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JR平塚駅北口を北進し、旧東海道を西に歩きますと江戸見附を初めとする平塚宿跡が西に沿って確認できます。<br /><br />近世の平塚宿は慶長6年(1601)、徳川家康による東海道整備と共に成立した宿で、元和9年(1623)に川崎宿が成立しますと、日本橋から七番目の宿となります。<br /><br />神奈川県内には東海道の宿は9宿(川崎・神奈川・保土ヶ谷・戸塚・藤沢・平塚・大磯・小田原・箱根)がありましたが、その内平塚宿は8番目の規模で小さな宿でした。また次の大磯まで約3Kmしかなく、東海道の宿場間を見ても3番目の短さであり、そのため上方からの旅行者は小田原や戸塚・保土ヶ谷に投泊しますが、平塚宿はもっぱら休憩地としての利用が多かったようです。<br /><br />このように平塚宿は宿場としての位置付けが軽いわけですが、近隣に中原という村があり、この地に徳川家康が鷹狩に頻繁に訪れることがあったそうです。家康が宿泊するため「中原御殿」が設置されたことにより大磯が直近にも拘わらず平塚が宿にとして採用されたのは中継基地として必要であったと思われます。<br /><br /><br />2022年7月24日追記<br /><br />街道に面した通りに張り出されている説明板は下記の通りです。<br /><br />『 平塚宿の江戸見附<br /><br />平塚宿と加宿平塚宿との間には、かつて松並木があり、その松並木の西端に平塚宿江戸見附がありました。<br /><br />本来、見附は女媧に入る門を示す「城門」のことをいい、城下に入る人々を監視する見張り番の役目を持ちました。したがって、宿見附も宿の出入り口を意味すると同時に、宿を守る防衛施設として設置されたことがうかがえます。又、見附は必ずしも宿境(宿境は傍示杭で示す)を意味するものではなく、見附から正式に宿内であることを示す施設でした。さらに、宿と宿の間の距離は、この見附を基準としました。<br /><br />平塚宿の見附は二箇所、一般に江戸側の出入り口にあるものを江戸見附、京側にあるものを上方見附と呼びました。この二箇所の見附の間が平塚宿内で、町並みは東西に十四町六間(約1・5キロメートル)、東から十八軒町・二十四軒町・東仲町・西仲町・柳町も五町で構成され、その中に本陣、脇本陣、東・西の問屋場二箇所、高札場、旅籠などがあり、江戸時代を通して二百軒を超える街並みが続きました。<br /><br />一般的に見附は、東海道に対して直角に位置するように設置され、土台部は石垣で固め、土盛りされた頂上部は竹矢来が竹矢来が組まれていました。<br /><br />平塚宿江戸見附は、長さ約3・6メートル、幅約1・5メートル、高さやく1・6メートルの石垣を台形状に積み頂部を土盛りし、東海道に対して直角に対をなし、両側の見附は東西に少しずれた形で設置されていました。<br /><br />   平成13年(2001年)10月<br />                    平 塚 市 』<br />

相模平塚 家康江戸入府後整備された東海道で宿場間隔が短いにも関わらず鷹狩りで宿泊する中原御殿への中継地点として成立した『平塚宿』周辺散歩

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2012/04/19 - 2012/04/19

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滝山氏照

滝山氏照さん

JR平塚駅北口を北進し、旧東海道を西に歩きますと江戸見附を初めとする平塚宿跡が西に沿って確認できます。

近世の平塚宿は慶長6年(1601)、徳川家康による東海道整備と共に成立した宿で、元和9年(1623)に川崎宿が成立しますと、日本橋から七番目の宿となります。

神奈川県内には東海道の宿は9宿(川崎・神奈川・保土ヶ谷・戸塚・藤沢・平塚・大磯・小田原・箱根)がありましたが、その内平塚宿は8番目の規模で小さな宿でした。また次の大磯まで約3Kmしかなく、東海道の宿場間を見ても3番目の短さであり、そのため上方からの旅行者は小田原や戸塚・保土ヶ谷に投泊しますが、平塚宿はもっぱら休憩地としての利用が多かったようです。

このように平塚宿は宿場としての位置付けが軽いわけですが、近隣に中原という村があり、この地に徳川家康が鷹狩に頻繁に訪れることがあったそうです。家康が宿泊するため「中原御殿」が設置されたことにより大磯が直近にも拘わらず平塚が宿にとして採用されたのは中継基地として必要であったと思われます。


2022年7月24日追記

街道に面した通りに張り出されている説明板は下記の通りです。

『 平塚宿の江戸見附

平塚宿と加宿平塚宿との間には、かつて松並木があり、その松並木の西端に平塚宿江戸見附がありました。

本来、見附は女媧に入る門を示す「城門」のことをいい、城下に入る人々を監視する見張り番の役目を持ちました。したがって、宿見附も宿の出入り口を意味すると同時に、宿を守る防衛施設として設置されたことがうかがえます。又、見附は必ずしも宿境(宿境は傍示杭で示す)を意味するものではなく、見附から正式に宿内であることを示す施設でした。さらに、宿と宿の間の距離は、この見附を基準としました。

平塚宿の見附は二箇所、一般に江戸側の出入り口にあるものを江戸見附、京側にあるものを上方見附と呼びました。この二箇所の見附の間が平塚宿内で、町並みは東西に十四町六間(約1・5キロメートル)、東から十八軒町・二十四軒町・東仲町・西仲町・柳町も五町で構成され、その中に本陣、脇本陣、東・西の問屋場二箇所、高札場、旅籠などがあり、江戸時代を通して二百軒を超える街並みが続きました。

