支那の混乱振りが想像できる。誰が敵で味方かさっぱり区別がつかず。統一国家の体をなしていない支那大陸で実力者として生き抜くには、権謀術数に長けた人間でなければ土台無理な話だ。
まあ今の中共とて同じだろう。4千年の昔からここには大陸はあっても民が頼れる国あらず。馮の最後は、「1948年、昭和23年 米国から船に乗って帰国途上、船が火災に遭い、馮も巻き込まれて死亡した。満65歳没」
次に進めば、どうしようもない人工の池と壁があった。そこに遊園地のボートが並んでいた。子供が夏に遊ぶにはいいのだろうが、その背景には長城に続く回廊の風景があるという場所に、この様は興醒めの一語に尽きるが、これが中国だ。
足に自信があれば、この水母宮から万里長城を伝って大境門まで行けるそうだ。歩いて見たいけど今はそんな時間も元気もなく・・・。
この区間を走破した以下のWeb頁によれば、水母宮から大境門まで3時間ほどで到達するようだ。
http://www.geocities.jp/jukutabi2/cj.choukako.html
水母宮バス停13:40〜水母宮山門(950m)13:50〜臥雲亭14:2 0〜 稜線最上部の長城(1250m)15:00〜地下長城15:30〜好漢石16 :3 0〜大境門(900m)17:00 -
馮 玉祥(ふう ぎょくしょう)の銅像
溥儀を紫禁城から追い出した男
中野正剛に臆病者と言われた男
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AE%E7%8E%89%E7%A5%A5 -
こんな人工の壁を作り、色鮮やかなボートを置けば
この水母宮と背景の長城の雰囲気が台無しになる
何でもどこでも見境なしにテーマパーク化するのは何で? -
母宮から大境門まで長城伝いに歩いて3時間・・・か
http://www.geocities.jp/jukutabi2/cj.choukako.html -
昔の水母宮の風景
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水の神様を祀る
ここは修復されていないので趣がある
しかし放置されているので屋根には草が生え
痛むままに任せている感はある
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■水の神様を祀った廟
そしてひなびたお寺があった。水母宮という名前の由来でもある“水の神様”を祀っているのか・・・この寺を老夫婦が管理している。67年前の昭和20年まで張家口に暮らす日本人も時折訪れた水母宮。
老夫婦と話は出来なかったが、ZJ君も二人のことは良く知っており、Yさんとも知己だそうだ。それにここには張家口の会が作った「日中友誼園林紀念」の碑がある。日本人との関係が深い場所だ。その碑の裏側の建立の日付は「92年9月(平成4年)」とあるから、まだ張家口が開放都市になっていない時に建立されている。
この碑の傍で、ZJ君からYさんとの関係や、Yさんがこの地で戦後合弁会社を立ち上げ今に至る理由、Yさんの張家口での立場、YさんとZJ君の父親との関係等々を熱く語ってくれた。それで面識ない私がZJ君にこれほど手厚い厚遇を受けている理由が納得できた。
すべてはYさんとZJ君父子との関係であり、張家口との縁である。この場所に張家口会の会長やYさんのご尊父も分骨されているとのこと。それが水母宮だった。そんなことから私は張家口でベンツに乗って案内してもらうという恩恵を受けることになった。
ここにもう一人の将軍像があった。
吉鴻昌(きつ こうしょう)の大きな銅像で場所は違うが大きさは同じような物だった。
なるほどこの「馮と吉」二人の将軍は、張家口で察哈爾民衆抗日同盟軍なるものを作った。それでこの二人の銅像がここに立っているという訳か。抗日反日は過去現在未来と続く日中の宿痾であり、日中友好なんて過去現在未来においても幻に過ぎず。それを呑気に求める日本人の愚を思う。
今の日本は支那を恐れて媚びているとしか思えない。近隣諸国とは真剣なる対決の中にこそまっとうなる交流が生まれる。どうしても交流を続けたいならそれしかない。 -
ピカピカ修復か?ほったらかし放置か?
二者択一のようだ -
放置と言っても老夫婦が
長年このお寺を守っているようだ -
1992年9月 「張家口の会」建立
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吉鴻昌(きつ こうしょう)
没:満39歳
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E9%B4%BB%E6%98%8C
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張家口:水母宮
http://youtu.be/9khF2ssmgm4 -
?賜儿山山頂からの景色
尾根伝いに南方向に歩いて行ける
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■賜儿山(ツゥアールシャン)と雲泉寺
賜儿山のふもとにある雲泉寺に行くつもりが、賜儿山の山頂まで車で登ってくれた。運転手のFT君が道中、車を止めて二、三度「?傅 Shīfu シーフ」と声を掛けて道を尋ねていたことを思うと賜儿山の山頂へはあまり車で行くことはないのだろう。でも私にとってはラッキーだった。中学2年まで張家口で暮らしたMさんも、雲泉寺には時々来たようだが、この賜儿山の山頂には登ったことがないらしい。
山頂は360度が見渡せ何もさえぎる物はない。張家口の周囲が一望できる絶景だった。昔、遊牧民の世界と中華世界が長城で分断されていた。こんな明らかな国境はない。自らの手によって労苦を重ね国境の壁を作った。その内側が中華世界であり、長城の向こう側は、向こうに暮らす民族の大地だ。
蒙古は無論だが、新疆ウィグル・チベット・満洲、等々の万里の長城の外は中華世界ではない。山頂はハイキングに登って来た人が何人もいた。土曜日だからか?それとも毎日登山の人たちなのか?
