2012/10/25 - 2012/10/25
1200位(同エリア2776件中)
ルルフさん
2012年大河ドラマ「平清盛」もそろそろ佳境です。
武士の出ながら公卿にも列せられていた平家の華やかなりし黄金期に翳りを落とす、いわゆる「終わりの始まり」に位置づけられるのが「平清盛殺害の謀議を企てたとされた後白河法皇の近臣達の粛清」です。
この発端となった事件がストーリーのメインとなる10月28日放送の、その名もズバリ「42回 鹿ヶ谷の陰謀」を前に、その舞台地及び周辺の史跡探訪をしてきました。
ただ、まあ、実はこの辺り実家のすぐ側なので(笑)、休みの日に実家帰りがてらプラッと山登り(「京都一周トレイル」もちょっとだけかぶってます)したようなものです。
ここで後白河法皇が…
西光法師が…
大納言成親が…
俊寛僧都が…
などなど、想像力をフルに働かせると夢が無限に羽ばたく事でしょう。
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 徒歩
- 旅行の手配内容
- その他
-
洛中の我が家を出て洛外の鹿ヶ谷に向かうまでも、特に回り道する事なく数々の関係史跡を通ります。
これを逃す手はありません。
まず通りかかるのが高松神明神社。「保元の乱」の折、後白河天皇(当時)側本拠地の御所「高松殿」だった地です。
主だった天皇サイドの人物は、少納言藤原信西入道・関白藤原忠通・平清盛・源義朝など。 -
「此付近高松殿址」。
藤原道長の妻の一人・明子の邸宅だったそうです(元は明子の父・源高明の邸)。
明子はここにちなみ、高松殿と呼ばれました。
有名な宇治殿・頼通のお母さんは源倫子なので、違う女性ですね。
なお、後白河様の即位式はこちらで行われたそうです。
平治の乱(後述)の際に焼亡し、その後廃墟と化したとか。
邸宅の鎮守社・高松明神だけが細々と守られ続けていきました。 -
解説副碑です。
-
ちなみに、高松殿から左にパーンし、釜座通姉小路下る(現)を振り返りましょう。
ちょうど後白河様の側近、大天才政治家・信西のお屋敷があった辺り。
さすがに後白河様の養育係、近いところにお住まいをお持ちだ。 -
少し北上。
御池通と釜座通が交わるところからさらに北に進みましょう。
ちなみに釜座通とは、豊臣秀吉の都市改造の際に造られた《新しい道》。
平安末期にはない道です。 -
「東三条院殿(東三条殿)址」。
藤原摂関家の第一邸宅的扱いの場所ですね。
平安京左京三条三坊一町及び二町(二条大路南西洞院大路東)に広がる壮麗な寝殿造りであったと伝えられています。
大河前半の登場人物で言うと、
太閤(前関白)藤原忠実が、長男である関白忠通に、次男である左大臣頼長へ藤氏長者と関白の地位を譲れと迫り、その実力行使として藤原家歴代当主が代々受け継ぐ家宝《朱器台盤》を、源為義(義朝の父)に命じて強奪させた事件の舞台地はここになりますな。
後半で言えば、
忠通の長男・基実が若くして死去し、その妻である清盛の娘・盛子が女主人として住んでいました。
後白河法皇と建春門院平滋子の皇子・憲仁親王の立太子式も、ここで行われたということだそうです。 -
解説副碑です。
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続いて、烏丸姉小路の新風館です。
ではなくて(笑)。 -
「三条東殿遺址」。
白河法皇、鳥羽法皇、そして後白河上皇の里内裏でもあった地です。
特筆すべきは、平治の乱の時の後白河様の御所だったということですね。
藤原信頼らが後白河の側近・信西を排斥しようと源義朝の軍勢を使って起こしたクーデターが平治の乱です(大雑把な説明)。
義朝軍が院御所に押し寄せ、後白河やその姉・上西門院統子内親王を一本木御所に拘束幽閉、火を放ち、官人や女房衆の男女区別なく殺戮を行ないました。
なんていうとんでもない現場がこちらです。
今はデートスポット化してる、とっても良い雰囲気の場所なんだけどね…。
実際には人々の屍の上に成り立っているのだね…(ミもフタもない)。 -
解説副碑です。
-
鴨川も越えました。
続いて六勝寺エリアに入ります。
(でも今回目的は六勝寺巡りではないので全部は回らない)
琵琶湖疏水もそろそろ色づいて来ました。
桜並木もだんだん綺麗になってきていますね。 -
「白河南殿跡」。
泉が豊かに湧き出す風光明媚の地であった為、白河泉殿とも呼ばれました。
白河上皇・法皇のメインの院御所。
大河で白河様がおわましたところは、大体ここだと思っていればいいのかな?
