2012/05/26 - 2012/05/28
743位(同エリア1149件中)
倫清堂さん
大阪での研修会は今回が5回目。
ひとまずこれで1期目は終了となります。
何かと忙しいスケジュールの中で仙台と大阪を往復していましたが、今回は月曜の午前中まで時間があったので、研修会終了後に和歌山県まで足を伸ばすことにしました。
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寒気が流れ込んでいる影響で関東地方は天気が荒れているとのことでしたが、大阪は晴れ。
研修会が始まるまでの時間も有効に使いたいので、大きな荷物は梅田駅のコインロッカーに預け、身軽になって移動を開始しました。
少し前に御堂筋を歩いた時にいきそびれた、緒方洪庵の適塾を目指します。
梅田駅から歩いても行けそうな距離ですが、時間節約と体力温存のため地下鉄を利用しました。
緒方洪庵は江戸時代後期の蘭学者で、長崎へ遊学してオランダ人医師に学ぶなどした後、大阪で医業を営みながら適塾を開いて後進の指導に当たりました。
当時、天然痘は死に至る病として恐れられていましたが、洪庵はその予防のために種痘所を設け、牛の痘苗による種痘事業を始めるという偉業を成し遂げています。適塾 名所・史跡
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適塾は土佐堀通りから南の路地に入ったところに、ほとんど昔の姿のまま残されています。
緒方洪庵を慕って全国から塾生が集まり、その名簿である「姓名録」にはおよそ千人の名前が記されているとのことです。
その中に、安政の大獄で刑死した橋本佐内、帝国陸軍創始者の大村益次郎、慶応義塾創立者の福沢諭吉、五稜郭で戦った幕臣大鳥圭介、日本赤十字社の基を築いた高松凌雲、内務省の初代衛生局長として伝染病予防に努めた長與 專齋などがいます。 -
さすがに全国から塾生を集めるだけあって、適塾の建物は多くの部屋があります。
その中でも特に印象に残ったのは、2階にある塾生大部屋です。
ここは塾生たちが勉強したり寝たりする部屋ですが、塾生1人に対して与えられたスペースは、なんと畳1枚分。
時々行われる試験での成績順に、塾生が好きな場所を選ぶことができる仕組みでした。
日当たりの良い場所は成績上位者によってすぐに取られ、下位の塾生は一日中薄暗い場所や、出入り口に近い場所しか与えられなかったとのことです。
寝ている時に踏みつけられるような場所しか与えられなくても、洪庵先生の下で学びたいという塾生は多かったのでしょう。
そうした人は歴史の表には現れませんが、きっと故郷の村で住民のために生涯を送ったのかも知れません。 -
中之島の大阪公会堂の前を通って、次の目的地へ向かいます。
ここは大阪市役所の裏側にあたり、かつて明治天皇の勅によって復興された豊國神社の別社が鎮座していたはずで、その記念碑などないか辺りに注意を払いながら歩いたものの、それらしきものは見つかりませんでした。
京阪国道を東へ進み、着いた先は大阪天満宮。
ここへ来るのは2回目で、初めて来た時は知人との待ち合わせの時間が迫っていたこともあって、境内をよく見て回ることもせず参拝だけして立ち去りました。
よって境内の記憶はあまり残っていません。
改めて来て、社殿の建築様式をじっくり眺めたり、摂社末社まで調べることができました。
天暦3年の御創始で、楠木正行公と山名氏の合戦や石山合戦、大塩平八郎の乱でたびたび焼失しますが、鎮座地は御創始の時と全く変わっていません。
現在の本殿は天保14年に建てられたものです。大阪天満宮 寺・神社・教会
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境内には神武天皇聖跡難波之碕の碑。
神武天皇が御東征のために九州を起たれ、吉備国を経由して大阪湾に入られた経緯は、『日本書紀』に詳しく記録されています。
戊午の年の2月、波の速い場所を通った際に、そこを波速の国と名付けられました。
難波はそれが訛った読み方であるとまで書かれています。
3月には淀川を遡って現在の枚岡市、草香邑に到ります。
淀川は枚岡を通っていませんが、神武天皇の時代は今と地形がかなり違っていたので、この記述は誤りではありません。