存分に周囲の景色を見て、車に乗らず雲泉寺に向かって歩いて降りた。でもお寺に通じる道はなく一旦一番下の駐車場に降りなければならなかった。門票を購入しないと寺には入って行けないようになっていた。いい加減なくせにこんなセコイとこがある。
仕方なく駐車場まで降り10元の門票を買って、今度は登り。新しく“ど派手”な寺院が階段状に幾重にも「張りぼて」のように建ててある。最早こういった中国建築に何の興味も感慨もない。寺とは思えず、「賄賂」「キャッシュバック」を得る手段であり、シロアリたかる不動産物件としか見えない。
その上に昔あったままの寺院が今も残っている。Mさんたちも年に数回遊びに来たようだ。そこには二つ洞窟があって、「一つは内部に年中氷が張っていて、もう一つは水だった」とMさんは、はっきりと記憶している。そんな馬鹿な?と、思う人もいるかもだが、私はそうは思わない。
なぜなら私も実際にそんな洞窟をこの目で見て、内部に入り驚いたことがある。それは2009年:平成19年に虎頭要塞に行き「西猛虎山:氷の穹窖 」という洞窟のような要塞入り口に一歩入った時、その洞窟だけがびっしり氷で覆われていた。
http://4travel.jp/traveler/akashids/album/10346309/
今、雲泉寺の洞窟は、二つではなく三つ並んでいた。扉付けられ内部に入ることは出来なかったし、工事中で近づけなかったが、雲泉寺の中国Web頁には「水洞 氷洞 風洞」とある。雲泉寺から市街の景色が一望できる市民の憩いの場所でもあり、土曜日の今日も多くの人が訪れていた。
賜儿山(ツゥアールシャン Cì er shān)とは「賜(たまわる)」「儿(爾)=儿子 息子」「子供を授かる」という意味で、賜儿山と雲泉寺を含め山全体が「子授・安産・育児」の祈願をする場所である。 -
北方向を写す
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雲泉寺が下にある
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張家口:賜儿山
http://youtu.be/ktt9BXNT3Is -
新装成った「雲泉禅寺」
これが良いのか悪いのか?
それぞれの趣味によるのだろう -
こっちは昔からあった雲泉寺なのだろう
この境内で遊んでいる姿が目に浮かぶ -
どう見てもこっちの方が古さを感じていいけど
放置ではなく
上手く現状維持をしてくれないと -
手前右から
「水洞」「風洞」「氷洞」
工事中でもあり
鍵も掛かっていて
洞の様子を伺うことならず -
大仏さんも出来ている
その他「観音像」などなど
現在進行形で拡張工事中のようだ
バブル終焉は嘘なのか?
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張家口:雲泉寺
http://youtu.be/Wnp7waDRy-o -
城内はすでに観光地として整備されていて
こうやってツアー客がガイドの案内で城内を歩いている
だから遠慮なく写真を撮り、キョロキョロ歩けるので良い
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■堡子里(バオズリー)へ行く
「丸一陣地・張北」の戦跡に次いで私の今回旅の目的は、Mさんが中学2年まで暮らしていた張家口城内の二道巷9号の旧宅を訪ねることだった。昨日、一人で行って見つけていたが中には入っていない。今日はZJ君が一緒なので、家の人の了解を得て四合院の中に入れてもらうつもりで行った。
明の宣徳時代(1425〜1435年頃 日本:室町時代)に形作られた城塞都市で、Mさんたちが暮らしていた時は「城内」と言っていた。当時は周囲が城壁で囲まれ、まさに「城内」と呼ぶに相応しいところだった。しかし戦後城壁はホンの一部を除いて無くなり、今は城内ではなく堡子里(Bǔzi lǐ バオズリー)と呼ばれている。
私たちは車で馬道底街から堡子里に入って行った。そして城内は道が狭いので私とZJ君が車から降りて歩いて二道巷に向う。 -
案内板もあり
道の表示もされているので助かる -
城内地図
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鼓楼北街から鼓楼を潜り
鼓楼南街を歩いている
こんな狭い道でも車が入ってくる
もう少し南に歩けば右手に二道巷がある -
二道巷
2008年Mさん撮影
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■二道巷9号、Mさん旧宅
どこをどう通って二道巷に行ったのか、その時は分らなかったが帰国後写真を見たら鼓楼北街を南に向かって歩き鼓楼を抜けて、鼓楼南街から二道巷9号に迷わず辿り着いた。ZJ君が門を潜り家の中に入って行く。私も後ろについて入っていった。
今から67年前の昭和20年8月21日まで、ここにMさん家族が住んでいた。Mさんは中学2年になったばかりの昭和20年5月、学徒動員「学徒挺身隊」として「響5331部隊」に入隊し、手薄に成った部隊の警備や武器の手入れなどをしていた。15日の終戦は部隊の広場で聞いたそうだが、そのまま部隊に残っていた。そして8月21日昼頃、突然「中学生は帰宅しろ」との命が出て二道巷の自宅に戻った。
張家口の邦人避難は20日から始まっており、すでに近所の日本人は避難していたが、お母さんと妹さんが家でMさんの帰宅を待っていてくれた。そして急いで荷物をまとめ張家口駅に行き、無事に日本に引揚げることが出来た。その当時のことがMさんの手記としてWeb頁に「故郷紀行」「内蒙古からの脱出」として紹介されている。私はその手記を見て同窓会に問い合わせ、奈良に住むMさんと出会い直接当時の話を伺うことが出来た。
