2012/09/18 - 2012/09/27
29位(同エリア36件中)
明石DSさん
“東交民巷飯店”の部屋の窓から写す
前の通りが“東交民巷”
左二軒隣に日本公使館跡がある
道を隔てた左向かいの白い高層ビルが
首都大酒店、25,26日と二泊する
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2012/平成24年9月19日(水)
■“東交民巷飯店”の朝
朝は6時ごろ目覚め、まずカーテンを開けて天気を見る。曇っていたが雨ではないので一安心。“東交民巷飯店”は朝食は付いていないので、7時過ぎに北京の一歩を踏み出す。ホテルの二軒隣が義和団事件当時の日本公使館旧跡のはずだ・・・と。ちなみに昔の地図でみれば、このホテルはスペイン公使館があった場所だ。
その赤レンガ作りの建物には、確かに「東交民巷建築群:日本公使館旧址」との石版が埋め込まれてあった。この“東交民巷”は、2012年の現在から遡って112年前の1900年6月〜8月に掛けて「扶清滅洋」というスローガンの下に義和団が各国公使館を包囲し、籠城した連合国兵士と公使館員、民間人義勇兵、そしてこの地域に逃げ込んだ清国人クリスチャンたちが共同して戦った。
私の義和団事件に関してのことは、「北京燃ゆ」ウッドハウス暎子(著)・「虎口の難/義和団事件始末記」:高橋長敏(著) 他、ウィキペディア、その他、ネットからの情報を基に書いている。
とにかくこの北京の籠城での日本軍の活躍、その中心となった「柴五郎中佐」の軍人として秀でた能力だけでなく、その人格識見が籠城外国人から尊敬を集めた。そして当時、日清戦争を勝ち抜き、世界の列強に有色人種国家として初めて仲間入りしようと始めた日本人の優秀なる資質を世界に知らしめたきっかけとなり。のちに世界が驚いた日英同盟締結に至る。
この“東交民巷”に立て篭もって籠城戦を戦ったのは、日本軍兵士27名、公使館員・民間在留日本人のみの義勇軍31名のわずか58名である。しかし、その誰もが日本の置かれている立場を理解し、一人一人が日本を背負って行動した。そんな日本人全ての言動が、外国人から賞賛を受けることになる。輝ける日本人であり、世界の白人列強の中に綺羅星の如く登場した日本国だ。そのあまりの“輝き”が白人から警戒され、その後徐々に黄禍論が台頭してくることになる。
日本と日本人が自らの命を賭して「日本が世界のスター」になった場所が、この“東交民巷”である。この四年後に日露は戦い、それにも日本は勝利し、有色人種唯一世界の列強として認知されることになる。その後、1910年:明治43年日韓併合を経て、満洲建国・支那事変、そして黄禍論から波及して歴史の必然として白人との戦いに挑むことになった。
大東亜戦争は白人支配の世界に一石を投じた有色人種の乾坤一擲の戦いであり、やむにやまれぬ戦いであった。敗れて悔いなく、その戦の価値は今の世界の有り様が如実に示している。白人の植民地支配の終焉となり、200余りの独立国家が存在する世界となった。確かに今も40%の白人が世界の主導権を握っているのかも知れないが、その内実には雲泥の差がある。これぞ日本の先人たちの気概と勇気の結果なり。我その原点とも言うべき“東交民巷”に来る。
義和団事件については「北京燃ゆ 義和団事変とモリソン」ウッドハウス暎子(著)を読めば当時の状況が良く分かる。ウッドハウス暎子はモリソン研究家であり、1988/昭和63年「 日露戦争を演出した男モリソン」を出版し、翌年の1989年:平成元年に続いて「北京燃ゆ」を出している。
ジョージ・アーネスト・モリソンはロンドタイムズの特派員として北京籠城に巻き込まれ、その時の様子を克明に記録し戦後、世界にその情報を発信した。
『義和団の蜂起以来、全世界の耳目は北京に注がれていたが、龍城内部のことは皆目分からず、流されるニュースはいずれも想像によるでっち上げのデマばかり。世界中が気をもんで焦っていた、そこへ、モリソン報告が投下されたのである。それはプロの現役報道人が体験したそのものずばりのドキュメンタリーであった。みなは海綿が水を吸い込むように、むさぼり読んだ。東の果ての小国・日本のことなど、今まで欧州人はよく知らなかったし、知ろうともしなかったが、モリソンの生き生きとした報告は彼らを開眼させた。』
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27日帰国の日までCCTVは尖閣問題ばかり
朝、テレビを付けたらこれだった
“うんざり”だが、支那の決意の表れだろう
日本人は元寇と同じく戦う覚悟をすべきだ
目先の“金”より遥かに大事な物がある
日本人の決意と覚悟が戦争を防ぐ最大の抑止力となる -
“東交民巷飯店”昔、ここにスペイン公使館があった
この周辺一帯が・・・。
1900年、明治33年、義和団事件の籠城戦の舞台である。 -
右端:日本兵。身体は小さいが籠城戦では
日本人義勇兵を含めて勇敢に戦い賞賛を得た
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やはり籠城を余儀なくされた多くの欧米人が解放後それぞれの籠城記を出版している。そういった籠城欧米人から見た日本軍人及び、軍人以外の日本人の様子もモリソン同様、多くは好意的な驚きと賞賛で語られている。「北京燃ゆ」は、そういった出版物を整理して内容を紹介してくれている。
輝ける日本と日本人が、この“東交民巷”にあった。以下の文章も若きアメリカ女性が目にした柴中佐を含む日本兵士(27名)日本人義勇兵(31名)の評価である。それは素直で正直な感想なのだろうと思う。
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「北京燃ゆ 義和団事変とモリソン」ウッドハウス暎子(著)より
P・C・スミス嬢の日記
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P・C・スミス嬢は若いアメリカ女性 アメリカ大使館参事官のお客として夏休みを北京で過ごしていた。ポーリー・コンデット・スミス。『北京の舞台裏』という本を後日発行する。
「柴中佐は素晴らしい人です。彼が交民巷(ジャオミンシャン:Jiāomín xiàng)で現在の地位を占めるようになったのは、一に彼の智力と実行力によるものです。なぜならば、第一回目(6月21日)の朝の会議では、各国公使も守備隊指揮官も別に柴中佐の見解を求めようとしませんでしたし、柴中佐も特に発言しようとはしなかったと思います。
でも、今(7月2日)では、すべてが変わりました。柴中佐は王府での絶え間ない激戦で快腕を奮い、偉大な将校であることを実証したからです。だから今では、すべての国の指揮官が、柴中佐の見解と支援を求めるようになったのです」
「彼(柴中佐)の部下の日本兵は、いつまでも長時間バリケードの後ろに勇敢にかまえています。その様子は、柴中佐の下でやはり王府の守備にあたっているイタリア兵と大違いです。北京に来ているイタリア兵はイタリア本国の中でも最低の兵隊たちなのだ、と私はイタリアの名誉のためにも思いたいぐらいです」
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北京籠城戦は、共に戦い生き抜いた者が