しかし4月に長髄彦の抵抗に遭って、兄の五瀬命が重傷を負ったことから、このルートでの進軍は変更せざるを得なくなりました。
そして紀伊半島をぐるりと回って、東側の熊野(現在の新宮市)から上陸し、ついに大和国を奪還することになるのですが、五瀬命は途中で亡くなったため、丁重に葬られました。
五瀬命のお墓は和歌山県内に現存しています。
波速は神武天皇にとって決してよい思い出の土地ではありませんでしたが、日本史上で近畿一帯をおさえる要衝として重視されたのは、すでにこの時代から約束されたことだったのかも知れません。
大阪天満宮をあとにし、研修会場へと向かいました。 -
翌日、宿泊地の堺からは車で行動することになります。
高野街道を走り、1時間かそこらで九度山町に着きました。
九度山町は和歌山県の北部に位置し、高野山への入り口でもあります。
高野山には泊りがけで行ってみたいという気持ちもあり、今回はここから紀ノ川沿いに西へ向かうことにしました。
九度山に着いてまず訪れたのは、丹生官省符神社。
弘法大師によって弘仁7年に創始され、現在は世界遺産にも登録されています。
真言密教の道場となる場所を求めて各地を行脚していた空海は、大和国宇智郡で1人の猟師に出会い、高野の山頂に霊地があることを教えられました。
その猟師は連れていた白・黒2頭の犬を放し、空海を高野山へと導いたのでした。
この猟師こそが狩場明神の化身であることに気付いた空海は、そのことを嵯峨天皇へ上奏すると、天皇は深く感銘されて高野山を空海に下賜されました。
空海は金剛峯寺と慈尊院を開き、丹生高野明神社を創建したのでした。
かつては数多くの社殿が並んでいたのですが、明治政府による神仏分離令によってその多くが取り壊され、天文10年に建てられた本殿3棟だけが当時の姿をとどめています。丹生官省符神社 寺・神社・教会
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九度山へはただ見学に訪れたのではなく、昔ながらの文化に触れるという目的もあってのことです。
高野山では古くから紙の生産が行われ、高野紙と呼ばれて重宝されていました。
その紙質は丈夫で、虫食いや水分にも強かったらしく、高野山で修業しながら紙の生産に携わっていたある僧が、技術を盗み出して別な土地で類似品を生産するという産業スパイ事件までが起こっています。
高野紙の紙漉きを体験させてくれる施設があるということで、事前に電話で予約を入れておきました。
弘法大師が高野山を開く以前からあったとされる勝利寺の境内に、その施設はありました。 -
ここは紙遊苑という名前で、町によって運営されている施設であるとのこと。
紙漉きを行う前に、原材料などの説明がありました。
紙の材料となるのは、楮(こうぞ)あるいは三椏(みつまた)という木の幹の部分で、三椏の方がより高級であるとのことですが、体験では楮から紙を作ることになります。
採取して来た楮を大釜のお湯で蒸し、充分に柔らかくなってから皮を剥がします。
この皮の部分の中でも表面の黒い部分は削り落し、白い部分だけを残します。
こうして分けられた白皮は充分に煮て更に柔らかくし、水きりしてから木の棒で叩いて繊維をほぐします。
冷蔵庫に保管されていた、機械を使って繊維をほぐした材料が取りだされ、いよいよ紙漉き体験が始まります。
冷蔵庫に保管する理由はカビが生えるからで、冷蔵庫のなかった昔は紙漉きは冬の仕事だったそうです。紀州高野紙伝承体験資料館「紙遊苑」 美術館・博物館
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管理者の方はまず、水に入れられた楮の繊維だけを使って漉いて見せてくれました。
なんとなく牛乳パックを再利用して作られたような荒い紙でした。
次に管理者の方が取り出したのは、トロロアオイから取れたバケツ一杯の粘液。
トロロアオイの粘度はすさまじく、柄杓ですくおうとしても、中に溜まった粘液が外へ逃げ出してしまうのです。
液体を切るようにしてすくい出し、それを水の中に溶かしこんでから同じように漉くと、ツヤのあるきれいな紙が漉けるではありませんか。
水を切ってしまうと、縦にしても逆さにしても、紙の繊維が落ちることはありません。
ただ、この粘度のためにムラのない紙漉きを行うには、それなりの技術が必要です。