「大淀高校同窓会:各種活動:故郷紀行」
http://www.oyodo-h.ed.jp/~alumni/
「内蒙古からの脱出」
http://www.geocities.jp/shougen60/shougen-list/m-S7-2.html
そのMさん旧宅は、2008年にMさん自身が訪れた時の写真と同じで、外見は荒れ放題で四合院の庭にも家が建ち、五家族の共同住宅と化している。ZJ君の交渉で見学を許してもらい、たまたまその時その場にいた住人の方の話が聞けた。といっても話をしたのはほとんどZJ君で、その内容を私に通訳してくれた。一人の中年男性は、この一画(二部屋)を2000年に157000元(日本円約20万円)で購入したとのこと。その隣は新婚夫婦が暮らしていた。生後9ヶ月の男の子がいた。
そして、その男性の話では、この堡子里は観光史跡として修復保存するので、近々住民は立ち退くことになっているそうだ。その時期は、現在、大境門の南に建設中のやはり同じような目的で作られている街並みが完成した後に、ここの工事が始まる予定らしい。来年には立ち退きが始まるのだろう。
それを聞いて、修復前の今年来れたことは運が良かった。私は中国に旅行に来るようになって14年くらいになるが、特に最近強く感じるのは、修復された物はみんな同じ物となり、そこには特徴も当時の雰囲気も、なにもかもが消え失せてしまい味気のない建造物になっている。
遠くから見れば、まだ救いはあるが、近づけは失望だけだ。今はタイムスリップしたかのように歴史を感じる雰囲気は十分残っているが、中国式修復は、なにもかもがピカピカになり万事休すだ。今回の旅でもそれを痛感した。宣化で、そして鶏鳴驛で・・・。
しばらく家の中を見学し記念写真を写し、皆さんにお礼を言ってMさん旧宅訪問は無事達成できた。満足して家を出て車の待つ場所へと二人で向かう。途中、鼓楼南街の角で「靴の修理」をしているお爺さんがいた。ZJ君も10年ぶりくらいで目にしたそうで、今ではなかなか見ることが出来ないそうだ。鉄製のミシンのような物を路上に置いて、靴を縫っていた。
ZJ君の話では一足修理しても一元(13円)にもならないようだ。今は無論後継者もなく、この張家口でも、もうすぐ消え去る仕事なのだろう。Mさんたちがいた頃も彼方此方で店を開いている風景があり、私の中国語の先生(現在40代)も、広州育ちだが小さい時普通に見かけたようだ。
日本でも昔はもしかしたら有ったのかもだけど、私は生まれてこの方見た記憶はない。これも堡子里に似合う風景だった。
写真&コメントの削除 -
2012年9月22日 撮影
上の写真の右奥電柱の傍に、お婆さんが座る
08〜12の四年間ほぼ変わりなし -
1945/昭和20年8月21日までMさん家族が住んでいた四合院
今ではすっかり外見は荒れているが、現在、五家族がこの中で暮らす -
城内で暮らす日本人家族は少数派だったとのこと
それでもアチコチに日本人家族が暮らす住居あり
この門を出入りしてMさんは中学2年までの少年の日々過ごした -
四合院の中庭にもひしめき合うように家が建ち
外は雑然として荒れ放題、何でもっと綺麗にしないのか?
いつも不思議に思うが・・・これも文化の違いなのだろう -
屋根には草が生え
雨漏りが心配だが聞き忘れた
もうすぐ城内の住民は立ち退き
新に観光村として生まれ変わる
その前にここに来れてラッキーだった -
この“おっちゃん”が、20万円で購入した
何人家族か聞かなかったが・・・。
中はそこそこ綺麗に整頓されていた -
鼓楼南街で店を開く「靴修理」
張家口で生まれ育ったZJ君も「10年ぶりで見た」とのこと
それでもお客さんがいるようで靴を修理していた
城内には良く似合う風景に嬉しくなった -
■張家口駅へ行く
堡子里から次は張家口駅前に行った。この駅前にZJ君のお父さんが建てたビルがあり、「これがそうだ・・・」と教えてくれた。この張家口の駅舎は建て替えられ新しくなっている。
駅前広場は67年前はどうであったのか?当時の写真も見当たらず残念ながら当時の地図で想像するしかない。 -
?昭和20年8月19日、20日、21日
この張家口駅前に避難する日本人居留民がごった返していた
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張家口駅からの邦人引揚げ
「日本人を守る最後の戦い」:稲垣 武(著)より
8月19日
引揚げは8月19日から実施されることになった。19日朝、引揚げるべき在留邦人は一人も集まっていなく、仕方がないので第一列車には食糧を積んで発車させた。そのうち在留邦人は国民学校に集まっているらしいとの情報が入り、輸送指揮を命じられた参謀部付の森昌男大尉が学校へサイドカーを飛ばし、叱り付けて駅へ誘導した。
まっ先に来たのは芸者さんたちであった。引揚げの第一陣はやっと出発した。19日に引揚げたのは身軽な芸者さんたちや軍・官公庁関係者の家族たちだったらしい。これが後になって「軍人と役人だけが先に逃げた」という非難を生んだ。これには理由があり、8月9日のソ連参戦以来、奥地の軍人・政府関係者・公営企業の家族たちを張家口まで撤収させ、学校や軍の宿舎などに収容していた。まとまっていたこれらのグループをまっ先に引揚げさせたのは無理からぬ話であろう。
8月20日
張家口第一国民学校六年生の池田満寿夫(芥川賞作家)の家では20日の一時避難通達で、「荷物は持つな。ほんの手荷物だけで集合」といわれ、折角、作った荷物を置き去りにし、非常食と水筒だけ持って家を出た。着替えさえ持たなかった。駅前の大通りは。すでに日本人でいっぱいだった。成年男子の姿は、ほとんどなく、子どもの手をひいた母親が大部分だった。