この地にはかつて広大な阿弥陀堂がありました。
寄進したのは平正盛。清盛の祖父です。 -
解説副碑です。
読みづらいです(爆)。 -
「白河北殿址」。
南殿を少し北上し、丸太町通に面した京大熊野寮西北角に建っています。
白河泉殿の北側に営まれた為、北殿と呼ばれます。
(そしてこの御所に対応し、元の御所が南殿と言われるように)
保元の乱のもう一つの舞台地。崇徳上皇方の陣所となりました。
(鳥羽田中殿から移ってこられたようです。
崇徳様がおいでになる前は上西門院様がお住まいだったとか)
崇徳上皇の陣営に集ったのは「悪左府」藤原頼長、源為義・為朝父子など。
軍議で夜討ちを進言した為朝を「理に適わぬ」と一蹴した頼長、それを許した崇徳上皇、実はそもそも圧倒的に不利な兵力であった為義軍。
翻って孫氏の「勢」を頼んで夜襲も寺院・院御所への火攻めもじゃんじゃんやっちゃえ!★な信西をバックに、清盛・義朝軍は明け方の数時間で雌雄を決してしまうのでした。
こうして「武者の世になりにけるなり」(@藤原兼実の弟・慈円「愚管抄」)となったのでございますな。 -
「得長寿院跡」。
もう一度疎水に戻ります。
これは白河南殿碑から東大路通を渡ってすぐに見つかります。
こちらは清盛の父・忠盛が鳥羽上皇へ造営寄進した寺院です。
「平家物語」巻第一「殿上闇討」の段に、
「しかるに忠盛、いまだ備前守たりし時、鳥羽院の御願得長寿院を造進して、三十三間の御堂を建て、一千一体の御仏を据ゑ奉る。
供養は天承元年三月十三日なり。勧賞には闕国を給ふべき由仰せ下されける。
折節、但馬国のあきたりけるをぞ賜ひける。
上皇なほ御感のあまりに、内の昇殿を許さる。」
と、今に残る法住寺殿蓮華王院三十三間堂とも紛う形容を伝えています。
蓮華王院は清盛がのちに後白河上皇のために建てた寺。
それから約20年の間、ふたつの「三十三間堂」は洛外に並存していました。
得長寿院は文治元年7月に地震によって倒壊し、二度と復興する事はありませんでした。
実はこの年の4月、平家一門が壇ノ浦の海に消えています。
得長寿院は平氏の隆盛と共に栄え平家の終焉と共に滅んだ、奇しき運命の伽藍であったのです。 -
さて、六勝寺の中心部へ。
バス停もその名もズバリ「法勝寺町」。 -
この辺りに建っているのが「白河院」という和風旅館さんですが…
(小川治兵衛の手がけた庭園もあります) -
「此付近白河院址」。
勿論、この辺りは白河上皇の法勝寺の在所であります。
ただ、わざわざ「白河院」という文面で刻しているので、どちらかと言えば人臣最初の摂政となった藤原良房が洛外に営んだ別荘(別業)「白河第」を意識したものでしょうか。
史上初の関白・藤原基経、貞信公・忠平、御堂関白・道長、宇治殿・頼通などなど、代々の摂関家嫡流が受け継ぎ御幸も度々行われた、観桜の一大スポットだったようです。 -
解説副碑です。
詳しくはこちらどうぞ(笑)。 -
「俊寛僧都故居之碑」。
少しだけ北に進むと「示現山満願寺」があります。
元禄年間に移ってきたこの日蓮宗の寺院の境内に、俊寛の居宅跡を示す立派な碑が建っていました。
俊寛は法勝寺の執行(しゅぎょう…寺の事務総長的役割僧侶)でしたので、居所の場所は確かにこの界隈と考えても遠からず。
【追記】
江戸時代後期の「拾遺都名所図会」に「俊寛屋敷」の項目を見つけました。
「法勝寺旧跡」の続きに記されてます。
