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康正元年(1455)、前年から勃発した「亨徳の大乱」に、鎌倉幕府創設以来の名族・千葉氏も巻き込まれ、亥鼻城を本拠にしていた千葉宗家は、一族の馬加城主・馬加康胤、小弓城主・原胤房らに攻められ、亥鼻城は落城、千葉胤直・胤宣父子は千田荘の志摩城・多古城で自害し、千葉宗家は滅亡しました。馬加康胤は後に千葉氏を名乗ります、これが後期千葉氏の始まりです。千葉康胤の孫・千葉輔胤は文明年間に、亥鼻城に代わる本拠地として本佐倉の地に築城しました。文明三年(1471)年には、長尾景信によって古河城が陥落し、古河公方・足利成氏は、千葉氏を頼ってこの本佐倉城に落ち延びたと言われています。<br /><br />その後、千葉氏の力は徐々に衰え、北条氏の介入により北条氏政の子・直重を当主に迎え入れるなど、事実上北条氏の勢力下に置かれます。かって家臣であった小弓城の原氏、小金城の高城氏らは、独立領主化して北条の直参となっていきました。天正十八年(1590)、小田原の役で千葉氏は改易され断絶、佐倉領は徳川譜代の内藤家長によって接収されました。慶長十五年(1610)に、土井利勝が入封し鹿島台に佐倉城を築城、元和元年(1616)の、一国一城令により本佐倉城は廃城となりました。<br /><br />本佐倉城の規模は、東西約700m、南北約800m、面積約35万?あります。西と南に広大な外郭を伴い、さらに北に印旛浦の湊である浜宿湊、南から東に上宿・中宿・下宿など東西に走る古街道「下総道」沿いに形成されていた町場を取り込み、いわゆる物構えの構造をとっていました。物構えを含む本佐倉城の規模は、少なくとも東西1km、南北1.6kmに及んでいたと考えられています。<br /><br />本佐倉城址は、標高33m、比高24mの台地上にあり、北は佐倉市大佐倉の水田が広がる低湿地、北東は酒々井町の水田や市街地が広がり、台地には東から南に谷津が入り込んで、東に突き出た半島状の地形となっています。西側は台地と繋がっていますが、大きな空堀が作られ、更にその西から南側には、外郭部の大きな空堀が取り巻いて、西側台地からの外敵の侵入を遮断しています。<br /><br />本佐倉城址の内郭群は、Ⅰ郭で本丸に当たる城山、Ⅱ郭で二の丸に当たる奥の山、Ⅲ郭の倉跡、Ⅳ郭(無名郭)、Ⅴ郭の東山馬場、Ⅵ郭の東光寺ビョウ、Ⅶ郭のセッテイによって、構成されています。現在でも、郭や馬場、虎口、土塁、空堀など遺構が、ほぼ完全な姿で残っており、平成10年(1998)に「本佐倉城跡」として国の史跡に指定されています。千葉県の城郭では、唯一の指定です。平成29年(2017)には続日本100名城に選定されました。<br /><br />2012/06/15 第1版<br />2020/08/15 第2版<br /><br /><br /><br /><br /><br />

酒々井町散策(1)・・本佐倉城に千葉氏の最後の栄華を訪ねます。

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2020/08/15 - 2020/08/15

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旅行記グループ 酒々井町散策

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YAMAJI

YAMAJIさん

康正元年(1455)、前年から勃発した「亨徳の大乱」に、鎌倉幕府創設以来の名族・千葉氏も巻き込まれ、亥鼻城を本拠にしていた千葉宗家は、一族の馬加城主・馬加康胤、小弓城主・原胤房らに攻められ、亥鼻城は落城、千葉胤直・胤宣父子は千田荘の志摩城・多古城で自害し、千葉宗家は滅亡しました。馬加康胤は後に千葉氏を名乗ります、これが後期千葉氏の始まりです。千葉康胤の孫・千葉輔胤は文明年間に、亥鼻城に代わる本拠地として本佐倉の地に築城しました。文明三年(1471)年には、長尾景信によって古河城が陥落し、古河公方・足利成氏は、千葉氏を頼ってこの本佐倉城に落ち延びたと言われています。