何千という群衆が押しあいへしあい、駅構内に止まっている貨物車めがけて急いでいた。どうして「引楊げ命令」でなく「一時避難命令」にしたのは、荷物をまとめるのに時間かかかり、集合が遅れたり収拾がつかなくなる。身体一つで緊急引揚げさせようと、わざと蒙古自治邦政府企画科長だった勝田千年氏がニセ命令を出した。引揚げを拒む人もいた。20日朝、駅前の広島旅館の女将が、旅館にガソリンをまいて火をつけ、自分は紋付きに白足袋の装束で火中に飛びこみ焼身自殺した。
8月21日
在留邦人の引揚げが本格化したのは、20日午後からで、21日夕方には、引揚げは完了している。これは駐蒙軍司令部の先見の明と、時宜に敵した処置、そして列車運行に当たった華北交通社員の不眠不休の努力の結果である。
張家口の駅構内には、引揚げ開始の十九日ごろ、機関車が約三十両、貨車が五百両ほどあった。居留民緊急引揚げを予想した軍が、八月十日ごろから、北京から到着した貨車を送り返さず、張家口駅構内に留置したからである。それらの貨車が張家口の張家口の引込み線などに、目白押しにたまっていた。それらに邦人を乗せて次々に送り出した
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張家口駅前にて
丸一陣地の戦いあればこそ
多くの在留邦人が無事に帰国できた
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Mさんは昭和20年8月21日昼過ぎに自宅に戻り、その後待っていてくれた母と妹の三人で張家口に向かった。ということは引揚げ最終段階だったのだろう。旅館「広島屋」の火事をMさんは目撃したと言われていたが、本によれば20日朝ということなので、他の火事なのか日付の間違いなのか?一日たっても火が消えずに燃えていたのかもしれない。
この時は、車を停める場所がなく、ゆっくり張家口駅前で時間がとれずだったが、それでも実際に来て見たら駅前広場の雰囲気も分り、67年前のこの広場に集まった邦人引揚げ家族の様子を思い浮かべることが出来る。荷物を手に手に持ち、子供の手を取り、互いに離れないように呼びかけながら、人人人でごった返していたのだろう。ここには23日に再度来た。 -
駅を背にして写す
当時の風景は如何様だったのか?
左手前方では広島旅館が燃えていたのだろう
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張家口駅にて
http://youtu.be/5Z0_kP5FROk -
昭和17年10月16日竣工
靖國神社参拝すら気兼ねする今の日本
敗戦後、国軍すら持とうとせず現在に至る
泉下の英霊いつになれば浮かばれるのか?
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■蒙疆忠霊塔跡(察哈爾烈士陵園)へ行く
ここは「蒙疆忠霊塔跡」だ。忠霊塔というのは「戦死者の遺骨を納め、 塔の下部には戦死した者の名が刻まれている」そうだ。
この張家口の忠霊塔は、蒙古聨合自治政府の樹立の契機となった「チャハル作戦(察哈爾作戦:ちゃはるさくせん)」・・・『(1937年(昭和12)8月9日から10月17日にかけて行われた察哈爾省・綏遠省(現在の内モンゴル自治区)における日本軍の作戦』で亡くなった戦死者の顕彰をし称えている。
昭和17年10月16日に竣工した。この時期、太平洋戦線ではすでに苦戦が続いていたが、張家口では日本人及び日本軍の勢いは健在であり、それを誇示するかのように立派な忠霊塔を建立した。そして日本の敗戦後、この「革命烈士紀念塔」は、その忠霊塔の土台部分をそのまま利用して塔の部分だけ新に作ったようだ。
蒙疆忠霊塔に戦死者の遺骨が納めてあったのか?どうか、分らないが、いずれにせよ、敵の忠霊塔をそのまま自国戦死者の霊を慰めるために使用する精神は信じられない。「見栄と面子の文化」というのは、こんなことは抵触しないようだ。
ここに祀られた日本軍戦死者の霊魂はいかばかりなのか?想像もできないが、戦いに敗れるということは、こういうことも含める。しかしどんな形にせよ、そのまま残っていることはありがたい。「察哈爾烈士紀念塔」なるものも私には「蒙疆忠霊塔」としか見えない。忠霊塔の前で「日本人を守る最後の戦い」:稲垣 武(著)の本をかざして写真を撮る。
広大な敷地の中に、荘厳な趣を称えて忠霊塔は堂々と立っていた。塔の形とその塔に書かれた文字は違うが、そんなものは目に入らず気持ちにも入らず、私は往時を偲びながら頭を垂れた。この張家口で活躍せりし在留邦人多々あり。ただただ広い敷地に人の姿ほとんどなく静寂があった。
今も大東亜戦争の是非について様々な意見があり、間違いを指摘する者も多々あるが我は断じてそうは思わじ。当時の世界基準と価値感に照らして国家の独立と誇りを保つために、乾坤一擲火蓋を切った日本国と日本人を心から誇りに思う。
一体全体何ヶ国相手に戦ったのか?日本は、米・英・豪・蘭・蘇・仏・中・加・新西蘭(ニュージーランド)の九ヶ国と直接戦火を交えた。南太平洋からインドシナ半島・インド、支那大陸から北はアリューシャン列島まで、その戦域は広大である。太平洋に航空母艦を旗艦とする大機動部隊を展開し空母決戦をした。
勝ち負け以前にそれだけでも“凄い”と思わないか?その事実をもう一度思い起こしてみろ。遥か昔の夢物語ではなく、その気があれば今ならまだ十二分に真実を検証できる。戦争は悪?ならば家族を守るために戦うのは悪なのか?国なくして家族は守れるのか?戦争は、やらないことが最善だが、決して悪ではなく善だ。戦うべき時に戦わないことこそが悪だ。戦い敗れるも大いによしとする。
