2012/04/10 - 2012/04/10
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ドクターキムルさん
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上野公園には彰義隊の墓がある。上野の山(東叡山)には寛永寺の伽藍が建ち並んでいたが、彰義隊と官軍が戦った上野戦争のために多くの伽藍が廃塵に帰した。その跡に公園が造られた。
15代将軍・徳川慶喜が大政奉還し、寛永寺の子院の大慈院(現在の寛永寺「葵の間」)で謹慎蟄居すると、慶喜の助命嘆願と身辺警護を目的として幕臣や出身の一ツ橋家を中心として彰義隊が結成された。
西郷隆盛と勝海舟の会談により江戸城が無血開城されると慶喜は実家の水戸へ移るのだが、彰義隊は寛永寺の徳川家墓所を守ることを名目に上野に留まった。
西郷から江戸の治安維持を任された勝は懐柔のため彰義隊を江戸の警備に当たらせていたが、彰義隊が新政府の兵士を惨殺するなどしたため、新政府は京都から大村益次郎を派遣した。慶応4年(1868年)、彰義隊に解散を勧告するが、従わないため寛永寺周辺を包囲し、総攻撃を開始した。彰義隊は僅か一日で壊滅し、多くの死者を出しだが、賊軍であるために遺体はそのまま放置されていた。見かねた三ノ輪の円通寺(現在は南千住)の住職が供養の許可を得て同寺へ埋葬した。寛永寺では総門であった黒門を円通寺に贈って礼を尽くしている。
上野にある彰義隊の墓は陣を張っていたあたりで、遺体を荼毘に付した場所に建てられているが、墓碑には「戦死之墓」とだけ刻まれ、政府に気兼ねしたことが伺える。
(表紙写真は彰義隊の墓)
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