その後、千葉氏の力は徐々に衰え、北条氏の介入により北条氏政の子・直重を当主に迎え入れるなど、事実上北条氏の勢力下に置かれます。かって家臣であった小弓城の原氏、小金城の高城氏らは、独立領主化して北条の直参となっていきました。天正十八年(1590)、小田原の役で千葉氏は改易され断絶、佐倉領は徳川譜代の内藤家長によって接収されました。慶長十五年(1610)に、土井利勝が入封し鹿島台に佐倉城を築城、元和元年(1616)の、一国一城令により本佐倉城は廃城となりました。

本佐倉城の規模は、東西約700m、南北約800m、面積約35万?あります。西と南に広大な外郭を伴い、さらに北に印旛浦の湊である浜宿湊、南から東に上宿・中宿・下宿など東西に走る古街道「下総道」沿いに形成されていた町場を取り込み、いわゆる物構えの構造をとっていました。物構えを含む本佐倉城の規模は、少なくとも東西1km、南北1.6kmに及んでいたと考えられています。

本佐倉城址は、標高33m、比高24mの台地上にあり、北は佐倉市大佐倉の水田が広がる低湿地、北東は酒々井町の水田や市街地が広がり、台地には東から南に谷津が入り込んで、東に突き出た半島状の地形となっています。西側は台地と繋がっていますが、大きな空堀が作られ、更にその西から南側には、外郭部の大きな空堀が取り巻いて、西側台地からの外敵の侵入を遮断しています。

本佐倉城址の内郭群は、Ⅰ郭で本丸に当たる城山、Ⅱ郭で二の丸に当たる奥の山、Ⅲ郭の倉跡、Ⅳ郭(無名郭)、Ⅴ郭の東山馬場、Ⅵ郭の東光寺ビョウ、Ⅶ郭のセッテイによって、構成されています。現在でも、郭や馬場、虎口、土塁、空堀など遺構が、ほぼ完全な姿で残っており、平成10年(1998)に「本佐倉城跡」として国の史跡に指定されています。千葉県の城郭では、唯一の指定です。平成29年(2017)には続日本100名城に選定されました。

2012/06/15 第1版
2020/08/15 第2版





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  • 本佐倉城跡の案内図です。

    本佐倉城跡の案内図です。

  • 京成大佐倉駅から散策スタートです。<br />続100名城のスタンプは、この京成大佐倉駅の改札の外に置いてあります。<br />京成成田線の線路沿いに、人だけが通れる細い道を、酒々井方向に向います。

    京成大佐倉駅から散策スタートです。
    続100名城のスタンプは、この京成大佐倉駅の改札の外に置いてあります。
    京成成田線の線路沿いに、人だけが通れる細い道を、酒々井方向に向います。