綺麗ごとに明日はない。私は世渡り上、それなりに人と付き合うが、綺麗ごとを言う人間はそれが誰であっても心の中では心底軽蔑している。私に係わる人間はそう思っておけ。嫌なら近づくなハハハ。
この隣に蒙疆神社跡があるが、この敷地から行けないので車で向かった。 -
昭和16年7月、総工費55万円の予算で起工
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蒙疆忠霊塔鎮座祭
昭和17年10月16日竣工
高さ45メートルの巨大な塔は
張家口全市から仰ぎ見れる存在だった -
完成当時の「蒙疆忠霊塔」の姿
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上部は作り変えられたが・・・。
今も威風堂々鎮座する
そして、これからも -
静寂の中、この中に立つと身の引き締まる思いがするが
さりとて平々凡々危機感なく生きて来た味気の無さを痛感する
人の世は時代を越えて概ね公平なり -
蒙疆忠霊塔
察哈爾烈士陵園ではない
あくまでも蒙疆忠霊塔である -
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勝利公園
ワンパターンのネーミング
この名前はやたらに多い
他に知恵はないのか?
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■蒙疆神社跡に行く
蒙疆忠霊塔跡の北側に隣接した勝利公園内に蒙疆神社跡が残っている。神社跡を探し当てるまで、広い公園内を歩いたが、意外な雰囲気の中に蒙疆神社は残っていた。公園の中に溶け込んで、これが神社だったということを知らない限り何の違和感もない。
そしてそのことを知っているのは張家口の年寄りくらいだろう。例え知っていても「使い勝手良く、堅固な建物だったら使えばよい」として今に残ったに違いない。敗戦を生き延び文化大革命を生き延び、最近の反日運動も“どこ吹く風”と、日本人の精神的支柱である神社が、今になっても壊されず使われている。
忠霊塔と同じく、どんな使われ方でも正直残っていることが嬉しい。狛犬が玄関左右に置かれていたが神社跡との関係は如何に?蒙疆神社は忠霊塔に先立つこと一年、昭和16年10月6日、鎮座祭が執り行われている。
有色人種代表の日本が白人種列強に戦いを挑んだ歴史的戦いの幕開け2ヶ月前のことだ。今日は土曜日、勝利公園は家族連れで賑わっていた。 -
神社の切妻屋根を撤去して今も使われている
切妻屋根を撤去したということは
神社であることを隠すためだろう
なるほどごもっとも -
大東亜戦争一周年 完勝祈願!
昭和17年12月8日のことなり -
狛犬は当時の物なのか・・・。
もしそうなら
忠犬ハチ公にしかり
南極犬タロ・ジロにしかり
石とは思えず
連れて帰りたいけど重過ぎる
これからも神社の守りを頼む
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蒙疆忠霊塔と蒙疆神社
http://youtu.be/z_E5mvdfC1E -
今年2012年8月6日
奇しくも修復場所があっけなく崩壊し
手抜き工事が暴露された
崩壊による死傷者が出なかったことが救いだ
ホンマ笑い話の種には事欠かない
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■大境門へ行く
張家口と言えば、街の北端にある大境門と万里の長城。ここは「北京の北門」張家口の象徴とも言える場所だ。万里の長城の大部分は明代(1368年/日本:南北朝- 1644年/日本、江戸幕府三代、家光)に作られた。張家口郊外には外長城も築かれ二重になっている。このことからもこの地域が北方民族からの襲撃に備えた守りの要衝の地であったことが分る。
そして、この大境門は1485年(日本/室町時代、戦国時代の始まり)に作られた中華と北方との国境の関門だ。この門に書かれている「大好河山」という四文字は、1927年に“高維岳”揮毫による。ZJ君によれば、「河、山はすなわち“国”を表し、素晴らしい国という意味」と学校で教えられたと言っていた。「麗しい山河」であり「素晴らしきかな故郷」である。
この大境門横の長城が今年8月6日、突如崩壊し、その復旧工事中で、今現在は門に近づくことが出来ない。その崩壊部分は1996年修復工事が完成し、当時は『同工事の完成で、長城の大境門部分は「歴史的な雄姿を回復した」』と大々的に紹介されたそうだ。幾ら今年は雨が多かったとはいえ、明代からの長城が今に残り、たった16年前に現代工法で補修したばかりの部分があっけなく崩壊とは・・・何をかいわんやである。 -
折角の大境門に近づくことならず
河向こうから写真をとるしかなかった
ここから続く長城を少しは歩いて登りかったが -
大好河山(ダーハオハォーシャン:Dàhǎo héshān)
1927年/揮毫、昭和2年か
翌年の昭和3年「張作霖爆殺事件」が起きる -
尾根伝いに万里の長城が延びている
長城の外は”化外の地/けがいのち”
中華思想とは何ぞや
トイレの汚さは世界一だが -
午後1時に昼食タイムとなった
二日間ベンツで案内してもらい
食事から門票までZJ君が払ってくれた
そして高級茶のお土産までもらう
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■「大清花餃子城」での昼食
