
2011/09/16 - 2012/06/16
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わんぱく大将さん
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2002年9月、サン・パウ病院(l'Hospital de la Santa Creu i Sant Pau)を訪れた時は、玄関ホールと中庭に入った。 それ以上は、もしかしてお願いしたら、許してもらえたかもしれないが、ここは病院、患者さんのプライベート、スペースに入っていくのはル―ル違反と感じ、そこまで。それから月日が流れ2011年9月。病院への招待状を受けとった。”50歳過ぎたら癌の無料検診しまっせえ、サン・パウにお越し〜”と。だが、ここを通り過ぎ、新しいサン・パウ病院へ。
2012年6月。モデル二スタ祭で、サン・パウ病院の半額割引を2枚もいただき。賞味期限は今年一杯。工事中の所に入るのは好きじゃないが、券が腐る前に早速使わせていただいた。 おかげで5ユーロ。経済状態悪い時に助かりま。 参加者は私をいれて、またもや3人。これじゃ、この前の“フォンダ・エスパ―ニャ”やないか。。。
とにかく2枚の半額券をもらえたということは、また、行かないと、ということだな。2012年、1回目はこんなもんでしょうと、シェフの帽子を、いやいや、ここはレストランではない、サン・パウ。ヘルメット被って、今度は、工事現場の監督やってみるかあ
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- 徒歩
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Hospital de la Santa Creu i de Sant Pau(1902-23)
Lluis Domenech i Montaner(1902-11)
Pere Domenech i Montaner (1913-23)
表紙のコメントでも触れたが、ここはSant Pau病院であって、ミッシェランのあのレストランではない。 あのレストランは、Sant Pol de Marという地名の所にあり、また今は東京にもあるレストラン名。で、昔トイレ掃除に使ったのは、サン・ポールや -
地下鉄の駅から道順をおって、ご紹介したらよかったのだが、自宅から、いつもの如く、歩いてきてしまった。まあ、とにかくサン・パウ病院の正面まできたら、看板がでている
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表の扉はこのように閉まっているので、この建物を左手に見ながら100m程進む(ここはすでにSant Antoni Maria Claret通り)
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カタルニアの州旗もはいる
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この建物を左手に見て、ここを通り越す
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塀越しに見えてきた
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この扉は中から撮影。 ここから入って、前方の豚小屋、いや、プレハブ小屋に入って、ガイド見学を申しこむ。
英語ー10、11、12、13
仏語ー10:30
カスティリア語―11:30
カタラン語ー 12:30
いくらスペイン語、植民地を考えると世界で第2に話される言語とはいえ、世界で共通語で話されてる英語の時間帯が多かった(米語ではないと思うが)スペイン人達も海外に行けば、英、米語を話してるし、あたり前か -
開いてるのは、月曜〜日曜。閉めてる日は1月1日、6日、12月25,26日。
大人は10ユーロ。最近の入場料の平均? 昔、ツアーなどでオプショナル・ツアー、高いから行きません、次回にと、言われるお客人もあった。なら、次回はもっと高くなってるし、日本から来ることを考えると安い。その時に入らずして、いつ、はいるねん?と。 まあ、人それぞれだが -
この間の“フォンダ・エスパ―ニャ”と同じく、待ってる間に、外で写真を。さて、今日は何人位か。なんとなく、少ないような。。。あちらも、ここも同じ建築家だし
実は悪い予感は、当たる。 撮影をしたい人は、人数にもよるが、思いっきり撮れないと思う。実際、自分も見学を終えて、外にでてから、塀越しに撮ったものの方が多かった -
さて、レウスの旅行記でドメネク氏の病院”Pere Mata”を紹介させていただいた。 このSant Pauより建設開始時期は少し早いが、同時期に病院2つ
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ここの敷地は15万m2。建物48。そのうち病棟は23とかだったか。 建物同士30m間隔で建ててあり、さらに驚くことは、地下ですべてが繋がっている
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この病院の起こりは、銀行家Pau Gil i Serrat。20世紀に入ってバルセロナにある古い病院を統合することにし、そのために彼は他のヨーロッパの病院を見て歩いた。病院には何が必要か、患者は何を求めてるか、と新しい病院建設に胸を躍らせた。それは建築家ドメネクとも同じこと
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出資者の苗字の頭文字。”Guell”氏ではなく、”Gil”。ここだけでなく病院のいたるところでこの”G”と”P”をみることに
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その歴史を担ってきたサン・パウ病院も建物の老朽化ということで、2009年だったかに新しい病院にバトン・タッチ。今は、改装中と言うか、より強化に復元中といったほうがいいだろうか?
