2020/08/15 - 2020/08/15
402位(同エリア747件中)
YAMAJIさん
- YAMAJIさんTOP
- 旅行記656冊
- クチコミ78件
- Q&A回答2件
- 1,945,845アクセス
- フォロワー49人
康正元年(1455)、前年から勃発した「亨徳の大乱」に、鎌倉幕府創設以来の名族・千葉氏も巻き込まれ、亥鼻城を本拠にしていた千葉宗家は、一族の馬加城主・馬加康胤、小弓城主・原胤房らに攻められ、亥鼻城は落城、千葉胤直・胤宣父子は千田荘の志摩城・多古城で自害し、千葉宗家は滅亡しました。馬加康胤は後に千葉氏を名乗ります、これが後期千葉氏の始まりです。千葉康胤の孫・千葉輔胤は文明年間に、亥鼻城に代わる本拠地として本佐倉の地に築城しました。文明三年(1471)年には、長尾景信によって古河城が陥落し、古河公方・足利成氏は、千葉氏を頼ってこの本佐倉城に落ち延びたと言われています。
その後、千葉氏の力は徐々に衰え、北条氏の介入により北条氏政の子・直重を当主に迎え入れるなど、事実上北条氏の勢力下に置かれます。かって家臣であった小弓城の原氏、小金城の高城氏らは、独立領主化して北条の直参となっていきました。天正十八年(1590)、小田原の役で千葉氏は改易され断絶、佐倉領は徳川譜代の内藤家長によって接収されました。慶長十五年(1610)に、土井利勝が入封し鹿島台に佐倉城を築城、元和元年(1616)の、一国一城令により本佐倉城は廃城となりました。
本佐倉城の規模は、東西約700m、南北約800m、面積約35万?あります。西と南に広大な外郭を伴い、さらに北に印旛浦の湊である浜宿湊、南から東に上宿・中宿・下宿など東西に走る古街道「下総道」沿いに形成されていた町場を取り込み、いわゆる物構えの構造をとっていました。物構えを含む本佐倉城の規模は、少なくとも東西1km、南北1.6kmに及んでいたと考えられています。
本佐倉城址は、標高33m、比高24mの台地上にあり、北は佐倉市大佐倉の水田が広がる低湿地、北東は酒々井町の水田や市街地が広がり、台地には東から南に谷津が入り込んで、東に突き出た半島状の地形となっています。西側は台地と繋がっていますが、大きな空堀が作られ、更にその西から南側には、外郭部の大きな空堀が取り巻いて、西側台地からの外敵の侵入を遮断しています。
本佐倉城址の内郭群は、Ⅰ郭で本丸に当たる城山、Ⅱ郭で二の丸に当たる奥の山、Ⅲ郭の倉跡、Ⅳ郭(無名郭)、Ⅴ郭の東山馬場、Ⅵ郭の東光寺ビョウ、Ⅶ郭のセッテイによって、構成されています。現在でも、郭や馬場、虎口、土塁、空堀など遺構が、ほぼ完全な姿で残っており、平成10年(1998)に「本佐倉城跡」として国の史跡に指定されています。千葉県の城郭では、唯一の指定です。平成29年(2017)には続日本100名城に選定されました。
2012/06/15 第1版
2020/08/15 第2版
PR
-
本佐倉城跡の案内図です。
-
京成大佐倉駅から散策スタートです。
続100名城のスタンプは、この京成大佐倉駅の改札の外に置いてあります。
京成成田線の線路沿いに、人だけが通れる細い道を、酒々井方向に向います。 -
続日本100名城、「NO121 本佐倉城」のスタンプです。
-
左手に勝胤寺があります。
勝胤寺は、曹洞宗で本尊は釈迦如来です。1528年に、本佐倉城主・千葉勝胤により創建されています。 -
勝胤寺の壇信徒会館・三法院です。
座禅会や写経会などが行われています。 -
勝胤寺の墓地奥にある、千葉家供養塔です。
本佐倉城主・千葉胤富などの菩提を弔った石塔があります。
佐倉市指定文化財です。 -
京成成田線の線路を渡って直進すると、右手に大佐倉のお地蔵様があります。
-
さらに直進すると、本佐倉城への案内道標があります。
-
道標に従って左折すると、正面に物見台跡の台地が見えてきます。
-
コスモスがもう咲いていました。
-
物見台跡です。
本佐倉城の北西に突き出ています。 -
