2012/03/24 - 2012/03/24
978位(同エリア1905件中)
滝山氏照さん
平安時代末期から鎌倉・南北朝時代にかけて武蔵国各地に在地武士たちの構成した同族的武士団があり彼らを総称して武蔵七党(後世の人々が呼称)が存在してました。多摩地域においては武蔵七党の中でも規模の大きいのが横山党で現在の八王子市を中心に神奈川県の相模原市・愛甲郡、山梨県の上野原市までその庶流の勢力でした。
横山党の中心的武士団は横山氏で、彼らは多摩の横山にて朝廷へ献上する馬の牧場(横山庄)の仕事に従事しており、横山孝泰(よこやま・たかやす)又はその子義孝(よしたか)の時代になりますと牧場の別当(責任者)職に任ぜられます。その後横山庄は横山氏が鎌倉時代まで本領とする地域となりおおよそ現在の八王子市の一部にあたりここを本拠として有力な同族武士団へと発展を遂げます。
源頼朝が鎌倉幕府創設時において横山党は過去に前九年役で源頼義(みなもとの・よりよし、988~1075)に従事し功を挙げた経緯もあり、こぞって参画し当時の横山時広(ときひろ)・時兼(ときかね、1153~1213)父子も御家人に列せられ数々の役割を果たします。
特に寿永元年(1182)、頼家誕生に際し時兼は他有力御家人と共に御護刀を献じ、また文治5年(1189)における奥州征討(藤原泰衡一族征伐)では頼朝の命により泰衡(やすひら、1155~1189)の首を獄門にかける役を勤めます。このほか頼朝の2度目の上洛時には随員として従い御家人として精力的に奉公をします。
然しながら頼朝の死後、続く将軍は頼朝のような求心力乏しく、実際の政治は有力御家人の合議制となり、御家人達の対立もしばしばであり、この状況を利用して北条義時(ほうじょう・よしとき、1163~1224)は自らの立場を強固にすべく有力御家人たちに挑発などを誘います。
建保元年(1213)、挑発に乗って挙兵したのが侍所別当である和田義盛(わだ・よしもり、1147~1213)で自らの軍事力を行使するに当たり姻戚関係にあたる横山氏は義盛と行動を共にします。(和田義盛の乱)
横山時兼は一族を率い奮戦しますが遂に敗れ横山氏は滅びます。時兼と行動を共にしたのは平山・粟飯原(相原)・田名・小山・古都・椚田と言った横山党諸氏も含まれます。これらの諸氏たちの姓は彼らの居住地から出たものである証として現在でも地名が引継がれています。
2023年6月15日追記
八幡八雲神社境内に配された横山神社の側に建てられた説明板には下記の説明が詳細に記されています。
「横 山 神 社 由 緒 略 記
往古より「たまの横山」は名馬の産地としてよに名を知られており、平安の時代には陽成天皇の私牧「御料牧場」として発達し、延長2年(914)武蔵守小野隆泰が横山の地へ石清水八幡宮(現在の八幡八雲神社)を祀り、天慶2年(939)「将門の乱」の翌年に勅使牧(国営牧場)となった「横山の牧」に武蔵権守に任じられた小野義孝は小野性を横山氏に改め、八幡宮を中心に祭政一致を行い、ここに定住されました。この御方が武蔵七党の一つである横山党の始祖であり、日本における「横山姓」の始まりであります。孝昭天皇の皇子・天足彦国押人命を祖とする小野一族は小野妹子、篁(たかむら)、道風、小町などの逸材を輩出し、その血筋を引く横山氏は後々の世まで武士の鏡として数々の「物語」の中に語られております。又、源氏一族との深い結び付きにより代々、源氏の嫡子の誕生に際しては「引目、鳴弦の神事」を行なっておりました。
横山義孝の孫、経兼(つねかね)は「前九年の役」(1051~1062)陸奥守源頼義に従い先陣を賜り敵将安倍貞任の首級をあげ首懸けの儀を担当いたしました。
その子孫たちは保元、平治の乱に参加し、一の谷、屋島、壇の浦の合戦に活躍し、「平家物語」にも語られております。又その子孫の横山野新太夫隆兼の子、横山散位権守時重の妹は鎌倉幕府の侍所の所司を務めた梶原景時の母であり、時重の娘は侍所の別当和田義盛の妻となっております。
横山一族の男達は義を貫き、勇をもって世の中が平和になるよう鎌倉幕府創業に尽力しました。建久元年(1190)の頼朝上洛のおり、騎馬にての隋兵の総数318騎、そのうち武蔵出身の 武士は約140騎で半数近く、又、横山党の面々は上洛武士の一割を超える30数騎を占めたという事が「吾妻鏡」に語られております。
正治元年(1199)源頼朝死後、北条一族の台頭により梶原氏が失脚し、
和田一族に対する北条の陰謀に、横山右馬介太郎時兼は義憤を感じ、建歴3年5月3日(1213)「和田義盛の乱」に荷担し、一族合戦に及びましたが時節利がなく横山の人々之討死いたしました。この時、累代の所領である横山庄は没収されましたが、時兼の子、野内小名犬房重時は生かされ、その子孫は全国に散り、後の世に武勇を表しました。
乱の後、横山庄は大江広元(鎌倉幕府、政所の別当)の支配となり、1年後の健保2年(1214)に開祖横山義孝の御霊を鎮め、八幡神社をお守りする御社として「横山神社」が創建されました。
現在では、八王子の地名発生の神と言われる八雲神社とともに、八幡八雲の両社をお守りする神社として境内にお祀りされ、東京都の旧跡に指定されております。
御神徳といたしましては、家内安全・無病息災・学び事の成就・商売繁盛などがあると言われています。
八幡八雲 神社奉賛会 」
- 交通手段
- 徒歩
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横山神社
八幡八雲神社の右隅に小規模ながら横山神社が位置しています。
中世時期、武蔵七党と言われている中で多摩地域西部八王子から相模原にかけての地域を本領とする横山党という武士集団があります。
横山党の主家である横山氏棟梁の横山義孝が館の南側に勧請して守護神としたのが現在の八幡八雲神社にあたります。 -
横山神社全景
横山党の開祖である横山義孝を祀った神社で、鎌倉時代に和田義盛の乱に際し婚姻関係により義盛に与したため横山時兼を始めとする一族は北条氏側攻撃を受け滅亡、替わってこの地を支配した大江広元(おおえ・ひろもと、1148~1225)が建保2年(1214)が創建したと言われています。 -
石碑
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妙薬寺
JR八王子駅から徒歩約10分にある妙薬寺(みょうやくじ、東京都八王子市元横山町)はかつては近隣の八幡八雲神社(含む横山神社)と一体の敷地でこの地に横山氏居館がありました。 -
妙薬寺縁起
妙薬院は山号を医王山、院号を聖天院で慶安2年(1649)三代将軍家光より朱印状を拝領、永禄3年(1560)に横山将監小野秀綱の供養塔を建立されています。
又、甲斐武田家臣の山本長六夫妻(近江源氏新羅三郎義光の裔にして勘助の曽孫)とする墓もあるそうです。 -
妙薬寺本堂
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横山将監小野秀綱宝篋印塔全景
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イチオシ
横山将監小野綱秀宝筐印塔
武蔵七党の横山党の末裔、横山将監小野秀綱の墓所です。 -
葵のご紋
三代将軍家光より朱印状拝領により門扉に葵のご紋が取り付けられています。 -
甲州街道バイパス
境内から甲州街道バイパス道路を臨みます。
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