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それ以前の医療システムがどうだったのかはわからないが、“貧しい人達にも医療を提供したい”という理由も1つと聞くと、以前はやはり、お金持ちしか、それにみあう治療が受けられなかったという解釈になる。いずこも同じ
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さて、今は。 ヨーロッパで知ってるのはUK,スペイン、ドイツ、フランス(他の国は知らない)民間の医療は無料。だから手術も、お産も無料。
但し、そのシステムになってから、腕のいいお医者さんの数が減ったというが。 それに、本人がすぐに手術してもらいたくても、順番がある。それを待ってるうちに亡くなったというケースも -
だから私はいつもプライベートを利用した。料金はめちゃくちゃ高いが、その分、早かった。
さて、建物サン・ジョルディに入る -
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ここでサン・パウの完成図
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天井、窓も高く。そして換気口も
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床の模様は正式名の通り(Santa Creu)、“聖十字”がはいる
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ここらは、普通?
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工事のフェンスを抜けて中に
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正面玄関のある建物。 中庭側
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今は玄関ホールは入れない。ここから前方、Sg ファミリアが見える
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こちらは表側
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玄関ホールをズーム・イン。 とにかく、すべてが細かい。手を抜かない。
丸いボールの焼き物のようなのは、”フォンダ・エスパーニャ”にも登場。至る所にオーナーのイニシャルも入る -
当時、このあたりは何もなく。勿論まだ、Sg ファミリアもない
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玄関ホールの彫刻。 これはSg ファミリアの“受難の門”の角々しい彫刻に似ているなあ
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しばし玄関ホールや、中庭から見える建物を
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こちらは玄関ホールに背を向けて右手
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で、こちらが左手。同じように見えるが、少しずつ違っている
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ここで、もっと時間が欲しかった。 太陽の光がきついのと、逆光のせいもあるが、説明しながら進むという具合。中庭側から、玄関ホールの建物をと言う写真は殆ど撮れていないので、後から、塀越しに撮ったものを掲載
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これも広角で、きれいに入れたかったが、レンズ交換してる時間なし
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正面の時計台、どこからも同じように見えるようになっている。こんな高いところまで彫刻が。一人はエウゼビ・アルナウ
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表紙にしようかな、と思った一枚
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リュイ―ス・ドメネク・ムンタネ―。 建築家、政治家、ロマネスク研究家。鉱物、植物、動物学も学ぶ。 シェークスピア、モリエールの本に現れる都市を旅する。 ワ―グ―ナ―、モ―ツァルトにも精通。
ええとこのボンである -
さて、病院内部に入るが、今はこういった状態。これは地下道
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灯り天井があったりする
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ドメネク氏は建築で患者さんを治療すると強い信念をもっていた
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陽がいっぱい入る。 窓はビニールがかかっていたが、眺めは見事なものであっただろうことが窺える
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パネル、写真で説明。ここで、薬を処方、調合していたんだろう
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これは煙突の一部? 装飾が建築の機能をもちはじめると、ただの装飾ではなくなるらしい
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今度は、病室にはいっていこう
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ここもかまぼこ型の天井。 高くて、窓も大きい
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至る所に花の模様
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ここからも他の建物が見える
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ここでいきなり比較。昔あげた旅行記の“カネット・デ・マール”。今はレストランになっているが、これがサン・パウの基本になる
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お馴染、カタルニアの州旗
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冬は寒いので真中に暖房が、夏にはそこに花が飾られた
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そして、十字架
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天井といえば、レウスのペレ・マタ病院の天井も圧巻だった
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これは誰のイニシャルだったか?
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ここが、病院なのか? 残念ながら、天井が素晴らしい図書館には入れず
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外に出ると、陽が眩しい
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玄関ホールの背中。 ここからも見えるが、基本的には、木の高さのレベルの建物。 これも患者さんに威圧感を与えないためか
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前に訪れた時は、中庭で、パジャマで、煙草を吸ってた患者さんが。
悪くなっても辞められないものがあるらしい -
先日、音楽の教師をしているカタラン人の男性が手術をした。石をおなかにもっていて、ずっとビールを辞めていたが、手術が終わった次の日位からビールを飲んでいた。煙草は辞めたのかどうか?