戦後に当時者として多くの手記を世に出している、
そこには日本人の活躍が記されている
これこそ後世の子孫に勇気と感動を与えてくれる
日本人かく戦えり!そんな先人に心からの敬意と感謝を捧げたい -
義和団事件
年月日:1900年:明治33年6月20日 - 1901年:明治34年9月7日
「北京燃ゆ 義和団事変とモリソン」ウッドハウス暎子(著)より
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1897年11月4日
ドイツ海軍陸戦隊の青島上陸。列強による清国領土の争奪戦 「清国メロン切取り競争」
1898年3月27日
ロシアは旅順協約 旅順と大連の25年間の租借権と南満州鉄道敷設権を獲得
李鴻章に50万ルーブル 大蔵大臣 張陰桓に20万ルーブルを 贈賄 売国奴なり
1900年 6月11日
日本公使館員殺害される。杉山彬(あきら) れっきとした清国官軍に殺害される。
6月20日にはドイツ公使クレメンス・フォン・ケッテラーが義和団に殺害された。
義和団の乱とは、清国社会の底辺をなす農民を主体とした一大排外運動であった。義和団という宗教団体がリードして、山東省の一角で農民、都市労働者、知識階級などを煽動して排外・反清廷をスローガンとして蜂起した反乱。
当時の国際社会はジャングルの掟のまかり通る弱肉強食の社会。その餌食とされた清国は、国家分裂の兆候を現していた。日・英・米・露・独・仏・伊・墺・西・蘭・ベルギー 計11ヶ国の公使館があった。五月中旬ごろまでこの乱を軽視していた。
1900年6月20日午後4時
衙門からの最後通牒の時間切れをきっかりに、清国側からの砲撃が始まった。籠城側もこれに応戦。ここに史上名高い「北京籠城」が始まった。
籠城期間の区分
第一期 6月20日から7月17日の四週間 連日戦闘
第二期 7月17日から8月6日までの約3週間 ほとんど休戦
第三期 8月6日から13日までの1週間 一面外交 一面戦闘
約二ヶ月に渡る籠城中、援軍の動きに関する信頼できる情報は三回入っただけだが、これがすべて日本人によって得られたのである。西徳二郎公使は、「この為に外人一般嘆賞を博せし満足するところなり」と後日、本省に報告している。
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「北京籠城」ピーターフレミング(著)
「戦略上の最重要地・王府では、日本兵が守備のバックボーンであり、頭脳であった。日本を補佐したのは頼りにならないイタリア兵で、日本を補強したのはイギリス義勇兵であった。日本軍を指揮した柴中佐は、籠城中のどの国の士官よりも有能で経験も豊かであったばかりか、誰からも好かれ、尊敬された。
当時、日本人と付き合う欧米人はほとんどいなかったが、この籠城を通じてそれが変わった。日本人の姿が模範生として、みなの目に映るようになったからだ。日本人の勇気、信頼性、そして明朗さは、籠城者一同の賞賛の的となった。籠城に関する数多い記録の中で、直接的にも間接的にも、一言も非難を浴びていないのは、日本人だけである」
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「率直な北京便り」B・レノックス・シンプソン
清帝国海関勤めのイギリス人下級職員、23歳のB・レノックス・シンプソン(ペンネームはパットナム・ウィール)は、籠城中、義勇兵となり、柴のもとに派遣されて戦った。彼は当時の日記を、1907年に出版した。『率直な北京便り』というその題が示すように、実に遠慮のない日記である。
彼の6月21日付日記をみよう。
「数十人の義勇兵を補佐として持っただけの小勢日本軍は、王府の高い壁の守備にあたった。その壁はどこまでも延々と続き、それを守るには少なくとも五百名の兵を必要とした。しかし、日本軍は素晴らしい指揮官に恵まれていた。公使館付武官・柴中佐である。彼は他の日本人と同様、ぶざまで硬直した足をしているが、真剣そのもので、もうすでに出来ることと出来ないこととの見境をつけていた。
ぼくは長時間かけて各国受け持ちの部署を視察して回ったが、ここで初めて組織化された集団をみた。この小男は、いつの間にか混乱を秩序へとまとめ込んでいた。彼は自分の注意を要する何千という詳細事を処理することに成功していた。彼は部下たちを組織化し、さらに、大勢の教民を召集して前線を強化した。実のところ、彼はなすべきことはすべてした。ぼくは自分がすでのこの小男に傾倒していることを感じる。ぼくは間もなく、彼の奴隷になってもいいと思うようになるだろう」
籠城第一日目にして、柴にほれこんでいる。
6月23日付け
「小柄な奇才・柴中佐は、やたらと歩き回って時間を無駄にするようなことはしない。彼は緑・青・赤の点を付した地図を備えており、刻々と変わる兵隊たちの部署、それぞれの兵力、戦闘能力を常に監視・記録している。なぜかぼくは日本軍の持ち場から離れることができなくなってしまった。彼らの組織作りが、それほどにも素晴らしからだ」
7月8日 日記
「王府の炎上は城壁の上からもよく見える。そこは一大活劇シーンだ。小柄できびきびした柴中佐は、必要な場所には必ずいつもいる」
柴は当時40歳。旧会津藩士を父とし、明治維新で賊軍と成った。会津城落城の直後、一族の女は母親も幼い妹も全員自刃した。父親は戦死し、兄は捕らわれた。幼い頃から苦労しただけあって、柴は立派な軍人であり、また心優しい人間であった。
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ランスロット・ジャイルズ 日記
籠城者の一人、ランスロット・ジャイルズ イギリス公使館付通訳 当時21歳、北京に着いてまだ一年もたたないうちに義和団の乱が起こった。彼は籠城中の出来事を細かく日記に記していた。
6月24日
「王府の攻撃があまりにも激しいので、夜明前から援軍が送られた。王府で指揮にあたっているのは、日本軍の柴中佐だ。日本兵が最も優秀であることは確かだし、ここにいる士官の中では、柴中佐が最優秀とみなされている。日本兵の勇気と大胆さは驚くべきだ。この点では、わがイギリス水兵が次につづく、しかし日本兵はずば抜けて一番だと思う」
7月8日
「午前十時十五分。王府が大火事だ。柴中佐はマクドナルドに援軍を要請。通訳生三人、海関職員三人、水兵六人が行った。しばらくして、王府で一斉射撃の音がした。王府は戦略上のキイーポジショッンだ……日本兵が王府の守備にあたっていてくれることは、ぼくたちみなにとって非常にラッキーなことだ。
もし、これがイタリア兵やオーストリア兵だったとしたら、王府はとっくの昔に敵の手に落ち、ぼくたちは全滅していただろう。なぜならば、王府が落ちれば、イギリス公使館は数時間以内にこなごなに吹き飛ばされてしまうからだ」 -
ジョージ・アーネスト・モリソン
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義和団事件
年月日:1900年:明治33年6月20日 - 1901年:明治34年9月7日
「北京燃ゆ 義和団事変とモリソン」ウッドハウス暎子(著)より
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モリソン日記 7月5日(木)