大境門を見終わり、ZJ君に今日案内してもらう予定の場所は全部終了となった。土曜日でもあり仕事や休日の自分の時間を割いて、見知らぬ私の案内をしてもらうのは、何といっても気が引ける。昨日今日とお陰で効率よく見て回ることが出来、有意義だった。すでに時間も12時半を過ぎており、昼食を食べて解散することになる。
案内してもらったのは「大清花餃子城」という店だった。ここもZJ君のご馳走ということなり、最後まで面倒をみてもらう羽目となる。食事をしながらZJ君は能弁に話をしてくれた。日本留学時代のことから帰国後立ち上げた事業の失敗談、そしてやっと中国での商売の仕方が分り、何とか将来への目途がついたようである。
張家口の有力者の息子として生まれ育ったのだが、日本への留学中は、親の仕送りでの楽な留学生活ではなく、あらゆるバイトをしながらそれなりの苦労をしたようだ。そして最後はラーメン店の仕込まで任されるようになったとのこと。確か七年?くらい日本に居たと言っていたが、その為なのか、帰国後の商売は中国式が分らず失敗の連続だったそうである。
しかし徐々に親父さんのアドバイスや失敗から学び中国でのやり方を身につけ、青年実業家として事業の展開をしている。最近も北京でガソリンスタンドの一号点をオープンしたらしい。今日の運転手も同級生だが従業員であり、月¥3,000元の給料を渡している。そのZJ君の語る中国で事業を立ち上げ成功するために必要な人間関係を聞いて、なるほどそうなのかと思った。それを聞いて最初に思ったのは、中国式の「効率の悪さ」である。
その根本にあるのが互いの人間不信であり、「誰も信用できない」「誰も信用してはならない」ことがベースになっている。だからこそ良くも悪くも濃密な人間関係が絶対必要要件であり、その上で初めて信頼関係が構築され仕事に結びつく。欧米の商売は契約によって成り立ち、それを反故にすることは犯罪にもなる。日本でも今は欧米のように契約が前提になっているが、一昔前までは暗黙の合意でも商い成立となっていた。
日本人同士で商売を前提とした話で約束をすれば、まず互いに「守る」「守られる」ことは当然であり、例え契約書が完全でなくても反故になることは基本的にない。それが共通認識であり日本の常識であり文化だ。ZJ君は「今年の中秋節(9月30日)に、あちこち月餅を贈らないといけない」とため息混じりに言っていた。無論、相手からももらえるが消費に貢献出来ても無駄が多すぎる。日本にも中国伝来なのか?中元・お歳暮の習慣があるが内容や意味は同じではない。
「見栄と面子の文化」は、合理的とは対局であり、そんな社会はどうしても歪みを生じる。賄賂も同じことであり、その延長に「何でもあり→モラル無き損得→結果が全ての社会→そして国?」となる。そんな文化価値観を有する相手に日本人が儲ける(得する)ことは難しい。例え目先莫大な利益を得てもトータルすれば、大損で終わるだろう。良くてトントンだ。そして幾ら人間関係が深く濃密に成っても裏切りがある。中華社会ではそれは善悪の範疇ではなく、結果が正義不正義を決める文化だから。そのことの善悪を論じても無意味である。
昼食を食べながら一時間半以上ZJ君は、留学時代や帰国後の事業に関することなどを熱く語ってくれた。その間、同級生のFT君は、お茶を入れてくれたり、社長と従業員の関係でもあり仕事の延長なのだろう。嫌な顔一つせず黙って付き人役に徹していてくれた。私も親父さんが有力者の息子である青年実業家の思いを聞けたことは、大いに勉強になった。そんな機会は今までなかったから、ZJ君は二人の親父だが、将来子供は米国に行かせたいと行っていた。
民主主義国家日本に留学し、海外を知れば中共という共産党独裁国家の矛盾をより強く感じるだろう。中国で事業に打ち込み“ぼろ儲け”をすることに徹するのであれば良いかも知れないが、若者にはどうもすっきりしないところが多々あると思う。それは自らの仕事への情熱と探求によって成功を勝ち取るという「真の実力」ではなく、それ以外の要素があまりに大きく左右し、それがどうしても必要だから。ZJ君の表情と言葉の端々からそんな諦めに似た苦渋の感情を感じた。
それと今渦中の尖閣問題にも彼は触れたが、「尖閣の帰属の問題」についての「歴史的事実」とかには興味はないようで、そのことについてではなく「四千年の歴史のある中国人は何かが起きると一致団結する。」ということを言っていた。ZJ君から「一丸になる」ということを聞いて意外だった。
賄賂とコネが当たり前の国で、自己犠牲が成り立つのか?国を守る為に犠牲になることを自ら率先する者がいるのか?私が中国人なら絶対無理だ。私が機会の平等のない国に属する人間なら、絶対御免こうむる。それが人間として自然だろう。日本人は今でもいざとなればそれが出来ると信じる。理由はいろいろあるが長くなる。一言で言えば日本人だから。分らん人間に説明の要なし。そんな人間は国籍はどうであれ真の日本人ではない。
そして中国人と「島の領有の正当性」についての議論など成立しない。その理由は、中国報道で知る共産党高官の発言や私自身の経験からの判断だが、極々少数の中国人意外は事実・真実は関係ないという前提での議論であり、「真実を重要視するのか?」「結果を重要視するのか?」日本人と中国人は、まったく相容れず、残念だが議論は成り立たない。成り立つのは“力”すなわち「軍事力」のみだ。
午後2時半ごろホテル前で、二日間のお礼を述べ二人と別れた。運転手付きベンツでの案内、そして門票から昼食代まですべてZJ君のおごりでその上、私が土産を渡したのでそのお返しに高級茶のお土産までもらった。Y社長とZJ君と彼のお父さんとの深い関係によって、私は、この二日間の至れり尽くせりの世話をしてもらった。恐縮以外の何物でもなく、そのお返しに相応しいことを私が彼にすることは出来ない。そしてY社長がそのように手配して下さったのは、奈良のMさんとY社長の関係によるものだ。