普通の厚さと、写経用の薄いものの2種類を漉きましたが、均一な厚さにはなっていないようでした。 -
これを板に張り付けて天日干しすれば、高野紙は完成です。
管理者の方は、既に乾燥が終わって完成した紙を取り出し、しっかり握って引っ張るように言いました。
2人がかりで引っ張りましたが、紙が破れることはありませんでした。
天気がよいので午後3時には持ち帰れるだろうと言われましたが、それまで待つことは出来ないので、郵送してもらうことにしました。
後日、完成した高野紙は無事に届けられ、そこそこの出来に満足したのでした。 -
紙遊苑の中は展示室や茶室などがあり、展示品を見学させていただきました。
体験場の水槽はステンレスの水槽でしたが、本来は紙漉き船と呼ばれる木製の水槽が使われ、今は展示されています。
繊維をほぐすための叩き棒は、なかなかの重量がありました。
これを連続して使っていた昔の人は、一体どれほどの腕力があったのでしょうか。
最後に、ずっと気になっていた質問をしました。
漉いた紙が貼りついている部分(後で調べたら簀桁というそうです)が金網でできていましたが、金網がまだなかった時代はどんな材料で出来ていたのかと。
すると、それはススキの穂や竹ひごが利用されていたのだと説明して下さり、実際にかつて使われていたススキの簀を取り出して見せてくれました。
それこそが芸術品だと思えるほど、ミクロの単位まで同じでしかもまっすぐなススキの穂が、一定の間隔で絹糸によって縛られ、薄い一枚の簀を形作っています。
しかし、ところどころ破損しているため、実際にそれを使って紙を漉くのは不可能です。
管理の方は補修のためにあちこちで使えるススキがないものかと探し続けているそうですが、いまだに見つからないとのこと。
展示室には竹ひご製の簀もありましたが、ススキの方がきめ細かな紙が完成しそうなことは、素人が見ても明らかでした。
まして金網から作られた紙では、空海の時代だったらボロ紙扱いでしょう。
便利になったおかげで本物が失われて行く、残念な時代になったものです。 -
丹生官省符神社の入り口に位置する慈尊院へと向かいました。
歩けば階段を下りてすぐなのですが、車だと遠回りしなければなりません。
空海が開いた当時の高野山は女人禁制であったため、高野山を見ることを望んだ母を空海は、政所であったここ慈尊院へ連れて来たのでした。
空海は高野山と慈尊院の間を月に9回も往復して母に会っていたことから、この地は九度山と呼ばれることになったそうです。慈尊院 寺・神社・教会
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九度山まで来たからには、真田親子が隠棲していた真田庵へ行かない手はありません。
歴史好きの乙女たちにとって伊達政宗公と人気を二分する真田幸村公ゆかりの地であり、「歴女」の聖地として乙女たちがあふれるほどいるのではないかと思って行ってみると、予想に反して年配者ばかりの風景でした。
関ヶ原の役で、4万近い兵を率いて中山道を進む徳川秀忠公の前に立ちはだかったのが、信州上田城の真田昌幸公でした。
一説では、秀忠公は軍勢を温存するための敢えて足止めされた戦況を装っていたともされますが、どちらにしても上田での戦いは真田父子の勝利という形で決着がつきました。
この大戦で東西どちらの勢力が勝っても真田家が断絶することがないよう、長男信幸(後の信之)公は東方につき、昌幸公と信繁(幸村)公は西方につくことを決断していました。
東軍が勝利を収めたことで、昌幸・幸村父子の運命は死しかありませんでしたが、信幸公が自らの恩賞と引き換えに父と弟の助命を懇願したため、家康公は2人に九度山での蟄居を命じるという温情を見せたのでした。善名称院(真田庵) 寺・神社・教会
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九度山での生活はそれなりに厳しく、収入は国元から送られるわずかな仕送り程度しかなかったようです。
その真田父子が隠棲していたのが、ここ真田庵で、正式には善名称院という真言宗のお寺です。
宝物資料館には真田父子が愛用した武具などが展示されているとのことで、見学したいと思い入ってみると、受付をしてくれる職員の姿はなく、料金箱へ200円を投じれば見学できるとのことでした。
