2009/06/26 - 2009/06/26
976位(同エリア1211件中)
ムッシュさん
塩尻宿 第三十宿(日本橋より231km)
中仙道と松本道、三河道(三州街道)の分岐点。明治に入り、鉄道の開通で交通の要衝となった。それに伴って市の中心部が桔梗ヶ原と呼ばれてた大門地区に移ってしまったため、現在は幾分寂しい町並みである。
- 旅行の満足度
- 4.5
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塩尻峠に向って上り路の中腹で、東方を見下ろすと、
遠くに諏訪湖が望めます。 -
著作権フリー作品集「木曽街道六十九次」からの画像を使用しています
【木曽街道 塩尻嶺(とうげ) 諏訪ノ湖眺望 英泉画】
塩尻峠は中央分水嶺になっています、岡谷側に降った雨は天竜川となって太平洋に注ぎ、塩尻側に降った雨は犀川となり、千曲川、信濃川と名を変え日本海に注いでいます。
厳冬の晴れた日に峠へ登る途中から、諏訪湖越しの富士山を描いている。 -
【明治天皇御野立所碑】(塩尻峠)
明治十三年(1880)山梨、三重、京都方面巡行の際、ここで野立を行いました。 -
句碑「大帝の 龍駕(りょうが)の峠 さくらうう」があります。
この峠(標高1055m)は太平洋側の表塩と日本海側の裏塩の接点に当たるところから、塩の終着地(尻)を意味する塩尻が峠名になりました、峠は塩尻市と岡谷市の境です。
「塩尻峠」
塩尻峠
標高1000mちょっと,太平洋側と日本海側の分水嶺をなし,歴史上重要な境界線であった。戦国期には幾度もの戦いが行われている。天文17年(1548)武田晴信と小笠原長時の塩尻峠の戦いが最大の合戦と云われている。峠から西方の塩尻宿・桔梗ケ原一帯で戦いが行われ,この先峠下の柿沢に戦死者を弔った首塚・胴塚がある。 -
【東山の一里塚】があり、南塚を残しています。
元和2年(1616年)塩尻峠が開通し、中仙道が牛首峠経由から塩尻峠経由に変更され際に築造された一里塚跡です。
江戸日本橋より数えて57里目です -
東山一里塚
「東山一里塚は東山地籍(犬飼清水と茶屋本陣の中間)にあり古図には道を挟んで2基描かれているが、南側のみが現存している。この塚の大きさは幅12m、奥行13m、高さ3mの塚である。
元和2年(1616)に塩尻峠が開通したことから、中山道は牛首峠経由(桜沢口-牛首峠-小野-三沢峠-諏訪)から塩尻峠経由(本山-洗馬-塩尻-下諏訪)に変更され、この一里塚もその頃つくられたものと推定される。
市内には東山、塩尻町、平出、牧野、日出塩の五か所に築かれたが、現在はここと平出の一里塚が形を残しているだけである。」 -
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男女双体道祖神が祀られています。
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【雀おどり(雀返し)】を屋根に掲げた本棟造りの旧家
堀内家は江戸時代、旧堀ノ内村の名主を勤めた豪農である。
建築の年代については19世紀初頃、下西条の川上家(当時は造酒家)からの家を移築したとの言い伝えがある。また、構造手法から18世紀後半(約200年前)の建築とみられる。
建物は南に面し桁行、梁間とも約十間で、切妻造、板葺になり妻を正面に見せる。現状における間取りの大略は表、中、裏の三列に区切り表の列は上手(東)から二室続きの座敷(「かみざしき」「げんかん」)と土間、中列は三間に四間の「おえ」と土間、裏側は「うらざしき」他数室からなる。数次にわたる改築の結果、当初の姿が不明なところも多いが、「おえ」まわりは縦横にかかる梁組をあらわし軸部をよく残している。
表側の座敷と正面の外観は明治時代の改造になる。構造は梁を格子状に組む一般的な手法によっており桁行の梁が梁桁梁の上に来る。
堀内家住宅はいわゆる「本棟造」のなかで、大型上質の家であり改造の結果であるが、正面の外観意匠は力強くこの系統民家の一頂点を示すものとして価値が高い。 -
雀おどり(雀返し)を屋根に掲げた豪壮な本棟造りの旧家があります。
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堀内家住宅(国宝重要文化財)堀内家は文化年間(1804~18年)に
建てられたものである
18世紀後半の民家。
棟端飾りは「雀おどり」とも呼ばれてる。 -
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三州街道の追分があります、伊那街道とも呼ばれ、岡崎に通じ、三河と信濃を結んでいました。
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松本藩塩尻口留番所跡標石があります、塩、米、材木、女人等を取り締まった。
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仲町交差点を横断すると、右手に是より中山道塩尻宿標石があります、ここが塩尻宿の江戸(東口)です、塩尻宿に到着です!
