2012/10/21 - 2012/10/21
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藤沢市川名にある神光寺は高野山真言宗のお寺で稲荷山影向院(ようごういん)神光寺という。明応元年(1492年)に創建され、開山は貞誉である。天保14年(1843年)曉俊により中興され、嘉永4年(1851年)に近くにあった大勝寺と合併した。本尊は不動明王である。弘仁10年(819年)に空海(弘法大師)が開山した青蓮寺(しょうれんじ)(鎖大師)(鎌倉市手広5)の末寺であり、直線距離で1.1kmしか離れていない。山号の稲荷山は空海(弘法大師)と稲荷大明神との縁(えにし)によるものであろうか。空海(弘法大師)と稲荷大明神との関係は「稲荷大明神流記」(鎌倉中期)や東寺に伝わる稲荷大明神縁起に記載がある。本堂横に稲荷社が建っている。
寺の住職の墓は江戸時代のものが1基残るだけであり、歴代住職は出羽地方に多く見られるように即身仏となったとされ、昭和63年(1988年)から始められた本堂再建工事の際に発掘されたという。本堂裏にある石仏が安置されたやぐら群があるが、そうした歴代住職の慰霊のためのものか?
神光寺には横穴古墳群があるという。村岡歴史散策コースの道標では御霊神社前から神光寺までが250m、横穴墓群まで350mとなっている。すなわち、神光寺から横穴墓群までは100mあることになる。神光寺門前の公園で尋ねると、すぐそこだと示してくれた。稲荷社の下に横穴古墳があることになる。
神光寺の左横が崖になっており、寺の駐車場と何棟かの分譲住宅が建っている。駐車場の上に3穴が見え、白い分譲住宅が建つ崖に1穴が見え、その奥にも窪みが見える。しかし、最近建った白い分譲住宅と崖との間に入って行くのも気が引けて、お寺で聞いてみることにした。「看板には7穴あると書かれていますが?」「住宅の横に3穴、ズーと奥の住宅の横に1穴あります。」と住職夫人が答えてくれた。しかし、暫くすると先代の奥さん(現住職の母親)が帰って来て、横穴古墳は寺の右にある墓地の崖にもあるのだといい、案内してくれた。あいにく、暗くなっていたのと、墓地の裏山は草が茂っていて何穴あるのかは確認できなかった。「3穴だったか2穴だったか並んである。」という。鎌倉のお寺を巡ると墓地にやぐらの横穴があるのは良く見かける光景であるが、墓地に横穴古墳があるのは初めてだった。
位置は分かったので今度は明るい時に来て確認することにしよう。
(表紙写真は神光寺)
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神光寺。
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掲示板。
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「高野山真言宗 稲荷山 神光寺」の寺号標石。
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「③神光寺 ④横穴墓群」の標柱。
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「藤沢市指定重要文化財(彫刻) 木造虚空菩薩立像
木造一木造り、彫眼。表面剥落、右腕・左肘先・両手足欠如(本来は、右手に宝剣、左手に宝珠を持っていたと推定される)。像高一〇八.七cm。
木像は、嘉永四年(一八五一年)に神光寺に合併吸収された大勝寺・「新編相模国風土記稿」に「大勝寺、川名山金剛院と号す。本寺前(鎌倉手広青蓮寺)に同じ。本尊は虚空像なり」とある虚空像菩薩と推定される。
風化が甚だしいが、古様の作風から製作年代は平安時代中期頃と推定され、市内屈指の古仏である。また、立像の虚空菩薩像は全国的にも非常に希少な存在である。
平成一〇年二月十二日指定
藤沢市教育委員会」 -
「弘法大師報恩謝徳供養塔」。
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五重石塔。
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大師堂。相模国準四国八十八ヶ所の第74番札所。
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大師石像。
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相模国準四国八十八ヶ所の第74番札所が川名地蔵堂跡から移設されている。
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弘法大師像。
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客殿。
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高野槙。
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九重石塔。
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兎のベンチ。
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亀のベンチ。
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庫裡。
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猫。
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猫。
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本堂。
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本堂。
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本堂。
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本堂。
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本堂。
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本堂。
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本堂に掛かる「影向院(ようごういん)」の扁額。
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本堂に吊るされた鐘。
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稲荷社。
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稲荷社の鳥居。
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稲荷社。稲荷山の山号に因むものか。弘法大師が稲荷山を譲渡される話もある。
稲荷大明神流記(鎌倉中期)によれば、
「弘仁7年(816)4月の頃、弘法大師が紀州田辺の宿で、身の丈八尺あまりの異相の老翁に遇った。(これを神と知った)大師は、鎮護国家のため密教紹隆の道場・東寺において神の加護を待つと告げると、老翁はそのみぎりには必ず参会して大師の法命を守るであろう、と答えた。
降って弘仁14年(823)4月13日、彼の紀州の老翁が、稲を担い杉の葉を提げ、二人の女性と二人の童子をともなって東寺の南門にやってきた。大師は喜んでこれを歓待し、道俗もこれに習った。老翁は、しばらく柴守の家に寄宿していたが、その間大師は東寺の杣山に勝地を定めて17日間鎮壇し、稲荷の老翁を神として祀った。」(大意)とある。これによれば、伊奈利伝承より約100年ほど遅れての顕現となる。
また東寺に伝わる稲荷大明神縁起には、「100年の昔から、当山の麓には竜頭太(リュウトウタ)という山の神が住んでいた。その面は龍のようで、光り輝き、昼は田を作り夜は薪をとっていた。稲を荷づくことから、姓を荷田といった。
弘仁のころ、弘法大師がこの山で修行していると、竜頭太が現れて「吾は当の山の神である。仏法を守護しようと願っているので、真言の妙味を説いてほしい。そしたら、当山を大師に譲りわたそうと思う」といった。大師は喜んで法を説き、その面を写してご神体として東寺の竈殿(台所)に安置した。
大師は、竜頭太から稲荷山を譲り受けた後、稲荷明神をこの地に勧請した。その時、山麓には藤尾大明神が鎮座していたが、嵯峨天皇に奏上して深草に遷座せしめた。」(大意)との伝承が記されている。
竜頭太とは自ら名乗るように山の神で、その龍のような姿からみて雷神・水神的神格をもつ田の神すなわち穀霊である。山の住む精霊あるいはカミの初現の姿ということもできる。その竜頭太の顔を写して竈殿に祀るとは、竜頭太を水火を司る竈神として祀ったことを意味する。家の裏手にあって火・水に関係の深い竈殿は、異界との境界にあってカミが去来する場として神聖視され、そこに祀られる竈神は、丁重に祀ればその屋を隆盛に導き、疎かに扱えば衰退を招くという。大師は、東寺の隆盛を願って祀ったのであろう。
このふたつの伝承を合わせると、秦氏のいう伊奈利神の鎮座以前から、稲荷山には竜頭太なる山の神が鎮座していたが、弘法大師の来山を機に稲荷山を大師に譲渡した。その後、稲を荷づく翁=稲荷神の来訪をうけた大師は、譲り受けた稲荷山に齋き祀った。その際、山麓にあった藤尾大明神を深草に遷し、その跡に社を建立した、ということになる。稲を荷づく翁=稲荷神とは、山の神・竜頭太の化身とみることもできる。 -
横穴墓群。
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