帰国後、ZJ君にはお礼の電話をし、Y社長には明石名産「蛸せんべい」と礼状を送り、奈良のMさんには、写真と動画をDVDに編集したもの。それに出発前に購入を頼まれた「夜光杯」を持って、9月19日にMさん宅に行き旅の報告と御礼を述べた。それが皆さんの支援に対しての私の感謝の気持ちである。受けた支援に対して至らないのは重々承知だが、私の分相応として皆さんにはお許し願うしかない。 -
午後の一時に入ったが店内は一杯のお客さん
人気の店だというのが良く分かる -
沢山の料理を注文してくれて三人でも食べきれない
出された料理は、みんな美味しかった
食べながらZJ君の熱弁を聞いていた
日本留学、起業、失敗と成功、そして将来の夢、等々
青年実業家の思いを聞く事が出来て有意義だった
二日間何から何まで世話になり
どう対応して良いのか分からないまま二人と別れた
帰国後お礼の電話を掛けたが・・・。 -
「新清河橋」が現在の解放橋(昔:大原橋=新清河橋)
この傍に北白川宮記念碑があったと記されている
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■一人で散歩へ
部屋で小休止のあと、今度は察南病院跡(現在:河北北方学院付属第一病院)に向かって清河沿いを北に向かう。まず大原橋(たいげんきょう:現在、解放橋)を西に渡る。この橋の河原に北白川宮永久王(きたしらかわのみや ながひさおう)の碑があったそうだ。北白川の宮は、1940年昭和15年9月4日、この場所で演習中の戦闘機の翼に接触薨去(こうきょ 満30歳没)された。その事故現場に碑が作られた。
当時清河の水量は少なかった。1995年の写真でも水の流れは小川のように少ない。現在張家口市街から見る清河は貯水池のように満々と水を湛えている。これはダムを作って河を堰き止め溜めているからだ。青いビニールかゴムの堤防を膨らませたり萎ませたりして貯水量を調整している。この工事もZJ君のお父さんが請け負った。
清河の水が少なかった時と、堰き止めた清河の写真
http://akasids.web.fc2.com/sonota/201210/seiga.html#a
北白川の宮が薨去された翌年、昭和16年10月に完成した蒙疆神社は「天照大神」「明治天皇」「国魂大神」と共に「北白川宮永久王」も祭神となっている。清河にあった碑も同様の時期に建立さたのだろう。そしてこの河原の碑は、日本軍が張家口を去ってすぐに市内に入ってきた八路軍が、蒙疆忠霊塔(塔の部分だけ)などと共に爆破した。
「日本人を守る最後の戦い」:稲垣 武(著)によれば
要約抜粋
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昭和20年10月上旬から張家口では、八路軍が日本に協力した者を漢奸(売国奴:裏切り者)として裁判にかけ処刑が始まった。中共の誘いを受けて張家口に戻っていた製鉄所の技術者:田中氏の回想では、次のようなことである。大衆が「殺シャア 殺シャア、殺せ殺せ」と叫ぶと即決で死刑が決まる人民裁判である。
死刑囚は馬車(マーチョ)に乗せられ、清河の河原の爆破されて残骸だけが残った北白川記念碑の前まで連行され、八路軍兵士が小銃で後頭部を撃つ。蒙疆政府の副主席で。漢人として最高位にあった「于 品卿(う ひんきょう)」も、8月25日最初に逮捕された。干副主席は「私のとった道が間違っていたとは思わない」と、堂々と信念を吐露し、12月27日数十名の政府職員と共にこの河原で処刑された。
元日本軍の通訳だった中国人「楊 やん」は処刑の寸前、東を向いて「君が代は・・・」を歌った。
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Mさんの手記「内蒙古からの脱出」にも以下の一文があります。
http://www.geocities.jp/shougen60/shougen-list/m-S7-2.html
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日本人が居なくなって、張家口の町の水道・電気などライフライン機能が全て停止。困ったソ連軍の強い要請があったので、復興のために天津まで避難していた技術者など200人が張家口へ引き返す。そのまま日本へ帰国できたのに、あくまで善意で張家口へ引き返したのであった。
ところが、戦時中に軍部の弾圧を避けてソ連へ亡命していた共産党幹部の野坂参三は、ソ連軍と共に張家口へ占領に来ていて、善意でインフラ復興のために戻った技術者の内65人に、証拠もなくスパイの疑いをかけて川原で銃殺した。(日本人の野坂が同じ日本人を殺すとは、許せない出来事だった)その後、満州へ行った野坂のために、軍国日本に協力した市長や役人の幹部など沢山の人が銃殺されたと聞いている。野坂はソ連軍に認めてもらいたいために恰好をつけたとしか思えない。
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上記にあるように、その後も満洲各地で野坂たち共産党一派により日本人同胞が処刑された。
http://youtu.be/fUs3LaAadxU
その野坂参三は戦後の日本で共産党国会議員として、何食わぬ顔で生き抜き102歳で死亡している。極めつけの敗戦利得者といえるが「因果応報」の報いはいずれ子々孫々の誰かが負うことになる。逃れることの出来ぬ世の常だ。
