2012/10/15 - 2012/10/15
1056位(同エリア1501件中)
ルルフさん
京都住人なので、厳密には旅ではなく街歩きです。
休みが合う時はなるべく私淑する先生の歴史巡検に参加してます。
本日のテーマは「都名所図会をあるく・宇治郡編」。
そもそも「都名所図会(みやこめいしょずえ)」とは?
江戸時代後期に発行された山城国(京都)の地誌(観光ガイドブック)。
筆者は秋里離島、挿絵は竹原春朝斎。
大変な好評を博し、続編である「拾遺都名所図会」も出ました。
これに添って実際に歩いてみましょう、という試みです。
ですから、現代に現地に行ってみると
もう既に「無い」ところも少なくない訳です。
でも行ってみないとわかりませんね。
それに、「無い」けど「変わっていない」ものもあるんですよ。
今回は
・五箇荘許波多(こはた)神社旧地
・普化宗本山明暗寺開山の朗庵虚竹禅師墓
・応神天皇皇太子・菟道稚郎子墓
これらに行って参りました。
- 同行者
- その他
- 一人あたり費用
- 1万円未満
- 交通手段
- 私鉄 徒歩
- 旅行の手配内容
- 個別手配
-
本日の集合場所は京阪「黄檗」駅でございます。
普通なら黄檗宗本山・萬福寺に向かうところですが… -
目の前を走る「旧奈良街道」を南下しましょう。
ちなみにこの右側(西)は陸上自衛隊宇治駐屯地です。 -
しばらく歩いて、左側(東、山側)に曲がります。
すると、こんなものが!
この奥にかつて許波多神社があったのです。
(明治初年まで。何故移されたかは後述)
そのための「一の鳥居」の残骸が
見るも無残な形で晒されていました。 -
逆に言うと、何故今も残してあるのか不思議だ。
-
イチオシ
明日には無くなっているかも知れない…。
しかし、石の鳥居も「はめ込み組立式」なんですね(笑)。 -
途中で古い道標が。
ローソンの角っこに注目。 -
ちなみに、こういう石碑に
「すぐ」
という文字がよく刻まれてますが、
これは「もうすぐ」という意味ではなくて
「まっすぐ」なのです。 -
こんな場所歩いてます。
何だか不思議な地名ですね。 -
到着です。
「黄檗公園」。
ここに以前、許波多神社がありました。
何故ここから今の場所に移されたかというと… -
…こういうことです。
明治9年に政府が弾薬貯蔵庫をここに建設するため、
御旅所であった岡屋へと追いやられてしまったのですね。
そしてその後、神社に土地が返されることはなく
宇治市が管理し、公園に…。 -
良い見晴らしです。
実は、背後の山が「柳山」(つまり写っていない)。
「信長公記」に曰く、
「(元亀三年)七月十六日、真木島へ信長御馬をよせられ、五ケ庄の上やなぎ山に御陣を居えさせられ、則ち、字治川乗り渡し、真木島攻め破らるべきの旨、仰せ出ださる。」
室町幕府最後の将軍足利義昭を相手にした「槇島城の戦い」で信長様が本陣を敷いたのがこちらです。
そもそもは飛鳥時代に孝徳天皇が中臣鎌足に命じて皇祖を祀る社を造営させたのだという、大変な由緒のある神社です。
この山の名前から一時期は「柳大明神」と通称され、江戸時代には「柳神社」とされてました。
移動してから元々の許波多神社に戻したそうです。 -
では次の場所へ移動しましょう。
-
次の場所。
お墓です(はあと)。
朗庵虚竹禅師は法燈国師(鎌倉時代)のお弟子。
国師が尺八を中国から持ち込んで弟子に伝えます。
普化とは唐の人で、「鐸(鈴みたいな楽器?)」を振りながら祈るスタイル。
彼らは尺八に託して、半ば伝説じみた僧・普化に憧れを募らせたようです。
そんなみんなのアイドル・普化様を彷彿とさせたのが虚竹。
「今普化」とまで呼ばれました。
後に宇治の五箇荘に移り住みます。
虚竹さんを開山として、虚竹の弟子の明普が白川に開いたのが普化宗本山「明暗寺」でした。 -
京都の墓域に関するMyバイブル「京都名家墳墓録」には
この虚竹禅師墳が掲載されています(帰宅してから調べた)。
「虚無僧塚と云ふ、塚は墓域の東端に位し、
石欄を繞らし、自然石もて花形を造り墓標とす、
塚前一碑を建て篠崎弼の詩文を刻す」
あ、塚前一碑を撮っていない(最悪)。
ちなみに明暗寺は江戸時代に廃寺になり、
現代に東福寺善慧院にて再興されています。
(善慧院はまた後日報告出来るかと) -
かなり碑が建っているのですが、
建立年代が幕末に集中しています。
(大正・昭和の修復碑もあり) -
これも幕末。
弘化だった気が…。 -
安政年間ですね。
何か幕末に普化宗の一大ブームが来ていたのでしょうか…。
尺八奏者のアイドルでも出たのでしょうか…。 -
お墓の横の切り株にいたカマキリちゃん。
-
では再び奈良街道に戻り南下します。
京滋バイパスを通過し… -
途中で川を横切りました。
「戦川(たたかいがわ)」…なかなか武者震いするネーミングです。
新羅から大和へ凱旋してくる神功皇后(わー古代史)に対して、皇后の亡き夫・仲哀天皇の2人の皇子・香坂王と忍熊王兄弟が反乱を起こします。
自分達を差し置いて、天皇と皇后との間に生まれた誉田別尊を太子にすると危惧したのですね。
しかし播磨での反乱は程なく平定されてしまいます。
香坂王は猪に食い殺され(あーあ)、忍熊王は兵を退きつつこの「戦川」を挟んで最後の抵抗を試みました。