  • 続日本100名城、「NO121 本佐倉城」のスタンプです。

    続日本100名城、「NO121 本佐倉城」のスタンプです。

  • 左手に勝胤寺があります。<br />勝胤寺は、曹洞宗で本尊は釈迦如来です。1528年に、本佐倉城主・千葉勝胤により創建されています。

    左手に勝胤寺があります。
    勝胤寺は、曹洞宗で本尊は釈迦如来です。1528年に、本佐倉城主・千葉勝胤により創建されています。

  • 勝胤寺の壇信徒会館・三法院です。<br />座禅会や写経会などが行われています。

    勝胤寺の壇信徒会館・三法院です。
    座禅会や写経会などが行われています。

  • 勝胤寺の墓地奥にある、千葉家供養塔です。<br />本佐倉城主・千葉胤富などの菩提を弔った石塔があります。<br />佐倉市指定文化財です。

    勝胤寺の墓地奥にある、千葉家供養塔です。
    本佐倉城主・千葉胤富などの菩提を弔った石塔があります。
    佐倉市指定文化財です。

  • 京成成田線の線路を渡って直進すると、右手に大佐倉のお地蔵様があります。

    京成成田線の線路を渡って直進すると、右手に大佐倉のお地蔵様があります。

  • さらに直進すると、本佐倉城への案内道標があります。

    さらに直進すると、本佐倉城への案内道標があります。

  • 道標に従って左折すると、正面に物見台跡の台地が見えてきます。

    道標に従って左折すると、正面に物見台跡の台地が見えてきます。

  • コスモスがもう咲いていました。

    コスモスがもう咲いていました。

  • 物見台跡です。<br />本佐倉城の北西に突き出ています。

    物見台跡です。
    本佐倉城の北西に突き出ています。

  • 物見台跡を通り過ぎると、東光寺ビョウの案内柱があります。

    物見台跡を通り過ぎると、東光寺ビョウの案内柱があります。

  • 本佐倉城跡の、内郭の全体図と各郭の説明が記された、解説板があります。<br />東光寺ビョウの案内柱の下に、設置されていました。

    本佐倉城跡の、内郭の全体図と各郭の説明が記された、解説板があります。
    東光寺ビョウの案内柱の下に、設置されていました。

  • 京成成田線の近くから見た、東光寺ビョウの全景です。<br />北側の2つの物見台によって、守られている広大な空間です。

    京成成田線の近くから見た、東光寺ビョウの全景です。
    北側の2つの物見台によって、守られている広大な空間です。

  • 農道はヒメジオンが真っ盛りです。

    農道はヒメジオンが真っ盛りです。

  • 東光寺ビョウです。<br />南奥虎口と東山虎口の、2つの通路が確認されています。

    東光寺ビョウです。
    南奥虎口と東山虎口の、2つの通路が確認されています。

  • 東光寺ビョウからの眺めです。<br />佐倉市大佐倉の水田地帯が広がっています。正面の土手のように見えるのが、京成成田線です。

    東光寺ビョウからの眺めです。
    佐倉市大佐倉の水田地帯が広がっています。正面の土手のように見えるのが、京成成田線です。

  • 南奥虎口の解説板です。

    南奥虎口の解説板です。

  • 南奥虎口です。<br />ここを進むと、倉跡ーセッテイ空堀に出ます。木戸跡や柵列跡、通路跡が、発掘されています。

    南奥虎口です。
    ここを進むと、倉跡ーセッテイ空堀に出ます。木戸跡や柵列跡、通路跡が、発掘されています。

  • 東山虎口の解説板です。

    東山虎口の解説板です。

  • 東山虎口です。<br />東山馬場、Ⅲ郭を経て、奥ノ山と城山へ通じる、重要な門があった所です。門は2つ設けられていました。

    東山虎口です。
    東山馬場、Ⅲ郭を経て、奥ノ山と城山へ通じる、重要な門があった所です。門は2つ設けられていました。

  • 東山です。<br />本佐倉城の北東に突き出ています。この上にも物見台がありました。

    東山です。
    本佐倉城の北東に突き出ています。この上にも物見台がありました。

  • 東山の下を廻りこんで進むと、なだらかな斜面にでます。<br />本佐倉城の石柱です。ここから上ると、本佐倉城の主要郭が待っています。

    東山の下を廻りこんで進むと、なだらかな斜面にでます。
    本佐倉城の石柱です。ここから上ると、本佐倉城の主要郭が待っています。

  • 城山崖下の菖蒲田です。<br />ちょうど見頃でした。

    城山崖下の菖蒲田です。
    ちょうど見頃でした。

  • 花菖蒲です。

    花菖蒲です。

  • 花菖蒲です。

    花菖蒲です。

  • 斜面を上がるとすぐ東山馬場の石柱です。

    斜面を上がるとすぐ東山馬場の石柱です。

