2012/09/25 - 2012/09/25
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ソフィさん
2012年9月25日(火)
名古屋駅前には、新しいビルが建っていた。
新しいビルの外郭には曲線が目立ち、新鮮な印象は、この地の発展を想わせる。
プラハの「踊るビル」を思わせる、ダイナミックなものもある。
いま開発中の大阪・梅田北のビルは、これに比べれば躍動感に劣る。
多治見、中津川と、岐阜県の二駅に停まり、特急信濃9号は木曽路に入った。
若々しく銀色に光るススキの穂が、風に揺れながら秋の到来を告げている。
寝覚ノ床に代表される木曽川の渓谷は、昔の美しさを維持していた。
始めてこの線を通ったのは、何年ごろだったろうか?
若かったころ、蒸気機関車の煙と闘い、トンネルのたびに窓を開閉しながら愛でたこの景色の感動は、いまも胸深くに残っている。
木曽福島は、高齢のタクシードライバーがハンドルを握りながら唄ってくれた正調木曽節の、故郷愛を込めた朗々たる音調が、心の底に懐かしい余韻を留めている。
帰途の立ち寄りが楽しみだ。
鳥居峠のトンネルを挟んで、薮原、奈良井と、特急「しなの」は中山道の宿場沿いに走る。
宿場町の余韻を少しでも多く楽しもうと、窓外の景色に集中する。
塩尻は、名古屋からやって来た中央西線と、東京からやって来た中央東線の、合流点だ。
中央線は、関東と関西を結ぶ幹線鉄道として、工事が始められた。
海沿いの東海道は、外国艦隊から攻撃され易いと考えられたからだ。
しかし工事半ばから、幹線鉄道の重点が東海道に切り替えられる。
塩尻と聞けば、塩嶺トンネルを思い出す。
1966年、私が国鉄建設局線増課総括補佐に着任直後、初めて手掛けたプロジェクトだったからである。
地元としては線路の変更による利害の対立が厳しく、調停には県知事を煩わせた。
決定後も用地買収がうまく進まず、開業したのは1983年だった。
このトンネルのお陰で、東京から松本までの距離は16キロも短縮された。
19世紀末に計画された中央線は、諏訪湖畔から松本と反対方向の南に走り、辰野を経由していた。
片勾配で長さ6キロものトンネルは、当時の技術レベルを越えており、その上静岡・糸魚川構造線なる大断層を横切っている。
また完成しても、連続急勾配トンネル内の蒸気機関車運転は、機関士の人力を越えていた。
これが数十年前では迂回ルートによらざるを得なかった理由だった。
(2012.10.14)
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