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オックスフォードでよく見かけた渡り廊下
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さて、そろそろ終わりに近づいてきたこのツアー
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経費節約のため、材料をここで自足。あとで建てられた工場。焼き場かと思った。しかし、まだその時代は遺体は焼いていないはず
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所要時間は1時間15分。その日の人数にもよるだろうが、思った以上は入れない。 中庭と、病棟2つ位と礼拝堂
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工事はかなり急ピッチで進められているらしいので、でき上がりが楽しみである、というか、日本で取った資格がここで役に立たないか?ボランティアで土方をやれたらなあ
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Sg ファミリアよりは早いと思うが、あちらもかなりの急ピッチ。教会の役目でない観光のための教会。最近、コンクリートの塔が建ちだした。
ガウディの時代にもすでにセメントはあったが、敢えて使わなかったセメント。 今はただの工事現場のようになっていってる -
それでも賛否両論。観光で儲けがあれば、万々歳の上のお方。殆ど収入をお持ちになっていってしまうとか。 現場で働いてる職人さんも複雑だ
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お立ち台が左右に2つ
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ここが改装されたら、又、来て見たい
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ブル―のラインが決めて。写真が暗すぎるが
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色の話しが出てきたので、とにかく明るい色、見た眼に優しい色を使っている。特に、ドメネク氏は、淡いブルーを病院とかによく使う
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お疲れさん! 最初の豚小屋、いや、これでも、”モデルニズムのインフォメ―ション“らしい。ここに戻ってきた。通った道は引き返さない。ので、思った時に撮っておかないと後悔ばかりが残る(しかし、その時の工事具合にもよるかもしれない)
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このあたりをもう一度見て、外にでることに
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さて、後は塀づたいを歩いて、外から撮影
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この病院の起こりを表す、モザイク?
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煙突が多い。 あそこは厨房かも?
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ライオンか、トラか、猫の親戚か、わからんような動物が、押しくら饅頭してまんねん?
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正面に戻って来た
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横の坂をあがっていく
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ここにも彫刻が
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この坂で、たぶん40分位は過ごしているかも。レンズを替えては、登ったり、降りたり。人が見たらアホとちゃうかと。パーでんねん
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柵越しに中を見る
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こちらにもモザイクが
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暑さで、だんまりか?
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ガウディが市電に轢かれた時に運ばれた病院はここではない。 ランブラス通りを西側に入っていった所にある病院。 浮浪者風に見えたから、3日間放置した? 彼らの目指した、医療システムは実践されていたのかと疑う
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ここまでが限界。キリンか肩車が必要
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ここも、又、例のお椀が見える。あれはセラミックかな?
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プッチ・イ・カダファルクとコンビを組めば、ユニークな彫刻を見せてくれるエウゼビ・アルナウ氏。 ここでは豪華と気品
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中ではヘルメット。その下には、ネットのシャワーキャップを被り。で、出てから、坂をあがったり、下がったり。家をでて、4時間以上、水分を取っていなかった
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まさか、その夜具合が悪くなるとは、もしかして熱でやられたのが一番だったかも。 病院に見学に行って、具合悪くなるかあ?
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それとは別に、こんな病院で入院していたら、病気も癒されかもと言われる方が多いが、先ずは、病気にならない体力作りかと。他力本願より、自力本願
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それと病気にやられても、精神力、これは大切。と言いながら、今回は、コンツェルンの重役クラスには、ご迷惑を一杯おかけしてしまった。有難いお心使いに感謝
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これはレウスの”Pere Mata”の平面図
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さで、帰りは家の近くまで走ってるバスで
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ここからは、昨年9月に撮った病院の帰りの。夕方
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こちらはどこ、サイドになるんだ?
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フェンスのデザインもこちら側では違う
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ドメネク氏が長年にわたって携わったサン・パウ病院も、息子さんにバトンタッチ。 ここらのデザインは新しいもののように思えるが
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これは礼拝堂だったのかと、今回そこに入って納得
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Estadi Municipal (1928)-Pere Domenech i Roura
BCN オリンピック会場に使われた建物。ドメネクのご子息のデザイン。
彼の作品は、カネット・デ・マールと、やはり、父親との共同作業の物が。この建物、当時はヨーロッパでも2番目に(1番はロンドンのウェンブリ―)大きかった -
タラゴナの旅行記であげた、ドメネク親子作品。
ここはバルセロナ、見たのはSant Pau。で、来週行くのがSanta Pau。ややこしいがな
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