「王府を巡視した。ひどい破壊だ。日本兵はイタリア砲をかまえて敵の突撃を待ち構えている。イタリア兵はやる気がなくてしぶしぶ戦っているが、日本兵は朗らかな柴中佐の下で張り切っている。柴の兵力は増大した。20人の信頼できる清国人を選んで、清軍から奪った小銃と弾丸で武装させたからだ。
この清国人部隊は有益な補佐役を果たしている。日本兵は11人負傷、6人死亡、負傷した11人の中で前線に戻らなかったのは二人だけだ。5回傷ついても、まだ前線に戻った兵もいる。柴は立派に大役を果たしている」 日本兵は24名 -
柴五郎中佐 会津藩出身
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義和団事件
年月日:1900年:明治33年6月20日 - 1901年:明治34年9月7日
「北京燃ゆ 義和団事変とモリソン」ウッドハウス暎子(著)より
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ウィール(英国公使館、若い職員)日記
安藤辰五郎大尉の激烈な死 清国軍大砲分捕り事件にて
「ぼくは安藤大尉のもとに駆けつけた。こんな可哀想な光景を、ぼくは今まで目にしたことがない。地面に広げられたコートの上に寝かされた彼の脇腹、弾丸で引き裂かれ、口を開けていた。彼はひどい事故にあった子供のように見えた。
身長は5フィート(約1,52メートル)足らず。彼の剣は約30インチ(76センチメートル)ほどの短いもので、それは紐で手首にしっかりとくくりつけており、彼はそれを解き外されるのを拒んだ。彼は両腕を空中に上げ下げして苦痛と戦っていたが、そのたびに手首の剣も跳ね上がったり下がったりした。しかし、この努力にも力尽きて彼は我にもあらず、うめき声をだしつづけた」
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「とびきり勇敢な、眼鏡をかけた日本公使館二等書記官 井上陳政(いのうえ のぶまさ)」について
モリソン日記
七月二十三日(月)
ああ、楢原!・ 可哀想な私の親友。彼は重体だ。もう、今夜はもたないだろう。
七月二十四日(火)
ボーイが戻ってきて「日本の公使夫人が死んだ」といった。だが、そうではない。死んだのは、可哀想な楢原なのだ。脚に重傷をうけて、明日はいよいよ救助隊が着くというのに、死んでしまったのだ!
楢原の死をいたみ悲しむモリソンの気持は、この数行に溢れている。楢原は、龍城の中に置き去りにする若い妻と二人の幼児の身を案じながら、苦悩のうちに死んでしまった。せめて日本軍到着の日まで生かせてやりたかったものを。
「明日は、いよいよ救助隊が着くというのに」とモリソンは書いているが、実際には、救助隊はその後三週間も来なかった。しかし、外界との連絡を断たれ援軍の動向を知るよしもない籠城者たちは、今日でなければ明日こそ、とすがりつくような希望をつなぎ、その日その日を生きていたのである。
援軍到着によって、籠城が解かれた時、西は本省に次の報告を送った。
「楢原二等書記官人テハ繁劇ナル公務二鞅掌シ出テ義勇兵ト為テ率先危険二臨ミ七月十一日人夫ヲ率ヒ防塁築造中敵ノ破裂弾二中り重傷ヲ負ヒ同二十四日死亡セリ」
鞅掌(おうしょう[名](スル)忙しく立ち働いて暇のないこと)
楢原の死は多くの籠城仲間に惜しまれた。イギリス公使館付牧師R・フランは著書『北京公使館寵城』で「優秀な学者かつ紳士である楢原氏が二十四日亡くなったのは、まことに残念であった」と書いている。
また、ガリー・スミスも「可哀想な柵原氏は二週間も苦しみ続けましたが、レントゲンの機械さえあれば、彼の命は助かっていたはずです」と、その医学的根拠はともかく、彼女も楢原の死を悲しんでいる。
さらに日本でも八月八日付東京新聞は、「公使館二等書記官従六位勲六等楢原陳政氏……長逝の悲報に接す。聞くもの誰か悼惜せざらんや」と報じている。
楢原の短く輝かしい生涯
みなに惜しまれ、三十八歳の若さで亡くなった井上陳政(いのうえ のぶまさ)は、将来有望な学者肌の外交官であった。彼は1895年4月、下関で行われた日清戦争講和会議で伊藤博文の秘書官を勤めた。その後、何度も伊藤の特使として日清間を往復している。
楢原に対する伊藤の信頼は特に厚かったという。モリソンは楢原とは特に親しくしており、一九〇〇年四月五日の日記には「楢原は、いつ会っても感じがいい」と記入している。
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籠城、日本人・日本軍の活躍
日本義勇兵も正規兵に負けない位よく頑張った。外交官、ジャーナリスト、学者、学生、商社マン、銀行マン、写真師、植木屋など今まで銃など扱ったこともない者が、みな義勇兵となって前線に立った。軍事訓練を受けたことのない彼らは、当初は体力が続かず、卒倒する者もでた。みな、服も靴も泥まみれ、弾丸を受けてぼろぼろになり、食事も睡眠もろくにとれなかった。
が、それでも、最大激戦地の王府を守るため、命を張って戦った。強く、勇ましく、命知らずだったからではない。みな、わが身の危険におののき、愛する家族を思い、心の中では泣きながら耐えたのである。
義勇兵として戦った東京帝国大学文科大学助教授・服部宇之吉の『北京寵城日記』の「回顧録」中の一節を引用しよう。一寸の差で死を免れた時のことを語っている。
「予にして、もし身長一寸も高かりしならんには、ま額をうち貫かれて即死すべかりしなり・・この時もっとも強く運命ということを感じたり……今……身北京の囲中にあり、養父母老いて堂におわしまし、妻は弱子を抱きてこれに侍す。これを思うごとに、ひとり東方の空を望みて暗涙にむせぴたり。
ただ何事も運命と断念して日夜事に従い、友僚の死傷にあうごとに明日はわが身の上なるべしと感じ、しばしば危き場合に際会しながら、ついに生命を全うし得たるが、運命の感はますます深くなれり」
日本軍のお蔭で交民巷が持ちこたえられたことで、外人たちは感謝した。服部は、「(日本人の働きぶりは)深く外国人の心を動かし、ことに最も強く防禦司令官たる英国公使の心を動かしたりとみえたり…ロンドン・タイムス北京通信員にて、公使以上の勢力ありと称せられたるドクトルーモリソン、またしばしばきたりてわか陣地を視察せるなど、みなわれら同胞の活動に対する同情の発露にあらざるなからんや」と書いている。
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「クロード・マクドナルド」の挨拶
籠城軍総司令官の大役を見事に果たしたマクドナルドは、連合国援軍指揮官たちへの経過報告会議の席上、
「籠城は日本人の偉大な働きのお蔭で、持ちこたえることができた」
と報告した。マクドナルドは日本兵の働きを目のあたりにして、心から感銘したのである。柴はこのマクドナルド報告を聞きながら、あふれる涙を止めることができなかった。日本義勇兵の解散式の席上、柴は一同に感謝の辞を述べ、マクドナルド報告の内容をもみなに語って聞かせた。ここでもまた、一同は感涙にむせんだのである。籠城を通じて強まった日英の絆を、籠城者たちは肌で感じた。 -
“東交民巷”の日本公使館旧址
場所はあっているが、建物が??