張家口で処刑が行われたのが、今の解放橋(大原橋)傍の河原だった。 -
上記地図で見ればこの付近だろう
今は河を堰き止め満水の水だが -
北白川宮永久王殿下
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%99%BD%E5%B7%9D%E5%AE%AE%E6%B0%B8%E4%B9%85%E7%8E%8B
嗚呼、悲劇の宮樣・北白川宮永久王殿下
http://blogs.yahoo.co.jp/kyuhzaemon/54964572.html -
北白川宮記念碑
清水河河原に建立された
この場所で演習中の戦闘機の翼に
接触薨去(こうきょ 満30歳没)された
そしてこの場所で戦後、処刑が行われた -
大原橋(解放橋)を西に渡って川沿いを北方向に歩く
右手が清水河
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■太平公園から察南病院跡(現在:河北北方学院付属第一病院)
橋を渡って川沿いに北に歩く。この辺に昔、大平公園があった。今はその辺りに人民公園がある。土曜日の公園なのか?いつものことなのか?やはり日本同様高齢化社会を迎えていることの証明であるかのように、多くの男女高齢者を含めて暇人がトランプに、あちこちで歌に踊りにと楽しんでいた。
中心には野外劇場顔負けで観衆を集めた京劇の歌姫?の甲高い歌声が響いていた。ゆっくり見ていた気持ちもあったけど・・・。
そして北方学院付属第一病院は、奈良のMさんが「2008.07.15」張家口への再訪後、母校に故郷紀行を寄せている。その中に、この病院のことが次のように書かれている。
故郷紀行
http://www.oyodo-h.ed.jp/alumni/contents/katsudou/katsudou.html
『もともとこの病院は昭和13年に日本人によって設立されたもので、当時中国人や蒙古人の医学生を募集して教育をしていたこともあって終戦後も医療機関として存続していました。
昨年新しく22階建て1300床の総合病院となり張家口市をはじめ河北省(その面積は台湾とほぼ同じ)や内蒙古地方の医療の拠点になっているのですが、張家口市では、この病院が今あるのは日本人のお蔭である、という敬意を表し昭和13年から70年目の今年、記念式典を行い友好団体である「日本張家口会」のスタッフを招待してくれたのでした。』 -
太平公園
-
今の人民公園
老人たちの憩いの場 -
公園中央では野外劇場さながら
甲高い声を張り上げ歌を楽しんでいた -
赤い印が「察南病院」
-
察南病院が今は
「河北北方学院付属第一病院」として
立派に地域医療に貢献を続けている
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張家口:北白川宮碑、他
http://youtu.be/C0jnC1p9n6w -
大境門まで到達できず
改造工事現場になっていた
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■再度、大境門へ
ここまで歩いてきて、このまま大境門まで歩いて行こうと決めた。地図を片手に明徳北路を真っ直ぐ北に向かう。第一病院から30分くらいで大境門の南側に到着したが、工事中で柵に囲まれ、一応工事関係者以外は入れないような雰囲気だった。まあそんなことは日本でも同じだろう。でもここは張家口、知らんぬ振りをして入って行った。大境門区域総合改造とやらで、門の南側に新たな観光市街を作るようだ。
遠目には昔風ながら、コンクリートの味気ない建て掛け建築物が足場を組んだ状態で並んでいた。工人がヘルメットを被って作業している。そんな連中が私に気付き「なんじゃこいつは?」と一瞥するだけで、それ以上の関心は払わないのが中国だ、ハハハ。
完成の暁には、大境門を含めてつまらぬ観光街になるだろう。工事現場ゆえ、どこから何が飛んできたり落ちてきてもこれぞ自己責任、仕方が無い。知らぬ顔をしながらも周囲に万全の注意を払い歩く。
ちょっと道をそれると、草っぱらに人間のウンコが見事に点々と間隔を置いて散らばっている場所があった。まるでオブジェのように。考えることそしてやることはみんな同じという証だ。確かに野糞は中国便所より綺麗で快適だろう。
迷路を歩くがごとく、工事現場を縫ってあるいて大境門が裏から見えたが、表側に行く道が見当たらず、その内誰かに「お前は誰だ?」と詰問されそうだし、足も棒になっており、すごすご諦めて工事現場から抜け出した。「大境門仿古街 Fǎnggǔ jiē 大境門古代風の街」と書かれた完成図の看板があった。
帰り道は足を引きずりながらゆっくり帰った。この日は、昼も腹一杯食べたので、夕食は何も食べる気がせず、焼き芋(3元)とりんごを買い、日本から持って来たパンが残っていたのでそれで済ました。明日はどう過ごそう・・・丸一陣地にもう一度行こうか?いや、はっきりした陣地跡もないし、やめておこうと一応決めたけど。
その他の明日の予定は、城内・通学路・張家口駅へは行く予定だが、その他決めないまま明日を迎えることになった。 -
知らん顔して入って行ったら
正面に大境門が見えた
観光地として整備されようとしている -
ここが完成したら
次は城内(堡子里)が整備される予定
一体城内はどんな風になるのだろう
最小限の修復は望むべくもなく・・・かも -
大境門仿古街
大境門古代風の街
こんな風に仕上げる予定のようだが
古代風は外見遠目からだけで
ピカピカ街の出来上がりが目に浮かぶ
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