2012/12/28 - 2012/12/28
3730位(同エリア5396件中)
ルルフさん
2012年大河ドラマ「平清盛」が
昨年12月23日最終回を迎えました。
登場人物達が繰り広げる壮絶な腹の探り合い、
画面の中で牙を剥くかの如く弾けるカオスな演出、
初心者を情け容赦なくふるい落とすストーリー展開は
一般大衆へやはりそう容易く伝わらないまま
最低平均視聴率を誇る事と相成った大河ドラマですが
(注:書いてる本人は愛する作品だからここまで書きます)(笑)
コアなファン層を生み出した事もまた事実であります。
また、大河史上稀に見る登場人物の数の多さも
この作品の特徴として挙げられるひとつです。
事実、平安時代末期のいわゆる院政期には
様々な階級の人々が表舞台に現れました。
ドラマに取り上げられた人物の中でも出色の存在だったのが、
番組前半に登場した左大臣藤原頼長と、
少納言藤原信西入道です。
史実でも、この時代を代表する大学者として
天下にその名を轟かせたのが、
この学友であり政敵である二人なのであります。
夏に一度信西入道の墓参をしたのですが、
年末に再び訪れたいと思ったこと、
そしてせっかくなら頼長の回向も年内にしておきたいと思い立ち、
押し迫った年の暮れに大和国及び山城国南部へと赴いた記録です。
- 同行者
- 一人旅
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 高速・路線バス 私鉄 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
PR
-
平安京左京八条の近鉄京都駅です。
ここから急行に乗りました。
出発は9時43分発。
途中、西大寺で乗り換え。 -
到着!
せんと君のお出迎え。
そーいや信西も政治の辣腕ふるうような
描写が増えてくると良く
「ブラックせんと君」とか言われたなあ。 -
駅の向かい側に渡り、
奈良交通バスに乗ります。
「青山住宅」行きで、般若寺に向かいます。 -
大体15分ぐらいでしょうか。
住宅街の脇道「般若寺」のバス停で降り、
最初の曲がり角を左に曲がり、
次を右に。 -
右手に見えてくる、立派な十三重石塔…
-
京街道に面して佇む国宝。
-
真言律宗法性山般若寺、楼門。
入母屋造り、本瓦葺き。
楼門は一層に屋根を持ちません。
(あるのは二重門と呼ばれます) -
ちなみに「重要文化財」指定の中で
とりわけ特別な存在が「国宝」と呼ばれます。
だから重要文化財って文字がある事はおかしくないのです。
飛鳥時代創建の寺院の楼門が新たに鎌倉時代に建てられたのは、当然頭の中将平重衡のアレのせいです(笑)。 -
受付横の境内案内絵図。
-
境内に入ると、黒猫がお出迎えしてくれました。
-
ツンとしたところがあの御方っぽい。
-
般若寺さんというと、この石仏群が有名ですね。
-
如意輪観音様。
-
千手観音様。
-
楼門の内側には解説副碑もあります。
-
そして傍らには
この古刹を灰燼に帰すきっかけとなった
南都焼討の指揮を執り、
後に源氏方から斬首とされ、
果てはこの寺の僧侶が首を貰い受け
般若寺の門前に曝したと言われる
「仏敵」こと平重衡を祀る供養塔が…。
自分は大河「平清盛」の重衡像が強烈で、
あの無邪気で平家の力を疑問なく信じている彼の姿が
イメージにぴったりでした。
正にこの地に軍勢を率い立っていた重衡。
後に門に梟首された彼の供養塔が今は境内にあるのです。
歴史の積み重なりに思いを深くします。 -
解説副碑です。
朝、出かける支度をしながらTwitterを見ていて、
なんとこの12月28日(旧暦)こそ
重衡が南都焼討という行いをしてしまったまさに当日だと知りました。
「平家物語」に曰く…
「夜戦になつて、暗さは暗し、頭中将重衡卿、般若寺の門の前にうつ立つて、『火を出だせ』と宣へば、播磨国の住人、福井庄の下司、次郎大夫友方といふ者、楯を割り松明にして、在家に火をぞ掛けたりける。
頃は十二月二十八日の夜なりければ、折節風は烈しし、火元は一つなれども、吹き迷ふ風に、多くの伽藍に吹きかけたり。」
全くの偶然です。
でもこういう巡り合わせが御縁だと思うんですよね。はい。 -
不動明王像。
実はこの頃から小雨が降って来ました。
背景に色がないのはその辺のせいです。
(天気予報では雨でしたから、それに較べれば随分マシ) -
実は28日って不動明王尊御縁日なんですよね。
実は「だから」出てきたんです。
理由は後ほど。 -
般若寺シンボルといえば、国宝楼門とこの十三重石塔。
東大寺再興に関わった伊行末の建立と言われる
鎌倉時代の建造物です。
高さは14.7m。
東大寺の大仏よりちょっと低い感じ。 -
解説副碑です。
-
はい、本日の第一目的地。
藤原頼長御供養塔です!
