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芭蕉達は北に向かい、奥州街道最大の難所”国見峠”(厚樫山)に差し掛かる。<br /><br />ここには平泉の藤原泰衡が、家来の西木戸太郎国衛に命じ、源頼朝の鎌倉軍を迎え撃つ為に、厚樫山から阿武隈川に亘り延々と二重堀を掘らせたところで、「伊達の大木戸」と呼ばれた。<br /><br />又”二重隍”とも呼ばれ、”阿津賀志防塁跡”と名付けられて国史跡になっている。(資料)<br /><br />しかしこの二重堀も虚しく、鎌倉軍に攻められた藤原泰衡勢は敗走し、これを境に平泉は灰塵となり、泰衡も殺される。<br /><br />芭蕉はどんな気持でこの二重堀を眺めたのであろうか。<br /><br />我々も雨に曇る僅かに残る二重堀を前にし、いにしえを偲び暫し佇んだ。<br /><br />周囲はりんご畑であろうか、古木が立ち並んで広がっていた。<br /><br />この辺りが仙台領と福島領の県境に当たるらしいが、我々のバスはここでUターンし、旅の出発点郡山駅に戻り、奥の細道を訪ねて第7回の旅を終わる。<br /><br /><br />次回は奥の細道を訪ねて第8回”奥州白石より歌枕が多い多賀城まで”。<br /><br />私の出発予定は5月24日です。<br />

奥の細道を訪ねて第7回⑭奥州藤原群が鎌倉源頼朝軍を迎え撃った”阿津賀志防塁跡” in 国見

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2012/04/11 - 2012/04/11

57位(同エリア71件中)

WT信

WT信さん

芭蕉達は北に向かい、奥州街道最大の難所”国見峠”(厚樫山)に差し掛かる。

ここには平泉の藤原泰衡が、家来の西木戸太郎国衛に命じ、源頼朝の鎌倉軍を迎え撃つ為に、厚樫山から阿武隈川に亘り延々と二重堀を掘らせたところで、「伊達の大木戸」と呼ばれた。

又”二重隍”とも呼ばれ、”阿津賀志防塁跡”と名付けられて国史跡になっている。(資料)

しかしこの二重堀も虚しく、鎌倉軍に攻められた藤原泰衡勢は敗走し、これを境に平泉は灰塵となり、泰衡も殺される。

芭蕉はどんな気持でこの二重堀を眺めたのであろうか。

我々も雨に曇る僅かに残る二重堀を前にし、いにしえを偲び暫し佇んだ。

周囲はりんご畑であろうか、古木が立ち並んで広がっていた。

この辺りが仙台領と福島領の県境に当たるらしいが、我々のバスはここでUターンし、旅の出発点郡山駅に戻り、奥の細道を訪ねて第7回の旅を終わる。


次回は奥の細道を訪ねて第8回”奥州白石より歌枕が多い多賀城まで”。

私の出発予定は5月24日です。

同行者
一人旅
交通手段
観光バス 新幹線 JRローカル
旅行の手配内容
ツアー(添乗員同行あり)

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