「同村(※下岡崎村のこと:ルルフ注)東の藪の中にあり。
法勝寺の執行俊寛僧都の住し跡也と。
今坂本西教寺の持物となる。中に荒神祠あり。古の鎮守なり。」 -
碑文を書いたのは「谷鉄臣」とあります。
幕末から明治にかけての近江彦根藩の蘭方医、藩士、明治新政府でも官吏となり大久保利通の腹心として活躍したようです。
晩年は京都に住したとのこと、きっとこの地と縁があったのでしょう。
ただ、下調べ不足で、境内の「法勝寺時代からと伝わる井戸=閼伽井」を確認するのを忘れました。
井戸は見たんですけどね。気づかなかった。 -
そうして哲学の道の南端へ辿り着きました。
本当に清々しい気候です。
青空くっきり! -
そのすぐ山側。
2012年と2013年の大河ドラマの、奇跡のコラボ!(笑)
※若王子神社は後白河上皇が禅林寺(現代では永観堂の通称が有名)の鎮守として熊野から勧請した社で、この背後の山「若王子山墓地」に眠るのが新島襄・八重夫妻です。 -
さらに北上し、山へ向かいます。
見えてきたのは威厳ある霊鑑寺、通称「谷の御所」です。
後水尾天皇皇女・多利宮宗澄女王が開山となり創建された尼門跡寺院。
通常非公開。 -
「此奥 俊寛山荘地」。
霊鑑寺の南側から山に延びる道の角です。
ちなみに建碑者は「京都市教育会」さん。
京都の建碑事業を考える上で外せない団体です。
あ、すみません、これは個人的興味の話でした。 -
そして向かい側には「京都一周トレイル」の標識もありました。
いよいよ「山」です(笑)。
山荘碑には3年前に1度行っているので、そんなに難しくない…筈。 -
難しくなくても、この勾配はやはりすごい。
実は電動アシスト自転車で来ていたのですが、途中で諦めました。
とてもじゃないけど漕げないです。 -
さていよいよ舗装道路も終わり。
まずは波切不動へお参りしましょう。
高野山別格本山南院の波切不動尊を勧請したのがこの「瑞光院」なのだそうです。 -
動物のツノが。
やっぱり、鹿ですか?
「鹿ヶ谷」の地名の由来としては、比叡山の智証大師円珍(伝教大師最澄の高弟)にまつわるお話が伝わっています。
「開基は智証大師、此の山を逡巡したる所に忽然として一つの鹿現れ嶮岨を均し、大師の裳をくはへて岩窟にいたるに観世音の霊像現然たり。
大師歓喜して當寺の本尊としたまふ」
(「拾遺都名所図会」如意寺) -
うーん、如何にも山岳信仰といった風情。
-
密教僧達の道場でもあったのでしょうね。
-
「俊寛僧都旧跡道」。
再び道標です。
しかし、よーく見ると左下にちょこっと距離が刻まれてます。
「八丁」。
八丁……(※1丁(町)=約110m)。
山登りで1Km弱かあ…。 -
その隣には京都一周トレイル標識。
-
気を取り直して、張り切って行きましょう!
-
しばらく歩くとまたもや京都一周トレイル標識が。
よし!ちゃんと正しく歩いてるぞ!
(実は3年前、間違った山道を進んでしまった) -
この辺りから延々と続く山道写真をお楽しみ下さい。
-
こんな感じで、道はすべて非常に切り立った崖を歩く感じです。
崖の下には「桜谷川」と呼ばれる川が流れています。
そういえば、この辺の町名に桜谷町ってあったなあ。
(波切不動尊などは徳善谷町ですが、霊鑑寺などが桜谷町というのです) -
でもこの道は「如意越え」と言いまして、実は保元の乱で敗れた側の崇徳上皇が、園城寺へ向かって逃亡したルートでもあるのです!