私にとって「平清盛」序盤の華でもあった御方でした。
保元の乱の敗者藤原頼長は敵方からの矢を受け重傷を負い、
父禅閤忠実や叔父興福寺僧侶千覚律師のいる南都へ落ち延びようと、
嵐山から大堰川を舟で下ります。
ですが忠実に対面を拒絶され、失意のうちに絶命。
絶望の末に舌を噛んだ自害とも(ドラマではこれ)、
あるいは母方の叔父千覚律師に看取られての最期だったとも言われています。
保元元年7月14日のことでした。
遺骸は付き従った従者達にこの般若野の辺りに埋葬されたものの、
信西の命により実検のため暴かれ、首は洛中へ。
それ以外はそのまま放置という辱め(涙)。 -
「保元物語」より「左府御最後付けたり大相国御欺きの事」には…
「図書允帰り参って、此由申ければ、左府うちうなづかせ給て、軈て御気色かはらせ給ふが、御舌の前を食切てはき出させおはしましけり。
いかなる事とも心得がたし。
角てはいかゞし奉らんと覚ければ、玄顕得業の輿にかきのせまいらせて、十四日に奈良へ入申けれ共、我坊は寺中にて、人目もつゝましとて、近きあたりの小屋にやすめ奉り、様々にいたはりまいらせけれ共、つゐに其日の午刻計に御こときれにけり。
其夜やがて般若野の五三昧に納奉る。」
とあります。
訃報を聞かされた忠実は、
「逝て帰らぬ別程、悲しき事はなきぞとよ。はからざりき、是程老の心をなやますべしとは。」
せめて生きて流罪に遭ったのなら、どんな東の果て西の極みにいても、
馬を走らせ船を出して会いに行くものを、
自分が生き延び、このような愛息の報に触れるとは
前世のさだめだろうか…
父上の悲嘆ぶりが切ないです。 -
以降、朝敵の立場ということもあり
墓を築くことも憚られていましたが、
般若寺さんでは境内に残っていた古い五輪塔を
「頼長卿供養塔」として祀ったというお話です。
(石碑は2012年6月設置。重衡も同じ) -
解説副碑です。
-
笠塔婆。
鎌倉時代建立で、このタイプとしては日本最古だそうです。 -
解説副碑です。
室町時代には重衡のお墓だと思われていたのですね。
「仏敵」でも慰霊しようという心が素晴らしいと思います。 -
ちなみに(ちなむには大物なんですが)「太平記」には、
「大塔二品親王は、笠置の城の安否を被聞食為に、
暫く南都の般若寺に忍て御座有けるが、…」
とありまして、大塔宮護良親王が逃亡ルートで
ここに身を潜めたことがあるようです。 -
解説副碑です。
「若やと隠れて見ばやと思食返して、佛殿の方を御覧ずるに、人の読懸て置たる大般若の唐櫃三あり。
二の櫃は未開蓋を、一の櫃は御経を半ばすぎ取出して蓋をもせざりけり。
此蓋を開たる櫃の中へ、御身を縮めて臥させ給ひ、其上に御経を引かづきて、隠形の呪を御心の中に唱てぞ坐しける。」
それがこの経蔵だということです。 -
なお、現在の本堂は江戸時代の再建。