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■1900年当時の日本公使館の謎?
ホテルを出て早速、東に二軒隣の日本公使館旧址を確認しに行った。前もっての資料通り、その建物はそこにあった。石版の説明に「日本公使館旧址」と書いてある。それは赤いレンガ作りの建物だ。改修を重ねているならそうかもしれないが、一見しての印象は1900年からの物には思えない代物だった。
で、その横にもう一つネットなどで「日本公使館?」と紹介されている建物もある。しかし、その建物は薄汚い食料品店として使われ、こっちはどう見ても元公使館には見えない建物だった。
片山東熊が設計した北京の日本公使館が、何時どこで竣工されたのか?1900年の義和団事件の際に、この“東交民巷”にあった日本公使館は、今も建っている赤煉瓦作りの建物なのか?
私は昨日、出発前にこの公使館のことが気になり、北京大使館に日本から電話をして「1900年の義和団事件の時の日本公使館は、“東交民巷”にあったのですね?」と問い合わせた。112年前とはいえ北京の日本大使館なら、そんなこと即答してくれるだろうと思っていた。しかし大使館職員は「それはここでは分らないです。日本に外務省史料館があり、そこに電話で問い合わせして下さい」とのことで、それにも驚いた。
当時の公使館の延長が今の大使館であり、業務の継続性や北京大使館という重要な位置づけからも、そういった歴史的経過など史跡巡りの観光客からの問い合わせもあるだろうし熟知しているものだと思っていた。仕方ないのですぐに外交史料館に電話をした。そこでも同じく即答できず、「調べて後ほど電話をします」ということだった。しかし出発の時間が迫り家を出た。後から掛かって来た電話を家内が受け、「そこにあったのは確か」という返事だけをもらった。
しかし帰国後、どうしても腑に落ちず、再度外交史料館に電話で問い合わせをした。担当の方は、「日本の外務省官僚、歴史学者。S氏」でウィキペディアにも個人紹介されている人物だ。その方が、私に「疑問点と写真をメールで送信して下さい」と個人メールアドレスを告げられ、そこにメールを送った。
「東交民巷の日本公使館の謎?」について詳しくは以下の頁にて記す
http://akasids.web.fc2.com/sonota/beijing2.html -
確かに中華人民共和国国務院のお墨付き
「日本公使館旧址」との表示がある -
この建物も日本公使館旧址と並んで建っている
どう見てもそんな建物に見えないが、不明だ。 -
?この写真が片山東熊が設計した北京の日本公使館
この建物がここにあれば何の問題もないのだが
この建物は、歩いての3分の正義路2号に
現在:北京市人民政府庁舎として使われている
移築したのか?ならば、この赤レンガの建物は? -
帰国後私が写した写真の中に、偶然正義路に建つ
「北京市人民政府庁舎」を写していた
角度は違うが、「片山東熊が設計した北京の日本公使館」だろう
http://akasids.web.fc2.com/sonota/beijing2.html -
仏国郵政局旧址
日本公使館旧址の東隣にある
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■“東交民巷”の散策
その東隣には写真でも良く見ていた「仏国郵政局旧址」がある。今もこの建物はそれなりの雰囲気があり、「静園河菜」というレストランとして営業していた。しかしこの郵便局旧址も「北京燃ゆ」ウッドハウス暎子(著)の中に挿入されている当時の地図と場所は違う。それによれば日本公使館と仏国公使館の間には、北京ホテルがあった。
そしてその並びの建物を写そうとしたら扉の覗き窓が開き大きな声で何か言われた、「写真はダメ」といっているようだった。解放軍兵士なのか武装警官なのか?はたまた警備の者なのか?それらしき制服を着た者が玄関に立っていたりする。このあたりは政府や軍関係?などの建物があるようで雰囲気的にもうっとうしい。
そして高い塀に囲まれた旧フランス公使館が昔の写真と見比べると今も玄関はほぼそのままの状態であった。玄関に武装警官が立っていた。そして写真を撮ろうとしたらここでも「写真はダメ」と言われた。あとから武装警官から見えないように木の陰を利用して写した。そこら中にここの写真は出回っているにのにホンマにうっとうしい。
籠城時のフランス公使:ビジョンは、最も臆病な人間として槍玉にあげられていたそうだ。後日ビジョンは籠城体験記を本国で出版し一躍フランス国内では「北京の英雄」としてもてはやされ外務大臣にもなったが、「ビジョンの臆病な言動は、みなの笑いの種になった。笑いを提供したことが籠城中の彼の唯一最大の貢献である」とのP・フレミングのコメントなどがある。
旧フランス公使館は、ガイドのZさんによれば、内戦中に国を追放されたカンボジアのシアヌーク殿下の北京滞在中の宿舎にも使われていたようだ。私はシアヌーク殿下が今も存命していたことすら知らなかった。1822年生まれで現在89歳、ガンになりながらもこれだけ長寿とは・・・。1991年に帰国を許された後も、中国で長期滞在を繰り返していたようだ。
しかし昨年中国から帰国後「これからは国に留まる決心をした」と言っていた矢先、がんが進行し病気治療の為、中国での滞在が多くなり、この旅行記を書いている最中の2012年10月15日(火)滞在先の北京で亡くなったということである。
【バンコク時事】
カンボジアの「偉大な王」「独立の国父」と呼ばれたノロドム・シアヌーク前国王が15日、滞在先の北京で、病気のため死去した。89歳だった。
9月19日、シアヌーク殿下はどこにいたのだろう。今は玄関の向こうに武装警官が訓練中なのか並んで行進している姿も見えた。何に使われているのか分らないけど敷地は広大のようである。
そして台其庵大街の道を東に隔てて「聖弥厄爾教堂」「聖ミカエル天主堂」を見てきた。この教会は1901年に建設が始まり3年後に完成とある。義和団事件収束後に、この地域で暮らす外国人のために建てられた。文革の時は倉庫として使われていたそうだ。共産主義独裁政権下で、どこに行っても宗教色は薄いがここでは静かに祈りを捧げる人たちの風景があった。
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「法国使館旧址」
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ガイドの話では「シアヌーク殿下」が北京滞在時の宿舎とのこと
そのシアヌーク殿下も私が北京に着く三日前の15日亡くなっていたようだ
ここは敷地も広く、中では武装警官が訓練のようなことをしていた -
武装警官が門で警備している
写真を撮ろうとするとダメだと言われた
木の陰から写す -
?法国使館旧址の塀の中の瀟洒な建物
もしかしたらこの建物にシアヌーク殿下が暮らしていたのかも?