  • 手前は駐車場として利用されています。

    手前は駐車場として利用されています。

  • アジサイも見頃でした。

    アジサイも見頃でした。

  • アジサイです。

    アジサイです。

  • 東山馬場です。<br />本佐倉城の東側の谷津から、台地上に上がる傾斜地で、その名のとおり馬場であったようです。

    東山馬場です。
    本佐倉城の東側の谷津から、台地上に上がる傾斜地で、その名のとおり馬場であったようです。

  • 馬場跡には多くの置き盾が建てられていました。<br />何重にも守りを固める陣形が見てとれます。

    馬場跡には多くの置き盾が建てられていました。
    何重にも守りを固める陣形が見てとれます。

  • 東山馬場南側の崖上が城山です。

    東山馬場南側の崖上が城山です。

  • 東山虎口を、東山馬場から見たところです。

    東山虎口を、東山馬場から見たところです。

  • 東山虎口脇の発掘用の通路を上ります。

    東山虎口脇の発掘用の通路を上ります。

  • 本佐倉城の北側を一望できます。

    本佐倉城の北側を一望できます。

  • 佐倉市大佐倉の田園風景が広がります。<br />奥に広がる台地が、印西市の平賀学園台で、手前の線路が京成成田線です。左手の台地下が浜宿の集落です。

    佐倉市大佐倉の田園風景が広がります。
    奥に広がる台地が、印西市の平賀学園台で、手前の線路が京成成田線です。左手の台地下が浜宿の集落です。

  • 勝胤寺遠望。<br />本佐倉城主・千葉家ゆかりのお寺です。

    勝胤寺遠望。
    本佐倉城主・千葉家ゆかりのお寺です。

  • 浜宿遠望。<br />印旛沼の湊であった、浜宿湊のあった場所です。

    浜宿遠望。
    印旛沼の湊であった、浜宿湊のあった場所です。

  • 印西市平賀学園台の、順天堂大学さくらキャンパス遠望。

    印西市平賀学園台の、順天堂大学さくらキャンパス遠望。

  • 東山馬場とⅣ郭を隔てる急斜面です。

    東山馬場とⅣ郭を隔てる急斜面です。

  • Ⅳ郭虎口の解説板です。

    Ⅳ郭虎口の解説板です。

  • Ⅳ郭虎口です。<br />門跡とそれに連なる塀跡が、発掘されています。

    Ⅳ郭虎口です。
    門跡とそれに連なる塀跡が、発掘されています。

  • Ⅳ郭です。<br />郭の性格は現在検討中となっています。

    Ⅳ郭です。
    郭の性格は現在検討中となっています。

  • 大堀切の解説板です。

    大堀切の解説板です。

  • 大堀切です。<br />城山と奥ノ山を分ける堀切りで、木戸跡が見っかっています。

    大堀切です。
    城山と奥ノ山を分ける堀切りで、木戸跡が見っかっています。

  • Ⅳ郭南側の崖上が奥ノ山です。

    Ⅳ郭南側の崖上が奥ノ山です。

  • 崖に咲くムラサキカタバミです。

    崖に咲くムラサキカタバミです。

  • 倉跡の石柱です。

    倉跡の石柱です。

  • 倉跡です。<br />その名の通り倉庫群が、存在したと考えられています。

    倉跡です。
    その名の通り倉庫群が、存在したと考えられています。

  • 倉跡の上段は、ヘメロカリスのお花畑になっていました。

    倉跡の上段は、ヘメロカリスのお花畑になっていました。

  • 倉跡と奥ノ山を隔てる土塁です。

    倉跡と奥ノ山を隔てる土塁です。

  • 奥ノ山の石柱です。

    奥ノ山の石柱です。

  • 奥ノ山の解説板です。

    奥ノ山の解説板です。

  • 奥ノ山です。<br />妙見宮があった場所であり、儀式や儀礼のための郭です。妙見様は千葉氏の守護神でした。

    奥ノ山です。
    妙見宮があった場所であり、儀式や儀礼のための郭です。妙見様は千葉氏の守護神でした。

  • 妙見宮跡の石柱とテイカカズラです。

    妙見宮跡の石柱とテイカカズラです。

  • 休憩所がありました。

    休憩所がありました。

  • 奥ノ山から城山への通路です。<br />かなり急な坂道を下ります。

    奥ノ山から城山への通路です。
    かなり急な坂道を下ります。

  • 城山、奥ノ山、大堀切への分岐地点です。

    城山、奥ノ山、大堀切への分岐地点です。

  • 大堀切、Ⅰ郭への通路です。<br />

    大堀切、Ⅰ郭への通路です。

  • 城山通路の解説板です。

    城山通路の解説板です。

  • 城山通路です。<br />城山へ上るための唯一の道で、道幅は180cm、何度も蛇行して城山虎口へ向かいます。

    城山通路です。
    城山へ上るための唯一の道で、道幅は180cm、何度も蛇行して城山虎口へ向かいます。