が、皇后の側近・武内宿禰達の前に敗れてしまい…
(以下は興味のある方お調べ下さい)
このエピソード「から」この川の名前がついたのでしょうか?元々こういう名前だったのでしょうか?どっちなんでしょうね。
私は最初この名前を見た時、瞬間的に
「源三位頼政ネタ?」って思ったんだけどな〜。 -
ともあれ、橋の名前も「たたかいがわばし」。
直球です。 -
さらに南下。
初めて歩きました「莵道」地区。
行政的には現在「とどう」と読みます。
が、しかし。
かつては、または本来は違う読みです。 -
すぐ左手が京阪「三室戸」駅というところまで来ました。
-
目的地へ進みましょう。
通りから右に入ります。 -
到着です。
「応神天皇皇太子菟道稚郎子尊 宇治墓」。
古墳時代の陵墓ですね。
怪しいですね(笑)。
でも尊崇の念をもって掃苔はきちんとしましょう。
本によっては「宇治天皇」と呼ばれる御方です。
先ほどチラッと出てきた神功皇后の息子・誉田別尊が応神天皇です。
応神天皇の四男にあたるのが菟道稚郎子。
読み方は「うじのわけいらつこ」。
そうです、「莵道」の由来です。
どころか、この「うじ」様の読みのまま漢字表記が次第に変化して「宇治」にもなってゆくのです。 -
非常に聡明で非の打ち所のない青年であったという菟道様。
この末の息子を父も溺愛しました。
ついには菟道を兄達に差し置いて皇太子に据えるのです。
ここでムカツクのは上の兄貴です(香坂王と忍熊王悲劇再び…)。
大山守命は父が崩御の後にこれを不服に思いついに菟道を殺そうと企てますが、もう1人の兄・大鷦鷯尊がそれを阻みます。
大山守命は大鷦鷯から知らせを受けた菟道との戦いに敗れ、命を落としました。
菟道は兄である大鷦鷯に敬意を払っていたので大鷦鷯に皇位に就いてくれと願います。
しかし大鷦鷯は父の命だからと弟の菟道が天皇になることを望みました。
(麗しい兄弟愛だ)
そんなこんなでお互い「どうぞどうぞ」をやり続け3年。
もう菟道は耐えられなくなります。
何と菟道は自ら命を絶ってしまうのですΣ (゚Д゚;)
報せが大鷦鷯へ届いたのは3日後。
難波(大鷦鷯の宮殿)から菟道宮へ駆けつけた大鷦鷯は胸を叩きながら慟哭しました。
髪をほどき、亡き骸に跨り、弟を掻き抱いてその名を三度叫び嘆きます。
「私の弟の皇子よ!」
すると菟道が、生き返りますΣ(゚д゚lll)
兄「悲しいよ、悔しいよ、何で死ぬんだよ!私が弟を死に追いやったなんて、父上がお聞きになれば何と言われるか!」
弟「これは天命です。仕方ないんです。兄上は何も悪くないです。父上には、兄上がどんなに素晴らしい人か僕からちゃんとお伝えします。あ、僕の妹(同母)を良かったらお嫁さんに貰って下さいね」
最後の別れを果たしてから、再び棺の中で帰らぬ人に。 -
イチオシ
大鷦鷯は父と菟道の母が出会った地の近く「菟道の山の上」に弟を葬りました。
その哀哭は余りにも激しかったそうです(とにかく麗しい兄弟愛だ)。
こうして弟の自己犠牲を経て即位した大鷦鷯尊その人こそ後の仁徳天皇なのでありました。
で、ダウトです。
この日本書紀にある記述(だいぶザックリした紹介ですが)には「山の上」にお墓を作ったってあるんです。
ここ、どう見ても平地でしょう…(笑)。
実は明治に宮内庁が元々あった円墳を利用して新たに造った墳墓なのですね。
江戸時代には近くの朝日山にある経塚が菟道のお墓だと言われていたのに(勿論これも要検証ですが)、何故か山でも何でもないこっちに決めちゃったのです。
(円墳は菟道のお母さん、あるいは大山守命だとの言い伝えがあったそうです)
とにかく宮内庁の陵墓決定の経緯には謎が多いです。 -
ちなみにすぐ前が、先年指定された史跡
「宇治川太閤堤跡」です。
(豊臣秀吉が伏見城築城にあたり行った治水工事)
早速石碑が建っていて良いことだ。 -
実は…
三室戸駅から宇治墓へ行く途中にこんなところがありました。
「宇治墓陪塚い号」。
平安時代には賀陽豊年という廷臣が菟道稚郎子を慕い、晩年この辺りに居住したと言われています。
彼が亡くなった後、働きに報いるため菟道の墓の側に埋葬を勅許したとか。
本当は、江戸時代にはここは別の史跡でした。
その頃は「波戸浮舟社」と呼ばれる、三室戸津(津=港)の水上交通の神を祭祀した場所だったのですが、いつの間にか源氏物語の「浮舟」の古跡とごっちゃになっていきます。
で、江戸時代後期にはほぼ廃絶になってしまった上に明治期の菟道の墳墓整備の際、上述の豊年墓をこの浮舟社跡に治定したのだそうです。 -
言ってみれば「平安時代の忠臣をイメージして造った新しい史跡」ですね。
でも、土地の古い由緒の存在の流れを感じさせてくれるのでこれはこれで大事なことだと思います。
しかしこう見ると普通のお宅の庭先にしか見えません(笑)。
というところで、本日はこれにて散会。お疲れ様でした。
私はこの後も平安京大内裏跡へ向かい、「平家物語」講座(ちょうど藤原成親配流の場面に差し掛かった辺り)に参加したというキュルチュールな一日を過ごしたのでした。
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