外の通りの景色も見えるし・・・。 -
聖ミカエル天主堂
義和団事件の一年後(1901)に建設が始まった教会
清国滅亡の始まりでもある
西太后は1908年73歳で死亡、清は1912年
宣統帝(溥儀)は正式に退位し
ここに清は276年の歴史に幕を閉じた -
宗教を否定した中国共産党独裁国家にて
教会での祈り
民は何を祈るのか?
不平等こそが共産主義
笑い話にもならない -
“東交民巷飯店”の一階ロビー
8時半前に約束通りZFさんは来てくれた
http://www.chinaguide21.com/guidecar/guide-bj.htm
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■ホテルに戻り再出発
1900年当時の略図を見ながら旧跡を探して早朝の散歩だったが、8時半待ち合わせに間に合うようにホテルに戻った。約束の8時半前にホテルロビーに今日のガイドのZFさんが来てくれた。運転手は昨日のKさん。「中国旅行達人」にも紹介されている。
ZFさんは高1の息子が一人。旅行業一筋で数年前には大阪で一年半くらい中国人旅行者のために単身赴任していたとのこと。出かける前に両替のことをZFさんに言ったら「このホテルでして下さい」とのこと「銀行の方がいいのでは?」というと「同じですよ」とあっさり言われ、それならとフロントで4万円の両替を頼んだ。日本円10000円が775元。これが北京での最初の両替だった。滞在中、隣の工商銀行・向かいの首都大酒店の自動両替機を使って、三回の両替をしたがZFさんが言ったように大差なし。
両替も出来て早速、Zさんと「義和団事件の旧跡を巡る」ということで再度周辺を歩いた。
ZFさんは1986〜1993年までこの“東交民巷飯店”の東隣、すなわち日本公使館旧址の西隣の建物の中国青年団中央委員会「観光部」で働いていた。その時も、隣が日本公使館旧址という認識はなかったそうだ。『「義和団事件」「盧溝橋事件」の跡地を巡りたいので詳しいガイドを・・・』と頼んだが、まあそんな期待はしていなかったがZFさんもまったくと言っていいほど義和団事件については知らなかった。
義和団事件後の1910年に建てられた「横浜正金銀行旧址」を見て正義路を西に歩いた。この“東交民巷”の正義路よりも東は、反日騒動の警備の為なのか?物々しい車両がずらっと並んでいた。「特警」と書かれている黒い車両で、いろんな種類の車が並び装甲車両のようなものもあった。1998年:平成10年から中国に毎年のように来ているが、「特警」というのは見た記憶がない。
今回は張家口でも宣化でも、特警車両と、やはり黒の制服を着た特警が武装警官と並んで自動小銃を手に警備しているのが目に付いた。「公安特警」「武警特警」などがあるようだ。これだけ多くの特警が目に付くということは、今回の反日デモ騒動・新疆ウイグル・チベット問題・法輪功問題を含めて、最近の国内治安への危機の裏返しだろう。
今の北京警察博物館は「美国花旗銀行(Citi bank)旧址」。1900年当時はアメリカ公使館のあった場所で、その西には露清銀行、道の向こう側にはロシア公使館や露軍兵舎があった場所である。今は「最高人民法院」などがある。この付近も北京籠城の範囲だった。 -
“東交民巷”と正義路の交差点東北角に建つ
「横浜正金銀行旧址」
義和団事件の10年後に建てられた
「2012-1910=102才」の築年齢
今も堂々とした風格がある -
横浜正金銀行
-
正義路より横浜正金銀行旧址を写す
現在の三菱東京UFJ銀行 -
正義路を横断して東交民巷を西に向かう
最高人民法院前に居並ぶ特警車両
何が無駄といえばこれほど無駄はないだろう
消防も火事がないと暇だが・・・。意味が違う -
巨額と言われている防衛予算より
更に国内治安関連予算の方が多いらしい
外にも内にも警戒と抑圧ばかり
誰も彼も心休まることはないだろう
これぞ不幸を絵に描いたようなものだ -
「美国花旗銀行(Citi bank)旧址」
今は北京警察博物館
昔の写真の展示があることを知らず
入らなかったことを悔やむ -
グーグルアース
“東交民巷” -
「北京燃ゆ・義和団事変とモリソン」
ウッドハウス暎子(著)の中に掲載されている地図
大きな地図
http://akasids.web.fc2.com/sonota/201210/giwadan.html -
広場東側路を隔てて、左「前門」:右「正陽門」の雄姿
正陽門は1421年創建とあるが、
鹿苑寺(金閣寺)は1397年に建っている
正陽門の24年前に優美な金閣寺を建てた
日本の技術力も素晴らしかった
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■天安門広場付近にて
“東交民巷”を西に向かって歩くと広場東側路に出る。目の前に「毛主席?念堂」があり、左前方には正陽門と、その左斜め前方に前門が並び立つ。天安門広場から天安門、そして故宮。ここは北京の顔であり1949年建国:中華人民共和国のまさに中心である。建国63年にして暴動が多発する共産党独裁国家の行く末は如何に?