塩尻宿は三州街道(伊那街道)、五千石街道(糸魚川街道)、松本街道(善光寺西街道)の要衝で、東に塩尻峠を控え、大いに賑わい、旅籠数は中山道2番の多さでした。
天保14年(1843年)の頃、塩尻宿の宿内家数は166軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠75軒で、宿内人口は794人でした。
文政11年(1828年)と明治15年(1882年)の二度の大火で宿並は灰燼に帰してしまいました。 -
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今回、宿泊したホテル。
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平出一里塚(フォトは南塚)。
街道の南北に塚が残る。江戸日本橋より数えて59里目です。
左右とも現存している貴重な一里塚,塩尻市内には3っの街道に沿って8か所の一里塚があるが両塚とも健在なのはここだけ。 松は,武田軍軍師山本勘助が,赤子を拾った伝説にちなみ「勘助子育ての松」と呼ばれている。宝暦6年(1756)頃にはこの付近に茶屋2軒があったという。 -
【平出の一里塚】
江戸時代当塩尻市内は、三つの街道に沿って、八ヶ所に一里塚が築かれていた。が、現在、両塚を残すのは、この平出のみとなってしまった。
この一里塚は日本橋の基点により、五十九番目のもの、また、宝暦六年(1756)頃には、この付近に茶屋二軒のあることが分かっている。 -
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【平出遺跡】
日本三大遺跡に数えられる大きな遺跡。
縄文時代から平安時代の集落跡が見られる複合遺跡。古墳時代の約1300年前の竪穴式住居等が復元されています。
「平出の泉に育まれた平出遺跡は、縄文時代から平安時代にかけての大集落です。
昭和25年から現在までの発掘調査により、縄文時代では中期60、後期2、古代では古墳時代79、平安時代28、時期不明30の計199軒の住居が発見され緑釉水瓶(りょくゆうすいびょう)をはじめとする土器・石器などが大量に出土しました。
これらの発掘成果は、当地における縄文時代から平安時代までの村落のあり方を解明するうえで極めて重要な遺跡であることから昭和27年に国史跡に指定されました。
現在、塩尻市では史跡一帯を「縄文の村」・「古代農村」の復元や体験地区、ガイダンス地区を設け、史跡公園として整備するための事業に着手しています。
出土品は平出博物館(徒歩5分、車2分)に展示しています。博物館の休館日:月曜・祝日の翌日」 -
「桔梗ケ原」に復元された竪穴住居が何棟も見える。
縄文時代から弥生時代・平安時代にかけての大集落跡(175戸)である。
遺跡は江戸時代から土器や石器が拾える場所として知られ,本確的な発掘調査は,昭和25年から始まり,中でも古墳~平安時代の豊富な出土品は,当時の生活復元を可能にするものとして貴重なものであると評価され昭和27年国史跡に指定された。 -
広範囲の発掘で、175戸もの竪穴住居跡が発見された。
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中央本線の踏切
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洗馬宿の中山道と善光寺道の追分(わかされ)道標
中仙道と北国脇往還との分岐点。
表面に”右中仙道・左北国往還善光寺道”と書かれてる。 -
【分去れ(追分)】
この分岐点には分去れ道標「右中山道 左北国往還善光寺道」があります、元は分去れ常夜燈の所にあったものです、他に徳本名号碑、庚申塔、道祖神等があります。 -
【JR中央本線 洗馬駅 】 こちらで休憩です。
明治42年(1909)の開駅以来の佇まいを今も残す木造駅舎。 -
JR中央本線 洗馬駅のホーム
ちょっと立ち寄って見ました。 -
洗馬宿本陣跡
「本陣の庭だった跡に停車場が建ち・・・」(龍之介「庭」)
本陣職は百瀬(ももせ)家が勤めました。
本陣及び脇本陣の庭園は善光寺道名所図会の中で「中山道に稀な」と紹介された名園でしたが、明治42年(1909年)鉄道の開通によって洗馬駅の敷地となり、昭和7年(1932年)の洗馬大火で遺構は焼失した。
天保14年(1843年)の頃、洗馬宿の宿内家数は163軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠29軒で、宿内人口は661人でした。 -
公園前には中山道標柱と洗馬宿碑があります、
ここが洗馬宿の京(西)口で高札場跡です、御判形(おはんぎょう)と呼ばれました、枡形を意味しています。 -
著作権フリー作品集「木曽街道六十九次」からの画像を使用しています
【木曽海道六拾九次之内 洗馬 広重画】
広重は洗馬として、宿の西を流れる奈良井川の夜景を邂逅の清水辺りから描きました。
川面には満月の明かりを頼りに進む、柴舟と筏を描き、 絵の中央には洗馬の宿並みが描かれています。
余りにも叙情的に描かれたこの絵は、広重の最高傑作といわれています。
次へ 中仙道NO20. 洗馬駅→本山宿→贄川宿へ
https://ssl.4travel.jp/tcs/t/editalbum/edit/10354903/
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