物見台跡を通り過ぎると、東光寺ビョウの案内柱があります。
-
本佐倉城跡の、内郭の全体図と各郭の説明が記された、解説板があります。
東光寺ビョウの案内柱の下に、設置されていました。 -
京成成田線の近くから見た、東光寺ビョウの全景です。
北側の2つの物見台によって、守られている広大な空間です。 -
農道はヒメジオンが真っ盛りです。
-
東光寺ビョウです。
南奥虎口と東山虎口の、2つの通路が確認されています。 -
東光寺ビョウからの眺めです。
佐倉市大佐倉の水田地帯が広がっています。正面の土手のように見えるのが、京成成田線です。 -
南奥虎口の解説板です。
-
南奥虎口です。
ここを進むと、倉跡ーセッテイ空堀に出ます。木戸跡や柵列跡、通路跡が、発掘されています。 -
東山虎口の解説板です。
-
東山虎口です。
東山馬場、Ⅲ郭を経て、奥ノ山と城山へ通じる、重要な門があった所です。門は2つ設けられていました。 -
東山です。
本佐倉城の北東に突き出ています。この上にも物見台がありました。 -
東山の下を廻りこんで進むと、なだらかな斜面にでます。
本佐倉城の石柱です。ここから上ると、本佐倉城の主要郭が待っています。 -
城山崖下の菖蒲田です。
ちょうど見頃でした。 -
花菖蒲です。
-
花菖蒲です。
-
斜面を上がるとすぐ東山馬場の石柱です。
-
手前は駐車場として利用されています。
-
アジサイも見頃でした。
-
アジサイです。
-
東山馬場です。
本佐倉城の東側の谷津から、台地上に上がる傾斜地で、その名のとおり馬場であったようです。 -
馬場跡には多くの置き盾が建てられていました。
何重にも守りを固める陣形が見てとれます。 -
東山馬場南側の崖上が城山です。
-
東山虎口を、東山馬場から見たところです。
-
東山虎口脇の発掘用の通路を上ります。
-
本佐倉城の北側を一望できます。
-
佐倉市大佐倉の田園風景が広がります。
奥に広がる台地が、印西市の平賀学園台で、手前の線路が京成成田線です。左手の台地下が浜宿の集落です。 -
勝胤寺遠望。
本佐倉城主・千葉家ゆかりのお寺です。 -
浜宿遠望。
印旛沼の湊であった、浜宿湊のあった場所です。 -
印西市平賀学園台の、順天堂大学さくらキャンパス遠望。
-
東山馬場とⅣ郭を隔てる急斜面です。
-
Ⅳ郭虎口の解説板です。
-
Ⅳ郭虎口です。
門跡とそれに連なる塀跡が、発掘されています。 -
Ⅳ郭です。
郭の性格は現在検討中となっています。 -
大堀切の解説板です。
-
大堀切です。
城山と奥ノ山を分ける堀切りで、木戸跡が見っかっています。 -
Ⅳ郭南側の崖上が奥ノ山です。
-
崖に咲くムラサキカタバミです。
-
倉跡の石柱です。
-
倉跡です。
その名の通り倉庫群が、存在したと考えられています。 -
倉跡の上段は、ヘメロカリスのお花畑になっていました。
-
倉跡と奥ノ山を隔てる土塁です。
-
奥ノ山の石柱です。
-
奥ノ山の解説板です。
-
奥ノ山です。
妙見宮があった場所であり、儀式や儀礼のための郭です。妙見様は千葉氏の守護神でした。 -
妙見宮跡の石柱とテイカカズラです。
-
休憩所がありました。
-
奥ノ山から城山への通路です。
かなり急な坂道を下ります。 -
城山、奥ノ山、大堀切への分岐地点です。
-
大堀切、Ⅰ郭への通路です。
-
城山通路の解説板です。
-
城山通路です。
城山へ上るための唯一の道で、道幅は180cm、何度も蛇行して城山虎口へ向かいます。 -
城山虎口の解説板です。
-
城山虎口です。
左折れの坂虎口の形態をとっています。門と塀が連結し、さらに土塁とその上の塀によって、厳重に守りを固められていました。 -
城山の石柱です。
-
土塁にはホタルブクロが咲いていました。
-
城山門跡の解説板です。
-
木橋側です。
城山と奥ノ山は、木橋で結ばれていたようです。大堀切の上に、木橋が架かっていたことになります。 -
主殿側です。
-
主殿・会所の解説板です。
-
主殿・会所跡です。