あれですよ、あれ。
出家したいと思っても、山の中なので戒師も剃刀も用意出来ませぬと家臣から告げられる珠玉の名場面。
「何と思うままにならぬ我が一生よ。生まれてこの方、何一つ…!」
これ、「保元物語」のまんま映像化なんですね。
「さる程に新院は、為義を始として、家弘・光弘・武者所季能等を御供にて、如意山へいらせ給ふ。
山路けはしくして難所おほければ、御馬をとゞめて、御歩行にてぞのぼらせ給ける。
御供の人々、御手を引、御腰ををし奉りけれ共、いつならはしの御事なれば、御足よりは血ながれてあゆみわづらひ給けり。
…(略)…
御出家有たき由仰なりけれども、此山中にては叶ひがたき由を申しあぐれば、御涙にむすばせ給ひけるぞかたじけなき。」
(上巻 第十七 新院御出家の事)
おいたわしや、上皇様ー! -
で、ちょっとゾクゾクする丸太橋があったり。
-
よく目を凝らすと、人工的な石積みがちらちら。
実はこの山深い場所にあって、かつて「如意寺」という園城寺(三井寺)の別院が壮大な伽藍を誇っておりました。
源頼家の次男・公暁、また遺児・栄実(幼名千手丸)が門跡を務めたこともあったとか。 -
足利尊氏VS後醍醐天皇の戦「延元の乱」の経過で、尊氏側に立った園城寺の別院=如意寺を、朝廷側についた比叡山が焼き払ったんだとか。
その後再建を繰り返すものの、応仁の乱で完全に焼亡してしまいます。 -
江戸時代に、先述の霊鑑寺尼公が名跡を惜しんで再興しましたが、明治時代の廃仏毀釈によってついには廃寺となりました。
ちょうど現在のノートルダム女学院が建っている辺りであったそうです。
(霊鑑寺のすぐ東南側) -
この辺りの石積みは特に整っています。
やがて目印のスポットに一つ辿り着きました。 -
きっと、往時はそのスポットの名を刻んだ石碑だったのでしょう。
今は表面が剥落し、全く判読できません。
石碑の向こうにあったのは… -
「楼門の滝」。
楼門とは二層門の一種。
一層目に屋根がついていないものを楼門と言います。
この場所にかつての如意寺楼門があったと考えられます。
いわば「園城寺西門」にもあたる場所でした。
「二階樓門これを園城寺西門といふ。
左右廻廊門の南に瀑あり。
仍て樓門の瀑布(たき)といふ」
(「花洛名勝図会」如意寺古蹟) -
イチオシ
マイナスイオンたっぷり。
-
-
こういうものが楼門の基壇だったのかなあ。
-
古建築も好きなので、興味津々。
-
不自然に広い、平らかな地形。
きっとお堂があったに違いない。
そう思わせる風景。 -
イチオシ
再び登りましょう。
ここまで来ればもう少し!
だったと思う! -
踊り場のような場所を曲がり…
-
ついに、
-
到着!
写真撮ったりしながらなので、ちょっと時間を取りましたが、大体霊鑑寺から登り始めて30分程度でした。
なお銀閣寺側から大文字登山をした時、大体同じぐらいの30分ほどで火床の中心まで着きます。ご参考に。 -
非常に立派な副碑が、まず手前に。
碑を建てたのは昭和10年、西垣精之助氏なる人物が土地を購入した上でとのこと。
ある夜、夢で俊寛の山荘を訪れた西垣氏。
その後導実際にこの山の中を探すと、果たして夢の光景が目の前に現れた。
歴史書を紐解き、俊寛の存在とその境遇を知る。
僧都は朝廷を牛耳り専横を極める清盛を諌めんと、自身の邸宅を提供し謀議をもったのだ、と西垣氏は感激したのですね。
そこで彼の顕彰を誓い、私費を投じてこうしたものを造ったのだそうです。
何と奇特な(笑)。
建碑が昭和10年ですし、恐らく天皇の神聖化が急速に進んだ時代背景があったんではないでしょうか。 -
イチオシ
「俊寛僧都忠誠之碑」。
という事は、本当にこれが俊寛の山荘があった場所なのか?
