2018/01/15 - 2018/01/15
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YAMAJIさん
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町名の由来にもなった、「親孝行息子の井戸から酒が湧いた」という伝説が残る酒々井は、戦国時代に千葉氏が本佐倉城を築いて下総を治め、約120年間にわたり、政治・経済の中心地として栄えました。しかし、北条方に味方した千葉氏は、豊臣秀吉の小田原城攻めで滅亡し、江戸時代に入ると政治・経済の中心は、徳川譜代の大名が入った佐倉へと移っていきました。
江戸時代の中期以降になると、成田詣でが盛んになり、酒々井にも宿場が形成されていきます。酒々井宿から成田までは、距離が短かったこともあり、通り過ぎる旅人も多く、大きな宿場とはなりませんでした。それでも、八坂神社周辺には、二階建ての旅籠や茶店が並び繁昌したようです。街道沿いには、当時を偲ばれる道標や記念碑などが良く保存されており、多くの神社・仏閣も宿場を中心に残っています。
2012/10/26 第1版
2014/02/07 第2版
2018/01/15 第3版
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成田道の地図(佐倉市境~酒々井駅前)です。
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成田道の地図(酒々井駅前~成田市境)です。
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佐倉市と酒々井町の境です。
今日はここから散策スタートです。 -
「南無妙法蓮華経」のお題目碑です。
妙胤寺の参道入口にあります。 -
平手造酒の寄りかかり松です。
妙胤寺の参道にあります。「天保水滸伝」の剣客平手造酒が戦いの前に、この地に立ち寄り、茶屋でお酒を飲み、この木に寄りかかり体を休めたといわれています。妙胤寺の本堂に必勝を祈願し、戦いの地利根川に向かっています。現在の松はその2代目です。 -
妙胤寺です。
1299年に弥勒院として創建された日蓮宗のお寺で、本佐倉城主千葉勝胤の祈願所となり、妙胤寺と改名しています。 -
本佐倉城への道案内です。
本佐倉城へは、バス停「山道」の近くから、左に入って行きます。 -
根古谷の双体道祖神です。
本佐倉城に向かう途中にあります。双体道祖神は、縁結び、夫婦和合、子孫繁栄の神様です。 -
本佐倉城跡の案内図です。
本佐倉城は文明年間(1469年から1486年)に、千葉輔胤によって築城されました。輔胤は、享徳3年(1454年)に始まる関東の動乱のなかで千葉宗家を継いだ人物で、千葉氏代々の居城であった「千葉城」が戦場になり荒廃したため、「本佐倉城」を築いて新たな千葉氏の居城としました。「本佐倉城」は、以後百有余年にわたる戦国時代を通じて下総の中心となり、千葉家の当主9代が城主として下総を治めていました。
大永年間(1521年)頃、最初の城の改修と城下の整備が終わり、城を中心に家臣や商人が集められ、武家屋敷や町屋・市の形成が進みました。
この頃千葉氏は下総の覇権をめぐって小弓公方や上杉氏・里見氏との合戦を繰り返していたため、小田原北条氏と婚姻を結び、手を組みましたが、しだいにその勢力は弱体化し、ついには親胤・邦胤の二人の当主が城中で家臣に暗殺されました。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原城攻めで北条氏に味方した千葉氏は滅亡し、本佐倉城は明け渡されました。その後、徳川家康の家臣が入城しましたが程なく廃城となり、その歴史を閉じました。 -
本佐倉城跡です。台地の左側が城山で右側が東山です。
本佐倉城址の内郭群は、?郭で本丸に当たる城山、?郭で二の丸に当たる奥の山、?郭の倉跡、?郭(名前は付いていません)、?郭の東山馬場、?郭の東光寺ビョウ、?郭のセッテイによって、構成されています。現在でも、郭や馬場、虎口、土塁、空堀など遺構が、ほぼ完全な姿で残っており、平成10年(1998)に「本佐倉城跡」として国の史跡に指定されています。千葉県の城郭では、唯一の指定です。 -
本佐倉城跡の石柱です。
東山馬場下が正面入口となっています。 -
本佐倉城の正面の守りです。
正面入口を上り、東山馬場から?郭、倉跡、奥の山、城山と見学できます。 -
清光寺です。
1556年創建の浄土宗のお寺で、徳川家康の父弘忠の分骨を安置供養しています。江戸時代徳川家から朱印50万石を寄進され、佐倉の城主は将軍の命により、廟所の管理をしていました。本堂は、佐倉城主、大久保加賀守忠朝により天和年中(1681〜84年)に建立されています。 -
清光寺の阿弥陀如来三尊像の解説板です。