  • 城山虎口の解説板です。

    城山虎口の解説板です。

  • 城山虎口です。<br />左折れの坂虎口の形態をとっています。門と塀が連結し、さらに土塁とその上の塀によって、厳重に守りを固められていました。

    城山虎口です。
    左折れの坂虎口の形態をとっています。門と塀が連結し、さらに土塁とその上の塀によって、厳重に守りを固められていました。

  • 城山の石柱です。

    城山の石柱です。

  • 土塁にはホタルブクロが咲いていました。

    土塁にはホタルブクロが咲いていました。

  • 城山門跡の解説板です。

    城山門跡の解説板です。

  • 木橋側です。<br />城山と奥ノ山は、木橋で結ばれていたようです。大堀切の上に、木橋が架かっていたことになります。<br />

    木橋側です。
    城山と奥ノ山は、木橋で結ばれていたようです。大堀切の上に、木橋が架かっていたことになります。

  • 主殿側です。<br />

    主殿側です。

  • 主殿・会所の解説板です。

    主殿・会所の解説板です。

  • 主殿・会所跡です。<br />大型の掘立柱建物跡が、2棟発掘されており、主殿と会所と推定されています。

    主殿・会所跡です。
    大型の掘立柱建物跡が、2棟発掘されており、主殿と会所と推定されています。

  • 土塁です。<br />城山をぐるりと取り囲んで土塁があります。<br />急傾斜の崖と土塁の2重防備です。<br />

    土塁です。
    城山をぐるりと取り囲んで土塁があります。
    急傾斜の崖と土塁の2重防備です。

  • 城山からの眺めです。<br />東山馬場下に繋がる、酒々井町の本佐倉と酒々井の谷津風景です。

    城山からの眺めです。
    東山馬場下に繋がる、酒々井町の本佐倉と酒々井の谷津風景です。

  • 建物群の解説板です。

    建物群の解説板です。

  • 櫓跡も発掘されています。<br />城山を下り、大堀切、Ⅳ郭、東山馬場に戻り、城山の下を廻りこんで、向根古谷城跡に向います。

    櫓跡も発掘されています。
    城山を下り、大堀切、Ⅳ郭、東山馬場に戻り、城山の下を廻りこんで、向根古谷城跡に向います。

  • 水田を隔てた対岸から見た本佐倉城です。<br />左側が城山で右側が東山です。<br />

    水田を隔てた対岸から見た本佐倉城です。
    左側が城山で右側が東山です。

  • 向根古谷城のあった台地です。<br />

    向根古谷城のあった台地です。

  • 酒々井町本佐倉の中池です。<br />かつては池があり弁天様が祀られていたという。本佐倉城と向根古谷城に挟まれた谷津です。

    酒々井町本佐倉の中池です。
    かつては池があり弁天様が祀られていたという。本佐倉城と向根古谷城に挟まれた谷津です。

  • 水田の近くの畑でそばが栽培されていました。

    水田の近くの畑でそばが栽培されていました。

  • そばの花です。

    そばの花です。

  • 根古谷の双体道祖神です。<br />水田を横切って、向根古谷城跡の台地下を西に回り込むとすぐです。<br />双体道祖神は、縁結び、夫婦和合、子孫繁栄の神様です。<br />

    根古谷の双体道祖神です。
    水田を横切って、向根古谷城跡の台地下を西に回り込むとすぐです。
    双体道祖神は、縁結び、夫婦和合、子孫繁栄の神様です。

  • 根古谷石仏も隣に並んでいます。<br />

    根古谷石仏も隣に並んでいます。

  • さらに向根古谷城跡の台地下を南側へ回り込み、台地を上っていくと人家と畑があります。さらに奥に進むと、神明社です。ここは、向根古谷城内です。<br />

    さらに向根古谷城跡の台地下を南側へ回り込み、台地を上っていくと人家と畑があります。さらに奥に進むと、神明社です。ここは、向根古谷城内です。

  • 向根古谷城跡です。<br />現在は畑で、周囲に土塁が残っていました。向根古谷城は、本佐倉城と連携した支城で、本佐倉城から谷津(中池)を挟んで対岸にありました。

    向根古谷城跡です。
    現在は畑で、周囲に土塁が残っていました。向根古谷城は、本佐倉城と連携した支城で、本佐倉城から谷津(中池)を挟んで対岸にありました。

  • 向根古谷城の台地は、ハート型に北に突き出た地形で、南側は空堀で防備していました。<br />向根古谷城跡の台地を中池方向に戻り、下りきった左手奥の吉祥寺に向います。

    向根古谷城の台地は、ハート型に北に突き出た地形で、南側は空堀で防備していました。
    向根古谷城跡の台地を中池方向に戻り、下りきった左手奥の吉祥寺に向います。