大型の掘立柱建物跡が、2棟発掘されており、主殿と会所と推定されています。 -
土塁です。
城山をぐるりと取り囲んで土塁があります。
急傾斜の崖と土塁の2重防備です。 -
城山からの眺めです。
東山馬場下に繋がる、酒々井町の本佐倉と酒々井の谷津風景です。 -
建物群の解説板です。
-
櫓跡も発掘されています。
城山を下り、大堀切、Ⅳ郭、東山馬場に戻り、城山の下を廻りこんで、向根古谷城跡に向います。 -
水田を隔てた対岸から見た本佐倉城です。
左側が城山で右側が東山です。 -
向根古谷城のあった台地です。
-
酒々井町本佐倉の中池です。
かつては池があり弁天様が祀られていたという。本佐倉城と向根古谷城に挟まれた谷津です。 -
水田の近くの畑でそばが栽培されていました。
-
そばの花です。
-
根古谷の双体道祖神です。
水田を横切って、向根古谷城跡の台地下を西に回り込むとすぐです。
双体道祖神は、縁結び、夫婦和合、子孫繁栄の神様です。 -
根古谷石仏も隣に並んでいます。
-
さらに向根古谷城跡の台地下を南側へ回り込み、台地を上っていくと人家と畑があります。さらに奥に進むと、神明社です。ここは、向根古谷城内です。
-
向根古谷城跡です。
現在は畑で、周囲に土塁が残っていました。向根古谷城は、本佐倉城と連携した支城で、本佐倉城から谷津(中池)を挟んで対岸にありました。 -
向根古谷城の台地は、ハート型に北に突き出た地形で、南側は空堀で防備していました。
向根古谷城跡の台地を中池方向に戻り、下りきった左手奥の吉祥寺に向います。 -
吉祥寺です。
吉祥寺は、真言宗で本尊は阿弥陀如来です。鎌倉時代には、佐倉5ケ寺の一つに挙げられており、現在は佐倉八十八ケ所巡りの第23番札所です。 -
吉祥寺の六地蔵です。
-
吉祥寺の大師堂です。
-
アジサイが見事です。
中池を横切って、本佐倉城跡の台地下を西へ向うと、荒上へ上る薄暗く狭い道にでます。ここが水ノ手で、さらに進むと荒上にでます。 -
荒上です。
本佐倉城の西側の台地に荒上があり、家臣団の屋敷地が広がっていました。 -
荒上から京成大佐倉駅に向かう台地下の道路に、本佐倉城跡入口の道標があります。
-
タチアオイがお見送りです。
-
セッテイの散策は、日を改めて行いました。
セッテイへの通路です。物見台下の東光寺ビョウの案内柱を、南へ空堀に沿って入っていきます。 -
セッテイの道標です。
道標に従い北側の細い道を通り、セッテイ虎口へ向かいます。 -
セッテイ虎口の石柱です。
-
セッテイ虎口の解説板です。
-
セッテイ虎口です。
土塁と土塁に狭まれた、右折れの坂虎口です。木戸や柵、塀などが置かれていたと考えられています。 -
金明竹の小径の解説板です。
-
金明竹の小径です。
-
金明竹です。
真竹の一種で、節と節の間に緑と薄い黄色が、縞模様のように表れています。 -
倉跡ーセッテイ空堀の解説板です。
-
倉跡ーセッテイ空堀です。
倉跡とセッテイを分ける空堀(セッテイの東側)です。両曲輪との高低差が10m、堀底幅が9mと、大規模なものです。 -
セッテイの石柱です。
-
セッテイです。
その名から接待郭、または、この郭の形状(厳重な虎口、土塁なし、大規模な空堀)から人質郭とも考えられます。 -
セッテイの西の空堀です。
西側にも大規模な空堀が造られています。現在は鬱蒼とした竹林です。 -
本佐倉城の「御城印」です。
佐倉ふるさと広場売店「仏蘭花」で、1枚300円で購入しました。
利用規約に違反している投稿は、報告する事ができます。
コメントを投稿する前に
十分に確認の上、ご投稿ください。 コメントの内容は攻撃的ではなく、相手の気持ちに寄り添ったものになっていますか?
サイト共通ガイドライン(利用上のお願い)報道機関・マスメディアの方へ 画像提供などに関するお問い合わせは、専用のお問い合わせフォームからお願いいたします。
旅の計画・記録
マイルに交換できるフォートラベルポイントが貯まる
フォートラベルポイントって?
旅行記グループ 酒々井町散策
0
106