千葉県の指定有形文化財です。 -
上本佐倉交差点です。
3つ連続して交差点が続き、国道296号線と国道51号線が交差いています。
成田道は、2つ目の交差点を左に入っていきます。 -
サイゼリア駐車場の道標です。
正面に「右東京道、此方成田山道」と刻まれています。 -
大鷲神社です。
酒々井上宿の鎮守です。酒々井宿の入口にある神社で、上宿(新宿)は一番新しい宿であり、宿の繁栄を祈願した神社と考えられています。 -
上宿のお地蔵様です。
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白壁土蔵造りの家が見えてきました。
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八坂神社です。
酒々井宿の中心に立つ神社です。祭神は須佐之命・伊邪那岐命で、酒々井宿四町(上宿、中宿、下宿、横町)の鎮守として祭られていました。 -
八坂神社の境内には、古い祠が集められています。
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安政5年(1858年)に発行された、「成田名所図会」に紹介されている酒々井宿です。絵図に描かれている神社は八坂神社でしょうか。
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酒々井町商工会館前を通過します。
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酒々井宿のメイン通りです。
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「成田名所図会」には、街道を行きかう人々や旅籠で寛ぐ人々が、生き生きと描かれています。
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白壁の家が固まって建っています。
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勝蔵院です。
江戸初期に移築された真言宗のお寺で、本尊は不動明王です。酒々井宿の中心にあり多くの信仰を集めていました。 -
勝蔵院の本堂及び不動明王の解説板です。
酒々井町の指定有形文化財です。 -
本佐倉城跡調査事務所です。
勝蔵院に隣接して建っています。本佐倉城に対する酒々井町の意気込みが伺えます。 -
酒の井の道案内と石塔群です。
勝蔵院の前の通りを案内表示し従って進みます。 -
酒の井です。
酒々井の地名の起源となった、孝子養老伝説(親孝行息子の井戸から酒が湧いたという酒の井戸の伝説)として有名な、「酒の井」を記念した石碑が建っています。 -
伝説「酒の井の碑」の解説板です。
昔むかし、印旛沼の近くの村に年老いた父親と孝行息子が住んでおった。父親はたいそう酒好きでな、親思いの息子は毎日一生懸命働いて父親に酒を買っていたんじゃ。ところがある日、どうしても酒を買う金がつくれずに、とぼとぼと歩いて家に帰ろうとしていた。その時、道端の井戸から何とも良い香りが「ぷうん」としてきた。井戸の水をくんでなめてみると、それは本物の酒だったんじゃ。さっそく帰って父親に飲ませると、「こりゃうまい酒だ。ありがたい、ありがたい」とたいそう喜んだ。息子はそれから毎日、毎日井戸から酒をくんで飲ませたんじゃ。ところがこの酒は、親子以外の人が飲むと、ただの水になってしまうんじゃな。「きっと、孝行息子の真心が天に通じたに違いない」とみんながほめたたえた。この酒の話しが広まり、村もいつか「酒々井」と呼ばれるようになったということじゃ。 -
酒の井碑です。
右の石碑が、室町時代前期の供養塔で、梵字で「キリーク(阿弥陀如来)」が彫られています。 -
復元された酒の井です。
井戸の横にある「音声案内」のボタンを押すと、酒の井伝説の解説と井戸から水が湧き出ます。 -
湧き出る井戸です。
井戸からポンプで汲み上げています。 -
麻賀多神社の参道です。
下宿にあり、ここまでが酒々井宿でした。 -
麻賀多神社です。
祭神は稚産霊命で、1000年以上前に建立されたと伝えられています。酒々井の鎮守です。 -
麻賀多神社の境内木です。
境内は昼でも暗く、巨木に囲まれていました。 -
酒々井駅古松碑です。
明治3年に枯れた「八抱えの松」と呼ばれた、巨木を記念して建立されて石碑です。樹齢700〜800年、高さ33mといわれる老松で「成田名所図会」にその威容が描かれています。 -
酒々井駅古松碑の解説板です。
酒々井町の指定名勝です。 -
安政5年(1858年)に発行された、「成田名所図会」に「酒々井駅妙見社傍老松」として紹介されています。
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酒々井小学校前を通過します。