見渡す限りの「人、人、人」であり、中国各地から建国の聖地?へとやって来るのだろう。ZFさんの案内で、通りにあった券売所で明日の張家口行きの切符を購入した。パスポートを提示しなければ買えない。「軟臥」「軟座」はすでに売り切れで、買えたのは一番安い硬座。
その後、この広場を横切り「西交民巷」に行った。ここには義和団事件当時の私が目指す旧跡はなく、何で案内してくれたのか?分らないが、東交民巷は各国公使館・西交民巷は金融街だったそうだ。「中央銀行旧址」「保商銀行旧址」と、それらしき古い建物もあったがそのまま通り過ぎる。
そしてまた広場に戻り、正陽門に入った。建物自体は新しくなっているので感慨はない。嘆かわしいのは、こういった建築物の修復は全部が全部、コンクリート作りでどれもがデカイか小さいかの差はだけで、みんな同じに見えて面白みがない。遠くから見れば、それなりの存在感があり、周囲の風景の中で昔を想像することも出来るのかも・・・だけど。
近くで見ても中に入っても今時のビルの中に入るが如くであり、中の展示写真と、高い所からの眺望だけが楽しみだ。1900年、義和団の乱後の正陽門の写真や、その前後のがあった。義和団の旧跡探しは成果なく11時には次の目的地である盧溝橋へ向かう。 -
ズラーと歩道上に二列に並ぶ長方形の蓋は何??
この一つ一つがトイレの排水口
ここに簡易トイレを並べホースを突っ込む
なるほど・・・納得 -
?正陽門の上から南に前門を写す
中国の修復建築物に感動も感慨もない
昔を想像するだけの物として
その存在を認める -
1898年の正陽門
-
1900年義和団事件で破壊された正陽門
-
1914年修復後の(左)前門: (右)正陽門
-
正陽門から毛沢東紀念堂を写す
毛沢東が永久保存されているらしい
見学はレプリカだそうだが・・・。
彼の国では大虐殺者は英雄となり -
宛平県城の近くで昼食
宛平県城のすぐ傍の店で昼食を三人で食べた
三人で腹一杯くって、73元(949円)
美味かった。店から出てきたのが“ガイドのZFさん”
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■盧溝橋事件の戦跡を訪ねる
車で30分ほど走り現地に到着。その前に昼食、傍のレストランに三人で入って飯を食う。青椒肉絲(チンジャオロウス)・揚州焼飯・スープ等々を食べたが美味しかった。73元也は無論私の支出。
食事が終わり、いよいよ盧溝橋事件の舞台でもある「宛平県城」の東門から車で入る。そして西出口の向こうに永定河に架かる盧溝橋がある。
盧溝橋事件は、1937年(昭和12年)7月7日に北京(北平)西南方向の盧溝橋で起きた日本軍と中国国民革命軍第二十九軍との衝突事件である。
支那事変勃発の原因となった夜間の銃撃が「日本軍が支那侵略の口実に仕組んだもので、日本側に非があるのでは?」と思っている日本人も未だいるのだろう。しかし、今では多くのことが明るみになり、当時のことを少し調べれば日本軍犯人説がいかに根拠なきものであり明白に違うことが明らかになっている。
「盧溝橋事件」はウィキペディアにも詳細に書かれているがウィキペディア自体、双方の言い分を掲載することが前提のようであり、内容の信憑性には大いに疑問がある。当事者でもある人物が書いた「日本の悲劇:盧溝橋事件」寺平忠輔(著)と「盧溝橋事件:日中開戦の実相」岡野篤夫(著)を読めば事実が分る。中国人の言い分より遥かに真実性は高い。
そもそも敗戦直後の勝者の理不尽極まりない復讐裁判である「東京裁判」において盧溝橋事件容疑者として収監された河辺旅団長や牟田口連隊長は、支那側証人として出廷した秦徳純(しんとくじゅん)の提出した論拠が稚拙すぎて無罪放免となった。その事実を踏まえれば、盧溝橋事件が誰の手によって企てられ進行していったか冷静に考えればおのずと答えは出るはずだ。
「日本の悲劇/盧溝橋事件」:寺平忠輔(著:北京特務機関員)
427頁。客観的事実として以下のことが書かれている。
『7月7日の不法射撃について、日本側から中国軍に抗議したが、中国側から一度足りと日本側からの不法射撃があったことについての抗議はない。』
この文言で現在の中国人が盧溝橋事件の日本軍犯人説を翻すとは露も思わない。昔も今も将来も、支那人に不利な事実を認めさせることは不可能だ。彼らにとって正義とは利得であり、事実とは自らの都合によって千変万化する代物だ。日本人とは定義が違う。その是非は議論の対象にならず。
私が分ってもらいたいのは同胞にだけである。同胞でありながら事実を知ろうとせずに先人を非難する戦後日本人にだけである。支那朝鮮人とは未来永劫同じ価値観に基づく相互理解は不可能であり、文化価値観が全く違うということを理解し対応するだけのことだ。
事細かい事件の顛末と事実関係を調べることも無論必要だろうが、紛争拡大を防ごうと現場で苦悩した当事者が語る上記の言葉こそが真実を表していると私自身は思う。
以下に記す当時の日本軍の状況を知れば、支那への軍事侵攻を意図していたか否か?普通の日本人なら分るはずだ。 -
焼飯は相変わらず大大大盛
食べる前に撮影忘れる
撮影忘れたら何食ったのか思い出せない
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「盧溝橋事件:日中開戦の実相」岡野篤夫(著)
事件当時の日本軍の状況
北支全体で2,000人 北京歩兵隊は500人だった。それを増強と言っても、北京 天津を連隊編成にして全部で5,500人。しかも盧溝橋事件当時、北京・豊田にいたのはその内の1200〜1300人ほど。中国国民革命軍10万に比して余りに少なく、日本軍から戦争を始めれる兵力とはとてもいえない。
その上、昭和11年に内地からやってきた兵隊は2年兵が半分、あとの半分はその年入隊した初年兵。そして事件に先立つ昭和12年3月、その2年兵は満期除隊で内地に還り、代わりにまた新しい初年兵が入って来た。この北京の連隊も内地の各連隊と全く同じで、初年兵を一人前の兵隊に育てるための部隊だった。戦争をおっぱじめるための精鋭部隊とは似ても似つかぬヒヨコ部隊です。だからこそ演習もきびしかったんです。
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少し調べれば分ることなのに戦後の反日政治家・メディア・評論家・歴史家の手によって、敗戦までの何もかもを日本に非があると規定し、敢闘した先人をかばうこともせず愚弄する日本人は必ずや子々孫々の代に渡り何時の日にか因果応報の報いを受ける。そうでなくてはあまりに不公平だ。
この宛平城も新しく修復され、形だけで歴史的趣は残念ながら感じられない。何でこんなに感動なき風情・風景になってしまうのか?不思議だが、何故か興ざめばかりなり。まあ大方の形だけは分る。そして西門から出たらその前方、柵の向こうに盧溝橋があった。 -
盧溝橋はマルコポール橋とある
-
盧溝橋を背にして宛平県城を写す
宛平県城の城壁もそうだが、盧溝橋もそうだ
綺麗に修復されて・・・。
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■盧溝橋