  • 吉祥寺です。<br />吉祥寺は、真言宗で本尊は阿弥陀如来です。鎌倉時代には、佐倉5ケ寺の一つに挙げられており、現在は佐倉八十八ケ所巡りの第23番札所です。

    吉祥寺です。
    吉祥寺は、真言宗で本尊は阿弥陀如来です。鎌倉時代には、佐倉5ケ寺の一つに挙げられており、現在は佐倉八十八ケ所巡りの第23番札所です。

  • 吉祥寺の六地蔵です。

    吉祥寺の六地蔵です。

  • 吉祥寺の大師堂です。

    吉祥寺の大師堂です。

  • アジサイが見事です。<br />中池を横切って、本佐倉城跡の台地下を西へ向うと、荒上へ上る薄暗く狭い道にでます。ここが水ノ手で、さらに進むと荒上にでます。

    アジサイが見事です。
    中池を横切って、本佐倉城跡の台地下を西へ向うと、荒上へ上る薄暗く狭い道にでます。ここが水ノ手で、さらに進むと荒上にでます。

  • 荒上です。<br />本佐倉城の西側の台地に荒上があり、家臣団の屋敷地が広がっていました。

    荒上です。
    本佐倉城の西側の台地に荒上があり、家臣団の屋敷地が広がっていました。

  • 荒上から京成大佐倉駅に向かう台地下の道路に、本佐倉城跡入口の道標があります。

    荒上から京成大佐倉駅に向かう台地下の道路に、本佐倉城跡入口の道標があります。

  • タチアオイがお見送りです。

    タチアオイがお見送りです。

  • セッテイの散策は、日を改めて行いました。<br />セッテイへの通路です。物見台下の東光寺ビョウの案内柱を、南へ空堀に沿って入っていきます。

    セッテイの散策は、日を改めて行いました。
    セッテイへの通路です。物見台下の東光寺ビョウの案内柱を、南へ空堀に沿って入っていきます。

  • セッテイの道標です。<br />道標に従い北側の細い道を通り、セッテイ虎口へ向かいます。

    セッテイの道標です。
    道標に従い北側の細い道を通り、セッテイ虎口へ向かいます。

  • セッテイ虎口の石柱です。

    セッテイ虎口の石柱です。

  • セッテイ虎口の解説板です。

    セッテイ虎口の解説板です。

  • セッテイ虎口です。<br />土塁と土塁に狭まれた、右折れの坂虎口です。木戸や柵、塀などが置かれていたと考えられています。

    セッテイ虎口です。
    土塁と土塁に狭まれた、右折れの坂虎口です。木戸や柵、塀などが置かれていたと考えられています。

  • 金明竹の小径の解説板です。

    金明竹の小径の解説板です。

  • 金明竹の小径です。

    金明竹の小径です。

  • 金明竹です。<br />真竹の一種で、節と節の間に緑と薄い黄色が、縞模様のように表れています。

    金明竹です。
    真竹の一種で、節と節の間に緑と薄い黄色が、縞模様のように表れています。

  • 倉跡ーセッテイ空堀の解説板です。

    倉跡ーセッテイ空堀の解説板です。

  • 倉跡ーセッテイ空堀です。<br />倉跡とセッテイを分ける空堀(セッテイの東側)です。両曲輪との高低差が10m、堀底幅が9mと、大規模なものです。

    倉跡ーセッテイ空堀です。
    倉跡とセッテイを分ける空堀(セッテイの東側)です。両曲輪との高低差が10m、堀底幅が9mと、大規模なものです。

  • セッテイの石柱です。

    セッテイの石柱です。

  • セッテイです。<br />その名から接待郭、または、この郭の形状(厳重な虎口、土塁なし、大規模な空堀)から人質郭とも考えられます。

    セッテイです。
    その名から接待郭、または、この郭の形状(厳重な虎口、土塁なし、大規模な空堀)から人質郭とも考えられます。

  • セッテイの西の空堀です。<br />西側にも大規模な空堀が造られています。現在は鬱蒼とした竹林です。

    セッテイの西の空堀です。
    西側にも大規模な空堀が造られています。現在は鬱蒼とした竹林です。

  • 本佐倉城の「御城印」です。<br />佐倉ふるさと広場売店「仏蘭花」で、1枚300円で購入しました。

    本佐倉城の「御城印」です。
    佐倉ふるさと広場売店「仏蘭花」で、1枚300円で購入しました。

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