2011/01/17 - 2011/01/20
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魅々さん
ツアーの最後は首里城の見学ですが、その前に琉球王国の歴史についてお勉強します。
琉球王国とは、今から約570年前(1429年)に成立し、約120年前(1879年)までの間、約450年間にわたり、日本の南西諸島に存在した王制の国です。
①琉球王国の誕生
琉球諸島には先史時代を経て、日本の鎌倉時代に当たる12世紀頃から一定の政治的勢力が現れはじめました。各地に「按司(あじ)」とよばれる豪族が現れ、互いに抗争と和解を繰り返しながら整理・淘汰され、やがて1429年尚巴志(しょうはし)が主要な按司を統括し統一権力を確立しました。これが尚(しょう)家を頂点とする琉球王国の始まりです。
その後、琉球王国は、中国をはじめ日本、朝鮮、東南アジア諸国との外交・貿易を通して海洋王国へと発展してきました。首里城はその海洋王国の政治・経済・文化の中心でした。
②琉球王国のクーデター
統一王朝が成立してから約40年後の1469年、伊是名島(いぜなじま)の農夫出身の金丸(かなまる)がクーデターにより政権を奪取し新王朝を開きました。しかし、金丸は前例に従い、また中国皇帝との関係にも配慮して尚王家を継承し、尚円王(しょうえんおう)と名乗りました。このため、琉球王国の歴史では、この政権交代以前の王朝を「第一尚氏王統」、それ以後を「第二尚氏王統」と呼んでいます。
③薩摩藩の侵攻
この第二尚氏王統は、初代国王尚円(しょうえん)から数えて19代目の国王の尚泰(しょうたい)時代まで約400年続きました。その間、1609年に日本の薩摩藩が3000名の軍勢をもって琉球に侵攻し首里城を占拠しました。それ以後270年間にわたり琉球王国は表向き中国の支配下にありながら、内実は薩摩と徳川幕府の従属国であるという微妙な国際関係の中で存続してきました。
④沖縄県の設置
しかし日本の明治維新により成立した日本政府は、1879年(明治12年)軍隊を派遣し首里城から国王尚泰(しょうたい)を追放し沖縄県の設置を宣言しました。
ここにおいて、琉球王国は滅亡し、完全に日本の一部となりました。
- 同行者
- その他
- 交通手段
- 観光バス JALグループ
- 旅行の手配内容
- ツアー(添乗員同行なし)
- 利用旅行会社
- 阪急交通社
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首里城の移り変わり
首里城は国王とその家族が居住する「王宮」であると同時に、王国統治の行政機関「首里王府」の本部でもありました。また各地に配置された神女(しんじょ)たちを通じて、王国祭祀(さいし)を運営する宗教上のネットワークの拠点でもありました。さらに首里城とその周辺は芸能・音楽・美術・工芸などの文化芸術の中心でもありました。
1879年(明治12)春、「沖縄県」となった後、首里城は日本軍の駐屯地、各種の学校等に使われました。1930年代に大規模な修理が行われたが、1945年にアメリカ軍の攻撃により全焼しました。
戦後、跡地は琉球大学のキャンパスとなりましたが、大学移転後に復元事業が推進され現在に及んでいます。復元された首里城は、18世紀以降をモデルとしています。2000年12月には首里城跡は世界遺産に登録されました。
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首里城観光
首里城の様子を観光した順に写真使って説明します
まず、玉陵(たまうどぅん)を見ました。玉陵は巨大な石造の陵墓で、1501年、第3代国王・尚真(しょうしん)王が父である初代国王の尚円(しょうえん)王の遺骨を改葬するために築いたもので、以後第二尚氏王統の陵墓となりました。 -
内部の模型です。
中室・東室・西室の3つ墓室からなっており、外部は切石積の家型のように見えるため破風墓と呼ばれています。
2000年12月世界遺産へ登録されました -
首里城に入って行くには、まず守礼(しゅれい)門をくぐります。
この門は最初4代目尚清(しょうせい)王によって建立されました。
1933年(昭和8)に国宝に指定されましたが、沖縄戦で破壊されました。
現在の門は1958年(昭和33)に復元されたものです。
沖縄を象徴する施設で、2,000円紙幣の絵柄にもなっています。 -
守礼門をくぐると左に園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)があります。
1519年、尚真(しょうしん)に建てられたもので、国王が外出するときに安全祈願をした礼拝所です。
沖縄戦で一部破壊され、1957年(昭和32)復元されました。
2000年に世界遺産へ登録されました。 -
次に首里城の城郭内へ入る第一の正門である歓会(かんかい)門をくぐります。
歓会とは歓迎するという意味で、往時、首里城へは中国皇帝の使者「冊封使(さっぽうし)」が招かれたが、こうした人々を歓迎するという意味でこの名が付けられました。
首里城は外郭と内郭により二重に囲まれていますが、ここは外郭の最初の門です。 -
しばらく行くと龍樋(りゅうひ)といって、龍の口から湧水が湧き出しているところがあります。
この水は王宮の飲料水として使われていました。
また、冊封使が琉球を訪れたとき、那覇港近くにあった「天使館(てんしかん)」という宿舎まで、毎日ここから水を運んだといわれています。 -
龍樋の背後に第二の門である瑞泉(ずいせん)門があります。
「瑞泉」とは「立派な、めでたい泉」という意味で、手前右側にある湧水「龍樋」にちなんでこのように名付けられました。
この門は先のアーチ状の石門の歓会門とは異なり、双璧の門の上に直接櫓がのっています。この門から内郭に入ります。 -
次に第三の門の漏刻(ろうこく)門があります。
「漏刻」とは中国語で「水時計」という意味で、門の上の櫓に水槽を設置し、水が漏れる量で時間を計ったといわれています。
時刻を測定すると係の役人が太鼓を叩き時刻を知らせました。 -
漏刻門を抜けて内郭の城壁から、外郭の城壁を見降ろせます。
城壁の曲線がよく分かります。 -
第四の門である広福(こうふく)門を過ぎ、奉神(ほうしん)門をくぐり、ここから正殿に向かいます。
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奉神門をくぐると、広々とした御庭(うなー)に出ます。
ここは首里城の中心部で、正面に「正殿(せいでん)」、向かって右(南側)に「南殿・番所(なんでん・ばんどころ)」、左(北側)「北殿(ほくでん)」があります。
写真は御庭と正殿です。
正殿は首里城で最も中心的な建物で、木造の三階建です。
ここでは国王が自らが政治や儀式を行いました。
現在の建物は沖縄戦で焼失するまで残っていた正殿をモデルに1992年(平成4)に復元したものです。
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御庭では様々な儀式が行われました。
御庭には「磚(せん)」というタイル状のものが敷かれて、儀式のさいの諸官が並ぶ位置を示していました。
また中央の道を「浮道(うきみち)」といい、国王や中国皇帝の使者等限られた人だけが通ることを許されていました。
写真は儀式の模型です。 -
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帰りは来た時とは別の道を通り、正殿を出て内郭の淑順(しゅくじゅん)門を通り階段を降りました。
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淑順門の階段を降りて、城壁に沿って内郭と外郭の間の坂道を降りて行きました。
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そして外郭に設けられた久慶(きゅうけい)門を通って外郭の外に出ました。
そして、バスの駐車場に急ぎました。
その後、飛行場に向かい、羽田に帰ってきました。
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