上述の大塔宮が隠れ給うたと伝わる唐櫃もこの中にありました。
現ご本尊も、もともと経蔵の中尊だった
木造文殊菩薩騎獅像であられます。
とても美しい文殊様でした。 -
とにかく「花の寺」として名高き般若寺。
恐らく秋のコスモスが一番知られてますよね。
年末なので、そろそろ水仙が咲いてるかなあと
淡く期待していったのですが、さすがに全然まだでした。
「清盛」で待賢門院璋子のシンボルなお花だったのが水仙。 -
でも、雨のそぼ降る寒々しい冬空に
凛と佇む石仏さま達… -
というのも気品があってよいものである。
-
解説副碑です。
この観音石像は江戸時代の奉納だったそう。 -
そして大和国を出立。
次の第二目的地・山城国田原庄へ向かいます。
30分ほど近鉄に乗りまして、
近鉄新田辺駅に着きました。
一休寺こと酬恩庵の最寄り駅なので、
駅前には小僧の一休さんが。
酬恩庵にお住まいされたのは最晩年だよΣ(´Д` ) -
駅前から京阪宇治バス「緑苑坂」行きに乗り、
30分ほど。
「維中前」で降ります。
夏に一度来た時は
JR宇治駅からこのバス停に向かいました。 -
バス停前には地元の観光案内板が。
右下側をご注目下さい。 -
(・∀・)モエッ
-
バス停から後は歩きです。
公共交通機関(又の名を乗り合い牛車)利用者には
この後は歩きしかありません。
歩きだけです。
歩きだけです。
(大事なことなので二回言いました)
あなにくし。 -
大体30分ぐらいを目安に。
基本道なりで大丈夫です。 -
時々分かれ道があるんですが、
こういう案内が必ずあります。
親切で有難いですね。 -
道はずっとアスファルトだし、
ところどころ民家があるし、
心細くはないです。
成親墓とか鹿ヶ谷の山荘とか、
どんだけ怖かったと思てんねん(涙)。 -
ずうっと右手向こう側に広がる茶畑。
お茶どころ宇治田原だもんね。 -
こんな看板もあるけど
(゚ε゚)キニシナイ!!
(いや気にします気をつけます) -
実は信西入道塚の先の山が鷲峰山といい、
金胎寺という古刹もあり、
ハイキングコースとして有名だそうです。 -
なので、その層のための「集合場所」が
ちょっと広めのところで
あちこちに設定されてます。 -
歩いていると現れる大道寺公民館。
これで半分ぐらいかな。 -
また小さく分かれ道。
正直に案内標識に従って下さい。
あ、念のため。
自家用車のある方は車でどうぞ(汗)。 -
歩くこと30分…
ついに見えてきました! -
大道寺お堂です!
夏に初めて行った時、
余りの規模の【お察し下さい】に驚愕したのも
いい思い出(笑)。 -
しかし、何はともあれ
こちらにお参りをしましょう。
そのまま少しだけ奥に進みます。 -
きちんと案内標識も。
-
丁寧に作って貰ってるなあ。
-
はい、到着しました。
本日第二目的地・信西入道塚でございます!