しかし、タイミングの悪いことに財布に小銭がありません。
まさか料金箱からお釣りを取ることもできず、今回は縁がなかったということで諦めるしかありませんでした。
境内には他に、昌幸公が村に落ちた雷を閉じ込めて村人たちを救ったという、雷封じの井があります。 -
昌幸公は蟄居を解かれる日を心待ちにしていたものの、望みもかなわず慶長16年に病没してしまいます。
中央では徳川幕府と豊臣家の対立が深まり、家康公が大坂城攻めを決意すると、豊臣方も不遇の浪人を全国から集め、隠棲中の幸村公にも出陣の要請が飛び込んできたのでした。
厳重な警戒をかいくぐって九度山を脱出し、大坂城へと入場できたのは、村人たちの協力があったとか、紀州藩の浅野長晟公が見逃してくれたなどの説がありますが、定説がないというのが幸村公の智謀が並ならぬものであることの証拠だと思います。
村人たちは真田家3代を敬い、真田家家宝の毘沙門天に合祀して、村の鎮守としてお祀りしたのでした。 -
ほぼ紀ノ川に沿って走る国道24号線を和歌山市の向かって進むと、途中に粉河寺があります。
粉河寺は西国第3番札所。
赤い大門から境内に入ってすぐの所に、駐車場と土産物屋がありました。
昼食をとっていなかったので、うどんを食べて腹ごしらえ。
長い参道にたくさんの支院が並び、10第紀州藩主徳川治宝公の揮毫による扁額がかかる中門をくぐると、本堂が見えて来ます。粉河寺 花見
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宝亀元年、大伴孔子古によって開創された粉河寺は、全盛期には寺領4万石を有していましたが、天正13年に豊臣秀吉公が紀州を攻めた際、根来衆らとともに抵抗したため全山焼失の憂き目に遭います。
現在国宝に指定される『粉河寺縁起絵巻』には、創建までの伝説が記録されていたものと思われますが、秀吉公による焼き討ちでその大部分が失われてしまいました。
百姓出身の野心家だっただけあって、文化に対する敬意は歴史上の人物の中でも特に薄かったようです。
その後伽藍は、紀州徳川家や信徒らによって復元されたのでした。
本堂は三十三箇所の中でも最も大きな建物で、中を見学することができます。
左甚五郎による彫刻があるとのことで、中へ入ってみました。
「野荒らしの虎」と呼ばれるこの彫刻は、夜になると抜け出して田畑を荒らす悪い虎でしたが、目に釘を打ち込んだところ悪さをするのをやめたとのことです。 -
本堂の後方にある石段の上には、粉河産土神社が鎮座しています。
この日の境内では何やら催しがあったらしく、、多くの子供たちが楽しそうにカレーライスを食べていました。
境内で飼われている孔雀も、何かもらえないものかと落ち着かない様子でした。
粉河産土神社の御祭神は丹生津比賣命や大伴孔子古命など4柱。粉河産土神社 寺・神社・教会
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和歌山市を通りぬけ、紀伊半島東端の加太まで進みました。
対岸には淡路島がありますが、もちろん見えません。
ここは海水浴場や離島へのクルーズなどを楽しめる観光地。
向かった先は淡嶋神社。
御創建の年代は詳らかではありませんが、神功皇后が三韓征伐を終えて戻る際に祈りを捧げた記録が残り、かなり時代をさかのぼることになるようです。
御祭神は少彦名命・大巳貴命・息長足姫命(神功皇后)の3柱。
全国に千社近い淡島神社系の総本社。
神功皇后が奉納された太刀や、大塔宮護良親王が奉納された兜などの御神宝が納められています。淡嶋神社 寺・神社・教会
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3月に行われる雛祭りと雛流しの神事が有名ですが、その影響からか、人形供養の神社としても知られています。
この日も社務所には次々に人形が運び込まれ、職員の方たちは忙殺されている様子でした。
社務所で御朱印をいただくために待っていると、運び込まれた人形のうち一体の頭部が足元に転がって来て、思わず息の飲みこんでしまいました。
社殿にずらりと並んだ人形たちは、ただ捨てられるよりもずっと幸せそうでした。
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