…ここまで来といて何なんですが、「それはまた、別の話」なんですね(笑)。
それに、藤原摂関家の子息であり右大臣兼実の同母弟であり比叡山の僧であった慈円の著した、史実として第一級史料である「愚管抄」には、謀議を巡らした鹿ヶ谷の山荘の持ち主として、蓮華王院三十三間堂の執行であった静賢法印の名前が挙げられているのです。
静賢法印は亡き信西の息子の一人で、後白河法皇からも平清盛からも絶大な信頼を置かれた高僧でした。 -
京洛を見下ろす。
でも、そのものズバリでなかったとしても、ある宵、鹿ヶ谷の辺りで、清盛をはじめとした平家へ不満と鬱屈を悶々と胸に抱いた者達が集ったのです。
清盛の嫡男・重盛へ妹を娶せた藤原成親は、熱望する近衛大将の座を重盛、次いでその異母弟の宗盛にまで奪われました(左右の近衛大将を平家が独占)。
後白河法皇第一の近臣にまで昇っていた西光法師は、騒ぎを起こした彼の息子達を清盛の裁量で流罪とさせられました。
村上源氏の流れを汲む俊寛は非常に気性の激しい質で、常日頃から平家一門の台頭を苦々しく思っていました。
そして彼らのあるじ・後白河法皇。
清盛の力を利用して法皇は権勢を振るい、平家一門も法皇の権威を利用して公家や殿上人になり権力を拡大します。
互いを利用し合う関係は、しかし余りにも勢力が拮抗した事により、軋轢が生まれみるみるうちに膨らんでいきました。
そのような彼らが会し、密議――平家打倒の企て――をこらした、それが「鹿ヶ谷の陰謀」。
そうした暗い光を宿した幾つもの眼差しが見つめたのが、この景色なのです。
(以上、あくまで「平家物語」目線) -
碑の背後にはまだまだ道が続いていきます。
保元の乱では崇徳上皇の逃亡ルートでありましたが、後年には謀反が発覚した後白河法皇の皇子・以仁王がやはり園城寺へ身を隠そうと進んだ経路でもあるのです。
(ちなみに住まいであった高倉宮から脱出する時は女装してました。平治の乱の時の同じく女装脱出の二条帝といい、この時代の上つ方々はどこまでもなよやかでございますなあ) -
京都一周トレイル標識。
このまま進めば大文字山山頂にも行けます。 -
碑の真ん前で一休み。
なおかつ現地で平家物語原文を読むよ!
(巻第一「鹿の谷」の段)
「東山鹿ヶ谷といふ所は、後は三井寺に續いて、ゆゝしき城郭にてぞありける。それに俊寛僧都の山荘あり。
かれに、常は寄り合ひ、平家滅ぼさんずるはかりことをぞめぐらしける。
ある時、法皇も御幸なる。
故少納言入道信西が子息、静憲法印御供仕る。…」 -
「その夜の酒宴に、この由を静憲法印に仰せ合はせられければ、
『あなあさまし。人あまた承り候ひぬ。ただいま漏れ聞こえて、天下の大事に及び候ひなんず』
と、大きに騒ぎ申しければ、新大納言氣色變はりて、さと立たれけるが、御前に候ひたりける瓶子を、狩衣の袖にかけて引倒されたりけるを、法皇叡覧あつて
『あれはいかに』
と仰せければ…」 -
「大納言立ち歸つて、
『平氏倒れ候ひぬ』
とぞ申されける。法皇ゑつぼに入らせおはして、
『者ども参つて猿楽仕れ』
と仰せければ、平判官康頼参りて、
『ああ、あまりに平氏の多う候ふに、もて酔ひて候ふ』と申す。…」
(※特別出演:サーモスマグMyボトル) -
「俊寛僧都、
『さてそれをば如何仕るべきやらん』
と申されければ、西光法師、
『たゞ頸を取るにはしかじ』
とて、瓶子の首を取つてぞ入りにける。」
冷たく吹き渡る山の風に触れていると、彼らの声が聴こえるようです。 -
激情迸らせる宴の様を追いながらやって来た場所でした。
では、そろそろおいとましましょうか。 -
イチオシ
皆様の密議の邪魔をしてはなりません。
謀議はあくまでひっそりと。
研究の見方としては、謀とか恰好良いものではなく、「不満を持った同士がただ集まって愚痴ぶちまけてた単なる酒盛り」って解釈もあるらしいんですがね(笑)。 -
巨石がたくさん。
見応えがあります。 -
この、ちゃんと階段になっているところが凄い。
平安時代からの石段だろうか。
平安じゃなくても、尊氏が再建させた室町の頃のものではあるだろうから。
そう思うと、凄いよねえ…。 -
イチオシ
もう一度楼門の滝を眺める。
-
後白河も成親も西光も、この流れを見たのだなあ。
-
-
何故か川の側にあんなものが。
-
-
ゴールはもうすぐ。
-
無事下山。
本当に気持ちの良い天候のもと、楽しく散策しました。
お疲れ様でした。
オチとしては、ここから数分のところにある実家に寄った時、家族から「最近『大文字山で熊が出没するかもしれない、危険だから気をつけるように』という回覧板が回ってきた」と聞かされました事ですか(爆)。
マムシに注意の貼り紙はいっぱい見たんですけどね。
(以前、新島襄の墓参に行った時は「イノシシ注意」でした)
人とは誰ともすれ違わなかったんですが、違うものと出会っていたかも知れなかったようです…。
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