保元の乱の後、後白河上皇の乳母人として
ますますの権勢を誇り、武と財を清盛に託しながら
中世へ続く政のグランドラインを描いた信西。
そんな信西を疎ましく思う院近臣・藤原信頼と
清盛に較べ低い勲功しか得られなかった源義朝が手を組み、
また二条帝親政派と後白河上皇院政派の対立も絡んだ結果、
ついに勃発したのが平治の乱です。
平治元年12月9日、清盛が熊野参詣に出かけた隙を突いて、
義朝達は後白河上皇と二条天皇が住んでいた
院の御所三条東殿を襲撃、
上皇と天皇を幽閉し、信西の私邸を焼き払いますが、
直前にそれを察知していた信西は
山城国田原庄に逃れたものの追撃を振り切れず、
郎等らに命じて自らを地中に埋めさせて自害しました。 -
石碑も一緒に写真に収めてみましょう。
追手は信西の首を切って京に戻り、
その首は大路を渡され西獄門に晒されたといいます。
後日談として、田原庄の領民達が京へ行き、
信西の首を貰い受け懇ろに葬ったと言い伝えがあるのです。 -
この石碑は、
京都府下に約400基ほど私費で建碑した
三宅清治郎氏のいわゆる「三宅碑」のひとつ。
三宅氏は父・安兵衛氏の遺志に基づき、
社寺や旧跡に関する案内碑や
道標の建設を行いました。 -
解説副碑です。
そうなんです。
意外と新しいのですね。 -
供養塔と一緒に建碑されたと思しき石碑ですが、苔むしちゃって読めません…。
-
「平治物語」巻之一「叡山物語の事」より。
「されば凡人ならぬにや、死して後も、手には日記をさゝげ、口には筆をふくみ、炎魔の庁にても、第三の冥官につらなりけると、人の夢にも見たりけり。
かゝりし人の今頸を獄門にかけらるゝも、保元の合戦に、宇治の悪左府の御墓所、大和国添上郡河上村、般若野の五三昧なりしを、信西の申状によって、勅使をたてゝほりおこし、死骸をむなしくすてゝはづかしめられしが、中二年あって、平治元年に我とうづみかくされしか共、つゐにほりおこされて、首をきられけるこそおそろしけれ。
昨日の他州のうれへ、今日ほ我身のせめとも、かやうの事をや申べき。」
本当に、人の運命の綾というか、因縁というか、
衆生の者では到底生み出し得ないような、
宿命としか言いようのない何かが
これほどの人生を歩む人々の上には注いでいるような気がします。 -
さて引き返しまして大道寺。
お堂の壁に解説板があります。
かなり横長で1枚の写真に収まりませんでした(汗)。
画像ソフトで2枚を繋いでます。
ちょっと途中が変になっているのはそのためです。
お許しあれ。
大道寺さんの来歴はこれで大体わかるかと。
読んで頂くとわかるのですが、
この寺は藤原忠実が帰依し、
その地を次男頼長に譲って彼が治め、
彼が亡くなったからは後白河帝の「後院領」となり、
その後藤原信西の所領とされた、という
この日巡った目的の人々と
非常にゆかりのある場所でもあったのです。 -
実はですね。
このお堂のご本尊は不動明王なのです。
そのために、毎月の法要というものが、
このお堂を預かっておられる京洛中の某寺院の
和尚様によって現在も営まれています。
それ以外の日は基本お堂は鍵がかけられ、
余人が入ることは出来ません。 -
その情報は、ちょうど大河で26回「平治の乱」が
放送された直後に
NHK京都ニュースで紹介されていました。
これを受けて、私はそのお寺にご連絡をし、
8月28日にこのお堂の前で和尚様と
落ち合うお約束をし、お堂に上げて頂きました。 -
ただ豈図らんや、この日は年末であり、
お約束していた時間に和尚様が来ることが
出来なくなったとご連絡がありました。
(1時間後ぐらいにお越しになるとのこと)
しかもそのご連絡は、宇治田原の住人の方に!
(My携帯…というかWILLCOMだから
ピッチだと田原庄は圏外で…)(汗)
わざわざ私を探しに来て下さり、
代わりにお堂を開けて頂いたのです。
和尚様と一緒にお経を上げるのは無理でしたが、
お不動様と信西の御位牌に手を合わせることが叶いました。
ご本尊のお不動様はそれほど大きくなく
(戦国時代に廃寺同然になりましたので、
再興された後の江戸時代の仏像です)
御位牌も恐らく近代の作ですが、
塚も含めて、地元の人々の信西入道への愛着を感じます。 -
再びバス停「維中前」まで徒歩で戻り、
近鉄新田辺駅から近鉄に乗って洛中へ入ったのは
18時近くとなった頃でした。
こうして私の「盛旅」こと
「平清盛」ゆかりの地を巡る2012年の散策は
幕を閉じました。
この大河ドラマを通して知った、
また興味を深めた人々に
関する場所に2013年もどんどん
足を運びたいと思います!
この旅行記のタグ
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
0
64