門票20元で購入した。近づけばこれも修復されて綺麗な橋になっており欄干の501基ある獅子の彫像が、その趣を少しは今に伝えているのだろう。1192年完成とは随分古い。日本ではその年、源頼朝が征夷大将軍となり鎌倉幕府が開かれた。その時から修復をしながら橋として使われてきた。橋の一部に昔日の石畳が復元されている。1937年:昭和12年7月7日、この橋も銃声を聞き、その後多くの日中双方の兵士が行き来したのだろう。
幾ら日本が不拡大方針を貫こうと妥協を重ねてもその都度裏切られ、支那側もまったく一枚岩ではなく迷走するばかりで紛争は拡大の一途を辿ることになる。支那事変の拡大と泥沼化は、蒋介石も日本も米国も共産主義コミンテルンにしてやられたということだ。それも避けれない時代の趨勢なのだろうか・・・。
私は大東亜戦争全般で一つだけ反省すべき点があるなら、それは支那事変の拡大である。支那との戦いに引きずり込まれることなく、満洲以外の支那大陸から邦人を引揚げ、満洲国の安定的確立に全力を挙げるべきだった。しかしながらこれも起承転結の全てを知った今だからこそ言えることなのだろう。
しばし橋上に佇み周辺の風景を眺めた。「あの辺に龍王廟はあったのかなあ?」「日本軍の演習地はあの方向か?」「河の水はこんなになかったはずだが?」等々。そして全長266メートルの橋を渡りきり、引き返そうとした時、ICレコーダーがポケットにないことに気づく。「しまったどこに?」と頭の中を巻き戻せば、さっきの店で飯を食べる時テーブルに置いたことを思い出した。
離れて歩いていたZFさんに歩み寄り、そのことを言ったら、すぐに運転手のKさんに電話をし店に行ってくれるよう頼んだ。しばらくしたらKさんから電話で、店に有ったとのことでホッと一安心。まだ旅の始まりであり、ICレコーダーはこれからの記録に欠かせない。店も良くぞ置いていてくれた。 -
盧溝橋を西岸に渡る
2012年ー1192年=820年間
私は一体何人目の橋渡る人なのか? -
1937年:昭和12年7月7日:銃声が轟き
日本は支那大陸での泥沼の戦いに引き擦り込まれた
三週間後の7月29日通州事件が勃発し
日本軍留守部隊及び居留日本人虐殺される -
乾隆帝の筆と伝えられる「盧溝暁月」の石碑がある
-
尖閣も盧溝橋も全く同じだ
仕掛けも、その後の言い草も
妥協も交渉も義なく理もなく
奴らは嘘も方便、やりたい放題である
結果を求めるだけで、手段は選ばない
そんな奴らに負けないためには力を持って戦うしかない
その覚悟こそ奴らを思い止まらせることが可能だ
大東亜戦争に敗れたのは決して支那に負けたのではない
白人列強に善戦むなしく敗れただけだ
断じて間違うこと無かれ、肝に銘じろ! -
宛平城へ車で入場す
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■宛平県城
向こう岸に往復し、宛平城内に車で入ったあと、城内にある「中国人民抗日戦争記念館」とやらに入場した。中国の青少年愛国主義教育の重要な場所になっているようだが、尖閣問題で反日騒動の渦中なのに入場者は少なかった。
展示品はどこも変わらず、どこの抗日資料館も同じように南京事件から何から何まで網羅している。その建物の規模によって展示写真やその他の資料の数は違うが、どことも内容は一貫している。
写真にしても、その残虐・過激な物は、すでに日本では、『南京事件「証拠写真」を検証する』東中野修道氏ら共著によってその全てが捏造だと証明されている。その手の写真は、南京に入場した当時から日本軍兵士への土産として支那人が販売していたという元兵士の証言もある。
ネットでも「南京虐殺は嘘だ」が解説している。http://www.history.gr.jp/~nanking/
利害が相反することが多い隣国同士に未来永劫、真の友好はありえない。そしてこんな程度の低い捏造を国家レベルで堂々と世界に公開している隣国とは、「ライバル?」「敵?」という視点でも敬意を表する気持ちすら生まれない。面と向かって口に出しては言えないが、昨今の言動を見れば侮蔑も当然なり。
反日の渦中、盧溝橋の傍にある代表的な抗日紀念館の入場者数の少なさに拍子抜けする気持ちだった。もっと緊張して日本人はビビッていなければならないのかと思っていたが。「小日本」「日本鬼子」と言うガキの姿も見当たらず、わずかな見学者は黙々と見ていた。
紀念館を出て周囲の壁を見に歩いたが、やはり新しい壁では趣がない。もうちょっと作るにしても作り方に工夫はないものかと美的センスを疑う。どこもがテーマパーク化して気分乗らず。
この盧溝橋付近で食事時間を含めて3時間くらい滞在していた。 -
「日本の悲劇/盧溝橋事件」:寺平忠輔(著:北京特務機関員)より
-
どちらも宛平城内の写真
やはり何となく雰囲気は似ている -
「中国人民抗日戦争記念館」
反日騒動渦中の北京なのに
何で反日支那人はここに集まって気勢を上げないのか?
あまりに人の気配なくずっこけた
因みに入場無料、反日を叫んでも特典なし -
確かに周囲を城壁で囲んで復元しているが・・・。
どことも同じ景観でしかなく興味わかず
城内の雰囲気さえ新壁に損なわれる
日本人に告ぐ、盧溝橋事件を語るなら是非下記二冊を読んで下さい
「日本の悲劇/盧溝橋事件」:寺平忠輔(著:北京特務機関員)
「盧溝橋事件:日中開戦の実相」岡野篤夫(著:支那駐屯歩兵第一連隊) -
「中国人民抗日戦争記念館」前で
二人が私を待ってくれている
この車で北京を散策した -
北京を走る
北京の人口は、公称「2018万(2011年)」
ZFさん曰く「四千万人はいる」とのこと
日本の人口1億2千万人くらい
ここでは誤差の範囲というのも頷ける
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■景山公園へ
午後2時に景山公園に向かう。故宮の北側の低い丘陵、実は紫禁城を作った時の堀の残土を積んだものがこの丘陵で、風水の観点で紫禁城の真北に作られたそうだ。ここにはさっきの抗日紀念館とちがって多くの人が来ていた。
故宮に観光に来る人たちも、ついでにここに来るのだろう。故宮入場の延長であるかのようにここも人が多かった。北京市内が一望できて、眼下に壮大な故宮を見渡せる。10年前に初めて北京に来て故宮を見たが、その時この景山公園に来れなかったが今回実現できた。やはり思っていたように眺めは素晴らしく、ここから見下ろす紫禁城は映画のシーンを思い起こさせる。写真でみるより実際はもっと素晴らしい風景だった。
1900年の義和団事件:1932年の盧溝橋事件、その時々ここからの風景はどうだったのか?義和団の際は、なにやら人の戦う様が見えたかも?砲声は響いたに違いない。“東交民巷”はすぐそこだから・・・。
3時半頃今日最後の訪問地である日本大使館に向かう。 -
人工の丘、景山公園に登る
紫禁城・・・か
元(モンゴル族)、明(漢族)、清(満州族)
それぞれの統治者が宮殿として使っていたそうだ -
その昔、この宮殿は権力者の象徴であり
壮大なる規模で圧倒的な力を鼓舞し
庶民は虫けらの如くだったのだろう
時の権力者たちは勝ち誇った顔と
裏切り暗殺に怯えて猜疑心の塊であった顔と
真に心休まる時はあったのだろうか?