一般的に見附は、東海道に対して直角に位置するように設置され、土台部は石垣で固め、土盛りされた頂上部は竹矢来が竹矢来が組まれていました。

平塚宿江戸見附は、長さ約3・6メートル、幅約1・5メートル、高さやく1・6メートルの石垣を台形状に積み頂部を土盛りし、東海道に対して直角に対をなし、両側の見附は東西に少しずれた形で設置されていました。

   平成13年(2001年)10月
                    平 塚 市 』

交通手段
JRローカル 徒歩
  • 平塚宿(旧東海道)史跡絵地図

    平塚宿(旧東海道)史跡絵地図

  • 平塚宿の江戸見附<br /><br />本来「見附」は城下に入る門を示す城門で、城下を出入する人々を監視する見張り場の役目がありました。同様に宿見附についても宿の出入口を意味すると同時に宿を守る防御施設として設置されていました。<br /><br />平塚の見附は2箇所で、江戸側の出入口を江戸見附、京都側の出入口を上方見附と呼んでいます。この2箇所の見附の間が平塚宿で街並みは約1.5Kmに及んでいます。<br /><br />

    平塚宿の江戸見附

    本来「見附」は城下に入る門を示す城門で、城下を出入する人々を監視する見張り場の役目がありました。同様に宿見附についても宿の出入口を意味すると同時に宿を守る防御施設として設置されていました。

    平塚の見附は2箇所で、江戸側の出入口を江戸見附、京都側の出入口を上方見附と呼んでいます。この2箇所の見附の間が平塚宿で街並みは約1.5Kmに及んでいます。

  • 平塚宿江戸見附<br /><br />一般的に見附は、東海道に対し直角に位置するように設置され、土台部は石垣で固め、土盛された頂上部は竹矢来が組まれています。<br />平塚宿江戸見附は長さ3.6m、幅約1.5m、高さ1.6mの石垣を台形状に積み頂部を土盛し、東海道に対して直角に対をなし、両側の見附は東西に少しずれた形で設置されています。

    平塚宿江戸見附

    一般的に見附は、東海道に対し直角に位置するように設置され、土台部は石垣で固め、土盛された頂上部は竹矢来が組まれています。
    平塚宿江戸見附は長さ3.6m、幅約1.5m、高さ1.6mの石垣を台形状に積み頂部を土盛し、東海道に対して直角に対をなし、両側の見附は東西に少しずれた形で設置されています。

  • 平塚宿脇本陣跡<br /><br />江戸時代、それぞれの宿場には幕府公用人や大名が泊まる宿舎として本陣が設けられました。その本陣の補助的な役割をしたのが脇本陣です。<br />脇本陣には、その宿場の中で本陣に次ぐ有力者が経営していましたが屋敷地や建物の大きさは本陣には及びませんでした。

    平塚宿脇本陣跡

    江戸時代、それぞれの宿場には幕府公用人や大名が泊まる宿舎として本陣が設けられました。その本陣の補助的な役割をしたのが脇本陣です。
    脇本陣には、その宿場の中で本陣に次ぐ有力者が経営していましたが屋敷地や建物の大きさは本陣には及びませんでした。

  • 平塚宿高札場跡<br /><br />高札とはキリシタン禁制や徒党の禁止など幕府や領主の法令や通達を書き記した木の札です。その高札を掲示した場所が高札場で各宿場や村々に設置されていました。<br />通常土台部分を石垣で固め、その上を柵で囲み高札が掲げられる部分には屋根が付いていました。

    平塚宿高札場跡

    高札とはキリシタン禁制や徒党の禁止など幕府や領主の法令や通達を書き記した木の札です。その高札を掲示した場所が高札場で各宿場や村々に設置されていました。
    通常土台部分を石垣で固め、その上を柵で囲み高札が掲げられる部分には屋根が付いていました。

  • 平塚本陣旧蹟碑

    平塚本陣旧蹟碑

  • 平塚宿本陣旧蹟<br /><br />平塚宿は慶長6年(1601)に成立、幕府公用人や諸大名が宿泊する宿を本陣といい、平塚宿の本陣は東仲町北側のこの地にありました。(説明板)

    平塚宿本陣旧蹟

    平塚宿は慶長6年(1601)に成立、幕府公用人や諸大名が宿泊する宿を本陣といい、平塚宿の本陣は東仲町北側のこの地にありました。(説明板)

  • 平塚宿東組問屋場の蹟<br /><br />宿場は旅人が休憩をするための茶屋や宿泊するための旅籠といった設備が整備されているだけではなく、諸荷物の継立(人夫や馬を取替える)といったことも重要な役割でした。<br />こうした人馬の継立や御用旅館の手配を始めとする宿駅の業務を取り扱う場所問屋場といいます。<br /><br />平塚宿では問屋場が二ヶ所あり西仲町にあったのを西組問屋場、二十四軒町にあったのを東組問屋場といいました。(説明板)<br /><br />

    平塚宿東組問屋場の蹟

    宿場は旅人が休憩をするための茶屋や宿泊するための旅籠といった設備が整備されているだけではなく、諸荷物の継立(人夫や馬を取替える)といったことも重要な役割でした。
    こうした人馬の継立や御用旅館の手配を始めとする宿駅の業務を取り扱う場所問屋場といいます。

    平塚宿では問屋場が二ヶ所あり西仲町にあったのを西組問屋場、二十四軒町にあったのを東組問屋場といいました。(説明板)

  • 平塚宿西組問屋場の蹟

    平塚宿西組問屋場の蹟

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