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下り松三山碑です。
右の一番大きな石塔が「出羽三山碑」です。 -
「下り松」です。
江戸時代は細い道の両脇に樹木が生い茂り、昼でも薄暗い場所だったといいます。しばしば追剥ぎも出没したといいます。 -
築山への階段です。
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築山の東屋です。
資産家・木内常右衛門邸の築庭であった場所でした。晴れた日には筑波山をはじめ、富士山も見えたそうです。 -
明治天皇御駐蹕記念碑です。
明治天皇も、この素晴らしい眺望をご覧になるため、明治14年と明治15年の4回御休憩されています。 -
築山からの展望です。
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印旛沼中央干拓が広がります。
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小高い台地が平賀学園台です。
平賀学園台には、順天堂大学さくらキャンパスがあります。 -
成田スカイアクセス線と印旛沼です。
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安政2年(1855年)に発行された、「利根川図誌」には印旛沼の全景が紹介されています。
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安政5年(1858年)に発行された、「成田名所図会」には中川から眺望した印旛沼が紹介されています。
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中川の火の見櫓です。
京成酒々井駅入口交差点を、北側に細い道を入って道なりに進み、突き当りの三叉路にあります。 -
中川のお地蔵様です。
火の見櫓の下にあります。 -
火の見櫓三叉路の道標です。
左の道標には、「二王ミち」と刻まれています。右の道標には、正面に「此方酒々井停車場道」、右側面に「此方成田宗吾道」と刻まれており、明治44年(1911年)の建立です。 -
京成酒々井駅の東口です。
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駅の彫刻「ともだち」です。
京成酒々井駅東口には、5体の野外彫刻がありました。 -
トが崎三叉路の青年館側の道標です。
正面に「成田佐原道、宗吾安喰道」、右側面に「酒々井停車場、佐倉千葉道」、左側面に「酒々井停車場□□道」と刻まれています。 -
トが崎三叉路の道標です。
正面に「佐倉千葉道、成田佐原道」、右側面に「七栄三里塚道」と刻まれています。 -
国道51号線を渡り、次の交差点を右に入っていきます。
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上岩橋の成田山道標です。
正面に「成田山是より壱里□町」と刻まれており、岩田長兵衛が明治27年(1894年)に建立したものです。 -
「大阪」です。
長い上り坂が続きます。ここでも人夫が荷車を後押しする「おっぺす」が活躍していました。 -
上岩橋の馬頭観音堂です。
江戸時代に馬を使った、運送業者達によって祭られた観音さまです。 -
伊篠の宗吾道道標です。
正面に「宗吾道」と刻まれています。 -
伊篠の成田山護摩木山供養碑です。
成田山の護摩を焚くために材木を切り出した山を護摩木山といい、この山を寄付したことを記念して建てられたのがこの石碑です。 -
伊篠の石塔群です。
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石塔群の左から2つ目の道標です。
正面に「東 成田山、宗吾社道」、右側面に「西 酒々井、佐くら道」、左側面に「左 しすゐ、停車場道」と刻まれおり、明治32年(1899年)の建立です。 -
石塔群の右端の道標です。
正面に「成田道是より壱里余」と刻まれています。 -
伊篠の松並木跡です。
松並木が800mに渡って続いていたそうですが、昭和初期にほとんど枯れてしまい、現在は数本が残るのみです。 -
伊篠の成田山護摩木山供養塔です。
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国道51号線を渡り進むと伊篠のお地蔵様です。
赤い帽子に緑のTシャツが良く似合うお地蔵様です。地元の人に可愛がられているのが判ります。 -
国道51号線にまた出てきました。
ここからは暫く国道51号線を歩きます。 -
酒々井町と成田市の境です。
今日の散策はここで終わりです。
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