それを思えば人の世は常に公平なりや? -
景山公園から故宮を望む
-
大勢の人が次から次へと
北京に来る時は必ず行くべし景山公園
2012/9/19/景山公園
http://youtu.be/du_S5jb4jBc -
1935年:昭和10年の紫禁城
1908年に死亡した西太后は
晩年まで世界地図も見たことが無かった
日本ではこの年
大阪市営地下鉄御堂筋線の梅田駅本駅が開業 -
日本大使館住所:中国北京市亮馬橋東街1号
大使館と道を隔てて騒動を待つかのように人がたむろしていた
9月18日から一夜明けての今日は、見た限りでは何もない
///////////////////////////////////////////////
■渦中の日本大使館へ行く
景山公園から日本大使館に向かったが、ZFさんの勘違いでしんどい目にあった。ZFさんの思っていた場所から日本大使館は、今年引越しをして違う場所に移転済みだった。私は地図で見ていたのと方角が違う気がして、何度かZFさんに進言したが、初めてなので確証もなく任せたら案の定そこに日本大使館はなかった。そしてそこから新大使館は北東に5キロ離れていた。大使公邸の隣に建てたそうだ。
この時間、北京市内は渋滞が凄い。現実には30分ほどだったけど。景山公園から旧大使館に30分、そしてそこから又30分、1時間掛かってやっと北京日本大使館に到着。ここはやはり雰囲気は一変し、警備も物々しく騒動を待っているかのような若者たちが周辺にたむろしていた。
時間も午後4時を過ぎ、降りて見学することは諦め大使館の前の道路を行って戻っての往復で通り過ぎるだけだった。窓を開けて写真を撮るのもヤバそうな雰囲気で、満足に写真も撮れず。来る前にテレビニュースで見ていた光景がそこにあった。二重バリケード金網の内側に武装警官が立っていた。日本大使館に掲揚された日の丸の旗が翻らず垂れ下がっているのが残念だった。
大使館の中には国賊大使、元伊藤忠会長、丹羽がいたのだろうか?商人国家の成れの果てが今の日本だと思う。誇りも名誉もどぶに捨て金儲けをしようと媚びている商人たちが支那を付け上がらせることになった。商人や宗教人が政治に係わっては絶対ダメだ。日本は鎌倉幕府以降今次敗戦まで武士が政治を司って来た。
今後もそうあるべきだ。士農工商には国を健全に保つための大いなる意味がある。武士は第一に「名誉」「誇り」を重んじ、金銭に執着することを恥とする。戦える“エリート”が重用されない国は惨めな物だ。それが戦後日本であり、今のところ大東亜戦争の英霊たちの死に様で国の名誉はかろうじて保たれている。丹羽の言動は万死に値する。 -
左の建物が日本大使館、二重のバリケードが続いていた
武装警官が等間隔で警備をしている姿が、金網越しに見えた
道路沿いには警察官がたっていた -
官製デモ・官製騒乱ゆえに一夜明ければ何もない
抗日・排日・侮日は支那朝鮮人の不満のはけ口だ
過去現在未来、歴史は繰り返し友好は有りえず
そんな隣国と対峙するには「富国強兵」しかない
市場を自ら支那に求めず「武士は食わねど高楊枝」だ
そうすればおのずと向こうから擦り寄ってくる
相手は「金」がすべてだから -
北京:日本大使館
垂れ下がる日の丸が今の日本を象徴しているようだった -
日本公使館旧址」と
中華人民共和国国務院のお墨付き石版があるが
一体この建物は??
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■哈徳門飯店を探しに歩く
朝の8時半から午後5時まで長い一日に付き合ってくれたZFさんと、運転手のKさんと別れ“東交民巷飯店”の部屋に戻り小休止をする。しかしホンの10分もしないうちに今度は10年前に宿泊した哈徳門飯店を探しに歩く。グーグルアースで確認していたのですぐに見つかるはずが、その場所に行っているはずなのに姿を見せず。狐に包まれたような気分だったが、幾ら探しても結局見つからず足が棒になり断念す。
帰国後調べても、やはり勘違いではなくその場所に行っていたはずなのに、ホテルは私の眼中に入って来なかった。今も狐に包まれたような気分だ。ナゼ見えなかったのだろうと??
諦めてホテルに戻る。途中北京に来て初めて果物を買った。果物ナイフは買ったのに果物を買えてなかった。バナナ2本・桃1個・りんご2個、20元。そして夕食はホテルのレストランに入る。生簀もあり、魚を選んでその場で料理してくれる。お客さんも結構多い。中国の景気は如何に?その辺のことは旅行を通じても分らなかった。
六個入り餃子・おかゆ・鶏肉料理の三つを頼んで食す。140元也。昼間三人でそれぞれが料理を頼んで腹一杯食べても73元。そして今日の予定は終了し明日に備える。いよいよ明日は午後から張家口へ向かう。 -
フランス公使館は、玄関は昔のまま
同じ場所に現存している
義和団事件当時を思い浮かべながら
この道を何度か行き来した -
10年前の2002年、初めて北京に来た時に宿泊した
哈徳門ホテルがこの近くだったので探しに行った
すぐに見つかるだろうと思っていたのに
足が棒になっても探し当てることは出来ず
今もって狐につままれたような気がしている -
“東交民巷飯店”のレストランで夕飯を
生簀があり量り売りで料理をしてくれる -
六個入り餃子
味はまあまあ -
お粥と鶏肉料理
健康管理が趣味となった私は
食前の果物、そして乳製品は避けている
肉も食べないわけではないが、野菜の方が美味い
生活習慣病とはよく言ったものだ
野菜が好きになるとは、三年前は思いもよらず
食わないが健康の秘訣・・・。
一番重要は腹八分、これが守れれば健康を保てる
私にはまだそれがなかなか難しい、意志の弱さの証なり
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